秋から年末にかけて読んだ本

ツイッターで書きっぱなしにしていて記事にまとめていなかった本をまとめて。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 プロジェクト:シャーロック』

2017年のSF傑作集。ちょっと物足りなくて傑作というよりはバラエティの面白さ。上田早夕里のOC短篇や山尾悠子が読めたのは良いし彩瀬まる、我孫子武丸加藤元浩の漫画もいいけど、新人賞があまり惹かれなかった。酉島伴名は既読なので飛ばして、彩瀬「山の同窓会」は子を生むごとに死へ近づく奇妙な生活環に変貌した人間社会とともに、出産への善意の同調圧力の気持ち悪さも出てて面白い。表題作と円城作はネット社会に生まれる何ものかを描いてるところが通じている。で、宮内作はやっぱこれは物足りない。松崎作は最初コミカルな調子は悪くないと思ったけど、途中から荒唐無稽にすぎたのと、昏睡から目覚めた人間に着替えを見られてビンタしたりするラブコメ漫画みたいな手続きが入るところとか「つっこみどころ満載」って言葉が出てくるのとかがダメだった。小田「髪禍」は読み応えはあるけど、怪奇小説の範疇でここに入るのは違うんじゃと思った。彩瀬はアリだけどこれは、という区切り感が自分にはある。横田順彌眉村卓はそんなに悪くないと思ったけど、筒井のは面白さが分からない。凝ってはいるんだけど。新人賞の八島「天駆せよ法勝寺」は「佛理」とかの仏教を取り入れた語りによる宇宙SFで、スタイルは良いと思うんだけど、何故か話にまるで興味が持てなくてだらだら読んでしまった。選評では古橋秀之に言及するのに、『ブライトライツ・ホーリーランド』が出ないのは何故なんだろ。『ブライトライツ・ホーリーランド』の冒頭こそ、今まで読んだなかでいちばんカッコイイ仏教SF(?)描写だったと思うけど、手元にない。部屋には『ブラックロッド』と『ソリッドファイター』しかない。実家にあるかなあ。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』

シリーズ最終12巻、2018年の傑作選。最終巻ということなのかおよそ700ページと厚めになっている。傑作選というには軽い作品も多いけどそれも含めてその年のカタログという役目は果たしていたので、終わるのはやはり寂しい。編者が述べていたように、純粋な傑作選とするにはさまざまな制約があり、そのかわりにマイナーな掲載誌から拾ってくるものがなかなか貴重で、今作でいえば水見稜の「アルモニカ」がそうだろう。タイトルにもなった楽器をめぐる読み応えのある歴史音楽小説で、ワセダミステリクラブの機関誌からの再録。新人賞のアマサワトキオ「サンギータ」は2037年のネパールを舞台に生き神クマリとバイオ技術を絡めた一作で、クマリのキャラ性含めてかなり読ませるけど、「ますん」とかのどっかでみたようなネタがちょっと微妙。いろいろパロディがあるっぽい。しかしこれ100ページあるけど応募規定超えてないか。読み始めてみて100Pあるのに気がついたんだけど、新人賞の応募規定は原稿用紙100枚くらいのはず。「サンギータ」は倍くらいある。選評にもこの長さについて誰も触れてなくて、改稿の結果長くなったのかとか、どうしてこんなに長いのかわからなくて困惑した。今年で一気に四巻分読んだ。編者が被っていて傑作選にほとんど入れなかったというNOVAシリーズ、一巻しか読んでないからこっちも読まないとなあとは思っている。

逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ』

豚のレバーは加熱しろ (電撃文庫)

豚のレバーは加熱しろ (電撃文庫)

電撃小説大賞金賞。非加熱レバーを食べて死んだ理系オタクが異世界で豚に転生して心が読める被差別種族の少女とともにこの世界の謎に迫るファンタジー。真相に釈然としないものがあるけどアイデアは良いし締めも良い。それゆえ288P以後の評価に困る。心が読める種族イェスマは、金持ちの小間使いとして仕え、16の誕生日を迎えると王都に旅しなければならず、しかし骨や首輪に価値があるため、その間に多くが狩りにあって殺されてしまうという不可解なしきたりがある。豚はこの旅の供をしながら少女を全力で守ろうとする。まさに萌え「豚」と化した主人公が心優しい美少女ジェスに世話されながら、自分の戯言やエロ妄想なんかも筒抜けで「地の文」にジェスが反応を返してしまうことがあるメタ感はコミカルだし、その理想を具現化したような相手には豚として関係するしかない距離があるのも悪くない。エロ豚としての自分を天使のように受けとめてくれる美少女、という気持ち悪い妄想が、実際に豚として転生することで種族差という距離と世界の違いを置きながら叶う、というところは結構面白くはある。豚は理系大学生ゆえの知識で名探偵のような推理を働かせながら知略の面でジェスを助け、この世界の謎にも迫るんだけど、表の社会構造にもその真相にもあまり納得感がなくて、豚と読心種族のコンビを成立させるために逆算で作られた印象を受ける。登場人物もそれだけのために出したのかというのも。単巻ならこれらの気になるところを大目に見られても、この世界の話を続けるとしたらなかなか難しそうだとは思った。いや、明らかに問題があるままになっている世界だからこそ、またそれをなんとかしないといけない、という責任にもなるか。ネタバレになるけど、誰かを救った冒険物語が眠っていた時の夢だったんじゃないかという部分は非常に良くて、確かに旅した実感があるのにそれは夢や本のなかだけのものなのかも知れない、という切ない感覚って物語やファンタジーの根っこだとも思うんだけど、それだけに引きに疑問なしとしない。自分の全てを受け入れる都合の良い少女やナイトになりたいとか知識や頭の良さで切り抜けるその他の夢物語に対しては、設定その他である程度距離をとっていて、形としては物語という旅を通じて立ち上がる強さを得る、というタイプだから、あの世界との距離感はあまり近くなるとよろしくない様に思う。あの状況で残したままにできるかというのはあるにしても、それこそあの世界で自ら立たねばならないのではとも。続巻前提で加筆したのかも知れない。続くとしたら性格は変わっているはず。どうなるんだろう。豚視点なのでやたら足フェチ描写が出てくる。二巻は未読だけど、288Pまでの単巻としての話と、それ以後の続き物としての話は別物として考えたほうが良いのかも知れない。二巻もそのうち読んでおきたい。

ぴえろ『転生王女と天才令嬢の魔法革命』

魔法の使えない転生王女が、パーティで次期国王の王子に婚約破棄された魔法の天才の令嬢を攫い、一緒に魔法の使えない人間でも利用できる魔道具の開発を志す百合ファンタジーラノベ。漫画版を見て原作を読んでみた。悪くない。展開にちょこちょこ強引な、と思うところはあるけど、結婚とかしたくなくて継承権を放棄して好き放題やってる王女と、次期王妃としての生き方しか知らなかった令嬢が出会って、信頼を深めていく様子は良い。憧れと自由と、お互いがお互いの足りないところを補い合う関係。転生王女の一人称なんだけど、地の文でも元気いっぱいで楽しげ。姫様に嫁いだようなものです、という専属メイドも出てくるよ!

石川宗生『ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

コテージに閉じ籠もった女性プルデンシアを外に出すために、ホテルに泊っていた七人の芸術家が数多の物語を語っていく枠を持つ連作掌篇集で、『千夜一夜物語』と天岩戸を思わせる設定通り、奇想小説のなかにさまざまな世界文学を思わせる言及が織り込まれてもいる。最後以外概ね10ページの短篇小説が連ねられており、それぞれがラテンアメリカ文学なり、カルヴィーノ『見えない都市』を思わせたり、または岸本佐知子編のアンソロジーに入ってそうだったりする奇想・幻想小説になっていて、個々の短篇はこれらのジャンルが好きならまず面白く読めるはず。「本の挿絵」なんかはパス「波と暮らして」オマージュかと思った。そうした個々の幻想小説ボルヘス的な抽象性でまとめあげたような印象がある。「バベルの図書館」というか、世界をコレクションに加える一篇のような世界を包含する書物、あるいは「世界劇場」のモチーフ。
七つの部に分けられ、一部七篇から順に少なくなっていく章分けは、連載時タイトルの「28」という数字が完全数だということから設定されたものらしく、浩瀚さではなく、掌篇を数学的に配置することで世界をそのうちに取り込むという構えはカルヴィーノというかウリポ的な試みなんだろうか。そうした構えの各篇には『千夜一夜物語』、『古事記』のほか、ギリシャ悲劇、喜劇、シェイクスピア、あるいは『狂乱のオルランド』(ウルフ『オーランドー』も)なんかの古典、ラテンアメリカ文学、日本文学、イタリア文学、その他さまざまな直接間接の言及があり、私の分からないものもたくさんあるはず。作者がラテンアメリカ文学好きなのは『半分世界』を読んでもわかるけど、スペイン語圏文学やイタリア文学、あとロシア文学の言及が多い気がする。「代理戦争」あたりは現代アメリカ文学の短篇にありそうとは思った。他にもプルデンシアがビートルズのDear Prudence由来なのでレノンとポールがいるとか、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムとスカボロー・フェアの一節があったり、ミック・ジャガーは直接出てくるけど他にも音楽ネタもたくさんありそう。というか、「ホテル・アルカディア」って、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアのもじり? ホテル・カリフォルニアもあるのかな。「ベネンヘーリ」といえば『ドンキ・ホーテ』の原作者とされる人物だし、ヒルベルトのホテルってラッカーの『ホワイト・ライト』かなと思うし、ベケットピランデッロ、ストッパードが「出来事が来る!」とか言う戯曲とか、数多の文学を下敷きにした世界巡行を一冊に閉じ込めたような小説。前著にも似た趣向があったけど、「A♯」と「機械仕掛けのエウリピデス」の全員が創作に携わる系奇想は世界劇場的なテーマなのかな。世界劇場ならぬ、世界文学? 枠と各篇の関連性なんかは再読が要る感じだけど、なんにしろ、面白短篇が連ねられた楽しい一冊なのは間違いない。

