薄い本を読むパート2


いつかもやったページ数薄めの本を集めて読んでみるシーズンふたたび。
薄い本を読む - Close To The Wall
前回のは一昨年。今回はあとがき解説などを含めない、本文200ページ以下の本、というレギュレーションでやってみた。マルクスはよくわかんなかったけど、だいたいどれも面白かったですね。

薄い本はいいね、よくわかんなくてもすぐ読めて気分を切り替えられるし、短いなかにもぎゅっと詰まったものがあるのはなんかお得感がある。でも、薄い本ばかりだからもっと数読めるつもりだったのに思ったよりずっと時間が掛かってしまったので終わりです。このレギュレーションで積み上げた本がここにあるのよりも多く残ってるのでそのうちまたやるつもりはある。15冊。

カレル・チャペック『白い病』

白い病 (岩波文庫)

白い病 (岩波文庫)

戦争への機運が高まりつつあるなか、五〇歳前後の人々の皮膚に白い斑点が現われ死に至る感染症が流行していた。ある医師が有効な治療法を発見するけれども、施術の条件として彼は平和を求め、戦争を準備する国の重要人物らに死か平和かの選択を迫る、SF戯曲。貧しい中国から生まれたとされ、五〇前後の人間を死に至らしめるけれども若者には感染しないという「白い病」の設定は非常に予言的で、作中でもこの病気が若者に場所を譲る機能を持つことによる世代間の対立が描かれている。疫病と戦争がともに人々を通じて感染していく時代状況の描写にもなっていてこれはまったく過去の話ではない。そこで現われるガレーン博士は治療の条件に戦争への反対や恒久的平和条約の締結を要求する、つまり命を取引材料にしている。著者が「ある種の平和のテロリストである」という通りだ。作者による前書きでは、この人物についてこうある。

また、人間愛と生への敬意という名の下でその男と戦っている人物は、病気に苦しむ者たちへの手助けを拒む。かれもまた、譲歩できない倫理の戦いを宿命として引き受けているからである。 この戦いで勝利を収めるには、平和や人間愛を掲げていたとしても、殺し合いをし、大虐殺で命を落とさなければならない。戦争の世界では、平和それ自体が、譲歩しない、不屈の戦士となる。159P。

しかし結末に見るように、こうした悲劇的な対立こそが作者の批判するものでもある。さらっと読める150ページ程度の戯曲だけど、感染症をめぐる問題とともに「戦争万歳」という熱気が人々に感染し、その拡大は指導者の命運をも脅かす危うい群衆の問題が重ねられていて、医療と政治の問題を疫病とそのメタファーを用いて描いている点が八〇年という時代を超えて生々しい。

ジャック・ロンドン『赤死病』

赤死病 (白水Uブックス)

赤死病 (白水Uブックス)

疫病で人類社会が崩壊して60年後、盛期の文明を知る最後の老人が当時の状況をその孫たちに語り聞かせるポストアポカリプスものの表題中篇と、人口が増大した中国の脅威を化学兵器で殲滅する短篇、そして食料を求めた人類史についてのエッセイを収めるSF的な一冊。チャペックの『白い病』は疫病の流行当時を描いていたけど、これは疫病による人類社会の崩壊後に現在時を置いており、チャペックが疫病と戦争を重ねていたのに対し、エッセイにあるように、ロンドンは戦争は将来的に消え、人口増大での過密による疫病の流行を予測していた。三作を通じて人口の増大が危機として通底していて、感染症は集住し過密した人々を襲うものという認識がある。黒死病を意識した「赤死病」は、発症から十五分で死に至るという強烈な死病で、避難し立てこもる場所でも感染し人間同士もまた殺し合い、人間はどんどんその数を減らしていった。2013年にパンデミックが起こった設定で、それから60年後の現在時、一度人類が破滅の危機に瀕した後、辛うじて孫たちが生まれるようになってはいるけれど、老人と子供では知識の面でも溝が深く、話が容易に通じなくなっている。文化が途絶えているわけだ。言葉の断絶はもう一作でも出てくる。解説ではそうは言われてないけど、やはり「赤死病」では野蛮への蔑視があり、教育もなく粗野な「おかかえ運転手」が元の主人たる少女を手籠めにしたあたりの話は、階級社会への批判とも読みうるけれども、「野蛮」という言葉の使い方には文明が失われたことへの慨嘆のほうを感じる。エッセイ「人間の漂流」には「黄禍」の語が出てくるように、中国の人口増大を脅威として描く「比類なき侵略」は黄禍論SFといえる。「世界と中国との紛争がその頂点に達したのは、一九七六年のことであった」と書き出されるこの短篇はまた現在の中国の存在感を予見しているようなところがある。この短篇では中国の脅威は多産による十億にならんとする人間の多さにある。序盤、中国は西洋とは別種の文明で、日本という中間的な存在あってはじめて「覚醒」し、「回春」したとある。そして多数の中国人が移住した領土を奪取し、世界を侵略していくのに西洋がどう対処したか、というSF。百年前のSFでなかなか面白いし、東洋をどう見ていたかという観点でも興味深く、じっさい予見的でもある。マルサスに言及し、社会主義を支持するエッセイも作品の背景を明らかにしていて興味深いもので、プラスの意味でもマイナスの意味でも面白い一冊。「黒死病」に対するチャペックの白、ロンドンの赤。

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

晩年の講演録で、領域内で暴力を占有するものとして国家を定義づけ、権力の配分をめぐる努力が政治だという規定をしつつ、政治家と官僚についての対比を経ながら、政治家に必要なものは情熱と仕事に対する責任と距離を持った判断力だ、と述べる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」というトロツキーの言を引きつつ、ヴェーバー

国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正統な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。9-10P

と言う。これはよく知られた定義か。当時の革命騒ぎに対してヴェーバーは、自身の理想をのみ言って結果責任を人々のせいにする革命家を法螺吹きだと強く批判していて、そうした情熱的な「信条倫理」とともに結果に対する責任を負う「責任倫理」が両方あって初めて「政治への天職」を得ると述べる。政治には、暴力によってのみ解決できるようなもの課題があり、「魂の救済」を危うくする行いだとも言う。政治家とは、現実がいかに愚かで卑俗でも、「それにもかかわらず」といえる人間でなければならない、と言って終わる。指示に従うべき官僚の特質が政治家の資質としては最悪なものだという話もあったりして、官僚制の歴史なんかもある。節々のヨーロッパ独自のものという指摘は今でも正しいものなのかどうかは疑問に感じるけれども、古典的な政治家論としてなるほどこういうものなのか、と面白い。

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日

講談社学術文庫の新訳、この時期のフランス史よく知らないまま読んだら見事に撃沈した。マルクスでは難しくない方らしいとはいえ、当時の政治状況をめぐるジャーナリスティックな文章なので、基礎知識は要る。

パウル・ゴマ『ジュスタ』

ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちにルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。
これは別記事にしてある。
パウル・ゴマ『ジュスタ』 - Close To The Wall

ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界』

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

限られた知覚器官を持つ虫や動物が環境をどう見ているのか、を単に存在している「環境」という言い方ではなく、それぞれの生物が意味づけた主体的現実を環世界という言葉を用いて説明した一冊。もとは絵本として出版されたもの。文中にも出てくるけれど、ユクスキュルはエストニア出身の生物学者で、弟子筋にあたるクリサートが挿絵を描いている。ダニ、イヌ、ハエその他、それぞれにとっては同じ物を見ていてもまったく違う現実があり、「いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない」といい、このことは人間同士でもそこを初めて訪れるのと地元のものとで環世界が違う、とも論じる。確か文中にカントの引用があって、19世紀の生物学者は哲学者を引用するんだなと思ったけれど、それぞれの主体は「環境」を別様に見ていて、そしてその向こうには永遠に認識されない「自然という主体」を示すところなどは、確かにカントの「物自体」の議論が踏まえられているのか。フリップフラッパーズというアニメに出てくる小さい生き物がユクスキュルと名づけられていた縁で、その筋の人には知られた本だけど、じっさいフリップフラッパーズのキャッチコピーには「あなたには、世界はどう見えているんだろう」と書かれていて、直接の影響が感じられる。

丸谷才一『樹影譚』

樹影譚 (文春文庫)

樹影譚 (文春文庫)

表題作は小説の腹案がナボコフの先行作品と似ているからと辞めたらナボコフにそんな小説はなく夢で見たのではという話から、自分の執着する樹の影の謎が、妄言とばかり思った老婆の話によって己の現実を突き崩す出生の真相が引き出されるかのような現実と夢の入り交じる幻想的中篇。小説家を主人公にした小説を書く小説という形式にナボコフエドナ・オブライエンという実在の作家の名前なんかも差し込みながら、現実だと思ってたら夢で、妄言だと思っていたら真実では、という複層的な虚実反転を決める技巧性があり、そしてPKディック的崩壊感覚を思い出す。小説家が小説家を主人公にして、という形式的なメタ性も含めると相当多層的になってて、面白いし技巧的で、まあ、こういうのみんな好きだよね。本書は表題作と他二作を収める短篇集で、ほか「鈍感な青年」「夢を買ひます」という作品が入っている。「鈍感な青年」は初々しい恋人同士の初体験をめぐる短篇だけど、デートで行こうとしていた、あるはずの祭がない、という現実性の揺れみたいなものも描かれていて、「夢を買ひます」も整形をめぐる思い込みの話とともに、夢が真にという要素があり、緩やかに連繋しているように見える。

