デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く モンタージュ』

アカシアは花咲く―モンタージュ (東欧の想像力)

アカシアは花咲く―モンタージュ (東欧の想像力)

ブルーノ・シュルツ作品の成立にもかかわりながら、ナチスドイツ占領下リヴィウユダヤ人ゲットーで殺されたポーランドの詩人・作家デボラ・フォーゲル。〈東欧の想像力〉第十五弾の本書はポーランド語からの翻訳と、イディッシュ語からの掌篇や書簡の訳も含む、本邦初訳の作品集。シュルツのものも含む本書への書評二篇と公開往復書簡も収録している。

デボラ・フォーゲルは1900(あるいは1902)年、オーストリアガリツィア(現在のウクライナ南西部)のユダヤ人の家庭に生まれ、ドイツ語、ポーランド語で育ったものの、後に自ら父の反対を押し切りイディッシュ語を学び、それを執筆言語として選択した。イディッシュ語ディアスポラユダヤ人がドイツ語方言をもとにヘブライ語の語彙を持ち込み、さらにユダヤ人に寛容な東方に移るなかでポーランド語などのスラヴ系言語を取り入れてできたものだという。彼女は家族の縁戚の地リヴィウ(現ウクライナ)に戻った後ウィーンに疎開し、さらにまたリヴィウに戻り、大学を出た後心理学・文学の教職に就く。リヴィウ周辺のフォーゲルが暮らした土地は、オーストリア領、独立ポーランドソ連支配下からナチスドイツ支配下とさまざまな政治的転変をこうむり、またポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人が混住する地域という、まさに境界的場所でもあった。

結婚を考えるほどだったというフォーゲルとシュルツのあいだの手紙のやりとりが、シュルツの第一短篇集『肉桂色の店』の原型となった。1942年、およそ四十歳にしてゲットーでのユダヤ人掃討作戦で家族ともども殺され、同年にはシュルツもSS将校に殺されている。

詩集も残しているものの本書はフォーゲル唯一の散文作品集で、小説は短篇「アザレアの花屋」冒頭で言われるように、通常の「長ったらしい小説」になる以前のような、主人公なり人物なりがいるわけではない、独特の比喩や表現が散文詩のように続く断章の連なりで、正直私には難しいいタイプだった。しかし生をめぐる思索ののちに「やはり生きる価値はあるのだ」(66P)と言明する力強さは印象に残る。

ある一節の書き出しはこういうものだ。

 この時期の明け方時刻、春が緑滴る大きな布となって波打った。近寄ってよく見れば、手のひら型のマロニエの葉やライラックの葉に裁断されている。葉は「人の心に似て」飾り気がない。
 緑の海はそんなとき、家々と路面電車のガラス窓に波打った。灰色の水を湛えた海のように、正午に向かって膨らみ、それを過ぎると引いて、夜には緑の塊に凝固する。
 粘着質の芽吹きと青い空気の第二の月がこうして過ぎた。15P

そしてこの短篇「アザレアの花屋」では、最後に「これはまだあの小説ではない」と繰り返され、以下のように続く。

 それでも、これから到来するロマンスは、どれもこのように人生を扱うことだろう。すべてがそこに属し、プロットや続きが決して生じることのない年代記のように。
 年代記は、ほかより大事かもしれない出来事を知らない。年代記にとって、すべては人生に属し、それゆえに等しく重要であり、必要なものだ。69P

小説以前のとされる形式を採る理由はここに示されている。「アザレアの花屋」「アカシアは花咲く」「鉄道駅の建設」の諸篇いずれも人々、時間、風景の変化それ自体が題材となっている。


「ポスト・シュルレアリスムモンタージュ」と著者が呼ぶ作品とともに、シュルツとのかかわり、リヴィウの文化的状況など、フォーゲルから見えてくる、ポーランドユダヤ人がイディッシュ語を通じてアメリカとも関係する、モダニズム文学地図の書き換えを示す訳者加藤有子による解説が面白い。

解説によればフォーゲルにとって「モンタージュ」は重要な方法となっており、「異種混淆的状況と経験の可能性と、それゆえにもたらされる物事のヒエラルキーの消去の可能性を意味する」(206P)ものだという。そしてこの技法はリヴィウポーランド語雑誌「シグナル」に重ねられる。

ポーランドの独立とともに、リヴィウを含む現在のウクライナベラルーシリトアニアに重なる一帯は、ポーラン ドの東部国境地帯に組み込まれた。ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人など非ポーランド系住民は、両大戦間期ポーランドにおけるマイノリティとなった。リヴィウ刊行の『シグナル』 は、リヴィウおよびポーランドを民族混淆の地と捉え、ナショナリティに基づかない異種混淆性を文化的アイデンティティとして打ち出した。211P

この雑誌「シグナル」では、「創造的ジンテーゼ」としての創作がうたわれ、共存、争い、複数の文化、宗教、民族のジンテーゼとして創作が、「リヴィウの絶えざる辺境性、つまり東からも西からも辺境にあった」(212P)ことからもたらされたと宣言する。この雑誌はシュルツも寄稿し、本書所収作品の初出が載った雑誌でもある。

他にもイディッシュ語雑誌や美術家集団など、異種混淆的な当時の前衛的文学運動との関係を追跡して、イディッシュ語というマイナー言語だけどもそれゆえにアメリカのイディッシュ語雑誌というモダニズム文学の最前線に立つこともできた、と訳者は辺境性と国際性の関係を論じる。この辺境性ゆえの普遍性への回路に、きわめて東欧文化的なものを感じる。「東欧の想像力」とは何かといえばそれはこのようなありかたではないか。

川上亜紀『チャイナ・カシミア』


チャイナ・カシミア

チャイナ・カシミア

*1
去年亡くなった詩人でもある作家の作品集。「早稲田文学」掲載の表題作と、同人誌「モーアシビ」掲載作三篇の計四篇を収める。笙野頼子の年頭の短篇「返信を、待っていた」でその存在を知った人で本書で初めて読んだ。タイトルのようにいくつもの作品で衣服が題材となっていて、身にまとうもっとも身近なものから導かれる想像力が、私と別のものを繋ぐ感触がある。

表題作「チャイナ・カシミア」、中国のカシミアは四割がモンゴル原産で厳冬のモンゴルで77万ものヤギが死んだことがあるという。そう話した劉氷という中国系留学生との会話を皮切りに、ある女性の日常風景がカシミア混紡セーターを着た語り手ごとヤギと化す変身譚へと展開していく。

空と路上の雪が薄青い翳で風景全体を包みこんでいて、私はそのなかをせっせと歩き出した。私がコートの下に着ているカシミア混紡のセーターもそんな色だった。15P

冒頭から「氷点下」や氷の名とともに雪が降った日の池袋を舞台にしていて、そんな日、「外の世界全体が青い翳のなかに入ってしまったようだ」という言葉から次第に世界は変貌していき、「青い翳」が冬の雪の池袋に覆い被さり、語り手の着ているカシミア混紡セーターの色でもあるその色のなかで出会うはずのない人、あるはずのないものが現われ、語り手は「ヘエンヘエン」「メヘヘヘヘン」とヤギのような声を出しはじめる。中国、内モンゴル自治区で取れるカシミア原毛からできたセーターを着ている自分という存在が、植民地的収奪の一環にあるのではないかという意識が背後に感じられ、ヤギっぽくなっている語り手は同じくカシミアを着ている両親共々マンションに「重要な資源」として閉じ込められる。

「あんたたちは重要な資源なんだよ。重要資源は外に出さないように管理会社に言われている」 27P

ヤギあるいはヒトなのか、いずれにしろ家畜的「資源」と化す悪夢的世界のはずだけれどどこかのんびりとした感触もあり、灰色猫が悠々をそれを横切っていくユーモラスなところもあり、何かしら奇妙な幻想譚になっていて面白い。ラスト、増殖するヤギと増殖する猫、羊を数える入眠儀式のイメージが浮かぶんだけどそれで合ってるんだろうか。寝入りばなの場面だからたぶん合ってるんだけど、なかなかに奇妙。

ほかに、「靴下編み師とメリヤスの旅」は、四〇代の女性がずっと年上の老女と出会い、ふと彼女のために靴下を編むことになるという話で、シンプルながらとても感触の良い小説。語り手は彼女を勝手にミズカと名付け、彼女の実在すらときに疑いながらも丁寧に靴下を編む。失業と服用しているステロイドの減薬という負荷のなかにある語り手にとって、靴下という人への贈り物を編む作業は、まさに希望を織り紡ぐことでもあった。ダニロ・キシュは母の編み物を小説を書くことと重ねていたけれども、この小説もまた作者にとっての言葉の編み物でもあろうか。笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」が相手のない恋愛を書こうとした、ということを思い出したからでもあるけど、本作にはどこか恋の感触を感じた。語り手は相手の名前をじっさいの名ではなくミズカと自分のつけた名で呼ぶとか、彼女が喜んでくれるだろうかという不安のあり方とか、とか。長々しい編み方の名前とか、アラン編みとかメリヤス編みというものの歴史や来歴が語られ、いまそうして編まれた靴下となって、二度会っただけの白髪の年配の女性の着衣としてカナダのバンクーバーにまで旅していくそのイメージがとてもよく、着衣が悪夢的な幻想にいたる表題作と好対照をなしてもいる。

潰瘍性大腸炎のことはミズカさんに話すつもりはなかったが、ステロイドはもう一〇ミリ以下に減っていたので副作用だの骨密度だのをそれほど気にしなくなっていた。減薬のあいだ少しずつ靴下を編むという作業療法に近い手仕事がなかったら、私はステロイドのもたらす高揚感や疲労感に振り回されてもっと妙なことを始めていたかもしれない。125P

「妙なこと」という話、作中に警官を呼ぶ騒ぎになった「荻窪宗教論争事件」というのが触れられていて、それより「もっと」という。白髪の女性、あるいはこうありたいという語り手の無事に年を取った未来の現し身でもあるだろう。

機械編みと手編みの話とともに、ここでも中国製衣服が出てくる。

そして最後の「灰色猫のよけいなお喋り 二〇一七年夏」は、これまでの作品にしばしば登場していた猫の語りによる短篇で、「ボクは偉大な詩人や作家の猫として後世に語り継がれることはまるでなさそうだから、今のうちに自分で語っておくことにしたの」と、猫の視点から著者と思しき人物とのかかわりを軽妙に語って、もっとも身近な他人による語りを短篇集に導入する。

笙野頼子の解説は著者との関係をたどり、著者もまた「群像」の編集部入れ替えのあおりを食らって作品掲載が拒絶された作家だったことを明かす一幕が興味深い。過去の論争文で触れられていた「女性の詩人作家」とはこの人のことだったのか、と。その一文に見覚えがあった。「一見他人事のようにしてはいても、結局物事は全て、違う形で、自分に触れるのだ」(158P)という一文が表題作の性質をよく指摘していると思う。「搾取で作られたセーターではなく、自前の暖かさで、抵抗して増えようとする大切な飼い猫」。この解説もまたほとんど小説的な味わいがある。

ただ、「北ホテル」という小樽旅行を描く分身譚小説はまだ自分のなかで感想が出てこない。ナイロンバッグ、中国製のダウンジャケット、ダッフルコート、レンガ色のワンピースなど、さまざまな服飾品がキーアイテムとして現われ、自分の高校生時代のことなどを回想しながらの小樽観光の不可思議な感触、そして詩。

余談だけど川上亜紀は向井豊昭が「BARABARA」で受賞したとき、95年の早稲田文学新人賞の最終候補の一人でもあった。
早稲田文学新人賞受賞作・候補作一覧1-25回|文学賞の世界

本書は笙野頼子さまに恵贈いただきました。
チャイナ・カシミア 川上亜紀作品集の通販/川上 亜紀 - 小説:honto本の通販ストア

*1:Amazonに在庫はないけどhontoや楽天などでは注文できる

『「私」をつくる』『日本の同時代小説』『トリストラム・シャンディ』『うどん キツネつきの』『ブギーポップは笑わない』『日本の近代とは何であったか』『戦後史入門』

安藤宏『「私」をつくる』、近代小説の試み、と副題にあるとおり、二葉亭から牧野信一等の近代小説について、「私」の仮構ともいうる問題意識から小説を読み直す。たとえば小説に「私」と書かれていたとしても、それは書き手によって作中におかれた演技する「私」ではないか、と。三人称でも一人称でもそれは小説を語る叙述主体「私」の装いの一つとして考えることで、読解の可能性を開くのが著者の試みだと思われる。面白いのは泉鏡花が言文一致の文体で書く時には、怪談において聞き書きを重ね合わせる技巧を用いるのに対し、擬古文ではそうではないということ。近代小説の文体ではその人称が語りうる内容はその資格に応じて決まってくるのに対して、擬古文・和文体ではそもそもが人称も時制も揺らぎうるという差異があるという。文末の動詞言い切り型と「~た」では、そこに人称の違いが現われているという文体分析も興味深い。また大正年間の文芸流派は、自然主義白樺派耽美派、新技巧派の四つに分けられるけれども、芥川の当時の時評でも既にこの区分けが明快になされているのは、当時の作家達が小説を書くために、それぞれの流派を自ら演じていたからだという逆説の指摘が非常に面白い。話すように書く言文一致の文体は誰が話しているのか、という叙述の資格が課題となる、ということから、近代小説のさまざまな課題とその実践を「私」をテーマにたどっていく近代小説論。

斎藤美奈子『日本の同時代小説』。中村光夫岩波新書『日本の近代小説』『日本の現代小説』以後の小説史がないということをうけて、1960年代以降の小説を純文学、エンタメとりまぜ紹介しつつ、紀行や自伝的ノンフィクションのたぐいをも私小説の系譜と位置づけて多数紹介していく小説史。幾つかの軸を設定し、時代ごとに私小説的作品、プロレタリア文学的小説を取りあげる。非常に多数の作品が出て来てて、伊藤計劃虐殺器官』を戦争小説の流れで紹介したり、木村友祐『イサの氾濫』を数ある震災関連作品のなかでも傑出した作品だと評価したりしているのが目に付いた。ただ、私小説を拡大解釈してたとえば小田実の『何でも見てやろう』などの紀行文や(自伝的)ノンフィクションを「私」の表現として私小説の系列として紹介するのは、ロジックが雑で違和感がある。ベストセラーから世相を分析するためにむりくり小説史に取り入れる方便としか思えない。またもっとも問題なのは、口語を取り入れた語りの軽さが、ほとんど軽薄で皮相としか思えない箇所が多いところだ。『死霊』について全巻読み通した人はいないと言われるとかいう与太を持ち出したり、旧弊な私小説を大上段から否定してみたり、その作家のファンではない身としてもどうかと思うようなざっくりとした否定をしたりと、頼むからもっと真面目にやってくれという不満ばかりが募る。その時代のその表現の試みのありようを探ろうとしないのでは、単なる現在からの裁断にしかならない。著者の思い入れあふれる回想的エッセイとしてなら良いかもしれないけれども、これはちょっと。