友田とん『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』

『パリのガイドブックで東京を闊歩する』という、比喩として使ったこの文を実践してみるとどうなるか、から始まる奇妙なエッセイで、土地と書物のなかで偶然と迷子を方法的に生み出すような、読むことの「フィクション」と呼びたい一作。ガイドブックを模した判型でフルカラーで写真が掲載された、薄いながらも凝った作りの本で、自費出版の前著『『百年の孤独』を代わりに読む』をいろいろな本屋に置いてもらう行脚とともに、この文言を実践するとはどういうことなのか、ルールを設定するところから始まる。本書は著者からお送り頂いたものだけれど、それは私が後藤明生研究をやっているというのを知ってのことで、偶然の出会い、土地と書物の関係はまさに後藤的なテーマだし、フレンチトーストの挿話は『しんとく問答』の「マーラーの夜」の「海老フライ」の一件を思い出すし、二巻の20ページ前後の文章は非常に後藤明生に肉薄した箇所だと思った。iPhoneの通信の不具合が迷子を生んだように、もはや迷うことのできない現在において、東京でいかにして迷うか、その端緒としてパリのガイドブックという参照先を選ぶという暴挙があって、この東京とパリの懸隔のなかに自由あるいは読むことと書くことの過程を見出す試みだろうと思う。デイリーポータルZ的な街歩き記事とも通じるものがあるけれども、本作は書くこと、読むことをその重要な枠組みとしているところが大きな違いで、あり得ないような比喩をじっさいに生きてみる、という方法的フィクション(これは書いてあることが虚構だという意味ではない)という感触がある。パリという降って湧いたものがノートルダム大聖堂や黄色ベスト運動が視界に入り込み、パリというものへの導線となったり、穴や欠落、不在、そして読めない、ということがむしろ、前に進むことでもあるような、逆説の核心を提示する二巻終盤は、緩いように見えて確固としたものを感じさせる箇所だった。単純に変なエッセイとして面白いし、後藤明生的な筆法をいかに現代に実現するか、という試みとしても読めるし、なによりこの、どこにたどり着くのかどこにもたどり着けないのか、このタイトルから果たしてどうなるのか、不安定なようで確信があるような不思議な不安定感が印象的。読んだことはないけど、星野博美に『迷子の自由』という本があるのを思い出した。

石川義正『政治的動物』

政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
1979年から2017年までに日本語で発表された小説のなかの「たがいに他者同士である形象」としての動物たちを、「社会の周縁に排除されてきた女性やマイノリティ、障碍者、そしてさまざまな被差別をめぐる形象」に近づいたものとして捉える批評で、特に第一部はほぼ女性作家論集にもなっているのはテーマからも必然的な構成だろう。最初に置かれた「二〇一七年の放浪者(トランプス)」では、2017年に刊行された柄谷行人村上春樹松浦寿輝後藤明生多和田葉子金井美恵子の諸作を崇高という観点から論じ、半分以上を占める第一部「動物」は全篇書き下ろしで、津島佑子笙野頼子川上弘美多和田葉子大江健三郎松浦理英子の動物の形象を、「賃借、市場、隠喩、国家、天皇制、民主主義、主権、所有、模倣、マゾヒズム」といった点から論じる。加筆修正された既発の論文を元に構成された第二部は谷崎潤一郎金井美恵子中上健次赤瀬川源平蓮實重彦が対象。

最近言われる動物の権利という論点ではなく、小説に現われた動物の形象をデリダの動物論などを引きつつ政治性の面から論じるという本で、哲学、思想、経済、国際政治等を横断するまさに「批評」的文章は要約しづらいし理解したとも言えないけど、小説が置かれた経済的状況を指摘するところは印象的。住宅・部屋にまつわる言及も多く、津島の部屋や松浦の家と負債の論点や、日本近代文学が民営借家の低廉な家賃という「補助金」によって成り立っていたという議論から、笙野『居場所もなかった』が木造共同建てからマンション建築へという住宅事情の歴史の渦中だった点の指摘などもある。

経済要素ということでは、中上健次『地の果て 至上の時』の作中時間を厳密に1980年5月でなければならない、と推定する箇所は面白かった。経済白書や「木材需給報告書」を援用して、材木価格は1980年4月をピークにその後急激に下落する歴史が、材木屋をやってる龍造に無関係なはずがないと。語呂合わせはあんまりやるとこじつけめいてくるけれど、至上と市場の音に少しだけ注意を促す箇所はさらっとしていた。また、赤瀬川原平の千円札裁判の件は通貨の偽造ではなく、模造自体を犯罪とする、通貨及証券模造取締法違反が問われており、この法律は山間僻地や朝鮮半島での模造紙幣の取り締まりという「大日本帝国植民地主義と関連する」「人民の自治が認められていない従属地域における治安維持を目的とした法律」(354P)だというのも非常に面白かった。ここから国家と芸術の自律と反逆の話にもなっていく。「現実に生存する動物たちではなく、幾人かの小説家によって創造された動物あるいは人間ならざるものたちの形象」という本来の論旨について全然書いてないけど、そこは実際に読んでもらえれば。

他にも、宮澤賢治フランドン農学校の豚」という短篇が、人間の言語が通じる豚が、それゆえに「家畜撲殺同意調印法」に調印させられ、その同意に従って殺され解体される話だという。非対称的な関係による契約の強要というかなり生々しい話で興味を惹かれた。また、ある章の結句、「いずれすべての者どもが犬に変わるだろう」という一文から、エピローグで「犬のような批評家」を自称するのに繋がるのはなかなか挑発的。放浪者(トランプ)で始まり切り札(トランプ)で終わる構成はニヤッとしてしまいましたね。トランプの時代の終わりに出た本でもある。まあとにかく「批評」を読んだなあという感慨があって、また書くのに元手がかかってそうな密度の濃い文章なのもあって、800ページの本を読んだくらい読むのに時間が掛かった。時間は掛かっても通り一遍の感想も書けないのはアレだけど。文献一覧も参考になる。
『政治的動物』で引用・参照したおもな文献|石川義正|note

ジャスパー・フォード『最後の竜殺し』

最後の竜殺し (竹書房文庫)

最後の竜殺し (竹書房文庫)

魔法が斜陽産業となりつつあるパラレル英国を舞台に、孤児院出身で魔法会社の社長代理を務める15歳の少女が、ある日突然最後のドラゴンスレイヤーだと判明する。正義感が強く毅然とした主人公が社会のさまざまな困難に立ち向かう軽妙な現代ファンタジー。主人公のジェニファーが孤児院出身で、年季奉公のためこの魔法管理会社に勤めに出されているという設定は児童文学を思わせるところがある。テキパキとした展開にユーモアや皮肉を交えつつ、心根の優しい主人公が現代社会の荒波にもまれる筋書きは実際そういうアプローチだろう。世界的な魔法力の減退で魔法管理会社も数を減らしつつあり、主人公のいる会社にも何もしてない社員や偏屈な魔法使いがいて、そんな魔法使いも家の配線修理に駆り出されているなか、最後の一頭のドラゴンが近く死ぬらしい、という情報が連合王国ならぬ不連合王国、UKを揺るがせる。侵入者が即死するバリアによって守られたドラゴンランドは広大な自然が手つかずで残っており、ドラゴンが死んだ時に杭を打って土地を確保すればその人の土地になるという規則のゆえにドラゴンが死ぬというのは多数の個人や不動産会社のみならず国が乗り出す一大事件になる。竜の土地を資本主義が強奪するという現代的モチーフとともに、本作の舞台となるヘレフォード王国は不連合王国を構成する一国で、ドラゴンランドをはさんだ隣の小国との軍事的緊張を抱えており、国王はドラゴンランドを通り越して小国を攻撃したいという戦争の危機までが浮上する。資本と権力がジェニファーと竜をめぐって一大事件を巻き起こし、彼女は周囲の人物たちの誰を信用し、信頼すれば良いのかという困難に巻きこまれ、それでも毅然と己の意思と正しいと思うことに従って突き進む。資本と自然、正しい心が取り戻す失われたもの、のファンタジー。帯とかで資本主義が大きく出てくるし、それがユーモラスで皮肉な調子をもたらしているんだけれど、国家権力そして戦争の危機も大きくて、必ずしも資本主義ばかりが中心ではない。むしろ軸足は、「友達」という言葉が重要なように、ジュヴナイル小説的なところにあると見る。つまるところ、現代社会においていかに正義感と純粋な心を失わずにいられるか、という戦いの話でもあって、魔法というものが社会に組み込まれるように、ドラゴンスレイヤー現代社会でそれを活用しつつ肝心なところは曲げずに生きる、という伝統と現代の話でもある。資本主義と魔法をテーマにしたファンタジーの傑作、というとちょっと違う感があって、たとえば15歳という主人公の年齢と近い子供に向けて書かれた小説、ではないか。英語で言うところのヤングアダルトジャンル? 全体に感じが良くてキャラも良いし続刊が出たら読みたいけど、出るのかな?