チェーザレパヴェーゼ『美しい夏』

美しい夏 (岩波文庫)

美しい夏 (岩波文庫)

都会で働く16歳のジーニア、三つ上で画家のモデルをしているアメーリアと、絵描きグィードとロドリゲスという男女四人を描きながら、ジーニアのグィードとの恋愛とその終わりを通じて、女二人、作者いわく「レスビアンの娘たちの物語」でもあるというイタリアの作家の長篇小説。軽く見ていた友人達がすでに男たちとの関係を持っていたことがわかる序盤の、ジーニアの優越感とじっさいは取り残されているという若者らしい描写や書き出しの情感も良くて、それが、解説によるとファシズム政権下の様子を微妙に滲ませた夏のイタリアを舞台に語られる。ジーニアとモデルをしているアメーリアとの関係が、裸体モデルをしているところを見たい、ということでアトリエに一緒に行くあたりで深まっていくんだけれど、ここで明らかにジーニアの興味がアメーリアにあるあたりで、あれこれは百合なのでは、と思ったら前述作者のコメントを全面的に受け入れるには留保がいるけれども、実際そういう面もある。知らないことを教えてくれる年上のアメーリアへの憧れとともに、同じ男をめぐる微妙な心情があり、アメーリアからもキスや、「わたしは、あなたに恋をしているの」と来るなど、彼女は同性愛者でもあるだろう。それも含めて四人の関係はなかなかわかりづらいところがある。長い解説が丁寧に作品を分析していて、ある人物に反ファシズム闘争のニュアンスを見たり、二人の女性の関係を未来と過去としてお互いがお互いを見ている相互的なものになっているというのはなるほど面白いし、ラストシーンのセリフもそういうニュアンスがあるのがわかる。主人公が16歳から17歳になる夏から冬にかけてを舞台にした、同性異性それぞれへの感情を絡めて、少女から大人へとかわる様子を描いた青春小説といってよく、短い長篇ながら明示的に描いていないところも多くて読み込む必要が結構あると思う。今作は『丘の上の悪魔』『孤独な女たちと』で三部作を成すらしい。

堀江敏幸『郊外へ』

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

パリ郊外についての小説や写真集などをめぐる考察を、仮構された「私」を通して語る一冊。郊外小説を語るためにパリ在住の壁の内と外を歩き回る架空の「下等遊民」と挿話を土台に語るという方法を用いた独特の散文作品。小説とエッセイのあわいの読み心地がある。Uブックスで「エッセイの小径」とあるのに、一連の物語に出てくる「私」とその周辺の出来事は完全に虚構だとぬけぬけと語るあとがきに、小説の萌芽ともいえるものがあるのは確かで、事実、冒頭の一篇からして語りの距離感はいわゆるエッセイとはやはり異なる。最終篇の「コンクリートと緑がたがいちがいに出現する異郷の郊外地区の風景を、私はいわばクッションボールで処理しようとしていたのであり、間接的な仕方でしか見えてこないものを追い求めていたのだ」(186P)というくだりは種明かしをしている箇所だろうか。小説を論じる連載を書きあぐね、虚構の「私」という小説的方法を用いることで書き進めることができたようで、おそらくこれは小説のように書くことで小説を語るという試論ではないか。あとがきでも「小説」とは述べていない。どちらでもありうるし、どちらでもないかも知れない。内容としては、フランス語に訳された他の外国の文学を読んでみるという「受容の受容」を、文化の模倣吸収をめぐって、どこか都市と郊外の関係に似たものをそこに認めつつ、それが「くつろぎ」を与えるのは、第三国の者として傍観者の無責任があるゆえだと語るところや、ナチスユダヤ人収容所に転用され、戦後はナチへのコラボが収容されたあと、今は郊外人を「収容」している、という郊外団地や、ペレック『僕は覚えている』やセリーヌの文章が郊外の生徒からさまざまな表現を引き出したり、カフカの断片の続篇を書いた生徒がいたという本の話などが印象的だ。フランス郊外の地理が全然わからないので地図が欲しかったけど、ごく単純に楽しい散文として面白く読める一冊で、堀江敏幸のデビュー作としても興味深い本だろう。私は『熊の敷石』をずいぶん前に読んだきりだった。マルト・ロベール訳カフカの文庫本というのが出てくるけど、そういや丸谷才一「樹影譚」にもマルト・ロベールが名前を出さずに言及されていた。言及されるモディアノの『特赦』は『嫌なことは後まわし』として訳されている。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『ある遭難者の物語』

軍艦から転落して十日間を漂流して生還した水兵の物語を新聞記者時代のマルケス聞き書きしたという一冊。漂流の苦難を生々しく描き出すドキュメンタリーだけど、マルケス研究でも評価が分かれ、事実か脚色かにわかに判然としないところがある。内容としてはヘミングウェイの『老人と海』にも似た海洋漂流譚で、飢えと渇き、サメの恐怖に怯えながらの十日間の漂流は非常に小説的な迫力がある文章で、これが聞き書きだとはなかなか信じにくいところもある。『百年の孤独』の三年後に書籍化されたため、読者の幻滅を招いたこととドキュメンタリーゆえに空想に制約があるという評価に対し、これは『百年の孤独』の大ブームという狂騒に巻きこまれたマルケス自身を生還した英雄の水兵に託して語ったもので、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにした箇所や沈んだ水兵らに実在の作家たちをモデルにたところがあるという読解がされてもいる。この文章がじっさいに1955年の新聞に発表されたことは事実らしいけれども、書籍化されるさいに改稿された可能性も訳者は指摘していて、これは決着がついたんだろうか。ともかく、マルケスらしい小説を期待して読むものではないとも思うけれど、事実かフィクションかという解釈を問われるところがある。まあそういう二者択一というよりはどっちでもある、というほうがありそうでもある。表紙には長いタイトルが記載されていて、これが正式タイトルなんだろうか。「飲まず食わずのまま十日間筏で漂流し、国家の英雄として歓呼で迎えられ、美女たちのキスの雨を浴び、コマーシャルに出て金持ちになったが、やがて政府に睨まれ永久に忘れ去られることになった、ある遭難者の物語」。いかにも古典文学的な長文題、というか『ロビンソン・クルーソー』を意識しているのかも知れない。

高原英理『不機嫌な姫とブルックナー団』

不機嫌な姫とブルックナー団

不機嫌な姫とブルックナー団

図書館の非正規職員をしている女性がある日コンサートでブルックナー団を名乗る男性たちと出会う。垢抜けないオタクとしての彼らと、批評家に攻撃されたブルックナーの不器用でモテないエピソードを重ねつつ、夢への思いを鼓舞する青春小説のおもむき。ブルックナー団のなかなかにひどいオタク仕草や変な語尾で喋るやばいヤツの痛々しさを描きながら、団員の一人がサイトに上げているブルックナーの伝記を作中作として挿入し、それについての主人公の感想を挾みつつ、このブルックナーオタクとブルックナー伝記の二軸で進んでいく。ブルックナーのことは全然知らなかったけれど、処世下手で人情の機微に疎く、才能がありながらも疎まれ、それでいて厚かましい面もあってこれはなかなか、と思っていたら「嫁帖」の話は女性への態度がヤバすぎて、同情も吹っ飛ぶレベルなので主人公のコメントは正しいな、と思った。伝記を書いてる団員は小説も書いているけれど自己陶酔的な欠点があり、自分と距離のある人物や事実を元にするといいものを書く、とも言われていて、この書くことに客観性を取り込み良いものにするためという方向とともに主人公の自己を客観的に見過ぎてやりたいことを諦めた情熱の復活をも描いている。

ポール・オースター『幽霊たち』

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

探偵ブルーが依頼者ホワイトからブラックという人物を調査して報告書を週一で書いて欲しい、というところから始まる、探偵小説の構成を借りた、書くことと読むことをめぐるアイデンティティの不安、を描いた感じの中篇。色と記号的な名前、文字や紙を思わせるし、孤独な部屋で書き物をしているので、あからさまに書くことが意識されている。柴田元幸が「エレガントな前衛」と呼んでいるように、前衛的な小説はパワータイプが多いアメリカ文学には珍しいらしい。書くこと読まれること、見ること見られること、探偵小説の構成を借りたメタフィクションの手触りは確かに安部公房を感じる。ニューヨーク三部作の第二作。オースター、二〇年前には既に人気作家だったしその頃から読むつもりはあったし、これも買ったのは結構前なんだけど、今更初めて読んだ。三部作と何かしら代表作を読んでおきたい。