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)

ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』。英文学の古典にして脱線、逸脱を尽くした実験性がつとに評判の本作をついに読んだ*1。自伝的に見せかけて語り手トリストラム自身が生まれるのは上巻終わり頃で、本人がほぼ出てこないまま千ページに近い小説は終わるという迂回の果て。迂回の過程でさらに迂回と勘違いの脱線が始まったり、ほとんどコントみたいなボヘミア王と七つの城パートなんかもあって、もろもろ面白いところもあるけど、どうも個人的にはテンションが合わないというか、そこまで、という感じだった。実験性の強いメタフィクションの怪作、というよりは18世紀の地方の変なだけどまあ悪くはない人たちを描くユーモア小説、という感じで接した方がよさそう。ロックの観念連合というものを背景にした連想の語りという点が二十世紀意識の流れに影響したというのはなるほど、という感じもある。この連想、こそがある言葉を相手が勘違いしたり、という形でコントやすれ違いのネタにもなるので、かなり重要な概念でもある。Wikipediaの「神童育成マニアのウォルター、包囲戦再現マニアのトウビー、自伝執筆マニアのトリストラム」の試みが全て破綻する、という指摘はなるほどで、これはセルバンテスに幾度も言及する点から意識的な模倣だろうなと。父と子がともに書物への偏執からそれが挫折する過程なわけで。英語にhobby horseという言い回しがあって、本書で道楽馬と訳される馬のワードは後々欲望の換喩?みたいに使われたりして面白いんだけど、GenesisのDancing with the Moonlit Knightにこの単語が出てくる理由がわかって面白かった。途中の鼻への延々たるこだわりは興味深いというか、ゴーゴリ「鼻」との関係で後藤明生が何か言及しててもおかしくないと思ったけど、覚えがないな。覚えてないだけでどっかでパロったりしてるかも知れないけど。

高山羽根子『うどん キツネつきの』創元SF文庫。不思議な生き物を拾った姉妹の生活を描く表題作のほか、日常を描写しているようでそのすぐ裏に別のロジックが張りついているような、怪奇小説、SF、ミステリのあわいにあるような感触がある。表題作もいいし「おやすみラジオ」の不穏さも震災後と巨大なものへの畏怖のようなものがある最後の作もいいけど、少年小説?的な風合いと言語テーマの「シキ零レイ零ミドリ荘」が良いな。顔文字で喋る男とか知らない手話を勝手に通訳する主人公とか、メタ感がいいコメディになってる。文庫も良いんだけど、創元日本SF叢書、全巻単行本版で揃えてみたくもあった。

上遠野浩平ブギーポップは笑わない電撃文庫。アニメの放送を機に久しぶりに読み返した。事件の核心を知らない人それぞれの「青春(せかい)」の狭さとそれゆえの届かないものへの憧れを、竹田、末真、木村らを通して描きながら、正義感、優しさの意味を問い、人間って何だろうとも問いかける、間違いなく青春小説の傑作だろう。各人の視界の狭さと事件との無関係性、自分が何かを問いかける他人との関係という反復されるパターンは、人類と宇宙人との関係としても反復され、自分とは何かと人類とは何かが重なる全体的な構造。優しさと宇宙人モチーフ、シリーズの他の巻でアイスナインを引用するしヴォネガットの影響を感じる。竹田からブギーポップ、末真から霧間凪、アニメで出てきた覚えがない木村から紙木城直子への羨望と憧れのような並列パターンは、人称を排したアニメではやはり再現できず、各章の独白と対話のうち独白が消えてしまえばやはりそれはもう別物になってしまう。ブギーポップは笑わない、笑うのは僕たちの仕事だ、という竹田のモノローグ他、作品の肝心な部分はやっぱり抜け落ちてしまう。まあメディア特性上しょうがないけれども。遠いところから徐々に徐々に中心に向かっていく螺旋的な構成の面白さとか、やはり小説の魅力だな。いまんとこ、原作はアニメの三倍面白い、というのが正直な感想。

三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』岩波新書。日本の近代を政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制それぞれをテーマとして論じる近代史論。近代の条件を英国のバジョットの「議論による統治」に求めつつ、その系概念としての貿易、植民地をコミュニケーションとしてとらえ着目する立論になっている。「慣習の支配」から「議論による統治」へ、という近代概念をたどるにあたって、鴎外の史伝ものを個人の偉大さを描いたものではなく、政治的公共性の前段階としての「文芸的公共性」を描いたものとして評価するところ、歴史学者の文学への見方が面白い。また本書では特にいくつもの逆説が面白かった。明治憲法下では政治制度が遠心的で統合的主体を持たず、権力分散を徹底したがために、何らかの統合主体が求められ、それが藩閥を経て政党政治へと繋がった逆説を指摘し、アメリカも同様だったことを論じるところが一点と、植民地政策が脱軍事化と同化へと転換し、関東都督の文官化を目指すなか、政軍分離を陸軍に飲ませるために、将来的な北満洲での行政に拘束されない軍事行動の自由を理由としたことが、のちの満洲事変の軍事行動拡大の要因となったことが指摘されているところも。また、天皇制の章において著者は教育勅語国務大臣の副署がない例外的な詔勅だということの分析を始めるけれども、ここで出てくるのが井上毅の草案への批判で、井上は宗教的、哲学的中立性とともに政治的状況判断の混入を否定し、中立性をきわめて重視していた。これは論争を避けるためでもあった。そして立憲君主としての天皇が同時に道徳の立法者となることが、信教の自由や立憲主義との兼ね合いにおいて問題になるとき、井上は、教育勅語を政治上の命令と区別し(副署をせず)、天皇の著作の公表という形をとる曲芸で回避している。以前以下の記事で国家神道非宗教論について書いた際、「宗教を内想と外顕に区別し、内は許すが外に現れる活動を禁止する、という井上毅の主張」を取りあげたことがあるけれど、ここから始まる国家神道の強制のロジックとかなり似ている。
阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」 - Close To The Wall
まあ日本の近代とは何であったかって言われたらいまのこ現代の状況だよって言うしかないアレさがあるね。著者もワシントン体制から歴史から学べる部分を懸命に語っているけど。

「日本はアジアにおいて歴史上最初の、そしておそらく唯一で最後の植民地を領有する国家となりました。この場合の「植民地」とは、特定の国家主権に服属しながらも、本国とは差別され、本国に行われている憲法その他の法律が行われていない領土のことです。」144P

福田恆存が著書『近代の宿命』において指摘したように、ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、ヨーロッパ中世から「神」を継承しましたが、日本近代は維新前後の「廃仏毀釈」政策や運動に象徴されるように、前近代から「神」を継承しませんでした。そのような歴史的条件の下で日本がヨーロッパ的近代国家をつくろうとすれば、ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」216P

戦後史入門 (河出文庫)

戦後史入門 (河出文庫)

成田龍一『戦後史入門』河出文庫。「14歳の世渡り術」というシリーズの一冊として出ていたものの文庫化。戦後の日本史を題材に、歴史はいかに書かれるのか、その時どのような視点が選ばれているのかということなどを、沖縄、在日朝鮮人などの別の視点を通じて改めて問い直し、教科書的通史を相対化し、歴史とは何かを概ね高校生程度を対象にして語る平易な歴史入門。なかなか興味深かったのが、80年代後半に起こったアグネス論争というものが紹介されていたこと。なんでもアグネス・チャンがテレビ局の楽屋に子供を連れてきたことが非難されて論争になり、国会にも参考人として呼ばれたほどの騒ぎだったらしい。あまりにバカバカしいけれども、現在も30年前からまったく進歩しておらず唖然とさせられる。もう一点、2013年に安倍晋三首相が四月二十八日を主権回復の日とし式典を開こうとしたことに対し、沖縄県議会が全会一致で反対したことが書かれていて、そういえばそういうことがあった、と。式典にも知事は出席せず、沖縄では抗議集会が開かれた。いままさに続く政権による沖縄弾圧の歴史の一ページだけど、この件もしかして根に持ってるんじゃないかなーなんて邪推をさせる現状がある。あと一つ、著者への疑問として、東日本大震災について204ページでは専ら原発事故という国のエネルギー政策における問題としてしか出てきておらず、地震津波によって万を超える人が亡くなった災害だという点がスルーされていること。政治史としてはそうなんだろうけれど……。東日本大震災が専ら原発のアングルで語られることこそ、東京中心の政治の歴史の語りではないのか、とは本書のテーマから想定される疑問。具体的に高校生を想定しているとは思うけど、もちろん高校生程度ということはそれを専門としてない大人にも充分通じると言うことでもある。

『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房)の解説鼎談に参加しました

f:id:CloseToTheWall:20190111225156j:plain

骨踊り

骨踊り

1/25日頃刊行予定の『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房)に付された鼎談「向井豊昭を読み直す」に、岡和田晃山城むつみ両氏とともに私も参加しました。

本書は初期から後期、エッセイや事典項目など向井の文業を総まくりするような600頁超の圧巻の一冊になってまして、目次をとりあえずAmazonから引きますけど、こんな感じ。

1(初期短篇)
鳩笛[1970]
脱殻(カイセイエ)[1972]
2(長篇)
骨踊り(「BARABARA」原型)[未発表]
3(祖父三部作)
ええじゃないか[1996]
武蔵国豊島郡練馬城パノラマ大写真[1998]
あゝうつくしや[2000]
(資料)
根室・千島歴史人名事典』より「向井夷希微」[2002]
早稲田文学新人賞受賞の言葉[1996]
単行本『BARABARA』あとがき[1999]
やあ、向井さん[2007]
平岡篤頼「フランス文学の現在」[1984]
(解説)
鼎談:岡和田晃、東條慎生、山城むつみ向井豊昭を読み直す」

向井豊昭がリアリズムから実験的方法的作風に転換した分水嶺ともなっている、「BARABARA」の未発表の原型長篇『骨踊り』を主軸に、初期のリアリズム作品「鳩笛」、岡和田晃*1山城むつみ*2両氏の論考でも知られる現存一部の同人誌掲載作で、アイヌの小説家鳩沢佐美夫との交流を描く「脱殻(カイセイエ)」、そして早稲田文学に掲載された祖父三部作の小説のほか、向井の原点の祖父向井夷希微について書かれた事典項目や、いくつかのエッセイ、そして向井豊昭がその作風を転換させるきっかけになった平岡篤頼のヌーヴォーロマン論まで収録、と非常に盛りだくさんな内容になっています。

解説として岡和田晃による一万字の原稿と、岡和田晃山城むつみ、私による鼎談がついています。初期作品や『骨踊り』はともかくとして、祖父三部作は何故こう書かれているのか、という点で難解な部分があるので、これらの解説は非常に参考になるものと思います。鼎談ではちょっと二人のレベルが高すぎて私があんまり言うことないみたいな感じになってますけども。なお、「あゝうつくしや」については、「すばる」2018年12月号の山城さんの「連続する問題」においても論じられていますので、是非ご参照を。

向井家の関係図もついていて、入門篇にして決定版のような、本全体はかなりすごいものになっています。この企画を通し、実現させた担当編集さんの苦労が忍ばれる一冊です。

この編集過程で岡和田さんと山城さんのやりとりなどを拝見して、向井豊昭という一人の作家にはアイヌ差別、教育学史、部落運動史、左翼運動史といった近代日本のさまざまなマイノリティ問題の背景や文脈が絡んでいて、一朝には読み解き得ない歴史の厚みがあるのとともに、生涯この日本近代と闘争した一人のゲリラのようなこんな存在が日本には、日本文学にはあったんだということが改めて、きわめて重要な意味を持って迫ってくるところがあります。この数多の歴史的背景を個々に精査し読み解いていく岡和田さんの調査力というものについても改めて感嘆したところがあります。

装幀装画は川勝徳重さん。過日『電話・睡眠・音楽』が刊行され話題にもなった漫画家でもありますけど、今回は向井豊昭を描いた油絵をベースに装幀がデザインされていて、これはまた鮮烈な色彩感で非常に良いものになっています。油絵の原画のほうはポストカードとして付属するようです。

*1:「〈アイヌ〉をめぐる状況とヘイトスピーチ――向井豊昭『脱殻(カイセイエ)』から見えた『伏字的死角』」」(「すばる」2017年2月号)

*2:カイセイエ――向井豊昭と鳩沢佐美夫」(「すばる」2018年2月号)

2018年に見ていたアニメ

というわけで今年の見ていたアニメのなかから感想をまとめておく。去年よりも言及作品数を落とした。50作以下になったか。見ていたアニメ自体の数ならこれの倍くらいあるけど、良かったアニメを選んで47作。なおネタバレを気にせず最終話の感想も突っ込んでいるので注意。

2018年アニメ10選

目次がわりというか私の全体的な趣味を理解してもらうには手っ取り早そうなので、まず最初に今年のアニメのなかから10作選ぶのをやっておきたい。順番は放送クールごと。

宇宙よりも遠い場所
ゆるキャン△
ウマ娘 プリティーダービー
TO BE HEROINE
音楽少女
はるかなレシーブ
ヤマノススメ サードシーズン
あかねさす少女
となりの吸血鬼さん
ゾンビランドサガ

宇宙よりも遠い場所がやはり今年は凄かったと思うんだけど、そういう海外で評価され一般受けもする完成度の高いアニメがあれば、ぱっと見は萌え系でトンチキな絵面でもそれこそがアニメだという矜持がつまったアニメがあって、私にとって2018年のテレビアニメとはこのようなものだった、その象徴としての二作が宇宙よりも遠い場所と音楽少女だと思っている。

スロウスタートヒナまつりこみっくがーるずがかなり同着的候補だったけど残念ながら選外。各作品についての感想は以下の記事本体を参照。TO BE HEROINEは見ている人が少なかったけど、かなり懐かしのジュブナイルじみたストーリーと作画のすごさもあるので、チェックしてみて欲しい。あとあかねさす少女はかなり放課後のプレアデスだった、気がする。

2018年冬(1~3月)