エリック・マコーマック『雲』

雲 (海外文学セレクション)

雲 (海外文学セレクション)

メキシコで見つけた『黒曜石雲』という奇怪な天候現象を記した本の舞台がスコットランドにある主人公の若き日の失恋の思い出の土地だったという偶然をきっかけに、孤児から生まれた孤児がこれまでの人生をたどり返す、不穏な感触を湛えた長篇小説。マコーマック九年ぶりの翻訳で、著者最長の小説というのでどんなものかと思えば、稀覯書の謎をフックにしつつも、ある男の生涯を丹念にたどった小説となっており、これまでの作品に比べると一番普通の小説に近い感じだ。空を鏡のように覆い、目玉が飛び出て死んだ者もいる黒曜石雲という怪奇現象を導入にしているけれど、この現象自体の謎が解かれるわけではないし、そもそも事実ではない可能性も示唆されている。作中のいくつものグロテスクな挿話のように、謎は謎のまま人生について回る、解決不能なものとの同居こそがここで描かれている。これまでの小説でも語られていた炭鉱の事故で片足になってしまった男たち、という著者偏愛の挿話や過去の小説を思わせる話も出て来たりする意味で確かに集大成を思わせる。

主人公はスコットランドで生まれ別の土地で人生最大の愛に破れ、アフリカ、南米、そしてカナダで揚水機会社の社長となる。ある親子と出会ったことが孤児出身の主人公が社長の椅子に座ることのきっかけだけれども、ダンケアンという土地での失恋もまた、主人公がイギリスを離れ、漂流の人生のきっかけになっている。メインはこの流浪とそこここで出会う人々や事件にある。古書をめぐる謎、冒険小説的な未開の土地への訪問、怪奇小説的な挿話、ウェルズを下敷きにしたSF的なネタ、いろいろなジャンルの要素を散りばめながら、おそらくは本書の核にあるのは、人間とある書物との決定的な出会い、ということだと思われる。『黒曜石雲』という本と語り手ハリー・スティーンとの人生との決定的な交錯。「『黒曜石雲』を発見した体験、それだけは永久に私一人のものだ」、「謎を明るみに出す役を演じる者として、己一人のささやかな謎をダンケアンに持っている人間たる私をこの本は選んでくれたのだ、と」(442P)。この、自分一人のための書物という本へのロマンが根底にある。そして『黒曜石雲』という本と男とを繋ぐものが、ボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウスに引かれている、「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」という言葉ではないか。黒曜石雲は「空の鏡」と呼ばれており、本もまたコピー(~部)と数えられ、著作はしばしば書き手の子供だと喩えられる。男が別の女性と子供を作る、ということが本作において非常に重要な意味を持つけれど、これは『黒曜石雲』の著者も同様。ただし子供を作ること自体が忌まわしいという話でもない。

本書でまず良いなと思ったのは冒頭のハリー幼少期の両親との関係を描いたところだ。孤児の両親から生まれ、スラムで貧しいながらも多弁な父と寡黙な母と息子の関係、ここでまずこの小説が良いなと思えたところだった。しかしこの幸福な時間は不幸な事故で突然終わる。主人公が学校で聞いた話として「知的意図理論」(インテリジェントデザイン)のことを父に話す場面がある。自然界の精緻な仕組みには知的な造物主の意図が働いているという宗教的創造論なんだけど、父は自分の町を指して、「大いなるヘマ理論」のほうがぴったりだと言う。このセリフが再度出てくる場面が悲喜劇的な感触でとても良いんだけど、この理論は同時に子供を作った親についてもいえるようなところがある。親は必ずしも精緻に子供を作るわけでもなく、大いなるヘマをしでかして、子供や家族との関係にしくじったりもするし、いろいろあって良好な関係になりもする。そういう人生の数奇さがハリーのたどった流浪の人生と、めぐりめぐってメキシコで古書店に売られていた『黒曜石雲』との出会いから語られるわけだ。人と本のそうした相似の関係が軸だからこそ、多彩なジャンルやさまざまな挿話が取り込まれる形になっているのかな、と。まあ男がいろんなところに子を作る話だし「未開の土地」に植民地主義を感じないではないところはある。

玩具堂『探偵君と鋭い山田さん』

親が探偵の戸村が女子に無理くり彼氏の浮気調査を頼まれ困っていると、両隣の席にいる双子姉妹が口を挾んできて、次第に三者一体の探偵ユニットのようになっていく学園ミステリーラブコメラノベ。この著者の本は『子ひつじは迷わない』以来だけど、なかなか良い。日常の謎もののライトミステリといった感じだけど、本体がなくて表紙カバーの内容紹介と人物一覧しかない推理小説の犯人を当ててみる、という二話はなかなか面白くて、じっさい人物紹介の部分に重大なネタが隠されてる作品とかありそうだし、犯人当てるだけならできるかもと思わせる。双子絡んだ三角関係ラブコメを基軸にしているけど、主人公の「悪意への悪意」という性質はまあ肝だろうし、双子は社交的で処世に長けたほうが依存心やらで屈折した感情を抱いてるあたりの関係は三話の事件の核心とも重なってたし、ここら辺主軸になるのかな。

イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』

ユーゴスラヴィアノーベル賞作家の初期散文詩、代表作『ドリナの橋』の核となる短篇や表題の幻想小説等の短篇小説、ニェゴシュについての講演等のエッセイ、年譜や長文の解説含め、多民族の入り交じるボスニアに生まれた作家の彼岸への理想を託した橋の詩学を集成した一冊。通例イヴォ・アンドリッチと表記されることが多いけど本書ではイボ表記。
宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)サラエボの鐘

一昨年、二〇年ぶりの作品集『宰相の象の物語』が刊行され、隔年でアンドリッチの新刊が出るというのも驚きだけど、今度は恒文社九七年刊『サラエボの鐘』の大幅増補版といえる一冊。収録短篇では「三人の少年」「アスカと狼」「イェレナ、いない女」が増補され、これらは雑誌や選集に既訳があるけれど、元々山崎訳だった「三人の少年」以外の二つは別題のものを山崎佳代子が新訳している。ほかに散文詩二篇も山崎によって新訳されており、目次以上に大きく内容が入れかわっている。エッセイも旧版で七ページだったニェゴシュ論が三〇ページ近い講演に差し替えられており、なにより五〇ページに及ぶ訳者解題が作家の人生と作品を丁寧に論じており、既訳の文献一覧もあり(「象牙の女」収録の『東欧怪談集』が漏れている)、資料面でも充実したアンドリッチ作品集として決定版と言える一冊だろう。

巻頭に置かれたエッセイ「橋」は、

人間が生きる本能に駆られて築き、建てたものの中で、私の見るところ、橋よりも優れ、価値あるものはない。

と始まり、橋のさまざまを描写したのち、「こうした橋はどれも、本質的にひとつで、同じように注目に値する。なぜなら、人が障害に出会い、障害を前に立ちどまることなく、それぞれの理解や好みや周囲の状況に応じて克服し、乗り越えた場所を示すからである」とし、「無秩序、死、あるいは無意味といったものを、克服し乗り越えなくてはならない」、「われわれの希望はすべて彼岸にある」と結語する、アンドリッチのマニフェストのような一文。障碍を越え別の物を繋ぎ、ひいては理想への道を示す橋という象徴に、アンドリッチの姿勢が窺える。

フェルディナント皇太子夫妻を射殺したガヴリロ・プリンツィプが所属していた青年ボスニア党の中心的な存在だったアンドリッチはサラエボ事件の後ポーランドから帰国し、逮捕され最終的にスロヴェニアマリボルの刑務所に収監される。詩や小説にはこの投獄体験の反映と思われる部分が散見される。

最初に置かれた短篇「アリヤ・ジェルゼレズの旅」は、英雄叙事詩の主人公を近代小説的世界に置き直すかたちで書かれた小説で、ビシェグラード、サラエボなどを舞台としながら、女性を求めて三度拒絶される様子を描いており、美、理想への望みを仮託した表題作「イェレナ、いない女」とも共通する構図を持っている。

サラエボを通りすがった姉妹が、蛇に噛まれた少女を見つけ、対処しようもなく薬もない貧しい状況に心を痛める姉とその姉が泣き止むことだけを考える妹、という社会性にまつわる話になっている「蛇」、解説によると、イスラム教徒のムスリム人、正教徒のセルビア人、カトリッククロアチア人の家族を描く「三人の少年」では、それぞれの文化の家族のなかで、ここを逃げ出したいと思う少年の姿も描かれている。旧版では「サラエボの鐘」と題されていた「一九二〇年の手紙」では、ボスニアの「憎悪」が語られる。ボスニア・ヘルツェゴビナでは他の国にも増して「無意識の憎悪に駆られて、人が互いに殺したり殺されたりする」と語られ、

然り、ボスニアは憎悪の地です。それがボスニアです。
中略
対照的に、これほどの強い信頼、気高い強固な人格、これほどの優しさと激しい愛、これほどの深遠な感情、献身、不動の忠誠、これほどの正義への渇望が見られる土地は少ないともいえます。98P

とも語られる、ボスニアの相矛盾する様相を描いて緊張感がある一作だ。

『ドリナの橋』の核という「ジェパの橋」では、橋を建てたあと、宰相を賛美する詩文を橋に刻みたいという請願に対し、宰相が結局全て削って「名前も標識もない橋」が残るという「沈黙」のテーマが見られ、これは散文詩エクス・ポント(黒海より)」の同様の表現と繋がるものでもある。

寓話的な形で作者の芸術への姿勢を示したものでは、「アスカと狼」が印象的だ。旧訳では「子羊アスカの死の舞踏」とも題されていた短篇だけれど、擬人化された子羊が、狼と出会った時に舞踏を舞って気を引くことで死の危険から生を繋ぐという話で、バレエに「芸術と抵抗の意思」を込める一作。

長い年月の後、今日も、彼女のバレエの名作は演じられ、そこでは芸術と抵抗の意思が、あらゆる悪に、そして死そのものにさえ、うちかつのです。141P


投獄時代に書かれた部分を持つ散文詩二篇は投獄、挫折の苦悩と外への夢を綴ってもいて、沈黙、神、貧困、さまざまなテーマが織り込まれている。

いや、私は記憶してほしくない。礎に黙する意思のように、無名で無言であればよい。足跡も名も残さずに消え失せればよい。私の暗い人生が――罪と苦悩が――おまえたちの白い道にけっして影を落とさなければよい。186P


すべての思想の最後の表現、すべての努力のもっとも単純な形態――それは沈黙だ。196P


今の時代、人間の行動を引き起こす主要な、しばしば唯一の動機は恐怖だと、私は見た。パニックの、不合理な、しばしばまったく理由のない、しかし真実の、深い恐怖。205P