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』

ボルヘスの盟友として知られるアルゼンチンの作家の1940年作。政治犯受刑者の語り手が逃げ込んだ孤島に、突然複数の男女が現われ、その一人の女性に惚れ込むけれど、なぜかいっさい反応が得られず、そんな時島には二つの太陽、二つの月が現われ、というSF幻想小説。SFとしては古典的な設定にも見えるけど、ネタが明らかになるまではこれはどっちだ?となるところがあるし、この愛をめぐる解釈を誘う設定はやはり面白い。なるほどねと思って解説を読むと、一人称での叙述に時間の矛盾があると指摘されていて、やっぱそんな簡単じゃないなと思わされる。最初語り手の名前がモレルだと思ってたけどあ、違うのかと思ったらやっぱり同一性は確実に意識されている。解説にあるボルヘスのトレーン~の冒頭の記述が本作のことだとして、一人称の矛盾があることがどういう読みを引き出しうるのか、と思ったけどモレルと語り手について、だろうか。分身、鏡、愛、不死、他者その他いろいろ……。後の作品にも影響を与えているようで、そういう意味でも早く読んでおくといい気がする。序盤やや退屈ではある。帯文に「独身者の《機械》」とあって、そういやちょうどこの前買ったカルージュ『独身者機械』にカサーレス論がある。それだけ拾い読みしたけど、受刑者という属性からカフカの「流刑地にて」と繋げたり、舞台がエリス諸島のヴィリングス島というのは疑わしいという刊行者注に着目して、ここにモレルがmort=死者、ヴィリングスがLivings=生者、エリスのフランス語から無限などの言葉遊びを引き出してたりしてなかなか面白い。ブストス=ドメックやイシドロ・パロディとか、ボルヘスとの共著はいくつか読んでるけど、カサーレスの単著は初めて読んだ。しかし書くことと幽霊というとオースターの『幽霊たち』みたいだ。持ってるのは90年代に出た叢書アンデスの風版。確か池袋ジュンク堂で買ったはず。2008年に再刊されている。清水徹ブランショ経由で読んでいたのがきっかけらしいけど、専門外の言葉、というから清水は仏訳も参考にしつつ、ちゃんとスペイン語からの翻訳をしたのを牛島信明校閲した、という形か。清水には『鏡とエロスと』という日本文学論集がある。
新訳 独身者機械

新訳 独身者機械

ゾラン・ジヴコヴィッチ『12人の蒐集家/ティーショップ』

日々、爪、夢、切り抜き、希望など、12のコレクションにまつわる不穏な掌篇連作と、ティーショップで物語のお茶を注文すると店内の人々が次々に物語を語り継いでいく短篇を収めたセルビアの作家の作品集。ボルヘスの盟友カサーレスに続いて、「東欧のボルヘス」と帯にあるジヴコヴィッチボルヘス繋がり。ただ、あまりボルヘスぽくは感じない。「12人の蒐集家」は有形無形さまざまなコレクションが概して終わり、消滅とともに語られていて、ある日の記憶を代償に素晴らしいケーキを食べられるけれど食べすぎると消えてしまうという話や、切った爪を丁寧に保管してコレクションしているけれど、死んだら自分のコレクションがどうなるかと不安になる話、とつぜん現われた男がピアノや隕石などが落ちて死んだ不幸で希有な運命の人間について語ったかと思うとサインを求められ、あたなはこれから有名になる、と言われる話などが語られる怪奇掌篇集。一篇一篇はわりあいに軽妙なさらっと読める幻想怪奇小説になっている。それでいて、集めることがそのまま消えることへと転じていくような連作にもなっていて、この反転性が解説にもあるジヴコヴィッチの魅力だろうか。黒田藩プレスから出た作品集にも入っていた「ティーショップ」は千夜一夜物語を思わせる、物語が物語を呼び寄せ、語ることがさらなる語りを生み出す短篇。ある旅人がティーショップに入ると「物語のお茶」というメニューに目が止まり、それを注文すると店員はおろか客席にいた人々までが次々に物語を語り出していく、フラッシュモブみたいな展開が楽しいのと、語りのギミックが決まってて再録も納得の短篇だと思う。黒田藩プレスのも『時間はだれも待ってくれない』収録作も読んだので、あと一作80年代のSFマガジンに載ったものが既訳としては未読。洒落てていいけど軽め、という印象なので世界幻想文学大賞受賞作のThe Libraryとか、長めの作品も読んでみたいところ。長篇型の作家ではないのかも知れないけど。セルビアの作家だけれど本書は英訳からの重訳。英語版Wikipediaを見ると、The Writer、The Book、The Library、Miss Tamara, The Reader、The Last Book、The Ghostwriterとか、本にまつわる小説がたくさんある。ここら辺がボルヘスが引き合いに出される要因かも知れない。
Zoran Živković (writer) - Wikipedia

トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』

地下―ある逃亡

地下―ある逃亡

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝五部作の二作目。邦訳としては三作目になる。耐えがたいギムナジウムを抜けだし、「反対方向」にあるザルツブルクの汚点と呼ばれた貧困層の暮らすシェルツハウザーフェルト団地の食料品店で働いたことを回想しながら、家という地獄から団地の辺獄を経て、音楽へと幸福を見出す過程が描かれている、ととりあえずは言える。
これは別記事にしてある。
トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』 - Close To The Wall

前回も今回もベルンハルトの五部作が入っているのは偶然なんだけど、なんかそういうタイミングがあるな。

トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』

地下―ある逃亡

地下―ある逃亡

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝五部作の二作目。邦訳としては三作目になる。耐えがたいギムナジウムを抜けだし、「反対方向」にあるザルツブルクの汚点と呼ばれた貧困層の暮らすシェルツハウザーフェルト団地の食料品店で働いたことを回想しながら、家という地獄から団地の辺獄を経て、音楽へと幸福を見出す過程が描かれている、ととりあえずは言える。

教育制度への痛罵が書きつけられた前作『原因』のあと、ギムナジウムを抜け出し、地下食料品店で働きはじめたことを描いた本作では、むしろこの貧困層の集まる地域、職業安定所の職員が顔をしかめるシェルツハウザーフェルト団地にこそ、自分の居場所があると語り手は感じていて、働くことで役に立つということを強調している。

この地下食料品店にあるものすべて、この地下食料品店にかかわるものすべてが魅力的だっただけでなく、それらは私が属すべきところ、切望するものだった。自分はこの地下の人間であり、この人たちの仲間なのだと感じた。だが、学校という世界に属していると感じたことは一度もなかった。20P

家やギムナジウムでの人付き合いの困難さに対して、シェルツハウザーフェルト団地ではまったく困難を感じず、役に立ちたい、仕事をしたいと語り手はこの仕事に馴染んでいく。汚点とみなされ、忘れられ、否定された場所だからこそ、シェルツハウザーフェルト団地という名を語り手は繰り返し繰り返し書きつける。この長い名前を省くことなく、つねに「シェルツハウザーフェルト団地」と書きつけ、何度も重ね塗りしたせいでそこだけ毛羽だった手触りを感じさせるようにこの名を塗りたくる。貧困にあえぐ人々や、戦争のことを語る人々、手足を失い戦争のことを語らない人々の姿が折に触れ書きつけられ、店で働くなかでそういう人と出会い、そうした名前が後に新聞で事件や死亡記事として現われることもまた書きつけられる。出会った人々の名前を忘れていないということだ。

シェルツハウザーフェルト団地や地下で自分の居場所を見出したのとともに、ここで語り手は店主ポドラハという重要な「師範」にも出会っている。

祖父は私に、ひとりでいること、ただ自分のために存在することを教えてくれたが、ポドラハは、人と一緒にいること、しかも多くの、実にさまざまな人間と一緒にいることを教えてくれた。祖父のもとで私は哲学の学校に行った。人生の早い時期だったから、それは理想的なことだった。シェルツハウザーフェルト団地のポドラハのもとで私は、もっとも現実らしい現実の中へ、絶対的現実の中へと入っていった。早い時期にこの二つの学校で学んだことで、私の人生は決定づけられた。そして一方がもう一方を補うことによって、この二つの学校は今に至るまで私の成長の基礎をなしているのだ。54P

祖父と地下食料品店店主ポドラハという二人の教師から学び、家から地下の仕事を経て、そこで稼いだお金でプファイファー通りにある音楽家夫妻の家で音楽を学ぶことができるようになる。家の人間からの妨害に負けずに、自分の目指すところへ自ら進むための重要な場所として地下がある。

音楽と、終盤にある自分が演じられた存在でもあって「自然とは劇場」だという認識は劇作家としての後の経歴とも関係するだろうけれども、同時に序盤に置かれている「真実を伝えようとすると、どうしても嘘つきになる」、という認識とも繋がっているように見える。

