笙野頼子『水晶内制度』

水晶内制度

水晶内制度

  • 作者:笙野頼子
  • 発売日: 2020/08/12
  • メディア: 単行本
新潮社版以来一七年ぶりにエトセトラブックスから再刊された著者の代表作といっていい長篇。30ページほどの著者自身による解説が当時の状況や作品の成立事情などを明らかにしており、論争的な性質上時に把握が困難な作品の文脈の参考になる。なお、新潮社版は四千五百部を十年かけて品切れとなったらしい。

本作は千葉、茨城にまたがる地域に打ち立てられたという国内独立国家「ウラミズモ」に移民した女性の語りを通じて、女こそが人間だという、日本の差別的社会構造を男女逆転した国家と、記紀神話の改作を通じた建国神話の創造を語る。

久しぶりに改めて読んでもここには何か独特の重さがある。女人国ウラミズモは理想社会などではなく、「言論統制国家」でもあって男に人権はなく、女性こそが人間だという体制を構築しているけれど、日本社会の差別性の裏返しとしてのウラミズモを語り手は肯定しきれないことが文章に滲むゆえか。語り手が「うわーっ。」と繰り返し叫ぶのは、男女平等の社会というユートピアはどこにもなく、日本という女性差別社会も、ウラミズモという男性差別社会も肯定しきれず、しかしそれでも女ゆえにウラミズモを選んでしまうときに忘れがたい犠牲への意識ゆえでもあるだろう。かといってウラミズモというオメラスから歩み去ることもできない。原発を抱え、男性保護牧場を抱え、女性資源を輸出することで成立する女性のための「きったない」独立国。

また男女逆転とともに重要なのは非性愛的要素だろう。同性婚制度があっても同性愛者は移民から弾かれる(とあったはず)。リリアン・フェダマン『レスビアンの歴史』(私は未読)が発想のきっかけになったと自作解説にあり、新聞で書評したこともあってか著者がレズビアンと思われることがあったようだけれど、レズビアンがこんな話を書くだろうか、と言うくらいには本作は同性愛に親和的ではない。性愛的側面は男性保護牧場という「逆遊郭」や人形愛という形をとっており、女性同士で結婚する場合も「偽のレズビアンマザー」といわれ、「女性同士の友愛の頂点」として子供を一緒に育てる形になっている。ウラミズモの女性は、男性に対する恣意的な幻想は人形に投影し、性欲は逆遊郭で満たすことになる、と著者はいう。ウラミズモの特質はこうした、女性の国でかつ非性愛的社会という二要素によって組み立てられている。「少女人形さえ許されないほど、女性への性的評価や対象化は制限される」と著者がいうとおり、女性への性的な見方それ自体が拒否されている。現代日本の女性の苦難はここに発するという発想。

私にもし恋愛というものが起こるとしたならば、それはただある一点に集中した狂気に過ぎず、その一点の外は全て悲しみと怒りの対象でしかない、つまり恋とは私の全身が憎悪で出来ているという事の証拠に過ぎないのだ。248P

という語り手のセクシュアリティがやはり鍵かも知れない。ウカというパートナーとの関係や語り手の顛末はそうした要素の反映で、通常の意味での恋愛は描かれない。人形愛を題材にする『硝子生命論』や、相手のいない恋愛を描こうとしたという「タイムスリップ・コンビナート」など、人間でないものへの愛というのは著者の年来のものだ。

語り手はウラミズモの建国神話を作り上げる任務を与えられ、オオクニヌシスクナヒコナ、ミズハノメといった記紀神話の読み換えを通じてそれを行なっていく。基本的に語りはモノローグだし神話の書き換えという作業をしているのに、終盤で独特の情感が立ち上がってくるのに圧倒される。

常世よ。海上に燃える火が不可能を可能に、夢を現に。 266P

神話のイメージと水晶のモチーフで、性愛的でない愛やおぞましい核心を秘めた国家を描き出す。のちのおんたこ三部作や近年のウラミズモものなどと設定を共有する長篇群の重要なピースで、紙での再刊を機にここから入るのもいいかもしれない。著者の作品はときにきわめて論争的な背景を持っていたりして文脈がよくわからなくなることもあるかと思うけれど、近作ほど時事的でないし、男女逆転架空社会SFとして独立性が高く、上記の通りかなり親切な自作解説もついている。

なお「人形愛者たちの幻視建国」を描いた『硝子生命論』(『ガラス生体論』として言及される)の語り手「火枝無性」と本書の語り手が同名という連続性や、初期短篇「アケボノノ帯」っぽいイメージがあったり、本書の二尾銀鈴と猫沼きぬは『ウラミズモ奴隷選挙』で再登場(「双尾」銀鈴と表記がわずかに違う)して、保護牧場のエピソードを「選挙」と絡めて再話されていたりする。
笙野頼子の「ヒステリー」としての文体 - 「壁の中」から
このリンクは今見るといろいろ言いたくなるけど、十五年前に読んだ時の記事。

水晶内制度

水晶内制度

ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

  • 作者:笙野頼子
  • 発売日: 2018/10/23
  • メディア: 単行本

参考として15年ほど前に出した同人誌「幻視社 第一号」に書いた笙野頼子レビューから『硝子生命論』部分を転載する。

硝子生命論

硝子生命論

●硝子生命論
 「男」という性への憎悪を体現した美少年の人形による異性愛という制度そのものへの抵抗から、「国家殺し」たる「人形愛者たちの幻視建国」を描く、幻想的色彩の強い連作長篇。個人的には初期長篇群では最も面白く興味深い作品であるとともに、後の「水晶内制度」との関係を考え合わせると、笙野の作品群の重要な水脈の一つであると考えられる。タイトルとともにミルキィ・イソベによる装幀も印象的。
 この作で「人形」とはほぼ美少年あるいは男に限定されていて、それは重要人物たる人形作家が女性であるからであり、彼女が人形を作るのは女性にだけであるからだ。そして、その人形は必ず死体でなければならない。ここに、この作の眼目がある。
 この作品に出てくる女性たちは、みな「男性」を拒絶している。意志的な拒絶と言うより、いいようもない不快感がある、とか近くにいるだけで恐怖感を感じるとか、ほとんど病的な潔癖さ(つまり一種の身体的な反応に近い)で拒絶している。それは、男、と女と切り分けられて女というカテゴリに自分がいるということが、きわまってしまったものなのだろうか。たとえば、語り手が人形作家と出会った時について。

 だがそれでも、お互い、何かを隠し合って生きているのだとその時にぼんやりと意識した。何か、というのは無論、恋愛の異端的な指向ではなく、憎悪だった。この世界のずっと変らないからくりへの、或いはいつでも外から来る何かによって叩き壊されてしまうしかない、果敢ない感覚や孤立した観念への、或いは、ただ文章に男と女は、と書かれていたというだけで自覚しなくてはならない漠然とした疲れ、体のだるさや、強いプレッシャーや……。34頁

 女が女であるだけで蒙らなければならないプレッシャーが確かにあるらしい。作中、「透明」と表現される制度の網の中に、男は無意識にもぐってしまえるのに、女はそうではないということを語る場面がある。女であるということで強いられてしまう現実の制度への強い憎悪と抵抗を、作中の女性たちは人形を通して表現する。

 ユウヒの作る、布で隠れた人形には本当は性別など必要がなかった。にも拘わらず彼女はそれが少年の人形であることに固執したではないか。私自身もまた同じだった。彼女の顧客たちも。それとも、それは単なる異性憎悪の変形に過ぎないのだろうか。いや、正確には異性に現実や制度を象徴させることで、それらへの憎しみを煮詰めて行くための、憎悪を核にした幻の愛だろうか。55頁

 現実なり男たちなりに抑圧された女性たちが死体人形に憎悪をこめて愛惜する。ここではそんな屈折した異性愛が描かれる。そして、現実の制度を嫌悪する者たちによって人形の国家が、奇怪な儀式によって打ち立てられようとする。
 観念的で幻想的、なおかつSFの影響も強い作品で、わりあい難解な小説である。また、初期から続く憎悪と殺意のテーマが異性との(非)関係を通して語られる非常に珍しい作品である。
 非常にまとめにくい作品だが、読み応えもありかつかなり強烈な作品だ。

ついでにこちらも河出書房あたりで文庫化されて欲しいところ。

原爆、引揚げ小説四冊

ちょうど手元にいくつかあるし、と八月の二週目ごろに原爆、引揚げについての小説を読んでいた。

青来有一『爆心』

爆心 (文春文庫)

爆心 (文春文庫)

長崎に住む人々を描く六篇の連作集。必ずしも原爆の被爆者ではない語り手を置くことで、土地に根付く歴史と記憶の断面がかいま見える、長崎に生きるということについて書かれている。浦上天主堂が表紙にあるように、原爆とカトリックキリシタンが基調の連作だけれど、他にも共通するのは家族の崩れが描かれていることで、原爆という切断、空白、途絶の影響はカトリックの信仰にも家族にも亀裂を入れる。

妻を疑い狂っていく「釘」、母の死期が近い「知恵遅れ」の四〇代男性の家族のない嘆きの「石」、被爆者と知覧の特攻隊の生き残りの不倫の「虫」、原爆で多くの家族を失った資産家に嫁いだ女性が少年を誘惑する「蜜」、四歳の子を失った男と妹を同日に失った老人とが海が迫る幻想について語る「貝」、そして瓦礫のなかから乳児だけが見つかって戸籍の親の欄が空白の男性が自らのことを手記に書く「鳥」。「釘」からすでに家族の崩壊とともにそこまで住んでいた土地を失うという、それまでの歴史の途絶が語られており、原爆という巨大な破壊が爆心地を空白にした傷痕がさまざまに刻まれている。「虫」では、マリア像のまえで不倫を働きながら、家族が全滅して自分が生き残ったのは神の思し召しだという語り手に対し、宣教にも勤しむ男性が、神にとっては人間も虫も同じだと言い放つ。

「おれらは虫といっしょさ。食べて、交わり、子を残していく……。誰が生き残り、誰が死ぬかは、ただの偶然でしかなか……それだけのことさ……」
「わたしは、家族が全部、死んでしもうて、わたしだけが生き残ったのは、なんか神さまの考えがありなさっとやろうと思います」
「神さまは、われらひとりひとりの顔を見てはおらんよ。人は多すぎる。この地上にはどこにも溢れておるやろうが、虫といっしょさ。虫の一匹、一匹の生き死にには、神さまは眼もくれんやろう。名前もなく、どれも同じ顔をしておるけんね。だから、虫も、つまらん信仰などもちはせん。虫には神さまはおらん。人間が虫よりもどれほど偉かと言うのか」118P

浦上天主堂を破壊した原爆の理不尽とカトリックの信仰の問題。一家の最後の人間になったかと思ったけど、あなたが最初の人間になればいい、という被爆後の慰めについて話す家で、記念式典の日に蛇のように子供を誘惑する女性が描かれる「蜜」の皮肉もあれば、家が途絶える話のあとに、親のない子が養母に拾われる「鳥」が継承を描いているようでもある。すべてが破壊された空白の爆心をめぐって、何十年も後の現代においてもいまだ影響を残す長崎という土地。被爆の経験をさまざまに織り込んで非常に読み応えのある小説で、文芸文庫あたりに入れておくと良いんじゃないだろうか。谷崎賞伊藤整賞受賞作。

しかし、作者によれば「蜜」がもっとも読者の好悪が分かれるらしいんだけれど、私には「石」がちょっとな、と思う一作だった。「石」の語り手は「知恵遅れ」ゆえに女性に惹かれるとすぐ追いかけたりつきまとったりして警察に厄介になるなど、ストレートに性欲で動く人間で、読んでて非常に抵抗がある。痴漢あるいはセクハラ男性の明け透けな意識の描写のようでもあるからだ。ただ、この「せっくすばさせてください」という神への祈りは孤独ゆえに家族を持ちたいという切実さに繋がるところには打たれるものがあるんだけれど、「家族」の名の下にやや読者の反応が甘いのかも知れないと思った。「蜜」がもっとも反応が分かれるのは、若い女性が原爆への等閑視とともに不倫を働き家族を壊すような振る舞いに自ら及んでいるからではないか。だとするとこの家族への保守的な態度がより「蜜」を嫌悪させるような感覚の由来ではないか、と。まあ想像にすぎない。「石」はじっさい、なかなか挑戦的な作品ではある。「石」の男性が日付を克明に記憶しているところなんかはやはり日付が重要な意味合いがあることの示唆だろう。
「原爆文学研究」18号に本作の小特集がある。

原爆文学研究〈18〉

原爆文学研究〈18〉

  • 発売日: 2020/01/01
  • メディア: ムック

林京子祭りの場・ギヤマン ビードロ

長崎で被曝した作家の初期作品集二冊の合本。75年に発表され群像新人賞芥川賞を受賞した「祭りの場」は三〇年前の被爆の壮絶な様子を淡々とした調子で描き出す。原爆文学で芥川賞を受賞したのはこれが初めてだという。『ギヤマン ビードロ』は12篇の連作で、なかでも三〇年後の同級生らとのかかわりから記憶の断片が繋がる瞬間が印象的。

原爆爆心地の半径500メートル以内の死亡率は98.4パーセントだという。著者は1.3キロ離れた三菱兵器工場で被爆した。「祭りの場」は工場で偶然にも生き延びてから家族のいる諫早に戻るまでの過程を、自身の体験のみならず散文的なドキュメントのように、他人の話や救護報告書などの報告を織り込みつつ書いたもの。とりわけ印象的なのは、爆心地松山町に住む老婆が山から家に帰ろうとした時、山から松山町を眺めたら、そこがクワでならしたようになにもなくなっていた場面。

 私たちは松山町の裏山、段々畑に出た。街はなくなっていた。褐色になったガレキの街をかすりのおばさんは黙って眺めていた。後から歩いて来た黒いモンペのおばさんは「うちのなかあ――」絞る声で腰を折って絶叫し、ばあちゃんの死んだ、ばあちゃんの死んだ、と泣き出した。
 松山町はくわでならされたように平坦な曠野になっていた。40P

探すまでもなく死んでしまったと思っていたら、壕のなかで生き延びた夫がいたという挿話に繋がるけれど、その夫もじきに放射線で亡くなることになる。熱線、爆風、放射線の三つが襲いかかるわけだ。語り手の伯父が長崎医科大学で講義を受けていたはずの息子を探しに行ったら教室には骨と灰の山しかなく、贈った万年筆のペン先で息子を判別した話も壮絶で、戦後天皇諫早に来た時、見に行こうとした妹を止め、雨戸を全て閉めたという悲しい抵抗の挿話もある。戦争では万単位で人が死んでるわけだけれど、この一瞬で全てが消えてしまう凄まじさはそれらとは一線を画したような異様な事態で、個人の目からの描写なのに、歴史、人類史的な何かが起っているというざわついた感触がする。淡々とした書き方のうえ、時折挟まる文章には戦争は人間ドラマの優れた演出家だ、というようなほとんど陳腐なレトリックがあって、その陳腐さをあえて放り込んだような突き放した感覚がある。

『ギヤマン ビードロ』は、被爆から三〇年後、高等女学校の同級生たちと再会した時の様子を中心に、上海育ちの引揚者でもあり学徒動員での被爆者でもある語り手がその歳月を想起しつつ見えていたものと見えていなかったものとに直面する連作集で、少し後藤明生『夢かたり』を思い出させる。14歳までをほぼ上海で暮らした語り手は1945年の三月に日本に赴き、八月に被爆する。連作は概ね被爆後のことを書いているけれども、時折上海でのことも語られ、上海と被爆の二色がベースになっている。複数の登場人物を配し、被爆してない同級生を置くことで、『祭りの場』より語りに膨らみが増している。

解説にもあるように、連作でとりわけ印象的なのは「空罐」と「友よ」だろう。「空罐」は解体直前の高校に再訪し、当時の記憶を友人たちと語り合うなかで、体内の硝子の破片を取り出す手術で来れなくなった友人が、被爆後空罐を毎日学校に持ってきていた少女だったことが判明する。父母の骨を入れた罐を持ち歩いていた少女の記憶は、語り手の心に錐を刺しこんだように痛みとなって残っており、被爆で体内に埋め込まれた硝子とどこか重なり、それは「ギヤマン ビードロ」で長崎のガラス細工にはヒビの入ってないものはない、という話とつながる、長崎とそこに住む人の傷の象徴でもある。

語りの視野の相対化ということでは、友人西田が被爆してないこととともに、被爆者同士でも一家全滅して生き残った者と、家族は諫早におり自分だけが被爆した語り手という差異もある。「友よ」もそうした体験の違いが現われた一作で、結末の場面はとりわけ印象的だ。さまざまな被爆体験と、さまざまなその後。

なお、「祭りの場」にはウルトラセブンスペル星人事件についての言及がある。1970年10月10日の朝日新聞に原爆の被害者を怪獣に見立てるなんてかわいそうだ、と女子中学生が指摘し話題になった、とあり、原爆文献を読む会の会員の抗議の声などを紹介し、こうある。

事件が印象強く残ったのは確かである。「忘却」という時の残酷さを味わったが、原爆には感傷はいらない。
 これはこれでいい。漫画であれピエロであれ誰かが何かを感じてくれる。三〇年経ったいま原爆をありのまま伝えるのはむずかしくなっている。
――中略
 漫画だろうと何であろうと被爆者の痛みを伝えるものなら、それでいい。A課の塀からのぞいた原っぱの惨状は、漫画怪獣の群だった。被爆者は肉のつららを全身にたれさげて、原っぱに立っていた。34P

この突き放した感覚は語りのトーンと同じものだ。

後藤明生を引き合いに出したけど、林は後藤より二歳年上で外地育ちという点も似ている。原爆文学が芥川賞になったのが林が最初だというのは、敗戦時に十代前半だった人たちがその体験を言葉にするまでに三十年近くかかった、ということで、引揚げ小説が70年代に多く出たという話と似ている。

しかしこの八月のさなかに原爆文学を読んでると、日光、原爆、コロナの三つの光環が重なってなんとも言えない重みがある。自分はあまり原爆文学を読んでいない。有名処もほとんど読んでない。『黒い雨』も原民喜も。気分が暗くなるのがわかっているのであえて敬遠していて、「祭りの場」を読んでまあ当然なかなか重い気分になった。

吉田知子満州は知らない』

満州は知らない

満州は知らない

中国残留孤児の問題を絡めた、日本に来た中国人を扱う三つの中短篇を収めた引揚げ小説集。表題作は孤児となりある日本人に連れられ日本にやってきて叔母夫婦のもとで育った女性が、両親の記憶もないまま自身の根拠を探しあぐねる根無し草としての生を描く。

自身の由来というミステリ的な謎の探索があるけれども、主軸はむしろそうしたルーツのわからなさからくる日常生活の微細な嫌な感じにあるようで、満洲帰りに感づいてる隣人の鬱陶しさや、満洲帰りの親睦会などに出席してやや後悔したりする。周辺状況から推測できる答えも、さらに自らをアウトサイダーとして見出すことになり、中国と日本とのあいだでどちらからも距離ができてしまう。本書の三作はいずれもそうした寄る辺なさを描いており、外地で日本人として育った引揚者とはまた別の、自分は日本人なのかという疑いが兆している。

冒頭の「帰国」も、残留孤児の姪を迎えたものの、彼女は日本語がわからず意思の疎通にも不自由し、ある日ヘリコプターの音に恐れをなして逃げ出してそのまま不可解に死んでしまう。日本語の分からない日本人が日本に「帰国」しても、生きる場所がそこにはない。

「家族団欒」は事故で孤児となった日本人が中国人の男と結婚し、その後日本に家族とともに移住して数年後、という時期を描いている。異国で言葉の通じぬ夫とある程度日本になれた妻とを相互に語り手に据え、家族も中国名と日本名とで別様に呼ばれ、その距離を描いている。

中国から日本にやってきた中国人、日本人双方のありようをさまざまに描いた連作のようになっており、青来有一『爆心』の「鳥」のように自身の根拠が空白になる戦災孤児の問題として通じるものがある。満洲を軸に、戦争の影響が数十年後の日本人、中国人とのあいだにわだかまる様子が描かれるとともに、「帰国」などで、一度幼い頃に会った程度の関係にもかかわらず、孤児と親族との再会があたかも感動のドラマかのようにメディアによって演出される様子を皮肉に捉えている。感動の再会というメディアの演出で見えなくなっているものは何か。

表題作には引揚者がさまざまに描かれ、主人公が家族のなかで実子と差別化されてる様子や、引揚者コミュニティで関東軍軍人の妻がそこから排斥されるコミュニティ内部の分断が描かれてもいる。引揚げてきた貧乏人たちの暮らすスラムのようになっているエリアが言及されたり、無一文で帰還した引揚者たちはしばしば厄介者と扱われた。

