朝鮮、引揚げ、部屋――日野啓三の初期小説四冊

最近日野啓三を読んでいた。日野といえばSFを取り入れたりした八〇年代頃の都市幻想小説がたぶん代表作になるかと思う。『天窓のあるガレージ』『夢の島』『砂丘が動くように』といった作品で、これは私もむかし読んでいたけど、日野は六〇年代読売新聞の外報部の記者としてベトナム戦争を取材し、その後文芸評論家として著書を出したあと、七〇年代頃小説家として活動を始めていて、この頃の作品はまったく読んだことがなかった。その初期小説の主な題材になっているのが、著者自身の引揚げ体験や記者として訪れた韓国で出会った女性との国際結婚のことだった。

日野は1929年、広島の出身で、五歳のとき朝鮮に渡っている。慶尚南道の密陽という町で小学校に通い、その後京城・現ソウルに引っ越して中学校に通い、敗戦後広島に引揚げている。以前読んでた時は全然意識してなかったこの経歴は、日本文学の朝鮮表象を扱った評論で並べて論じられることの多い後藤明生ら植民地育ちの引揚げ文学を考えるなかで気になっていた。

『還れぬ旅』

還れぬ旅 (1971年)

還れぬ旅 (1971年)

そんな第一短篇集『還れぬ旅』はあまりにも引揚者の小説でなかなか興味深いものだった。表題作は内地の学校への幻想を写真だけから育てている少年が、戦時動員の隙間を縫って不可能と思われた内地渡航を目指す道すがら病に陥り、「現地人」(朝鮮という言葉は出てこない)に助けられる話で、「喪われた道」は学生の下宿で隣室だった女性が実家に帰ったあと、彼女をその故郷に訪ねる道行に、戦後の引揚者の語り手の故郷のなさや宙に浮いた感覚を描く一篇。「めぐらざる夏」は、敗戦直後の朝鮮(とは名指されず、日本も朝鮮もその名は出てこない)で、父を待って家にこもっている青年が、子供の頃のように「防塞」を家中に築いていく話で、次第に迷宮的幻想性を帯びていく部分がなかなか良かった。いずれも実存的でもあり、自分の足場への疑念が共通している作品集だ。

「彼には逃げるべき見渡す限りの土地、かくまってくれる多くの人間がある。(中略)何よりも彼が現地人、つまりこの土地の人間だからだ。」「還れぬ旅」77P
「どんな精巧な警報装置、連絡装置をとりつけたとしても、駆けつけてきてくれる者はいないのだ。」「めぐらざる夏」139P

こうした箇所に植民者の不安が描かれていて、特に「めぐらざる夏」は敗戦直後の一見平穏にみえる植民地での植民者が描かれている。

この頃、安部公房の『内なる辺境』も読んでいた。この異端をテーマにしたエッセイ集の表題作は、国家が作り上げる正統と異端をユダヤ人問題とからめて論じたもので、国家がそのイメージの中心に農民を置き、ユダヤ人を都市的なものによって象徴させ、それを異端と見なすことで正統概念を立ち上げると分析されている。流動的、無名的なものとしての都市。満洲で育った安部公房、五歳で朝鮮に渡った日野啓三、そして朝鮮で生まれ育った後藤明生がいずれも後年都市小説を書いたり、都市論に傾倒する共通性はここにあるのかも知れない。

『此岸の家』

此岸の家 (1974年)

此岸の家 (1974年)

第二短篇集『此岸の家』は、韓国人妻との関係を描く表題作のほか、「ミス李」と呼ばれる妻の家族、あるいは作者その人を思わせる主人公の家族とのそれぞれの関係が共通した題材となる一冊で、前著はそれなりに虚構的な作品だったけれど一気に私小説的になっている。

平林たい子賞の「此岸の家」で、「海峡のどちらの岸にも、「帰る」ところは、もうなかった……」(22P)という主人公は、地上七階の部屋で「地平とじかに向き合って宙に浮いたようなこの家に、私自身も初めて落着きを感じ始めていた」(25P)という。確か日本と韓国という固有名が出てこないのは前著と同じで、そのなかで、アメリカとベトナムの固有名が印象的に現われてくる。妻は執拗にアメリカに行きたかったということを言っていて、しかし夫は特派員としてアメリカが参戦するベトナムに行っている。

「浮かぶ部屋」は、夫の妹の結婚式に出るかどうかが軸になっていて、これは単身日本に渡った妻にとって非常に問題になる。夫の家族は外国人女性ということで妻を冷遇してきた過去があり、妻に私と夫家族とどちらをとるのか、と迫られているからだ。そんななかで、夫がこれまで過ごしてきた家、部屋の遍歴をたどり、妻の為に用意したアパートの部屋が、彼女にとっては朝鮮戦争の難民が過ごしたバラック小屋を指す「箱房(ハコバン)」と呼ばれてしまう粗末なものにしか見えなかったことや、夫の母親が、家族に連れ回されて敗戦後に落ち着いた広島もまた、「朝鮮以上の異郷」だったというさまざまな浮遊の経験が回想される。

「此岸の家」には「この家中を要塞化してでも、この家を守らねばならぬ」(47P)と「めぐらざる夏」を思わせる箇所もあり、アパートの二階、マンションの七階という住居への執拗な関心は、引揚者と韓国人妻の夫妻という根ざす土地のない同士の二人の浮遊ゆえのこだわりだろう。

また、「浮かぶ部屋」には以下のような、語り手のやや独善的な故郷への郷愁にからんだ妻への見方が見返される契機も記されている。

帰国してからこの一年近い間、彼女のことを考えることはそのまま、少年時代の十年間を育った朝鮮の土地――染めあげたような青い空、悠々と流れる水量豊かな河、ポプラ並木の街道をゆっくりと歩む牛車の鈴の音、墨絵のような岩山に囲まれて落着いたソウルの市を思い出すことだったし、彼女を呼び寄せる努力は、引揚げてから身を切るような思いで切り捨てた自分自身の過去を、再び取り戻すことのように思ってきた。だが、いま眼の前にいるのは、私自身の過去や追憶とは、実は何の関係もないひとりの女だということが、改めて身にこたえた……133-134P

『あの夕陽』

あの夕陽 (1975年)

あの夕陽 (1975年)

芥川賞を受賞した「あの夕陽」。これは時系列的に「此岸の家」よりも過去で、「ミス李」と結婚する前に離婚した日本人の妻との生活が描かれている。しかし、出来はともかく、自分の言うことに何一つ言い返したことがない妻との生活のなかで、記者として赴いた韓国の女性との関係を感づかれて家出されるっていう不倫男の苦悩みたいな作品、ちょっと良い印象は持てない。物言わぬ妻の不穏な空気の描写は面白いけど。富裕な家庭の出でプライドも高い韓国人妻とバチバチやりあう「此岸の家」「浮かぶ部屋」のほうが衝突はあるけどその分風通しがいいところがある。あと、酒の飲み過ぎで血を吐いた場面が出てくるけれど、後藤明生だとその吐血体験が「S温泉からの報告」になるんだから面白い。しかしまあ「あの夕陽」が芥川賞獲るんなら後藤明生は獲れないだろう。ここまで現妻「ミス李」の固有の名前は出てこないけど、日本人妻の「令子」という名前は出てくる。

朝鮮引揚者の夫の実家家族が描かれる『此岸の家』の「遺しえぬ言」の系列の作品として、『あの夕陽』には「野の果て」や「遠い陸橋」という短篇があり、実母が俳句を作ったり新聞に載ったり同好の士との関係などを通じて神経症を脱している様子が描かれている。自分のみならず、両親もまた引揚者としての苦難を経てきたことへの関心としてこれらも重要だろう。

以前に読んだ時は、バラードの影響著しい作品がバラードより後退しているような印象だったり、ちょっとニューエイジ的で安易な超越性の導入に今ひとつな印象があったけど、初期作品を読んでみると作風の変遷にいくらか興味が湧いてきもする。昔書いた記事では、思っていたよりずっと強く批判的だ。
『断崖の年』など、後年手術体験を小説の題材にしていたのは覚えてるけど、それがガン手術で90年だったというのは、後藤明生の食道癌手術と時期も近いのに奇妙な符合を感じた。まあ、日野が三歳年上のほぼ同年代だからライフイベントも重なるわけだけれど。引揚げ、高層マンション、実家が西日本、新聞・週刊誌記者経験など、共通点も多いけどそれゆえに小説のスタイルの差異も際立つ。