私たちが知っている真実とは必然的に嘘であり、この嘘は、避けて通ることができないがゆえに真実なのだ。ここに書いたことは真実であるが、真実ではありえないがゆえに真実ではない。
中略
肝心なのは、嘘をつこうとするか、それとも、それが決して真実ではありえず、決して真実ではないとしても、真実を言おうと、真実を書こうとするのか、ということなのだ。私はこれまでずっと、いつも真実を言おうとしてきた。今ではそれが嘘だったということがわかっているけれども。結局肝心なのは、嘘の真実内容なのだ。36P(傍点を強調に)

書くことは生きるために欠くことができないという語り手が「真実として伝えられた嘘」しか書くことができないとしても書き続ける、というこの自己矛盾的な書くことや言葉への疑いが語りの基点にある。ここに、作家誕生までの物語と同時に小説という形式への態度が現われる、自伝的小説らしさがある。

改行が一回しかない延々たる語りで、序盤と終盤で似たようなことを語るんだけど、そこで最初は良いことしかなかったと言っていた仕事のマイナス面についても語っていたり、螺旋的な進行をしているところがある。『原因』よりはずっと、幸福な面を語っているような印象があり、祖父だけではない先達を見出して相対化し、そして語り手の世界もずっと広がっていく。


翻訳では自伝五部作の順序を変えて、幼少期の第五作目から刊行しているので本作は五部作の二作目だけど、翻訳としては三作目になる。
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石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

石川博品二年ぶりの新作。商業では『海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと』、同人では『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落"』以来となる。去年は商業も同人も新作がなく、今年は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』アンソロジーに短篇二作を発表しているけど、これは序盤しか原作を知らないので読んで良いものかどうか迷ったままになっている。

さて、本作は近未来VR世界で特注の女性アバターをまとい風俗通いに勤しむ主人公が、高級娼婦にハマって資金を捻出するためにならずものアカウント殺害動画配信をして稼ごうという話で、帯文通りエロスとバイオレンス濃いめでもあるんだけれど、VR設定によって切実さとともに軽薄なコミカルさも失わないバランスが素晴らしい。

2033年サブライムスフィアというVR空間が舞台で、場所によってはアカウント消去で復活できない殺しもアリだったりもする、性欲も暴力も自己顕示欲もあふれる欲望の世界。主人公狩野忍は、VR風俗通いで出た紙おむつとオナホを、実家暮らしのため会社のゴミ箱に捨てようとして同僚女性に見つかり、VRで零細動画配信者だった彼女とコンビを組むことになる。この序盤のあらすじ時点で治安が悪いし下ネタ全開で、とはいえ『菊と力』や『海辺の病院~』の暴力と死の殺伐系にも連なる陰の雰囲気がありつつ、軽妙な会話、動画配信でのコメントといったスラングまみれのやりとりという石川作品の陽性の魅力も充分にあって、設定によって両系統のハイブリッドを実現している。

2033年ということで、男性が女性アバターを使うことになんの不思議もないし、主人公は女性アバターで女性アバター相手に関係を作りまくるし、それがリアルで男性かは気にしないし、男女アバター使いわける人間もいる、そういう世界はすでに当たり前になっている。

そうした状況を前提に、忍の一人称で全体が語られながら、VRでの自身を「シノ」と呼ぶことで、階層的なVRに見合った語りを生んでいる。忍は地の文では「俺」といい、会話文では「ボク」と一人称を使い分けて、この会話文の一人称はタイトルに取られているとおり、そのまま女性アバターシノのそれでもあり、グラマラスな女性アバターが「ボク」と自称するあたりに、複雑な自己認識のありようが反映されている。さらにここで面白いのは、一章でセックスが始まった時に一人称映像を脇の小窓において、三人称視点に切り替える場面だ。エロにおける主体化と客体化の同時並行と、シノと忍の並行描写。VRアバターとリアルの二重関係が語りやエロスの面でよく出ている箇所だ。

過去にSTGゲームに人生を賭けた経験がある忍は、VR世界でも銃撃戦に長けており、終盤ではVR内ゲームとして陣取り合戦的な銃撃戦ゲームに雪崩れ込むんだけれど、この八章と九章のゲーム小説部分は一番楽しいところだろう。九章は本筋の勝負がかかってシリアスさが強くなってくるので、特に多数の仲間が揃って何でもありのゲームで皆が活躍する八章が気に入っている。

終盤の内容は伏せるけれど、マリカワが「嘘と本当を二段構えにすれば深さが生まれると思っている」と批判され、「深さは自分のやり方を貫いた結果として、他との比較において生まれるものなんだ」とシノが語るように、この嘘と本当の、VRを思わせる対立は、もちろん虚構としての小説をも射程に入れたものでもあるだろう。視角と感触を伝えるデバイスを装着した箇所だけが感覚を伝えるVR世界のはずが、ドット絵にリアリティを感じるように、ある場面では幻の五感が伝わってくる。

ボクの放った弾丸が敵の頭に当たり、水風船みたいに弾けて台車の横っ腹に赤い染みを残す。銃口から立ちのばる硝煙の香になぜか胸が高鳴る。宇宙船の中で循環する空気に食べ物や油や金属や乗組員の息や足の臭いが混じっている。床に埋まったレールの上は滑りやすいので移動のときは踏まないようにする。遮蔽物にした台車に寄りかかり、手を突くと、誰かの血でべっとり濡れている。ボクは魂が吸うことのない空気を吸い、味わうことのない感触を味わう。すべてはことばで、誰かによって作られた設定でしかないが、ボクには現実で、いまここにボクが立っているのと同じように実在する。393P

贋物のなかにある本物、贋物のなかにこそ生まれる本物、虚構の世界にある切実な欲求、ここで語られているのは「すべてはことば」でできた「小説」そのものでもあるはずだ。マリカワのやり方も間違っているわけではなく、贋物のなかにこそ本物を作り出そうとする切実な希望が語られる。「彼女の頬に涙が輝いて、シノはこの暗い中に月や星の光が届いていることを知った」なんていうVR空間の描写のように、美しくないもの、本当ではないもののなかの美しさを描こうとする石川作品のモチーフが、VRの欲望と暴力の世界に自分の尊厳を賭けたからこそ生まれる自由と解放感として書き込まれている。

ゲーム内のキル数としてカウントされる死の奔流のなかで、ヴァルハラというワードが出てくるのも葬送のモチーフだけど、ここでのVR空間はヴァーチャルな死とリアルの死の重ね合わされた場所でもあって、そしてこのVR空間はサブライム=崇高、と命名されている。


呼称の点では「キャッシュマネー」が最初から最後までキャッシュマネーとしか呼ばれないのが地味に面白い。10章でもキャッシュマネー呼ばわりされてて扱いがなかなかにひどい。随所にある動画のチャット再現もヤジや応援、ツッコミとして機能してて面白いし、これは判型が大きいからこそできることだろう。判型ともちょっとかかわるけど、章扉でその章で扱うものの解説が載ってるのが、最終章で何もなくなるのがVR以外だということと葬送の黒を感じてなかなか印象的だった。

スラングの使い方や題材のほか、主人公の勤務先や災害その他、結構時事性を感じる小説でもある。VRという今の題材や、石川作品の殺伐系とコミカルさの両側面があることととか、下ネタの多さに引く人でなければ、石川博品作品へのとっかかりとして良い作品なんじゃないかと思う。

前作の記事。
closetothewall.hatenablog.com

パウル・ゴマ『ジュスタ』


ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。著者は今年、亡命していたパリでCOVID-19によって亡くなった。本文に執筆年があっても刊行年がどこにも書かれていなかったので英語版Wikipediaを見ると、ルーマニアで1995年に刊行という情報があった。革命以前は発表されなかった作品ということだろう。

主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちに、おそらくはルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。

このトリアという女性は「ジュスターリニスト」(この言い方は元々あったようだ)を縮めてジュスタと呼ばれており、「ほら、ジュスタだ!」というフレーズが多くの章の書き出しで反復され、繰り返しこの名を読者に刻む。85年、著者と同じくパリにいる現在時から、ジュスタと何度も遭遇しつつも後ろめたさゆえに出くわすのを避ける、という幻視?が語られ、現在時と56年当時のほかにも複数の時間軸が回想のなかに現われる。

複数の時間軸が語るのは、全体主義、独裁的な社会では、つねに言葉が裏切りとともにあるということだ。ある詩人へのまったく逆の評価が同じ人間の口から出てきたり、詩人の活動の空白期間や没年は出ても場所や状況が伏せられ、前言との矛盾を指摘されると酒に酔っていたといってうやむやにする。階級への裏切り者は拷問を受け、チクり屋は後年同級生と再会した時にワインを頭から掛けられる。