 限りない善を夢みる。それをだれかに注ぎ、だれかに注いでもらいたい。それを夢みるのだが、私は独りだ。
 私の中で、ひとつの詩句が揺れる。贈り物とそのお返しのように、だれの目にも触れず花ひらき、咲きほこり、枯れ落ちる花の幻のように。私は座ってペンをインクにつける――と、おや、こんな本が机の上にある。ふうん。まったく、なにをしようとしていたのか。そう、詩だ。ああ、どんな詩だ。頭が痛い。私はペンを投げ出し、散歩に出る。
 それでも、やはり、文章をいくつか残せたらと思う。精神の不安や、色褪せることなき夏の午後や、人生の曲がりくねった道の、このわずかな悲しみと美しさを長く長く保つような、そんな文章を。214P

帯にも引かれている「エクス・ポント(黒海より)」の結語はこうある。

 生きている、という事実そのものが、私に安らかな喜びを与える。
 私は人びとに、彼らの仕事に、大きな愛を感ずる。幸福と不幸に、罪と情熱とそこから来るすべての惨めさに、闘いと挫折に、謬見と苦悩と犠牲に、この惑星の上の人間にかかわるすべてに、大きな愛を感ずる。
 人間の喜びの涸れることなき泉から、私もまた一滴の滴を飲み、人類が担う巨大な十字架の一部を、私もまたしばし担うという一時の、だが計り知れぬ幸せを、感じる。


 目にするものはすべて詩であり、手に触れるものはすべて痛みである。255P

幻想の女性を追い求める表題作*1には理想、希望を追い求める姿が込められ、収監中に書かれた散文詩には投獄体験の挫折と苦悩についての文章が綴られ、同時に社会的不公正についての抵抗の意思もまた書き込まれており、社会的不公正を、現実を見つめ、しかし彼岸への理想を手放さない姿勢がある。「ボスニアは憎悪の地です」と小説に書き込み、それでも民族共存の理想を橋という象徴に込めるのがアンドリッチの芸術ということだろう。


高くて買えない書店に並ぶ本の書名などからどんな内容なのかを妄想していた少年時代を回想するエッセイや、モンテネグロの統治者にしてセルビア正教会の司教、そして詩人だったニェゴシュを論じた「コソボ史観の悲劇の主人公ニェゴシュ」も興味深い。

それはたんに二つの信仰、国民、人種の争いではない。東洋と西洋という二大原理の衝突なのだ。闘いは主にわれわれの領土で演じられ、その血ぬられた壁によって民族的統一体を二分し分裂させる。それがわれわれの運命だった。その二大原理の闘いにわれわれはみな翻弄され投げ出され、どちらの側にあろうと、それぞれの側で、同じ意義と、同じ勇気と、それぞれの正義への同じ確信とを持って闘った。309P

しかし、これを読む限りニェゴシュはモンテネグロの人でモンテネグロ文学としか思えないけれど、ルリユール叢書ではセルビア文学と分類されていて、これはどういうことなんだろう。

多民族環境を織り込んだ歴史と土地を描いてて静かな緊張感と重厚な雰囲気があり、作者の姿勢に信頼感があるのがノーベル賞作家らしいところか。民族自認としてはセルビア人なんだろうけれども、来歴からも作品からも、アンドリッチはユーゴスラヴィアの作家と呼びたいところだ。
このブログでのアンドリッチの記事は他にこれも。
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ルリユール叢書ではニェゴシュの大冊も同時に刊行されたけどさすがに手が出ないな。

手持ちの関連文献。アンドリッチに触れた文章が入ったものはもっと他にもあるけどとりあえず。

「三人の少年」は、「現代思想」1997年12月臨時増刊「総特集ユーゴスラヴィア解体」に山崎佳代子訳で掲載されていたもの。ドイツ語からの重訳だった「子羊アスカの死の舞踏」は『世界動物文学全集3』に収録されていた。解説では藤原英司が、学校へ行ってるなどの擬人化をしたかと思えば動物的な行動を強調し、擬人化したかと思えば別に人間を登場させるという擬人化手法のモザイク的な混乱を、これは新しい手法ではないか、と書いているところが面白かった。

本書に入ってない短篇として、最近新装版が出た『東欧怪談集』に「象牙の女」が、『世界短編名作選 東欧編』には短篇「窓」が収録されている。「窓」は少年を主人公に、近所の嫌われ者の老婆の家の窓を割ろうと言い出した友人を制止したら、自宅の玄関の窓を割られ、父に理不尽な鞭打ちを食らう、という話で、差別と暴力の奇妙な因果というか、結句にある「意味もない悪と、不可解で混乱した責任」の理不尽さ、がある。別訳はノーカウントとするとこれで短篇は全部手元にあるな、と思ったら『ノーベル賞文学全集13巻』に受賞講演の翻訳があることを知った。

東欧怪談集 (河出文庫)

東欧怪談集 (河出文庫)

  • 発売日: 2020/09/08
  • メディア: 文庫

*1:「イェレナ、いない女」は田中一生訳では「イェレーナ、陽炎の女」と題されていた。解説ではイェレナがHelena、ギリシャ語で陽光を意味する言葉を語源とした名前とあり、なるほど田中訳はこれを勘案して陽炎と意訳したんだろう。題としては「陽炎の女」のほうが据わりがよく印象的だと思うけど、訳としては山崎訳が元の意味に近いということか。

薄い本を読むパート2


いつかもやったページ数薄めの本を集めて読んでみるシーズンふたたび。
薄い本を読む - Close To The Wall
前回のは一昨年。今回はあとがき解説などを含めない、本文200ページ以下の本、というレギュレーションでやってみた。マルクスはよくわかんなかったけど、だいたいどれも面白かったですね。

薄い本はいいね、よくわかんなくてもすぐ読めて気分を切り替えられるし、短いなかにもぎゅっと詰まったものがあるのはなんかお得感がある。でも、薄い本ばかりだからもっと数読めるつもりだったのに思ったよりずっと時間が掛かってしまったので終わりです。このレギュレーションで積み上げた本がここにあるのよりも多く残ってるのでそのうちまたやるつもりはある。15冊。

カレル・チャペック『白い病』

白い病 (岩波文庫)

白い病 (岩波文庫)

戦争への機運が高まりつつあるなか、五〇歳前後の人々の皮膚に白い斑点が現われ死に至る感染症が流行していた。ある医師が有効な治療法を発見するけれども、施術の条件として彼は平和を求め、戦争を準備する国の重要人物らに死か平和かの選択を迫る、SF戯曲。貧しい中国から生まれたとされ、五〇前後の人間を死に至らしめるけれども若者には感染しないという「白い病」の設定は非常に予言的で、作中でもこの病気が若者に場所を譲る機能を持つことによる世代間の対立が描かれている。疫病と戦争がともに人々を通じて感染していく時代状況の描写にもなっていてこれはまったく過去の話ではない。そこで現われるガレーン博士は治療の条件に戦争への反対や恒久的平和条約の締結を要求する、つまり命を取引材料にしている。著者が「ある種の平和のテロリストである」という通りだ。作者による前書きでは、この人物についてこうある。

また、人間愛と生への敬意という名の下でその男と戦っている人物は、病気に苦しむ者たちへの手助けを拒む。かれもまた、譲歩できない倫理の戦いを宿命として引き受けているからである。 この戦いで勝利を収めるには、平和や人間愛を掲げていたとしても、殺し合いをし、大虐殺で命を落とさなければならない。戦争の世界では、平和それ自体が、譲歩しない、不屈の戦士となる。159P。

しかし結末に見るように、こうした悲劇的な対立こそが作者の批判するものでもある。さらっと読める150ページ程度の戯曲だけど、感染症をめぐる問題とともに「戦争万歳」という熱気が人々に感染し、その拡大は指導者の命運をも脅かす危うい群衆の問題が重ねられていて、医療と政治の問題を疫病とそのメタファーを用いて描いている点が八〇年という時代を超えて生々しい。

ジャック・ロンドン『赤死病』

赤死病 (白水Uブックス)

赤死病 (白水Uブックス)

疫病で人類社会が崩壊して60年後、盛期の文明を知る最後の老人が当時の状況をその孫たちに語り聞かせるポストアポカリプスものの表題中篇と、人口が増大した中国の脅威を化学兵器で殲滅する短篇、そして食料を求めた人類史についてのエッセイを収めるSF的な一冊。チャペックの『白い病』は疫病の流行当時を描いていたけど、これは疫病による人類社会の崩壊後に現在時を置いており、チャペックが疫病と戦争を重ねていたのに対し、エッセイにあるように、ロンドンは戦争は将来的に消え、人口増大での過密による疫病の流行を予測していた。三作を通じて人口の増大が危機として通底していて、感染症は集住し過密した人々を襲うものという認識がある。黒死病を意識した「赤死病」は、発症から十五分で死に至るという強烈な死病で、避難し立てこもる場所でも感染し人間同士もまた殺し合い、人間はどんどんその数を減らしていった。2013年にパンデミックが起こった設定で、それから60年後の現在時、一度人類が破滅の危機に瀕した後、辛うじて孫たちが生まれるようになってはいるけれど、老人と子供では知識の面でも溝が深く、話が容易に通じなくなっている。文化が途絶えているわけだ。言葉の断絶はもう一作でも出てくる。解説ではそうは言われてないけど、やはり「赤死病」では野蛮への蔑視があり、教育もなく粗野な「おかかえ運転手」が元の主人たる少女を手籠めにしたあたりの話は、階級社会への批判とも読みうるけれども、「野蛮」という言葉の使い方には文明が失われたことへの慨嘆のほうを感じる。エッセイ「人間の漂流」には「黄禍」の語が出てくるように、中国の人口増大を脅威として描く「比類なき侵略」は黄禍論SFといえる。「世界と中国との紛争がその頂点に達したのは、一九七六年のことであった」と書き出されるこの短篇はまた現在の中国の存在感を予見しているようなところがある。この短篇では中国の脅威は多産による十億にならんとする人間の多さにある。序盤、中国は西洋とは別種の文明で、日本という中間的な存在あってはじめて「覚醒」し、「回春」したとある。そして多数の中国人が移住した領土を奪取し、世界を侵略していくのに西洋がどう対処したか、というSF。百年前のSFでなかなか面白いし、東洋をどう見ていたかという観点でも興味深く、じっさい予見的でもある。マルサスに言及し、社会主義を支持するエッセイも作品の背景を明らかにしていて興味深いもので、プラスの意味でもマイナスの意味でも面白い一冊。「黒死病」に対するチャペックの白、ロンドンの赤。