宇宙よりも遠い場所
いしづかあつこ監督花田十輝シリーズ構成マッドハウス制作のオリジナルアニメ。今年を代表する作品の一つだと思う。一話からこれは素晴らしいのではという感触からそのまま、毎回が最終回かのような盛り上がりを見せ続けて最後まで走りきった。青春アニメとして近年でもまれなほど、むしろイヤミなほど出来が良くて、挿入歌を入れて感情を揺さぶってくるあざといまでのエモーショナルさは逆にマイナスかも知れないと思うほどだ。こう書くとなんだか批判的なようだけど、アニメをあまり見ない人にも勧められるタイプの傑作。タイトルは南極のこと。宇宙飛行士毛利衛が、昭和基地に行くのは宇宙に行くよりも時間が掛かったということを指していった言葉に由来する。母が消息を絶ったこの南極へ行こうとする高校生小淵沢報瀬と、彼女に出会った主人公玉木マリ、そして高校中退の三宅日向とタレント業で友達がいないアイドル白石結月、という少女四人が南極へと旅するなかで、青春、友達のありかたを描いていく。死体を探しに行く話だから実質『スタンド・バイ・ミー』です。これが放送していた間はTwitterで各人のそれぞれが持ってる友達、という関係についてちょくちょくプライベートな話が流れてきてて、人それぞれの友達についてのデリケートな部分を刺激する作品だったことが印象に残っている。どの回が、というのは難しい。個人的には三話の四人が揃った回や、五話高橋めぐみ回、六話パスポートの回、11話日向回、12話だろうか。特に三話、テンポの良さと結月の心情描写が噛み合ってて良かった。それぞれ目的が違うけれども、南極行きの四人のなかに自分のほしかったものを見つけながら四人が成り立つ。窓から友達が来る夢を見た後に、夢のように友達が迎えに来る場面で、窓と振り返ればそれが現実になるドアの、対比と幸福さが印象的。そして五話はかなりの破壊力を見せてきたけど、これはどちらも友達の話で、かたや同じ目的地に一緒に旅に出る友達を得た話で、かたやこれまで一緒だった友達と別々の方向にお互い同時に足を踏み出す話で、一緒に旅に出る友達と、旅に出ない友達がいて、この旅と友達のテーマは最後まで核にある。横に横にと地球を果てまで移動して極点まで来てしまったら、あとは空を見上げるしかない終盤の悲しさ。まあ延々ツイッターに感想書いてたので各回についてはそっちを見てほしい。
宇宙よりも遠い場所の感想まとめ
しかし、Twitter見てると、宇宙よりも遠い場所見ている人とラブライブサンシャイン見てる人があんまり重なってない感じがある。花田十輝脚本で女子高生たちの青春、という骨格が同じなのに。南極はすごくよくできてる作品だけど、サンシャインはもっと得体が知れない感じがある。南極は語り口のテンポでするすると見させるけど、サンシャインは音と映像でリアリティだのなんだのをねじ伏せるバイオレントな作品だった。

ゆるキャン△
きららフォワード連載でつまり四コマではない、きらら系女子冬キャンプ漫画原作。冬のソロキャンプを楽しむ少女をはじめに、言ってみれば旅・グルメ要素とキャンプ用具などのガジェットネタの趣味要素を掛け合わせてかつ少女がそれをやる。距離感が非常に重要な作品で、ソロキャンプを趣味とする志摩リンとキャンプ中に出会った各務原なでしこが、冬キャンプの楽しさに目覚めていく、という作品なんだけど、いわば旅行ものにもかかわらず必ずしもみんなで一緒が最高だ、という価値観ではなく、ソロでキャンプするのもみんなでするのもそれぞれに良いところがある、という感覚を大事にしている。そこでお互いを繋ぐのがLINEなどのスマホSNSあるいはウェブカメラといった遠隔コミュニケーションで、それぞれのキャンプの模様を写真やメッセージでレポートしながら、この空が繋がっているということを描く。印象的なのは三話、夜から日の出にかけてラジオ、BGMの演出もいいし、ラストのリンからの名前呼びはなでしこがそもそも名前で呼んでるから、それにちょっと応じるという自然さで驚くほど良い。名前のシーン原作一巻にはなかった。アニメの追加描写かな。三話で二人の関係の変化がここですとんと落ち着くポイントになっている。五話は、同日違う場所で別々にキャンプをしながら、またとない夜景を共有する独特の距離感覚が絵的に収められて良かった。七話は、リンとなでしこのデートみたいな二人のソロキャンプで、もしかしたら会ってなかったかもの時の絶妙な表情もいいけど、リンが自分のテントにもぐり込んでたのに気づいたなでしこのちょっとムッとした感じからの体当たりとかが良かった。二人入れるのにわざわざ別にテント張って、ボートに一人で乗って、という距離があるから、それを越えたり手を振ったりが意味を持つようになってる距離感の演出、隣のキャンパーとの交流も含めてやはり上手い。意外なほどヒットして二期や劇場版も決まっていて私もかなり面白い作品だと思ったけど、パースをつけたレイアウトで広域を一画面に収めるパノラマなどの原作が得意とする絵的な演出がほとんどオミットされているのが惜しい。まあそれはいいとして、え、となったのが最終話。お互いの趣味をお互いが尊重して共有する、という展開の帰結としてなでしこのソロキャンプが描かれるんだけれど、このオリジナル展開良いなーと思ってたら最終的にリンとなでしこが合流してしまうのでびっくりした。いや、なでしこにソロキャンプさせないのかよって。原作の展開を先取りしてしまうことを避けたんだろうか。いやしかしなあ。

スロウスタート
こちらはきらら系四コマ漫画原作。中学生で受験に失敗して高校に一年遅れで入学した主人公がそのことを隠して、その疎外感に悩んでいるという、表向きはキャッキャしながらそこに小さな距離を感じてしまう、こちらも繊細な心情を描いている。中学浪人を黙って友人に嘘をついている罪悪感のために何のこともない会話が主人公を突き刺すわけで、何でもない日常がつねに針のむしろの状況になる設定が生々しい。外から見ると普通のきらら系日常ものなのに、主人公だけは裏切りの罪悪感を抱えてる。誕生日に「同い年」と言われて泣いてしまう主人公の切なさ。それでいながら栄依子と清瀬という教師生徒の百合描写をかなり濃密に描く作品でもある。その七話、泊まった朝の描写が印象的で、気がつけば曲もコミカルな場面だけ、コーヒーをいれる音だけが聞こえてて、朝の光の陰影、手の仕草の数々や、うろたえたときに映される足とかとか。ぐいぐい攻めてたはずが、意図せざる先生の行動にぼろくそに攻め落とされてる栄依子さん。前話でたまてと夜の台所で秘密の話をしたのに対し昼の丘の上、不安でたまらないことと、栄依子のうれしくてたまらないことの対比がある。暗い話じゃない、と言ったときに髪を触るのがその時のことを思い出している感出してる。小さな秘密を共有する、っていう作品全体のテーマにかかわる六話と七話。また作画がやたら細かく動かしてくるのも面白い。

刀使ノ巫女
スタジオ五組によるオリジナルアニメ。荒魂と呼ばれる異形の存在に対抗しうる御刀を操る少女達が戦う美少女バトルもの。大味な叫びとかではなく剣戟の小気味よい戦闘で通したのは大きな美点で、そういう地味に見えて着実な積み上げが全体の作風を規定していたような作品。2クールでのオリジナルということで、かなりの練り込みがあっただろうと思われる骨格の強さがある。個人的にはややハマりきらない部分もあったんだけれども、終盤にはグサっと来る話もあったりで大きなインパクトを残していった。個人的に好きなのは15話、薫の多彩な表情や髪型が見られて素晴らしい回だった。れんげと夏海を混ぜたような良いキャラだ。薫は学長とも現地のメガネ隊員とも良いコンビしていて、荒魂と共生する真面目と不真面目の薫の二面性を生かしたコメディとシリアスの同居する回だ。だいたい薫が好きで見ていたようなアニメなので、この回は気に入っている。で、一番のインパクトを残したのが22話。皐月夜見。腰巾着を続けて誰からも見向きもされなくなった雪那をただ一人学長として遇する夜見の、最後の会話が効きまくって短いなかに本筋を凌駕するインパクトを残した。2クールをかけて、キャラ立ちしまくった道化としてそのあられもない姿で人気を得てきた雪那と、口数も少なくなかば謎めいた人物として作品の翳りのような印象のあった夜見とが、最終盤でこんなひとつの環を描いて閉じられる。ごく短く回想される風景、御刀に選ばれなかった夜見を見いだして力を与えたのはただ単に駒としてだっただろうけれども、選ばれなかった夜見にとってはかけがえのない救いで、自己愛的な従属を続けて最後に誰からも見捨てられた雪那を救うことが出来るのはその夜見だけだった。二人して不器用すぎる。夜見は刀使としての「務め」を果たし、学長に仕えることこそが最大の使命で、雪那もまたそれに相応しい言葉を与えることが出来ることが重要で、個人的な感情はあるかもしれないしないかもしれないけど、刀使と学長という公的な役割を演じきることに核心がある。夜見はそうして内心を語らず、すべてを公的な役目を演じることによって生きたんだろう。これ、パターンとしては滅亡した国の王女に仕える騎士みたいなものの裏返しだろうか。恩も愛もあるけど一介の僕としての振る舞いにすべてを押し隠すみたいな。けど、悲しいかな雪那には上に立つ者としての人格や高潔さが一切ない。だからこそ22話はより効果的だった。雪那のキャラ故に、夜見の服従が不可思議に見えるけど裏があるのではなくそのまま文字通りのものだったというトリックとして機能していた。そして最後のやりとりで雪那はむしろ夜見によって上に立つ者に押し上げられている。元学長でもなお学長と呼ばれ、応答することで、雪那ははじめて学長としての内実を得たんじゃないか。そして最終話、車いすの雪那が夜見の刀を拠り所にしてるのが象徴的だった。全体として、結芽、夜見、美奈都、篝、いなくなった人のことを拠り所としながらも前に進む話というか。主人公二人がきちんと母と別れられるまでを描くとともに、二人も雪那も刀を受け継いでるという構図。親から刀を受け継いだ主人公たちと、部下の夜見から刀を受け継いだ雪那、この二組、似たモチーフを担いつつ、いろんな部分が対比的に配置されている。どうでもいいけど、22話のこの感想をツイッターで書いたら、シリーズ構成脚本の髙橋龍也にいいねされてびびった。雫、痕、to heartあたりでエロゲの洗礼を受けた私にはなかなかワーオって思った事態だ。改めて考えるとメインキャラが女子中学生で公務員で敵性存在と戦う危険な任務に従事しているのやばすぎる感じもするんだけど、中学生っていう年齢なのは親との別れを描くには高校生だとちょっと大人びすぎてしまうからかな、と。

伊藤潤二『コレクション』
ホラー漫画の有名どころ伊藤潤二、読んだことがなかったんだけど、これはかなり面白かった。一話を見た時はえぐさ気持ち悪さとかでちょっとどうかなって思ったんだけど、絵面のおかしさやらどことなくトンチキな感じとか、ホラーながらホラーの関節外しともいえる妙な面白みがあって非常に良い。このアニメ、怖いとおかしいと笑いが奇妙にブレンドされた圧倒的絵面力がある。発想が即物的すぎると面白くなっちゃう。六話の緩やかな別れとかの情緒的な話も良かったし、11話の超自然が現実を侵食しはじめる異様さが生ける水死体のホラーへ、唐突なイースター島のシュールへ転換して能力バトルへというジャンル変わってるじゃねえかっていう話の転がし方がそうとう面白かった。いい話もちゃんと怖い話もあるけど、なにしろ圧倒的に「変」なので、その手の人(どの手の?)にはかなりお勧めできる。声優も面白い。JYOCHOのEDが本篇の作風にも似たある種のずらしや変化球的な音になってて非常に良い。

citrus
コミック百合姫連載百合漫画のアニメ化。ギャル系と委員長系の相性の悪い二人がじつは義理の姉妹になって、という作品で、広い家でいきなり同じ部屋に棲むことになったりとか、三年娘があったことのない父親と再婚した母親とか、わりとラフな設定を細かいツッコミをなぎ倒す軽率さで場面を演出していく楽しさがある。淫行教師が退場する早さは笑った。主役のギャル系キャラの竹達彩奈の声が絵になんともコミカルな印象を持ち込んでて雰囲気を作っている。また、髪型のバリエーションがすごくて、家に帰るたびに変わってるのかってくらい、一話のうちに三種の髪型があったりするところに細かいこだわりがある。髪型と服装にこだわるアニメは良いアニメ。

三ツ星カラーズ
上野の商店街を舞台に、女子小学生三人がカラーズと名乗って、この街を私たちが守る、といいながら好き放題していく漫画原作コメディ。玄田哲章おもちゃ屋のオヤジとかパン屋の子だとか、街の人たちとの関係と自由な子供達の地味にいい作品だった。しかし、交番と警官が延々と攻撃襲撃揶揄されてるの、昭和の漫画みたいですごい。ほら、昭和のギャグ漫画って警官が銃乱射するじゃん。クソガキたるもの大人や法を茶化さずにどうする、と。いやそこまでアナーキーじゃないけど。あんだけ暴れ回ってるけど、女の子だから/なのに、みたいなこと言われる場面が記憶にない。これも女の子だって暴れたいアニメなんだろうか。その意味では、大人なのに小学生と同じ立ち位置で喋ってるあの警官はある意味ですげえヤツだ。子供と目線を同じにできる。最終話、公園の真ん中で布団持ってきて寝てるようなむちゃくちゃやっててもどこか愛嬌があって、それを見守っている大人がいる、という構図が最後に提示されて終わるのが良かった。最後だからひとまずお休みってことだ。EDがとりわけ好きで、曲もだけど特にあのイラストが良い。めばちというひとはこれ以外にもレヴュースタァライトでもEDやってる。めばち、毎回服装が違っているこのアニメの衣装デザインでもある。

ラーメン大好き小泉さん
ラーメン狂いの高校生小泉さんと、彼女をストーキングするやばいやつ悠をメインとするラーメン漫画原作アニメ。着丼とか完飲とか言ってるラーメンで頭がおかしくなった女と、その女で頭がおかしくなった女の話のうえに頭のおかしいラーメンがたくさんでてきて、大概頭おかしいのがいいところ。ミドリムシラーメンとか、パイン入りとか、一蘭の妙なシステムとか。ラーメンアニメと思わせて悠を通じてストーカーの発想を描写していくサイコホラーになっていく感じもあるんだけど、最終話、最後に小泉さんの悠をも越えうる異常性を描写してくるのがよかった。常軌を逸している愛という点でこの二人は似たもの同士だけどそれゆえに交わらない。ラーメンに興味がないのに自分に近づいてきた悠に対しては冷たいのに、その友達と偶然ラーメンに関して話が繋がって仲良くなっている関係が面白い。あと、汁物なので食事時に髪型が変わるのとかがポイント。OPのフレデリックが提供した曲も面白いけど、EDがラーメンのTVCMをモノクロ時代のものから歴史的にパロディでたどりなおしつつ、それを映す枠がブラウン管、液晶、スマホへと変わっていくのも良かった。