『風の地平』

風の地平 (1976年)

風の地平 (1976年)

そして、講談社文芸文庫砂丘が動くように』の年譜で著者が「「此岸の家」以来の、自己拘束的な写実的・私小説的な連作」の最後だと呼ぶ作品集『風の地平』。本書ではじめて妻が「ミス李」などではなく固有の日本人名と本名で呼ばれ、末尾に置かれた表題作ではその京子・京姫(キョンヒ)の一人称で語られるなど、自分だけではない他人の視点を積極的に取り入れるようになっている。

「ヤモリの部屋」は、ベトナムで外報部の記者として滞在する部屋に妻京子を呼ぶ話で、部屋に数多いるヤモリとの関係によって、ベトナムという異郷にいる二人の状況を描いている。ヤモリをいくら退治しても埒があかずに、このヤモリの天下を受け入れるしかないという状況下はもちろん、ベトナム戦争の状況を寓しているわけで、小説の構造が明確なところがなかなか良かった。

本作ではヤモリはベトナム人だけではなく、語り手の記憶を通して朝鮮人にも重ねられている。ヤモリがなぜか静かな夜、語り手は敗戦直後の朝鮮、八月十五日の午後を思い起こす。すぐにでも朝鮮人がいっせいに飛び出して、日本人町を襲ってくるのではないかという信念を抱いていたこと。

小学校のときは京城よりずっと南の田舎町に住んでいたのだが、登校の途中で毎朝、塀もない朝鮮人の農家の前を通りながら、彼らがいつも麦だけの飯を食べているのを、見てきた。京城に来てからも、とくに朝鮮人の多い街をどうしても歩かねばならぬとき、どこからともなく無数の眼が自分を見つめているという感じを全身に痛いほど覚えた。(31P)

日本と朝鮮、そしてアメリカとベトナム、ここに植民地をめぐる構図が重ねられている。以前の作でもアメリカとベトナムの固有名が出てきていたのは、作者のベトナム報道の体験の向こうに朝鮮と日本の植民地の構図が映っていたからだろうか。

この異郷での経験を踏まえつつ、日本でも朝鮮でもない場所で、妻が「わたしたちのいるところがわたしたちの部屋じゃない」(22P)と言うのがよくて、これまでの作品の総決算のような感触のある印象的なところだった。

空中庭園」もまた檻から逃げ出したリスの出産と、韓国から一人渡ってきて夫も多忙で夫の家族も冷淡ななか一人で息子を産んだ京子を重ねる動物寓意譚になっていて、タイトルの含意は表題「風の地平」のように高層マンションといういまの居場所がカギになってもいる。

また、明治神宮に初詣するまでを描いた「霧の参道」では、「韓国に常駐する最初の日本人特派員」として訪れたとき、植民地時代に住んでいた場所に立ち寄って、昔あった護国神社が消えてなくなっていた体験が語られる。

敗戦のとき真先に焼かれたのが神社だったのだ、とやがて気がついた。異民族の神社を押しつけることは、その土地の人たちに対する最大の侮辱だったのだ。敗戦の天皇放送の直後に、市の中心街を見下す山腹にあった朝鮮神宮の焼かれる黒煙がたちのぼるのを確かに見た。この護国神社がいつ焼かれたのか記憶は全くなかったが、それまでに一度だけ自分からすすんで頭を下げた神社がバラック部落に変っているのを眼の前にしながら、五郎は過去の最も深い層がみるみる拭き消されてゆくような気持を覚えた。バラックの並びの前に蹲っている大人や、まわりを走りまわっている子供たちが驚いて振り向く視線を背中に痛いように感じながら、一気に石段を駈け下りた……(100-101P)

この被植民者からの見返される視線、は既にいくつか引用したようにたびたび日野作品に現われている。植民地時代住んでいた家に行ったら現地の人から不審な目で見られるなど、植民地支配国家の一因として朝鮮にいた記憶は、郷愁を誘うそばから現実の見返す視線にぶつかる。

「此岸の家」と対比されるような「彼岸の墓」は、妻京子の母、つまり義母の墓参りのために家族で韓国へ行った話で、「天堂への馬車代」で韓国人たる京子の死生観が描かれたこととも関連して、火葬をいやがる京子のその存在の根っこを、韓国式の墓に跪く儀礼で触れた大地によって示すような一篇だ。義母を日本に呼ぶとチョゴリなどの服装で周囲に韓国人だとあからさまにわかってしまうことから主人公はためらっていたまま、義母は亡くなった。

五郎もこれまで日本で何度か墓参りをしたことがある。だが立ったまま手だけ合わせるのと、これは全く違う気分だ。膝と掌の下に、じかに地面があった。靴の裏だけ接しているときには感じられない大地の厚みとひろがりとが、心にじかに伝わってくる。大地の肌と心の肌が直接に触れ合う感じだった。
 記憶のままの義母が、そこに横たわっているような気がする。京子が火葬を二度死ぬようなものだと言ったとき「死ぬことに変りないさ」と五郎は言い返したのだったが、実際に土葬の墓の前に跪いてみると、大地を通して生と死が結びつくような思いがけない感情を、五郎は覚えるのだった。
(中略)
「東京に呼ばなくてすいませんでした」
 素直にそう謝ることができた。そして日本人としての自分がこの地面に謝らねばならないのは、そのことだけではないのだ、という思いが、胸のなかをひろがった。
(136-137P)

これらの連作のうちで、本書は特に死生観や葬祭という宗教観念が通底している印象があるけれども、この下りについては渡邊一民が、故郷喪失者が故郷を回復した話と論じている。

もとより回復した故郷はむかしのままの故郷ではない。にもかかわらずそのような故郷回復が可能となったのは、「喪われた道」のころには想像もしなかった〈他者〉との共存に、この故郷喪失者が長い時間をかけて成功したからだった。こうして彼を追放した故郷との和解がいま果される。故郷朝鮮からの追放にはじまってそれとの和解にいたるまで、いいかえれば〈他者〉の存在を認めようとしなかった旧植民地という特殊な故郷を〈他者〉としての認識によってふたたび手にするまで、じつに三十年にわたるその長い苦しい道程を描きだすことこそ、日野啓三が作家としての第一歩を踏みだすために、どうしても避けることのできぬ仕事だったと言わなければならない。(『〈他者〉としての朝鮮』、255P)

初期小説についてはなるほどこの渡邊による総括に尽きるような気もするけれど、しかし果たしてこれは「和解」といいうるのか疑問がぬぐえない。妻やその家族らの死や生の感覚とじかに触れあう出会いの一瞬が描かれているけれども、同時に五郎は義母に謝罪し、そこから日本人としての責任を痛感する距離もまた存在する。そしてこれは主人公五郎のモノローグでしかない場面だ。故郷の「回復」と言いうるのかもまた疑問で、そのいずれもが、回復するようでいてしきれない、そういう決定的には叶い得ない断絶の場面ですらあるのではないか。とはいえ、韓国人の妻と結婚してその義母の墓に参ることで、韓国人の存在が妻を通じて感覚のレベルで立ち上がっているわけで、和解への契機とはいえる。

〈他者〉としての朝鮮 ― 文学的考察

〈他者〉としての朝鮮 ― 文学的考察

表題作「風の地平」は夏休み広島の実家に帰った夫と息子がいないあいだの京子の一人称での一篇。執筆順とは異なるけれども、私小説的な作品群の掉尾を妻による一人称で終えるという配列に、作者のここにこめた意味があろう。そうと言わなければ日本人として近所にも通る京子と、そのうちにある韓国人京姫という二重の存在感覚を描きつつ、夫と息子の帰りを待つあいだに韓国時代の旧友やその知り合いに会うけれども、日本人と結婚するなんて国の恥だと難詰する男に絡まれる、京子のダブルアウトサイダーぶりが描かれていて、父子を亡くしたりしたらまったく身寄りなく異郷に放り出されることになる京子の孤独が、高層マンションという場所に刻まれているようでもある。タイトルは窓から見える地平線を示しているようで、しかし、京子は風雨にさらされたその場所から、つねに前を見ようとしている。