しかし静香は大畑正子のことを叔母に訊ねはしなかった。叔母が自分からその話をする時に聞いているだけだった。その話になれば必ず戦後の疎開生活の惨めさが語られる。どん底状態の時に運びこまれたもう一つの厄介なお荷物。お行儀の悪い子だった、という。なかなかなつかない上、土足で部屋へあがってきたり、卓袱台に腰かけたり、そのへんに唾を吐いたり。たしかに静香は迷惑な闖入者だったに違いない。小学校に上るようになった頃は他の子と同じようになり、成績も悪くはなかったから、その後については大した話題にはならない。繰り返し語られるのが、来てから数ヵ月の間のできごとなのだった。48P

貧しい人々として「開拓」という言葉を避ける、という差別があったことも触れられており、引揚げが当時どう見られていたかがうかがえる記述もある。残留孤児というとおり多くが子供でもちろん被害者だけれど、植民地拡大と同国人をも平気で見捨てる日本の政策による加害がまずあることを忘れてはならないだろう。特攻隊のそれのように、被害や犠牲にフォーカスすることで、加害者の存在を不可視化する罠がある。

青来有一林京子は去年対談した長崎出身の陣野俊史さんの『戦争へ、文学へ』で論じられていて本を買っていた。吉田知子のものは、対談のなかで話題に出て、あまり引揚げ者だったという印象がなかったのでその後手に入れたものだった。陣野さんは『爆心』の解説を書いている。
図書新聞に陣野俊史さんとの対談が掲載 - Close To The Wall

安部公房『けものたちは故郷をめざす』

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

(おそらくは)昭和二十三年冬、敗戦による満洲国崩壊後のソ連国府軍八路軍入り交じる中国で巴哈林という街から未だ見ぬ日本を目指して19歳の少年が旅立つものの列車は転覆し、そこで出会った怪しい男とともに厳寒の荒野を果てしなくさまよい歩く引揚げ小説。安部公房の三冊目の長篇で、1957年刊行。

男は最初汪と名乗っていたもののその後高石塔という中国人だと名乗り、母親が日本人で、日本語朝鮮語北京語福建語と蒙古語とロシア語も喋れるという。敵か味方か怪しいけれども、彼を頼らざるを得ないまま荒野に迷い出る道中はあまりにも厳しく、寒さと飢餓と疲労に苦しみ二人は寝てばかりいてさまざまなものが朧気になってしまう。荒野の道中は、孤児となり自身を証明するものが何もなくなった少年の存在の様態そのものでもあり、日本ではなくなった満洲だった土地の混乱そのものでもある。瀋陽にたどりついてもその日本人街には立ち入ることができず、ここは岩波文庫版解説にもある通り「赤い繭」の感触がある。証明書とともに久木久三という名前もまた奪われ、アイデンティティを剥ぎ取られたけものには帰る場所がない。満洲生まれの少年は日本にいながら日本に帰ることができないラストシーンは印象的で、外地出身者の「帰国」をめぐる不条理がある。引揚げを描いた短篇、五木寛之「私刑の夏」を思い出す。

安部といっても前衛的な作風ではなく、サスペンスある逃避行を描いたリアリズム風小説だけれど、登場人物が大半において疲労困憊してたり死にかけたりしてしばしば昏睡し、意識が朧気で夢幻的な雰囲気がある。またところどころの表現もやはり安部公房だ。

アレクサンドロフの部屋を逃げだそうとして、ドアを開けたあの瞬間のことを思いだす。そのドアの表には希望と書いてあり、しかし裏には絶望と書いてあったのかもしれない。ドアとはいずれそんなものなのかもしれないのだ。前から見ていればつねに希望であり、振向けばそれが絶望にかわる。そうなら振向かずに前だけを見ていよう。101P

とか、救援を期して立てた旗のひるがえるさまを、「まるでそこから見えない手がのびて、遠い世界を呼んでいるようだ」(117P)と表現したりするあたり。そしてこの終盤の一節。

……ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな……いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない……もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな……おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ……一瞬、火花のような夢をみた。ずっと幼いころの、巴哈林の夢だった。高い塀の向うで、母親が洗濯をしている。彼はそのそばにしゃがんで、タライのあぶくを、次々と指でつぶして遊んでいるのだった。つぶしても、つぶしても、無数の空と太陽が、金色に輝きながらくるくるまわっている。そしてその光景を、塀ごしに、もう一人の疲れはてた彼が、おずおずとのぞきこんでいるのだ。どうしてもその塀をこえることができないまま......こうしておれは一生、塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか?……塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……禿げのいうとおり、けもののようにしか、生きることができないのだ…… 296P

アイデンティティと抜け出せない迷宮感覚は『壁』その他まさに安部公房の基底という感じもあり、バラードのSF作品に対する『太陽の帝国』を思わせるところがある。

『傭兵剣士』『あがない』『息吹』『年刊日本SF傑作選』その他最近読んだ諸々

最近というか半年前からのでブログにまとめてなかったものなど。

ジェームズ・ウィルソン、岡和田晃『傭兵剣士』

傭兵剣士 (T&Tアドベンチャー・シリーズ7)

傭兵剣士 (T&Tアドベンチャー・シリーズ7)

『トンネルズ&トロールズ』というRPGのソロアドベンチャー集、だと思う。ゲームブックというかRPGを一人で遊ぶためのものかな。ここらは全然知らないので最初ルールの複雑さに面食らったんだけど、キャラは付属の作成済みを使い、いろいろ省いてシナリオだけ読んだ感じに近い。表題作はシックスパックという岩悪魔がほんとうに食えないやつで油断すると殺されるのが笑った。この食えないパートナーと地下迷宮を攻略するんだけど、分岐や元いた場所に戻ったりを繰り返しているうちに、わけもわからずクリアできた、という感じで、これはこれでゲームブックらしい迷宮感覚を味わった。表題作とキャラを共有する岡和田さん作の「無敵の万太郎とシックス・パックの珍道中」三部作は、タイトル通りのデコボココンビで、シックスパックに酒を与え続けないといけないシステムになってたり、顔に時計がついてるキャラどっかで見たぞ感とか、「旧き神々」って一文があったり遊びが多い。付属の漫画はこのリプレイで、超速で進むのが面白かったけど、シックスパックが酒を飲む擬音が「しょごすしょごす」でオイやっぱりクトゥルーじゃねえか。

本書は岡和田さんから頂いたんだけど始め方を見てみたらあまりの手順の面倒さに尻込みしてて、今回も最初戦闘も手順通りにやってみたら一戦闘にすんごい手間が掛かってこれは果てしないぞ、と失礼とは思いながら戦闘を省いて冒険点計算も省いて、いろいろ省いてようやく進めた。ウェブのダイスロール使って、紙に戦闘のターンごとの数値を書き込みながらやるの、人力プログラム感がすごかった。きっちりこのゲームを進めていく人たちはすごい。ダイスや計算を手ずからやることで紙から世界や物語が立ち上がってくる手応えがあるんだとは思うけど。『ブラマタリの供物』は、親切なゲームブックだったんだな。

倉数茂『あがない』

あがない

あがない

  • 作者:茂, 倉数
  • 発売日: 2020/06/26
  • メディア: 単行本
表題作は解体業者で働く中年の男性を主人公としながら、薬物依存に陥った過去を持つ人の語りを随所に差し挾み、過去を贖うように真面目に働き独居老人の世話をしたりもする主人公の現在をさまざまな水のイメージとともに描き出しつつ、ある決断を描く中篇小説。解体業者で働く茅萱祐はある日現場で寝ていた男を発見し、警察と救急を呼ぶ。謎めいたその男は後日、なぜかとつぜん祐の会社の社員として働き始めた。祐は過去に薬物依存の果てに刑務所に入っていた過去を持ち、人と距離を取りながら生きている。随所に挿入される薬物依存に陥った過去を語る人々の話は、さまざまな事情で厳しい状況にある人が、そこから抜け出そうとしたり真面目に生きようとするあまり薬に手を出してしまった場合が多い。鬱病とも似た、生真面目さと気の弱さゆえにハマる罠だ。祐が解体業を丹念に務めることによって過去の罪を少しずつ少しずつ償うかのような描写とともに、作品には水のイメージが印象的なかたちで現われる。一日一日、頭のなかのガラスのコップに一滴一滴冷たい水をためていけば、コップから盛り上がることはあってもこぼれない、という想念。一日を過ごしながらどこかで表面張力が破れてしまう怖れが感じられるイメージは次の行で「いつになく連想が地の底を這う暗い水に移った。地下の水脈は決して途切れない。涸れず、已まず、いつでも人の目の届かないところを繋ぎ、流れ続けている」(18P)、と続き、ここに本作の主調が現われている。地の底を這う暗い水が、つねに真面目に生きようとする人間を罠に掛けようとしている。どこからともなくどこにでも現われる人生の落とし穴。祐は注意深くそれから距離を取ろうとしていても、薬物のような魅力的な人間として現われた罠に、周りの人間が一人一人と落ちていく。血が滴る死体袋のそのさらに下に閉じ込めたはずの橋本から手紙が届き、そして成島は橋本のもののはずの豚の記憶を語って、その「暗い水」としての「繋がり」を示し、「涸れ」ない水の流れが姿を現わそうとした時、祐は自分の罪過と向き合い、悪との戦い、真にあがないとしての剣を懐に忍ばせる。本作には本質的には幻想小説なものがリアリスティックな表面を借りて描かれているような感触がある。水のイメージが緊張感と不穏さをまとって現われているけれど、そういえば「文学+」に発表されていた荷風論も水のイメージについて論じられた文章だった。そして併載短篇が「不実な水」。水尽くしといっていい。窓ガラスを流れていく水滴の流れが、水滴宇宙と広がっていく子供の語りは印象的で、「暗い水」に対する生命の由来としてのそれのようにも感じられ、火にくべられるヒトガタと水の不定形さは対比的なイメージにも見える。「ふるふる」の擬音に「銀の滴」のアイヌ神謡の残響があるような、ないような。カバーをとった本体は淡い水色で、本書に底流している水のイメージがここにもある。本書は倉数茂さんに恵贈頂きました。ありがとうございます。

筒井康隆富豪刑事

富豪刑事 (新潮文庫)

富豪刑事 (新潮文庫)

本書を原作にしたアニメがやると聞いてずっと前に買っていたこれを読んでみたら、思ってたよりも富豪の刑事がまともな人間で意外だった。もちろん金でとんでもないことをするって面もあるけどむしろ膨らんだ資産を有用なことに使う、というのが動機にもなっている。推理小説としての側面とそれをぶっとばす富豪というアイデア、語りのカジュアルな実験などいろいろ面白い小説だ。で、いまアニメがやってるんだけど、主人公の設定も鈴江の設定も全然違ってて、話も原作とは関係なくて、それはそれでいいんだけど大助がいかにも金持ちのステレオタイプっぽくなってて逆に古くさい。タイトルとキャラ名と富豪という設定以外はいまのところ似てない。似てないのは良いんだけど面白くないのが一番の問題。一話に筒井自身が声優として出演していた。

草上仁『七分間SF』

7分間SF (ハヤカワ文庫JA)

7分間SF (ハヤカワ文庫JA)

前作より長めの30ページ弱の短篇11篇を収めた一冊で、古典的なアイデアストーリー風のSFが揃っており、スタイルとしては古くてもなかなか楽しめてしまう安定感がある。ドタバタを上手く収める「スリープ・モード」と、「パラム氏の多忙な日常」がよかった。とはいえ、一篇七分で読める、とかいうタイトルは全然そんな時間では読めないけど?煽ってんの?と思うし、各篇のアオリは要らないなと思う。作者は飛浩隆と一年違いの同世代で、SFマガジンに作品を発表してデビューしたのも同じ1982年だという。

北野勇作『100文字SF』

100文字SF (ハヤカワ文庫 JA キ 6-9)

100文字SF (ハヤカワ文庫 JA キ 6-9)

「限られた字数で語られる物語はどこか懐かしのSFらしさとともに認識、記憶、自己同一性、人類を問う現代SFでもありながら、フフッと笑わされてしまうユーモアと意外性に満ちている。」これで100字ちょうどのはず。帯で飛浩隆とかテッド・チャンの名前を出してるけど、ところどころ読み味が円城塔っぽくなる部分があるな、と思う。

島尾敏雄『硝子障子のシルエット』

葉篇小説集と副題がある通り概ね五ページほどの短い作品が並んでおり、夢を描いたような不穏なものから神戸から東京小岩に越してからの生活を描いた私小説的なものまでが収められる。私小説的なものは特に、ある日家に居座った猫との生活を描いたものが良かった。夢を描いたものは文章もなにか独特で危うい感じが良い。奇妙なロジックがどうしようもなく真実になる夢の感覚。表題作は自分の家を外から見た時に硝子障子に自分のコートのシルエットが映る、という作なんだけど、安部公房の「赤い繭」みたいな感触がある。

伊藤邦武、山内志朗中島隆博納富信留編『世界哲学史4』

世界哲学史4 (ちくま新書)

世界哲学史4 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 新書
ちくま新書哲学史シリーズの四巻。とにかくトマス・アクィナスが重要な存在で、半数以上の章で言及されたり、唯名論実在論とかアラビア、イスラームの影響とかいろいろあるけど、特に面白かったのは本間裕之の三章でのオッカムによる「存在」と「本質」についての議論だった。存在と本質は、「同じものを表示しているが、一方は名詞的なしかたで、他方は動詞的なしかたで表示しているのである」とオッカムはいい、この二つが置き換えられないのは「表示対象が異なるからではなく、ただそれらの語が有している文法的機能が異なっているからである」(76-77P)と著者はいう。

垣内景子の朱子学を論じた八章も結句が面白い。「今日なおこうした問いかけを続けることは、朱子学の洗礼を受け、その素地のもとに西洋近代の諸学問を受け入れざるを得なかった東洋の我々が、現代において朱子学を過去の遺物として完全に葬り去るために不可欠な作業と言えよう」(203P)。これだって学問を現代に学ぶ意義云々の紋切り型と同じことを言っているとは言えるんだけど、これから学ぼうとする学問を「過去の遺物として完全に葬り去る」ことを正面から目的に据える思い切りの良さは中二心をくすぐるかっこよさがある。そんなことしか感想がないのか。今んとこ七巻まで読んだ。

テッド・チャン『息吹』

息吹

息吹

日本では17年ぶりの著者二つ目の作品集で、あえていうまでもなく面白い。特に異世界で科学が世界の不穏な真実を解き明かす大ネタのものや、SF的アイデアがきわめて日常的になった世界での人間性を描き出すものが印象的で、いずれも人間、知性とは何かを問う。表題作は気圧宇宙?ともいうべきこことは別の宇宙で機械じかけの知性体が自己自身の解剖を通して世界の終わりを見いだし、「オムファロス」は「若い地球」説という創造説が正しい説となっている世界での信仰を突き崩す研究結果が、といずれも知性が見出した真実を受容する知性の物語となっている。

真実の受容ということでは「偽りのない事実、偽りのない気持ち」もそう。カメラですべての経験が記録され自由に呼び出し可能になる技術と、文字のない民族における文字による記録の意味とを絡め、人類史におけるテクノロジーと人間の関係にまで視野を広げて問いつつ、記憶と記録の齟齬をめぐって人生を変えた出来事についての真実を知る物語で、語り手は「わたしは、デジタル記憶のほんとうの利点を見つけたと思う。核心は、自分が正しかったと証明することではない。核心は、自分がまちがっていたと認めることにある。」264Pと考えるに至る。

こうしたSFアイデアの日常への落とし込みでは、「オムファロス」での、創造説が事実だということが原始の貝殻の成長輪が途中までしかないそのなめらかな手触りで伝わるところが印象的で、「不安は自由のめまい」での多世界との通信が日常的な犯罪に用いられるようになるまで日常化した状況も面白い。「不安は自由のめまい」での、こことは別の決断をした世界が見えるとき、人は選択、決断の不安に取り憑かれるという観点は、「偽りのない事実~」でカメラからしか自分の過去を見なくなった時「自分という概念はどう変化するだろう」というのと同じことが問われており、そう選択する自己とは何か、という問いが露呈し、技術が人間の形を新たに描き直す様子が描かれる。

チャン作品でもっとも長い、中篇「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は、VR世界での人工知能の育成を通じて、動物とAIの相似と相違、ひいてはAIを育てることが同時に人間とは何かに突き当たるような一作となっている。それは子育てというものもまた無数の選択肢からさまざまなものを選んでいく過程でもあるからで、選ぶことが育てられるほうにも育てるほうにも作用してそれぞれを形作っているという経験でいえば、「不安は自由のめまい」「偽りのない事実~」あるいは「商人と錬金術師の門」にも底流するモチーフだ。「ソフトウェア~」で大きな問題になるのがAIにおける「性」で、今作での結末はともかく、親はいつだって子供がセックスすることは考えたがらない、という意見に対して、親は子供の成長は止められないけどAIは止められるし、AIに性的な側面は必要ない、と反論する場面がある。この意見もまた反駁されるけれど、作中のAIは「ファック」という言葉を覚えたことで数日巻き戻されたこともあり、この箇所では動物、子供、AIとが類比的に考えられていて、AIの自己決定権の問題とともに、読者のあなたはどうするかと問われている気分になるところだ。アイデアが日常レベルに丁寧に落とし込まれることで、自分ならどうだろうかというのが問われているような感覚になる。それが作品の普遍性でもあるけれど同時に人生論というか教訓的な匂いも強いとは言える。いずれにしても非常に高レベルなSF短篇集だということは間違いない。

酉島伝法『オクトローグ』

オクトローグ 酉島伝法作品集成

オクトローグ 酉島伝法作品集成

著者の独立した短篇を集めたものとしては初めての一冊という三つ目の著作。八つの語り、ともとれるタイトルのもとに八篇が収録されており、多くの作品に寄生のモチーフがあるのは、造語による異質な文章が読者の現実認識を侵食していく、語りそのものが寄生を遂行していくからだろう。二篇ほど既読だったけど、著者の資質がわかりやすいのは解説でも言われているとおり「金星の蟲」。刷版会社に勤める社員が金星サナダムシに寄生され、徐々に現実が変容していく過程を描いていて、最初は普通の小説なのが次第に酉島世界に変わっていくまさに「寄生」を描いた一篇。とりわけ楽しく読めたのはラストの書き下ろし「クリプトプラズム」。ある星に現われた謎の物体オーロラから見つかった遺伝子の謎を探りながら、人間の意識のコピー、遠隔操作の義体、AR技術などが縦横に活用された未来社会の描写がなされ、そうしたコピーのモチーフが絡まっていく。異形の世界を異形の造語で語る文章はなかなか取っつきづらく、わかりやすいとも言いがたいけれど、まさに独特の世界が描かれていて圧巻ではある。

しかし、面白いしすごいとも思うけれど、ある瞬間、自分が本作をがんばって読んでることに気がついて驚いてしまった。なんというか、満腹なのに残してはいけないと口に詰め込むように。前著でも感じていたのはこれだったみたいで、どうも、相性が、悪いらしい。自分でも理由ががわかってないんだけど、なんというか、読んでて楽しくない。面白いとは思っている。造語で置き換えられたものをいちいち頭で変換するのが面倒というのが一因とも思うけど、それだけではないか。嫌いじゃないんだけど、好きでもないみたい。とはいえ、群像などに発表された短篇がまだ結構あって、そっちも気になるな。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』

2015年の短篇SFアンソロジー、第九弾。もう五年前だぞ。飛、伴名、酉島、上田、石川と五作品が既読だったのでそれ以外を読む。しかしそうすると本書のコア部分が抜けてしまうな。藤井宮内の20をテーマにしたものは軽妙で良かったし、高野作は弾けまくってて笑ってしまった。『屍者の帝国シェアードワールド小説と言うことでこれもまたパスティーシュ小説になっていて、ドストエフスキー『白痴』とアルジャーノンとマトリックスとなんかその他SF小説SF映画いろいろごちゃ混ぜで、まあSF詳しくなくてもいくつかネタに気づくだろうという多さ。速水作もいいけど、後書きで言及してる森見の別作が本書収録なのも面白い。伴名作もオマージュ先のユエミチタカが同居してたり。他も概ね楽しく読んだけど、本書最長の梶尾作が知らないシリーズの外伝的な一作なうえにちょっと緩い印象でやや微妙だった。

ヘミングウェイ老人と海

老人と海(新潮文庫)

老人と海(新潮文庫)

初めて読んだ。老漁師の海との戦い、孤独なプロフェッショナリズムでいえばテグジュペリ『夜間飛行』を思い出すな。シンプルで芯の太い一作。しかし、解説ではメルヴィルに言及がない。寓話的な読み方をされたというのは『白鯨』があるからじゃないのかな。どうなんだろ。何も知らん。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 行き先は特異点

2016年発表作のアンソロジー。高山、上田、酉島が既読。ここを抜いても結構良かった。掌篇中篇漫画のバランスが良い。表題作の藤井の至近未来ものも円城の法螺話も宮内の煙草ものも谷の地味なやつも安定して良いし、倉田の中篇も新人賞久永も良かった。官能アンソロジーからの小林「玩具」はオチがそれかよとはなるけど死姦百合がぶちこまれててビビる。写真キャプションとして書かれた飛「洋服」は短くていいけど、秋永「古本屋の少女」はツンデレ警官も含めて小品ながら雰囲気が良かった。倉田タカシ「二本の足で」、AIスパムメールが歩いて家にやってくる奇怪な設定ながら、移民社会となった日本での民族マイノリティの境遇と、体をいじられてスパムとして行動させられているらしい嘘の思い出を語り続ける友達を名乗る女性が現われる中篇で、嘘、虚偽、表層、かなり印象的な一作。創元SF短編賞受賞作の久永実木彦「七十四秒の旋律と孤独」、ワープ航法中の防衛用AIという孤独な存在の語りによる一作で、30ページほどの尺に過不足なく詰め込んで鮮やかに突き抜ける爽やかな読み心地でなるほど上手い。漫画とかもそうだけど、同編者のアンソロからは拾わないとかの基準や尺や収録許可の問題もあって、ファンでも読み逃してしまうような幅広い発表元から拾い集めてくるバラエティ感が特色で、傑作選と言うよりレアもの採録やショーケース的な楽しさがあるのは美点でも欠点でもあるな。

米澤穂信『巴里マカロンの謎』

11年ぶりの新刊……。私も小市民シリーズ読むのは八年ぶりだった。そうそう、小山内さんのキャラが良いシリーズだったなこれは、というのを思い出したし、ラスト小山内さんがたいへん良い目を見たのでとっても良かったねという気分になれます。あげぱんの話が本篇最長の90ページ近い長さがあるんだけれど、ロシアンルーレット的に紛れ込んだ一つの辛いあげぱんを誰が食べたのかを延々状況を整理しながら探っていくという事件としては一番どうでもいいようなものなのが日常の謎ジャンルらしいというか、推理のプロセスがバカバカしさと表裏一体のような感じで笑った。オチも。チーズケーキ篇は体育会系のアレな描き方がちょっとなと思うところはあるけど、現実もだいたいそうみたいなニュースを見るとなんも言えねえな。ところで、冬季限定は、出るんですか?