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

晩年の講演録で、領域内で暴力を占有するものとして国家を定義づけ、権力の配分をめぐる努力が政治だという規定をしつつ、政治家と官僚についての対比を経ながら、政治家に必要なものは情熱と仕事に対する責任と距離を持った判断力だ、と述べる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」というトロツキーの言を引きつつ、ヴェーバー

国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正統な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。9-10P

と言う。これはよく知られた定義か。当時の革命騒ぎに対してヴェーバーは、自身の理想をのみ言って結果責任を人々のせいにする革命家を法螺吹きだと強く批判していて、そうした情熱的な「信条倫理」とともに結果に対する責任を負う「責任倫理」が両方あって初めて「政治への天職」を得ると述べる。政治には、暴力によってのみ解決できるようなもの課題があり、「魂の救済」を危うくする行いだとも言う。政治家とは、現実がいかに愚かで卑俗でも、「それにもかかわらず」といえる人間でなければならない、と言って終わる。指示に従うべき官僚の特質が政治家の資質としては最悪なものだという話もあったりして、官僚制の歴史なんかもある。節々のヨーロッパ独自のものという指摘は今でも正しいものなのかどうかは疑問に感じるけれども、古典的な政治家論としてなるほどこういうものなのか、と面白い。

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日

講談社学術文庫の新訳、この時期のフランス史よく知らないまま読んだら見事に撃沈した。マルクスでは難しくない方らしいとはいえ、当時の政治状況をめぐるジャーナリスティックな文章なので、基礎知識は要る。

パウル・ゴマ『ジュスタ』

ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちにルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。
これは別記事にしてある。
パウル・ゴマ『ジュスタ』 - Close To The Wall

ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界』

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

限られた知覚器官を持つ虫や動物が環境をどう見ているのか、を単に存在している「環境」という言い方ではなく、それぞれの生物が意味づけた主体的現実を環世界という言葉を用いて説明した一冊。もとは絵本として出版されたもの。文中にも出てくるけれど、ユクスキュルはエストニア出身の生物学者で、弟子筋にあたるクリサートが挿絵を描いている。ダニ、イヌ、ハエその他、それぞれにとっては同じ物を見ていてもまったく違う現実があり、「いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない」といい、このことは人間同士でもそこを初めて訪れるのと地元のものとで環世界が違う、とも論じる。確か文中にカントの引用があって、19世紀の生物学者は哲学者を引用するんだなと思ったけれど、それぞれの主体は「環境」を別様に見ていて、そしてその向こうには永遠に認識されない「自然という主体」を示すところなどは、確かにカントの「物自体」の議論が踏まえられているのか。フリップフラッパーズというアニメに出てくる小さい生き物がユクスキュルと名づけられていた縁で、その筋の人には知られた本だけど、じっさいフリップフラッパーズのキャッチコピーには「あなたには、世界はどう見えているんだろう」と書かれていて、直接の影響が感じられる。

丸谷才一『樹影譚』

樹影譚 (文春文庫)

樹影譚 (文春文庫)

表題作は小説の腹案がナボコフの先行作品と似ているからと辞めたらナボコフにそんな小説はなく夢で見たのではという話から、自分の執着する樹の影の謎が、妄言とばかり思った老婆の話によって己の現実を突き崩す出生の真相が引き出されるかのような現実と夢の入り交じる幻想的中篇。小説家を主人公にした小説を書く小説という形式にナボコフエドナ・オブライエンという実在の作家の名前なんかも差し込みながら、現実だと思ってたら夢で、妄言だと思っていたら真実では、という複層的な虚実反転を決める技巧性があり、そしてPKディック的崩壊感覚を思い出す。小説家が小説家を主人公にして、という形式的なメタ性も含めると相当多層的になってて、面白いし技巧的で、まあ、こういうのみんな好きだよね。本書は表題作と他二作を収める短篇集で、ほか「鈍感な青年」「夢を買ひます」という作品が入っている。「鈍感な青年」は初々しい恋人同士の初体験をめぐる短篇だけど、デートで行こうとしていた、あるはずの祭がない、という現実性の揺れみたいなものも描かれていて、「夢を買ひます」も整形をめぐる思い込みの話とともに、夢が真にという要素があり、緩やかに連繋しているように見える。

チェーザレパヴェーゼ『美しい夏』

美しい夏 (岩波文庫)

美しい夏 (岩波文庫)

都会で働く16歳のジーニア、三つ上で画家のモデルをしているアメーリアと、絵描きグィードとロドリゲスという男女四人を描きながら、ジーニアのグィードとの恋愛とその終わりを通じて、女二人、作者いわく「レスビアンの娘たちの物語」でもあるというイタリアの作家の長篇小説。軽く見ていた友人達がすでに男たちとの関係を持っていたことがわかる序盤の、ジーニアの優越感とじっさいは取り残されているという若者らしい描写や書き出しの情感も良くて、それが、解説によるとファシズム政権下の様子を微妙に滲ませた夏のイタリアを舞台に語られる。ジーニアとモデルをしているアメーリアとの関係が、裸体モデルをしているところを見たい、ということでアトリエに一緒に行くあたりで深まっていくんだけれど、ここで明らかにジーニアの興味がアメーリアにあるあたりで、あれこれは百合なのでは、と思ったら前述作者のコメントを全面的に受け入れるには留保がいるけれども、実際そういう面もある。知らないことを教えてくれる年上のアメーリアへの憧れとともに、同じ男をめぐる微妙な心情があり、アメーリアからもキスや、「わたしは、あなたに恋をしているの」と来るなど、彼女は同性愛者でもあるだろう。それも含めて四人の関係はなかなかわかりづらいところがある。長い解説が丁寧に作品を分析していて、ある人物に反ファシズム闘争のニュアンスを見たり、二人の女性の関係を未来と過去としてお互いがお互いを見ている相互的なものになっているというのはなるほど面白いし、ラストシーンのセリフもそういうニュアンスがあるのがわかる。主人公が16歳から17歳になる夏から冬にかけてを舞台にした、同性異性それぞれへの感情を絡めて、少女から大人へとかわる様子を描いた青春小説といってよく、短い長篇ながら明示的に描いていないところも多くて読み込む必要が結構あると思う。今作は『丘の上の悪魔』『孤独な女たちと』で三部作を成すらしい。

堀江敏幸『郊外へ』

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

パリ郊外についての小説や写真集などをめぐる考察を、仮構された「私」を通して語る一冊。郊外小説を語るためにパリ在住の壁の内と外を歩き回る架空の「下等遊民」と挿話を土台に語るという方法を用いた独特の散文作品。小説とエッセイのあわいの読み心地がある。Uブックスで「エッセイの小径」とあるのに、一連の物語に出てくる「私」とその周辺の出来事は完全に虚構だとぬけぬけと語るあとがきに、小説の萌芽ともいえるものがあるのは確かで、事実、冒頭の一篇からして語りの距離感はいわゆるエッセイとはやはり異なる。最終篇の「コンクリートと緑がたがいちがいに出現する異郷の郊外地区の風景を、私はいわばクッションボールで処理しようとしていたのであり、間接的な仕方でしか見えてこないものを追い求めていたのだ」(186P)というくだりは種明かしをしている箇所だろうか。小説を論じる連載を書きあぐね、虚構の「私」という小説的方法を用いることで書き進めることができたようで、おそらくこれは小説のように書くことで小説を語るという試論ではないか。あとがきでも「小説」とは述べていない。どちらでもありうるし、どちらでもないかも知れない。内容としては、フランス語に訳された他の外国の文学を読んでみるという「受容の受容」を、文化の模倣吸収をめぐって、どこか都市と郊外の関係に似たものをそこに認めつつ、それが「くつろぎ」を与えるのは、第三国の者として傍観者の無責任があるゆえだと語るところや、ナチスユダヤ人収容所に転用され、戦後はナチへのコラボが収容されたあと、今は郊外人を「収容」している、という郊外団地や、ペレック『僕は覚えている』やセリーヌの文章が郊外の生徒からさまざまな表現を引き出したり、カフカの断片の続篇を書いた生徒がいたという本の話などが印象的だ。フランス郊外の地理が全然わからないので地図が欲しかったけど、ごく単純に楽しい散文として面白く読める一冊で、堀江敏幸のデビュー作としても興味深い本だろう。私は『熊の敷石』をずいぶん前に読んだきりだった。マルト・ロベール訳カフカの文庫本というのが出てくるけど、そういや丸谷才一「樹影譚」にもマルト・ロベールが名前を出さずに言及されていた。言及されるモディアノの『特赦』は『嫌なことは後まわし』として訳されている。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『ある遭難者の物語』

軍艦から転落して十日間を漂流して生還した水兵の物語を新聞記者時代のマルケス聞き書きしたという一冊。漂流の苦難を生々しく描き出すドキュメンタリーだけど、マルケス研究でも評価が分かれ、事実か脚色かにわかに判然としないところがある。内容としてはヘミングウェイの『老人と海』にも似た海洋漂流譚で、飢えと渇き、サメの恐怖に怯えながらの十日間の漂流は非常に小説的な迫力がある文章で、これが聞き書きだとはなかなか信じにくいところもある。『百年の孤独』の三年後に書籍化されたため、読者の幻滅を招いたこととドキュメンタリーゆえに空想に制約があるという評価に対し、これは『百年の孤独』の大ブームという狂騒に巻きこまれたマルケス自身を生還した英雄の水兵に託して語ったもので、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにした箇所や沈んだ水兵らに実在の作家たちをモデルにたところがあるという読解がされてもいる。この文章がじっさいに1955年の新聞に発表されたことは事実らしいけれども、書籍化されるさいに改稿された可能性も訳者は指摘していて、これは決着がついたんだろうか。ともかく、マルケスらしい小説を期待して読むものではないとも思うけれど、事実かフィクションかという解釈を問われるところがある。まあそういう二者択一というよりはどっちでもある、というほうがありそうでもある。表紙には長いタイトルが記載されていて、これが正式タイトルなんだろうか。「飲まず食わずのまま十日間筏で漂流し、国家の英雄として歓呼で迎えられ、美女たちのキスの雨を浴び、コマーシャルに出て金持ちになったが、やがて政府に睨まれ永久に忘れ去られることになった、ある遭難者の物語」。いかにも古典文学的な長文題、というか『ロビンソン・クルーソー』を意識しているのかも知れない。