サンリオ男子
男の趣味と思われたものを女子がやっていく趣味アニメがあるかと思えば、こちらはサンリオキャラを愛好する男子高校生を描く青春アニメ。ぬいぐるみを女みたいな趣味となじられてポムポムプリンと祖母をないがしろにしたまま亡くしてしまった悔恨から、自分の趣味を肯定していく。このアニメずっとサンリオキャラを通してその人の幼い部分をすくい上げてそのなかから幼稚さを組み立て直して優しさに変える、ってことをやってる気がする。かわいい物好きを抑圧される話の次に、意に反して、かわいいやら女装させたいやら言われる系男子の話、嫌だって言っているのにそれも含めてかわいい扱いし、相手を幼稚なままに押し込めようとする母親たちの、暴力としてのかわいい、に切り込んでて面白い。サンリオ趣味を、子供っぽいと否定する回のほか、「男のらしさ」への憧れからサンリオ趣味の否定につながる話と、男子高生のサンリオ好きへの違和を取りあげつつそれを肯定していく作品。

ミイラの飼い方
comico連載漫画を、ゆゆ式のかおり監督がアニメ化した作品。ミイラ、という小さいマスコットみたいな不思議な存在と出会い、新しい家族として飼うなかで、知り合い連中もそれぞれに変な存在を飼い始めて、というほのぼの日常作品。細かな仕草に気を配ったゆゆ式かおり監督の佳作で、ED、曲の終盤で突如真顔で切れのあるダンスを繰り出すアニメーションが面白すぎるので一見の価値がある。

メルヘン・メドヘン
2016年に亡くなった故・松智洋原案のアニメオリジナル企画。シンデレラやかぐや姫、あるいはイワンの馬鹿などの物語の力を使って戦う能力バトルもの。それぞれの物語は原書と呼ばれ、契約したものは特殊能力を使える、という。前半はシンデレラをベースにしており、既存の物語に囚われるのではなく己の物語を語ることへの転換を語り、王子様に興味がない!っつって同性に好きでした、と告白するシンデレラの鋳直し、というテーマはかなり悪くない。王子様を待つ女子のイメージを百合で書き換えるっていう。最終回までまだ公開されていないという問題があるけれども。

りゅうおうのおしごと!
のうりんの原作者による将棋ラノベ原作。高校生棋士のもとに突如やってきた小学生女子の二人を中心にする将棋アニメで、漫画版を読んでるけど、小学生女子が押しかけ妻やるっていうロリコンネタをフックにしながら、将棋ものとしてはかなり読ませる作品でもある。姉弟子桂香の年下に追い越された人間の将棋をめぐる逡巡とかかなり面白いんだけれど、ロリコンネタと作品がじつは微妙に分離してる感じもあって、ロウきゅーぶの作者ほど少女に真剣でないというか、それでいながらアニメでは絵的に映えるロリコンネタを強調している感じがあるな。

2018年春(4~6月)

ウマ娘 プリティーダービー
サイゲームスによるアプリゲームとのメディアミックス企画としてスタートしたアニメのはずなんだけれどいまだにゲームが出る目処が立っておらず、オリジナルアニメでいいよね。さまざまな擬人化美少女化コンテンツがある現代、競走馬を擬人化するという企画で、聞いた時は調教とか繁殖とか人にするとやべー概念がたくさんあるぞと思ってたら、かなりいいスポーツアニメだった。人より速い馬に乗る競技を擬人化したら徒競走になるのは180度ずつ二回転させたら360度って感。スペシャルウィークサイレンススズカをメインとしつつ、ゴールドシップダイワスカーレットトウカイテイオーウオッカメジロマックイーンのチームを中心にしている。競走馬の擬人化ではあるけど競馬ではないので、レースは徒競走という単純かつシンプルでそれでいてウマ娘たちがバカスカ飯を喰う場面が頻繁に差し挾まれるあたり、身体性のシンプルな魅力があった。走る、ただそれだけの力強さ。ほとんどライブもやらないし風呂を映したりもせず直接的なエロさを控えていながら、身体を前景化してくる。エルコンドルパサー等日本競馬の歴史を踏まえつつ、現実では悲劇に終わったサイレンススズカの物語をスペシャルウィークと併走させて別の歴史を描くあたりのくだりは非常に良かった。多くの人はリアルスズカのことを知ってるから、アニメのスズカの一挙手一投足が激しくエモーショナルに印象づけられることになる。ウマ娘のメディアミックスとしては速いほうのサイコミのハルウララ漫画見てると厩務員とか牧場主とか調教師がいて、この時点では単に競走馬を擬人化しただけになってて、この設定でアニメ化したらまずかっただろうなという感じ。家畜化された人間だもの。

●TO BE HEROINE
中国オリジナルアニメで、前作があるらしいんだけど私は見てないしいくらか前作キャラもいるんだけれど、非常に面白い。はじめは中国語に字幕となってて、アニメを字幕は厳しいなと思ったら、異世界では日本語になる面白い設定だった。現実世界でのリアルな闇と子供たちの戦いと、異世界での脱いだ服が人の姿をとって敵と戦うバトルが並行展開するアニメで、中華アニメらしいトンチキさと作画のキレがあいまってかなり面白い。日本語の異世界パートは「二次元世界」で中国語の元世界が「三次元世界」という設定になっている。敵の散り際の台詞が「ベストはやはりコットン一〇〇%が最高」とかだったり、それギャグなのかってネタがガンガン出てくる。そういう中国アニメらしいギャグがあるかと思えば、現実世界の話はストライキでの抗争で友人の親が死ぬ展開から、親子二代にわたる愛憎劇と企業城下町の闇が絡まってものすごく重い話になる。そして、社会悪に立ち向かう子供達の苦闘が描かれる。少年光は名前の通り正しさ、正義の化身でもあるから、その光は相手に見えない。一話もかなりのものだったけど、最終話の一斉召喚でのアクション作画の見所オンパレードの場面はすごく感動的。全七話の中篇アニメともいうべき尺で、ちょっと長めの映画のような感覚。古いヤングアダルト向けっぽい。こんな真っ正面の「正義」の話をいま見るとはという驚き。見ている人が相当少ない気がするけど、社会派ジュブナイルともいうべきアニメで、もうちょっと知られて欲しい作品。

ヒナまつり
インテリヤクザ新田のもとに現われた女の子ヒナが未来からやってきた超能力者で、その力でヤクザを翻弄して衣食住を確保しつつ生活していくギャグ漫画が原作。人の良いヤクザと超能力者でリアリティレベルを全部どうにかできるのが便利だ。無気力だけどやりたい放題のヒナと同じく未来からやってきた超能力者のアンズが真面目な性格でハートフルなエピソードの対比とかもあるけど、とにかくギャグとして面白いアニメになっている。超能力者にしろ一般人のはずの瞳にしろ、子供がガンガンろくでもないことをしながら大人を翻弄していく。とつぜん落ちてきた子供をなんの関係もないのに拾って育てて大事なものをぶっ壊された挙句の勘当をしたかなり聖人の新田を、罵倒して塩撒いて追い返した詩子こそ小学生をバーテンダーにして働かせて何もしないで金入ってこないかなとか言ってる鬼畜邪道の者なのがすごかった。この手の作品は、見ている時はとにかく楽しいんだけど、改めて感想を書こうとすると特に出てこなくなるものの、非常に楽しい作品だった。今期ウマ娘もあるのにこちらも及川啓監督なのが驚異的。こちらではは全話の絵コンテを担当してる。

こみっくがーるず
きらら系四コマ原作作品。漫画家あるいは志望者が暮らす寮で高校生の少女四人を描く。女子高生に萌える欲望を隠さないオタクにしてメチャクチャ自虐的な性格をしていながら、漫画を描くことは諦めない強かさも持つ、かおす先生こと萌田薫子が面白い。すごい打たれ弱いように見えて、その実ものすごいタフでもある。このかおすと同部屋の小夢や、すでに漫画家として活躍している琉姫と翼がいて、最初はまあまあくらいに思っていたら三話くらいから特に面白く感じられるようになってきて、特に四話、児童書なんかを書きたいのにティーンズラブ漫画(女性向けエロ漫画)として活躍してしまっていることに悩んでいる琉姫の話数は非常に印象的だった。望まない仕事をしていると思っているんだけど、そこには作品を楽しみにしているファンがいて、イベントで現実の読者の姿を目の当たりにすることで、自分自身を肯定できるようになるという。この、自分自身と向き合うことの不安を鏡の前で髪型を幾度も変えて逡巡する様子を細かな髪の流れの描写とともに長回しする心理描写は今年随一の場面だ。第一の読者としての寮母さんの言葉と彼女による化粧で人前に出る自信をつけさせるくだりも良い。この四話と並ぶ印象度では八話の、寮母さんや薫子の編集者、そして四人の高校での教師がともに自分たちが漫画家になろうとしていた高校生だったころのことを交えて大人として彼女たちを見守る回も、描き続けることがいかに大変か、を今全員が描いてない大人組から照射するのが効いていてとても良かった。ワンクールかけて読み切り掲載が決まるという、あまりにも遅い前進だけども、何度へこたれても決して諦めないタフさが印象的で、この一人でやるしかない創作、のまわりにどんなにたくさんの人がいるか、ということが描かれてた最終回もあわせて、いい作品だった。作り手の新人への共感と応援みたいな部分が強く感じられて、これで初主演だという主人公役の赤尾ひかるは、感慨もひとしおだろうな、と思った。

Caligula-カリギュラ-
ゲーム原作でライターは初期ペルソナのライターらしい。今いるこの世界が作り物の仮想世界ではないかという話から、この理想の自分になれる世界で暮らすことと現実に帰るべきだとする勢力の対決がメインストーリーとなっていく。自分の痛みと向き合うことに真摯な話で、同時にメビウスにしか自分を肯定する場所がない、理由が深刻な敵役を描写したがために、残りたい人の意思が反故にされることへの懸念が残るか。メビウスでしか自己を肯定できない人は。それもあわせて佳作だったと思う。上田麗奈は今作も含めて、ロボやAIやら神やらの非人間的存在性を担うことが多いなあという感触を再確認した今年。


ラストピリオド -終わりなき螺旋の物語-
スマホゲーム原作アニメ。監督キャラデザスタジオがツインエンジェルBREAKと同じで、街の名前がホープレスだとか、ガメツ村の語尾がゼニのモカルさんとかいうネーミングやちょこちょこ小ネタがテンポ良く挾まれててガチャゲーを自らネタにしていくノリの良さがある軽快なコメディだと思っていたら徐々に本性を現わしていくパロ・ネタアニメで、三話でひぐらしのなく頃にの登場人物がマジで出てきたのはスマホゲームと言えばコラボってことなのか、別作品だから攻撃できないっていうメタネタを、どうもその作品中最凶のキャラでひっくり返すあたり、ひぐらし未見の私でも鉈女ぶりは知っていたから笑ってしまった。アニメでここまで他作品のキャラをコラボで出してきたのって他にあったっけ。けものフレンズ騒動をネタにしたり弾けた回もあれば良いギャグ回もあり、ネタ作品としてはかなりインパクトがあった。九話の爆発したギャラクシーのスマホネタを扱った回や、十話のメタスマホゲームアニメがスマホゲームに取り込まれるという怪談回など、また終盤は米朝核戦争ネタで落としてくる。真面目なファンタジーアニメが見たかったらメルクストーリアを見ましょう。

魔法少女 俺
魔法少女に変身するとマッチョ男になるというギャグ漫画原作。メインの片方が主人公を熱烈に愛する百合っぽさが変身するとBLの絵面になるという二段構え。少女漫画系ギャグという感触があって、なかなか面白い。全二巻の漫画を原作にしていることもあってか、多少テンポの悪さを感じるんだけど、シンゴジラをアニメ制作でパロった回とかもありつつ、バカバカしくて良い。さらっと女性アイドルに集る性犯罪者が描かれていたのがインパクト大。

ルパン三世 PART5
第五期とのことだけどルパンのテレビシリーズ通して見たのたぶん初めて。ネット時代一千万の監視の目のなかでの怪盗、というアプローチが提示されて、デジタルネイティブな少女アミを主要人物として展開していく、現代の怪盗物語。同時にルパンと次元の男二人で楽しくやってる感もすごくて、この楽しいBLというかホモソーシャル感は作品の魅力だろうなとも思う。不二子、銭形などのキャラの話も掘り下げられててルパン三世がどういう作品なのか、このPART5だけでも理解できるように作ってあったと思う。しかし六話は、作画も話も昭和で過去作のパスティーシュみたいなすさまじいギャグ回だった。IQじゃない、脳力(のうぢから)。盗みにきたのに正面から入っていくし、脳力を下げる話の脚本とかキャラの知能が徹底して頭悪いのすごい。「おりこう酸」て。ルパン頑張れの挿入歌もありバカ回として記憶に残る。

Cutie Honey Universe
言わずと知れた永井豪原作漫画だけど、漫画は知らないのでどれくらい原作準拠でアニメ化されたのかはわからない。なんか変なアニメだなって感じがしていて、ん?そうなる?みたいな演出がよくあって、逆に画面に釘付けにされるところがある。六話で学校が襲撃されて教師も生徒も皆殺しってそうかこれが永井豪か、と。冒頭でギャグっぽく描写されてたマッチョ番長や愛を誓う校長夫人たちの死に方とか、ある種の雑さ、軽さがそのまま残虐さに接続されるのは自覚的な俗悪さという感じ。かと思えば、敵ボスはハニーを追い詰めるためだけに味方も、ハニーの親友も殺していき、相手のすべてを奪って自分だけを見てほしいという激越な百合アニメでもある。レズビアニズム。そうした残虐さとともに、10話で敵幹部が私より強いジルさまにお前が勝てる点を言って見ろ、とプレゼン大会がはじまるコント感は中国アニメのそれのようでもある。でも一番面白かったのは最終話、ピンチのハニー、そこに現われたのはハニーの格好をした仲間たち(男)! 誰が本当のハニーだ、証拠を見せて見ろ! 流れるオープニング。この腰つきを見よとハニーの格好をしたオヤジと息子たちがキレのあるダンス! その後の展開も含めて、ああこのアニメ見てて良かったなって思った。すげえ笑った。どれくらい原作に忠実なのか知りたいと思ったけどまだ読んでないな。