二月公『声優ラジオのウラオモテ2』

声優ラジオを題材にした百合ラノベ第二巻。二人のやりとりとかの安定感は良いんだけど、前巻の事件の後始末篇で、いろいろ違和感が強かった。それまでやってたアイドル的キャラを、「嘘」とか「騙す」と語られるところもその一つで、声優が演じることを「嘘」だと言ってしまったらおしまいじゃないか、と思った。演じるというかキャラというか、以前までのオモテを否定してウラをオモテにしたことで切り捨てられてしまったそれまでのファンに対するけじめをつけるというのは順当とも思うけど、多かれ少なかれ人前に立つことは外行きの顔を作ることでもあるわけで、作中のロジックに釈然としない。

しかし本作ではキャラを作るという「嘘」をついたファンへの罪を償う禊ぎロードを歩むことになる。外的状況もあってそれまでのキャラを反故にしたのは問題だけど、声優のファンってアイドルキャラのファンなの?声や演技じゃないの?という疑問が拭えない。その人のキャラ含めてファンになるのは当然あるけど、キャラの比重が重すぎる。事件の影響もあって仕事が少なくなっているのもあるけど、ラジオを主題にしたことで声優のキャラクターが芝居以上に重要に扱われている。作中でも化粧が出てきて大きく印象を変えるけど、化粧をすることは嘘をつくことなんだろうか? 演じることは嘘をつくことなんだろうか? ウラとオモテを真実と嘘という構図に回収しているようにも感じる。この違和感、「アイドル声優」というものをどれだけ好きになったことがあるかどうか、という問題かも知れない。本作がアイドルの話だったらまだ納得できたか、どうか。○○が好きだとか何らかの属性をアピールしててそれが嘘だった、というならまだわかるけど、そうだったかな。

また終盤の本当の問題は厄介ストーカーの話だったのがすり替わってしまっている。何人も接触しようとした人が出てきたら母親の懸念を裏付けるだけでは。あと怪我人が出て警察沙汰になってるのはラジオで笑い話にできる? 危ないイベントを勝手に開催した形になってるけど。解決が解決になってない感じがする。というわけで私にはかなり釈然としない巻だった。最後の解決策もそれ解決になるか?と思ってしまった。運命共同体としての二人の結束を固める試練、ではあるけど。

百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ

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ここしばらく百合小説を集中的に読んでいて、ツイッターでもその都度書いていた感想を適宜手を入れてひとまとめにした。アニメや漫画に比べてそういや百合小説ってそんなに読んでないなと思っていた時、百合ラノベ、百合SFが三月くらいにばっと出たのを機に、手持ちのなから百合と呼びうる本を集めたら結構な量になってしまった。積んだままなものもいくつかある。ここでは、性愛でないものまで含めた女性同士の関係を広く包含するものを百合と呼ぶ広めの解釈なので、同性愛を描いたものからバディものや友人関係のもの、一冊のなかの短篇一篇だけが百合というものも並べてある。

以下は読んだ順に並んでいる。とはいえラノベから読み出したので下に行くほどジャンル的に硬くなる傾向がある。
目次

鳩見すた『ひとつ海のパラスアテナ』

ひとつ海のパラスアテナ (電撃文庫)

ひとつ海のパラスアテナ (電撃文庫)

  • 作者:鳩見すた
  • 発売日: 2015/02/10
  • メディア: 文庫
陸地すべてが水没し国境線は水平線になった世界を舞台にした海洋SF百合ラノベ電撃小説大賞受賞の百合ラノベその一。両親を失い少年の格好をしてメッセンジャーの仕事をするアキと「ミズ商売」で生きてきた二つ上のタカが漂流の果てに出会い、仲を深め、そして、という作品。百合だと聞いてたけど三分の一近くまでが主人公の単独サバイバル生活で、浮島に舫った船は消え、生魚を絞って水分補給する孤独でシビアな展開で、ほぼ全てを失いかけた故に同じく操船者を失ったタカとの出会いが奇跡となる。ボーイッシュで操船技術がある少女アキと大人びていて世間知があり家事もできるけど船は動かせないタカの二人の関係が描かれてて、タカから女の子らしい振る舞いを学ぶとともにタカの成長した身体への性的な関心が芽生えていく少年のような心情が同居するアキのキャラクターが特色。そんな二人が一緒に生活して、「寝物語」と称して同じベッドで寝ながらタカからこの世界の仕組みや文化やいろんな話を聞いたり、同性同士の近さにどぎまぎするアキとそれをわかってからかうタカのいちゃつきぶりは、主人公が少年では描けないところだろう。空の青と海の青がどこまでも広がるこの世界で一人でいることの厳しさ辛さを癒やし合う二人の関係が次第に強く堅く結ばれていくんだけど、序盤に対して終盤ちょっと都合が良すぎるのと世界が狭いという点はあるにしろそれはジュブナイルらしい優しさか。五年前の電撃大賞受賞作で、数年前に買ったまま積んでたんだけど、青一色のカバーも鮮やかでなかなか良かった。口絵以外には章扉のカットくらいで、文中イラストがないつくりだったりする。

二月公『声優ラジオのウラオモテ ♯01 夕陽とやすみは隠しきれない? 』

同い年同じクラスの新人声優二人が一緒にラジオ番組をやることになり、ラジオでは仲よさそうに話してるけど裏ではいがみ合ってばかりいて、それでも内心相手の仕事には敬意がありかつ売れてる相手への劣等感なんかもにじみ出す声優百合ラノベ電撃小説大賞受賞の百合ラノベその二。ギャル×地味のコンビが声優では二人ともアイドル路線で売り出しててという二段階のギャップがある組合わせで、三年目で新人としての期間が終わりそうなのにまだ芽が出ない由美子を視点人物にして、生き残れるかどうかの焦燥感とともに売れてる千佳への複雑な感情を描く。いわゆる「喧嘩ップル」が死ぬほど好きな人が書いた小説、といえばわかりやすい。いがみ合ってても由美子から見る千佳は何度も美少女だと語られてて、そういうラジオでの仲の良さとその裏での現実での仲の悪さとまた本心での相手への感情と、といったコメディと仕事ものを支える複層的な関係がなるほどよくできている。喧嘩をしててもいがみあってても、お互いの声優としての仕事へのリスペクトがあり、それがこの作品の業界ものとしての真摯さに繋がってて読んでて爽やかなのがいいところ。裏と表が雪崩れ込む終盤、そしてここからが本番でもあるという結末。電撃小説大賞の大賞受賞作で既に一巻のナンバリングがされていて声優ラジオとのコラボやコミカライズまで進んでいるというのはすごいなと思ったけど、読んでみると声優業界ものの面白さもあって、なるほど売れそうor売り出したくなる作品だというのはわかる。ただ、一巻段階だと二人のラジオ自体はあまり面白くないものという位置づけになってしまってて、声優ラジオの面白さを描いてるかというと違う。この手のラジオの序盤はパーソナリティ同士の関係がハマるまではそういうものではあるから、ここは二巻以降の話かな。ラジオパートだと千佳の生真面目さや嘘をつかない性格を知ってる読者と由美子だけがわかる、話の流れで見えてる地雷を自分から踏むことになった千佳が笑える。しかし、ラジオ番組は架空というけどリスナーのラジオネームはなんか聞き覚えがあって実在のをもじってない? 紙の初版カバー裏にSSあるの気づいてない人いそう。
 

みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』

陰キャ」少女が友達欲しさに高校デビューして「スクールカースト最上位グループ」に入ったら、そのトップの美人金持ち唯我独尊の完璧人間に惚れられて、一ヶ月間友達と恋人とどっちが良いかの勝負をするなかでお互いの理想の関係性を問い掛けあう百合ラノベ。同性ゆえ、友達と恋人の間にはどんな違いがあるのかというなかなか核心を突く話になってて、そこから自分たちだけの関係を打ち立てるのは百合の王道感があった。友達にはぶられた経験故に親友を求めていたれな子と彼女に惚れてしまった真唯とのドタバタコメディで、ぐいぐい押してくる真唯に攻められてどんどん崩されていくれな子の抵抗ぶりがみもので、身体の接触を官能的に描いてくるし、百合の良さをお前の身体に刻みつけてやるという圧がある。終盤友達を信じることというれな子のクライマックスが描かれる部分で行きがけの駄賃に別人を陥落させちゃうの、お前!という感じですごい笑ってしまったけど、この始末どうつけるつもりなんだ。表面的でない人間性が見えてきて百合多角関係が交錯する修羅場トップグループ、面白くなってきたね。竹嶋えくがイラストなのもおおと思ったけど、ふりだしにおちる、のむっしゅがコミカライズするというの布陣が強すぎない?と思った。同日買った声優ラジオのウラオモテもこれも同じ姿勢で一緒に風呂入るカラーイラストがあって、なんだこのシンクロニシティは。ブームか。

みかみてれん『女同士なんてありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話』

女同士なんてありえないでしょと言ってたらクラスメイトのクールな美少女にあなたの百日間を百万円で賭けて本当にあり得ないかどうか試してみない、という誘いに乗った少女との日々を描くソフトポルノ百合ラノベ。身体の関係から始まるラブストーリーでわりと性描写がある。本篇二百ページ弱のシンプルな話なんだけどきっちりハッピーエンドに持って行く二段階の種明かしもうまく収まってる。まあ実質一冊二人がいちゃついてるだけというやつですね。勝負の形式だったり友達云々だとか話のパーツは同作者の『わたなれ』とも共通してる部分がいくらかあるけど、こっちはかなりストレートに同性愛の話になってて、ビアンバーなんかも出てくるし主人公がいろいろ知って自分の無神経さを痛感する場面もさらっと書かれてる。受動性と主体性のテーマも『わたなれ』に通じるものがある。しかし、これ同人では四巻まで出てて、商業版も続巻決定らしいけど、どう続くんだろう。いちゃつく他にやることがない、と思ったけど一巻も大概そうだったしそれでいいね。

天城ケイアサシンズプライド

読んだのは三巻まで。昨年末にやっていたアニメを見た後に原作を読んだ。王族の血を引きながら能力を発現させられず、母親の不倫を疑われ政治的抗争の火種になっているメリダという少女と、彼女を暗殺する命を受けて潜入したクーファが彼女の気高さにふれ、自身の能力を移植する禁忌の秘術で能力を授け、戦闘訓練を施して本当の教師としてともにあることを選ぶ魔法学園ファンタジーラノベ。基本的にこの年上鬼畜教師とメリダとの年齢差カップルが主軸だけど、女子校を舞台にしていて、いじめの急先鋒だったネルヴァがメリダに負けてからはいじめと裏腹の独占欲のようなものをだしてきたり、従妹のエリーのメリダへの重い好意など、百合要素も強い作品。百合版ハリーポッターと言われている。アニメから入ると一巻部分はマナまわりが数値化されててゲーム的なパラメータになってるところ以外はあんまり印象が変わらないけど、二巻は三つのイベントが一つになってたり水泳練習がなかったりかなり違う。原作はロゼとのフラグ立ても随所にある。三巻はアニメでのクライマックスにあたり、あるいはここで完結という勢いの総力戦で、老いた魔女の学院長が大活躍し、シェンファ、クリスタらも矜持を見せる盛り上がりが良い。ネルヴァさんは出番薄い。エリーがメリダガチ勢としての濃度を上げつつ、ミュールも妖しく参戦してくるのも百合ポイントか。学院長の活躍やクーファとメリダの関係が擬制的な親と子の関係を示しつつ、血族としての繋がりのモチーフを相対化していく按配。童話にかこつけて着せ替えを楽しんでいる巻でもある。しかし同じシーンを口絵と本文で二度イラスト化してるの笑ってしまった。何が描きたいか明確すぎる。アニメラストは結構オリジナル要素を付け足していてちょっと違う。ジン、マディア、ミュール、サラシャの関係はさすがに原作のが自然だった。アニメはいきなり仲良くなってたし。「応酬されていく」とか、ところどころ動詞の使い方に違和感があるけど、それも文体か。

中里十『君が僕を』

君が僕を~どうして空は青いの?~ (ガガガ文庫)

君が僕を~どうして空は青いの?~ (ガガガ文庫)

  • 作者:中里 十
  • 発売日: 2009/07/17
  • メディア: 文庫
どろぼうの名人』二部作の中里十の商業作品としてはいまのところ最後のシリーズだろうか。「恵まれさん」という現金に触れずに他人にものを恵んでもらうことで暮らしている少女とその執事を任じる同級生がニュータウンの学校に転校してきたことで語り手と出会うことから始まる百合ラノベ。資本主義、宗教、同性愛そして言葉のやりとりをめぐる思弁的小説。同性愛者を認める真名と同性愛者でないと言い張る語り手淳子のすれ違い、といえばそうなんだけど、それが「恵まれさん」という独自の設定を介してさまざまな要素が盛り込まれていて、ジジェクチェスタトンが引用されたりなまなかな感想を言いづらい小説で、非常に面白いと同時に謎めいている。恵まれさんをしている絵藤真名の行動として特徴的な、「なんか普通じゃないよな」というような「気持ち悪い言葉を必ず排除する」という行動や、「ふーん、ふーん、ふーん」「へー、へー、へー」という感嘆詞の使い方とかには、ラノベ的口語文体というより作者が引用している笙野頼子の影響を思わせる。これ八年前に二巻まで読んでて、続きを買ってなかったので後でと思ったら全巻揃えてからずいぶん経ってしまった。同じガガガ文庫でいうと樺山三英ハムレット・シンドローム』を連想させるような挑戦的な一作。
君が僕を 2 (ガガガ文庫)

君が僕を 2 (ガガガ文庫)

  • 作者:中里 十
  • 発売日: 2009/11/18
  • メディア: 文庫
問いと答えをめぐるコミュニケーションの攻防百合ラノベ二巻。真名との関係ともう一つ、溝口れのあという父の再婚相手をめぐる関係が軸で、男に媚びを売ることが習慣化している「女の敵」は、淳子が上手を取れるほど簡単な人間ではないことがわかってくるのが面白い。「この家でなにが『普通』なのか、私にはわかんないから」というれのあの両親は「貧乏、無学、暴力」で、祖父の遺産で暮らしている淳子の家庭と鋭い対比をなしている。一巻の「どうして空は青いの?」というサブタイトルが、娘、縁、淳子によって問われたように、二巻は「私のどこが好き?」という問いが二度問われる。しかしこの問いかけに対する真名の答えは笑ってしまった。この関係、すごい。淳子の「私の願いはただ、恋人や友達という枠に入らずに、真名のそばにいること」、というのが自分と相手だけの特別な関係、という方向に行くかと思えば煮え切らなさがあるというか、語り落としがありそうというか。愛をめぐる問いがテーマで、れのあの問い方は逆説的で真名の答えは、なんとも言いようがないな。真名が未来を指すなら語り手の淳子は過去を見ている、という語りの枠組みにもかかわるか。思弁的と形容してたら二巻にspeculativeという言葉が出て来た。
君が僕を 3 (ガガガ文庫)

君が僕を 3 (ガガガ文庫)

  • 作者:中里 十
  • 発売日: 2010/03/18
  • メディア: 文庫
「そんなもの誰が買うの?」という副題通り、資本主義と宗教と芸術がサブテーマとして絡んでる。人をだまくらかす恵まれさん、十億以下では売らずにライフスタイルとしても意味をなさない父の芸術は、経済ともかかわりつつ異物でもある関係を取り持つ。エピローグは予感はあったけど、そういうことか、と。あれから22年後という時間をめぐる話。淳子と真名の関係は、肉体関係それ自体よりむしろ手をつなぐことのほうが印象的。「手をつなぐ。と、幸せになる。なにもかもがただこれだけだったらいいのに」 二人で過ごす幸せな時間の描写が、それはもうここにはない、という感触とともにあって、「真名のそばにいることを、否応なく運命づけられていたらよかったのに」というのはどうしようもなくそうではないことと同様。淳子の欲望はしかし、妹というかたちが良いのかどうか。広告としての恵まれさんの期待を抱かせる、というのは誘惑の恥ずかしさと絡んでるか。笙野頼子『レストレス・ドリーム』が引用されるし、一巻で樺山三英の名前を出したらジャン・ジャックの名前が出て来た。
君が僕を 4 (ガガガ文庫)

君が僕を 4 (ガガガ文庫)

  • 作者:中里 十
  • 発売日: 2010/08/18
  • メディア: 文庫
名字が絵藤、なるほど?という謎をさらに差し出す最終巻。ディスコミュニケーションを繰り返し、言葉をしばしば受け取り損ね、関係を取り結ぶことにも幾度もつかえながら、言葉と、言葉にできないもので結びつく、内井のような「講釈」を拒絶したところで書かれる関係の様相。当時においては幸せとは感じなかった記憶をいま思い出しているなかで幸せだと感じられるのが錯覚だといい、錯覚で良ければあれは幸せの記憶だ、とあるのはさまざまな語り落としが存在するこの小説において書かれていることが、その幸せの記憶だということなんだろうか。高いタイヤを買ったことただ歩いたこと服装のこと、些細な記憶。最後の会話はここで再び会うことの約束で、冒頭の手記はそれが別のかたちで果たされたことを書いた、と受け取っておこう。紙束になった二人。手をつなぐことから指先を触れあわせることへの変化や、副題の問いにいいえ、の意味もよくわかってないけど。作中の描写に対応してか三巻と四巻は表紙イラストで手を繋いでいる。弱さを拒絶する真名、たいしたもんだけどろくでもないというのはこのことだろうか。真名の前では弱さを一切見せなかった縁との関係は何なのか。娘の存在が淳子のある将来を示しているように見えて、そうではないことを明かすのはおおと思ったけど、しかしまた別の謎も出てきたな。執事になったり「恋人」と呼んだり、妹、家族、さまざまな関係と名前のある関係を嫌ってしかし紙束になった、と二人の子が記す。副題がすべて問い掛けになっているように、この小説自体がどこか読者への問いにもなっているよう。百合ではしばしば二人だけの関係性というようなことが言われるけれど、今作ではあえていえば、答えとしての関係ではなく、問いとしての関係が描かれていた、とも。最初から読み返さないと何もわからない奴な気がするな。この、関係を固定化させないかのような描き方は著者がユリイカの百合特集に書いた「解放区としての百合」(「ユリイカ」2014年12月号)での議論がやはりベースにあるんだろうか。

