最近読んでた本 2021.10.

米澤穂信『いまさら翼といわれれても』

古典部シリーズ第六弾、文庫出てすぐ買ったのに二年寝かせてしまった。折木の過去やモットーの原点、伊原の漫研での諍いの結末、千反田の心境を簡潔に示した一言にたどりつく表題作などなど、部員の過去と未来の結節点となっている短篇集。

弁護士という将来を意識しはじめた福部の「箱の中の欠落」、折木を軽蔑した中学の事件の真相にたどり着く伊原を描いた「鏡には映らない」、「無神経」な振る舞いを避けようと真実を探る折木を描いた「連峰は晴れているか」の序盤三作は部員それぞれを探偵役にして個々人の行動原理を描いてる。折木のモットーの原点となる、他人に便利に使われる小さな悪意に気づいたエピソードを語る「長い休日」は同時にその明ける時が来ることを示して終わっていて、将来の話では前述のもののほか、伊原の未来への決断を描く「わたしたちの伝説の一冊」がその役目を果たしている。

そして将来が既に決まっていたはずの千反田の「自由」を描く表題作。子供ながらに家に縛られ責任ある人間として生きようとしてきたことも充分に重いけれども、そうした人生が急に前提からすべてが崩れ去ってしまうという二重の屈折が刻まれる苦さは相当のものがある。三人の生きる指針とその未来への道を描いた後に千反田のそれが無惨に消え失せる話を置くというなかなかの仕打ち。自由、歌、翼、というポジティブな象徴が反転してしまう蔵という「箱の中」。雨、箱、休日等々、収録作のタイトルが微妙に表題作の内容にも掛かっている感じもするけれどどうだろう。

で、面白いは面白いけれど、カードゲームアニメにデュエルがあるように必ず推理要素があるのがちょっと窮屈じゃないかなと感じてしまうのは私が専らキャラクター小説的に読んでるからだけではないような気もした。まあミステリだからミステリ要素があるのはそうなんだけど。同時に、最近小市民シリーズ読んだ時にはあまり思わなかった覚えがあるからこのシリーズの方針かも知れないけど、人間の身近な悪意が思ったよりも嫌な気分にさせられるところがある。殺人者出てくるよりもじわっと嫌な感触がある。

これは「鏡には映らない」が特にそうで、その嫌がらせ仕込むのそいつバカすぎないかと思ってしまう。悪意や悪人の底が浅いと主人公たちを引き立たせるための書き割りにすぎないように感じられてそこにこそ嫌な感じが出る。表題作は露骨な悪人がいないところが余計に苦みを増していて効果的ではあった。伊原の反省した?からの「隣に座って!」はちょっと萌えキャラが過ぎるぞ、とは思った。

平野嘉彦編、柴田翔訳『カフカ・セレクションⅡ 運動/拘束』

カフカの中短篇をテーマ別に三巻に分け、短いものから順に収めていくというちくま文庫独特の編集を行なったセレクションの二巻。当時買い損ねていまちょっとプレミアだけどブックオフで二巻だけ発見。本巻の訳者は作家でゲーテ研究の柴田翔

夢のようにもどかしいすれ違いを描いて非常にカフカ的な徒労感がある「珍しくもない出来事」や、ヨーゼフ・Kが自分の名前を彫られた墓石を見る夢「ある夢」とかシュヴァルツヴァルトで崖から落ちて以来「私は死んでいます」と1500年はしけ舟に乗り続けている「狩人グラフス」、『木のぼり男爵』みたいに空中ブランコの上に住む曲芸師の「最初の悩み」と断食芸の衰退を描く「ある断食芸人の話」などのサーカスもの、親への罪悪感?が断罪される奇怪な「判決」、処刑機械に士官自ら乗り込みすべてが崩壊する植民地の「非西欧圏的」な裁判制度の一コマ「流刑地にて」、そして最も長くてしかも未完の、もぐららしき生き物が自身の巣造りについて省察する「巣造り」。最後にマックス・ブロート兄弟との旅行を描いたエッセイを収める。「巣造り」はたぶん初めて読んだけど、安部公房を感じさせる閉鎖環境での完全な巣をめぐる思考の堂々めぐりが面白い。

「私はまたしても完全無欠な巣穴造りの夢に耽り始めるのだ」241P、と言うように決してなしえない「完全」を目指してあっちが気になりこっちが気になり、外に繋がる巣穴という原理的に排除できない「穴」をめぐって考察を続け、ついには自分より大きい何者かの生き物が近くに現われる予感で終わる。閉鎖環境が舞台の「巣造り」は「運動/拘束」というテーマの典型のようでもあって、そして「ある断食芸人の話」の「断食に完璧に満足する見物人となり得る可能性を持つのは、ただ彼自身だけだった」108P、という「巣造り」や「流刑地にて」の士官などの独身者の系譜にも繋がるものだろう。

一冊ものの作品集は数多いけど、カフカの短い作品を網羅した選集がいま入手できるものがなくなってるので、ちくま文庫カフカセレクションは復刊してほしいね。池内訳のUブックスのものでも短篇の巻は高値だった気がするし。

コナン・ドイルシャーロック・ホームズの帰還』

久しぶりにホームズ読んだ。ライヘンバッハの滝から復帰したホームズが描かれる第三短篇集。恐喝王ミルヴァートンの話そのほか、法より道義を優先してしばしば殺人犯を見逃すことがあるのがそういやそういう人間だったなと。短篇なので合間の時間にサクサク読めてしっかり楽しめるのとこれ翻案ものアニメとかで見たやつの元ネタかなってのも時々あったりして色々面白い。アガサって人物やチェスタートンという地名が出てきてお、と思った。光文社のホームズ新訳全集は未読があと四冊残ってる。

坂上弘『ある秋の出来事』

訃報を聞いて、そういえばまともに作品読んでないなと最初の作品集のこれを持っていたので手に取った。しかしこれほど合わない本は久しぶりで読むのがつらかった。難解とかいうわけでもないんだけどとにかく文章が入ってこないしところどころいつ誰が何をしているのか把握できなくてストレスばかりが溜まった。家族との軋轢や男女の関係といった青年の鬱屈を描いていて、特に家族関係は兄や母、父との問題が諸篇に共通していて連作のようにも読める作品群で、まあ女は妊娠し堕胎し死ぬという昭和のよくある純文学だったりするんだけどそれ以前に全然作品に入り込めない。表題作はそこそこ読めたけど、とにかく相性が悪いとしかいいようのない感覚で、何が悪いと言ったら自分の頭が悪いんだろうと思うけど、さすがに二十歳の頃の第一作品集だけでなんとも言えないので中後期のものもなんか読んでみないとなと思った。

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』

一人しか入れない国や機械と生体の組み合わせでできた人間たちという童話的な世界観で、国境地帯の警備官が強権的行動とカリスマによって成り上がる独裁者の誕生を描いた、アメリカの作家による「ジェノサイドにまつわるおとぎ話」。

解説では911イラク戦争愛国者法、アブグレイブなどが触れられてるけれど、相手の土地をどんどん奪う周囲を包囲してる国というのはパレスチナ問題を連想した。外の国というのはイスラエルかなって。まあそういう何に当てはまるかというのはいいとして、短いしさらっと読めるけど評価は難しい。土地や自然を税と言い立て奪っていく暴力、権力に追従するメディアはともかく、日々の楽しみのためには世界のどこかで不幸があるのはよくないという微温的善意、最後に創造主がものごとを解決する宗教的救済はどうだろうというのもあるけどこの粒度で独裁者を語ることにどういう意味があるのか、と疑問に思ってしまった。