高原英理『不機嫌な姫とブルックナー団』

不機嫌な姫とブルックナー団

不機嫌な姫とブルックナー団

図書館の非正規職員をしている女性がある日コンサートでブルックナー団を名乗る男性たちと出会う。垢抜けないオタクとしての彼らと、批評家に攻撃されたブルックナーの不器用でモテないエピソードを重ねつつ、夢への思いを鼓舞する青春小説のおもむき。ブルックナー団のなかなかにひどいオタク仕草や変な語尾で喋るやばいヤツの痛々しさを描きながら、団員の一人がサイトに上げているブルックナーの伝記を作中作として挿入し、それについての主人公の感想を挾みつつ、このブルックナーオタクとブルックナー伝記の二軸で進んでいく。ブルックナーのことは全然知らなかったけれど、処世下手で人情の機微に疎く、才能がありながらも疎まれ、それでいて厚かましい面もあってこれはなかなか、と思っていたら「嫁帖」の話は女性への態度がヤバすぎて、同情も吹っ飛ぶレベルなので主人公のコメントは正しいな、と思った。伝記を書いてる団員は小説も書いているけれど自己陶酔的な欠点があり、自分と距離のある人物や事実を元にするといいものを書く、とも言われていて、この書くことに客観性を取り込み良いものにするためという方向とともに主人公の自己を客観的に見過ぎてやりたいことを諦めた情熱の復活をも描いている。

ポール・オースター『幽霊たち』

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

探偵ブルーが依頼者ホワイトからブラックという人物を調査して報告書を週一で書いて欲しい、というところから始まる、探偵小説の構成を借りた、書くことと読むことをめぐるアイデンティティの不安、を描いた感じの中篇。色と記号的な名前、文字や紙を思わせるし、孤独な部屋で書き物をしているので、あからさまに書くことが意識されている。柴田元幸が「エレガントな前衛」と呼んでいるように、前衛的な小説はパワータイプが多いアメリカ文学には珍しいらしい。書くこと読まれること、見ること見られること、探偵小説の構成を借りたメタフィクションの手触りは確かに安部公房を感じる。ニューヨーク三部作の第二作。オースター、二〇年前には既に人気作家だったしその頃から読むつもりはあったし、これも買ったのは結構前なんだけど、今更初めて読んだ。三部作と何かしら代表作を読んでおきたい。

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』

ボルヘスの盟友として知られるアルゼンチンの作家の1940年作。政治犯受刑者の語り手が逃げ込んだ孤島に、突然複数の男女が現われ、その一人の女性に惚れ込むけれど、なぜかいっさい反応が得られず、そんな時島には二つの太陽、二つの月が現われ、というSF幻想小説。SFとしては古典的な設定にも見えるけど、ネタが明らかになるまではこれはどっちだ?となるところがあるし、この愛をめぐる解釈を誘う設定はやはり面白い。なるほどねと思って解説を読むと、一人称での叙述に時間の矛盾があると指摘されていて、やっぱそんな簡単じゃないなと思わされる。最初語り手の名前がモレルだと思ってたけどあ、違うのかと思ったらやっぱり同一性は確実に意識されている。解説にあるボルヘスのトレーン~の冒頭の記述が本作のことだとして、一人称の矛盾があることがどういう読みを引き出しうるのか、と思ったけどモレルと語り手について、だろうか。分身、鏡、愛、不死、他者その他いろいろ……。後の作品にも影響を与えているようで、そういう意味でも早く読んでおくといい気がする。序盤やや退屈ではある。帯文に「独身者の《機械》」とあって、そういやちょうどこの前買ったカルージュ『独身者機械』にカサーレス論がある。それだけ拾い読みしたけど、受刑者という属性からカフカの「流刑地にて」と繋げたり、舞台がエリス諸島のヴィリングス島というのは疑わしいという刊行者注に着目して、ここにモレルがmort=死者、ヴィリングスがLivings=生者、エリスのフランス語から無限などの言葉遊びを引き出してたりしてなかなか面白い。ブストス=ドメックやイシドロ・パロディとか、ボルヘスとの共著はいくつか読んでるけど、カサーレスの単著は初めて読んだ。しかし書くことと幽霊というとオースターの『幽霊たち』みたいだ。持ってるのは90年代に出た叢書アンデスの風版。確か池袋ジュンク堂で買ったはず。2008年に再刊されている。清水徹ブランショ経由で読んでいたのがきっかけらしいけど、専門外の言葉、というから清水は仏訳も参考にしつつ、ちゃんとスペイン語からの翻訳をしたのを牛島信明校閲した、という形か。清水には『鏡とエロスと』という日本文学論集がある。
新訳 独身者機械

新訳 独身者機械

ゾラン・ジヴコヴィッチ『12人の蒐集家/ティーショップ』

日々、爪、夢、切り抜き、希望など、12のコレクションにまつわる不穏な掌篇連作と、ティーショップで物語のお茶を注文すると店内の人々が次々に物語を語り継いでいく短篇を収めたセルビアの作家の作品集。ボルヘスの盟友カサーレスに続いて、「東欧のボルヘス」と帯にあるジヴコヴィッチボルヘス繋がり。ただ、あまりボルヘスぽくは感じない。「12人の蒐集家」は有形無形さまざまなコレクションが概して終わり、消滅とともに語られていて、ある日の記憶を代償に素晴らしいケーキを食べられるけれど食べすぎると消えてしまうという話や、切った爪を丁寧に保管してコレクションしているけれど、死んだら自分のコレクションがどうなるかと不安になる話、とつぜん現われた男がピアノや隕石などが落ちて死んだ不幸で希有な運命の人間について語ったかと思うとサインを求められ、あたなはこれから有名になる、と言われる話などが語られる怪奇掌篇集。一篇一篇はわりあいに軽妙なさらっと読める幻想怪奇小説になっている。それでいて、集めることがそのまま消えることへと転じていくような連作にもなっていて、この反転性が解説にもあるジヴコヴィッチの魅力だろうか。黒田藩プレスから出た作品集にも入っていた「ティーショップ」は千夜一夜物語を思わせる、物語が物語を呼び寄せ、語ることがさらなる語りを生み出す短篇。ある旅人がティーショップに入ると「物語のお茶」というメニューに目が止まり、それを注文すると店員はおろか客席にいた人々までが次々に物語を語り出していく、フラッシュモブみたいな展開が楽しいのと、語りのギミックが決まってて再録も納得の短篇だと思う。黒田藩プレスのも『時間はだれも待ってくれない』収録作も読んだので、あと一作80年代のSFマガジンに載ったものが既訳としては未読。洒落てていいけど軽め、という印象なので世界幻想文学大賞受賞作のThe Libraryとか、長めの作品も読んでみたいところ。長篇型の作家ではないのかも知れないけど。セルビアの作家だけれど本書は英訳からの重訳。英語版Wikipediaを見ると、The Writer、The Book、The Library、Miss Tamara, The Reader、The Last Book、The Ghostwriterとか、本にまつわる小説がたくさんある。ここら辺がボルヘスが引き合いに出される要因かも知れない。
Zoran Živković (writer) - Wikipedia

トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』

地下―ある逃亡

地下―ある逃亡

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝五部作の二作目。邦訳としては三作目になる。耐えがたいギムナジウムを抜けだし、「反対方向」にあるザルツブルクの汚点と呼ばれた貧困層の暮らすシェルツハウザーフェルト団地の食料品店で働いたことを回想しながら、家という地獄から団地の辺獄を経て、音楽へと幸福を見出す過程が描かれている、ととりあえずは言える。
これは別記事にしてある。
トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』 - Close To The Wall

前回も今回もベルンハルトの五部作が入っているのは偶然なんだけど、なんかそういうタイミングがあるな。

トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』

地下―ある逃亡

地下―ある逃亡

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝五部作の二作目。邦訳としては三作目になる。耐えがたいギムナジウムを抜けだし、「反対方向」にあるザルツブルクの汚点と呼ばれた貧困層の暮らすシェルツハウザーフェルト団地の食料品店で働いたことを回想しながら、家という地獄から団地の辺獄を経て、音楽へと幸福を見出す過程が描かれている、ととりあえずは言える。

教育制度への痛罵が書きつけられた前作『原因』のあと、ギムナジウムを抜け出し、地下食料品店で働きはじめたことを描いた本作では、むしろこの貧困層の集まる地域、職業安定所の職員が顔をしかめるシェルツハウザーフェルト団地にこそ、自分の居場所があると語り手は感じていて、働くことで役に立つということを強調している。

この地下食料品店にあるものすべて、この地下食料品店にかかわるものすべてが魅力的だっただけでなく、それらは私が属すべきところ、切望するものだった。自分はこの地下の人間であり、この人たちの仲間なのだと感じた。だが、学校という世界に属していると感じたことは一度もなかった。20P

家やギムナジウムでの人付き合いの困難さに対して、シェルツハウザーフェルト団地ではまったく困難を感じず、役に立ちたい、仕事をしたいと語り手はこの仕事に馴染んでいく。汚点とみなされ、忘れられ、否定された場所だからこそ、シェルツハウザーフェルト団地という名を語り手は繰り返し繰り返し書きつける。この長い名前を省くことなく、つねに「シェルツハウザーフェルト団地」と書きつけ、何度も重ね塗りしたせいでそこだけ毛羽だった手触りを感じさせるようにこの名を塗りたくる。貧困にあえぐ人々や、戦争のことを語る人々、手足を失い戦争のことを語らない人々の姿が折に触れ書きつけられ、店で働くなかでそういう人と出会い、そうした名前が後に新聞で事件や死亡記事として現われることもまた書きつけられる。出会った人々の名前を忘れていないということだ。