主人公たちは作家批評家養成学校で学ぶ学生達で、53年にスターリンが没し、56年のスターリン批判以後、ポズナン暴動、ハンガリー事件と続く1956年の状況下での反ソ連の動きに連なろうとする主人公が学生煽動で逮捕されているけれども、詳細に語られるのはそのことではない。そうした事件の影で、主人公が見ていない場所で、ジュスタが裏切り者としてセクリターテに拷問されていたということを知人から伝え聞く場面がとりわけ丁寧に描かれている。「正義屋」、お目付役、スターリニストと呼ばれていたジュスタだけれど、規律に厳格な風でいて告発に横やりを入れたり、主人公が告発された時に助け船を出したり、正義というあだ名はまったく正しい形容としての姿が見えるようになる、その挙句のことだ。

ジュスタから拷問の話を聞いたディアナは叫ぶ。ナチのユダヤ人、ジプシー、ウクライナ人を殺し焼いたことを非難する声のなかに「ユダヤ女、ジプシー女、ウクライナ女のことは聞こえなかった」、「反人類的犯罪だ! でも間違っても反女性的犯罪という言葉は聞こえなかった」と。長くなるけど、その下りを引用しておく。

「先へ進もう、わかったよ、十分……」
「十分……十分? もう十分! 私もそう言っていたわ、私もそう叫んでいたわ、ポンプで注入された時、ホースの水で膨らまされた時――でもその時叫びまくった、ほとんど歓喜のうなり声で、心の底から吠えていた――それは純粋な苦痛だった、それは涙のような透き通った屈辱だった――苦痛と凌辱と腹裂き――私たちはそれを知っているの、イヴの時から承知しているのよ! 知っているのよ、神か悪魔が私たちを、話によると、君らの肋骨から引き抜いた時から、そうして、君らは、男は、そこがそのままでいるのに、私たちは、女は、空っぽで一杯……。いいですか、あんた、みんなが至る所で叫んでいる、怒鳴っているのが聞こえるわ―――“忘れまい、ナチの悪業を! ナチが数百万のユダヤ人、ジプシー、ウクライナ人をガスで殺し、焼いたことを忘れてはならない……” 大いに結構――忘れてはならない! でも私に何が聞こえなかったか分かる?――せめてたまにでもよ? ユダヤ女、ジプシー女、ウクライナのことは聞こえなかった!  そうして、いいですか――犠牲者のほぼ半分が“女性要素”一ですよ。同意します――残虐の限りだ! 同意します――反人類的犯罪だ! でも間違っても反女性的犯罪という言葉は聞こえなかったわ! なぜなの? なぜならば判事も、検事も、歴史家も、年代記作者も、まずは男性だから? でもいがみ合いを、戦争を、大虐殺をひきおこしたのは君らよ、男性よ! 君ら――たとえ君らが、“めんどり”を探さねばならないのだと、ヘレネがトロイ戦争の原因だったと言い張ろうとも! でもやっぱり君らは最後の一人になるまで殺し合うしかない、その最後の一人と一緒に私たちはもう少し馬鹿じゃない新しい人類で地を満たそう。どうして君らが、男たちが殴り合って、そうして私たちが、女が打撃を引き受けるの? それもなんたる打撃を……。一つ馬鹿なことを言いましょう、多分、多分不当な言い方でしょう、でも言うわ――百人の男性が受ける拷問は、全部合わせてたった一人の女に対する“パンティを脱げ!”にも足りない!――君もパンツを脱ぐ――仕方がないから、それはそうでしょうとも……何のため? 君をどうしようと? やるため? 犯すため? 回すため? いやいや、ただお尻をぶっ叩くだけ……」154-156P、強調原文

ここにいたる下りでは、ディアナがジュスタのことを話そうとすると、主人公がもういい、言わなくても分かる、と言って、ディアナがそれに激怒するくだりがある。

「分かった、その話はやめて……」
「いいわ、やめましょう……。いえだめ、やめない――なぜやめるの?」 ―そうしてディアナは猛然と巨大になって立ち上がる。
「想像できるから……」と言おうとする。
「想像できる――くそったれ!想像のくそったれ!」
 ディアナのこんなしゃべり方は一度も聞いたことがなかった。たしかに、最後に話してから長い歳月が過ぎてはいる。
「想像するって! もういい加減にしてよ! 旦那の努力は超人間的、でも、多年にわたる戦いの末、大の大成功を収める。想・像・力! ブラボー! おめでとう!」151P

「想像力」への痛烈な批判。ディアナの意図以上に、作家批評家を養成する文学学校やブカレスト大学文学部を舞台にした今作がこうして想像力という言葉を批判していることは重要に思われる。さまざまな人名が実名で出ているということは、署名を断った大物など、当時の状況とそれを見ていた文学者たちへの批判的意図もあるだろうからだ。

本作が主人公の逮捕投獄についてほとんど紙幅を割かずに、終盤にこうした女性からの伝聞のかたちでジュスタのことを聞く構成になっているのは、男はその場面を直接目撃することはできないという不可視の女性への暴力を、男の語り手から反省的に捉え返すための仕掛けになっている。最後にはジュスタ視点からの直接話法になるけれど、それもディアナからの伝聞がベースになっている形式だ。

解説に、ジュスタ以外の登場人物、事件は「実名・事実そのまま」らしく、ジュスタが実在したものかどうかわからないけど、フィクションあるいは仄聞した何か、についてのものだとすれば、自伝を書きつつ自伝では見えていないものをあえてメインに設えた、という自己批判的な試みが込められていることになる。

「さあミスター! 目を覚ましたら! なぜそうやって、目をつぶったままでいるの?」171P

「ほら、ジュスタだ!」と繰り返され、パリでジュスタを見つけ、出会っているのは果たして現実なのだろうか。目を開いて、ジュスタを見たのだろうか。


この頃の事情について用語解説を先に読むよう断り書きがあるように、状況や時間軸が分かりづらいところもあるけれど、終盤の迫力には圧倒される。

表紙はジュスタの文字をピンクの丸が囲ってあり、その周りを黒が覆っている。全体主義社会のなかのジュスタ=正義そして女性、のありようをシンプルなデザインにまとめたものだろうか。読み終わって本を閉じると表紙には既に作中の出来事が暗示してあることがわかってぞくっとした。

図書新聞に荻原魚雷『中年の本棚』の書評が掲載

中年の本棚

中年の本棚

既に入手できるはずの図書新聞2020年11月7日号に、荻原魚雷『中年の本棚』の書評「四〇代を生きるヒントを探し尋ねる記録」を寄せました。

古書店通いを日課とするライターが、四〇代から五〇になる頃、中年としての生き方を多彩なジャンルの本に探し求める読書エッセイでなかなか面白いです。そして著者オススメの星野博美は確かに良かった。あまり馴染みのない書き手だったので、とりあえず全ての単著を読んで著者のスタイルを調べた上でなんとか形にしました。著者の本としては本書は一回の分量が長い、という特徴は文中に盛り込めなかったのが惜しい。普通書評に自分のことは書かないんですけど、今回は読書エッセイが対象なのでちょっとエッセイ風に書いてみました。一応中身と絡めたオチにしたつもりですけど、面白いかどうかはまたちょっとどうでしょうね。あんまり面白いことは書けないなと思いました。

なお、著者はつかだま書房版後藤明生『四十歳のオブローモフ』に解説を寄せていて、そこでたぶん初めて読んだので、よく知らなかったんですけれど、読んでみて、なぜその解説を書いているのかがわかったのも面白かった。つながりがありつつ絶妙に私の守備範囲外に投げてきた編集さんの依頼も上手いなあと。作家のエッセイとかではない読書エッセイってそういえばほとんど読まないので。

著者は過去は玉川信明の大正思想史研究会に所属して、アナーキズムについて研究していたらしいのがなかなか面白くて、糾弾する側もされる側も経験があるらしく、それで政治的なものから距離を取った、ということが書かれていて、この経験は非常に後藤明生的なんですけど、しかし著書のなかで後藤明生への言及って数カ所しかなくて、メインで取りあげたことがないんですね。読んでる形跡はあるんですけど。

高円寺在住で古書店に日参するという著者の生活圏もそのスタイルも、かなり自分とは違っていてその点が面白くもあるんですけど、一番違うな、と思ったのは、小説家を読むにもまずはエッセイ集から読むっていうところですね。その発想はなかった。「軽エッセイ」とかそんな表現があったと思いますけど、そういうものを好む著者にとって、本や文章というのはまずその人の人となりとしてあって、文章を介して他人と触れあうこと、という印象があります。本、古書店、酒の席、というコミュニケーションとしての読書がある、というか。

そういえば『中年の本棚』は鈴木千佳子が装幀なんですけど、その前に読んでたのが新版『水晶内制度』でこれも鈴木千佳子が装幀。無関係だと思ってた本同士が同じ装幀家で繋がっていて驚いたし『中年の本棚』で知って読んだ星野博美の二冊が両方ミルキィ・イソベでさらに驚きましたね。

戸越銀座でつかまえて (朝日文庫)

戸越銀座でつかまえて (朝日文庫)