コミカルで童話的な感触は悪くないけど、何にでも当てはまりそうな抽象的独裁者と人種差別、のように普遍的すぎると具体性やリアリティを失ってしまうのではないか。詳細すぎると長いと文句を言い、短すぎると具体性がないという面倒な読者に自分がなってる気がするけど、今ひとつ手応えを感じない。というか作者の政治的スタンスを知らないけれど、フィルに虐げられた国を助けに行く「大ケラー国」には民主主義国家にして「世界の警察」というアメリカ的なものを感じてしまう。テロとの戦いと称して戦争をしかけるアメリカ的なものを肯定しているように見える。暴力はいけない、という正しさが防衛の名目での侵略の正当化に繋がるように、独裁者は悪、という理念が武力を含めた介入の正当化になってないかという懸念を感じる。アメリカにおいて今作がどう受け取られたものなのかは詳しく知らないけど、どう読んだらいいのかよくわからないな。

高原英理『観念結晶大系』

ビンゲンのヒルデガルトからノヴァーリスニーチェユングなど鉱物志向の系譜を独自の人物も交えて点描する第一部、ヴンダーヴェルトという鉱物でできた異世界を描く第二部、現実で人が結晶化するSF的な第三部を通して真理、永遠彼方への憧れを結晶化させた幻想小説

永遠、普遍の真理の象徴としての石、鉱物というモチーフを中心に、「心に結晶を育てる」人々を描いている。第一部は歴史上の人物や架空の人物を散りばめながら、さまざまな鉱物幻想のありようが各所に配置されていく布石のような感があり、これは第三部で形を明確にする。第二部では大きな結晶を中心に回っていて思念が石になったりする不可思議な世界のさまざまなエピソードや博物学的描写とともに、この世界の真理の探究と空の果てへの憧れを抱いて高位の飛宙士を目指す二人の物語となる。それと同時に、自由と相反する独裁者の暴虐も。第三部では第一部の鉱物幻想を共有する登場人物たちが次々と石となってゆく奇妙な病を発症していく様子を医師の視点から批判的に描きつつ、全体主義化する政治のありようが二部に続いて描かれていて、鉱物幻想、結晶化とそうした政治性が密接なものとして描かれている。

作中人物の言葉にこうある。

理想主義が内に向かったときには、例えば結晶観想のような超越への志向となったが、それが外へ向かったときファシズムをはじめとする全体主義と独裁をもたらした。この二つは実は盾の両面なのである。320P

幾何学的、結晶的な整然としたイメージが全体主義と親和的だというのは確かにそうで、鉱物志向の持つ永遠、無限への憧れの帰結がそうした危機と隣り合わせだということは本作の印象的な部分で、郷原佳以はドイツロマン派とナチスの問題に対する著者の応答だと指摘していてなるほどなと。作中の鉱物志向についてある重要な人物は、人付き合いや他人と共同作業をさせられるのが苦手だという性格で、そうした性格と石化する人たちの世界観に共有のものがあるとされている。第三部は石化症で時間感覚が他人とかけ離れていくポストアポカリプス的な世界になるのも孤絶の一つの形だろう。

石に惹かれ、石を夢見、石になりゆく人々の「鉱物志向性」を丹念に描き込んでいく小説で、第一部のオカルト的な歴史から鉱物志向を系譜づけたり、作中人物が「石の観想法」を広めていたり、本作自体が孤独を好みながらその志向において共鳴する、鉱物幻想に惹かれる人との共鳴に賭けられている。

『ゴシックハート』に「人間の外の世界に目を向けてしまう異端者」というゴシック性の指摘があったけれども、本書の鉱物幻想も芯にはそうした異界への憧れが感じられる。タイトル、装幀で気になった人以外にも、エヴァンゲリオン使徒ラミエルが一番好きだったという人に、オススメ、かな……?

西崎憲『未知の鳥類がやってくるまで』

空を渡る誰も見ることができない行列、つねに同級生が持ってきていた軽い箱、校正刷りを紛失した編集者の奇妙な週末、生まれる前の赤子の冒険、自称宇宙人の島田、とSFとも幻想小説ともつかない、現実を半歩ずらしたような光景を淡々と綴る少し奇妙な小説集。

SF系の媒体に載ったものも多いけど、SFマガジン掲載の「廃園の昼餐」は一応理に落ちる感じはありつつも他はだいたい明確なルールやロジックで落とさないように書かれていると思しく、言葉で現実をじりじりとずらしていくような、そういう不可思議な浮遊感を味わえる。「東京の鈴木」は鈴木を名乗るテロリズムらしきものの話なんだけど、ここに出てくる首相の描写には具体性がないのに、政商のほうは言動や童顔という形容が明らかに竹中平蔵をモデルにしているのが面白い。首相は変わっても政商は変わらないっていう叙述になっている。

現実というのは、夢の論理を使って人間が作ったものだ。29P
どこかに旅をすると空想するわけではない。自分が現在いる場所を旅行で訪れたように空想するのだ。見慣れた土地を初めて訪れたように想像するのである。177P

という箇所は本作の方法の一端を示しているようにも見える。二つ目の引用、ちょうど最近翻訳が出たメーストル『部屋をめぐる旅』についての言及のように見える。暗くなっていく街のなかを描写しながら、「灯火がつく瞬間はつねに脅威の瞬間だ」(144P)という一文がなかなか印象的だった。

みすずはずっと本が好きだった。本は扉であり道だった。けれどあらゆる場所あらゆる時間には入ったことのないドアが無数にあり、入ったことのない小道が無数にあったのではないか。220P

林美脉子『レゴリス/北緯四十三度』

著者最新の詩集で、北海道侵略者の屯田兵の末裔という植民地の問題を沖縄とも繋げつつ、被害者の血が染みこむ大地と男性原理の屹立する塔という上下の構図の頂上に勅諭する高御座の天皇を位置づけ、雪のごとく舞うレゴリスに闇を照らす光を託すような絵が浮かぶ。

今までは宇宙的なスケールという印象があったけれど、祖父の遺した「屯田兵手牒」を題材に自身の歴史や身体に歴史的な加害性とジェンダー構造の被害性の双方を読み込むと同時にコロナ禍の日常など身近な地点からアイヌへの加害そして天皇の責任にまで、地面から見上げていく視角を感じる。

加害の歴史を忘れ
逃げ切るおまえ
侵略者の末裔の
足底の痛みよ 29-30P

死者の特権はもう死なないことだが 見返してくる骨のまなざしは生きた姿で追い迫り 無数の鋭い眼光に睨み返される その怨の罪業に追われ 地誌の汚れたぬかるみを 這う 40P

こうした大地の底に這うような歴史の闇を看取しながらそびえ立つ塔に男性原理ひいては天皇の姿を読み込むなかに、次のような散る光がよぎっていく印象がある。

レゴリスが太陽の光を乱反射し
自らを明るくして闇を照らすが
零れ落ちてくる被害の歴史は暗く
あったことがなかったことにされた 17P

どう対応しているかは確認できてないけど小熊秀雄の「飛ぶ橇」へのアンサーだろうと思われる「飛ぶ屯田兵手牒」で、散らばって飛んでいく細切れの屯田兵手牒も、上と下のあいだで浮遊するイメージがあるように感じられる。

逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ(二回目)』

異世界での旅と帰還を経て、今度は転移者仲間とともに再び異世界へと転移してイェスマ制度からの解放を目指し戦乱の地に身を投じる連続シリーズに突入した模様の第二巻。一巻の最後は蛇足とも思ったけどこれはこれで悪くない。異世界転移だけれど豚なので戦うこともできず、状況から推理をめぐらせる安楽椅子探偵じみたところがあるのはそのままに、今巻ではイェスマという奴隷解放闘争において、その奴隷以下の家畜の豚というラインが示されているのが今後の展開の布石だろう。あんまりな呼称など罵られることへの嗜癖というのも地味にこの階級や上下関係に絡んでくる感じなのは笑って良いのか企まれたことなのか。一度別れたジェスと再会するのに、旅を忘れるという試練を与えられてそれを乗り越えることでジェスと豚のコンビが再び組まれたここからが本番かな。

アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』と『ノーホエア・マン』と『愛と障害』など

松籟社の〈東欧の想像力〉シリーズにエクストラとしてエッセイ集が出ると聞いて、そういえば出た当時話題になってたけど読んでなかったアレクサンダル・ヘモンの第一長篇からはじめて結局既訳書を全部読んだ。

『ノーホエア・マン』

アメリカ滞在中にボスニア紛争によって故郷サラエヴォに帰れなくなり、そのままシカゴに残って英語で書くようになったボスニア出身の作家による第一長篇。作者とも似た境遇の青年の人生を様々な語り手から描き出し、その技法に故郷を離れた人間の分裂的な様相を埋め込んでいる。これはだいぶ良かった。

紛争の悲惨なニュースが届く国外の生活と、故郷でバンドをしたりしていた青春時代を描きつつ、そのどうしようもない分裂というのがおそらく謎の語り手「私」と「ヨーゼフ・プローネク」という主人公とに引き裂かれ、100年前のスパイとも結びつけられていく。プローネクの名も、キエフで彼に恋心を抱くシェイクスピアクィアリーディングを研究しているゲイの名前もが最終章の実在のスパイのくだりに埋め込まれており、亡命者とスパイとを名の複数性において重ね、さらにメタフィクション的な虚実の皮膜のなかに折り込んでいく手の込んだ相対化がある。

スラヴ圏からアメリカに来て英語で書いた作家と言うことなどでナボコフの名前が出ることも多いけど、今作の内容には『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』的な分身的な語りを連想した。ディック『暗闇のスキャナー』なんかも。書き出しの「別人になる夢」やシャム双生児の話が出てくる一章はかなり露骨に分身の示唆がある。

最初の章でボスニアから亡命してアメリカで英語教師の職を探している語り手「私」が同郷のプローネクの姿を認める一章から、サラエヴォで親友とビートルズの楽曲を演奏したり、詩を書いていた青春時代、プローネクの父の故地ウクライナキエフブッシュ大統領の演説を聴き、アメリカでグリーンピースに職を見つけ寄付金を募りながら色んな人と出会い、恋人に始終英語の定冠詞や助詞の文法ミスを指摘されて、バケツで水に沈められるネズミを目の当たりにして怒りが爆発するくだりなどの移民プローネクの人生とともに、故地ボスニアでの惨劇を親友からの手紙で知るやるせなさも描き込まれる。

亡命地アメリカでお前は誰だと問われて、毎回違う人間、「誰でもない人間」に成り代わることが、語りの形式に捉え返される。タイトルや二章の表題「イエスタデイ」はサラエヴォ時代のプローネクがバンドをやっていた頃に演奏していたビートルズの楽曲に由来する。

副題に「プローネクの夢想」とあり、そういえば

分かちあえない記憶は夢想になり、ささいなことがらにあふれた人生は伝説になる。51P

という印象的な一文があって、ささいな描写と分かち合えない記憶というのが本作の骨子のように思えてくる。

『私の人生の本』

〈東欧の想像力〉のおそらくはノンフィクションを扱うスピンオフシリーズ〈東欧の想像力エクストラ〉第一弾はヘモンの自伝的エッセイ集。母国語と英語、戦争の前と後、サラエヴォとシカゴなど幾つもの分裂において、それでも物語ることを選ぶ「人生」の諸相。本書原題はThe Book of My Livesとあり、所収エッセイの半分ほどにLife、Lives、人生、生活と言う言葉が表題に入っている。

妹が生まれた子供の頃のこと、新聞の文化面の記者として活動していた頃のこと、山小屋にこもって本を読んだ生活、家族の食卓、飼い犬をボスニア脱出にも同伴させた家族、内戦が始まり友人が民族主義を煽りファシストとなったことや、ボスニアを離れシカゴで暮らし始めサラエヴォとシカゴの都市の違いに直面したこと、信仰のように毎週土日にサッカーの試合を開催する男、父親とのチェス、そして生まれて九ヶ月の娘が闘病の末亡くなるまでの著者のさまざまな人生が描かれる。

最初に書いたようにこれらのエッセイに散見されるのは分裂、引き裂かれてあること、複数のもののあいだにあるということだ。とりわけ本書表題エッセイ「私の人生の本」(原題ではLife)は、『ノーホエア・マン』の直後に読んだので、わずか数ページの文章なのにとても重い一撃を食らった気分になった。シェイクスピア学者のニコラ・コリェヴィチ教授はヘモンが文学の指導を受け、エッセイのライティングを教わった恩師といっていい存在だった。しかし

コリェヴィチ教授はラドヴァン・カラジッチ率いる悪意に満ちた民族主義政党であるセルビア民主党の幹部になった。111P

かつて教授と同じ道を歩きながら肩に手を置かれたことに「境界を越えてくれた」親密さを感じた後、人種差別を煽るカラジッチの隣にいた教授と記者として境界を挾んで対面する。著者は教授の「ジェノサイド的な傾向」に気づけたのではないかと悩み、「悪」に影響を受けた可能性に苛まれる。上で『ノーホエア・マン』は「手の込んだ相対化」がなされていると書いたけれど、これを読むとその理由がよくわかる。自身の故郷、人生の分裂とともに、それを語る文学、芸術自体に「悪」、内戦への加担の契機がないかということがおそらくはあのメタ的な構成を必要としたわけで、そのことには気づかなかった。

また、コリェヴィチ教授の授業ではニュークリティシズム的な立場から詩を分析し、テクスト以外の作者の伝記的背景や政治的立場を排除して読むことを学んだという。そして芸術のなかにぬくぬくしていれば歴史や邪悪から逃れ果せると信じていたことが、いまの彼の「ブルジョワ的戯言」への憤りとなっているという。作者や政治性を排したテクストの分析という方法がそれまでの読解への抵抗的スタンスではあるにしても、ここで著者はそうした脱政治的な文学理論が「悪」に加担することとどこか繋がるのではないかと危惧しているわけだ。

本書にはサラエヴォがいかに著者の内面と切り離せないものかが描かれてもいる。

当時の私は、知覚と表層、嗅覚と視覚を収集し、サラエヴォの建築物と相貌を完全に内面化した。しばらくして、内面は外面と切り離せないことに気づいた。肉体的にも、精神的にも、私はところをえたのだ。122P

そしてアメリカで、サラエヴォで破壊された建物の写真を渡され、場所を特定する「死体の身元確認のようなもの」をしていた経験。写真をばらまいたように心が乱れる、という歌があるけれど、そんな破壊されたサラエヴォを見て、「もし心と街が等しいのなら、私は心を失っていたのだ」(134-5P)と書いている。

移民がおかれた状況は、自己他者化にもつながる。故郷喪失がもたらすのは過去との――かつて別の場所で存在し、行動していた自己との関係の希薄化である。つまり、その場所で自分をかたちづくっていた性質と交渉の余地がなくなってしまうのだ。移民は存在論的危機である――なぜなら、不断に変化する存在論的環境のもとで自己のありかたを交渉しなくてはならないからだ。故郷を失った人間は、ナラティヴの安定を求める――これが私の物語だ!――それは、理路を整えたノスタルジアのかたちをとってあらわれる。24P