と、ざっと初期の四冊を読んだわけだけれど、外地人の内地への幻想や敗戦直後の朝鮮での日本人を描いた小説からはじまり、朝鮮も日本の異郷にほかならない引揚者たる男が家族を作り上げる苦難の過程を経て、男が呼び寄せた異国の妻の孤立感にも視点を寄せ、異郷にある者の感覚を自分のみならず家族や妻までさまざまに視点を膨らませて展開していったように感じる。そのなかで浮き上がるのが、異者の住処としての「部屋」で、根無し草の落ち着く場所はつねに土着のものではない浮遊した「わたしたちの部屋」にほかならない。この「浮かぶ部屋」がこのあとの都市論への関心に転化していくようにも見えるけれども、これはまだほかの日野作品を読んでみないことにはわからない。


日野啓三講談社文芸文庫でもいくらか復刊がされているけれど、島、砂丘、天窓などの都市幻想小説ベトナムもののノンフィクションと短篇集などで、これら初期の作品は芥川賞の「あの夕陽」が表題作にとられた短篇選集に収録されてるくらいでいまはほとんど漏れている。かといって私も初期の文芸評論書やベトナム関連の著作を読んでない。なので日野がどのような書き方をしているかは知らないけれども、ベトナム戦争もまた植民地との関連で捉えられているならば、初期の日野啓三はこの二つの植民地問題のあいだで書いていたことになる。日本文学の引揚げ作家としての日野啓三はもう少し検討されてよいと思うけれど、パッと見た感じそういう表題の日野論はないかなーと。

ciniiで検索すると結構論文が書かれているのがわかるけど、ここで扱った初期作品を論じているものとしては以下がある。
CiNii 論文 -  日野啓三「此岸の家」から「彼岸の墓」への展開--存在基盤喪失者の捉える世界

『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』『砲撃のあとで』『戦後短篇小説再発見7 故郷と異郷の幻影』 『パルチザン伝説』「ベンヤミンのメキシコ学――運命的暴力と翻訳」

上遠野浩平ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』、エヴァとの同時代性をすごく感じるけど同時に、変身ヒーローを捻って捻ったような仕組みで、変身ヒーローたる藤花とブギーポップは分離しているし、自動的なその活動は作品の主人公とは別の位相にある。「正義の味方」をどう扱うかにかなり意識的っぽくて、『笑わない』では世界の敵を自動的に倒すブギーポップのまわりの普通の子供の親切さとか勇気が強調されていたし、『VSイマジネーター』では谷口は正義の味方の偽物を演じていたけど、重要なのは織機を助けたいという一心だった。谷口の自分は強くないし何が正しいのかわからないけど、織機と一緒なら強くなれるということと、織機の谷口のことを思うと勇気が湧いてくる、というこの二人の戦い、をブギーポップは手助けする。ヒーローの、その周囲にある普通の人の小さな戦い。必ずしも正義のヒーロー、ではなく、個人個人にとって大切なもの、筋道を通すことから進んでいく感じで、こう捉えるとジョジョの影響が見えてくる気がする。

砲撃のあとで (集英社文庫)

砲撃のあとで (集英社文庫)

三木卓『砲撃のあとで』。日本敗戦を機に一変した植民地での生活とそこからの引揚げ行を描く連作集。「少年」と呼ばれる小学生の視点から描かれ、地名や人名などの固有名は示されず、攻めてきた外国人が何人なのかも不明瞭で、日本という単語すらでてこないような曖昧さのなかのリアルな人の死。本国が新型爆弾で原子ごと破壊されたらしいという断片的なことしかわからず、兄と女と男の関係もわからない。月経というものがあることも知らなかった少年に、引揚げ行のなかでそれまで知らなくてよかった生々しい現実を間近で目撃することになる。父の死、コレラで数時間で死んだ男。国家が崩壊した場所では、人は一人一人の単位に戻ってしまうこと、植民地の人々には植民者への憎しみがあること、大人たちの言うことには裏があること、そして帰還の船に乗るためには衰弱した「あのばばあ」が死ななければならない、という祖母への酷薄な認識が露わに描かれる。引揚げ体験が同時に少年から大人への通過儀礼のように描かれる。直球の引揚げ文学という感じだ。

『戦後短篇小説再発見7 故郷と異郷の幻影』 、収録作の半分ほどが引揚げを含めた外地経験小説か、外地滞在経験のある作家で占められており、興味深いセレクト。外地ものとしては小林勝、木山捷平五木寛之のものがあり、済州島出身の在日朝鮮人だった義父を描いた小田実のものがある。この題材で在日朝鮮人作家がいないな、と思っていたら小田実が間接的にそう。他に外地滞在者としては森敦、林京子がいる。五木寛之「私刑の夏」は1946年の夏、38度線を越えようとあせる引揚げ日本人の一団を、緊迫したサスペンスの筆法で描き、綺麗なオチがついてもいる。小林勝「フォード・一九二七年」は表題の車でやってきたトルコ人家族を題材に、朝鮮の村、日本人の在住するエリア、そして山の上のトルコ人の館の立地のなかの屈折した日本人少年のコンプレックスが描かれる。木山捷平「ダイヤの指環」は新京での飲み屋の女将との引揚げ後の文通を描いている。ほかにもシベリア抑留の長谷川四郎もいる。名前を知らなかった光岡明「行ったり来たり」は、「行ったり来たり」という奇妙な神を据えてある二つの村をユーモラスかつファンタジックに描く佳篇で、相互の村の代議士がお互いを無教養、無能力と批判するけど、二人とも当選したので「無教養と無能力が均衡している」とあるのが笑った。ちょっとした引揚げ作家アンソロジーとしても読める本で、集英社の『戦争×文学』には各植民地を題材にした巻があるけど大部でそれなりの値段なので、手軽なのはこれだろう。石牟礼道子水俣病ものの一篇など方言の横溢したものもありつつ、外地や外国への旅行を描くものなど、タイトル通り故郷と異郷のさまざまな組合わせやあり方を捉えたアンソロジーになっている。しかし『戦後短篇小説再発見』は二期も含めてざっと見たところ在日朝鮮人作家が金石範と李恢成しかいないように見えるけど、これはちょっと少ないんじゃないかと思った。

パルチザン伝説

パルチザン伝説

桐山襲パルチザン伝説』、45年と74年の二つの八月十四日、戦前と戦後において「父たちの体系」の頂点とよばれる「あの男」への二度にわたる暗殺に失敗する革命家家族の伝説を弟が兄への書簡形式に織り込みつつ、「言葉が扼殺された世界」たる天皇制国家戦後日本の風景を描き出す革命文学。革命運動とともに爆破に失敗し手や腕を失うモチーフが親子に受け継がれつつ、「決意した唖者」「昭和の丹下左膳」「志願した娼婦」などと呼ばれる三兄妹とその失踪した父をめぐる話はどこか神話的で、「アイテテ、アイテテ」というユーモラスな部分などちょっと大江っぽいとも思った。「この国の人びとがイタリーのようにパルチザンとなって起上がることなど、永遠にあり得ぬのではないか。どのような惨禍が頭上に降りかかろうと、あたかもそれが自然であるかのように諦め続けていくのではないか」91P「なるほど民は自らの水準に応じてその支配者を持つものだとするならば、知は力であるという段階を通過せぬまま権威と屈従の感覚だけは鋭敏にさせてきたこの国の民の水準に、軍部のごろつきたちはまことに適合しているのかも知れなかった」92P。今だからこそ読みたい小説だな。河出書房新社版は友常勉の充実した解説が付いていて、作品社版には「亡命地にて」という右翼の出版妨害のおり沖縄に「亡命」したという短篇小説(実際にこの時沖縄には行ってないらしい)が併載されていて、これは河出版には入ってない。

新潮 2019年 05 月号 [雑誌]

新潮 2019年 05 月号 [雑誌]