陸道烈夏『こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~』

過日カルト宗教から百合で目覚めた人というのが話題になったけれど、つまりそれです。語弊がありますね。宗教的独裁国家でラジオから聞こえる外の知識を学び大事なもののために外へ出ようという少女二人のバディもの、つまり百合ラノベ、と言ってしまおう。少女二人とラジオ、電撃小説大賞同期の『声優ラジオのウラオモテ』とそこが被るとは。しかし読んでてすごくライトノベルだ!って思った一作だった。親を失った「子供」が仲間とともにこの壊れた世界の裂け目を見つけ出して生き延びるための術を学ぶという物語の、子供たちよ生き延びろ、というメッセージ。知恵と勇気と友達。世界に差し込む光明は作中ではラジオで、現実ではあるいはネット、あるいはこの小説のような本だ。そしてまた、「こわれたせかい」とはどこなのか? ディストピアとはどこなのか? 社会、学校、カルト、家などのさまざまな現実の牢獄でもあり、また民主主義国家としての体裁を破壊し違法脱法不法がまかり通るなかで不況と災害が襲いくるいまこのとき我々が生きている現実でもあるように感じるのはあるいは作者は想像していなかったかも知れないけれども。声優ラジオが良い作品なのは間違いないけど、本作の生き延びろ子供たち、というライトノベルらしさあふれる点、大賞っぽいのはこっちの気がする。『ひとつ海のパラスアテナ』とも似た、過酷な世界をサバイバルする少女二人、という点が被るのがマイナスだったのかな。

小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』

元は百合SFアンソロ『アステリズムに花束を』収録短篇を長篇に仕立て直した一作。男女夫婦での宇宙漁という強固な性別役割分業制度を持つ社会で、異なる氏族の女性同士がコンビを組み、固く結ばれていく過程を描いた萌え百合フェミニズムSF。短篇版と大筋はほぼ同じながら、この惑星での昏魚(ベッシュ)という魚のような存在についての謎や差別的な社会制度、テラとダイオードの関係や生い立ちなどなどかなり掘り下げられていて、一長篇としてきっちり膨らませられている。テラとダイオードの育った社会それぞれの女性が受ける社会的抑圧の描写を散りばめながら、長身で豊満な体型のテラがその身体ゆえに受けてきたセクハラが嫌だったということの言語化を促したり、男尊女卑社会で女同士の漁という同性婚的関係が激しい抵抗に遭いつつ乗り越えるフェミニズムSFの要素も強い。それでいて、ダイオードのキャラや言動はかなりオタクっぽいというか作中言われるとおり中二病的でまた思春期らしい性欲も抱えてたり、一見クールに見えて中身はものすごく感情的だったり、かなり萌えキャラって感じの造形がされている。表紙絵にあるとおりの身長差カップルで、たぶんダイオードは自覚的レズビアンだけど、テラはいろいろ無自覚でその差も肝になってて、むしろ率直に好意を示すのはテラのほうだったりする。同居パートも新しく書き足されているしダイオードの実家パートやテラをエロい目で見ていたのがバレるくだりなんかは笑ってしまう。最後の言い合いなんかはいちゃつきぶりが気恥ずかしいくらいのクライマックス。設定から明白な通り同性婚を思わせる話で、それをドラマにするためにあえて差別性の強い社会を設定した感じもあり、フェミニズムSFとはいっても手堅いものの新味があるかというとそうでもないとはいえセクハラ被害の言語化や性別役割分業の批判はまったくもって現在形の問題でもあるし、百合を社会関係から書くならフェミニズム的要素は必然的についてくる、ということでもある。基本ラインは短篇版と変わらない爽やかな女子バディもので、台詞回しとかかなりオタクっぽい方に寄せたのかなという感じもあってそこそこ読者を選ぶ気もするけど、宇宙漁の無茶さともども面白い。映像配信司としての仕事で培った知識が絡んでいるあたり、『こわれたせかいの むこうがわ』ともちょっと重なってる。知識と想像力の翼によっていまここから外へと飛ぶ、というモチーフがいろいろ設定の肝になっていて、SFだなあ。

藤野可織『おはなししして子ちゃん』

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

芥川賞作家の短篇集。ホラー色をベースにいろんなジャンルの定型を崩していくような作風で、怪奇というか奇想というか、年刊SF傑作選にも採録されたし、たとえば岸本佐知子編訳短篇集に混じっててもおかしくないような感じと言えば伝わるだろうか。表題作は子供同士のいじめから話が始まるけれど、ホルマリン漬けの猿が怖い、という怪談めいたネタが、お話をせがみつづける猿という奇怪な話になり、解説でも言うとおり勧善懲悪にはならずに妙な方向に展開していく。話がしたい、語りたい、という欲望の話でもある。そもそも本書を読んだのは所収の短篇「ピエタとトランジ」が長篇化されたと聞いて、まずはこれからと思ったからだ。「ピエタとトランジ」は高校生でピエタというあだ名の少女のクラスに転校してきたトランジは、事件があると即座に解決してしまう名探偵なんだけど、同時にまわりに殺人事件や人の死を招き寄せてしまう体質を持っている。名探偵ものの長期シリーズは主人公のまわりに殺人事件起こりすぎだろ、というこれはこれで定番の冗談をふまえたメタミステリの枠組みなんだけど、相棒のピエタはむしろそれを楽しみ、もっともっとみんな全滅させようよ、とそれをそそのかすようなことを言う。個人的に、百合ジャンルに多いと感じるものの一つが自殺や心中もので、この世界を拒否して自殺する少女という形象はしばしば見るし、その表裏一体のものとして「少女終末旅行」のような少女とそれ以外が破滅した世界という作品も結構あるんだけど、「ピエタとトランジ」はこの双方が合流したような感触がある。あるいは「ホームパーティはこれから」が描く、女子高生時代の自分たちが一番輝いていたという思い出を大事にしながら、「○○さんの奥さん」という従属物としての社会性に絡め取られていく悪夢と、「ピエタとトランジ」の社会をぶっ壊してもずっと二人でいようというのは裏表の関係に思える。関係といえば「今日の心霊」での写真を撮った女性だけがそれが生々しくグロい幽霊を写した心霊写真だとわからない、というのも、死をまわりに招き寄せるという意味でトランジと似た性質をもっている。また、本書で百合といえば「エイプリル・フール」が挙げられる。一日に一回だけ嘘をつかなければ死んでしまう少女エイプリルの人生と、いま彼女と暮らしている女性がいかに彼女を愛しているかを描いていて、現在時ではエイプリルは四十六歳で、語り手も離婚経験を持つ中年女性同士の関係だ。百合漫画とかでも会社員や大人を題材にしたものは結構あるけれど、中年となるとかなり少ない印象なので、貴重な一作だろう。偏った方向から紹介したけど、他にも現代美術ネタとか成長する本のファンタジーとか美をめぐるSFとか、変な話がつまった面白い一冊。

藤野可織ピエタとトランジ〈完全版〉』

ピエタとトランジ <完全版>

ピエタとトランジ <完全版>

  • 作者:藤野 可織
  • 発売日: 2020/03/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
名探偵にして殺人誘発体質を持つトランジと、彼女と出会ってからが人生の頂点だというピエタの二人が、女は子を産め結婚しろという抑圧を拒否し、感染する殺人誘発体質で人類を破滅させながらそれでも二人一緒に生き続けることを選ぶ、強烈な百合黙示録。一個上のところで本書最後に再録された短篇版を読んだ時、百合ジャンルの自殺・心中ものやその反転としてのポストアポカリプスものの文脈を感じたことと、同作者の短篇「ホームパーティーはこれから」が表裏一体だと指摘したけれど、大筋はその読み通りだと思った。二人でいることが最高に楽しいピエタにとって女子高生時代が人生の頂点でこれから先は、と不安がるけれど、「ホームパーティーはこれから」が描いたように、女性が結婚し職を辞めるという人生はその輝きをくすませ「○○さんの奥さん」なる主体性を奪われた存在へと陥りかねない。男一人独身というのも一人前と見なされなかったりさまざまな抑圧があるけれども、女性は子を産むことができるという点でその身体は社会からより大きな注目を浴びてしまう。ましてや女二人が子供も産まずに、となるとよりいっそう「非生産的」と見られる可能性は高まる。で、女子二人が最高に楽しく生きる、という時に対決しなければならなくなるものとして本作が据えたのが、人間は子を産み血を繋ぎ社会を再生産していくべきもの――ひとまず「生殖主義」としておく――という考え方だろう。そして完膚なきまでにそれを否定する。存在するだけで殺人を誘発する体質のピエタと、長篇では新たに産科医になってたくさんの赤子を送り出し自身も多くの子を産むことが夢の「森ちゃん」が出てくるのは、この対立を構成するためで、殺人誘発体質が感染するという新設定は生殖主義に対する決定的な否定だ。生殖主義を否定するとはどういうことか。それは隣で誰かが殺されててもほとんど無関心になるというそもそもの探偵小説的前提の瓦解と、別にセックスなんてしたくないという男性の出現など、人類社会の常識的認識の崩壊だ。そんななかでピエタはこう書く。

それでも、私は幸せだった。楽しかった。起こってしまった殺人の謎を解くのも、起こっている最中の殺人現場に向こう見ずに飛び込むのも、起こるであろう殺人から依頼人を守るのも、どれも好きだった。234-5P

森ちゃんとトランジの関係はまるでイザナギイザナミのようだけれど、名前の通りイメージのベースは西洋的で、裏表紙には死神の格好をした老婦人となった二人が描かれている。「非生産的」? よかろう我々は死神だ、というわけだ。ピエタは男性と恋愛したり結婚したりもするけれど、妊娠を提案された瞬間それは瓦解する。ピエタとトランジの関係は最後まで性的な関係ではないというのもここでは重要で、アンチヘテロセクシズムというか、異性との恋愛とともに性愛についても第一のものではなくなっている。女二人がともに生きるということの先にあるのは何か、ということに真っ正面から対決した、ある意味百合の極北のような作品ではないかと思ったけど、こういう人類史的なパースペクティヴの百合作品はおそらく既にあるはず。伊藤計劃『ハーモニー』は、どうだったっけ。しかし、女二人で生きることのためにこれほどの代償がいるというのは逆にどれだけ女性に負荷が掛かっているかということでもある。百合ジャンルは女子高生ばかりみたいなことを言われるけれど、学校を出たときに待っているさまざまな負荷を考えると故なきことではない。トランジが終盤でも着ている日本から持ってきたジャージって、女子高生時代のものだろうか。そうでなくともピエタと出会った頃のイメージがあるいはそこにあるんだろう。また、殺人誘発体質に悩むトランジが「死ねよ」なんて言えるのはたぶんピエタだけのはずで、だからこそのラストだ。年老いても人類を破滅させても二人で生きるという女二人を描いたパワフルで爽快な小説で、感染症後の社会を生きるポストアポカリプス百合SFでもある。

宮澤伊織『裏世界ピクニック4』

まあここらに興味のある人はすでに読んでるシリーズだろう、アニメ化も決まっているネット怪談とストルガツキー兄弟『ストーカー』との掛け合わせ百合SF第四巻、説明は省く。AP-1で広がる裏世界探検行、少女終末旅行ぽいところはある。それはともかく、後輩の焼き餅に巻きこまれてからの小桜怯え同衾からの冷たい声の鳥子のくだり、そして温泉あたりの鳥子はだいぶぐいぐいきてて楽しい限り。ホラーとしてもちゃんと怖いので良い。鳥子、冴月から空魚に執着の対象が変わった感がある。「斧は女を美しく見せる」、それほんとにある言葉なんだろうか? 最近斧ガールが流行っているという噂。

森田季節『ウタカイ 異能短歌遊戯』

ウタカイ  異能短歌遊戯 (ハヤカワ文庫JA)

ウタカイ 異能短歌遊戯 (ハヤカワ文庫JA)

精神に感応する「歌垣」と呼ばれる能力を発現させ、短歌によって勝敗を決する競技「歌会」の全国大会を戦う高校生を描く百合小説。元はコミック百合姫掲載だったのがハヤカワの百合SFとして再刊されたものだけれど、SF性は薄く、架空競技ものの一種とみたほうがよい。ただ、架空競技ものにしては試合の流れが粗くて、選抜不参加の先輩と主人公カップルの当て馬でしかない。その分、表紙のカップルがいちゃついてるだけとはいえるけど。ハヤカワ版収録の特別篇が本篇と語り手が違うせいか文章も落ち着いててこれは悪くない。本篇主人公の語りが苦手だったかなあ。『アステリズムに花束を』でも短文コミュニケーションの百合SFを書いており、作者は短詩形式にこだわりがある模様。

瑞智士記『展翅少女人形館』

展翅少女人形館 (ハヤカワ文庫JA)

展翅少女人形館 (ハヤカワ文庫JA)

10年ほど前にハヤカワで展開されたラノベ作家にSFを書かせる企画のうちの一冊。人類が球体関節人形しか出産できなくなった世界で、人間として生まれた希有な少女達が暮らすピレネー修道院に、半人形の少女が現われて起こった事件を描くゴシック百合SFファンタジー。SFガジェットも多いけど概ねファンタジー。噛み合い百合の『あまがみエメンタール』の作家らしく、閉鎖的な場所での少女達の関係が嗜虐的な淫靡さで描かれるんだけれど、ボードレール、「独身者の機械」ほかフランス文学の引用やバレエ『コッペリア』をモチーフにして、文体ともども耽美と残酷さを強調した作風。淫蕩、頽廃、耽美な雰囲気をつくろうとしていて、古い仏文翻訳的な凝った単語を多用した文章は、こんな単語もあるんだとなかなか凝ってるけれど、文章の感覚が現代的すぎてちぐはぐさと冗長さは拭いきれない。また中盤を過ぎるまではわりと平板で、ページがはかどらなかった憾みもある。文章など全体に借り物めいたところがあるんだけれど、作中、人形が多数のなかでは人間こそが異物となるという逆転がまずあり、人間が人形になる変身譚はむしろ人形という人間の偽物こそが本物になるという価値転倒を内蔵しており、あわせてその結末に奉仕するようになってると読めなくもない。これもポストアポカリプス百合の一種だと言いうる一作で、人間が人形を産むのみならず、人間が人形になるという変身に時間を超えた愛が込められている。「母胎より産みだされた球体関節人形は、ただ存在しているだけで、人類を滅ぼせる。人形とは、人間などより遥かに強靱な生命であるのだ」(396P)。口づけできない二人と、口づけで命をつないだ二人の対比的円環なんかも印象的かな。中盤以降はなかなか楽しめたと思うけど、もう一段二段何か欲しい物足りなさもある。マグダレーナにはリゼットが乗り移っていて後々何かあるんだと思っていたけど別に伏線じゃなかった。この文体を読んで、齋藤磯雄訳『未來のイヴ』を開いてみたりしてたら、本作にも『未来のイヴ』が出てきた。この作者の百合ものとしてはまず『あまがみエメンタール』から読むのが良いかな、と思う。別名義の『幽霊列車とこんぺい糖』が百合ラノベとして知られてるけど、未だ読んだことなし。『独身者機械』は読んでないんだけど、概ね男性において描かれてる感がある反生殖の機械的エロティシズムを、少女側から書いた一作だと言えるかも知れない。でも人形愛系SFは結構ある気がする。「女の子はみんな、子宮(おなか)でお人形を育てているわ。自分が理想とする姿形の、秘密のお人形をね」(271P)。

月村了衛『機龍警察 自爆条項』

人間が乗り組み操縦するパワードスーツ、機甲兵装が普及した時代、その新型特殊装備の龍機兵(ドラグーン)が配備された警視庁特捜部を描くシリーズ第二作。IRAから分派したアイルランドのテロ組織の日本での陰謀と、そこに所属していたライザ、そして家族をその組織のテロで失った鈴石緑の現在が東京で交錯する百合SFでもある。第一作は五年ほど前に読んでそのままこれを読んだ。三人の龍機兵の操縦者は元テロリストなどのはぐれもので、特捜部は警察内部からもつまはじきにされているという警察小説としての構図と、アイルランドをめぐるテロ組織に身を投じた女性主人公の冒険小説とが合流した感触。上下二巻にわたるテロリストの謀略と龍機兵によるアクションが派手に展開され、魅力的なエンターテイメント小説としての読み応えを持ちつつ、ライザと緑の、テロリストとその被害者遺族という憎悪が絡まる関係を超えうるかも知れない一瞬を百合というならば百合だろう。普段ほとんど喋らない冷たい間柄でも、龍機兵の操縦者とその技術主任という関係は命を預け預けられる関係でもあるわけで、男たちの世界になりがちな警察小説にあってやはり同性の関係がクローズアップされるのは自然な道行きだ。ライザと緑の関係は続巻の『狼眼殺手』でも再度取りあげられているとのこと。アイルランドをめぐる言葉が象徴的にある種のイメージとして用いられるところや、アイルランド紛争の歴史をあえて説明しないのは気になるけど、そこは参考文献からたどってくれということか。しかし、キリアン・クインというのはキラークイーンのもじりだろうか。ライザの父が飲んでいるのはブッシュミルズ、確か由起谷たちが飲んでたのはコールレーン、最後にアイリッシュコーヒーのベースとして使われるのが、ダンフィーズというアイリッシュウイスキー

柚木麻子『あまからカルテット』

あまからカルテット (文春文庫)

あまからカルテット (文春文庫)

中高一貫の女子校出身の四人の親友たちが、仕事、結婚・恋愛などの三〇前後の人生を過ごすなかで、食べ物にまつわる問題を解決しながら、四人の友情を育み、お互いに頼りあいつつ同時に自己を確立していく百合というかシスターフッドを描く短篇集。直木賞候補にも何度かなってる作家だけど、私は『日本のフェミニズム』に自身の創作とシスターフッドをめぐるエッセイを書いていたことで知った。これまでの作品も多くは女性同士の友情あるいはすれ違い・嫉妬といった関係を書いているという。友人同士の喧嘩やすれ違い、既婚と未婚の溝、友人への劣等感や憧れ、経済的な格差、姑との関係など、いろんな問題はありつつも協力して、あるいは友人達を心の支えにして一人で、前を向いた先に報われる未来がある明るい作風。解決が簡単だなって感じもあるけど、それも含めて軽快。ただ、働く女性も結婚すれば家事労働を担うのが当然だというような結婚や恋愛をめぐる価値観がずいぶん古い感じで、これは今作がそういう方向に振ったものなのかどうかわからない。作者は同い年なだけに気になる。勝手に来て他人の生活にケチつける姑、家から放り出すべきではって思ったな。浮気疑惑を扱った一篇に「男と女に、純粋な友情なんて」というセリフがあってこれに妙に引っかかってたんだけど、純粋な友情は同性だけというのは裏返せば性愛は異性間だけというヘテロセクシズム、つまり同性愛の排除の含意に感じる。深読みだろうか? 本書は2011年の新年を祝う一篇で終わるんだけど、最後の二篇はおそらく震災後の執筆だろう。むろん震災について一切の言及はないんだけど、本書のラストはブラックなオチではなく、未来への祈りなんだろうな、とは思う。しかし辺銀という名字が実在するのは知らなかった。