故郷喪失者の安定したナラティヴへの欲望とともに、そのナラティヴを記す文学という方法への不安が入り交じったところに第一長篇のあの構成があるのかも知れない。


最後に置かれた「アクアリウム」は希少難病に罹った九ヶ月の娘にまつわる長めの文章で、夫婦と三歳になる長女とでその状況に直面した様子が描かれている。「非定型奇形腫様ラブドイド腫瘍」という病名で、三歳未満の生存率は10パーセント以下だという。幼児に行なわれる度重なる手術、急変する容体に振り回されるなか、ふと他の人たちとまったく違う世界に住んでいる、自分たちはアクアリウムのなかに閉ざされていると感じる。そんななか妹とも親とも引き離されがちな長女エラはイマジナリーフレンドを作り出し、さかんに会話を始めた。

ミンガスと言う名になったその想像上の友達はエラの言語能力の向上に寄与し、慰めにもなり外界からの情報を処理するツールにもなっていた。作家でもある著者は、架空の登場人物たちや物語というものが、理解できないものを理解し、言語を生成し吸収するプロセスと結びついていると分析する。

物語の想像力(ナラティヴ・イマジネーション)――ひいてはフィクション――は、生き残るために必要な進化論的手段だった。私たちは物語を語ることで世界を紡ぎ、想像上の自分とつきあうことで人たる知恵を生み出したのだ。217P

アクアリウムという断絶、イサベルの死という喪失を語る言葉。内戦と亡命を小説で語った著者が、子の喪失と外界との断絶のなかで言葉、物語とは何か、を問いながら言葉にしているのが「アクアリウム」だろう。本書は先に引いた「他者の人生」の一節ともども、さまざまな人生の分岐、分裂のなかで物語ることや「私」とは何か、が問われ続けている。

宗教の一番卑しむべき誤謬とは、苦難を貴いもの、啓示や救済に至る道の第一歩であると説くところにある。イサベルの苦難と死は、あの子にとって、私たちにとって、世界にとってまったくの無価値だった。イサベルの苦難の対価は、その死だけだった。学ぶ価値のある教えなんてなにもなかった。誰かの益になる経験なんてなにも得られなかった。222P

ボサナツ(ボスニア出身者)ではあってもボシュニャクボスニアムスリム)ではないというのがヘモン及びその作品の語り手の属性だけれど、それはこんなところにも顔を出している。

本書は『ノーホエア・マン』がなぜあのような分身的でもある複数の視点から描かれたのかということのヒントにもなるし、解説にある、本書の表題が複数形なことの理由を問われて答えた、アイデンティティとは中心や本質ではなく複数の人生の可能性が実践できる領域だという言葉も印象的だ。

ヴェバにあちこち見せて、シカゴについて、エッジウォーターでの私の生活について話をするうちに、私の移民としての内面はとっくに、アメリカという外面と混ざりだしていたんだと気づいた。シカゴのかなりの部分は私の中に入ってきて、そこに居ついてしまっていた。いまとなっては、すっかり自分のものだ。私はシカゴをサラエヴォの目で見ていた。そしてこの二つの街が絡まりあってひとつの内面のランドスケープを創り、そこで物語が生まれていく。一九九七年春、初めてのサラエヴォ訪問から帰ったとき、帰ってきたシカゴは私に合っていた。故郷から、故郷に戻ってきたのだ。139P

著者にとってサラエヴォとシカゴとが二つの故郷となったように、そうした複数形のありようをあるひとつの物語のうちに統合しようとせず、さまざまな人生の可能性の実践として、想像上のそれをも含めた言葉による対話によって、想像力と物語を肯定しようとする本のようにも思える。

本書は小説家の背景や小説の裏面を明かしたものとしても読めるけれども、ボスニア内戦での亡命者の人生について語った自伝的な本としても興味深い一冊だ。ナボコフの文体に学んだというヘモンを、ナボコフの翻訳や研究書も刊行している秋草俊一郎が訳しているというのも面白い。また、ヘモンを訳していた岩本正恵が2014年、50歳で亡くなっていたのを知った。子宮頸癌だという。ヘモンが二作目以降訳されていないのはそれがあったからか。そしてマトリックスレザレクションズの脚本に参加しているとは知らなかった。ウォシャウスキー姉妹もシカゴ生まれという縁もあるのかも知れない。アレクサンダル・ヘモンとSF作家のデヴィッド・ミッチェルが監督とともに共同脚本だという。

そういえば『ノーホエア・マン』でスパイが出てくるけど、こちらにもル・カレのスマイリーシリーズを若い頃夏になるといつも読み返していた、という記述がある。

『愛と障害』

同じくヘモンによる短篇集で、サラエヴォの少年時代や家族とザイールで過ごした夏、アメリカで仕事を始めた頃のことや作家となってからのことなど、作者を思わせる語り手の思い出を語りながら、連作的な短篇の連なりからはやがて文学への愛と文学という障害の両面が浮かび上がるように読める。

冒頭の「天国への階段」は、家族と現コンゴのザイールで過ごした少年期の思い出を描いており、真夜中にドラムを叩く現地で知り合った男とロックなどに触れる、さまざまな思春期の様相が描かれながら、最後には少年は目の前に突き出されるその男のペニスの暴力性が自意識を打ちのめす壁のようにして現われる。鳴り響くロックミュージックと少年の自意識、外への志向とその壁。

本書には外と内の境界、それを越える移動の要素が多くの作品にあり、続く「すべて」は冷凍庫を買いにサラエヴォからハンガリーとの国境近くの街に行く様子が書かれ、そこで見たアメリカ人夫婦の妻が自分と関係を持ちたいはずだという妄想から暴走し、ホテルマンに殴打されるオチとなる。「愛と障害」という書名はこの短篇のなかで引用される自作の詩の題で、「世界とぼくのあいだには壁があり/僕はそれを歩いて通り抜けなければならない」というもの。しかしここで買った冷凍庫はサラエヴォ包囲という壁のなかで電力が途絶え、すべて溶けてしまった。

後の短篇でも出てくるけれども、本書の少年期の語り手には性欲や粗暴さが目立っており、それは「愛と障害」に示唆される外への志向と表裏一体のもののように思われる。しかし、サラエヴォ包囲という著者自身の帰郷を阻んだ壁のように、しばしば壁や暴力が短篇を終わらせる。

ここまでの短篇でコンラッド『闇の奥』やランボー詩集を携えていた語り手と「ボスニア最高の詩人」の交流を描いた「指揮者」は、内戦を外で見た語り手と、内から見ていた詩人がアメリカで再会する。詩人のその後の仕事や内戦での戦争犯罪の証拠集めをしていたアメリカ人弁護士との結婚など、詩人の人生がたどられていき、詩を書かなくなった語り手は再会した詩人に「知ってるか、わたしはおまえの詩を書いた」と言われるけれど、どれかは不明のままだ。内戦直前のサラエヴォを想起させる911以後のアメリカの俗悪さのなかで、飲んだくれとなった詩人の思い出に込められた詩と紛争以前のサラエヴォへの哀惜。