新潮2019.5月号の山城むつみベンヤミンのメキシコ学――運命的暴力と翻訳」読んだ。ベンヤミン「翻訳者の使命」を、16世紀アメリカの人類史上最大の虐殺を背景に、翻訳を「文字に発する暴力」の一環に位置づけながら、修道士サアグンあるいは向井豊昭の翻訳の過程に暴力への断念をも読みとる批評。コルテスの制服後にメキシコに派遣されたフランシスコ会派の修道士ベルナルディーノ・デ・サアグンの残した民族誌のような書物は、ナワトル語とスペイン語の併記された形式を持ち、文化人類学の先駆ともみなされるものらしい。この書物からさらにトドロフマルクスデリダ等の補助線を経ながら、向井豊昭アイヌ語のリムセと呼ばれる歌謡を翻訳する過程が細かく記された「怪道をゆく」に逢着する、植民地主義の暴力と翻訳をめぐる思考が重ねられていく。山城はこう書く、「同化の歴史の中では、翻訳は、まずもって、ヤマトの人々による制服、支配、植民、差別の運命的暴力と換喩的に連動する暴力なのである」。そして、「他者の「顔」から射し込んだ光が蘇生させたこの呪文の声と向き合うなら、それは、長く激しい葛藤の末に、翻訳者、向井豊昭の内部で作動していた制服の暴力を制止し、この暴力に欲動断念を強いるだろう。その断念が翻訳者の「使命」である」(P207)と。新潮2017.2月のベンヤミン論の、すばる2018.2月のカイセイエ論を挾んだ続篇で、向井豊昭を翻訳から論じたものとしても非常に面白かった。まあもちろん理解した、という感じではないけど、翻訳の暴力とそのプロセスに暴力への抑止を見いだそうとする論の運びは、向井豊昭の矛盾を救い出そうとしているようで感動的ですらあった。ベンヤミン論二篇とカイセイエ論で単行本出して欲しいところ。三篇だと分量ちょっと足りないかな。

双子のライオン堂での『骨踊り 向井豊昭小説選』刊行記念イベント

2019/3/8(金)19:30〜『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房)発売記念!座談会その後/ゲスト:岡和田晃・東條慎生・山城むつみ | Peatix

骨踊り

骨踊り

岡和田晃さん、山城むつみさんと一緒に登壇した先週のイベント、ご参加いただいた皆さまありがとうございました。

ちょっとうまく喋れませんでしたけど、本書を通して読むことでモチーフの執拗な反復と、そのコアにある「僕の人間」が「日本」と不可分のものとしてあることがわかる、ということを伝えたかったのでした。そして岡和田さんが丹念な調査で掘り起こした教育学などさまざまな文脈が多層的に織り込まれた作品の厚みがあり、技法や表面的な作風は変わっても、強靱な芯があることが見えてくる。

「鳩笛」は啄木に「時代の滓」と言われた祖父向井永太郎を描く作品ですけれど、「脱殻(カイセイエ)」はその「鳩笛」を載せた「日高文芸」をめぐって鳩沢佐美夫とやりとりがあり、このなかで鳩沢はアイヌについて書いても自分が傷つくだけだといい、「僕はアイヌ……人なのでしょうか。否、アイヌの為に何かを語り何かを書かなければならないのでしょうか。僕の人間はどこに行ってしまったのでしょう」(94P)と向井に書き送っています。「対談アイヌ」で舌鋒鋭くあらゆるもの、和人に留まらずアイヌまでをも批判する鳩沢と、和人としてアイヌ教育にかかわった向井がここで対面しています。向井はそしてアイヌのいない場所へ「逃亡」するわけですけれども、二人とも直接「アイヌ」とかかわることを辞めるわけです。

ここで出てくる「僕の人間」と言う言葉が、本書に収められた作品群に重く響いているように、再読して改めて感じました。「僕の人間」を考えた時に、父、母、祖父、といった血を遡り、自己の起源を問い直すわけです。父のいない豊昭にとって、永太郎は父代わりでもあり、文学の原点でもありました。

そして、近代日本がアイヌを侵略し土地を奪い、そして向井自身がアイヌを滅ぼす同化教育の総仕上げを担った、という罪の意識は向井自身の日本人という属性と不可分のもので、つまり近代日本を批判することは同時に自分自身を切り苛むこととしてあり、『骨踊り』のように、さまざまな日本の裏や隠されたものを暴き出すことは、同時に自己自身の醜さの剔抉にもなり、ここに向井の「笑い」がどこかペシミスティックな感触を伴う理由でもあると言うことを考えていたのでした。そして本書が「あゝうつくしや」における日の丸と唱歌「日の丸の旗」で終わるのはまさにこのためだということを強烈に印象づけます。

岡和田さんの調査力というものは山城さんも驚嘆していたのですけど、岡和田さん自身は、議論を細かく精緻化していくことはいくらでもできるけど、別の人の視点やたとえば書評などを書いてもらうことで、自分の気づけなかったポイント、外部の視点を知ることができるので、それが重要だというストイックな話があり、今回の解説で書かれていたような事情を調べたきっかけが山城さんの「あゝうつくしや」についての疑問だった、と。

また、山城さんのベンヤミンの「暴力批判論」と「翻訳者の使命」はパラレルに読まれるべきで、なぜ自分が向井の「脱殻」論を書いたかというと、その言語という暴力への関心にぴたりとはまる作品だったからだというのが面白かったです。アイヌアイヌ語とその翻訳への関心は、つまり日本語でものを考えている限り日本語というものの暴力性に気づくことができないという、言語のフレーム、視界のフレームを相対化する契機で、ここに暴力と言語の問題が交錯する地点があるというような。カイセイエ論で「ここ」と「そこ」として議論されていたものです。カイセイエ論の前に「ベンヤミン再読――運命的暴力と脱措定」があって、この「暴力批判論」論と予告された「翻訳者の使命」論のあいだをつなぐものとして、カイセイエ論があった、と語っていたところが印象的でした。

叙情との戦い、五七五との戦い、アイヌ語、下北方言、コールガールの語り、骨のモノローグその他その他、向井豊昭はその小説につねに別のリズムを放り込んできたわけで、この「国語との不逞極る血戦」、日本語による日本語への闘争の戦略が後期の実験的作品群のひとつの特徴にもなっていると思います。


ここからは自分の関心について書くんですけれど、同年代で小説作法にもどこか似たところがある後藤明生との大きな違いにその政治的スタンスがあり、笑いの質にもかなりの違いがあります。後藤の軽さに対し向井は重い。『BARABARA』と対になるようなスカトロジー小説『DOVADOVA』のラストはまさにある種の自己否定性が滲んでいると思います。会場で三輪太郎さんが「敵」という言葉を使って発言されてましたけれども、まさにこの「敵」が外にもありまた自らの内にもあるという分裂の様相が、殻、分身、骨、というモチーフに現われており、また「あゝうつくしや」のラストの子供を狙って垂れる日の丸とは、自己自身でもある不穏さがあります。

後藤明生の笑いが軽いといっても無論それは下に見るわけではなく、その軽さそのものが後藤自身の日本にいながら地に足がつかないような感覚から発するものでもあって、「政治」に対する距離感もこれと同様の「足場」のなさだということは「未来」の連載でも書いた通りです。向井豊昭は在京下北人を自称していた、という話がありましたけど、拙稿で後藤明生を在日日本人、と呼んだのはこの日本へのどこか不思議さの感覚からで、植民地生まれの引揚者という経歴はこれとは切り離せないわけです。『近代日本の批評』で、六〇年代の文壇状況においては、今や疑わしいけど「内向の世代」こそラディカルだったと柄谷は言っていて、「内向の世代」と呼ばれるほどにはやはりカウンターではあったので、スターリニズムに対する脱政治性というかたちでの抵抗ではありました。

向井豊昭における看板」論が書かれるべきだと山城さんは言っていましたけど、たとえば看板や碑文といえば後藤明生もそういう街中の言葉をさかんに作中に引用する作家で、つまりよく歩く小説を書いていて、また歌をよく取り込む点も似ているし、調べ物の過程が小説になる点でもやはり似ています。政治的に極めて立場が異なるけれども、その手法的な面ではときにかなり似た部分を示してもいます。そういえば叙情との戦いと向井が言い、後藤もじつは散文性という言い方で似たことを言っていたりします。

山城さんは、やはり元々近代文学的な書き手だった向井がなぜ晩年のような書方になったのか、それが重要ではないか、ということを言っていましたけれども、それにはやはり未収録の早稲田文学掲載作とかをまとめておくことが必要だなあ、と思ったのでした。

そういえば、ほぼ同年代で「文學界」に転載されたのが一月違いという関係にある後藤明生向井豊昭に直接の関係があるかどうかというと、これがよくわかりません。向井を評価した人は後藤とも近い人脈だし、向井が私淑する平岡篤頼はむろん後藤と極めて近いので、読んでてもおかしくはないんですけど、文章としては確認できてません。向井が早稲田文学新人賞をとった1995年は既に後藤は関西に住んでいたというのもあって、直接の交流はなさそうですけれど。