武田綾乃響け!ユーフォニアム

アニメ化もされた京都の高校での吹奏楽部を描いたシリーズの第一作。まわりの空気に流されて吹部に入った久美子が、部員達や同中だった麗奈らを目の当たりにするなかで、押し隠していた楽器への愛を自覚し直す青春小説。久美子と麗奈の関係だけではなく、端々に百合的な描写がある。まわりに流されやすい久美子の性格は中学の経験にも要因があり、北宇治の二年生の過去や部員達の流されやすさについて夏紀がいう「空気」の話が吹奏楽という集団活動ともリンクするけど、全員で演奏する音楽は個々人の努力と上達からしか生まれない個と全体のテーマがある。だからこそ指揮者の耳はこんがらがった音のなかから個人の音を聞き分ける能力を必須とする。強豪校にも負けないための休日も潰す部活動にはいろいろ問題もあるわけだけど、そこで斎藤葵という脱落者を描きつつ、しかし無償の活動の熱気があるのは魅力ではある。アニメから原作読む時はいくらか不安があるものだけど、これは想像以上に面白かった。アニメで話や人物はだいたい覚えててだからこそかも知れないけれども、単体でも非常に良くできた作品だと思う。手のひらのシワが名もない町の地図に似てた、なんて迷いの表現は印象的だ。アニメと結構違うなと思ったのは大吉山を登るくだりか。アニメ一期八話はとりわけ印象的だったけれども、小説でもデートとか愛とか言うし麗奈が久美子の頬に触れたりはしても、演奏はしないし唇までは触らない。けれど甘い匂いや肌の触れあいに言及する官能的な記述があり、アニメは確かに百合的に描写を盛っているとはいえるけど、原作からしてそういうところがあるのは確か。久美子視点でもあるのか地の文にはかなり少女の身体へのフェティッシュな目があって、そういうカットも多かった印象があるアニメはなるほど「原作通り」だった。というか少女が感情を激発させるシーンでしばしば同時に身体へ目線が行っていて、作者はそういう感情的な少女の姿に関心がある気がする。久美子が同性の他人の身体に非常に興味があるのはもちろん成長のテーマの一環で、秀一の靴の大きさや髭に関心を持ったりするのはそれだ。とはいえ麗奈が美少女だと繰り返すところぐらいならまだしも、耳をかじったらとか背中をさすって下着に触れたり太ももがどうとか、いやこれは違うなってなる。生々しい感情は生々しい身体から生まれるという巧みなレトリックともいえるけど、あすかと晴香の関係にも不穏さは見え隠れしてる。まあ原作では高坂麗奈の本格的な登場は200ページあたりからで、ようやくここでメインヒロインかという感じだったし吉川優子もリボンつけてる描写はないし滝昇もメガネの言及は確か、ない。アニメは諸々ドラマチックに盛り上げたり厚みをつけたり、さまざまに変わっている。秀一とのラブコメ感はあるけど、性格悪っと久美子に関心を抱いた麗奈と、その本気の涙が心に刻まれた久美子との二人の関係で閉じられる本作はやはり二人の話。面白かったのは秀一が久美子以外の女子が苦手という情報。これはなかなか味がある。緑の圧のあるキャラも結構面白くてかなり芯のある人物なのがわかる。あと、京都が舞台でほとんどの人物は方言で話しているのがやはり小説最大の強みだ。女子でも普通に「クソ~が」とかかなり率直な言葉づかいをしていてとても良い。久美子の性格の悪さとかも作者がちゃんと底意地が悪そうでそこも信頼できそうって思った。これが大学生の書いた二冊目の小説だというのは驚き。

松村栄子『僕はかぐや姫・至高聖所』

僕はかぐや姫/至高聖所 (ポプラ文庫)

僕はかぐや姫/至高聖所 (ポプラ文庫)

「僕」という一人称を防波堤にしていた十七歳の女子高生がその「僕」と別れを告げるまでの心理をたどった1990年の海燕新人文学賞受賞作と、学園都市、学生寮のルームメイトとの関係を描いた91年度の芥川賞受賞作の二中篇を収める、百合要素も強い小説集。「僕はかぐや姫」はセンター試験出題で話題になった一作。千田裕生は女子校の文芸部員で、自分を「僕」と呼ぶ。十七歳という年齢にこだわり、繊細で傲慢で反抗心にあふれ、美学を重んじ、早熟でそして相応に幼くもある少女の複雑な自意識と、そんな孤独を愛する部員たちが集まる文芸部を描いている。

「女らしくするのが嫌だった。優等生らしくするのが嫌だった。人間らしくするのも嫌だった。どれも自分を間違って塗りつぶす、そう感じたのはいつ頃だったろう」(46P)
「女子校では誰も女性である必要がない。皆、ただ一種類の人間でありさえすればよかった」(49P)
「少年という言葉には爽やかさがあるけれど、少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある」(57P)

それだけではないけれど、「僕」にはそうしたジェンダー的抵抗が込められており、また同時に裕生は付き合っていた男を同級生の少女に恋をしていることを理由に別れる。タイトルの「僕」はおそらくはカギ括弧を付されるべきで、自分自身のことを指すだけではなく、かぐや姫のように月へ帰ってしまう自分の物にならない「僕」を指してもいる。十七歳最後の二週間に自らを守ってきたものに痛みとともに別れを告げる過程。文芸部員が普通に煙草吸うし酒飲んでるのが可笑しい。90年代頭は女子校でもそんな感じだったのか、ある程度アウトローの表現なのか。バラード『結晶世界』読んでる百合小説確かこれで二冊目で、もう一冊は『ピエタとトランジ〈完全版〉』。「至高聖所」は筑波をモデルにした学園都市での寮生活を描いたもので、不可思議なルームメイトとの生活を通じて、二人がともに親から捨てられたかのような疎外感を持っていることを浮き彫りにしていく様を描いている。主人公の沙月は美人の姉を親のように思いそして「姉を愛していたから」こそ、姉が音大受験に失敗したあと家族の期待を拒否し家を出て働き、結婚してしまったことに衝撃を受ける。ルームメイト真穂もまた実の親を二人とも亡くしてしまい、義理の父に対して「娘」を演じている。学園都市と鉱物、ギリシャのアバトーンでの夢治療を題材にした真穂の書いた戯曲。ひんやりとした鉱物的世界のなかで、眠りと夢によって「淋しいと言って泣くことを淋しいと感ずる以前に拒絶してしまったそんな淋しさ」を交信したのかも知れない、という一篇。武田綾乃につづいて京都在住作家だ。松村栄子といえば菅浩江さんがイベントのトークで家が隣だったと話していたことを思い出す。今もそうなんだろうか。

松浦理英子『葬儀の日』

葬儀の日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

葬儀の日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

このジャンルでは必読書的な『ナチュラル・ウーマン』の松浦理英子の第一作品集。葬儀における笑い屋と泣き屋という二人の女性の関係を描く78年の文學界新人賞の表題作と、女性二人と男たちの夏を描く「乾く夏」、女子寮で肥満の上級生にいじめられる関係が奇妙な展開をたどる「肥満体恐怖症」の、百合も含んだ奇妙な関係を描いた三作を収める。元版は80年刊行。「葬儀の日」は笑い屋と泣き屋というものに対して社会的に偏見があるという話から同性愛の話にも思えたけれど、笑い屋と泣き屋は川の対岸同士のようなものという問答からはもう一人の自分という分身物語にも読める。事実この二人の発言は括弧に括られない。とはいえ今作の複雑さはそういう単純な構図には還元しえないものがあり、少年と関係を持って三者関係になったり、首を絞め合う殺し合いの場面のSM的要素など、他の作品にも通底する特有のモチーフがある。「彼女は死んだ。今日は彼女の葬式だ」この十七歳という年齢ともう一人の自分との別れ、というと直前に読んだ「僕はかぐや姫」ともテーマが重なる、というか、後の発表のかぐや姫のほうがこれを踏まえてる可能性があるのかも知れない。「乾く夏」、タイトルは深夜無人の道を歩きながら放尿していく老人がおり、それが朝までには乾いている、ということにちなんだもの。中心になるのは幾子と彩子の二人の女性と、その恋人達の話で、彩子と別れた後不能になった悠志が幾子と付き合うものの、幾子は鎖陰で性交に失敗する不能の話でもある。彩子の「最終的な願望は心中」だという不安定さと、幾子はその元彼と触れあうとき「彩子の抱かれた腕に抱かれている。それは妙に興奮させる事実だった」といい、彩子と性交しているような気分になり、彩子になっている気もして「三位一体」を理解する、という奇妙な関係が描かれている。

「幾子は非常に安らかな状態になっていた。この人とずっと一緒にやって行けると思った。それ以外の望みはすべておまけのようなものではないか」(153P)

という彩子についての末尾の一文は、この夏の二人を描いた一篇での重要なものがなんなのかを示している。男を媒介にした間接的な同性愛のような、何か。「肥満体恐怖症」は関係の複雑さよりもシンプルなストーリーテリングが発揮された一作で、肥満を恐れる唯子が、同室の三人の肥満の上級生からいじめられているんだけれど、唯子の元同室から、愚鈍なのか寛大なのか、いや違う、あなたは「奴隷の役をすることに歓びを見出すマゾヒスト」だと言われる。肥満の身体をフェティッシュに描きながら、彼女たちの吐いた煙を吸うことに嫌悪を覚え、強く彼女とその身体を意識しながら、肉に押し潰される快楽を描く一篇。嫌悪と一体の強い関心、これも百合ですね。たぶん。「唯子はひそかに、健康体をノーマル、病体をアブノーマル、肥満体をデブノーマルと呼んで差別していた」という、このひどいダジャレみたいなのに一瞬笑ってしまったけど、デブがノーマル、という意味にも読めるなあとは思った。

多和田葉子『献灯使』

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)

災害後、日本は鎖国し文明も後退、年寄りは死ねなくなり子供は日常生活に手間取るほど身体が弱くなった汚染された社会で、百歳を超える男とその曾孫を描く表題作と、百合短篇「韋駄天どこまでも」、人間が消えた後の動物たちの会話が繰り広げられる戯曲「動物たちのバベル」など、震災、原発、言語をめぐる五篇を収めた連作集。「献灯使」は独特の感触がある中篇で、原子力災害後を思わせる汚染や遺伝の変異といったSF要素を持ちながらも、言葉遊びを語りの駆動因にしている部分が強く、翻訳するとこの言語遊戯的側面が伝わりづらくなってしまいそうなのに、よく全米図書賞受賞したなと。英語を学習することが禁止されて、災害を経て動物たちもいなくなったという環境ゆえに、さまざまな言葉が消えたり微妙にズレたものとして現われており、SF的な現実の変容と言語のそれとが絡み合って奇妙な浮遊感がある。子供こそ身体が弱いために、若さは健康を指す言葉ではなくなり、英語が少しでもできれば年を取っている証拠と言われ、ジョギングは「駆け落ち」と呼ばれるようになり、「勤労感謝の日」は働けない若い人に配慮して「生きているだけでいいよの日」となり、ネットのなくなったことを祝う「御婦裸淫の日」ができたという。こうした言葉への意識は、無名という名の曾孫の、

「トイレ」の「イレ」に「入れ」を聞き取り、出す場所なのに入れるという言葉の矛盾を感じた。でも「トイレ」という単語は英語から来ていたらしいから、「イレ」は「入れ」とは関係ないのかもしれない。(134-5P)

と考えるところや、曜日の火とか木とかになぞらえて、火曜日は「理科の時間にマッチを使う実験があって火傷するかも知れない」、「水曜日は水の日だからプールで溺れるかもしれない」などと想像をめぐらすところも面白い。震災と鎖国ナショナリズムが絡み、役所が民営化され、法律はどこかで日々変わっているらしい、というポストアポカリプスでディストピアカフカ的社会において遣唐使=献灯使という外へのコミュニケーションの希求はイスマイル・カダレを連想させるところがある。「韋駄天どこまでも」は、中里十のところでも触れた、ユリイカの百合特集の別の論文*1で「突然の百合」と呼ばれていた一篇。夫を亡くした東田一子は趣味を見つけようと通っていた華道の教室で、束田十子という「美しい女性」と知り合う。二人は喫茶店地震に遭遇し、避難するバスのなかで服がはだけるほど愛撫し合う。体育館の避難所で二人は一緒に暮らし、一子は「幸せ」を感じていたものの、しばらくして十子の姉と男二人と子供が現われ、十子はそのまま一度も振り向かず去って行ってしまう。そして一子は走り続ける。これもまた奇妙な小説で、二人の女性の対のような名前もさることながら、冒頭から言葉遊びで語りが進行していくのが特に奇異。

 生け花をしていて、花が妙なモノに化けることもあるが、たとえばそれは草の冠が見えなくなってしまった時である。「化け花」はこわい。
 趣味をもたなければどんな魅惑のに入らぬうちに人生を走り抜くための力を抜きられて老衰する、と言われて、東田一子は夫の死後、生け花を始めた。(164P 強調原文)

この書き出しの部分は強調がないと意味がよくわからないけれど、「花」マイナス草冠で「化」、「趣味」を分解した「口」「未」「走」「取」が文に散りばめられている。こうした文字の字形を解体して語りに取り入れた技法が多用されている。東田一子と束田十子は、東から一を引いて束に、引いた一を一に足して十にしたのか、画数が同じ名前になっている。だからといって分身だとも思えず、では何だと言われれば答えに苦しむ謎めいた話だけれど、避難の最中の幸福な一瞬を描いた印象的な一篇。「不死の島」は災害後の日本を外から見た状況が描かれていて、郵便が届かず通信ができなくなり、汚染のために飛行機も飛ばなくなり、放射能で人から死ぬ能力が奪われてしまい、民営化された政府の言うことが信じられない、などの状況が素描される。当初はここから長篇にするつもりだったらしく、本書のなかで一番最初に書かれた作。「彼岸」は「想定外のことが起こらない限り、絶対に安全」だという原発に新型爆弾を積んだ戦闘機が墜落する事故によって日本を離れざるをえなくなった人たちが中国に避難していくさなかの一人の議員の心理を描く。この議員は中国を中傷することで不能が回復することを発見し差別中毒になっていた。大きいものを侮辱することで性的に回復する、というマチズモと言葉についての一篇。中国を差別することで票を得た人間が中国に避難せざるを得なくなる皮肉。「動物たちのバベル」は、表題作からは消えていた動物たちが、人間のいなくなった「大洪水」以後の世界で、人の言葉を通じて会話しながらバベルの塔の建設を計画しているという奇妙な戯曲。人間の言葉で動物たちが人間のこと、言葉のことを議論しあっていて、妙に面白い。特に面白かったのは次の下り。

クマ あんたが文明化している証拠は?
イヌ わたしは少年のにおいがする靴を菩提樹の下の草むらに隠している。それを時々出して、においをかいでエクスタシーに浸っている。
クマ 確かに文明的だ。
224P
イヌ 奴隷って何?
リス 危ない職場で働かないと食べていけない境遇に追い込まれた者のこと。人間たちは二十一世紀以降はみんな奴隷だった。(259P)

言語をめぐるオチも面白い。表紙絵のように不思議で不気味でユーモラス。笙野頼子ほどグロテスクではないにしろ連想させるところもある筆致で、震災後約十年を経て災害をめぐる小説が今また奇妙に時事的に読めてしまう。文庫では分からないけど「不死の島」がいちばん早く、表題作が一番最後に書かれている。多和田葉子は『飛魂』が「非婚」の掛け詞で女性同士の師弟関係の話だった気がするし百合の文脈で読めるヤツだったかも知れないけど忘れた。

サラ・ウォーターズ『半身』

半身 (創元推理文庫)

半身 (創元推理文庫)

「現代はめざましい時代だ。電信局に行けば大西洋の向こうの同僚と意思疎通がはかれる。原理? それは知らないよ。ただ五十年前ならそんなことはまったく不可能で、自然界の法則に反していると決めつけられた。でもいまは電信で言葉が送られてきても、ペテンがあるとは思われない」(144P)

こんな19世紀ヴィクトリア朝の英国ロンドンを舞台に、貴婦人マーガレット・プライアが慰問に訪れた監獄で出会った元霊媒の女性との交流を描く、歴史百合ゴシック小説。原書は1990年刊。霊媒のリアリティや三〇手前の「老嬢」レズビアンの生きづらさが肝になる時代設定が巧妙で、急展開の結末もまた百合だ。手記形式を採る本書メインの語り手マーガレットは明白に同性愛者として設定されていて、慕っていた歴史学者の父亡き後、ある女性との失恋の傷も癒えぬなか厳しい母に薬で管理される行き場のなさから監獄への慰問をはじめ、さまざまな女囚の話を聞いていくことになる。その監獄のなかで、一人どこから手に入れたかわからない菫の花を持った女性に一目見て引き込まれる。この交霊会のなかで人を殺した詐欺師と疑われているシライナ・ドーズのもとに、マーガレットは足繁く通うようになる。

ホワイトとジャーヴィスは監獄の有名な〈仲良し〉で、“どんな恋人よりずっとたちの悪い”カップルなのだ、とマニング看守は言った。あちこち勤めたが、どこの監獄にも〈仲良し〉は いたという。きっと淋しいからだろう。非常に扱いづらい女囚が小娘のように恋わずらいにかかったのを実際に見たそうだ。(98P)

本作では監獄と家庭に相似性があるんだけど、上のくだりは何か現代の学校を舞台にした百合作品のようで、じっさい監獄と学校は近代における人間の管理において似た施設なので、百合の意味はそこからも読めるか。おぞましい監獄の様子や女囚の過去など歴史小説的部分もじっくりと展開されていて読み応えがあり、謎めいた女性ドーズとの交流も丹念に描かれてて、それを土台にした終盤の展開は驚きとともにやはりという感じとなるほどなという納得感があり面白い。ただここに来るまでが丁寧すぎてちょっと長すぎるとも感じる。物語展開のうえでこの長さは必要だとはいえ、同時にあの展開だからこそこの長さが徒になるともいえるので難しいところはある。パノプティコンと呼ばれる一望監視システムを備えた実在したミルバンク監獄が花の形にも見えるのはいろいろ示唆的だ。そういう表現が作中にあったか覚えてないけど。家と監獄、日記という形式、核心の話をしないと何も言えないところはあるけれどよくできてる。「慕情」は原文だとなんて書いてあるんだろう。LOVE? 苦い話だけど百合なくしては成立しない直球の百合小説。この作者は次作の『荊の城』が評判良いようで持ってはいるからそれはまたそのうち。以下は私が読んだ本の旧カバー。作中に名前が出てくるクリヴェッリの絵を使っている。
半身 (創元推理文庫)

ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない

熱心で戦闘的なキリスト教徒の母親に育てられた少女が、女性同士で愛し合ったがために「自然にそむく欲望」を断罪され、母と教会から去る決断をする半自伝的小説。原書は1985年刊。『こわれたせかい~』、のところでちょっと触れたけど、これは直球そのものの、百合でカルトから脱する話だといえる。そして密着的な関係だった母から自立する娘の物語でもある。「父は格闘技を見るのが好きで、母は格闘するのが好きだった」という書き出しのようにユーモラスに宗教一家で育ったジャネットの奇妙な人生がたどられるのとともに、苦難や人生の岐路に立つ時にはファンタジックな空想的物語が差し挾まれ、もう一つの人生という物語の意味を描く物語論をも包含している仕掛けがある。聖母マリアに倣って孤児の子をもらい受けた母の教育によって、主人公は将来に伝道師を考える熱心な教徒となり学校での奔放な振る舞いが異物扱いされるけれども、母は娘を愛し娘も母を愛していた。彼女の「自分は正しいという確信」は「母はいつだって、物事の道理をきちんと説明してくれた」からだ。子供の頃はある程度教義に疑念を持ったりはしても、家族やコミュニティに属している限り、学校が彼女を排除してもジャネットに居場所はあった。しかしジャネットが女性と関係を持ったことが露見すると、母に監禁され悔い改めさせれる。

愛が悪魔のものだなんて、そんなことがあるだろうか? (174P)

この問題について評議会が下した決定は、支部の人々を驚かせた。それは「聖パウロの教えに背いて教会内で女に力を持たせすぎたことが問題」(213P)だというものだったからだ。母を始めここでは昔から女性が強く全てを取り仕切ってきており、この決定はそれまでのあり方をすべてひっくり返すものだった。さらにはこの決定を受けて、母は「男の真似事ばかりしてきたせいで、神の法を軽くみて、男女の道でも同じことをしようとした」と、上の決定に従う演説を行なう。

母はわたしが自分を恥じるとでも思ったのだろうが、そんな気はさらさらなかった。恥じるべきが誰なのかは、はっきりしていた。もし魂の不貞というものがあるのなら、母こそは立派な淫売だった。(214P)

彼女は「女であることの限界」に突き当たり「男性優位社会」に跳ね返されたわけだ。この、レズビアンは男の真似だからダメだという否定のロジックは個人的になかなか意外で興味深く、何故かというと、本書では男性優位の保守的な立場からのものだけれど、同様の、女性を性的に見るのは男だけだという決めつけの言葉をフェミニズム的な美少女表現批判のなかに見たことがあるからだ。異性愛規範を疑わないという点で両者が一致し、だからこそ、論争のなかで宗教保守と一部フェミニストが野合する瞬間が出てくる。性的な美少女イラストのたぐいそれ自体が差別だとは思わないけれども、それを見たり描いたりするのは男性だけなどという主張は、百合コンテンツも含めた美少女表現を担う女性の存在を否定する直球の差別、それも同性愛差別を含んだもの、だと思っている。このロジックは同様に女性的な行為をする男性にも向かうだろう。それはともかく、教会というコミュニティや母といったそれまで疑うことなく過ごしてきた場所とそこから身を引き剥がす苦さは、

人生で何か大事な選択をするたびに、その人の一部はそこにとどまって、選ばれなかったもう一つの人生を生きつづけるのではないか、と。(268P)

と作中語られるように、時折差し挾まれる聖書あるいは聖杯探索や魔法使いの物語など、作中現実と共通したシチュエーションを持つ空想物語は、もう一つの人生というかたちで故郷を捨てた彼女が現実を理解する方法でもあり、人それぞれの現実のあり方を示すものでもある。母もまた娘を伝道師にする夢を失い、「果物はオレンジにかぎる」という口癖は終盤「オレンジだけが果物じゃないってことよ」と変化している。母とジャネットは一つではないし、別の生きる場所もあるし、女性を愛する女性もいて、「オレンジだけが果物じゃない」わけだ。それはまた今ここと別のどこか、という現実と物語の関係ともいえ、歴史的事実のみが真実ではない、という本作の方法そのものでもある。再会した母親に対して、さほど批判的でもないのは、教会に対して毅然と反抗した闘争心や強さは、母譲りでもあったからだろうか。