われわれは今ほど美しかったことはない。93P

虚構を憎む父が映画を撮ろうとした時のことを回想する「蜂 第一部」は、真実と虚構についての主題を父の視点からたどっていて、真実を撮るためのはずなのに台本を作り何度も撮り直した皮肉な体験が思い出され、内戦後カナダに移住していた父から届いた原稿の表題が短篇のタイトルになっている。父の祖父がウクライナから持ち込んだ養蜂についての歴史を語ったその原稿では、第二次大戦時チェトニクに脅され置いていった巣箱が隣人に盗まれたり、伝染病で打撃を受けたりという歴史の記述が途中で終わっている。ボスニア内戦後、カナダへ移る時に置いていった巣箱はセルビア義勇兵に破壊されたと語り手は補足する。家族の養蜂の歴史をたどる父と、自身の物語を小説として書く語り手で、どこかしらやはり似たもの家族の話になっているのが面白い。そして映画という演出された真実という部分は、この次の短篇で描かれるテーマでもある。

その「アメリカン・コマンドー」は、作家となった語り手のことを映画にしたいという若者に応えて、カメラの前で子供の頃友達とアメリカ特殊部隊のつもりで自分たちの「領土」を侵略してきた工事現場に対して破壊活動をしていた、という話を縷々語り続ける一篇。領土を区切るフェンスを越えて侵入し、破壊活動を行なう語り手たちの姿には先に述べたような外と内と暴力の要素が顕著に現われており、そして過激化していく特殊部隊ごっこの思い出話は次第に本当かどうか怪しくなってくる。「嘘は、僕らの任務には絶対に欠かせない一部だった」(178P)とあるように。印象的なのは、撮る前にカナダの両親の元を訪れていた若者から、子供の頃の語り手が知らなかった母親の癌治療のことを知るくだりだ。何故その年の夏休みは毎年行かされていた祖父母の元に行かなかったのか、その謎が解ける。一族のなかでただ一人物語を語るプロ――「僕が唯一の語り手のはずだった」という確信が揺らぐわけだ。

最後の「苦しみの高貴な真実」は、書くことについてとりわけクリティカルな意味を持っている。作家となった語り手が、ボスニアを訪れたピュリッツァー賞受賞のアメリカの作家と知り合い、実家に招く。マカリスターというおそらく架空のその作家と家族との会話は、その後マカリスターの作品に使われる。しかし、そこでは語り手はヴェトナムで戦死した兵隊となり、父から息子は優れた作家かどうかを問われたことが戦死した息子はすぐれた兵士だったか、という問いに変換されている。作家らしい体験の「翻訳」といえるここで小説は終わっており、印象的ながらもこの事態の意味はよくわからなかった。なるほどと思ったのは藤井光の移民作家の小説における「翻訳」についての論文で、ここではボスニアの作家としての「僕」とその家族の物語が、ヴェトナム戦争というきわめてアメリカ的な物語のなかに収奪されていると指摘する。(藤井光「オリジナルなき翻訳の軌跡 ダニエル・アラルコンとアレクサンダル・ヘモンにおける複数言語と暴力性」(「文学」2016年9、10月号))外と内の構図はこうして、書くことと書かれることへ変奏される。

「天国への階段」や「すべて」での文学、書くことへの憧れから始まった本書は、作家になってから「アメリカン・コマンドー」の信憑しがたい自分語りとともに家族のことを他人から聞く語りの死角に直面し、父の原稿を読む側になり、そしてマカリスターによって書かれる側へと送り返される。連作のような短篇集は全体としてそういう構成になっており、本書の「愛と障害」という表題はおそらくはこの文学をめぐる表と裏を指しており、そこにあるいはサラエヴォ包囲という壁のモチーフが滲んでいると読むこともできなくはない。

書くことを主題化したものとしては『ラザルス計画』が特にそうらしく、これがよく代表作だと言われているので訳されないかな。

他のヘモン関連書籍

以上三冊で既訳書は全部だけれど、短篇が他に一つ訳されている。

柴田元幸選『昨日のように遠い日 少女少年小説選』、には未訳の第一短篇集『ブルーノの問題』から「島」が柴田元幸訳で収録されている。子供の頃に伯父の住む島を訪れた夏の日々が、断章形式で小さな記憶にも触れつつ描かれている。ここにもウクライナからボスニアに養蜂を持ち込んだのは自分たちの一族だという話や、スターリン時代にアルハンゲリスクやシベリアに送られ、誰彼が殺されたという経験を聞いたりする。同一の短篇が「島々」という題でこちらに訳されているらしい。

また、ヴィエト・タン・ウェン編『ザ・ディスプレイスト』という多数の難民作家が「場所を追われた者たち」について書いたエッセイ集に、「神の運命――ボスニアからアメリカへ」という一文を寄せている。これは自分の体験ではなく、内戦時にあるムスリムの男が収容所に入れられ、そこを脱してさらにアメリカまで来た壮絶な物語を聞き書きしたもの。兄を殺されたこと、同性愛者だったこと、逃げる途上で守護天使を見て、そしてアメリカに渡って、同性愛者として宗教コミュニティから排除された経験を語る。この本自体がトランプ大統領が生まれたことをきっかけに企画された本で、このエッセイにも「ぼくはイスラム教徒で難民で同性愛者です」「トランプの完璧なターゲットですね」という言葉がある。

早稲田文学2014年冬号」には都甲幸治との対談が掲載されている。『私の人生の本』刊行にまつわるもので、ナボコフの影響とともに学士論文の対象にしたというジョイス、そしてダンテなど「構築的」な作品の影響を語っている。その都甲幸治の主に未訳の本の紹介をした書評集『21世紀の世界文学30冊を読む』に、『愛と障害』(『愛と困難』と試訳されてる)、『ラザルス計画』の書評が載っている。同著者の『生き延びるための世界文学』では、第一短篇集『ブルーノの問題』の書評があるので、特に未訳の作品についてはこちらを参照するのが良いと思う。

柴宜弘、山崎信一編『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』

参考に読んだもの。明石書店のおなじみのシリーズ、エリア・スタディーズの一冊。多民族共存の象徴的な土地が民族主義の煽動によって分断され、ボスニア内戦に至り陰惨なイメージに彩られてしまったこの国の歴史と、現在さまざまな融和への取り組みを取り上げる。

ボスニアユーゴスラヴィアのなかで唯一多数派民族のない地域名称による構成共和国で、そのために「ユーゴスラヴィアの縮図」とも呼ばれていたという。多民族共存だからこそ、民族主義の煽動が深い民族間暴力に至ってしまったわけで、隣家の住人に家族が殺された類の記憶はそうそう癒えるものでもない。内戦や民族浄化によって、混住していた地域も棲み分けが進んでしまっており、地域のみならず学校においても一つ屋根の下で二つに分かれて授業を受ける光景が日常となっている。政治においても民族主義的な政党が有力で、この分離傾向と融和の理想のジレンマが本書では様々に論じられている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはデイトン合意によって、セルビア人のスルプスカ共和国と、クロアチア人とボシュニャクボスニアムスリム)のボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦という二つの政体によって構成される連邦国家として再出発している。しかしながらクロアチア人の政体を求める声も依然強いという。デイトン合意については、内戦を終わらせることには成功したけれど、国家を自立させることには失敗した、という言い方がされてもいる。新憲法の制度的不備があっても合意の一部なので見直しが難しいことや、国際機関、上級代表事務所が持つ強い権力が国内政治の空洞化をもたらしてもいるという。

多民族共存の地が二十世紀に入って二度にわたる民族間暴力にさらされた歴史をたどりながら、政治、文化、社会の様相を各章コンパクトに述べつつ、概説的な全体像がイメージできる。ボスニアはボスナ川に由来し、ヘルツェゴヴィナというのは「公(ヘルツェグ)の土地」に由来するらしい。ソール・ベローの『ハーツォグ』というのも同語源だろうか。意外なことに一章、角田光代が書いてたりする。