3D彼女 リアルガール
少女漫画原作。オタク男子が遊んでそうな女子を敵視してるんだけどその子から告白されて付き合ううちにその内実を知っていく、という感じで、話を聞かない思い込みで動く主人公が偏見なく相手を受容するヒロインとの関係で成長していく。自己肯定感の低さが認識を歪ませてしまう主人公が悪手を選び続けるなかなか難儀な話で、このシリアスな自己否定性の克服というテーマ、魔法使いの嫁もそういう作品だった。自己肯定感の低さと、それを抉りにくる現実という地獄めぐりを経て自分を肯定していく。オタク男子とギャル女子の話を作るとして、少年漫画とかだとこういう話にはならない気がする。女性がいかに現実で自己肯定感を削られているのか、という背景を読みとってしまう。

甘い懲罰〜私は看守専用ペット
エロアニメに最適化された設定と展開の速度、局部を隠す白手袋、半端ない攻撃力で僧侶枠として知られるコミックフェスタアニメとしてもかなりトップスピードで笑いしかない。更正省、快楽刑のネタ力高いワードセンス。匍匐前進カットの面白さは公式自身が何度もCMでネタにする破壊力で、一見の価値がある。かなり面白い。

異世界居酒屋「のぶ」
小説家になろうで発表されてた小説が原作。10分アニメをyoutubeなどで公開していく配信先行作品で、実写の料理コーナーや食べ歩きコーナーなどが後についてたり、本篇にやたらとテロップが付いてたりしてバラエティ番組のような編集がなされていて、これが不評ではあったけど、なかなか見ない作風だった。久野美咲が出てくるので良いアニメ。わりと良い作品だと思うけど、尺の関係などもあり漫画版がことに良い。

●プリティーシリーズの新作キラッとプリチャンアイカツシリーズの新作アイカツフレンズもスタートした。プリチャンは監督が替わってアキバズトリップなどの博史池畠監督でスタートしていて、動画配信をすることをメインにして、Youtuber時代に対応したコンセプトになっている。以前までのカオスキッズアニメ色がやや薄れているのが惜しい。アイカツフレンズはスターズとはまたちょっと違って、フレンズと言うとおり今度はあまりヒエラルキー構造を感じさせない設定になっている。フレンズ、という通り二人でコンビを組むことが中心になってて、フレンズ同士の関係の深化がテーマなので、かなり百合っぽいというか、フレンズといいつつ結婚の象徴を埋め込む演出なんかもあって驚く。

2018年夏(7~9月)

●音楽少女
この夏クール、予想外の場所から現われて私的今期ベストアニメの地位を奪っていった作品。結構前に元になるOVAやCDリリースがあったらしい、オリジナルアイドルアニメ。九人のアイドルグループ「音楽少女」に出会った山田木はなこが、アイドルとは何かも実際には知らなかった状態から、その活動の手伝いをしながらメンバーそれぞれのアイドルとの向き合い方をまのあたりにし、アイドルとは何かを知っていく。音楽家の家に生まれながらダンスの才能はあっても音痴だったという脱力感あふれる一話の導入には、同時に迷子だったはなこが出会ったのが「音楽少女」だった、という意味があり、自分のやりたいことがなにかがわからない主人公山田木はなこの夢を見いだすまでの過程としてこの作品があったことを示している。一話の脱力感あふれるさまざまな展開や小ネタを見てわかるとおり、ある種のトンチキさや予算のそれほどかかってないだろうチープさが作風にとって不可欠の要素となっていることが重要な意味を持つ作品でもある。一話段階では、なんかキッズアニメ的面白みのある作品だと思っていたんだけれど、三話の出来のよさや四話の化粧が得意なアイドルが完全に別人みたいなすっぴん顔を出してくるチャレンジ精神なんかも面白く、作曲、衣装、化粧、といったアイドルに必須なもののできていく過程そのものを通してアイドルを見つめていく面白さがあると思っていたら六話が傑作。偉い作詞家の先生のスランプの理由として、自分のなかの少女が死んでしまったから書けないんだという話に対して、メンバーの書いてきた詩を読んで彼女のダンスを一緒に踊ることで、自らのなかの十七歳の少女を生き返らせる、というロジックは通っているんだけれど、実現された絵面がおじさんとアイドルのシンクロダンス、という笑うしかないものになっているところに、真面目な滑稽さを自覚して作っていることが明確に現われていた。そしてこの回によって、OP曲が小倉唯の歌う「永遠少年」だったことに筋が通るわけだ。女性が自分のなかの永遠少年という「胸の奥にいつまでも消えない希望」を歌う意味がここにある。このOPの不在と最後のピースはキミだったと歌うED曲が長く掛かる十話での楽曲演出は白眉のもの。そして最終話、ステージに立ったはなこの音痴で笑いになり、メンバー同士の喧嘩でツイッターが湧くありさまへの、アイドルなめんな、お前らは何を見に来たんだと啖呵を切る様子には、とうてい金の掛けられた作品ではないことがうかがえる音楽少女というアニメーション自身とそのネットでの反応がすでに埋め込まれている。演出やギャグを読めずに作画崩壊だとさわぐ連中への闘争心と自分たちの作るものへの誠実さを込めたようにも見える最終話は、夢を持っていなかったはなこの夢を見いだすまでの過程でもあり、アイドルとなり最後のピースとなったはなこがさらにまたこちらにむけてキミへと呼びかけるED曲が重なる。キッズアニメのようなトンチキさだったり荒唐無稽だったりする、一見して萌え系でチープで安っぽい変なアニメと思わせて、見ていくとそこには真摯なアイドルアニメとしての芯があり、この両方をきちんと意識した作風に感動的なものがある。私はトンチキだったり荒唐無稽だったりすること、そういうことがアニメには欲しいと思っているので。当時の感想についてはまとめたので以下参照。
音楽少女感想まとめ

はるかなレシーブ
きらら系でもフォワード作品ということで四コマではない原作。ビーチバレーを二人でしかできない団体競技で、だからこそかけがえのない一人を選ぶ競技だと定義する、百合ビーチバレーアニメ。沖縄を舞台にしてさわやかな昼光輝く浜辺でビーチバレーをしてる、健康的エロスに満ちたアニメで、このロケーションとラスマス・フェイバーの音楽がかなりいい。枚数をリッチに使った感じでもなく試合場面を適切な緊張感で進展させてるのが不思議とうまいアニメでもあって、健康的な感じと快活さが作風の爽やかさを生み出している。初心者の目を通してスポーツの基礎的なことを説明して、かなたへの追いつきたいというモチベーションに繋げてて、ちゃんとそれが楽しそうに描いてるのが良い。すごい良かったけど書くことがあまりないな。このクールで気になったのはこの明るさと対比的に暗さが印象的なはねバドで、はねバドには私は結局好印象を持てなかった。変にストレスフルな展開にしたりして重い圧を加えれば面白くなるかのような感触がその動かしまくる作画コストと相俟って、やたらと重苦しい作品になっていながら原作由来と思われる軽いサービスシーンなんかをそのまま入れてくるようなつくりは、序盤はコミカルだったらしい作風が途中からシリアスに転換したという原作由来のものもあるだろうけれど、どうにも。作画や演出はすごいんだけど。この対照あってこそのはるかなレシーブの明るく爽やかで楽しいスポーツアニメの良さが浮き彫りになってる感はある。去年のつうかあと並ぶ競技性と百合色を密接に連携させた百合スポーツアニメだろう。

ヤマノススメ サードシーズン
登山アニメもすでに第三期になり、今シーズンでは登山というよりもあおいとひなたの二人の関係性を中心に描いたものになった。友達のいなかったあおいと社交力のあるひなたのとりあわせで、ひなたの計らいであおいに友人関係を広げさせていこうとするんだけど、その広がった関係のなかであおいが自分から離れて行ってしまうことに嫉妬していく自縄自縛のひなたを印象的な演出で丁寧に描いていく。四話はそんなひなたたちがあおいをカラオケに誘って一緒に友人になる、というあるいは山に登る以上に高いハードルを越える話。一人ではダメだったかもというひなたへの腹立ちまぎれの感謝があって、一人では登れないものも二人なら、という流れからこの二人のEDデュエットがやってくる。松本憲生ひとり作監原画で、アクションがあるわけではなく重要な話数の日常芝居に名のあるアニメーターを使う回だった。中盤以降二人のちょっとしたすれ違いが徐々に広まっていくなかで、特に10話は作画演出がかなりハマっていて印象的な回だった。コメディタッチの前半から夕暮れとともに翳ってゆく感情の流れを演出していき、夕暮れの光差す日向には「止まれ」の文字。この話数であおいとひなたはたぶん一度も正面から目を合わせてない。この外した目線、返されないLINE、直接会うことができない後ろ姿、風呂に沈んだ時に髪と泡しか描かず顔を映さないという間接性のなかで、すれちがう二人を正面から見据える友人二人がいて、あおいに一度忘れられていた友人が今度は忘れないでね、と言う瞬間にバーッと光が差してくる。あおいにとってようやく人物が明確になる。構図、フィルター、光源、フレーム、細かい仕草までほんとうに劇場版みたいな演出回だ。そこから山を登ることで仲直りをしていく終盤になっていくけれども、形のあるなしを含めていろいろなものを渡し渡される関係として二人を描いていくのが良かった。

●悪偶 ‐天才人形‐
スタジオディーン×中国、の霊剣山を思わせる組み合わせから放たれる中国漫画原作アニメーション。人を小さなゾンビにして体に埋め込み、即席に才能を得る悪偶という邪悪な存在にまつわる怪奇譚を導入に、能力バトルアニメを展開していく。親友に裏切られ全身火傷を負い愛への殺意に目覚めた町と、町を絶対救うと決意する愛のすれ違いの愛憎劇を主軸にする重い百合アニメという感触もある。そのなかでラフという少年が力を過信し、救済者として悪を倒す役目を勘違いし、怪しいヤツを根拠なく攻撃していくメチャクチャな展開をたどって、このラフが途中でメインから外れるんだけれど、こいつ最後まで再登場しなかったので、ただのやばいやつでしかなかったのは本当に笑ってしまう。OPでの活躍は一体。代わりに老師ラショウと、少年メンとその母親がメインを張り出すようになるんだけど、この年齢構成で話を回していくのが面白くて、しかも敵味方の構図がなんども入れかわる無茶な展開力と、メンの父親がバスケユニフォームで現われスポーツやってるから戦える、という変な絵面を生み出したばかりか、「フィボナッチ数列を使った暗算攻撃」とやらが出てくるのが最高に面白い。暗算で相手の思考力を奪うっていう話と、先を取られて結果的に暗算力勝負になってる展開、なにが勝ち負けになるのかよくわからないところはある。しかしこの無茶なハッタリの面白さ。急転に急転につぐなかでの最終回、意外な人物の意外な真実がぼこすか出て来て一ヵ月後集まりましょうと期限切ったのに、その一ヵ月後はお前にはこねえ!と言わんばかりの「ご視聴ありがとうございました」で終わってしまってこれは笑う。最後の数分でとってつけたような最終回感を匂わせる暴力的な結末、なにもかもが-天才アニメーション- だった。一言で言うと中国のジョジョって感じ。本当か? 中国アニメらしいギャグと予想のつかない(整合性を気にしないとも言う)展開の連続で、まあ楽しい楽しいエンターテイメントだ。ED曲が良い。

●プラネット・ウィズ
水上悟志がネームを書いたというオリジナルアニメ。クラーク『幼年期の終わり』にヒーローものの要素を加えた、というか。力をめぐるパターナリズムと自己決定の対立に異星人の子供という他人事のはずの主人公が斜線を入れる。少年時代から始まり、徐々に成長していく主人公の姿を全三部構成のなかで描き、ワンクールによくもこれだけ詰め込んだなというほどに内容を詰め込んだスピード感で走り抜ける。六話で一部、四話で二部、二話で三部を語るという加速度的な構成もあいまって、なんとも完成度が高かった。きっちり語りきった熱い作品だけに、これもまた書くことがないな。田中公平の劇伴も印象的。

ちおちゃんの通学路
通学路、をテーマにした漫画を鬼才稲垣隆行が監督した作品。FPSゲーマーの主人公ちおがパルクールばりに通学路をハックしていく、みたいなところから始まって、親友真奈菜とのゲスい友人関係を中心に話を回していくんだけど、大空直美小見川千明のメイン二人の声がかなり存在感があって面白い。ことごとく話がひどいっていうか汚いっていうか。最終話も尺あまりと宣言して嘘予告からのNG集って展開で凄かった。SEつきOPから始まって、最終回自由だったな。原作に見合ったアナーキーなアニメだった。

あそびあそばせ
こちらも漫画原作の岸誠二監督アニメで、ギャグに定評のある監督二人が女子中学生メインのギャグアニメで併走していたクールだった。こちらはメイン三人が、部活と称していろんな遊びをしていくんだけど、ちおちゃんとも通じるゲスい友人関係を、より女子の生っぽい感覚のなかに描く印象がある。漫画を拡大したものを台本にしてプレスコで収録しているらしく、圧倒的にテンポが良い。美少女が顔を崩せばギャグになるってのはどうかと思わないでもないし、変顔が妙に気持ち悪い絵になっていることもあるけど、オリヴィアの髪型を頻繁に変えていくあたりの細かいこだわりも悪くない。木野日菜の喉を壊しそうな演技のテンションとまくしたてるテンポの圧で笑わされてる感があるけど尻からビームが出る話を押しまくられると笑うしかなかった。前多というおじさん一体何なのか。一人でリアリティラインをぶち壊していく。学校内が中心のこれとちおちゃんの通学路、場所は違えど女子中学生が中の下というか陰キャだとかいって、同じ下位カーストに相手を引き込もうとするこじらせた友情のゲス百合?アニメな点は同じ……かも。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト
キネマシトラス制作、現実の舞台でのミュージカルが先行するメディアミックス型企画。一話の突然な幾原邦彦アニメのようなバンクシーンから、ミュージカルっぽく戦う展開はなかなか鮮烈で面白いし、芝居のアニメならどんだけ芝居がかってもいいというつくりは発想の勝利だなと。音楽学園で跳んだり回ったり歌ったり殺陣したりしてたから、地下で名乗り上げて決闘しても違和感がない。ウテナっぽいと言われるけど、幾原的演出を棘なくわかりやすくした感があり、バンクの生産シーン、ピンドラぽいけどあれは逆接でこれは順接って印象。九人の歌劇少女がオーディションと呼ばれるこの戦いに身を投じていくっていう展開で、各キャラのそれぞれの舞台への物語を描いていく話で、個々の回は面白いしキャラそれぞれの関係も嫌いじゃないし、レヴューと楽曲によるアニメーションは面白いんだけど、この人達が結局何をしているのか今以てよくわからない、という感覚が強く残った。この地下のオーディションは望みを叶える代わりに何かを奪う、というまどマギ的な邪悪な契約のテーマでそれを乗り越える話でもあるけど。なんでみんな地下オーディションに参加しているのかいまいちわからなかった。各人同士の感情のぶつかり合いの百合に対する真剣さほどには歌劇要素がいまいちピンとこないところがある。あとやっぱり露崎まひるが体の良い当て馬として用意される感じがして、もうちょっと活躍して欲しかったというか。これ現実の舞台版はまた違うような気はするのでアニメだけ見てると作品を捉えきれない感じはするな。