パトリシア・ハイスミス『キャロル』

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』等の映画の原作で知られる著者が1952年に別名義で刊行した百合小説。クリスマスにデパートで働く主人公がある女性に一目惚れして始まる物語で、恋愛関係になるまでも長いけれど当然この関係は時代ゆえ厳しい結末になると思ってたら違ってて驚いた。女性同士の恋愛小説、以上の事前情報なしに読んでたからなおさら。ニューヨークで舞台美術作家を志すテレーズはデパートで働いていたとき、キャロルという女性と運命の出会いを果たす。テレーズはリチャードという男性と付き合っているんだけれど、その時には一切感じなかった狂気に近いような至福を人生で初めて感じたという。彼女はここで初めて「恋」を知り、リチャードがとても良い人だとは思ってもしかし決して愛してはいないことが重荷になりはじめる。クリスマスカードを送って以来親しくなったキャロルもリチャードを評価してるような態度を見せ、関係は入り組んでくる。同時にキャロルは離婚調停において娘の親権をめぐる問題を抱えており、ここでだいたいの道具立てが揃う。物語が進みキャロルとテレーズが関係を深めると、お互いの男性がそれを執拗に否定し攻撃してくるようになる。リチャードがそういう関係は一過性で分別を失っていると非難するのは同性愛非難のお決まりのパターンだ。しかし二人はさまざまなものを失っても二人で生きていくことを選ぶ。同性愛差別が大手を振っていた時代を考えるとほとんど希有なラストだ。2010年版序文でも、「ハッピーエンドを迎える初めてのレズビアン小説」という話があり、「レズビアンを主人公とする初めてのまじめな小説であり、最後に自殺を遂げたり、絶望におちいったり、すばらしい男性の愛によって救済されたりする物語ではない」のが『キャロル』だと書かれている。二人が関係を深めるまでの一筋縄ではいかない面倒ともいえる過程も時代と環境ゆえのことで、テレーズが「類いまれなる完全な幸福」を味わう後半の旅行に出た二人をめぐるサスペンスもなかなか緊迫感がある。しかし最大の不安定要素はまさに二人の関係そのもので、キャロルがリチャードを評価してみせたりするのもカモフラージュの一環だろうし、愛の告白に至るまでの長さはその現われだろう。若いテレーズの未熟さと成長、そしてキャロルの厳しい選択を描きつつ、「世界じゅうを敵にまわそうとして」もこの関係を選びとるまでの道のりを描く恋愛小説。これが1952年というのは本当に驚きの先駆性がある。キャロルは普通に車を持ってて、家でも冷蔵庫から冷たい飲み物を出すくだりがあり、日本の50年代の冷蔵庫や自家用車の普及率を調べると二桁パーセントにも達しておらず、隔世の感があるのも面白いところだった。初版の二年後に出たペーパーバックが百万部近く売れたらしく、男性からもファンレターが来たという。

わたしたちのような関係は いたずらに騒がれると同時にひどくおとしめられているわ。でもわたしには、キスの快楽も、男女の営みから得られる快楽も、単なる色合いの違いでしかないように思えるの。たとえばキスを馬鹿にするべきではないし、他人にその価値を決められるものでもない。男たちは子供を作れる行為かどうかで自分たちの快楽を格付けしているのかしらね。まるで子供を作る行為だからこそ快楽が増すのだとでもいわんばかりに。
(中略)
男同士、あるいは女同士のあいだには絶対的な共感が、男女のあいだでは決して起こり得ない感情が持てるのではないかということ。そして世の中にはその共感だけを求める人たちもいれば、男女間のもっと不確実で曖昧なものを望んでいる人たちもいる。(392P)

作中ちょっと面白かったのは、テレーズが「キャロルの飲みかけのコーヒーを手に取り、口紅がついているところから一口飲んだ」というの、最近のでも見る!と思った。七十年前でも変わらないな、と思ったのと、テレーズが持ってきた土産の蝋燭立てを見せての会話が、

「チャーミングね」キャロルはいった。「まるであなたみたい」
「ありがとう。わたしはあなたみたいだと思ったの」(423P)

というところが、キャロルのいう「女同士」の「絶対的な共感」が指す場面かと思った。しかし、同性愛の特性の一つにハイスミスが言う、男女のあいだではありえない「絶対的な共感」があるとするなら、百合の真髄は双子百合ということになるのではないか。でもこれをさらに進めるとつまり自己愛こそが、という話になるけど、鏡写しの自分あるいは自分の分身との百合ってのもそういやあったような気がする……

ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

政治家夫人クラリッサ・ダロウェイからはじまり、さまざまな人物の意識を数珠のようにつないでいきながら、彼女がパーティを開く第一次大戦後のある日のロンドンを描く、1925年発表の長篇小説。若きクラリッサが同性とのキスを人生最高の瞬間と呼んでいるので百合ですね。ウルフというと意識の流れという手法で有名で、実験的な小説と思われるかも知れないけれども、今作については確かにある人の語りがいつの間にか別人のものに移っていくんだけど、誰が語り手なのかはまあわかるし、何が起きてるかわからないような難解さはなく、結構読みやすい印象なのは訳のおかげだろうか。今や保守党の政治家の夫人となったクラリッサが、花を買いに出かけるなか、夫との関係や結婚を考えたもう一人のピーターのことを考えたり、インドから帰ってきたピーターがクラリッサに出会ったり、戦争で精神を病んだ夫を持つ妻が二人で公園や医者のもとを訪れたり、娘のエリザベスと、彼女が懐いている貧乏だけど歴史については自信があるキルマン先生のクラリッサへの劣等感、夫リチャードのクラリッサへの愛、そうしたさまざまな人物の考えが相互に入れかわりそれぞれの関係の立体感を立ち上がらせながら、戦後のロンドン社会の空気を描き出している。自殺する元軍人がクラリッサの分身だと作者が言うように、幸福と同時に終わりの不穏さが通底していて、クラリッサは「こんなことがあったあとに、死など到底信じられない――これがいずれ終わるなんて。わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……」(214P)といい、ラストでもピーターがクラリッサに恐怖と恍惚を感じている。クラリッサはパーティを開くことについて

わたしはただ生きたいだけ。
「だからパーティを開くの」と、クラリッサは生に向かって語りかけた。(212P)

と語っている。生の一瞬を愛する、というのはまさに今作の仕掛けでもある。また医師ブラッドショーの夫人は、かつての自由に対し「それがいまは夫の顔色をうかがい、その望むところを即座に読み取って従おうとする。夫の目が支配を求め、力を求め、油膜を張ったように光るとき、夫人は身を縮め、硬直し、すくみ上がり、刈り込まれ、後ずさりし、おずおずと夫を見る」(177P)と、夫人という立場の屈従を描いてもいて、「夫人」というタイトルの含意がここにあるようにも見える。また最初に書いたように、クラリッサにとっての人生最高の瞬間は結婚する前のサリーという女性との出来事にある。性や人生のことや社会改革のことを語り合ったとサリーとの思い出を語り、ウィリアム・モリスシェリーについて語り、

サリーに対するわたしの気持ちは、いま振り返っても不思議だ。純粋、誠実。男に向ける気持ちとは違う。欲や得はまるでなく、女二人の間に――それも成人したばかりの女どうしにだけ――存在する感情だったと思う。(64P)

そして、花を挿してある石壺のわきを通ったとき、私の人生で最高の夢の瞬間があった。サリーが立ち止まり、花を一本取ってから、わたしの唇にキスをした。世界が逆立ちし、周りが消え失せて、わたしとサリーの二人だけがいた。(66P)

クラリッサのサリーへのこの愛はリチャードのものとすれ違っているように見える。このパーティに偶然サリーが訪れ、驚きの再会を果たすときのクラリッサの喜びようが描かれている。古典新訳文庫の解説が言うように、生と死、同性愛と異性愛、結婚と独身、政治家夫人と貧乏人、宗主国と植民地などのさまざまな対立を相互に絡ませながら、それぞれの人物がロンドンのある一日において無関係なようで微妙に絡み合う場になっている。リチャード、ピーター、クラリッサの関係とともに、エリザベス、キルマン、クラリッサの関係もなかなかに不穏なものがある。過去サリーとの間には同性愛的感情とともに「社会改革」への熱意があって、クラリッサの現時点での保守党政治家の夫人というしがらみのある地位にあることへの鬱屈があるようにも見え、だからこそセプティマスの医療からの脱出のような外への志向がわだかまっているのかも知れない。上のほうで藤野可織の短篇「ホームパーティはこれから」に触れたけど、ほぼ同じ話なのかも知れない。しかし百合というなら三大レズビアン小説といわれたうちのひとつ、『オーランドー』を読めばいいのになぜかこっちを読んでいた。

セアラ・オーン・ジュエット『とんがりモミの木の郷 他五篇』

ウルフとともに『レズビアン短編小説集』に収録されていた作家で印象的だったジュエットが岩波文庫で初の単独訳書が出たのを見てつい買ってしまっていたもの。1849年生まれの作家による作品集で、老若問わず男性に依存しない女性同士の親密な関係が、地方の自然描写とともに描かれる。メイドの令嬢への愛を描いて感動的な「マーサの大事な人」は120年前の主従百合の古典的傑作。「マーサの大事な人」がもちろんだけれど、本書に収められた作品はいずれも男女間のロマンスや結婚生活の描写が避けられていて、男性も出ては来るんだけれど、女性同士の関係を描くことに力点が置かれており、実質的に百合作品集で、しかも高齢の老女たちの出番がとても多いという特色がある。それもそのはずジュエット自身が生涯結婚せず、アニー・フィールズという女性と数十年にわたるボストンマリッジという女性同士での生活を送った、あるいはレズビアンだったのではないかと思われる人物で、シスターフッドあるいはフェミニズム文学の観点から読めるんじゃないかと思われる。ヘンリー・ジェイムズキプリングといった作家から絶賛された表題作をはじめ、アメリカ文学史においては地方色・ローカルカラー文学としてしばしば言及される作家らしい。表題作「とんがりモミの木の郷」は、ある女性が執筆の仕事のためにメイン州東岸の海辺の町ダネット・ランディングに滞在した六月から九月頃の夏の数か月を舞台にする。滞在先として選ばれた家の主ミセス・トッドは薬草に通じており近隣の住人に処方をして生活をしている。そのミセス・トッドをはじめ、「わたし」は海辺の町とその周辺のさまざまな場所や人と出会い、話を聞き、静かな町に堆積した小さな物語を知っていく。リトルペイジ船長の語る、氷の果ての誰もいない町という怪奇小説風挿話や、孤島に暮らしたジョアンナ・トッドという女性の物語も印象的だ。家主のいとこでもあるジョアンナは、婚約者に裏切られ、傷心から孤島にひきこもり死ぬまで一人でそこに暮らしたという人物で、ここに結婚への否定性を見ることはたやすい。ミセス・トッドの母親は離れた島で息子と暮らしているんだけれど、二人とも現在単身者で、これは主人公もそうだろう。そして終盤に出てくる妻を亡くした孤独に苛まれている男性含め、作中に出てくる人物は多くが単身の高齢者だ。ミセス・トッドは六〇代でその母は八〇代。そして女性は必ずしもそうではないのに、妻を亡くした男はそのことに意気消沈している。女性の自立、強さが印象的だ。

我々は一人一人が隠者であり、一時間あるいは一日だけの隠遁者である。歴史のどの時代に属する隠者であれ、理解し合える仲間なのだ。(116P)

と、語り手は考える。本書に通底するものは孤独と自然ではないかと思えるけれども、孤独ゆえに親しい友を求め、日々の会話が始まる。そこに土地の人々とその物語が生まれる素地がある。孤独と自然といえば『レズビアン短編小説集』にも収録されていた「シラサギ」は、六月、九歳の少女を主人公として、ハンサムな男性とのロマンスを拒否し、自然を守る物語だ。外からやってきた男性はシルヴィアに一時の夢を与えるけれども、彼はシラサギを撃って剥製にしようとしており、シルヴィアはシラサギの居場所を教えることをやめる。鳥が好きなのになぜ撃ち殺すのか、とシルヴィアは不思議に思うけれども、本篇での狩猟と剥製は性行為や結婚の寓意だろう。彼女が海を見たことがなく、海を夢見ているのは海辺の町の表題作とちょっと関係あるのかな。「ミス・テンピーの通夜」は、故人の一番古くからの友人二人がともに通夜を過ごす四月の一夜を描いた一篇。一人は未亡人の姉の子供を育てており、貧しさと苦労の人生で、片方は農場主と結婚して裕福な生活をしていて、貧富の差のある二人が、ともに故人を思いながら旧交を温める。「ベッツィーの失踪」は救貧院で暮らす三人の老女のうちの一人、ベッツィーが昔勤めていた屋敷の主人の孫娘から百ドルという臨時収入を得たことで、一人内緒でフィラデルフィアの博覧会に行ってくるという小さな冒険譚。ほとんど外へ行ったことがないベッツィーの見るもの全てが新鮮な旅行と、不意の失踪に大騒ぎになって彼女が池に沈んでいるのではないかと思い悩む二人を描いており、三人の老女の仲が一つの軸になっている。これは五月の物語。「シンシーおばさん」は珍しく冬が舞台で、元日の朝、一人で住んでいるおばの元に姪たちがサプライズの訪問をして喜ばせるという暖かい話。「マーサの大事な人」は『レズビアン短編小説集』の時に感想を書いたけど、再読してもやはりとても良い。ミス・パインの邸宅に勤める不出来で何も学べないと思われてたメイドのマーサは、丁寧に仕事を教えてくれた一時滞在者のヘレナに対して深い敬愛を抱き、四〇年を経た再会を果たす。マーサとヘレナが過ごしたのは六月の数週間だけで、ヘレナの結婚式にも参加できないまま、四〇年と言う時を離れて過ごすけれども、その間マーサはヘレナのことを毎日のように考え、外国暮らしをする彼女の所在を地図に記し、彼女への愛を生きることでまるで聖者のごとき人物へとなっていった。

大切に思い、尽くしてきた友が遠くに去ってしまうと、人生の喜びも消えてしまうものである。しかし、愛が本物であったなら、完璧な友という理想の存在に身を捧げたいという、より次元の高い喜びがすぐに生まれる。平凡な幸福が、より高いレベルのものになるのだ。(313P)

この愛が報われるラストにかけての場面はやはり感動的。それでいて、ヘレナの結婚は女性同士の関係を阻害するものになっていて、結婚生活は「喜びも悲しみ」もあるとは書かれているけれど、最後に喪服を着ているということは単身になって初めてマーサと再会できたと読んでいいのだろうか。主人のハリエット・パインにしろ、マーサやヘレナにしろ、独身、未亡人といった単身者の女性たち、という人物配置はやはりレズビアニズムによるものに思える。マーサもヘレナからの手紙の名前にキスする描写があったり、時代ゆえか性的な描写や要素を避けてはいるけど、やはりそうかなと。作品集として面白いのは、表題作が一時滞在のあと別れを迎え、最後の一篇が四〇年ぶりの再会で終わるところ。多くの作品は四月から夏にかけての緑の季節を舞台にしてて「シンシーおばさん」での冬の年明けを経て、マーサは四〇年を経た同じ初夏に再会する構成なのは企まれた編集だろうか? 近くても遠くても待ち人来たる嬉しさ、そして未婚や寡婦あるいは救貧院の、社会の周縁と思われた女性達を共感的に描いている。地方のさらに周縁の存在への共感的視点。解説では『レズビアン短編小説集』に言及しておらず、レズビアンという語を避けたような書き方だけれど、そういう視点からいま読まれる余地があると思うし、じっさい本作品集はジュエット作品でも女性メインの短篇を集めた印象なので、そういう編集意図があるのは確実だと思うけれど、ちょっと不可解。ジュエットについては亀山照夫「セアラ・オーン・ジュウェットの世界 牧歌と自然のイメージ」という論文がネットで読め、未訳が多いのでいろいろ情報が得られる。「老婆を書かせては天下一品」と言われてるのが面白い。ジュエットの特徴として指摘される「幼児的性格」は、過去志向へと裏返り「古風な世界」の擁護としてこれ以上ない特異性を生んだ、と論じられていて、それはそうだと思われるけれども、ここで恋愛体験のなさがその一環として言及されるのはどうかな。「マーサの大事な人」の女性たちは家系として重要でない娘とメイドだったゆえに未婚のまま放っておかれている印象だけれど、そうした周縁的存在だからこそ未婚のままでいることができると裏返して読んだほうが面白い。地方にこもる保守性を、地方の周縁の女性からの批評性として読み換えるというか。フェミニズムや女性の観点というのがないな、と思ったらこの論文は70年代のものだった。

フョードル・ドストエフスキー『ネートチカ・ネズワーノワ』

1849年の連載途中で作者の逮捕によって未完に終わった長篇小説。女性の一人称で少女自身の人生をたどるなかに、孤児となったあと引き取られた公爵家の令嬢との熱烈な愛情表現がある170年前の百合小説。全集の端本を持ってて作品の存在は知っていたんだけど、百合小説のリストか何かで見るまではこういう作品だとは思っていなかったので驚いた。ドストエフスキーの女性主人公の長篇ということでも非常に興味深い一作だ。全集ならどれでも入ってると思うけど、私が読んだのは新潮社版の1979年刊、第二巻収録の水野忠夫訳のもの。上下二段組二百ページ弱で、これだけで既に普通の長篇一冊分くらいの長さはある。最終的には数字の通し番号で七章構成になっているんだけれど、解説によると当初は「幼年時代」「新生活」「秘密」の三部構成になっていたようで、実際に内容面では三部構成といっていい。音楽家の才能があったのに酒や頑ななプライドで破滅したエフィーモフの話から始まり、夫に先立たれた実母がエフィーモフと再婚したのち、物心ついてからの生活を描く貧困の幼少期と、相次いで両親が亡くなり父の才能を知っていたH公爵に引き取られたその家での生活と令嬢との関係、モスクワに発った公爵家と別れその親族の家で過ごした八年間と、住む場所がパートごとに変わっていく。第一部の幼少期では、才能があるのに身を持ち崩し、金目当てに再婚した妻に対して自分が金を持ち出して酒に溺れているのに、妻がいるから自分は音楽家として活躍できないと触れ回るクズと化したエフィーモフの底辺生活と、その父を愛する娘で主人公のネートチカ(本名はアンナで、ネートチカは母親が考えた愛称)の生活が描かれる。娘を使って家の金をかすめとろうとするエフィーモフのリアルなクズさがなかなかつらい序盤だけど、ネートチカは母に怒られる同士ということでかなり最低な振る舞いに及んでいる父に同情しており、あるいは彼に「母性愛」を抱いていたという。あるいはこれは音楽という芸術が本作の後半のテーマになる伏線と思われる。第二部は、父を知っていた公爵の家に引き取られてからの十歳前後の頃を描いていて、孤児となった傷心のネートチカが少しずつ家に馴染んでいくさまと、そこに現われた同年代の少女カーチャとの仲を深めていく過程が描かれる。目が覚めて初めて見た彼女の美貌に歓喜に包まれたネートチカは「わたしはカーチャに恋をしてしまったのです」というほど「熱烈な恋」に襲われる。以下、初対面の描写。

ふたたび目を開いたとき、目に入ったのは、屈みこむようにしてこちらをうかがっていた、わたしと同じくらいの年頃の少女の顔でしたが、そのほうに手を差し伸べたのが、わたしが最初にした動作でした。この少女をひと目見るなり、わたしの心は、何か甘美な予感にも似た幸福ですっかり充たされてしまいました。ここで、もっとも理想に近い魅惑にあふれた顔、驚嘆すべき美しさに光り輝くばかりの顔、その前に立つと誰でも、思わず快い困惑を覚えながら歓喜に身震いし、そしてなにかに突き刺されたようになり、それがこの世に存在することで、自分がそれに出会えたことで、それが自分のそばを通り過ぎていったということで感謝せずにはいられなくなるような美貌のひとつを想像してみてください。それが、モスクワから帰ってきたばかりの公爵令嬢カーチャなのでした。(319P)