シェルツハウザーフェルト団地や地下で自分の居場所を見出したのとともに、ここで語り手は店主ポドラハという重要な「師範」にも出会っている。

祖父は私に、ひとりでいること、ただ自分のために存在することを教えてくれたが、ポドラハは、人と一緒にいること、しかも多くの、実にさまざまな人間と一緒にいることを教えてくれた。祖父のもとで私は哲学の学校に行った。人生の早い時期だったから、それは理想的なことだった。シェルツハウザーフェルト団地のポドラハのもとで私は、もっとも現実らしい現実の中へ、絶対的現実の中へと入っていった。早い時期にこの二つの学校で学んだことで、私の人生は決定づけられた。そして一方がもう一方を補うことによって、この二つの学校は今に至るまで私の成長の基礎をなしているのだ。54P

祖父と地下食料品店店主ポドラハという二人の教師から学び、家から地下の仕事を経て、そこで稼いだお金でプファイファー通りにある音楽家夫妻の家で音楽を学ぶことができるようになる。家の人間からの妨害に負けずに、自分の目指すところへ自ら進むための重要な場所として地下がある。

音楽と、終盤にある自分が演じられた存在でもあって「自然とは劇場」だという認識は劇作家としての後の経歴とも関係するだろうけれども、同時に序盤に置かれている「真実を伝えようとすると、どうしても嘘つきになる」、という認識とも繋がっているように見える。

私たちが知っている真実とは必然的に嘘であり、この嘘は、避けて通ることができないがゆえに真実なのだ。ここに書いたことは真実であるが、真実ではありえないがゆえに真実ではない。
中略
肝心なのは、嘘をつこうとするか、それとも、それが決して真実ではありえず、決して真実ではないとしても、真実を言おうと、真実を書こうとするのか、ということなのだ。私はこれまでずっと、いつも真実を言おうとしてきた。今ではそれが嘘だったということがわかっているけれども。結局肝心なのは、嘘の真実内容なのだ。36P(傍点を強調に)

書くことは生きるために欠くことができないという語り手が「真実として伝えられた嘘」しか書くことができないとしても書き続ける、というこの自己矛盾的な書くことや言葉への疑いが語りの基点にある。ここに、作家誕生までの物語と同時に小説という形式への態度が現われる、自伝的小説らしさがある。

改行が一回しかない延々たる語りで、序盤と終盤で似たようなことを語るんだけど、そこで最初は良いことしかなかったと言っていた仕事のマイナス面についても語っていたり、螺旋的な進行をしているところがある。『原因』よりはずっと、幸福な面を語っているような印象があり、祖父だけではない先達を見出して相対化し、そして語り手の世界もずっと広がっていく。


翻訳では自伝五部作の順序を変えて、幼少期の第五作目から刊行しているので本作は五部作の二作目だけど、翻訳としては三作目になる。
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石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

石川博品二年ぶりの新作。商業では『海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと』、同人では『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落"』以来となる。去年は商業も同人も新作がなく、今年は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』アンソロジーに短篇二作を発表しているけど、これは序盤しか原作を知らないので読んで良いものかどうか迷ったままになっている。

さて、本作は近未来VR世界で特注の女性アバターをまとい風俗通いに勤しむ主人公が、高級娼婦にハマって資金を捻出するためにならずものアカウント殺害動画配信をして稼ごうという話で、帯文通りエロスとバイオレンス濃いめでもあるんだけれど、VR設定によって切実さとともに軽薄なコミカルさも失わないバランスが素晴らしい。

2033年サブライムスフィアというVR空間が舞台で、場所によってはアカウント消去で復活できない殺しもアリだったりもする、性欲も暴力も自己顕示欲もあふれる欲望の世界。主人公狩野忍は、VR風俗通いで出た紙おむつとオナホを、実家暮らしのため会社のゴミ箱に捨てようとして同僚女性に見つかり、VRで零細動画配信者だった彼女とコンビを組むことになる。この序盤のあらすじ時点で治安が悪いし下ネタ全開で、とはいえ『菊と力』や『海辺の病院~』の暴力と死の殺伐系にも連なる陰の雰囲気がありつつ、軽妙な会話、動画配信でのコメントといったスラングまみれのやりとりという石川作品の陽性の魅力も充分にあって、設定によって両系統のハイブリッドを実現している。

2033年ということで、男性が女性アバターを使うことになんの不思議もないし、主人公は女性アバターで女性アバター相手に関係を作りまくるし、それがリアルで男性かは気にしないし、男女アバター使いわける人間もいる、そういう世界はすでに当たり前になっている。

そうした状況を前提に、忍の一人称で全体が語られながら、VRでの自身を「シノ」と呼ぶことで、階層的なVRに見合った語りを生んでいる。忍は地の文では「俺」といい、会話文では「ボク」と一人称を使い分けて、この会話文の一人称はタイトルに取られているとおり、そのまま女性アバターシノのそれでもあり、グラマラスな女性アバターが「ボク」と自称するあたりに、複雑な自己認識のありようが反映されている。さらにここで面白いのは、一章でセックスが始まった時に一人称映像を脇の小窓において、三人称視点に切り替える場面だ。エロにおける主体化と客体化の同時並行と、シノと忍の並行描写。VRアバターとリアルの二重関係が語りやエロスの面でよく出ている箇所だ。

過去にSTGゲームに人生を賭けた経験がある忍は、VR世界でも銃撃戦に長けており、終盤ではVR内ゲームとして陣取り合戦的な銃撃戦ゲームに雪崩れ込むんだけれど、この八章と九章のゲーム小説部分は一番楽しいところだろう。九章は本筋の勝負がかかってシリアスさが強くなってくるので、特に多数の仲間が揃って何でもありのゲームで皆が活躍する八章が気に入っている。

終盤の内容は伏せるけれど、マリカワが「嘘と本当を二段構えにすれば深さが生まれると思っている」と批判され、「深さは自分のやり方を貫いた結果として、他との比較において生まれるものなんだ」とシノが語るように、この嘘と本当の、VRを思わせる対立は、もちろん虚構としての小説をも射程に入れたものでもあるだろう。視角と感触を伝えるデバイスを装着した箇所だけが感覚を伝えるVR世界のはずが、ドット絵にリアリティを感じるように、ある場面では幻の五感が伝わってくる。

ボクの放った弾丸が敵の頭に当たり、水風船みたいに弾けて台車の横っ腹に赤い染みを残す。銃口から立ちのばる硝煙の香になぜか胸が高鳴る。宇宙船の中で循環する空気に食べ物や油や金属や乗組員の息や足の臭いが混じっている。床に埋まったレールの上は滑りやすいので移動のときは踏まないようにする。遮蔽物にした台車に寄りかかり、手を突くと、誰かの血でべっとり濡れている。ボクは魂が吸うことのない空気を吸い、味わうことのない感触を味わう。すべてはことばで、誰かによって作られた設定でしかないが、ボクには現実で、いまここにボクが立っているのと同じように実在する。393P

贋物のなかにある本物、贋物のなかにこそ生まれる本物、虚構の世界にある切実な欲求、ここで語られているのは「すべてはことば」でできた「小説」そのものでもあるはずだ。マリカワのやり方も間違っているわけではなく、贋物のなかにこそ本物を作り出そうとする切実な希望が語られる。「彼女の頬に涙が輝いて、シノはこの暗い中に月や星の光が届いていることを知った」なんていうVR空間の描写のように、美しくないもの、本当ではないもののなかの美しさを描こうとする石川作品のモチーフが、VRの欲望と暴力の世界に自分の尊厳を賭けたからこそ生まれる自由と解放感として書き込まれている。

ゲーム内のキル数としてカウントされる死の奔流のなかで、ヴァルハラというワードが出てくるのも葬送のモチーフだけど、ここでのVR空間はヴァーチャルな死とリアルの死の重ね合わされた場所でもあって、そしてこのVR空間はサブライム=崇高、と命名されている。


呼称の点では「キャッシュマネー」が最初から最後までキャッシュマネーとしか呼ばれないのが地味に面白い。10章でもキャッシュマネー呼ばわりされてて扱いがなかなかにひどい。随所にある動画のチャット再現もヤジや応援、ツッコミとして機能してて面白いし、これは判型が大きいからこそできることだろう。判型ともちょっとかかわるけど、章扉でその章で扱うものの解説が載ってるのが、最終章で何もなくなるのがVR以外だということと葬送の黒を感じてなかなか印象的だった。

スラングの使い方や題材のほか、主人公の勤務先や災害その他、結構時事性を感じる小説でもある。VRという今の題材や、石川作品の殺伐系とコミカルさの両側面があることととか、下ネタの多さに引く人でなければ、石川博品作品へのとっかかりとして良い作品なんじゃないかと思う。

前作の記事。
closetothewall.hatenablog.com

パウル・ゴマ『ジュスタ』


ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。著者は今年、亡命していたパリでCOVID-19によって亡くなった。本文に執筆年があっても刊行年がどこにも書かれていなかったので英語版Wikipediaを見ると、ルーマニアで1995年に刊行という情報があった。革命以前は発表されなかった作品ということだろう。

主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちに、おそらくはルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。

このトリアという女性は「ジュスターリニスト」(この言い方は元々あったようだ)を縮めてジュスタと呼ばれており、「ほら、ジュスタだ!」というフレーズが多くの章の書き出しで反復され、繰り返しこの名を読者に刻む。85年、著者と同じくパリにいる現在時から、ジュスタと何度も遭遇しつつも後ろめたさゆえに出くわすのを避ける、という幻視?が語られ、現在時と56年当時のほかにも複数の時間軸が回想のなかに現われる。

複数の時間軸が語るのは、全体主義、独裁的な社会では、つねに言葉が裏切りとともにあるということだ。ある詩人へのまったく逆の評価が同じ人間の口から出てきたり、詩人の活動の空白期間や没年は出ても場所や状況が伏せられ、前言との矛盾を指摘されると酒に酔っていたといってうやむやにする。階級への裏切り者は拷問を受け、チクり屋は後年同級生と再会した時にワインを頭から掛けられる。