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術
異世界召喚ものラノベのアニメ化作品で、小説家になろう原作ではないやつ。キャリアのあるラノベ作家が異世界チートハーレムを書いてみる、という作品のよう。プレイしていたゲームの世界にに召喚された主人公が、人付き合いが致命的に苦手なことから魔王のロールプレイをすることでその異世界に適応していく、というコミカルな設定を主軸に据えた話になっている。奴隷魔術と言うからどうなのと思っていたら、そもそもヒロイン側が主人公を奴隷にしようと思っていた魔術が反射してそうなった、となっていて、奴隷設定も魔王設定もひねりが入っていて、ここから手際良くコメディが展開されていて面白い。召喚世界の謎とか奴隷魔術とか主人公の設定とか、エロとギャグをぶっ放すための状況の「言い訳」をつくるのがうまい感じがある。言い訳ってわりと大事。それでいてハーレムものとしてエロ要素もがんがん入ってくるんだけれど、なんかあまり下品にならない感じがある。魔王や奴隷や世界設定その他、異世界ものでも元からラノベだったためか、設定がなかなか面白く機能していて、異世界チートハーレムをうまく転がしている。

●ガルパピコ
森井ケンシロウ監督が総監督の地位に変わっているけどノラと皇女と野良猫ハートのスタッフともかぶる制作陣による、バンドリショートアニメ。バンドリはアニメ版しか知らないので、ポッピンパーティ以外のバンド連中はよう知らんけれど、毎回なかなか尖ったネタでだいたい面白い。特に九話、コロネが好きすぎてコロネになってしまう牛込りみ、くだらないネタのはずなんだけどカフカ伊藤潤二コレクションかという無茶な絵面でバカみたいに笑ってしまってくやしい。

中間管理録トネガワ
カイジのスピンオフ漫画原作で、私はカイジも序盤しか知らないしそのアニメも見ていなくて、川平慈英のナレーションがこれはちょっとあまりにもアレじゃないかとは思ったものの、なんだかんだわりと面白かった。ブラック企業ゆえのブラックな面が結構ありつつ、ハンチョウが出てきて絡んだりして後半はまた毛色が違ってたりした。ざわボイスで遊んでるの最終話のは一発で誰か分かるやつで笑った。

2018年秋(10~12月)

●あかねさす少女
アプリゲームと同時展開していたけれど、概ねオリジナル作品といっていいだろうアニメ。ラジオを使った儀式によって並行世界へ行けるという都市伝説を実行してみたら、実際に行けてしまい、そこでは黄昏、という世界を侵食する現象が起こっていて、という導入なんだけれど、変身バトルやらなんやらがありつつも、主軸にあるのは高校生の少女五人たちがそれぞれに抱える思春期の悩みを、並行世界の別の可能性の自分の経験を通して見直していく、というきわめてまっとうなジュブナイル作品の趣がある。それでいながら、各並行世界の突拍子のなさや展開のトンチキさは、バカバカしく愛嬌があり、テーマへの真摯さと荒唐無稽なおかしさを両立させて、個人的には非常に好感度が高い。二話、三話のなな回での、石の意思とかチョコバナナがどうこうとか、駄洒落が話の本筋に重要だったりするくだらなさ、四話五話でのかわいいもののほうが好きでしょと言われてきた、ヒーローになりたかった少女の話が、エセウェスタンを舞台にはちゃめちゃなコントかましながら自分のなかのヒーローを見つけ出す話のバランス感とか、六話七話の、みんなといることに慣れてしまったら僕は独りでいることを怖れるようになるんじゃないか、という不安のモノローグから出発する仲間と自分の繊細な悩みとか、良い感じ。で、この思春期のちょっとした、でも本人にとっては大きな悩み、みたいな日常性から、終盤の優そして明日架の問題になってくるとかなりシリアスになる。とりわけ12話最終回、いなくなった双子の弟今日平にかんする明日架の問題は、明日架自身が弟がいなくなった時、悲しさよりも自分のせいだと思われないように泣いていた、という小学生らしい生々しい自己中心的な理由なんだけど、その、弟の消失を悲しめなかった、自分自身を許せないという思いから、どこまでも自分は今日平の代わりに生きなければならない、という枷になり、弟の夢を叶えようとしていたということが、別の自分との対話のなかで解きほぐされていく。一話の四時四十四分の儀式、から最終話Cパートで目覚めたときの時計は同じ数字を指している。夕方と早朝で十二時間先に進んだ。儀式の、すべての始まりだった黄昏迫る茜差す夕方の時間を、明日架の新しい目覚めとこれからの未来を指し示す朝焼けへと転換させ、変身アイテムを最後の最後の場面で手に入れる、というカットが素晴らしい。明日が今日になる、夜明けのその瞬間。子供から大人へのその間、を黄昏と朝焼けのあかねさす時間という中間領域として捉え、また金沢の街を山と海に挾まれた場所として取りあげ、浜辺を自由と未来のこれからの船出に擬する舞台設定も見事。ワンクールを通じて、変身アイテムを手に入れるまでの過程を描き、主人公自身は一度も変身しなかった、というところが鮮やかだった。また、あらゆる可能性の象徴としてのフラグメントと、そのどこにもいない可能性の絶無としての今日平とで、可能性に満ちた生きることと死ぬこととのあまりに残酷な対比がされていて、今日平がラスボスでもなんでもないところに真の誠実さがあった。生きている者にとって、その喪失に囚われるのではなく、罰から逃れて自由になるなかで、その喪失を真に受けとめられるようになるまで。「今日ちゃんのことを思う人がいなくなっちゃう」「忘れるわけじゃないよ、時々思い出して、思い切り泣くの」。放課後のプレアデスのリリカルさやSF性があったところにトンチキさをぶちこんでくるような作品で、桑島法子の使い方も似ているんだけれど、放課後のプレアデスは出会う話だとすると、あかねさす少女は別れる話。桑島法子と出会う話と桑島法子と別れる話。伊藤賢治桂正和、EDの壊れかけのRadioの徳永英明とかちょっと四〇前後くらいの人が琴線に触れるようなスタッフを集めながらかなりまっとうなジュブナイルなテーマを描いてたの、微妙にこのテーマを伝えたい人には届かなさそうな座組な感じがしないでもない。こういうテーマってむしろいい年の大人がやりたがるんだろうなと。なんにしろ、秋クールベストのアニメとして私はこれを挙げる。

●となりの吸血鬼さん
コミックキューン連載の四コマ系原作を、スタジオ五組がアニメ化した作品。現代に生きる吸血鬼ソフィー・トワイライトと出会った人形狂いの天野灯が、ソフィーの家におしかけ居候して、その現代的オタクの吸血鬼の人間とはまた違った生活や考え方をコメディとして描いている。吸血鬼百合漫画はかなりたくさんあると思うんだけど、今作の特徴的なところは血を吸うこと、吸血鬼になるかならないか、という問題を中心にしていないことだと思う。人間と吸血鬼という別の種族で、夜起きて朝寝る吸血鬼と人間の生活サイクルのズレや考え方のズレを、相互に知って理解しながら一緒に暮らしていく日常をどこまでも日常的にその日常の尊さを淡々と描いている。天野灯の人形狂いとソフィーに対する変態的な欲情ぶりに対して、ソフィーは落ち着きがあって大人なんだけどいろんなところで人間の現実については結構抜けててっていう温度感。富田美憂のハスキーな声が非常に良く、絵も安定しており、原作で知っているのにアニメで改めて演出されると意外なほど良くて、なんともいえず素晴らしい。原作に忠実ながらその再構成がうまくて、時期の違う話数を組み合わせて流れを作るのが特に良かったのが七話、灯が軽率にソフィーを炎天下に連れ出す原作初期の鬼かよっていうエピソードと、外でうっかり寝てしまい木陰に避難していたソフィーを迎えに来る短いエピソードを組み合わせて、一人では危ないことも二人でなら大丈夫という形に落とし込んだのが原作を改変せずに再構成する手腕で感心する。朝顔と花火と花柄の浴衣と押し花のしおりと最後にひまわり、と花モチーフの連繋があり、花がそもそも太陽という光と密接な関係を持ちつつ、主要人物名がいずれも光と縁ある名前なのとあいまってよりいっそう印象的なモチーフともなっている。このCパートでは、「私とって来る」「いやいい、ここにいてくれ」が原作15話にないセリフで、かつ作品全体にも掛かってくる。そして花火を見たように二人で夕暮れを見る。このラストカットの風景、四コマゆえに風景描写がしづらい原作を補完して非常にエモーショナルになっている。最終回12話も、友達だから血を吸いたくない・食事として見たくないという、これ最終回に持ってくるんじゃないかというエピソードをきっちり持ってきて二人の関係をまとめなおしたあと、夜の散歩でこれまでの登場人物達を再登場させて築き上げた人間関係の広さを再確認しつつ、最後の最後に出会いの場面を自分たちで演じ直して、これからも一緒に歩いて行こうと伝える、素晴らしい締めだった。この話数でも飛ぶソフィーに引っ張られるのを描いており、また一話の場面と対比して一緒に地面を二人でゆっくり歩くことを強く印象づける。この場面にかかるEDの歌詞。OPとEDがともにすごく良かった。アニメでは親しみやすい感触が強いけど、原作のカラーイラストとかではソフィーのアンリアルな存在感が強くて、お人形さんみたい、と言われる理由がわかる、感じ。人をお人形さんみたいと形容するのはあるけど、実際に血が通っていない肌が冷たい人外をその理由で溺愛する人形愛好者が主人公の作品、改めて考えると結構なエッジ感がある。人形愛者にとって現世ではあり得ない意思のある人形と出会うという奇跡の話。

ゾンビランドサガ
MAPPA、エイベックス、サイゲームスの企画によるオリジナルアニメ。一度死んだものがゾンビとして蘇り、佐賀を救うためのアイドルとして活動していく、というトンチキにすぎるアイデアMAPPA制作としてはアイドル事変以来の変化球アイドルものだな。一話、これゾン思い出す開幕トラックが主人公をはね飛ばし鮮やかにオープニング繋ぎで笑って、吉野裕行出て来たのもだいぶ面白かったけどそっから宮野真守がテンションで無理押ししてくるのでかなり笑ってしまった。ゾンビ、アイドル、佐賀の無理目な三題噺が何かの間違いで成立してしまったギャグアニメって感じのスタート。しかし、ゾンビアイドルって、人生がすでに終わって生きるためのなにもかもが必要なく、アイドルへの夢以外何もない、まさにアイドルについてのゾンビ。二話のラップ展開が木村昴も引き込んでの盛り上がりを見せてたのも良かったけど、三話で死者の喪失感と不死者の解放感を入り交じらせながら観光地を歩くっていうの、逆少女終末旅行って感じがあった。世界が死ぬか自分らが死ぬか。で、特に良いと思ったのが、五話、最初から最後までギャグに振り切っててゾンビネタも生かしつつギミックもあわせてかなり良かった。ドライブイン鳥社長本人から佐賀県広報広聴課の人まで動員してローカルに徹するのがいい。巽の前話の反復の顎クイからの今話内での土ネタ反復の小技も。六話七話、昭和アイドルと平成アイドルを死者という同一平面におくことで、時代性の異なる二人のトップアイドルのアイドル観の違いを照射したこの話が、落雷という致命傷を負ってもゾンビだから大丈夫の精神で最大のトラウマを乗り越えていくクライマックスとともに、帯電してるから手からビーム出すって言うギャグ方面にも振っているのがよかった。そして時代錯誤もキャラとして包摂しうるというのがグループアイドルの現代性として決着させる。で、八話、泣かせの話と強烈なギャグを織り交ぜつつ、大人にならないゾンビアイドルの意味性を掘り下げる。第二次性徴でかわいいままではいられなくなるショックから死んだリリィが、ゾンビになることで時間を止めて永遠の女装少年としての見た目を手に入れられる、という可能性と、それとともに唯一の家族とも永遠に別れなければならないという隔絶を描いて、もっとも感動的な話数になっていた。ラストの歌詞、いつか夢でまた会えたらって、アイドルは夢を与え夢のなかにいてステージの映し出す夢のなかでなら会える、というアイドル性。大人にならない、変わらないということはゾンビと同じで、死者はその不変性によって偶像化が加速していく存在ならば、ゾンビこそ完全なアイドルになりうる。最終回まで見るとむろん非常に良いんだけど、それだけに終盤でもっと期待を超えていって欲しかったという物足りなさがある。災害逆境ライブ二度やる既視感はこれまでの再演って面もあるとはいえ、全体に既に語ったことの再確認っていう感じがしてしまった。既視感というよりさくらが引っ張ってきたフランシュシュの蓄積を経験してきたメンバーがさくらを引っ張り上げるっていう返答だから不可欠でもあって、よくまとまっていると思うんだけどさ。いや、ゾンビだろ、うまくまとめてどうするって思っちゃう。キャラと設定のポテンシャルはもっと高いって感じがする。リリィ回はゾンビでしか描けない話なのもだけど、死んでこそ夢を叶えられる存在として本作に不可欠なものを提示していたと思う。死んでも死なない不屈の前進を運命づけられたアイドルっていうのはなかなか面白いし楽曲もまたそうした熱を持っている。そしてこの不屈の前進という希望の話が、佐賀という特定の土地に基づいて描かれるのに意味があって、ゾンビランドという言葉には地方の窮状が掛かっていると思うんだけど、この作品の話題が佐賀の広報にもなるというところに作品の内外のリンクもある。