ネートチカはこの感情に振り回され、突然キスをしてしまったりする。しかし優秀さを見せたネートチカにプライドを煽られたカーチャが優位をとろうとしたり、不幸な境遇を根掘り葉掘り聞き出そうとしたカーチャが家庭教師に怒られたり、仲が良いとは言いがたい関係だったけれども、いろいろあって、カーチャもまたじつはネートチカを好きだった、とお互いがベッドで気持ちを告白し合ってからはお互いに百回もキスをしあいながら語り合ったという一夜の描写がものすごくてびっくりする。あなたが寝ている私にキスをしたのを知っている、とカーチャが言い、私のハンカチをどうしたの?と訊いてきて、ネートチカがハンカチを持ち出して匂いを嗅いでいることがバレていた様子が描かれるところとか、どうしてあの時はあんな風だったのかという話になって、好きになりたいのに憎くてたまらなかった、「わかったの、あたしがいなければあんたは生きてゆけないということが、それで、あのいまわしい女の子を苦しめてやろう、と考えたのよ!」とカーチャがその天邪鬼な心情を告白してくるところとか、二人でお互いのすべてを話し合い、これからの二十年間の生活設計をして、お互いが命令と服従の遊びをして見せかけの喧嘩と仲直りをするんだ、という幸福を語るところはドストエフスキーの熱のこもったあの筆致で少女同士の絆を描いていて圧倒される。そしてこの時代なのに、というかこの時代だからこそなのか、あまりホモフォビックな雰囲気がない。表現の激しい強い友情ぐらいに思っていたんだろうか。とはいえ、孤児と親しくなることに「嫉妬」した母親から距離を置くことを命じられたり、幸福な時期は長く続かず、公爵の幼子がモスクワで危篤状態になった、ということでカーチャもともに旅立ってしまい、第三部は公爵夫人の長女夫妻のもとで過ごすことになる。この長女アレクサンドラは、夫人から煙たがられていて、むしろ継父の公爵がよくカーチャを連れて会いに来ていたという。カーチャはこの義理の姉を「熱愛」していたとも書かれている。そこで暮らすことになり、ネートチカはこの夫婦の間にある秘密を知ることになる、というのが第三部で、歌の才能を見出されるのもここだ。母親代わりとなったアレクサンドラとの関係もあるいは百合と言いうるかも知れない。母親のように友達のように親しくなり、あるいは十二歳を過ぎて少女の頃を過ぎたことで、以前のような距離ではなくなったり、成長するにつれて関係はまた変化していく。興味深いのは、夫婦の秘密を通じて巻き起こった騒動のなかで、夫が二度ネートチカをめぐる「嫉妬」を口にすることだ。一度目は妻に対して私とネートチカの関係を嫉妬している、と決めつけ、二度目は自分自身が妻とネートチカの親密さに「嫉妬」していたと告白する。若い少女への恐れ、でもあるだろう。まあそれは良いとして、秘密の手紙をめぐる謎についての騒動もまだありそうなあたりで未完となる。この孤児の少女の成長が、音楽という芸術やカーチャやアレクサンドラなど女同士の絆とともに描かれる可能性もあったように思える。ドストエフスキーの女性主人公の長篇が完結していたらとても興味深いものになったのではないかと惜しい気分だ。これが近代小説において最古の百合小説、とどこかで見たけど、そうなんだろうか? ドストエフスキーの百合だ、といって再刊すればそこそこ話題になりそうな気はするんだけど、やはり未完なところがネックか。

沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニャ 湯浅芳子の青春』

百合子、ダスヴィダーニヤ―湯浅芳子の青春

百合子、ダスヴィダーニヤ―湯浅芳子の青春

  • 作者:沢部 仁美
  • 発売日: 1990/02/01
  • メディア: ハードカバー
番外篇。1896年生まれのロシア文学湯浅芳子への取材を元に、豊富な手紙を引用しながら作家中條百合子(後宮本百合子)との恋愛とソビエト留学期間も含む二人の共同生活を描き、昭和戦前期に女二人が共に生きることについて書かれたノンフィクション。百合子だし百合だしここに置いてもいい、よね。京都に生まれ、養子に出された家で膨らみ始めた胸を養父にまさぐられ、母に訴えても男はそんなものだといなされた経験から養家を嫌ったり、思ったことは率直に言ってしまう強烈な自我、個性を持つ湯浅芳子。彼女は流行作家田村俊子との関係や芸妓北村セイとの恋愛の後、野上弥生子の元で百合子に出会う。そうしてロシア語の勉強と百合子との関係を深めていく。1924年に出会って1932年に百合子が宮本顕治と結婚するまで、1920年代、百年前のレズビアンカップルのドキュメントともいいうるけれど、芳子は同性愛者と言えても百合子は必ずしもそうではない。かといって女友達というわけでもない。まだ名前のない「名のない愛の生活」だった。本書はまず百合子との出会いから語り起こされ、その頃夫との関係に悩んでいた百合子は芳子との「新しい愛」に希望を見出す。「程度の差こそあれ、男の御意のままになる手近い女、という以外の敬意を払われて夫婦生活をして居る女が幾人あって?」(34P)と当時既に人気作家で経済的に夫に依存しているわけではない百合子が書いている。「芳子は百合子の眼の前に、男女の関係が必然的にはらむ支配と従属の問題をはっきり指摘して見せた」(46P)、それは芳子がレズビアンという、「女らしさ」「男らしさ」の規範から外れた存在だったからだ。そうして始まる二人の生活の第一条件は、「一緒に居て仕事をすること」だった。お互いが尽くすのではなく、高めあう生活、それが二人の理想となった。しかし、

自分たちの愛は男と女のように結婚制度に守られているわけではない。外目には仲のいい女友達の共同生活と見られ、闖入者を防ぐ手だてはない。芳子はたえず外から自分の恋人が狙われているような気分におびやかされる。そこで頼りになるのは相手の気持ちだけだ。しかし、百合子はふたりの間柄を野上弥生子のような親しい人にも取り繕おうとする弱さがある。(70-71P)

「百合子が「女」より「男」を大切にする考えの持ち主であった」33Pとも指摘されている。

エロスの部屋を開ける「鍵」が芳子の手中にあることを知っていながらうながせない百合子と、「鍵」をもちながら開けようとしない芳子。どちらも「鍵」は「自然な男」が開けるものと思い込んでいる。(208P)

と二人の関係が描かれていて、この二人の生活には「制度」としての弱さと異性愛を「自然」と考える傾向という二つの弱さがあったと見える。事実、芳子自身の述懐として、二人の間にはないこともなかったけれども、性愛的な結びつきは薄かった旨の言葉もある。お互いの愛にはややズレがあった。民間の女性としては初めてソビエトに行くことになる直前も、芳子が暴力を振るったり、かなり関係は難しくなっていた。百合子の父の知り合いが日露協会会長だった後藤新平で、彼に頼んであっさりと許可をもらってモスクワに着くけれども、百合子は黙って片山潜と会うなど、思想にもズレが大きくなっていく。利己主義者で「女」の問題を考え続けた「自覚しないフェミニスト湯浅芳子と、社会主義ソビエトを理想化し愛他主義的で「女」らしい愛想の良さを見せてしまう百合子とで、さまざまな違いはもちろんあった。それでもその違いを超える愛情の強さが二人の間には確かにあった。著者は、「男らしさ」に跪いてしまう百合子とされる側に自分を置こうとする芳子の二人の様子から、「男社会が女に課す女性嫌悪の装置」の存在を抉る。女性だけの生活だからといってそれとは無縁でいられるわけではなく、強固な性差別が女性自身にも女性嫌悪を内面化させてしまう。それでも、本書はお互いがお互いから得たものが何かを指摘する。

百合子が芳子にもらったものは、何よりその独立心と女としてのプライドであった。「男」との関係がいやがおうにも引き出す女の弱さ、それに打ち克つ術を百合子は芳子との生活の中で手にしたはずであった。
――中略
芳子が百合子にもらったものは、向上心と不断の努力、それらのもたらず自信だ。あきっぽく、ともすると無為に流れがちな芳子が、百合子の存在なくして自分のライフワークを見いだせたとは思えない。
――中略
ふたりは社会が女に押しつける、あらゆる不条理に手をたずさえて挑み、自らの全体性をまるごと取り戻そうとしたのである。(286-7P)

著者は芳子に人生で愛した人を三人挙げるとすれば誰か、と訊くと「百合子。それから、セイの順やな。三人目からは同じようなもんや」と答えたという。湯浅芳子のなかでの百合子の存在の大きさが窺えるエピソードで、本書の描くものが湯浅芳子の青春だという所以でもあろう。1990年2月刊の文藝春秋版の本書が出た八ヶ月後に芳子は93歳で亡くなる。多々引用されるように宮本百合子は『伸子』はじめ自伝的な小説で二人を描いているけれども著者は「歪められ」ているとやや批判的だ。湯浅の側からの証言を多々含んだ本書はその意味で貴重な一冊だろう。余談だけれど、ロシアでのエピソードはいろいろ面白くて、秋田雨雀米川正夫と会ったり、彼らにも直言をして顰蹙を買ったり、あるいはトルストイの末娘がレズビアンで女性の恋人を伴って二人と出会ったエピソードなども面白い。学生時代の芳子の知り合いが五人も自殺した、ということに当時の女性の置かれた厳しさが窺える記述などもある。湯浅芳子ロシア文学を志したのは、ドストエフスキーを読んで、ということで、前項との奇妙な繋がりがある。

参考文献

平林美都子編著『女同士の絆 レズビアン文学の行方』

女同士の絆;レズビアン文学の行方

女同士の絆;レズビアン文学の行方

これは序章や『キャロル』と『半身』の章くらいしか読んでないけど、ちょうどこの四月に出た本なので紹介しておく。英、米、カナダの英語圏レズビアン文学を論じた本で、序章のレズビアン文学批評概観が歴史的経緯をふまえた概説として参考になるし、『赤毛のアン』とかも扱われている。英語圏のだけれどレズビアン文学のちょっとしたリストもあり、リファレンスとして使えるんじゃないかと思う。タイトルはセジウィックの『男同士の絆』という男性同性愛文学の評論からの引用だけど、そっちは読んだことがない。編著、とあるのは、著者とレズビアン文学の研究会を始めたもう一人の高橋博子がいくつか短い作品ガイドを書いているためで、本文は概ね平林氏が書いている。

ユリイカ 特集=百合文化の現在」2014年12月号

文中にも引用したこの号には中里十のエッセイや多和田葉子の百合短篇に言及した論文その他さまざまな原稿が載っており、しかしじつはまだ少ししか読んでない。眺めているとここらへんの基礎的な作品が何かがわかってくるけどそれはあんまり読んでない。

利根川真紀編訳『レズビアン短編小説集』

アンソロジーを読んだ――『アステリズムに花束を』『危険なヴィジョン〔完全版〕』『BLAME! THE ANTHOLOGY』『居心地の悪い部屋』『変愛小説集』『どこにもない国』『時間はだれも待ってくれない』 『東欧怪談集』『チェコSF短編小説集』『ゲイ短編小説集』『レズビアン短編小説集』 - Close To The Wall
詳しい紹介はリンク先で。ジュエット、ウルフその他の英語圏レズビアン文学のアンソロジー。ジュエットはこれで読まなければ作品集も買わなかっただろう。

北原みのり編『日本のフェミニズム

日本のフェミニズム

日本のフェミニズム

北原みのり編『日本のフェミニズム』、日比嘉高編『図書館情調』 - Close To The Wall
以前ブログで紹介したこのハンドブックには、柚木麻子のシスターフッドについてのエッセイや、沢部仁美レズビアン運動についての文章が載っている。二人はこれをきっかけに興味を持った。リンク先で触れているように、興味深いのは沢部の文章ではレズビアンの定義を「女と生きる女」としている部分で、セクハラ的な言及がされやすいイメージを、外形的な生活面から定義することでずらしていく戦略に思える。

*1:木村朗子「「突然の百合」という視座 多和田葉子吉屋信子宮本百合子をとおして 」、「ユリイカ」2014年12月号

笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』

会いに行って 静流藤娘紀行

会いに行って 静流藤娘紀行

二度目にお会いしたとき、師匠はもうお骨になっていたと先程書きました。私が師匠について初めて書いたのは追悼文です。「会いに行った」という題名にしました。そう書けば文中で会えるだろうという気持ちがあった。どんなに未熟でも文というものにはそんな力があると。しかしお骨のある祭壇を見て来た直後なので、さすがにそれはないと追悼を書き上げて、また思った。でも今思えば案外にそこで会えていた。48P

笙野頼子には森茉莉について書いた『幽界森娘異聞』があるけれど、これは藤枝静男について書かれた長篇小説。じつは藤枝静男のことを作者が新人賞を取った時は知らなかったらしい。彼が推挙してくれたことで世に出た作者が、私小説を突き詰めて私小説から大きく逸脱する私小説、という彼の影響を受けた方法によって藤枝を語る、「私小説」ならぬ「師匠説」と称するその文学的恩への返答が本作だ。なので、藤枝を未読の場合、少なくとも『田紳有楽・空気頭』(講談社文芸文庫)くらいは読んでおいた方がいいと思う。

『空気頭』の冒頭を引用してスタートし、『田紳有楽』を軸に藤枝の諸作を題材にし、「志賀直哉天皇中野重治」などの評論をも読みつつ、台風が二度襲来した2019年の千葉県佐倉市の自宅から、TPP、FTAといった農業医療売り渡し条約に乗っかる国への批判を繰り広げる異色の「私小説」。

自分の体の中にある性欲を他者のように憎み、しかもそれから目を背けず自分の所有物として引き受けつづける。性欲に苦しむのはそれが強いからではない。自分の外にあると言ってしまいたいほど理不尽で不可解なものだからだ。なので多くの男性は男尊的な制度の中に、逃げ込んでしまうか、女性に責任を押しつけて被害者面をする。そうした男尊連中はそれで物が分かったという事にして安心し、自分の性的責任に関しては見なくなってしまう。ところがあなたは逃げない、しかし欲望の「醜さ」に屈伏もしない、ただ理解しない。理解しないから苦しみも残ってしまう。52P

藤枝静男の性欲とのかかわりをこのように読む作者の、藤枝静男を師匠と仰ぎながら全身で彼を読み込もうとする試みはこの藤枝自身の格闘のように、自身と師匠とをめぐる格闘という楕円的関係でもある。『金毘羅』あたりからの所有と自己の「仏教的自我」のテーマが、本作でもさまざまに変奏されているけれど、「脳内他者」、私のなかの他者性というテーマが「私小説」と「師匠説」という読み換えに現われている。

師と仰ぐ存在の読み込みという点では藤枝の「志賀直哉天皇中野重治」も同様で、これを読むのは志賀直哉の「特権的所有的自我」と中野重治の「国家対抗的自我」とのあいだで揺れる藤枝の自我にフォーカスするためだという。「師匠には俺がない。特権的所有として所有するものがない。いつも家族のため友達のため、例えばあの時は婿さんのため」という彼の自我のありようを、「文学的自我を保持するために師匠は「いや」というのではないか?」(192P)という点に見出そうとする。信仰としてよりも所有としての仏像、骨董。もちろん作者が断るようにこれは作者の「私的」な読み込みで、ここには『田紳有楽』の池や骨董たちにあたるものとして、作者の千葉の家と猫の存在が反響しているように見える。

この小さな所有としての家は、『田紳有楽』の空飛ぶ焼き物のように台風で一瞬宙に浮いたようにさえなる細部が思い返される。

そういえば、笙野頼子自身が金毘羅だったという破格の私小説『金毘羅』は、主人公が弥勒菩薩だった『田紳有楽』の引用ではないのか。作中にはこう書かれており、意図した引用ではなさそうだけれど。

なのに『金毘羅』、「二百回忌」、だいにっほんシリーズ、全て彼の影響をうけているのかもしれないと今思ったりしている私、私。その影響とは何か? それは神の俗人化、場と時空の変形、私小説的自己の分裂、……ああ、でもそれならすべて、『田紳有楽』だ。195P

『田紳有楽』の池、そして『金毘羅』も水が重要だったように思う。水のモチーフについては藤枝の水の擬人化について論じた勝又浩を引用している箇所がある。

世界と自己とが常に明確に区別対峙されていた志賀直哉には、そもそも擬人法、或いはこうした一種の感情移入された情景などということがあり得ないことだったのであろう。21P

そしてこう述べる。

 水それ自体に解放を見る師匠、水になって逃げたいと思う師匠。同時に人間の嫌な性から自由な生物が、水の中にいるとつい、一瞬でも幸福なのではないかと錯覚してしまう小さな優しさ。
 水の中に群れて、生まれてすぐその殆どが喰われ死ぬ生き物、それは師匠の、結核で早く亡くなった兄弟姉妹を想起させる。21P

リアリズムから幻想にいたる破格の私小説としての藤枝静男作品との長年にわたるつきあいや親族の話を前提にした私的な読み込みが、まさにその実践でもあるようなかたちで描かれつつ、いま目の前にあるものを自分の「茫界偏視」として言葉にし続ける「報道」に結実する笙野頼子の「師」と「私」。後藤明生『壁の中』での永井荷風の延々たる読み込みを思い起こさせるような文学的先達との小説的対話になっていて、『金毘羅』が自身の誕生秘話でもあったように、今作は作家笙野頼子の誕生に大きくかかわった藤枝静男と自身とをたどり返す一作ともなっている。

デビューから十年、本が出なかった。師匠、私は生きていますよ、と言って京都の下宿 で時々泣いていたりした、しかし彼はそのような脳内他者であるばかりではなく、実はいつも後ろにいてくれたのだった。というのも、私がデビューから何年も経ち、完全に忘れられながらもあちこちに汚い字の原稿を持ち込んでいたとき、「あああの、師匠が、それならこの人の作品は悪いはずはない」と言って、最初の編集者がもう私に送り返そうとしていた作品を、師匠を尊敬する方が読んでくださった。そんな事はよくあった。彼に褒められた事は本が出なくても十年残っていた。290-291P

私小説をめぐる師と私の語りは、私小説を書いているのは「千の断片としての自分」だという認識持ちつつ、書くことの他者性へと向かっていく。

 そして私小説のもうひとつの原則。今書いているのは、それは、……。
 必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分、である。それは千の断片としての自分である。
 それ故にもし、自分が間違っていたとしても、自分の文章は自分を裏切らない。172P

だがそれでも、結局、ただひたすら目の前のものを書く事を、私は信仰しているのかもしれないのでした。それがミクロ報道、ミロク私小説です。258P

師匠! 師匠それではまだ実況を続けます。ていうかなんか、こうしていると私小説とは何か、の一面が現われてくるような気がしましたよ。260P

私を書くことそのものが私ではない私を生み出すことや、私の眼前のものを直視していくことという、書くことそのものの他者性が迫り出してくる。徹底して私的になることによって私を越えた私を文章に刻みつける、書くことの意味にたどりつく。私と他者と書くこととの、笙野頼子の方法のありようがここにはある。


そういえば金井美恵子カストロの尻』、最初の一篇が後藤明生『この人を見よ』について書かれていて単行本も買ってはあったんだけど、未読だったので終盤で藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」に触れられていたのは知らなかった。後藤の『この人を見よ』には藤枝の『志賀直哉天皇中野重治』の影響があるんじゃないかなと思っていて、まだ出る気配のない私の後藤明生論では、『この人を見よ』について書いた箇所は「志賀直哉天皇共産主義」という藤枝文をもじった章題をつけてたりする。

あと、『田紳有楽』の磯碌億山を、「居候奥さんなのか?」と推測してるところ(199P)があるけど、これは弥勒菩薩が顕現する「五十六億七千万年後」の五十六億をイソロクオクと読んでるんだと思う。『田紳有楽』でもその年数と名前が近いところにあったと思う。108ページの文豪とアルケミストへの言及、そんなの雑誌にあったっけと思ったらここ一段落くらい書き足されてる箇所だった。加筆箇所も結構あると思うけど、気がついたのはここと、講談社文芸文庫総選挙のくだりか←モモチさんに指摘されて気づいたけど、これは元からありました……。
shonisen.blogspot.com
こちらで感想と諸情報へのリンクがまとめられている。花布の指定ミスがあったという装幀の話も面白くて、「会いに行って」の「て」のフォントが大きく違うところは改めて見るとなるほど、と思う。90年代のエッセイ「会いに行った」があり、今作では『会いに行って』と言葉の感触がより開かれていて、この変化の予兆を反映したものだという。リアルタイムな目の前のものとの出会いを描く今作らしい箇所。

なお本書は笙野頼子さまより恵贈いただきました。

雑誌掲載時の感想

いくつか既にブログにもまとめたことがあるけど、雑誌掲載時の感想を再度ここに残しておく。

連載第一回分(「群像」2019年5月号)