現代文学を扱った章でヘモンについても触れられており、ヘモン作品で少し出てきた伝統音楽セヴダ、セヴダリンカについても一章あてられている。

初の短篇集とか創元日本SF叢書とか、最近読んでた日本SF

最近読んでた日本SF。溜めてたなかでも最近の作家多め。創元日本SF叢書はある程度フォローしておこうと思って読んだので、ここでデビューした作家の一作目はひとまず全部読んだかな。この記事を上げてすぐ新しいのが出るけれども。創元SF短編賞受賞作は年刊傑作選に載るのでそれを手始めに単行本を読んでいると、ハヤカワからデビューした作家は全然読んでない……。

大森望編『ベストSF2020』

創元から版元を変え、編者一人となって継続された年刊日本SF傑作選新シリーズ。漫画や希少作を入れるなどバラエティに富んだ創元版に対して、こちらは長さや所収書籍が出たばかりなどの配慮をせず上位からできうる限りベストを選ぶという方針になった。今作の400ページ程度のも密度が高くて良いしどっちが良いかは難しい。収録不可だった伴名練作は既読だったので事なきをえた。石川宗生と陸秋槎、草上仁は既読だったけど再読。ベストはオキシタケヒコ「平林君と魚の裔」だろうか。やはり力作の陸秋槎「色のない緑」と飛浩隆「鎭子」が印象的。

「平林君と魚の裔」は『原色の想像力2』収録作の続篇で、そっちも面白かった覚えがあるけど、こちらはまた出色。ユーモラスな宇宙SFの体裁で話を広げつつ、銀河通商圏全体を支配する図式が露わになって地上と宇宙を意外な形で接続しながら、コミカルなオチに繋げる快作。風呂敷の広げ方とたたみ方が良い。

「色のない緑」は前は説明過多かなという印象があったけど、再読すると意外にすらっと読めて前の時より印象が良くなった。人工知能の判断の問題を指摘する論文を人工知能が判断できるのかという、ブラックボックスから人間が疎外されていく悲劇をタイトルの解釈と絡める。また新型インフルエンザによって繁華街が衰退し社会状況が変わっていく様子が描かれている、ひどく予見的な部分は再読するまで忘れていた。今回、巻末参考文献に「コロナ社」とあるのについ目が行った。

飛浩隆「鎭子」は不妊と幻想のなかの破壊と再生、そして緑を絡めて重層的でにわかには解釈が定まらない作品で、これが「天皇・平成・文学」に寄せられた理由もちょっとわからないところが多い。皇室の後継者問題と皇居とその植生ってことなんだろうか。経済的侵食、というところもあるか。「森は部分的には崩壊するのだろう。そして別の部分がしぶとくみにくく生き延びるのだろう。でも、もしかしたら意外と美しいものになったりするかもしれない」(419P)、という部分に不妊二人の組み合わせが描かれることの意味があるような気もする。

空木春宵「地獄を縫い取る」はポルノをめぐる地獄を描いて力作だと思うけど、ちょっと気になるところもある。児童ポルノを取り締まるための囮作りがそのまま性犯罪者的な詭弁に取り込まれてしまう様子を描いてもいて、序盤で大人と男を使い分けている箇所があってこれは、と思ったらやはり、性表現問題で論者が作者や読者を男と決めつけるセクシズムの発露のような問題を指摘するところはわかるものの、女性同士の話にすることで問題の相対化になりかねないともいえるので。セクシズムに合流してしまう「フェミニズム」の問題は私も何度か書いたことがあるんだけども。

円城塔「歌束」は短歌を湯通しすると新たな姿を見せる、という不可思議な言語遊戯を描いた良い話。岸本佐知子年金生活」は一発ネタではあるんだけど、未来社会の描写に多和田葉子の『献灯使』っぽさがある。草上仁「トビンメの木陰」は再読だけどやはりキレ味があって改めて良い。これ、後書きから読む読者がいるからと配慮したように思わせてかなり本篇のネタバレに近い話をしてくるのが面白い。片瀬二郎「ミサイルマン」はモルゲッソヨこと弾丸マンを思い出した。外国人労働者をこき使うことへの諷刺ではあるけど、「スリーパーセル」的排外主義ぽくも見えてしまう。

創元版だとあんまり印象に残らないのや大家のものなど時にどうもなと思うものもあったりするけれど、新シリーズは密度は高い。その年のSF概況や推薦作リストなども参考になる。もう一つ短篇集が出るので許諾出なかったヤツは、どれだろうなあ。

宮内悠介『超動く家にて』

バカSFと言えるタイプの作品を多く集めた短篇集。元々作者はミステリ志望だったとのことでミステリネタも多く、それゆえか作中のゲームも、また小説の語り自体も「ルールに則ったゲーム」の様相を呈している。これは科学法則を扱うSFと同根なのかも知れない。思えばデビュー作『盤上の夜』はその名の通り盤上遊戯を題材にしたものだったし、ミステリこそ書き手と読み手のルールに則ったゲームに他ならない。ヴァン・ダインの二十則で一篇書いた「法則」もあるけれど、とりわけ表題作と「星間野球」にそうしたゲームの要素が色濃い。

「超動く家にて」は一ページごとに叙述トリックを仕込むことを心掛けたと言う通りのめまぐるしい荒唐無稽な一作で、マニ車のイラストの二段構えのネタには思わず吹き出してしまう面白さがあるんだけど、叙述トリックはつまり明示した部分以外でいかに読者を騙すか、という方法で、「星間野球」での、野球盤をめぐって盤上と盤外、そしてルールに明示された文言を逆手に取る激しい騙し合いがなされることとほとんど同じ事態を描いている。驚くべきは「星間野球」が最初『盤上の夜』の最後の一篇として書かれたということで、確かに盤上遊戯だけども……。

冒頭の「トランジスタ技術の圧縮」もエクストリームアイロニングから発想したんじゃないかという荒唐無稽な競技=ゲームをめぐる一作だった。「ゲーマーズ・ゴースト」は作中に出てきた要素がそれぞれ捨てるところなく上手い具合に繋がっていく構成が良いし、そこにやはりゲームが出てくる。そういう意味で本書は作者のミステリ、SF、小説の根底にゲームがあるのではという作家的資質の一端を垣間見せているようにも思う。作風の多面性を見せつつその根底にある一貫性。本人が麻雀プロ志望からプログラマーをやっていたという経歴もなにか根っこで繋がっている気がする。

そのほかでは「アニマとエーファ」も非常に良かった作品で、アデニアという小国の失われていく孤立言語で物語を作成する自動人形を題材に、抵抗組織や革命などの騒乱のなか、生き延びた人形が物語を綴り続けることで言葉を守り、物語と人間との関係を描いていて、短篇として良い。

全てがそうではないけれども、内容、語り双方の意味で「ゲーム」小説集とも言えそうな一冊。単行本で持っていたのが読む前に文庫化してしまった。文庫の方でちょっとオマケがあると聞いて、本屋でどこだろうとしばらく探してしまった。

宮内悠介『カブールの園』

著者初めての純文学作品と銘打たれた一冊。表題作はアメリカの日系三世の女性が大戦中祖父母がいた日本人収容所をめぐる歴史を知ることを通じて母との関係を描き、併録作「半地下」は親のない姉弟がいかに生きるかを描いており、ともにアメリカの日本人を題材にしている。