  • 作者:星野博美
  • 発売日: 2017/01/06
  • メディア: 文庫
星野博美は『戸越銀座でつかまえて』をまず読んで、なかなか面白いなと思って『島へ免許を取りに行く』も買っておいたんだけど、ちょうど戸越銀座のラストが免許、へのブリッジになってて、良い偶然だった。
島へ免許を取りに行く (集英社文庫)

島へ免許を取りに行く (集英社文庫)

『島へ免許を取りに行く』は、書評でも荻野魚雷が引用したところを引用したけれど、中年になって初めて免許を取る、しかも長崎県五島列島にある自動車学校で、という旅行の面白さと免許というできなかったことができるようになっていく学習記録の両方のノンフィクションになってて、非常に面白い一冊です。教習所に馬がいて乗ったりできる、非常に不思議な場所で、これはとりわけオススメの一冊ですね。

笙野頼子『水晶内制度』

水晶内制度

水晶内制度

  • 作者:笙野頼子
  • 発売日: 2020/08/12
  • メディア: 単行本
新潮社版以来一七年ぶりにエトセトラブックスから再刊された著者の代表作といっていい長篇。30ページほどの著者自身による解説が当時の状況や作品の成立事情などを明らかにしており、論争的な性質上時に把握が困難な作品の文脈の参考になる。なお、新潮社版は四千五百部を十年かけて品切れとなったらしい。

本作は千葉、茨城にまたがる地域に打ち立てられたという国内独立国家「ウラミズモ」に移民した女性の語りを通じて、女こそが人間だという、日本の差別的社会構造を男女逆転した国家と、記紀神話の改作を通じた建国神話の創造を語る。

久しぶりに改めて読んでもここには何か独特の重さがある。女人国ウラミズモは理想社会などではなく、「言論統制国家」でもあって男に人権はなく、女性こそが人間だという体制を構築しているけれど、日本社会の差別性の裏返しとしてのウラミズモを語り手は肯定しきれないことが文章に滲むゆえか。語り手が「うわーっ。」と繰り返し叫ぶのは、男女平等の社会というユートピアはどこにもなく、日本という女性差別社会も、ウラミズモという男性差別社会も肯定しきれず、しかしそれでも女ゆえにウラミズモを選んでしまうときに忘れがたい犠牲への意識ゆえでもあるだろう。かといってウラミズモというオメラスから歩み去ることもできない。原発を抱え、男性保護牧場を抱え、女性資源を輸出することで成立する女性のための「きったない」独立国。

また男女逆転とともに重要なのは非性愛的要素だろう。同性婚制度があっても同性愛者は移民から弾かれる(とあったはず)。リリアン・フェダマン『レスビアンの歴史』(私は未読)が発想のきっかけになったと自作解説にあり、新聞で書評したこともあってか著者がレズビアンと思われることがあったようだけれど、レズビアンがこんな話を書くだろうか、と言うくらいには本作は同性愛に親和的ではない。性愛的側面は男性保護牧場という「逆遊郭」や人形愛という形をとっており、女性同士で結婚する場合も「偽のレズビアンマザー」といわれ、「女性同士の友愛の頂点」として子供を一緒に育てる形になっている。ウラミズモの女性は、男性に対する恣意的な幻想は人形に投影し、性欲は逆遊郭で満たすことになる、と著者はいう。ウラミズモの特質はこうした、女性の国でかつ非性愛的社会という二要素によって組み立てられている。「少女人形さえ許されないほど、女性への性的評価や対象化は制限される」と著者がいうとおり、女性への性的な見方それ自体が拒否されている。現代日本の女性の苦難はここに発するという発想。

私にもし恋愛というものが起こるとしたならば、それはただある一点に集中した狂気に過ぎず、その一点の外は全て悲しみと怒りの対象でしかない、つまり恋とは私の全身が憎悪で出来ているという事の証拠に過ぎないのだ。248P

という語り手のセクシュアリティがやはり鍵かも知れない。ウカというパートナーとの関係や語り手の顛末はそうした要素の反映で、通常の意味での恋愛は描かれない。人形愛を題材にする『硝子生命論』や、相手のいない恋愛を描こうとしたという「タイムスリップ・コンビナート」など、人間でないものへの愛というのは著者の年来のものだ。

語り手はウラミズモの建国神話を作り上げる任務を与えられ、オオクニヌシスクナヒコナ、ミズハノメといった記紀神話の読み換えを通じてそれを行なっていく。基本的に語りはモノローグだし神話の書き換えという作業をしているのに、終盤で独特の情感が立ち上がってくるのに圧倒される。

常世よ。海上に燃える火が不可能を可能に、夢を現に。 266P

神話のイメージと水晶のモチーフで、性愛的でない愛やおぞましい核心を秘めた国家を描き出す。のちのおんたこ三部作や近年のウラミズモものなどと設定を共有する長篇群の重要なピースで、紙での再刊を機にここから入るのもいいかもしれない。著者の作品はときにきわめて論争的な背景を持っていたりして文脈がよくわからなくなることもあるかと思うけれど、近作ほど時事的でないし、男女逆転架空社会SFとして独立性が高く、上記の通りかなり親切な自作解説もついている。

なお「人形愛者たちの幻視建国」を描いた『硝子生命論』(『ガラス生体論』として言及される)の語り手「火枝無性」と本書の語り手が同名という連続性や、初期短篇「アケボノノ帯」っぽいイメージがあったり、本書の二尾銀鈴と猫沼きぬは『ウラミズモ奴隷選挙』で再登場(「双尾」銀鈴と表記がわずかに違う)して、保護牧場のエピソードを「選挙」と絡めて再話されていたりする。
笙野頼子の「ヒステリー」としての文体 - 「壁の中」から
このリンクは今見るといろいろ言いたくなるけど、十五年前に読んだ時の記事。

水晶内制度

水晶内制度

ウラミズモ奴隷選挙

ウラミズモ奴隷選挙

  • 作者:笙野頼子
  • 発売日: 2018/10/23
  • メディア: 単行本

参考として15年ほど前に出した同人誌「幻視社 第一号」に書いた笙野頼子レビューから『硝子生命論』部分を転載する。

硝子生命論

硝子生命論

●硝子生命論
 「男」という性への憎悪を体現した美少年の人形による異性愛という制度そのものへの抵抗から、「国家殺し」たる「人形愛者たちの幻視建国」を描く、幻想的色彩の強い連作長篇。個人的には初期長篇群では最も面白く興味深い作品であるとともに、後の「水晶内制度」との関係を考え合わせると、笙野の作品群の重要な水脈の一つであると考えられる。タイトルとともにミルキィ・イソベによる装幀も印象的。
 この作で「人形」とはほぼ美少年あるいは男に限定されていて、それは重要人物たる人形作家が女性であるからであり、彼女が人形を作るのは女性にだけであるからだ。そして、その人形は必ず死体でなければならない。ここに、この作の眼目がある。
 この作品に出てくる女性たちは、みな「男性」を拒絶している。意志的な拒絶と言うより、いいようもない不快感がある、とか近くにいるだけで恐怖感を感じるとか、ほとんど病的な潔癖さ(つまり一種の身体的な反応に近い)で拒絶している。それは、男、と女と切り分けられて女というカテゴリに自分がいるということが、きわまってしまったものなのだろうか。たとえば、語り手が人形作家と出会った時について。

 だがそれでも、お互い、何かを隠し合って生きているのだとその時にぼんやりと意識した。何か、というのは無論、恋愛の異端的な指向ではなく、憎悪だった。この世界のずっと変らないからくりへの、或いはいつでも外から来る何かによって叩き壊されてしまうしかない、果敢ない感覚や孤立した観念への、或いは、ただ文章に男と女は、と書かれていたというだけで自覚しなくてはならない漠然とした疲れ、体のだるさや、強いプレッシャーや……。34頁

 女が女であるだけで蒙らなければならないプレッシャーが確かにあるらしい。作中、「透明」と表現される制度の網の中に、男は無意識にもぐってしまえるのに、女はそうではないということを語る場面がある。女であるということで強いられてしまう現実の制度への強い憎悪と抵抗を、作中の女性たちは人形を通して表現する。

 ユウヒの作る、布で隠れた人形には本当は性別など必要がなかった。にも拘わらず彼女はそれが少年の人形であることに固執したではないか。私自身もまた同じだった。彼女の顧客たちも。それとも、それは単なる異性憎悪の変形に過ぎないのだろうか。いや、正確には異性に現実や制度を象徴させることで、それらへの憎しみを煮詰めて行くための、憎悪を核にした幻の愛だろうか。55頁

 現実なり男たちなりに抑圧された女性たちが死体人形に憎悪をこめて愛惜する。ここではそんな屈折した異性愛が描かれる。そして、現実の制度を嫌悪する者たちによって人形の国家が、奇怪な儀式によって打ち立てられようとする。
 観念的で幻想的、なおかつSFの影響も強い作品で、わりあい難解な小説である。また、初期から続く憎悪と殺意のテーマが異性との(非)関係を通して語られる非常に珍しい作品である。
 非常にまとめにくい作品だが、読み応えもありかつかなり強烈な作品だ。