イベントのまとめというか、イベントではなくその後の雑談で聞いた話なんかも混ざってしまっていると思いますけど、当日参加して言いたかったこと、その後考えたことやツイッターで書いたりしたことをひとまずまとめておきました。

第39回日本SF大賞・最終候補作を全部読む。

第39回日本SF大賞・最終候補作が決定しました! - SFWJ:日本SF大賞
表題通り、今月末に発表予定のSF大賞の候補作を全部読んだので感想をまとめる。

名もなき王国

名もなき王国

倉数茂『名もなき王国』 とにかく次々と魅力的な物語――売れない作家同士の鬱屈と友情、洋館に棲まう忘れられた幻想小説作家、家族を共有するカルト団体、奇病で閉鎖された街からの脱出、満洲引揚げの一頁、一筆書きのような幻想掌篇、デリヘル嬢に自作小説を配るドライバー、謎の薬をめぐる探偵小説――が現われる楽しさ。各篇に連繋や暗示でつながる要素は丁寧に再読しないと配置をまとめきれないけれど、第三章でコウが出てくるあたりで全体の動機はうかがえる。小説を物語を必要とし書くことについて、なぜ私が私なのか、現実が現実なのかという根源的でかつ普遍的な感情を基盤にして、さまざまな単独でも読めるような小説内小説を配しながら、個々人の名もなき王国を希求する業について書かれたメタ幻想小説*1

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

草野原々『最後にして最初のアイドル』 なかなか評価に困るというか、プラスポイントとマイナスポイントを足し合わせるとプラマイゼロになりかねないみたいな尖った作風で、いや、なかなかすさまじいオタクネタとSFネタを存分に詰め込んだワイドスクリーンバロックで面白いムチャさはいいんだけど、表題作の序盤とか確かに小説としてどうかという感じがしてしまう。

オブジェクタム

オブジェクタム

高山羽根子『オブジェクタム』 表題作は、幼少期に一緒に壁新聞を作った祖父との記憶を、主人公が現地に再訪しつつ回想するもので、ざっと読むと前著の脈絡を継ぐジュヴナイルの秀作という感じだけど、前と違うのはSF的ネタというか思弁性がメタ的な水準で語られているような感触があること。虹のオブジェ、偽札や最後の事実に関するくだりや、解読されないメッセージなどのミドリ荘とも通じるモチーフがちりばめられてもいて、通り一遍読んだだけでは底を見せない。鮮やかな記憶の細部、まぼろしではないかと疑ったサーカスなどの記憶と幻想のモチーフと、特定の時間にだけオブジェが映し出す虹のイメージが重ねられているんだろうか。光学器械、まさかプルーストかと思ったりもしたけど。「太陽の側の島」は不可思議な戦時下小説で、二つの場所がプリースト『夢幻諸島』を思わせる時空の歪みに見舞われている状況が往復書簡で展開される幻想譚で、死と生、時間と空間が入り乱れる。「L.H.O.O.Q.」の表題はデュシャンの性的に興奮した女を意味するやつ。犬を探して女と出会う不思議な話。

半分世界 (創元日本SF叢書)

半分世界 (創元日本SF叢書)

石川宗生『半分世界』 第七回創元SF短篇賞受賞者の第一作品集。限定された舞台の奇想から発して、そこに細かな描写とSF的ロジックを積み重ねていく作風で、作中さまざまに引用、言及されてるように海外文学読者に強くアピールする本でなかなか楽しい。デビュー作「吉田同名」はほぼ二万人に増殖した吉田大輔という多数の一人を描く。その二万人を収容する施設での同一人物が多数同居する空間とその関係の変容を追った短篇で、ドストエフスキーの『分身』やカルヴィーノの引用などのように、分身や自己同一性というか双生児テーマに連なる一作。『まっぷたつの子爵』の内容は説明しても『不在の騎士』の内容に言及しなかったり、『不在の騎士』が空洞の鎧という自己の不在に対し、一人が分裂する『まっぷたつの子爵』を持ってきて「私」のテーマを匂わせるような固有名詞から示唆する手法を多用してある。特に、「『二重人格』ではなく『分身』」と言って、それがドストエフスキー作品だとは書かない匂わせ方に、これが通じる人に向けて書いてるところがあって、これはこれでスノッブな感じもあるけど、まさにそれは私も同意見ではあるのでくすぐったい。「半分世界」は、ドラマのセットのように半分になった家に住む家族と、それを眺める人々、というテレビ的関係性というかリアリティショーのような奇想を出発点にしていて、ここらへんコルタサルの「ジョン・ハウエルへの指示」という演劇の舞台と客席の境界が崩れる作品を思い出した。「白黒ダービー小史」も、サッカーのような競技がフィールドから街そのものを舞台に全日行なわれているある街とその歴史を描いていて、やはり境界の崩れからくる奇想が全体を牽引する。私の境界、家族の境界、競技フィールドの境界の崩れ、を書き詰めていく。「バス停夜想曲」はもっとも早く書かれた作品らしく最長のものでもあって、自分の路線のバスがいつ来るかも分からないまま何日も足止めを食らう不可思議なバス停周辺に集まる人々が独自のルールを作り、組織を作り、争いが起き、とバス停という極小の場が極大の人類史の相貌を帯びていく。異常状況の日常を丹念に描写していくことで極小のものにより巨大なものを詰め込んでいるような感覚をもたらす奇想小説集。面白いけど本書では大枠がある種のパターンになってる感じもするから、この次に何を書くかが気になる。

文字渦

文字渦

円城塔『文字渦』 中島敦と一字違いで文字・兵馬俑・陵墓といった写像をめぐってちょっと「名人伝」的な表題作のほか、文字を戦わせる闘鶏ならぬ闘字、文字の生物学、文字とルビとの熾烈な闘争、文字サイバーパンク?あるいは名前と実体の関係をショートさせるミステリなど、文字にまつわる短篇連作集。水戸光圀の「圀」などに今も使われている、則天武后が独自に定めた則天文字や、源氏物語を書写する機械、「新字」という日本最初の辞書?を編纂した境部岩積、王羲之などなど文字の歴史をめぐって、秦、唐、現代から近未来までを超時間的に操り、和漢洋に加え数学・プログラムの知識をフル活用しながら繰り出される壮大な冗談のような語り口で、『Self-Reference ENGINE』の東洋・漢字版といった趣もある。『プロローグ』『エピローグ』が未読だけど、書くこととテーマにしてきていよいよ文字というインターフェースに挑んだ感じ。漢字文字の本を読みあさりたくさせる強いフックを持っていて、それでいてたいへんツイッター映えする面白字組が多々見られるエンタメぶり。文字とくに漢字をテーマにするとやはり呪術的なアプローチが多いと思うんだけど、円城塔なのでさまざまな科学的、数学的ロジックを屈曲させたSF的アプローチで書かれた東洋、漢字幻想SF小説になってる。これを隔月で連載するのか、と驚かされることしきり。版面とか校正とかもだけど。文字と写される実像、の関係をさらに捩っていくところが面白いんだけれど、説明するのがなかなか難しくて、近未来デバイス「帋」(かみ)を扱ったところで、レイアウトに応じて本文も自在に書き換えられるべき、という相互性のくだりとかがわかりやすいか。

飛ぶ孔雀

飛ぶ孔雀

山尾悠子『飛ぶ孔雀』 石切場の事故で火が燃え難くなったという日本のどこかを舞台にした連作的二中篇。火が使いづらくなり、調理、タバコ、エンジンに不調が生じるなかに現われる孔雀と大蛇。鮮明な細部に対し全体像をにわかには把握できない描き方で、奇妙な夢のよう。小説として高度すぎて自分には太刀打ちできないというか。繰り返し再読しながら、迷路を何度も迷いながら感じを掴まないとなにも言えない気がする。不燃にプロメテウスというか文明の後退や原発事故を想起するんだけど、SF的な状況をSF的でない書き方で書いている小説とも読める、か? 火や水、土や風、孔雀と大蛇、QとK。さまざまな現象やちりばめられた人物たちが、階段井戸や「口辺に火傷跡のある犬」のように境界を越えて各所で繋がっているようだけど、まだこの「幾何学的精神」を読みとるまでにいってない。この絵がどのような絵か、まだ見えてない。噴水の止まる瞬間を見ようとする男のセリフを引く。「ただ失うのは厭だ、訳もわからないまま、気づいたときに何もかも失っているのは厭だ。喪失の瞬間をこの目で隈なく見届け、一瞬を貪るように味わい尽くし、無限に分割し写真のように網膜に焼き付けたいのだと」163P。