●SSSS.GRIDMAN
特撮として90年代に放送されていた電光超人グリッドマン、これ私も見てたやつで、内容はかなり忘れていたけれど、それが二十年を経てオリジナル?アニメ作品として作られた。ネット社会の到来間近のころの原作は、コンピューターウィルスとかネットワークでの電脳世界のあれこれのトラブルを、グリッドマンが電脳世界のなかで戦い解決する、というもので、主人公たちがパソコンを使ってグリッドマンに強化パーツを送ったりしていた特撮作品だったけれど、今作では怪獣が現実に現われ、グリッドマンもそこで戦い、現実の街が破壊されることになる。しかし、一日経つと街は修復され、そのなかで死んだ人は最初からいなかったことになって、日常が戻ってくるという奇妙な現象が起きている。街には巨大な怪獣がそびえ立っており、なぜか人はそれを気にしていない。特撮を原作とするアニメらしく、エヴァンゲリオン的な特撮的構図のアニメーションになっていて、あえてはりぼて感を出したり、着ぐるみ感やロボットの玩具についてるパーツを再現したりと、さらにまたエヴァ勇者シリーズやら特撮やらの細かなパロディの詰め込みがなされていて、先行作品のパスティーシュの様相を呈してもいる。この、オタクが好きなものを好きなように詰め込んだ絵作りはそのまま作品のテーマ性とも関連しており、なかほどで敵役とも言える新条アカネがこの世界を丸ごとつくった神だということが明かされるけれども、しかし、自分の好きなように作ったはずの世界がまるで自分の思い通りにならない、ということがじわじわアカネを追い詰めていくことになる。自分で作った虚構世界で、主人公裕太が現実のアカネに似ている六花を好きになってグリッドマンになり、アカネ自身に似た六花がアカネに強く寄り添い、アカネは自分で作り出した失敗作アンチ君に助けられる、という展開を経てアカネが目覚める、というのはどこかエヴァの劇場版を思い出させるけれどもここではむしろ虚構が生に必須のものとして捉え返されている点がかなり異なるように思う。自分にきわめて都合の良いように作ったはずの創作が、自律性を獲得しながら作者の思いもしなかったようなところへ連れて行く、というのはままあることで。書くということもまたつねに自分の想定していなかったことが生まれ出てくるプロセスでもある。そしてまた、特撮をアニメ化した作品が実写になるということは、特撮にこのアニメを送り返すことでもあり、ここでの実写には現実と虚構の両義性が働いていることは見逃せない。単純に現実に帰還した、というわけではない。先行作品の数多のパスティーシュによって本作が作られていることと、この虚構論は連繋しているわけで、フィクションを読むこと、そしてそこからまた物語ること作ること・創作が生を回復させる、その往還がここにある。親子関係がキーになっていたエヴァと女性同士の百合的な関係がキーになる今作での時代の変化を感じないでもない。目覚めたアカネ、あのパスケースがなぜあるのか覚えてないくらいの塩梅が良いかもしれない。

●うちのメイドがウザすぎる!
ロシア系小学生女子を気に入った自衛官上がりのロリコン女性が、超有能なメイドとして家にやってきた、っていうおねロリドタバタ百合漫画原作アニメ。kindle二巻が成人指定されてることで私のなかで有名。基本的にアビューズみのあるおねロリギャグではあるんだけど、ファッションやロシア系少女が自分の見た目の他人との違いに敏感だったりするくだりなどへの繊細な対処が光る。動画工房は今期アニマエールもあるけれど、こちらはハイコストなキャラデザと、それをがりがり動かしまくる作画回があったり、作画アニメっぽさが見所。六話は作画も内容も変態性を極めていてすげえ回だった。画角や動きにこだわった作画すごいし話のひどさも今まででいちばんかも知れなかった。ロシア系少女と日本人男性の親子、という関係は再婚の連れ子だったことがわかり、この親子の微妙な関係もありつつ、母を亡くしたミーシャと、父を亡くした鴨居つばめのテーマが描かれる最終回は、母のことを思い出さなくなってきた自分自身への許せなさ、という掘り下げ方をしていて、不在の人の部屋を片付ける、というあかねさす少女との共鳴を見せてきて驚いてしまった。ロリコンとドMの変態二人が迫りくるドタバタギャグアニメなんだけど、死別した親を持つ子供の複雑な親子関係をベースに据えて思いの外しっかりしている。ただ、五話、ゆいの「きっしょ、ブロックブロック」のくだり原作でとりわけ好きなところなんだけど、それはゆいが一切怯えも見せずにローアングルおじさんを切って捨ててる強かさだったので、アニメの追加描写は好きじゃないな。こいつそんなヤワじゃないでしょって。EDアニメーションがとてもよい。余談だけど、宇宙よりも遠い場所刀使ノ巫女、あかねさす少女、これ、それぞれ(死)別から年単位で時間を経た後に、改めてその喪失を受けとめるまでの物語を語るアニメがとりあえず今年はこう四つ浮かぶ。

●アニマエール!
きらら系四コマ漫画原作のアニメ。動画工房二つ目。チアリーディングを目にした、人助けが好きな主人公こはねがチアに目覚め、まわりを巻きこんでチア部をつくり、いろんな依頼に応えて応援に繰り出すチア題材のアニメ。ウザメイドに比べこちらはそこまで絵を動かさずしかし終始安定した画面づくりが維持されていて、チアでのアクションもグリグリ動かすと言うよりは要所を押さえてそれでいて躍動感がある動きだったように思う。元いたチア部でトラブルがあって消沈していたひづめを応援するこはねからはじまり、こはねが性的に好きすぎる宇希やひづめを同じく好きすぎる花和など、百合要素もギャグにしつつ、部員が揃ってくる中盤以降は特に安定した面白さがあった。チアという題材故にほかのいろんな人とも関係がつながっていく面白さがあり、女性同士の恋愛をフラットに後押しした回は百合アニメにはっきり恋愛と規定された女性同士が入って来てなかなか。特に八話は、部員同士だった花和の存在を覚えていなかったことそれ自体がひづめの過去を反省し、今の一見低レベルの部活のやりかたを肯定して、それが花和の問いの答にもなりひづめだけを見ていたことの反省にもなる噛み合い方がとても綺麗だった。自分のことしか見えてなかった自分の過去を省みて、今のレベルは低くてもメンバーときちんと意思疎通をしたチア、へと繋がり、応援することと支えることを重ね、最終回の自分を励ましたこはねへのエールへと収束していく綺麗な展開。

●CONCEPTION
今年一番の頭がおかしいアニメだったと思う。原作ゲームは「CONCEPTION 俺の子供を産んでくれ!」というもので、世界を救うために女性キャラを攻略すると星の子、というものを生んでもらい、その子供たちを組織して戦う、というゲームらしくて、このアニメでも突如召喚された異世界から日本に帰るには、なんか敵的なやつを倒してもらわないと、という話で十数人いる女性キャラを各回で攻略してベッドイン(半裸で抱き合う以上の何かをしているのか不明)に持ち込むんだけど、始終下ネタをかましまくるマスコットキャラや、その攻略の仕方も叙情的なものから意味がまるで分からないものまで幅広く、バチェラージャパンという婚活リアリティショーをパロディにしたらしい回ではそれを示唆するためかとにかくバッテラというワードを出しまくるとか、昭和趣味のヒロインが出てきて、セーラー服と機関銃の主題歌を突然EDで流したり九〇年代(平成だ)の懐かしドラマのパロが出てきたり、視聴者層をまるで意に介さないパロディセンスが尖りすぎている。六話とか、ヒロインを監禁してストックホルム症候群で攻略だ、っつうヤバすぎる回なんだけど、監禁されてるはずのヒロインと主人公の前を平気で横切る他のキャラがいて、全部を茶番にしてしまう演出に笑ってしまう。特にいかれていたのが七話で、下ネタ連発のひどさが霞むボケっぱなしの展開が洪水のごとく押し寄せてくるし、ちくわソーセージパンだけならひどい下ネタだけど、ちくわとソーセージの着ぐるみで抱き合うまで行くともはや比喩の位相がわけわからない狂気としか。かまこたちの昼(というかまいたちの夜ネタがあった)パートで配達特訓を積んだから二人で配達すれば早いぞ、という展開をすんなりと理解させるのうまいことやってんじゃねえって思うけどそもそもかまこたちの昼パートが無理くり挿入されてるから何もうまくはないの脚本の暴力がすごい。この回、一人でツッコミしつづけてるリリスがいたけど、あれはもしかして今話のボケに対するツッコミって意味だったりするのか? ボケとツッコミを完全に分離して配置してたのか? しかも一人ツッコミがそもそもボケだからボケのフリしてツッコミを入れてる。もしかして男も攻略するのか、と思わせて違ったり、でもメスのタヌキは攻略したり、最後には13重婚をかましてくる見事なハーレム作品ではあった。男もけものも重婚してしまえば良かったんじゃないかと思うけど、これは原作の攻略可能キャラとの兼ね合いだろうか。EDアニメーションが最高に面白かった。沼倉愛美の格好いい曲にすごい映像がつけられている。

●抱かれたい男1位に脅され​ています。
BL漫画原作。意外な面白さに驚かされたBLアニメ。俳優として人気の主人公が新進気鋭の男に抱かれたい男ランキングで抜かれてライバル視してたら、そいつがじつは主人公を狙っていて、という話で、ドラマ撮影の模様とリアルな人間関係を絡めて描写するあたりとかとりわけ面白かった。男に教われまくる主人公の受けっぽさ。天使呼ばわりされてる准太がとにかく性欲の塊でガンガン主人公を攻めていくことで話を回していく。

●メルクストーリア -無気力少年と瓶の中の少女-
スマホゲーム原作。同じゲーム会社のラストピリオドで警戒していた心を溶かす良質のファンタジーアニメというか。水瀬いのり瓶詰妖精メルクや小動物トトの魅力と、各エピソードのいい話感がとても良い。特に六、七話の夢の話。求めるものがまだ分からない母を亡くした少女と妻を失った父親、そして求めるものを探しているカボチャ、夢の世界で夢を探して夢を見るメルヘンチック世界が非常に良い。まぼろし、目標、架空の世界の三つの「夢」とはつまり「絵本」のことで、母を亡くした親子の話を本と夢をモチーフにして語る、泣かせる話だ。「あなたのお話はわたしの夢だった」、「君がいないと夢を見る方法も忘れてしまった」、「だったら一緒に夢を見るの」でその子自身が二人の夢だと帰結する運び。歌姫のエピソードの日笠陽子三役はなかなかすごかった。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない
ラノベ原作。思春期症候群という、発症するとSF的な怪奇現象に見舞われるという設定で、原作では巻ごとにヒロインの思春期的な問題を解決していくことになる、化物語っぽい構成でちょいSF風味の物語。しかし、主人公がこんな女子相手にもセクハラめいていてその実核心をつくこと言えちゃうんだぜ感あふれる気持ち悪さがなければ、作品自体にもっと好感が持てるんだけどなって思う作品でもあって、なんというか作品にどうも好きになれない部分が結構ある。いや、絵も良いし、各エピソードもなかなか面白かったりするし、ツンデレ義理姉妹百合かよっていう麻衣とのどかの話とか良いと思うし、妹回のも泣ける話ではあるんだけど。妹回で思い出すkey作品っぽさ、これがちょっとな、と思うところもある。テレビ版では終わらずに話は劇場版に持ち越される。

●俺が好きなのは妹だけど妹じゃない
妹ものラノベ作家ラノベ原作、ということでは俺妹、エロマンガ先生、妹さえいればいい、の流れ?にあるアニメだけど、妹の涼花は兄の祐が好きすぎてラノベを書いて賞を取るし、兄は兄でラノベ作家志望なのに、妹が自分が書いたことを公表したくないためにそのペンネーム永遠野誓の替え玉を演じて種々のトラブルに巻きこまれるさんざんな役目を負って立つラブコメ?作品で、何の言い訳もエクスキューズもない妹萌えを全力投球する作風覚悟が決まりすぎている。祐の同級生女子が人気ラノベ作家で涼花の書いたラノベに惚れ込んでその永遠野を演じる祐を延々ストーキングしてくるし、編集もアレだし新人女性声優はその作品の主役は私が絶対に演じますとか言い出してくるし、ハーレムもの、主人公の人権がもっとも毀損され、そのなかで人徳が無限に上昇する構造を生きる彼に涙を禁じ得ない。設定まわりのある種のジャンクさは随一って感じでさらに作画の不安定さもあるけど、それら全部ひっくるめてこれが深夜アニメだって魂を感じて決して嫌いになれない質感を持っていた。それでいて、演技と虚構と現実との境界線を絡めてわりと侮れない展開を見せることも多く、終盤涼花の妄想する理想の兄を演じるという外面性のみならず自分の書きたいものを書くことで内発的にも祐が他人から永遠野誓として評価される点、ここに限りなく理想とフィクションと現実が重なりつつあるのはなかなか面白かった。個人的に、アニメはやっぱりどこかくだらなくてばかばかしてく、でも、という感触があると嬉しいというところがあるので、あかねさす少女や音楽少女への好感度がことのほか高いのは、そういうわけでもある。今作も。

アニソン10選?