ついでにこちらも河出書房あたりで文庫化されて欲しいところ。

原爆、引揚げ小説四冊

ちょうど手元にいくつかあるし、と八月の二週目ごろに原爆、引揚げについての小説を読んでいた。

青来有一『爆心』

爆心 (文春文庫)

爆心 (文春文庫)

長崎に住む人々を描く六篇の連作集。必ずしも原爆の被爆者ではない語り手を置くことで、土地に根付く歴史と記憶の断面がかいま見える、長崎に生きるということについて書かれている。浦上天主堂が表紙にあるように、原爆とカトリックキリシタンが基調の連作だけれど、他にも共通するのは家族の崩れが描かれていることで、原爆という切断、空白、途絶の影響はカトリックの信仰にも家族にも亀裂を入れる。

妻を疑い狂っていく「釘」、母の死期が近い「知恵遅れ」の四〇代男性の家族のない嘆きの「石」、被爆者と知覧の特攻隊の生き残りの不倫の「虫」、原爆で多くの家族を失った資産家に嫁いだ女性が少年を誘惑する「蜜」、四歳の子を失った男と妹を同日に失った老人とが海が迫る幻想について語る「貝」、そして瓦礫のなかから乳児だけが見つかって戸籍の親の欄が空白の男性が自らのことを手記に書く「鳥」。「釘」からすでに家族の崩壊とともにそこまで住んでいた土地を失うという、それまでの歴史の途絶が語られており、原爆という巨大な破壊が爆心地を空白にした傷痕がさまざまに刻まれている。「虫」では、マリア像のまえで不倫を働きながら、家族が全滅して自分が生き残ったのは神の思し召しだという語り手に対し、宣教にも勤しむ男性が、神にとっては人間も虫も同じだと言い放つ。

「おれらは虫といっしょさ。食べて、交わり、子を残していく……。誰が生き残り、誰が死ぬかは、ただの偶然でしかなか……それだけのことさ……」
「わたしは、家族が全部、死んでしもうて、わたしだけが生き残ったのは、なんか神さまの考えがありなさっとやろうと思います」
「神さまは、われらひとりひとりの顔を見てはおらんよ。人は多すぎる。この地上にはどこにも溢れておるやろうが、虫といっしょさ。虫の一匹、一匹の生き死にには、神さまは眼もくれんやろう。名前もなく、どれも同じ顔をしておるけんね。だから、虫も、つまらん信仰などもちはせん。虫には神さまはおらん。人間が虫よりもどれほど偉かと言うのか」118P

浦上天主堂を破壊した原爆の理不尽とカトリックの信仰の問題。一家の最後の人間になったかと思ったけど、あなたが最初の人間になればいい、という被爆後の慰めについて話す家で、記念式典の日に蛇のように子供を誘惑する女性が描かれる「蜜」の皮肉もあれば、家が途絶える話のあとに、親のない子が養母に拾われる「鳥」が継承を描いているようでもある。すべてが破壊された空白の爆心をめぐって、何十年も後の現代においてもいまだ影響を残す長崎という土地。被爆の経験をさまざまに織り込んで非常に読み応えのある小説で、文芸文庫あたりに入れておくと良いんじゃないだろうか。谷崎賞伊藤整賞受賞作。

しかし、作者によれば「蜜」がもっとも読者の好悪が分かれるらしいんだけれど、私には「石」がちょっとな、と思う一作だった。「石」の語り手は「知恵遅れ」ゆえに女性に惹かれるとすぐ追いかけたりつきまとったりして警察に厄介になるなど、ストレートに性欲で動く人間で、読んでて非常に抵抗がある。痴漢あるいはセクハラ男性の明け透けな意識の描写のようでもあるからだ。ただ、この「せっくすばさせてください」という神への祈りは孤独ゆえに家族を持ちたいという切実さに繋がるところには打たれるものがあるんだけれど、「家族」の名の下にやや読者の反応が甘いのかも知れないと思った。「蜜」がもっとも反応が分かれるのは、若い女性が原爆への等閑視とともに不倫を働き家族を壊すような振る舞いに自ら及んでいるからではないか。だとするとこの家族への保守的な態度がより「蜜」を嫌悪させるような感覚の由来ではないか、と。まあ想像にすぎない。「石」はじっさい、なかなか挑戦的な作品ではある。「石」の男性が日付を克明に記憶しているところなんかはやはり日付が重要な意味合いがあることの示唆だろう。
「原爆文学研究」18号に本作の小特集がある。

原爆文学研究〈18〉

原爆文学研究〈18〉

  • 発売日: 2020/01/01
  • メディア: ムック

林京子祭りの場・ギヤマン ビードロ

長崎で被曝した作家の初期作品集二冊の合本。75年に発表され群像新人賞芥川賞を受賞した「祭りの場」は三〇年前の被爆の壮絶な様子を淡々とした調子で描き出す。原爆文学で芥川賞を受賞したのはこれが初めてだという。『ギヤマン ビードロ』は12篇の連作で、なかでも三〇年後の同級生らとのかかわりから記憶の断片が繋がる瞬間が印象的。

原爆爆心地の半径500メートル以内の死亡率は98.4パーセントだという。著者は1.3キロ離れた三菱兵器工場で被爆した。「祭りの場」は工場で偶然にも生き延びてから家族のいる諫早に戻るまでの過程を、自身の体験のみならず散文的なドキュメントのように、他人の話や救護報告書などの報告を織り込みつつ書いたもの。とりわけ印象的なのは、爆心地松山町に住む老婆が山から家に帰ろうとした時、山から松山町を眺めたら、そこがクワでならしたようになにもなくなっていた場面。

 私たちは松山町の裏山、段々畑に出た。街はなくなっていた。褐色になったガレキの街をかすりのおばさんは黙って眺めていた。後から歩いて来た黒いモンペのおばさんは「うちのなかあ――」絞る声で腰を折って絶叫し、ばあちゃんの死んだ、ばあちゃんの死んだ、と泣き出した。
 松山町はくわでならされたように平坦な曠野になっていた。40P

探すまでもなく死んでしまったと思っていたら、壕のなかで生き延びた夫がいたという挿話に繋がるけれど、その夫もじきに放射線で亡くなることになる。熱線、爆風、放射線の三つが襲いかかるわけだ。語り手の伯父が長崎医科大学で講義を受けていたはずの息子を探しに行ったら教室には骨と灰の山しかなく、贈った万年筆のペン先で息子を判別した話も壮絶で、戦後天皇諫早に来た時、見に行こうとした妹を止め、雨戸を全て閉めたという悲しい抵抗の挿話もある。戦争では万単位で人が死んでるわけだけれど、この一瞬で全てが消えてしまう凄まじさはそれらとは一線を画したような異様な事態で、個人の目からの描写なのに、歴史、人類史的な何かが起っているというざわついた感触がする。淡々とした書き方のうえ、時折挟まる文章には戦争は人間ドラマの優れた演出家だ、というようなほとんど陳腐なレトリックがあって、その陳腐さをあえて放り込んだような突き放した感覚がある。

『ギヤマン ビードロ』は、被爆から三〇年後、高等女学校の同級生たちと再会した時の様子を中心に、上海育ちの引揚者でもあり学徒動員での被爆者でもある語り手がその歳月を想起しつつ見えていたものと見えていなかったものとに直面する連作集で、少し後藤明生『夢かたり』を思い出させる。14歳までをほぼ上海で暮らした語り手は1945年の三月に日本に赴き、八月に被爆する。連作は概ね被爆後のことを書いているけれども、時折上海でのことも語られ、上海と被爆の二色がベースになっている。複数の登場人物を配し、被爆してない同級生を置くことで、『祭りの場』より語りに膨らみが増している。

解説にもあるように、連作でとりわけ印象的なのは「空罐」と「友よ」だろう。「空罐」は解体直前の高校に再訪し、当時の記憶を友人たちと語り合うなかで、体内の硝子の破片を取り出す手術で来れなくなった友人が、被爆後空罐を毎日学校に持ってきていた少女だったことが判明する。父母の骨を入れた罐を持ち歩いていた少女の記憶は、語り手の心に錐を刺しこんだように痛みとなって残っており、被爆で体内に埋め込まれた硝子とどこか重なり、それは「ギヤマン ビードロ」で長崎のガラス細工にはヒビの入ってないものはない、という話とつながる、長崎とそこに住む人の傷の象徴でもある。

語りの視野の相対化ということでは、友人西田が被爆してないこととともに、被爆者同士でも一家全滅して生き残った者と、家族は諫早におり自分だけが被爆した語り手という差異もある。「友よ」もそうした体験の違いが現われた一作で、結末の場面はとりわけ印象的だ。さまざまな被爆体験と、さまざまなその後。