「群像」でスタートした笙野頼子の新作は藤枝静男。笙野が特定の作家を題材に長篇を書いたものでは『幽界森娘異聞』があるけれど、藤枝は新人賞で笙野頼子を強く推したいわば文学的恩人とも言うべき人物。その藤枝静男について、笙野頼子なので当然事実に基づく評伝ではなく、藤枝の「私の「私小説」」にちなんで、「私の師匠説」を書く、と始まっている通り、「自分の私的内面に発生した彼の幻を追いかけていく小説」として書かれていく。初回は、藤枝静男の「文章」から、強いられた構造を脱け出ようとする技法を、語り手自身との類似点と相違点を検討しながらたどろうとする試みのように思えた。新人賞で自分を見いだした「師匠」の小説をたどり、静岡での藤枝静男の娘さんとの出会いへと話がつながっていく。藤枝は潔癖な性格から自身の性器を傷つけたエピソードが知られるけれども、今作でも「自分の体の中にある性欲を他者のように憎み、しかもそれから目を背けず自分の所有物として引き受ける」143Pと書かれ、その倫理性を評価しつつ、笙野作の語り手自身は性欲に苦しんでいない、と彼我の切断線を明示しもする。藤枝静男の「理解」とは、理論ではなくつねに具体物から発し、その具体的な文章から奇跡を起こす、と評し、リアリズムに徹することでリアリズムを越える道を示す。性欲あるいは膠原病の、自身の身体という具体物を見つめる視線と、その外への志向が見いだせるようにも思う。志賀直哉藤枝静男について、勝又浩の論を引用しつつこう書いている箇所が簡潔にこの師弟の差異を示している。

連載第二回分(同7月号)

第二回は、「不毛な改元」を話題にしながら、藤枝静男文芸時評にあった天皇への怒りについて、これも引用の集積『志賀直哉天皇中野重治』などを引用しながら追っていく。笙野の旧作『なにもしてない』で既に改元天皇について書いていたことと、最後ホルンバッハの日本女性蔑視CMの件にふれつつ、多和田葉子との対談のために共産党本部へ行ったことが最後にあるのは当然意図的な構成だろう。改元騒ぎを「平成からゼロ和、それはTPP発効直後のリセット元年だ」と厳しく批判しつつ、志賀は天皇に近いが故に捕獲されているけど、中野もまた人間と制度を切り分けられるが故に人間を人間性によって判断するという文学を禁じられ、政治に捕獲されているとも指摘する。藤枝静男を文芸文庫以外のものも読まないとな、と思っている。

連載第三回分(同9月号)

第三回は、藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」をめぐって、それぞれの作家の「私」を読み込むような叙述で、中野の「『暗夜行路』雑談」が、作家にとっては不毛な評論だと批判しつつ、「五勺の酒」の不毛でない語りもしかし、「天皇」という人間に捕獲されてしまっていると指摘する。改元下、「天皇人間性」という捕獲装置をめぐる読み直しのなかで、「私」と「人間」についてのさまざまな様相がたどられる。語り手が志賀を結構評価しているのは、つねに自己に即くありかたが「私小説とは自己だ」という持論と通じるからだろう。翻って中野の志賀批判は成心のない、本心からのものでもそれは「批評機械」と呼ばれるように、公共性や理論的なものであれもやれこれもやれ式の、作家には届かないものと批判される。さらに中野は「私的なものを理解することが不得意」だとし、「特権的自我、所有する自我」もそうだ、と。最後に、小説を書いてるのは、「必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。/ もし自分が間違っていたとしても自分の文章は自分を裏切らない」と締められる。

連載第四回分(同11月号)

第四回、19号せまりつつあるいま台風15号の被害について現政権の対応が批判されてるのを読む味わいといったらない。仏教や自我の問題は当然この国土、国民に対する責任の問題に通じる文脈において浮上する。だから当然カッコ付けされてるように「関係ない話」ではないわけで、土を通じて藤枝静男が並ぶ。印象的なのは小川国夫が藤枝について言ったという「汚穢に触れざるを得なかった汚れない人物がその本質と言った、その汚穢とはまさに戦争と軍隊。つまり女性ではない」367Pという箇所。志賀直哉の『暗夜行路』を「特権的所有者が関係性に侵犯されて負けていく話」とも要約しつつ、藤枝静男について「師匠には俺がない。特権的所有として所有するものがない。いつも家族のため友達のため、例えばあの時は婿さんのため」371Pと志賀藤枝を対比していく読解。文学的自我を保つための「いや」という口癖に着目するのも面白い。最後、「師匠の私小説『田紳有楽』はこのように「でたらめ」と称し、一切のお約束的リアリズムの手足を縛ったまま、真っ暗の崖に飛び下りても、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学」384Pだと述べる。画像部分で見つからないと書いていた土のなかからUTSUWAの破片を掘り出すやつ、『壜の中の水』の表題作で窯跡の土のなかから陶器の破片を掘り出すエピソードとは違うやつなのかな。エッセイ集はそんなに読んでないからわからないけど。藤枝著作集月報での混浴温泉のエピソードは、立原正秋のそれについて後藤明生が訂正をしたものだろう。文芸文庫の月報集で読める。後藤のは『夜更けの散歩』に収録。

連載第五回分(同12月号)

第五回最終回。台風15号から始まっていて、前回に続いて今回は19号の暴風による体感を「実況」しつつ、台風、日本の政権、そして藤枝静男の戦争体験を災難・危機として重ね合わせつつ、藤枝静男の文学、自我をたどる。 「師匠、私達日本人にはもう国がありません」「雨も風も使わずとも国民は殺せます」、という直近の自然災害と政治的過程による危機の感覚のなかで、「イペリット眼」や「犬の血」といった「医者的自我」によって「戦争の恐怖をとことん抉りだした」藤枝を読んでいく。医学的な発見の喜びと患者の苦しみという悲しさの同居という医者の矛盾や、患者から解放されることが仕事を失うことと繋がることや、他国人を犠牲にし、少年を犠牲にして自己をも犠牲にする人間を医者独自の視点からこそ「戦争の異常空間が現れ渡るのだ」と。医者自身の矛盾を剔抉するにとどまらない藤枝の自己への厳しさについて、あるいはこうも書かれる。「彼は優しすぎる。つまり優しさ故についた傷は深く、その深さが彼の激烈さを生む」(283P)と。女性についての態度の箇所だけれども、戦争への毅然とした態度もまた生き延びた感覚によるだろうか。

「師匠は国民が戦争につっこんでいった状況を、騙されるのとは別に、まず本人達が望んで、というか異様な真理に乗せられ理性なく加担したのだと考えている。天皇についても、天皇を支持して、天皇制と天皇をわける事が出来なくなるのが、一般大衆の性だと理解している」276P

藤枝静男の自我と小説的に作られた私とのあいだを読み込みながら、笙野は最後に自分の小説が読まずに送り返されそうになったときでも、あの藤枝静男が褒めた人なら、ということで編集者に読んでもらえたことを記している。「彼に褒められた事は本が出なくても十年残っていた」。本作はこの十年を大事にしつつ、デビューから四十年が経とうという現在、読むことと読まれることの渾身の応答として書かれている。また藤枝は生き延びた戦後を書き、笙野は来つつある危機を実況しつつあり、時間的に対照的な動きがある。危機のまさにただなかで書かれた今作は危機の後にも読まれるはずだ。

ファトス・コンゴリ『敗残者』

敗残者 (東欧の想像力)

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敗残者〈東欧の想像力17〉 | 松籟社 SHORAISHA

松籟社〈東欧の想像力〉第17弾はアルバニア文学としてイスマイル・カダレ以来二人目となるファトス・コンゴリが1992年に発表した第一作。91年、国外脱出の船を出航前に降りた主人公が、幼少期の暴力やその復讐、国外逃亡者の叔父を持つための迫害、恋人や友人を失い、そしてすべてを失うまでの敗残の人生を回想する長篇小説。

カダレが外への希望を描いていたとすれば、コンゴリの今作は自らの罪を引き受けて内に留まることを描いているように見える。共通するのはアルバニアの閉塞感だ。コンゴリは一党体制下では作品を書かず、新政権において初めて本作を発表し、アルバニアにはカダレ以外の作家もいると国際的に評判となったらしい。

東欧革命の流れのなかで、国内の混乱と困窮で西側諸国への脱出者が大挙した91年を現在時に、その船に乗り損ねた男を語り手として二十年ほど時を遡る告白が語られるわけだけれども、ここで大きいのは、父からも殴られたことのなかった平穏な彼を襲った教師の暴力と、復讐としてその教師の娘の美しい少女、ヴィルマが飼う子犬を毒殺したことだ。この件は彼についてまわる因縁の一つになるけれども、この頃の主人公にはもう一つ別の罪が降りかかる。

「お前が生まれる数か月前の話だ。お前の叔父さんは国境で兵役に就いていたが、他の兵士二人と一緒に国境を越えたんだ。これは逃亡であり、敵対行為であり、我が一家にとっての恥だ。私たち全員にとって、そうだ。お前にとっても、あいつはもう存在しない。そしてお前も、あいつを憎まなければならない!」44-5P

こうして彼は生まれる前の知らない人間を、絶対の秘密のうちに憎悪せよという任務を命じられる。語り手はじつは子犬殺しには罪悪感を覚えておらず、彼にとっての最初の罪とはこの「亡霊」を憎悪せよという「危険な秘密」を抱え込むことだった。そして彼の世界は、ヴィルマの白と、自分の黒、という二つの世界に分かたれる。子犬殺しとこの不条理な罪は絡み合うように彼の人生を支配する。

大学時代に知り合った党の高級幹部を父に持つラディと、十歳年上の未亡人ソニャとの出会いと彼女との恋は彼の人生を上向かせるけれども、叔父の件を知る閣僚の息子の党員査察官が彼を執拗に追いつめようとする。そしてとつぜんラディの父が人民の敵として逮捕されてからは、大学も辞めざるを得なくなる。「裏切り者」の叔父、語り手の後ろ盾ともなっていたラディの父の理由の分からぬ失脚によって、彼に原因があるわけでもない突然の転落を余儀なくされる不条理さは、いわばカフカ的な迷宮感があり、カダレの『夢宮殿』を思い出せるところがあるのは社会主義国家のならいだろうか。

党員査察官の象徴的な「灰色の目」に見つめられながら、主人公はそうして転落していき、採石場での労働に従事するようになる。ここからまたさらに彼は絶望を味わうことになるけれども、それは略すとして、この親族の事情と子供の頃からの人間関係から逃れられないどん詰まり感は甚だしい。当時のアルバニアの空気というのはこういうものだったんだろうか。主人公の人生は「狂人ヂョダ」に始まり「狂人ヂョダ」と再会して終わる今作の「円環」的な構成は、生まれた時から運命づけられた閉塞感と切り離せない。と同時に、彼がアルバニアを離れないのも罪の意識からでもあって、「狂人ヂョダ」は子犬殺しその他の象徴ともなっている。

解説で社会主義リアリズム的ではないと指摘されている主人公の弱さがある。彼は英雄でもなく、かといって罪のない善人でもない。「灰色の目」に立ち向かうこともできずおめおめと生き残り、どこにも出口はないと認識するしかない。そして党の支配する国で生きてきたなかで犯した罪責とともに、アルバニアを離れることを辞める。

「いつまで俺たちは壁に頭をぶつけてなきゃならないんだ?」
「頭をぶつけたって壁は壊れないってことがわかるまでよ」249P

このアルバニアを離れることと留まることの対比は、カダレとコンゴリ自身を思わせるところがある。解説にもあるようにカダレは91年、党第一書記に改革を要望したものの拒否され、フランスへ亡命することになった。党とアルバニアをめぐって二つの道が分かたれたことが本作の背景のようにも見え、カダレとコンゴリはアルバニアをめぐる岐路を象徴するようにも見える。

「人間というのは残念ながら、美ではなく権力にひれ伏すものなのだ」(109P)というシニカルな一文のように終盤、勝負を挑むこともできないのは、そもそも「狂人ヂョダ」への復讐が子犬に向いたこととと無縁ではない。だから彼は冒頭でそれと向き合うことになる。

自分がこの生に留まり続けるのはそこから逃れることが不可能だからだ(中略)自分自身の無力さ。恐らくそれは、この町のぬかるみの狭間で、凡庸と卑俗の中で生き延びて、他人の苦痛や悲劇を耐え忍び、断罪されつつやり過ごしながら歳月を重ねていくことなのだと言えるだろう。死は永遠の眠りだ。生きながらの死は永遠の拷問だ。
235P

新政権のなかの自由と裏腹の混乱のなかで、一党体制下の灰色の生活が想起されるこの作品は当時のアルバニアに生きる人々のリアリティの巧みな形象化なのかも知れない。

作中の重要な色でもある灰色の写真と白ベースでの装幀がかなり決まっている。〈東欧の想像力〉は11弾から仁木順平が担当していて、フォーゲルとかアンドリッチとか、これまではもうちょっと抽象的、記号的な意匠だったけれど、一転してシリアスな方に振って新鮮な印象がある。

なお本書は松籟社木村さまより恵贈いただきました。ありがとうございます。

藤枝静男『凶徒津田三蔵』、『或る年の冬 或る年の夏』

『凶徒津田三蔵』

明治二十四年、警察官がロシア皇太子を切りつけた大津事件の首謀者を描いた1961年の表題作と、その事件をめぐる畠山勇子、明治天皇、児島惟謙の行動をまとめた72年作の姉妹篇「愛国者たち」が併録された講談社文庫オリジナル編集の一冊。

「凶徒津田三蔵」は藤枝の小説としては異質な歴史小説。書き進めるのに難儀し、最初は津田のことを下らないとも思いながら、「同情的」「同感」になってくることで仕上げることができたと巻末収録のエッセイで語っている。作りとしては異質ながら、それでも藤枝らしいのは、津田の姿に自身の若い頃の政治に対する姿勢を重ねることで書かれた、という論評は講談社文庫版の解説でも言われていて、それは確かにそうだろう。ただ、「政治の中心を遠く離れ、田舎の駐在を転々とし、政治に失望しながらも自信は全くなく、頑固で、ひとりよがりの愛国心にとりつかれて自身をもてあましている。そしてついに追いつめられて大津事件を起す」という藤枝の評は興味深く、この鬱屈した「国士」的な情動が動員される現在、非常に示唆的に読めてしまう小説でもある。

併録の「愛国者たち」は多くの資料を下敷きにしながら、三蔵からはじまり、津山事件の後ロシアへの謝罪として自害した畠山勇子、事件の責任者としての明治天皇、そして内閣の脅しをはねのけて三蔵を死罪にせず法律通りに裁いた大審院長児島惟謙ら各人の人生を簡潔にまとめている。「凶徒津田三蔵」はもともと畠山勇子と並べて書くつもりだったのを、勇子を諦めて仕上げたものだったと著者はいう。政治に強い関心を持ち女権拡張論者だったこととロシアへの謝罪に自害するという古い考えが同居する愛国心のありかたが著者の関心を惹いたわけだ。三蔵も勇子も政治にかかわれない平凡な人間な点では同じで、殺害と自殺という飛躍でもって政治的なアクターとならんとする無謀さにおいて通ずる。明治天皇は降って湧いた事件にあわててさまざまな対処をするけれども、ニコラス皇太子と友好な会食を終えたと思いきや、ウィッテの回想ではニコラスはこののち日本憎悪者となり、生涯日本をマカーク(キツネザル)と呼び通したというオチが付いている。明治天皇は下々の民のしでかしたさまざまな行為によって事件の責任者として右往左往し胃を痛めるある種喜劇的な登場人物という印象すらある。

内閣の脅しに屈せず司法権の独立を守った児島惟謙はとりわけ興味深い。大津事件という日露開戦のきっかけにもなりかねない事件について、児島は刑法112条の謀殺犯適用を主張し、政府関係者は皇室罪として116条の適用を主張した。児島は皇室罪の「天皇」に「日本」とついてないのは国外皇族も含むとする、成立時の議論を無視した意見を却下する。「注意して」処理するべし、という天皇の勅命を逆手に取り、またロシアがこのとき新しい法律を作れと言ったことを日本にこの事件を裁く法がないと認識していた証拠だとし、法の論理を貫徹し内閣とのギリギリの抗争のなかで法に則った判決を下すことになるくだりは読ませる。さらに面白いのは、この司法権の独立を守った英雄とも呼ばれる児島について、その手記を読んだ藤枝は、自分を正義の権化と信じ込んでいるエゴイズムが行間から露呈していると批判していることだ。しかしそれによって政府の構造を浮かび上がらせている点を評価してもいる。児島の行動は薩長藩閥政府に対する宇和島藩の仇討ちという説を紹介し、また大審院長たる児島自身も担当裁判官に職権濫用とも言える干渉をしているではないか、という児島のエゴイズムへの言及はその神話化への批判ともなっており、通り一遍ではない読み込みを感じる。

責任者明治天皇とその心痛を誘う三人を含めた「愛国者たち」を描く日本近代史の一コマで、三蔵のみならず勇子も児島も、そこにある実存、エゴイズムによって連繋させられているように見え、藤枝の関心はこのエゴイズムの剔抉という点で私小説とも通じるものがある、というと簡単過ぎるか。

司法権の独立(明治24年5月27日、「大津事件」の被告に無期懲役が宣告される)- 今日の馬込文学/馬込文学マラソン
大津事件についてはここに参考文献含め短くまとめられている。内閣からの司法権の独立というのは昨今の状況をも想起させるけれども、それが薩長への敵愾心という強烈なエゴイズムでもなければ貫けないものだというのは、なかなか示唆的なものがある。

『或る年の冬 或る年の夏』

或る年の冬 或る年の夏 (講談社文芸文庫)

或る年の冬 或る年の夏 (講談社文芸文庫)

藤枝静男自身の学生時代、左翼運動に関係して逮捕された経験を元にした1971年刊行の長篇。幾人もが既に亡く今も結核で死が近い親族への愛情、自身の性欲への悩み、左翼運動にかかわる友人達へのコンプレックスという主人公における家族、性欲、左翼を軸にしている。

序盤、亡くなった人物として出てくる飯尾は藤枝静男の筆名になった北川静男がモデルらしく、中島は平野謙、三浦は本多秋五を元にしているとのこと。積極的に左翼運動にかかわる二人に対して、主人公寺沢はそのプロレタリア芸術の安易さにつねに違和感を抱いている。「強力なイデオロギー社会は学問芸術の自由を圧殺するにちがいない」(123P)と考える彼は、左翼評論家が労働者は生産の本来の性質としてまた未来への自信がある以上は当然に楽天的だ、と言ったすぐあとに露骨で猥褻な冗談を笑う場面が入っただけの小説が現われたのを目撃する。芸術に対する潔癖ともいえるこだわりと中島らの社会正義のために使えるものは何でも使うしかないじゃないか、という政治優先との衝突がある。

寺沢は政治と芸術以外にも自己の性欲についても煩悶を抱き、恋愛と性欲のあいだにも引き裂かれる。寺沢が女性の裸体を見るためにデッサン画の教室に通う場面で、初めて裸体を見た時は「固い醜い」ものだと思っていた女性の体が、教室を続けていくうちに美しいものを見てそれを描いていることに気づき始める。幻想と現実の落差から、観察と手を動かすことで美しさを見出していくのが印象的な場面だ。

寺沢の中島らへの劣等感も、そのイデオロギーの正しさを認識しつつ、しかし拷問や暴力といったものが恐ろしい、という痛みへの恐れで運動に参画できないことからくる。しかし、寺沢が救援が必要と言われて金を出してしまい、それによって警察に逮捕される瞬間から彼は豹変する。早朝突然に訪れた人間が、最も恐れていた結核の家族の死を伝えに来たのではないとわかった瞬間、警察に敢然と抵抗し、それまで恐れていた暴力にも耐えたばかりか、他の左翼学生が寺沢の件を白状したのにもかかわらず、自分は「赤」ではないと繰り返しながら頑固な黙秘を貫くようになる。

逮捕され暴力を受けたことで、不安と恐れの奥にこれで決着が付いたという落ち着きを感じ、「同時にそれが三浦や中島に対する劣等感からの無傷の解放を意味していることをも彼は微かに自覚していた」(201P)と考える。しかし彼は暴力を振るわれており、身体は無傷ではない。それでもこう考えているところに彼の自意識のあり方が見える。実体験を元にしたというこの吹っ切れる場面が非常に印象的で、性体験を経て「呪縛から解き放たれた」ことを思うのとともに、自意識の自己分析が描かれている。そういえば、逮捕の切っ掛けの支援のとき、依頼されて即小銭以外の有り金全部を渡したのは「三田村四郎の家族が病気」だからだった。ここでもやはり家族が主人公の大きなこだわりとなっている。

講談社文芸文庫で読んだけど、手持ちの単行本についてる二ページほどの後書きが文庫ではカットされてる。作品集はともかく一冊の復刊にみせてこういう細かなカットされると違和感がある。著作権的な問題があるとも思えない。中村光夫の『二葉亭四迷伝』で、解説ばかりか作家案内でも言及されてる後書きがなかった、という困惑させられることがあったのを思い出した。