主人公たちは作家批評家養成学校で学ぶ学生達で、53年にスターリンが没し、56年のスターリン批判以後、ポズナン暴動、ハンガリー事件と続く1956年の状況下での反ソ連の動きに連なろうとする主人公が学生煽動で逮捕されているけれども、詳細に語られるのはそのことではない。そうした事件の影で、主人公が見ていない場所で、ジュスタが裏切り者としてセクリターテに拷問されていたということを知人から伝え聞く場面がとりわけ丁寧に描かれている。「正義屋」、お目付役、スターリニストと呼ばれていたジュスタだけれど、規律に厳格な風でいて告発に横やりを入れたり、主人公が告発された時に助け船を出したり、正義というあだ名はまったく正しい形容としての姿が見えるようになる、その挙句のことだ。

ジュスタから拷問の話を聞いたディアナは叫ぶ。ナチのユダヤ人、ジプシー、ウクライナ人を殺し焼いたことを非難する声のなかに「ユダヤ女、ジプシー女、ウクライナ女のことは聞こえなかった」、「反人類的犯罪だ! でも間違っても反女性的犯罪という言葉は聞こえなかった」と。長くなるけど、その下りを引用しておく。

「先へ進もう、わかったよ、十分……」
「十分……十分? もう十分! 私もそう言っていたわ、私もそう叫んでいたわ、ポンプで注入された時、ホースの水で膨らまされた時――でもその時叫びまくった、ほとんど歓喜のうなり声で、心の底から吠えていた――それは純粋な苦痛だった、それは涙のような透き通った屈辱だった――苦痛と凌辱と腹裂き――私たちはそれを知っているの、イヴの時から承知しているのよ! 知っているのよ、神か悪魔が私たちを、話によると、君らの肋骨から引き抜いた時から、そうして、君らは、男は、そこがそのままでいるのに、私たちは、女は、空っぽで一杯……。いいですか、あんた、みんなが至る所で叫んでいる、怒鳴っているのが聞こえるわ―――“忘れまい、ナチの悪業を! ナチが数百万のユダヤ人、ジプシー、ウクライナ人をガスで殺し、焼いたことを忘れてはならない……” 大いに結構――忘れてはならない! でも私に何が聞こえなかったか分かる?――せめてたまにでもよ? ユダヤ女、ジプシー女、ウクライナのことは聞こえなかった!  そうして、いいですか――犠牲者のほぼ半分が“女性要素”一ですよ。同意します――残虐の限りだ! 同意します――反人類的犯罪だ! でも間違っても反女性的犯罪という言葉は聞こえなかったわ! なぜなの? なぜならば判事も、検事も、歴史家も、年代記作者も、まずは男性だから? でもいがみ合いを、戦争を、大虐殺をひきおこしたのは君らよ、男性よ! 君ら――たとえ君らが、“めんどり”を探さねばならないのだと、ヘレネがトロイ戦争の原因だったと言い張ろうとも! でもやっぱり君らは最後の一人になるまで殺し合うしかない、その最後の一人と一緒に私たちはもう少し馬鹿じゃない新しい人類で地を満たそう。どうして君らが、男たちが殴り合って、そうして私たちが、女が打撃を引き受けるの? それもなんたる打撃を……。一つ馬鹿なことを言いましょう、多分、多分不当な言い方でしょう、でも言うわ――百人の男性が受ける拷問は、全部合わせてたった一人の女に対する“パンティを脱げ!”にも足りない!――君もパンツを脱ぐ――仕方がないから、それはそうでしょうとも……何のため? 君をどうしようと? やるため? 犯すため? 回すため? いやいや、ただお尻をぶっ叩くだけ……」154-156P、強調原文

ここにいたる下りでは、ディアナがジュスタのことを話そうとすると、主人公がもういい、言わなくても分かる、と言って、ディアナがそれに激怒するくだりがある。

「分かった、その話はやめて……」
「いいわ、やめましょう……。いえだめ、やめない――なぜやめるの?」 ―そうしてディアナは猛然と巨大になって立ち上がる。
「想像できるから……」と言おうとする。
「想像できる――くそったれ!想像のくそったれ!」
 ディアナのこんなしゃべり方は一度も聞いたことがなかった。たしかに、最後に話してから長い歳月が過ぎてはいる。
「想像するって! もういい加減にしてよ! 旦那の努力は超人間的、でも、多年にわたる戦いの末、大の大成功を収める。想・像・力! ブラボー! おめでとう!」151P

「想像力」への痛烈な批判。ディアナの意図以上に、作家批評家を養成する文学学校やブカレスト大学文学部を舞台にした今作がこうして想像力という言葉を批判していることは重要に思われる。さまざまな人名が実名で出ているということは、署名を断った大物など、当時の状況とそれを見ていた文学者たちへの批判的意図もあるだろうからだ。

本作が主人公の逮捕投獄についてほとんど紙幅を割かずに、終盤にこうした女性からの伝聞のかたちでジュスタのことを聞く構成になっているのは、男はその場面を直接目撃することはできないという不可視の女性への暴力を、男の語り手から反省的に捉え返すための仕掛けになっている。最後にはジュスタ視点からの直接話法になるけれど、それもディアナからの伝聞がベースになっている形式だ。

解説に、ジュスタ以外の登場人物、事件は「実名・事実そのまま」らしく、ジュスタが実在したものかどうかわからないけど、フィクションあるいは仄聞した何か、についてのものだとすれば、自伝を書きつつ自伝では見えていないものをあえてメインに設えた、という自己批判的な試みが込められていることになる。

「さあミスター! 目を覚ましたら! なぜそうやって、目をつぶったままでいるの?」171P

「ほら、ジュスタだ!」と繰り返され、パリでジュスタを見つけ、出会っているのは果たして現実なのだろうか。目を開いて、ジュスタを見たのだろうか。


この頃の事情について用語解説を先に読むよう断り書きがあるように、状況や時間軸が分かりづらいところもあるけれど、終盤の迫力には圧倒される。

表紙はジュスタの文字をピンクの丸が囲ってあり、その周りを黒が覆っている。全体主義社会のなかのジュスタ=正義そして女性、のありようをシンプルなデザインにまとめたものだろうか。読み終わって本を閉じると表紙には既に作中の出来事が暗示してあることがわかってぞくっとした。

図書新聞に荻原魚雷『中年の本棚』の書評が掲載

中年の本棚

中年の本棚

既に入手できるはずの図書新聞2020年11月7日号に、荻原魚雷『中年の本棚』の書評「四〇代を生きるヒントを探し尋ねる記録」を寄せました。

古書店通いを日課とするライターが、四〇代から五〇になる頃、中年としての生き方を多彩なジャンルの本に探し求める読書エッセイでなかなか面白いです。そして著者オススメの星野博美は確かに良かった。あまり馴染みのない書き手だったので、とりあえず全ての単著を読んで著者のスタイルを調べた上でなんとか形にしました。著者の本としては本書は一回の分量が長い、という特徴は文中に盛り込めなかったのが惜しい。普通書評に自分のことは書かないんですけど、今回は読書エッセイが対象なのでちょっとエッセイ風に書いてみました。一応中身と絡めたオチにしたつもりですけど、面白いかどうかはまたちょっとどうでしょうね。あんまり面白いことは書けないなと思いました。

なお、著者はつかだま書房版後藤明生『四十歳のオブローモフ』に解説を寄せていて、そこでたぶん初めて読んだので、よく知らなかったんですけれど、読んでみて、なぜその解説を書いているのかがわかったのも面白かった。つながりがありつつ絶妙に私の守備範囲外に投げてきた編集さんの依頼も上手いなあと。作家のエッセイとかではない読書エッセイってそういえばほとんど読まないので。

著者は過去は玉川信明の大正思想史研究会に所属して、アナーキズムについて研究していたらしいのがなかなか面白くて、糾弾する側もされる側も経験があるらしく、それで政治的なものから距離を取った、ということが書かれていて、この経験は非常に後藤明生的なんですけど、しかし著書のなかで後藤明生への言及って数カ所しかなくて、メインで取りあげたことがないんですね。読んでる形跡はあるんですけど。

高円寺在住で古書店に日参するという著者の生活圏もそのスタイルも、かなり自分とは違っていてその点が面白くもあるんですけど、一番違うな、と思ったのは、小説家を読むにもまずはエッセイ集から読むっていうところですね。その発想はなかった。「軽エッセイ」とかそんな表現があったと思いますけど、そういうものを好む著者にとって、本や文章というのはまずその人の人となりとしてあって、文章を介して他人と触れあうこと、という印象があります。本、古書店、酒の席、というコミュニケーションとしての読書がある、というか。

そういえば『中年の本棚』は鈴木千佳子が装幀なんですけど、その前に読んでたのが新版『水晶内制度』でこれも鈴木千佳子が装幀。無関係だと思ってた本同士が同じ装幀家で繋がっていて驚いたし『中年の本棚』で知って読んだ星野博美の二冊が両方ミルキィ・イソベでさらに驚きましたね。

戸越銀座でつかまえて (朝日文庫)

戸越銀座でつかまえて (朝日文庫)

  • 作者:星野博美
  • 発売日: 2017/01/06
  • メディア: 文庫
星野博美は『戸越銀座でつかまえて』をまず読んで、なかなか面白いなと思って『島へ免許を取りに行く』も買っておいたんだけど、ちょうど戸越銀座のラストが免許、へのブリッジになってて、良い偶然だった。
島へ免許を取りに行く (集英社文庫)

島へ免許を取りに行く (集英社文庫)

『島へ免許を取りに行く』は、書評でも荻野魚雷が引用したところを引用したけれど、中年になって初めて免許を取る、しかも長崎県五島列島にある自動車学校で、という旅行の面白さと免許というできなかったことができるようになっていく学習記録の両方のノンフィクションになってて、非常に面白い一冊です。教習所に馬がいて乗ったりできる、非常に不思議な場所で、これはとりわけオススメの一冊ですね。