SF大賞候補作、全作読んだところで、私個人としては好きなものを選ぶとすると『名もなき王国』と『文字渦』のどちらか、ということになる。二作選んでも良いならこの二つだ。じっさいにどれが獲るか、という予想は、これまで候補作を全部読んだことがないのでどういう傾向があるのかは知らないのでなんとも言えない。ただ、『飛ぶ孔雀』は一読しただけでは私には評価不能で、その分ジョーカーとして、どこに入ってもおかしくない気がする。山尾悠子円城塔はどちらもこれまで大賞をとってない*2し、この二作はどちらもその作家のキャリアの一つの到達点にも見えるので、二作同時受賞ってのがありそうかと思うんだけどどうだろう。

*1:去年すでに感想を書いていたから、それを再掲載している

*2:屍者の帝国』は特別賞ということで

デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く モンタージュ』

アカシアは花咲く―モンタージュ (東欧の想像力)

アカシアは花咲く―モンタージュ (東欧の想像力)

ブルーノ・シュルツ作品の成立にもかかわりながら、ナチスドイツ占領下リヴィウユダヤ人ゲットーで殺されたポーランドの詩人・作家デボラ・フォーゲル。〈東欧の想像力〉第十五弾の本書はポーランド語からの翻訳と、イディッシュ語からの掌篇や書簡の訳も含む、本邦初訳の作品集。シュルツのものも含む本書への書評二篇と公開往復書簡も収録している。

デボラ・フォーゲルは1900(あるいは1902)年、オーストリアガリツィア(現在のウクライナ南西部)のユダヤ人の家庭に生まれ、ドイツ語、ポーランド語で育ったものの、後に自ら父の反対を押し切りイディッシュ語を学び、それを執筆言語として選択した。イディッシュ語ディアスポラユダヤ人がドイツ語方言をもとにヘブライ語の語彙を持ち込み、さらにユダヤ人に寛容な東方に移るなかでポーランド語などのスラヴ系言語を取り入れてできたものだという。彼女は家族の縁戚の地リヴィウ(現ウクライナ)に戻った後ウィーンに疎開し、さらにまたリヴィウに戻り、大学を出た後心理学・文学の教職に就く。リヴィウ周辺のフォーゲルが暮らした土地は、オーストリア領、独立ポーランドソ連支配下からナチスドイツ支配下とさまざまな政治的転変をこうむり、またポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人が混住する地域という、まさに境界的場所でもあった。

結婚を考えるほどだったというフォーゲルとシュルツのあいだの手紙のやりとりが、シュルツの第一短篇集『肉桂色の店』の原型となった。1942年、およそ四十歳にしてゲットーでのユダヤ人掃討作戦で家族ともども殺され、同年にはシュルツもSS将校に殺されている。

詩集も残しているものの本書はフォーゲル唯一の散文作品集で、小説は短篇「アザレアの花屋」冒頭で言われるように、通常の「長ったらしい小説」になる以前のような、主人公なり人物なりがいるわけではない、独特の比喩や表現が散文詩のように続く断章の連なりで、正直私には難しいいタイプだった。しかし生をめぐる思索ののちに「やはり生きる価値はあるのだ」(66P)と言明する力強さは印象に残る。

ある一節の書き出しはこういうものだ。

 この時期の明け方時刻、春が緑滴る大きな布となって波打った。近寄ってよく見れば、手のひら型のマロニエの葉やライラックの葉に裁断されている。葉は「人の心に似て」飾り気がない。
 緑の海はそんなとき、家々と路面電車のガラス窓に波打った。灰色の水を湛えた海のように、正午に向かって膨らみ、それを過ぎると引いて、夜には緑の塊に凝固する。
 粘着質の芽吹きと青い空気の第二の月がこうして過ぎた。15P

そしてこの短篇「アザレアの花屋」では、最後に「これはまだあの小説ではない」と繰り返され、以下のように続く。

 それでも、これから到来するロマンスは、どれもこのように人生を扱うことだろう。すべてがそこに属し、プロットや続きが決して生じることのない年代記のように。
 年代記は、ほかより大事かもしれない出来事を知らない。年代記にとって、すべては人生に属し、それゆえに等しく重要であり、必要なものだ。69P

小説以前のとされる形式を採る理由はここに示されている。「アザレアの花屋」「アカシアは花咲く」「鉄道駅の建設」の諸篇いずれも人々、時間、風景の変化それ自体が題材となっている。


「ポスト・シュルレアリスムモンタージュ」と著者が呼ぶ作品とともに、シュルツとのかかわり、リヴィウの文化的状況など、フォーゲルから見えてくる、ポーランドユダヤ人がイディッシュ語を通じてアメリカとも関係する、モダニズム文学地図の書き換えを示す訳者加藤有子による解説が面白い。

解説によればフォーゲルにとって「モンタージュ」は重要な方法となっており、「異種混淆的状況と経験の可能性と、それゆえにもたらされる物事のヒエラルキーの消去の可能性を意味する」(206P)ものだという。そしてこの技法はリヴィウポーランド語雑誌「シグナル」に重ねられる。

ポーランドの独立とともに、リヴィウを含む現在のウクライナベラルーシリトアニアに重なる一帯は、ポーラン ドの東部国境地帯に組み込まれた。ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人など非ポーランド系住民は、両大戦間期ポーランドにおけるマイノリティとなった。リヴィウ刊行の『シグナル』 は、リヴィウおよびポーランドを民族混淆の地と捉え、ナショナリティに基づかない異種混淆性を文化的アイデンティティとして打ち出した。211P

この雑誌「シグナル」では、「創造的ジンテーゼ」としての創作がうたわれ、共存、争い、複数の文化、宗教、民族のジンテーゼとして創作が、「リヴィウの絶えざる辺境性、つまり東からも西からも辺境にあった」(212P)ことからもたらされたと宣言する。この雑誌はシュルツも寄稿し、本書所収作品の初出が載った雑誌でもある。

他にもイディッシュ語雑誌や美術家集団など、異種混淆的な当時の前衛的文学運動との関係を追跡して、イディッシュ語というマイナー言語だけどもそれゆえにアメリカのイディッシュ語雑誌というモダニズム文学の最前線に立つこともできた、と訳者は辺境性と国際性の関係を論じる。この辺境性ゆえの普遍性への回路に、きわめて東欧文化的なものを感じる。「東欧の想像力」とは何かといえばそれはこのようなありかたではないか。

川上亜紀『チャイナ・カシミア』


チャイナ・カシミア

チャイナ・カシミア

*1
去年亡くなった詩人でもある作家の作品集。「早稲田文学」掲載の表題作と、同人誌「モーアシビ」掲載作三篇の計四篇を収める。笙野頼子の年頭の短篇「返信を、待っていた」でその存在を知った人で本書で初めて読んだ。タイトルのようにいくつもの作品で衣服が題材となっていて、身にまとうもっとも身近なものから導かれる想像力が、私と別のものを繋ぐ感触がある。

表題作「チャイナ・カシミア」、中国のカシミアは四割がモンゴル原産で厳冬のモンゴルで77万ものヤギが死んだことがあるという。そう話した劉氷という中国系留学生との会話を皮切りに、ある女性の日常風景がカシミア混紡セーターを着た語り手ごとヤギと化す変身譚へと展開していく。

空と路上の雪が薄青い翳で風景全体を包みこんでいて、私はそのなかをせっせと歩き出した。私がコートの下に着ているカシミア混紡のセーターもそんな色だった。15P

冒頭から「氷点下」や氷の名とともに雪が降った日の池袋を舞台にしていて、そんな日、「外の世界全体が青い翳のなかに入ってしまったようだ」という言葉から次第に世界は変貌していき、「青い翳」が冬の雪の池袋に覆い被さり、語り手の着ているカシミア混紡セーターの色でもあるその色のなかで出会うはずのない人、あるはずのないものが現われ、語り手は「ヘエンヘエン」「メヘヘヘヘン」とヤギのような声を出しはじめる。中国、内モンゴル自治区で取れるカシミア原毛からできたセーターを着ている自分という存在が、植民地的収奪の一環にあるのではないかという意識が背後に感じられ、ヤギっぽくなっている語り手は同じくカシミアを着ている両親共々マンションに「重要な資源」として閉じ込められる。