印象的な10作の楽曲ということで、10曲ではなく10作から。

宇宙よりも遠い場所ED 「ここから、ここから」
ヤマノススメサードシーズンED 「色違いの翼」
伊藤潤二コレクションED 「互いの宇宙」
ラストピリオドED 「ワイズマンのテーマ」
メルヘン・メドヘンED 「sleepland」
SAOガンゲイルオンラインED 「to see the future」
音楽少女OP・ED 「永遠少年」「シャイニング・ピース」
ゾンビランドサガOP 「徒花ネクロマンシー」
となりの吸血鬼さんOP・ED「†吸tie Ladies†」「HAPPY!! ストレンジフレンズ」
悪偶ED「ツギハギ」

あと叛逆性ミリオンアーサーのED、グリッドマンED、ISLANDのED、あそびあそばせのOP、レヴュースタァライトのOP、カリギュラのOP、ポプテピピックのOPもわりと良かったかな。メルヘンメドヘンのEDはCDの三曲どれも良かったから上田麗奈のアルバムを聴くべきなのかも知れない。

話数単位での10選

宇宙よりも遠い場所三話
今作は5.6.11.12話もいいけど、四人が揃ったこの回の幸福さを挙げておきたい。夢のような現実。

伊藤潤二『コレクション』六話
「緩やかな別れ」、死後の残像が残り続ける、死の受容の話。

スロウスタート七話
清瀬、栄依子の場面の演出もだけど、この秘密を花名とだけ共有するという秘密のテーマ。

こみっくがーるず四話
ファンと向き合う、その前の鏡に映した自分の逡巡を長回しで映した場面は今年のアニメの名場面の一つだろう。八話とも迷ったけど。ファン=鏡を見ることで自分が見える。

刀使ノ巫女22話
皐月夜見。

TO BE HEROINE最終話
アクション作画と話の悲しさ。

音楽少女六話
トンチキさと真面目さの交錯するおじさんとアイドルのダンスの絵に本作の魅力がある。

ゾンビランドサガ五話
八話と迷うけど、土着ネタ、ギャグ回として素晴らしい。

ヤマノススメ サードシーズン10話
陰影のある回を描く演出が鮮やか。

CONCEPTION七話
気が狂っている。

以上です。今年もお疲れ様でした。

2018年に読んでいた本

今年は結構読めたので、ベストの10冊を選ぶのはなかなか難しかった。それぞれの本を扱った記事にリンクしてあるので詳しくはそっちで。

笙野頼子『ウラミズモ奴隷選挙』河出書房新社

ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

『水晶内制度』、おんたこシリーズなど他作品ともリンクするSF的近未来小説ながら、この誇張されたディストピアのはずの描写が、現実と拮抗を見せている状況そのものに慄然とさせられる。
笙野頼子 - ウラミズモ奴隷選挙 - Close To The Wall

倉数茂『名もなき王国』ポプラ社

名もなき王国

名もなき王国

架空の幻想小説家という導入から、物語を書くことに憑かれることのテーマを多彩な中短篇を連繋させながら組み上げる大作。
『名もなき王国』「エヌ氏」『原色の想像力2』『妖精の墓標』『デュラスのいた風景』『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』 - Close To The Wall

飛浩隆『零號琴』早川書房

零號琴

零號琴

物語としての生を、先行する多数の物語のパスティーシュとして取り込みながら音楽SFの形式に埋め込んだ、物語の物語を描く大作。
飛浩隆『零號琴』――物語としての生を描く物語としての - Close To The Wall

伊藤計劃円城塔屍者の帝国河出文庫

伊藤計劃の遺稿を円城塔が引き継いで完成させた、これもまたさまざまな先行フィクションを縦横に取り込んだパスティーシュによって、書くこと語ることを現実の伊藤・円城との関係をも取り込みながら書かれたSF大作。
最近読んだ最近の日本SF - Close To The Wall

津島佑子『ジャッカ・ドフニ』集英社文庫

北海道にかつてあったウィルタ民族の私設博物館の名前をタイトルに持つ、津島佑子最後の完結長篇。亡くなる直前の息子と博物館を訪れた記憶を導入に、話は近世日本のアイヌの血を引く少女がマカオやさらにその南への移動をたどり、迫害されるキリシタン少数民族の運命を現代の震災以後の状況をもダブらせながら描く大作。
津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』 - Close To The Wall

石川博品『あたらしくうつくしいことば』同人誌

石川作品としては今年、商業では青春能力バトルものの『海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと』と同人では異世界ものと暴走族ものの組み合わせの『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落" ~Godspeed You! RAGNAROK the Midknights~』があったけれども、読んだということでは昨年末に紙版が刊行された本書を。手話を通じて言葉とは何かを問い返す百合小説の表題作が傑作で、併載の異世界転移した禅僧が軽妙な冒険をする中篇も良い。
石川博品『あたらしくうつくしいことば』 - Close To The Wall

ケイト・ウィルヘルム『クルーイストン実験』サンリオSF文庫

クルーイストン実験 (1980年) (サンリオSF文庫)

クルーイストン実験 (1980年) (サンリオSF文庫)

トーキングヘッズ叢書の特集のためにあらかた読んだウィルヘルム作品でも特に良かったのがこれ。詳細は75号に書いたのでそちらを参照して欲しいけど、女性ゆえに社会のなかで声を奪われていく状況を描く緊迫感ある長篇。四十年も前のSFながらまるで古びてはいない。
トーキングヘッズ叢書ケイト・ウィルヘルム追悼特集に『クルーイストン実験』のレビュー - Close To The Wall

ケン・リュウ『紙の動物園』&『もののあはれ』ハヤカワ文庫SF

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

もののあはれ (ケン・リュウ短篇傑作集2)

もののあはれ (ケン・リュウ短篇傑作集2)

今更ってところだけれども著者の日本オリジナル短篇集の文庫分冊版、もとは一冊だったのでまあ上下巻扱いで。中国系移民を描く表題作その他、植民地、移民、少数民族といったコロニアルなテーマを扱った作品が多く、その面白さとともに中国系アメリカ人の著者の視点が興味深い。
四月に読んだある程度最近の海外SF - Close To The Wall

J・G・バラードJ・G・バラード短編全集』1.2巻 東京創元社

新訳を多数含む短篇全集、リアルタイムで買っていたのをようやく少しずつ読み始めた。年内に読んだのは二巻まで。時間、廃墟、鉱物、砂、宇宙、精神、等々のバラードランドは私のSF体験の出発点でもあるので。
四月に読んだある程度最近の海外SF - Close To The Wall
読んだ本・「文学+」 トゥルニエ 飛浩隆 山尾悠子 正宗白鳥 J・G・バラード - Close To The Wall

イヴォ・アンドリッチ『宰相の象の物語』松籟社

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

東欧の想像力シリーズ久しぶりの新刊。旧ユーゴスラヴィアノーベル文学賞作家アンドリッチの中短篇集。権力に抵抗する民衆の物語を描く表題作と、悪魔とみなされたカリスマ娼婦の時代を描く中篇の二つがことに印象的。
イヴォ・アンドリッチ『宰相の象の物語』 - Close To The Wall

以上10冊。

以下はその他にもう10冊。
岡和田晃『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』寿郎社

これの私家版の原本は私の主宰する同人サークル幻視社から出しているので間接的な関係者でもあり別立てで。現在の政治状況をつねに視界に収めつつ文学の言葉を探っていく批評で、広いカバー範囲とその密度の高さにはいつも驚かされる。
『名もなき王国』「エヌ氏」『原色の想像力2』『妖精の墓標』『デュラスのいた風景』『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』 - Close To The Wall

そしてそのほか九冊。
山尾悠子『増補 夢の遠近法』ちくま文庫
松本寛大『妖精の墓標』講談社
仁木稔『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』早川書房
宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』講談社
ハーラン・エリスン『死の鳥』ハヤカワ文庫SF
アンナ・カヴァン『氷』ちくま文庫
アンディ・ウィアー『火星の人』ハヤカワ文庫SF
トーマス・ベルンハルト『原因』松籟社
ゴンチャロフオブローモフ岩波文庫

飛浩隆『零號琴』――物語としての生を描く物語としての

零號琴

零號琴

雑誌連載が2010年にスタートして連載完結後もいっこうに出る気配のなかった長篇が、七年近い改稿期間を経てついに今年刊行された。名のみ聞いていて、どういう作品なのかはいっさい知らなかったんだけれども、いやー、凄かった。

作者自身、科学の発展や現代の諸問題について目を向けておらず、「新しい」もののない、古い娯楽読み物的なSFだ、と言ってる通りの小説ではあるかも知れない。しかしそのジャンル小説、フォーミュラ(テンプレっていえばわかりやすいか)フィクション性を圧倒的なパロディ、メタ性の繰り込みとしてどこまでも濃密に凝縮し、生半可には読み切れない密度でギチギチに組み上げられている。

話としては、トロムボノクという特殊楽器演奏の技能を持つ男と、第四類改変体という狼男のようなフォルムを持つ二人が、ある星から掘り出された特殊な鐘を演奏せよという依頼を受ける、というもの。その惑星「美縟」にはさまざまな変わった文化があり、人々が假面と呼ばれる特殊な仮面をつけていたり、梦卑という何にでも形を変えて再生できる可塑性の塊のような奇妙な土着生物がいたり、假面をつけた人々が神話を再演する假劇という住民が参加するオペラのようなものが定期的に開催されていたりする。

この美縟開府500年の記念をまえに、地中がまるで誂えたように鐘をいくつも生みだし、その何万もの鐘が街中に配備され、その全体が美玉鐘という楽器になるという。美縟の歴史には、この美玉鐘によって国を啓いた秘曲零號琴を鳴らせ、と伝えられているという。そしてこの都市規模のオペラ?を演じるなかで、歴史の秘密が露わになる、巨大音楽SFエンターテイメントだ。

以下特にネタバレとかは気にせずに書く。

『零號琴』はすでに言われているように物語論、それも二次創作を作品の核に据えてそれを語っている小説という側面がある。いくつか取り出してみれば、それはある物語のなかで生み出された悪や犠牲とそれを別の人間が救い出そうとするフィクションを作り出す二次創作論、そして音が鳴り響くあいだだけ存在する一夜の夢のようなものとしての物語と登場人物たちという虚構・芸術論などが渾然一体となっている。

音楽SFをベースにそうしたアニメ特撮その他その他がマッシュアップされたごった煮感と、主人公二人の楽しいキャラ小説なんだけれども、そのキャラ小説性自体が作中でテーマともなるような多重回帰的側面がある。ジャンルへの愛に満ちたジャンル小説でもあって、それゆえにその形式性がメタ的に問題となって帰ってくるというか。本作はありていにいえば魔法少女まどかマギカで世界救済の神として犠牲になったまどかを救出する二次創作を書く、みたいな話が重要なモチーフとなっていて、誰かの犠牲によって維持される世界という構図を批判的に見返すル・グインの「オメラスから歩み去る人々」的モチーフが物語の動因となっているともとれる。

とつぜんどう見てもプリキュアをネタにしたとおぼしき「旋女仙隊 あしたはフリギア!」という作中作が出てきて吹き出した人は多いと思うけれども、魔法少女、特撮、戦隊ものといった日曜朝の子供向けテレビ番組の記憶が重要な意味を持つのは、作中人物にとっても読者にとってもそうだ。そうした物語の記憶を、物語を語ることで返礼する、そのことの意味を織り込んだ小説になっている。新しいものはない、かわりに古いものはいくらでもある。

この歌詞、絶対プリキュアのテーマソングの節だし笑ってしまう。

フリギア フリギア フリギア フリギア
仙術核をかかえる星に
フリギア フリギア フリギアフリギア
まじょの時計がのりうつる
 P392

パッと自分が読んだ感じだとプリキュアのほか、まどかマギカエヴァンゲリオン、ゴレンジャー、あるいは板野サーカスを思わせる叙述とかがあって、しかも作者いわく、泣きべそのフリギアの犠牲を書く時まどかマギカは見ておらず、念頭にあったのはガッチャマンコンドルのジョーだったという。私が知らないようなパロディやネタがぎゅうぎゅうに詰まってるんだろうと思うけど、鏡、が重要なモチーフとなっているように、この作品から読者が何を連想し、何を思い出すのかすら、相当に個人差が出るだろう。

また、物語を如何に転覆させるか、というとき台本作家ワンダ・フェアフーフェンが全員参加の假劇では登場人物から物語を転覆するのは困難だとして別の作品、「轍世界」全体で大人気だったテレビシリーズ、「旋女仙隊 あしたはフリギア!」をマッシュアップしたように、『零號琴』にはSF先行作のほか作品外の読者が既知の物語が投入されるという二重のパロディが進行している。

この作品の内外で進行する多層構造の密度といったら。

そして礎となる存在、轍に取り巻かれた世界、虚構の存在とその外へ、という幾重にも重ねられたモチーフは物語とその外、宇宙とその外への希求として私達自身のテーマとして反照される。物語の外、宇宙の外を希求する思いは、まさにこの宇宙に棲む作者や私達のそれでもあって、私達には泣きべそのフリギアを最終回から引っ張り出したワンダはいない。そこにこそこの小説の根底があるような気がしている。

作品の大ネタ自体はかなり数値海岸を思い出させる虚構内虚構や人間の情報的解体というかそういう飛浩隆的モチーフだけれども、それを物語=フィクションと連繋させ、その外への志向として引き出しているのが興味深い。

この大ネタになっている美縟での、物語によって生を受け、物語により生を更新し、物語によって消えゆく存在としての人間。ここでは彫刻と対比的に語られた音楽という芸術に、小説あるいは生そのものが連繋しているように思われる。ここはもうちょっと読み込まないと対比とギミックとの関係が整理できてないけれど、トロムボノクのそれのように音楽と生は必然的に結びついているのは確かだ。華麗な物語はひとときの演奏のようなもので、終われば全ては消え崩れ去る。しかし、繰り返し再演され、あるいは受け手によって別様に語り直される。それこそがフォーミュラ性かもしれないし、ここでジーン・ウルフの『デス博士の島その他の物語』を連想もした。

惑星「美縟」という物語が『零號琴』という物語に埋め込まれていること。この小説にいくつもの物語が埋め込まれ、ちりばめられ、物語から物語を作り出していること。それが物語としての生を描く物語としての『零號琴』ではないかという印象を受けた。


いやしかし、疲れる。密度が濃すぎるんだ。エンタメ的なのに文章その他が高濃度なのでぐいぐい読む割りにさらっと読めるわけではないうえにこの分量、文庫にしたら800ページくらいの文章量がある。まあでもパロネタの数々、フリギアもそうだし、結構笑える部分も多いので楽しい小説ですよ。私は密林のフリギアが笑った。「中年のおっさんのような容姿」でタバコ吸ってて。これ何かのネタかな。

シェリュバン、狼男という社会から排除された存在だからこそ、世界の楔として日常からおいやられた存在を身にまとうことができる。最初少女の体に豊満な胸と尻の像が出てきた時、ちょっと安易なイメージかと思ってたらシェリュバンが女装するネタが出てきたので、なるほどきちんとトレンドを抑えている、と思った。

一読して咀嚼しきれないのは物語で物語を転覆させる物語でまたそれ以上に物語の外を希求する物語だからでもあって、作中ですら何重もの物語が相互介入して乱反射するような虚構が進行していて、そこに読者側のいくつもの物語の記憶が絡んできてしまうためでもあり、さあわけわかんなくなってきたぞ!ってなるからでもあるかな。

マヤが仮面つながりで「ガラスの仮面」ネタらしいとか、鐵靱はまんま鉄人28号だろうし、菜綵は綾波レイっぽいと思ったし、六つ目の巨人はエヴァの磔にされてるリリスを連想した。あれは七つ目の仮面つけてたけど。私のカバー範囲では二次的な派生形を思い浮かべてしまうっぽいから、元ネタ集が欲しいけど誰かまとめてないのかな。