「カブールの園」は芥川賞候補になったもので、日系三世の主人公がいじめられていた過去の克服を目指すVR心理療法、世界中から音楽のリミックスができるアプリ開発、そして第二次大戦中の日本人強制収容所に祖父母が収容されていた歴史や、母も日系人故の差別を受けた経験をたどり返す。「わたしは虐められていただけ。人種差別なんて受けていない! 断じて!」(69P)というセリフにあるように、自分が日系人差別を受けていたのではなく、豚のように太っていたから虐められただけだ、という否認が語り手のウィークポイントでそれがタイトルに絡む。親に語った架空の学校生活や、自分は虐められていただけという虚構の否認を辞め、日系人としての自分自身を再認し、人前でもあえてアジア人として自分を押し出し、「虚構のオリエンタリズム」を自ら演じることで生きていくことを覚悟する、虚構の活用によって自己を肯定するラストは良い。その途上、日系アメリカ人の出した同人誌のなかで、「アメリカの日本文芸は一代限りの、それは悲痛極まりない行爲である」(77P)、という子供が日本語を知らない状況を論じた「伝承のない文芸」という文章についても触れられており、日系人の文化の断絶も描かれている。ハーフやクオーター(と硬貨)を連想させる冒頭の分数やテーマと絡まる現代的電子ガジェットの配置、差別されていたことへの否認から改めて日系人としての自身の歴史を知り、母との和解へと至る物語など、良くできているし面白くもあるけど、どうも物足りないという印象もまた強い。

芥川賞を取れるような作品をきっちり仕上げてきた気はするんだけどそれゆえかよくできてるって感じが先に立つ。その点では22歳の時に書いた作品を改稿したという併録の「半地下」が、小説としては素朴なようでも非常に強い感慨を与える作品になっていてむしろこちらに好印象を持った。アメリカで父が失踪してしまい、まだ幼い姉弟が身寄りのない状況に陥るんだけれど、そこでプロレス団体の社長に拾われ、姉は異色のレスラーに、弟は学校に通うことになる。そういうちょっと突飛な設定があるけれど、むしろ日系人の少年が過ごした少年時代の様子を細かく描くことに力点がある。姉がプロレスで稼ぐことを「彼女の民族性を切り売っての金なのだ」(178P)、という場面がある。プロレスという虚実皮膜のショーによって少年は生きており、そして姉の事故が少年に自分はフィクションの上に積み上げた足場の上にいた、ということを痛感させる場面は「カブールの園」と通じるテーマがある。フィクションによって生きている、ということが露呈する瞬間が二つの作品に描かれており、それは「英語が自分の中の日本語を追いつめ、日本語が自分の中の英語を追いつめる」(191P)、「英語と日本語の戦う戦場が僕だった」(192P)、という分裂のなかにある存在と必然的な関係があるのだろうか。著者自身、10年ほど「半地下」と同じニューヨークに暮らしていたらしくその経験が投影されているようにも思うし、そういう「私小説」的な読み方を誘う点で、じつはこちらのほうが「文学」ぽいかも知れない。しかし確かに作者の生々しい何かが出ているように感じられるのはこっちだ。

芥川賞は落ちたけれど三島賞を受賞している。そのさい、選考委員からは「半地下」の評価が高く、二作揃った『カブールの園』という一冊に対しての授賞だ、という話があったのは自分も同じ意見だった。

円城塔『シャッフル航法』

今んとこ最新の短篇集。ひとことではなんとも言いがたい独特のロジックによって組まれた別の世界のありようを描き出す文章はこちらの認識を絶妙にひび割れさせる。段落の字数が一文字ずつ減っていく「φ」や、文章がシャッフルしていく表題作の実験性も派手だ。

数学や物理や情報理論とか由来に見える理論の異質さを小説に具体化したような印象があり、そういう奇譚として読んで面白いしそれで良いかなとも思うんだけど、改めてこれは何を書いてるのかと思い返すとなかなか難しいなということを読みながら思っていた。しかし「犀が通る」の序盤に、自分が決して店員の某さんに名前を呼びかけることはないだろうな、という記述があって、その後にさまざまな名前のバリエーションを空想するところは奇妙に印象に残っていて、この別様の可能性への意識がそういえば強く感じられるなと。SFというのは元々そういうジャンルなのでそれは当然でもあるだろうけれど、「(Atlas)3」の「複数の主観の間に膨大な不整合が存在していることが知られるようになった世界」というのも、ラファティのある短篇を思い出させる、自分の見ている世界が全てではない相対性の認識の契機というか。

本書ではいろいろな形態の知性、人間、世界が描かれている。ヴァリアントと言う言葉が何度か出てきたと思うけど、表題作のように一つのものが複数化して分裂していくというモチーフも、この世界がいまこのようにあることへの不思議さ、ということの表現の一つだろうかとも思える。この世界が一つだと言うこと、私が一人だと言うこと、その別様のあり方をたどるとたとえば「Printable」のような世界が生まれる。読んでいて、ベケット『モロイ』の有名な末尾、「真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった」を思い出す。この二つの矛盾する文章のその間に作品世界が生まれているように感じられる。そうした世界とは何かを認識するインターフェースを攪乱させるのが文字の操作、という気もする。あり得ないものがあり得る世界を構想するような設計といえば、陸秋槎「色のない緑」がそういえばそういうつくりだった。

柴田勝家アメリカン・ブッダ

著者初の短篇集。話題作「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」や南方熊楠孫文が出てくる『ヒト夜の永い夢』前日譚その他、災害でVR世界に退避したアメリカ人に語りかける仏教徒の「インディアン」を描く表題作など、民俗学とSFを掛け合わせた作風が基調。

しかし評価の高い「雲南省スー族~」はするする読んでいたら終わってしまったという印象。生まれた時からVRゴーグルを付けて生きる少数民族のドキュメントという形式なんだけど、取っ掛かりを固めたところで終わったような感じでピンとこなかった。何か読み逃してるんだろうか。

最初で不安になったけどそれ以降は楽しい。実在の岩手の粒子加速器を題材に、未来の自分が危険を教えてくれるとある女性の人生を描いた「鏡石異譚」、壁に塗り込められた死体が次々に出てくるホラー「邪義の壁」、物語をウィルスとして扱う「検疫官」などがあるけど、面白かったのはロンドン時代の南方熊楠孫文が探偵役の「一八九七年:龍動幕の内」と表題作かな。探偵ものはやはりキャラが強ければ強い。「検疫官」は年刊傑作選で既読で、その時はあんまりと思ったけど改めて読むとそんなに悪くないと印象がちょっと変わった。空港の使い方がいい。

アメリカン・ブッダ」はウィルス禍でアメリカが衰退し、多くの人がVRの加速した世界に住み始めて長年が過ぎ、ある時仏教を信じるインディアンを名乗る男がVR内部の「Mアメリカ」の人々に語りかけるという一作で、ジャック・ロンドン『赤死病』×イーガン『順列都市』とも言えるか。交流が途絶したインディアンを残してVR世界に退避した、建国以来のアメリカの侵略の罪の問題なんかは、Uブックスの『赤死病』収録作の黄禍論的な背景を先住民側から逆照射するものとして読むこともできるだろう。VR感染症のテーマが時事性を踏まえつつ加速時間の大ネタに逢着するのはなかなかの技で笑った。仏教徒のインディアンを名乗る民族が「ポモ族」の一部とされてる、って部分はポストモダンの略なのかなと思ったら実在する部族だった。

柞刈湯葉『人間たちの話』

書き下ろしやデビュー以前のウェブ投稿作品までを収めた著者初の短篇集。冬に閉ざされ北国仕様に改造された生物たちの生きる未来や、『1984』のパロディ、宇宙のラーメン屋台、部屋に現われた巨岩の話のほか、人間と地球外生命との関係を描く表題作が特に印象的。