「あんたたちは重要な資源なんだよ。重要資源は外に出さないように管理会社に言われている」 27P

ヤギあるいはヒトなのか、いずれにしろ家畜的「資源」と化す悪夢的世界のはずだけれどどこかのんびりとした感触もあり、灰色猫が悠々をそれを横切っていくユーモラスなところもあり、何かしら奇妙な幻想譚になっていて面白い。ラスト、増殖するヤギと増殖する猫、羊を数える入眠儀式のイメージが浮かぶんだけどそれで合ってるんだろうか。寝入りばなの場面だからたぶん合ってるんだけど、なかなかに奇妙。

ほかに、「靴下編み師とメリヤスの旅」は、四〇代の女性がずっと年上の老女と出会い、ふと彼女のために靴下を編むことになるという話で、シンプルながらとても感触の良い小説。語り手は彼女を勝手にミズカと名付け、彼女の実在すらときに疑いながらも丁寧に靴下を編む。失業と服用しているステロイドの減薬という負荷のなかにある語り手にとって、靴下という人への贈り物を編む作業は、まさに希望を織り紡ぐことでもあった。ダニロ・キシュは母の編み物を小説を書くことと重ねていたけれども、この小説もまた作者にとっての言葉の編み物でもあろうか。笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」が相手のない恋愛を書こうとした、ということを思い出したからでもあるけど、本作にはどこか恋の感触を感じた。語り手は相手の名前をじっさいの名ではなくミズカと自分のつけた名で呼ぶとか、彼女が喜んでくれるだろうかという不安のあり方とか、とか。長々しい編み方の名前とか、アラン編みとかメリヤス編みというものの歴史や来歴が語られ、いまそうして編まれた靴下となって、二度会っただけの白髪の年配の女性の着衣としてカナダのバンクーバーにまで旅していくそのイメージがとてもよく、着衣が悪夢的な幻想にいたる表題作と好対照をなしてもいる。

潰瘍性大腸炎のことはミズカさんに話すつもりはなかったが、ステロイドはもう一〇ミリ以下に減っていたので副作用だの骨密度だのをそれほど気にしなくなっていた。減薬のあいだ少しずつ靴下を編むという作業療法に近い手仕事がなかったら、私はステロイドのもたらす高揚感や疲労感に振り回されてもっと妙なことを始めていたかもしれない。125P

「妙なこと」という話、作中に警官を呼ぶ騒ぎになった「荻窪宗教論争事件」というのが触れられていて、それより「もっと」という。白髪の女性、あるいはこうありたいという語り手の無事に年を取った未来の現し身でもあるだろう。

機械編みと手編みの話とともに、ここでも中国製衣服が出てくる。

そして最後の「灰色猫のよけいなお喋り 二〇一七年夏」は、これまでの作品にしばしば登場していた猫の語りによる短篇で、「ボクは偉大な詩人や作家の猫として後世に語り継がれることはまるでなさそうだから、今のうちに自分で語っておくことにしたの」と、猫の視点から著者と思しき人物とのかかわりを軽妙に語って、もっとも身近な他人による語りを短篇集に導入する。

笙野頼子の解説は著者との関係をたどり、著者もまた「群像」の編集部入れ替えのあおりを食らって作品掲載が拒絶された作家だったことを明かす一幕が興味深い。過去の論争文で触れられていた「女性の詩人作家」とはこの人のことだったのか、と。その一文に見覚えがあった。「一見他人事のようにしてはいても、結局物事は全て、違う形で、自分に触れるのだ」(158P)という一文が表題作の性質をよく指摘していると思う。「搾取で作られたセーターではなく、自前の暖かさで、抵抗して増えようとする大切な飼い猫」。この解説もまたほとんど小説的な味わいがある。

ただ、「北ホテル」という小樽旅行を描く分身譚小説はまだ自分のなかで感想が出てこない。ナイロンバッグ、中国製のダウンジャケット、ダッフルコート、レンガ色のワンピースなど、さまざまな服飾品がキーアイテムとして現われ、自分の高校生時代のことなどを回想しながらの小樽観光の不可思議な感触、そして詩。

余談だけど川上亜紀は向井豊昭が「BARABARA」で受賞したとき、95年の早稲田文学新人賞の最終候補の一人でもあった。
早稲田文学新人賞受賞作・候補作一覧1-25回|文学賞の世界

本書は笙野頼子さまに恵贈いただきました。
チャイナ・カシミア 川上亜紀作品集の通販/川上 亜紀 - 小説:honto本の通販ストア

*1:Amazonに在庫はないけどhontoや楽天などでは注文できる

『「私」をつくる』『日本の同時代小説』『トリストラム・シャンディ』『うどん キツネつきの』『ブギーポップは笑わない』『日本の近代とは何であったか』『戦後史入門』

安藤宏『「私」をつくる』、近代小説の試み、と副題にあるとおり、二葉亭から牧野信一等の近代小説について、「私」の仮構ともいうる問題意識から小説を読み直す。たとえば小説に「私」と書かれていたとしても、それは書き手によって作中におかれた演技する「私」ではないか、と。三人称でも一人称でもそれは小説を語る叙述主体「私」の装いの一つとして考えることで、読解の可能性を開くのが著者の試みだと思われる。面白いのは泉鏡花が言文一致の文体で書く時には、怪談において聞き書きを重ね合わせる技巧を用いるのに対し、擬古文ではそうではないということ。近代小説の文体ではその人称が語りうる内容はその資格に応じて決まってくるのに対して、擬古文・和文体ではそもそもが人称も時制も揺らぎうるという差異があるという。文末の動詞言い切り型と「~た」では、そこに人称の違いが現われているという文体分析も興味深い。また大正年間の文芸流派は、自然主義白樺派耽美派、新技巧派の四つに分けられるけれども、芥川の当時の時評でも既にこの区分けが明快になされているのは、当時の作家達が小説を書くために、それぞれの流派を自ら演じていたからだという逆説の指摘が非常に面白い。話すように書く言文一致の文体は誰が話しているのか、という叙述の資格が課題となる、ということから、近代小説のさまざまな課題とその実践を「私」をテーマにたどっていく近代小説論。

斎藤美奈子『日本の同時代小説』。中村光夫岩波新書『日本の近代小説』『日本の現代小説』以後の小説史がないということをうけて、1960年代以降の小説を純文学、エンタメとりまぜ紹介しつつ、紀行や自伝的ノンフィクションのたぐいをも私小説の系譜と位置づけて多数紹介していく小説史。幾つかの軸を設定し、時代ごとに私小説的作品、プロレタリア文学的小説を取りあげる。非常に多数の作品が出て来てて、伊藤計劃虐殺器官』を戦争小説の流れで紹介したり、木村友祐『イサの氾濫』を数ある震災関連作品のなかでも傑出した作品だと評価したりしているのが目に付いた。ただ、私小説を拡大解釈してたとえば小田実の『何でも見てやろう』などの紀行文や(自伝的)ノンフィクションを「私」の表現として私小説の系列として紹介するのは、ロジックが雑で違和感がある。ベストセラーから世相を分析するためにむりくり小説史に取り入れる方便としか思えない。またもっとも問題なのは、口語を取り入れた語りの軽さが、ほとんど軽薄で皮相としか思えない箇所が多いところだ。『死霊』について全巻読み通した人はいないと言われるとかいう与太を持ち出したり、旧弊な私小説を大上段から否定してみたり、その作家のファンではない身としてもどうかと思うようなざっくりとした否定をしたりと、頼むからもっと真面目にやってくれという不満ばかりが募る。その時代のその表現の試みのありようを探ろうとしないのでは、単なる現在からの裁断にしかならない。著者の思い入れあふれる回想的エッセイとしてなら良いかもしれないけれども、これはちょっと。

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)

ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』。英文学の古典にして脱線、逸脱を尽くした実験性がつとに評判の本作をついに読んだ*1。自伝的に見せかけて語り手トリストラム自身が生まれるのは上巻終わり頃で、本人がほぼ出てこないまま千ページに近い小説は終わるという迂回の果て。迂回の過程でさらに迂回と勘違いの脱線が始まったり、ほとんどコントみたいなボヘミア王と七つの城パートなんかもあって、もろもろ面白いところもあるけど、どうも個人的にはテンションが合わないというか、そこまで、という感じだった。実験性の強いメタフィクションの怪作、というよりは18世紀の地方の変なだけどまあ悪くはない人たちを描くユーモア小説、という感じで接した方がよさそう。ロックの観念連合というものを背景にした連想の語りという点が二十世紀意識の流れに影響したというのはなるほど、という感じもある。この連想、こそがある言葉を相手が勘違いしたり、という形でコントやすれ違いのネタにもなるので、かなり重要な概念でもある。Wikipediaの「神童育成マニアのウォルター、包囲戦再現マニアのトウビー、自伝執筆マニアのトリストラム」の試みが全て破綻する、という指摘はなるほどで、これはセルバンテスに幾度も言及する点から意識的な模倣だろうなと。父と子がともに書物への偏執からそれが挫折する過程なわけで。英語にhobby horseという言い回しがあって、本書で道楽馬と訳される馬のワードは後々欲望の換喩?みたいに使われたりして面白いんだけど、GenesisのDancing with the Moonlit Knightにこの単語が出てくる理由がわかって面白かった。途中の鼻への延々たるこだわりは興味深いというか、ゴーゴリ「鼻」との関係で後藤明生が何か言及しててもおかしくないと思ったけど、覚えがないな。覚えてないだけでどっかでパロったりしてるかも知れないけど。

高山羽根子『うどん キツネつきの』創元SF文庫。不思議な生き物を拾った姉妹の生活を描く表題作のほか、日常を描写しているようでそのすぐ裏に別のロジックが張りついているような、怪奇小説、SF、ミステリのあわいにあるような感触がある。表題作もいいし「おやすみラジオ」の不穏さも震災後と巨大なものへの畏怖のようなものがある最後の作もいいけど、少年小説?的な風合いと言語テーマの「シキ零レイ零ミドリ荘」が良いな。顔文字で喋る男とか知らない手話を勝手に通訳する主人公とか、メタ感がいいコメディになってる。文庫も良いんだけど、創元日本SF叢書、全巻単行本版で揃えてみたくもあった。

上遠野浩平ブギーポップは笑わない電撃文庫。アニメの放送を機に久しぶりに読み返した。事件の核心を知らない人それぞれの「青春(せかい)」の狭さとそれゆえの届かないものへの憧れを、竹田、末真、木村らを通して描きながら、正義感、優しさの意味を問い、人間って何だろうとも問いかける、間違いなく青春小説の傑作だろう。各人の視界の狭さと事件との無関係性、自分が何かを問いかける他人との関係という反復されるパターンは、人類と宇宙人との関係としても反復され、自分とは何かと人類とは何かが重なる全体的な構造。優しさと宇宙人モチーフ、シリーズの他の巻でアイスナインを引用するしヴォネガットの影響を感じる。竹田からブギーポップ、末真から霧間凪、アニメで出てきた覚えがない木村から紙木城直子への羨望と憧れのような並列パターンは、人称を排したアニメではやはり再現できず、各章の独白と対話のうち独白が消えてしまえばやはりそれはもう別物になってしまう。ブギーポップは笑わない、笑うのは僕たちの仕事だ、という竹田のモノローグ他、作品の肝心な部分はやっぱり抜け落ちてしまう。まあメディア特性上しょうがないけれども。遠いところから徐々に徐々に中心に向かっていく螺旋的な構成の面白さとか、やはり小説の魅力だな。いまんとこ、原作はアニメの三倍面白い、というのが正直な感想。

三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』岩波新書。日本の近代を政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制それぞれをテーマとして論じる近代史論。近代の条件を英国のバジョットの「議論による統治」に求めつつ、その系概念としての貿易、植民地をコミュニケーションとしてとらえ着目する立論になっている。「慣習の支配」から「議論による統治」へ、という近代概念をたどるにあたって、鴎外の史伝ものを個人の偉大さを描いたものではなく、政治的公共性の前段階としての「文芸的公共性」を描いたものとして評価するところ、歴史学者の文学への見方が面白い。また本書では特にいくつもの逆説が面白かった。明治憲法下では政治制度が遠心的で統合的主体を持たず、権力分散を徹底したがために、何らかの統合主体が求められ、それが藩閥を経て政党政治へと繋がった逆説を指摘し、アメリカも同様だったことを論じるところが一点と、植民地政策が脱軍事化と同化へと転換し、関東都督の文官化を目指すなか、政軍分離を陸軍に飲ませるために、将来的な北満洲での行政に拘束されない軍事行動の自由を理由としたことが、のちの満洲事変の軍事行動拡大の要因となったことが指摘されているところも。また、天皇制の章において著者は教育勅語国務大臣の副署がない例外的な詔勅だということの分析を始めるけれども、ここで出てくるのが井上毅の草案への批判で、井上は宗教的、哲学的中立性とともに政治的状況判断の混入を否定し、中立性をきわめて重視していた。これは論争を避けるためでもあった。そして立憲君主としての天皇が同時に道徳の立法者となることが、信教の自由や立憲主義との兼ね合いにおいて問題になるとき、井上は、教育勅語を政治上の命令と区別し(副署をせず)、天皇の著作の公表という形をとる曲芸で回避している。以前以下の記事で国家神道非宗教論について書いた際、「宗教を内想と外顕に区別し、内は許すが外に現れる活動を禁止する、という井上毅の主張」を取りあげたことがあるけれど、ここから始まる国家神道の強制のロジックとかなり似ている。
阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」 - Close To The Wall
まあ日本の近代とは何であったかって言われたらいまのこ現代の状況だよって言うしかないアレさがあるね。著者もワシントン体制から歴史から学べる部分を懸命に語っているけど。

「日本はアジアにおいて歴史上最初の、そしておそらく唯一で最後の植民地を領有する国家となりました。この場合の「植民地」とは、特定の国家主権に服属しながらも、本国とは差別され、本国に行われている憲法その他の法律が行われていない領土のことです。」144P

福田恆存が著書『近代の宿命』において指摘したように、ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、ヨーロッパ中世から「神」を継承しましたが、日本近代は維新前後の「廃仏毀釈」政策や運動に象徴されるように、前近代から「神」を継承しませんでした。そのような歴史的条件の下で日本がヨーロッパ的近代国家をつくろうとすれば、ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」216P

戦後史入門 (河出文庫)

戦後史入門 (河出文庫)

成田龍一『戦後史入門』河出文庫。「14歳の世渡り術」というシリーズの一冊として出ていたものの文庫化。戦後の日本史を題材に、歴史はいかに書かれるのか、その時どのような視点が選ばれているのかということなどを、沖縄、在日朝鮮人などの別の視点を通じて改めて問い直し、教科書的通史を相対化し、歴史とは何かを概ね高校生程度を対象にして語る平易な歴史入門。なかなか興味深かったのが、80年代後半に起こったアグネス論争というものが紹介されていたこと。なんでもアグネス・チャンがテレビ局の楽屋に子供を連れてきたことが非難されて論争になり、国会にも参考人として呼ばれたほどの騒ぎだったらしい。あまりにバカバカしいけれども、現在も30年前からまったく進歩しておらず唖然とさせられる。もう一点、2013年に安倍晋三首相が四月二十八日を主権回復の日とし式典を開こうとしたことに対し、沖縄県議会が全会一致で反対したことが書かれていて、そういえばそういうことがあった、と。式典にも知事は出席せず、沖縄では抗議集会が開かれた。いままさに続く政権による沖縄弾圧の歴史の一ページだけど、この件もしかして根に持ってるんじゃないかなーなんて邪推をさせる現状がある。あと一つ、著者への疑問として、東日本大震災について204ページでは専ら原発事故という国のエネルギー政策における問題としてしか出てきておらず、地震津波によって万を超える人が亡くなった災害だという点がスルーされていること。政治史としてはそうなんだろうけれど……。東日本大震災が専ら原発のアングルで語られることこそ、東京中心の政治の歴史の語りではないのか、とは本書のテーマから想定される疑問。具体的に高校生を想定しているとは思うけど、もちろん高校生程度ということはそれを専門としてない大人にも充分通じると言うことでもある。