なお、「祭りの場」にはウルトラセブンスペル星人事件についての言及がある。1970年10月10日の朝日新聞に原爆の被害者を怪獣に見立てるなんてかわいそうだ、と女子中学生が指摘し話題になった、とあり、原爆文献を読む会の会員の抗議の声などを紹介し、こうある。

事件が印象強く残ったのは確かである。「忘却」という時の残酷さを味わったが、原爆には感傷はいらない。
 これはこれでいい。漫画であれピエロであれ誰かが何かを感じてくれる。三〇年経ったいま原爆をありのまま伝えるのはむずかしくなっている。
――中略
 漫画だろうと何であろうと被爆者の痛みを伝えるものなら、それでいい。A課の塀からのぞいた原っぱの惨状は、漫画怪獣の群だった。被爆者は肉のつららを全身にたれさげて、原っぱに立っていた。34P

この突き放した感覚は語りのトーンと同じものだ。

後藤明生を引き合いに出したけど、林は後藤より二歳年上で外地育ちという点も似ている。原爆文学が芥川賞になったのが林が最初だというのは、敗戦時に十代前半だった人たちがその体験を言葉にするまでに三十年近くかかった、ということで、引揚げ小説が70年代に多く出たという話と似ている。

しかしこの八月のさなかに原爆文学を読んでると、日光、原爆、コロナの三つの光環が重なってなんとも言えない重みがある。自分はあまり原爆文学を読んでいない。有名処もほとんど読んでない。『黒い雨』も原民喜も。気分が暗くなるのがわかっているのであえて敬遠していて、「祭りの場」を読んでまあ当然なかなか重い気分になった。

吉田知子満州は知らない』

満州は知らない

満州は知らない

中国残留孤児の問題を絡めた、日本に来た中国人を扱う三つの中短篇を収めた引揚げ小説集。表題作は孤児となりある日本人に連れられ日本にやってきて叔母夫婦のもとで育った女性が、両親の記憶もないまま自身の根拠を探しあぐねる根無し草としての生を描く。

自身の由来というミステリ的な謎の探索があるけれども、主軸はむしろそうしたルーツのわからなさからくる日常生活の微細な嫌な感じにあるようで、満洲帰りに感づいてる隣人の鬱陶しさや、満洲帰りの親睦会などに出席してやや後悔したりする。周辺状況から推測できる答えも、さらに自らをアウトサイダーとして見出すことになり、中国と日本とのあいだでどちらからも距離ができてしまう。本書の三作はいずれもそうした寄る辺なさを描いており、外地で日本人として育った引揚者とはまた別の、自分は日本人なのかという疑いが兆している。

冒頭の「帰国」も、残留孤児の姪を迎えたものの、彼女は日本語がわからず意思の疎通にも不自由し、ある日ヘリコプターの音に恐れをなして逃げ出してそのまま不可解に死んでしまう。日本語の分からない日本人が日本に「帰国」しても、生きる場所がそこにはない。

「家族団欒」は事故で孤児となった日本人が中国人の男と結婚し、その後日本に家族とともに移住して数年後、という時期を描いている。異国で言葉の通じぬ夫とある程度日本になれた妻とを相互に語り手に据え、家族も中国名と日本名とで別様に呼ばれ、その距離を描いている。

中国から日本にやってきた中国人、日本人双方のありようをさまざまに描いた連作のようになっており、青来有一『爆心』の「鳥」のように自身の根拠が空白になる戦災孤児の問題として通じるものがある。満洲を軸に、戦争の影響が数十年後の日本人、中国人とのあいだにわだかまる様子が描かれるとともに、「帰国」などで、一度幼い頃に会った程度の関係にもかかわらず、孤児と親族との再会があたかも感動のドラマかのようにメディアによって演出される様子を皮肉に捉えている。感動の再会というメディアの演出で見えなくなっているものは何か。

表題作には引揚者がさまざまに描かれ、主人公が家族のなかで実子と差別化されてる様子や、引揚者コミュニティで関東軍軍人の妻がそこから排斥されるコミュニティ内部の分断が描かれてもいる。引揚げてきた貧乏人たちの暮らすスラムのようになっているエリアが言及されたり、無一文で帰還した引揚者たちはしばしば厄介者と扱われた。

しかし静香は大畑正子のことを叔母に訊ねはしなかった。叔母が自分からその話をする時に聞いているだけだった。その話になれば必ず戦後の疎開生活の惨めさが語られる。どん底状態の時に運びこまれたもう一つの厄介なお荷物。お行儀の悪い子だった、という。なかなかなつかない上、土足で部屋へあがってきたり、卓袱台に腰かけたり、そのへんに唾を吐いたり。たしかに静香は迷惑な闖入者だったに違いない。小学校に上るようになった頃は他の子と同じようになり、成績も悪くはなかったから、その後については大した話題にはならない。繰り返し語られるのが、来てから数ヵ月の間のできごとなのだった。48P

貧しい人々として「開拓」という言葉を避ける、という差別があったことも触れられており、引揚げが当時どう見られていたかがうかがえる記述もある。残留孤児というとおり多くが子供でもちろん被害者だけれど、植民地拡大と同国人をも平気で見捨てる日本の政策による加害がまずあることを忘れてはならないだろう。特攻隊のそれのように、被害や犠牲にフォーカスすることで、加害者の存在を不可視化する罠がある。

青来有一林京子は去年対談した長崎出身の陣野俊史さんの『戦争へ、文学へ』で論じられていて本を買っていた。吉田知子のものは、対談のなかで話題に出て、あまり引揚げ者だったという印象がなかったのでその後手に入れたものだった。陣野さんは『爆心』の解説を書いている。
図書新聞に陣野俊史さんとの対談が掲載 - Close To The Wall

安部公房『けものたちは故郷をめざす』

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

(おそらくは)昭和二十三年冬、敗戦による満洲国崩壊後のソ連国府軍八路軍入り交じる中国で巴哈林という街から未だ見ぬ日本を目指して19歳の少年が旅立つものの列車は転覆し、そこで出会った怪しい男とともに厳寒の荒野を果てしなくさまよい歩く引揚げ小説。安部公房の三冊目の長篇で、1957年刊行。

男は最初汪と名乗っていたもののその後高石塔という中国人だと名乗り、母親が日本人で、日本語朝鮮語北京語福建語と蒙古語とロシア語も喋れるという。敵か味方か怪しいけれども、彼を頼らざるを得ないまま荒野に迷い出る道中はあまりにも厳しく、寒さと飢餓と疲労に苦しみ二人は寝てばかりいてさまざまなものが朧気になってしまう。荒野の道中は、孤児となり自身を証明するものが何もなくなった少年の存在の様態そのものでもあり、日本ではなくなった満洲だった土地の混乱そのものでもある。瀋陽にたどりついてもその日本人街には立ち入ることができず、ここは岩波文庫版解説にもある通り「赤い繭」の感触がある。証明書とともに久木久三という名前もまた奪われ、アイデンティティを剥ぎ取られたけものには帰る場所がない。満洲生まれの少年は日本にいながら日本に帰ることができないラストシーンは印象的で、外地出身者の「帰国」をめぐる不条理がある。引揚げを描いた短篇、五木寛之「私刑の夏」を思い出す。

安部といっても前衛的な作風ではなく、サスペンスある逃避行を描いたリアリズム風小説だけれど、登場人物が大半において疲労困憊してたり死にかけたりしてしばしば昏睡し、意識が朧気で夢幻的な雰囲気がある。またところどころの表現もやはり安部公房だ。

アレクサンドロフの部屋を逃げだそうとして、ドアを開けたあの瞬間のことを思いだす。そのドアの表には希望と書いてあり、しかし裏には絶望と書いてあったのかもしれない。ドアとはいずれそんなものなのかもしれないのだ。前から見ていればつねに希望であり、振向けばそれが絶望にかわる。そうなら振向かずに前だけを見ていよう。101P

とか、救援を期して立てた旗のひるがえるさまを、「まるでそこから見えない手がのびて、遠い世界を呼んでいるようだ」(117P)と表現したりするあたり。そしてこの終盤の一節。

……ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな……いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない……もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな……おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ……一瞬、火花のような夢をみた。ずっと幼いころの、巴哈林の夢だった。高い塀の向うで、母親が洗濯をしている。彼はそのそばにしゃがんで、タライのあぶくを、次々と指でつぶして遊んでいるのだった。つぶしても、つぶしても、無数の空と太陽が、金色に輝きながらくるくるまわっている。そしてその光景を、塀ごしに、もう一人の疲れはてた彼が、おずおずとのぞきこんでいるのだ。どうしてもその塀をこえることができないまま......こうしておれは一生、塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか?……塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……禿げのいうとおり、けもののようにしか、生きることができないのだ…… 296P

アイデンティティと抜け出せない迷宮感覚は『壁』その他まさに安部公房の基底という感じもあり、バラードのSF作品に対する『太陽の帝国』を思わせるところがある。