「冬の時代」は雪に包まれた未来を描くポストアポカリプスもの。作者が椎名誠『水域』オマージュだと述べていて、私は未読だけどなるほどみんな大好き不思議生物環境を旅する話だ。水、氷ときてもう一方には暑熱のオールディス『地球の長い午後』を思い出す。「たのしい超監視社会」はオーウェルパロディで、監視社会をストレスフルなものではなく、監視相手と友達になったり相互監視に報酬をもたせることで、積極的に監視社会に協力する状況を設定してみるもの。明るいディストピアアイロニー。強権的な監視社会のその後の姿、かも知れない。

「人間たちの話」、地球外生命とは何かという問いを表題通り「人間たちの話」として描いていて本書でも一番良かった。なにより、「地球のすべての生物は、およそ三八億年前に生まれた単一の細胞の子孫である」ということへの驚きと不可思議さというのは私も抱いていたものだったからだ。それと共感性に欠ける主人公の科学者と親に捨てられた少年が科学の言葉でコミュニケーションをとれる関係が良かった。地球生命に他者はありうるか、という問い、他人と自分の共有しうるものと地球の生命の孤独を絡めて、表題の言葉が印象的に響く。

「宇宙ラーメン重油味」はちょっとレトロなSF風味があってどことなく草上仁的な軽快なSF短篇で良い。次の「記念日」はマグリットの同題作品を踏まえたもので、リアクションはほぼないながら部屋に現われた岩はじっさいに主人公の家族で看病してるっていう変な話。雑炊が勝手に冷蔵庫に入っていたというのもそうだけど、部屋にないと明言されてる洗面器がその後寝込んでる主人公の枕元に置かれていたりする。アポトーシスの話と絡んで彼の死を予期した岩が助けに来た話で良いのかな。なんとなく感じてたけど、方言らしい「うるかす」という言葉が使われてるしやはり北海道が舞台だろうか?

最後の「No Reaction」はデビュー前のウェブ投稿作品らしい。透明人間とあるネタを絡めた短篇だけど面白いところはネタバレになるな。ところで「人間たちの話」の次の「宇宙ラーメン重油味」で地球外生命が現われ、その次とは「記念日」は主人公が30歳で共通し、「記念日」と反応を返さないことで「No Reaction」が繋がり、この話のラストから後書きの冒頭が繋がっているように、明らかに短篇の何かの要素でしりとり、リレー的な仕掛けがあると思うんだけど意図されたものだとしたら「冬の時代」からも何か繋がりがあるかも知れない。

一度も年刊傑作選に収録されたことがないのでこれまで作品を読んだことはなかったと思うんだけど、前から積んでる『横浜駅SF』のほうもそのうち、と思っている。

宮澤伊織『裏世界ピクニック5』

百合ホラーSFシリーズ五巻目、鳥子の告白を経ての空魚のヘタレぶりを描いたり、見る者こそ自分自身のことが見えないと一人称視点の死角を生かしたり、ラブホ女子会のコメディからマヨイガで過ごす完結した二人を見つつ、最初の敵と再遭遇。

「ポンティアナック・ホテル」は鳥子に迫られるなか二人きりでラブホ女子会に雪崩れ込むのを阻止しようと小桜茜理夏妃を加えて五人で開催することになった顛末で、百合コメディとしてはたいへん楽しいパートになってて、説明の曖昧さのせいで夏妃のなかで空魚が性豪の印象になってるのが笑う。

裏世界で出会った犬と老婦人のエピソードの二人だけで完結している世界を作ってそこに暮らしているというのは、ある意味で空魚と鳥子にとってのロールモデルでもあるような形に見える。百合的にはやがて君になるの喫茶店の二人というか。犬と老婦人にしてちょっとずらしてるけど。衣装替えシーンの挿絵が欲しかったけどあの二人を絵にしないわけにはいかないな。狩猟で肉をゲットしたとして、紅茶とかはどこから手に入れてるのかと思うけど、マヨイガだから生活必需品も自然に湧き出てくるのかも知れない。八尺様が再登場したけど、もしかすると肋戸救出篇もそのうち書かれるのだろうか。謎が残ってるしそういう含みはある。

宮澤伊織『裏世界ピクニック6』

百合ホラーシリーズ第六弾、初の長篇ということで「劇場版」を意識して、寺生まれのTさんという突然現われ一喝して怪異を除霊してしまうギャグ的な存在が今作では裏世界との繋がりを切断される脅威となる話で、ストルガツキー兄弟の『ストーカー』の土台にレム『ソラリス』をやるという趣向を感じる。

前巻から引き続き空魚の他人に向き合うという課題が展開されているけれど、これは裏世界が恐怖という感情やネットロアという物語の形式の「インターフェース」を通じて人間とコンタクトしようとしている『ソラリス』的テーマとも繋がっていて、空魚も裏世界も人間との向き合い方を探っている。百合が俺を人間にしてくれたという作者の有名な言葉があるけれど、そうした人間と向き合うことというのをその「百合」を通じて展開していくところに作者にとっての必然性があるんだろうし、それがハマった実話怪談を通じてなされるところにも作者の恩返しという側面が窺える。恋愛が絡む鳥子とは別に友人・仲間の茜理との関係も重要、という感じ。他人に興味がない人間が自分がハマった多くの物語あるいはフィクションを通じて他人との回路を探っていくというのはなかなかオタク的なコミュニケーションとも思うし、空魚の言うことには私も読んでてめちゃくちゃ身に覚えがある。

アパートの地下の「ちくわ大明神」みたいな突如無関係な言葉が挾まるのにスルーする会話が結構怖かった。ドゥルーズとかラカンとか引用する文化人類学のくだり、ツイッターでバズってたのを読んだ覚えがある。しかしまあ読んでると茜理のセリフに富田美憂の声がめちゃくちゃ聞こえるようになったし、あんな子供みたいななりなのに大人をやろうとする小桜さんが素敵でしたね。少女を追いかける場面、デ・キリコの絵のような雰囲気を感じた。

藤井太洋『公正的戦闘規範』

商業誌デビュー作から伊藤計劃トリビュート、書き下ろし作品等を収めた著者初の短篇集。システムエンジニアSFというかAI技術が進んだ直近未来を舞台に、テロ、植民地、保守革新分裂のアメリカなど、さまざまな分断をコラボレートしうる技術のありようを探る。

Gene Mapper』のスピンオフ「コラボレーション」のインターネットが途絶した世界にしろ「第二内戦」の保守とリベラルに分断されたアメリカにしろ、大きな分断とそれを媒介する技術というモチーフが通底している感触がある。技術の弊害といかに活用しうるかとも言い換えられるテーマ。

表題作「公正的戦闘規範」は伊藤計劃トリビュートとして発表された、中国のゲーム会社に勤めるウィグル独立派を鎮圧する部隊にいた男を主人公として、東トルキスタンイスラム国、というテロ組織によって殺戮ドローンがばらまかれた世界をいかに「公正」にできるかを描いている。主人公の名前「趙公正」は天安門で公正を叫んだ父の願いが込められているという由来がある。伊藤計劃トリビュート参加作家繋がりの仁木稔『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』が「戦いの物語を創作することで、世界の暴力性をコントロールする興業化された戦争」を描いているのを思い出した。

表題作と世界観を共通するらしい「第二内戦」は、テキサスを中心とした州がアメリカ自由領邦として独立してアメリカが二つに分断され、領邦では自動機器の使用禁止や銃を全市民に貸与する保守的な社会となっていて、この領邦での金融取引にかかわるプログラムの違法使用を調査するために潜入する。コンピューターを体内に内蔵した探偵がアナクロ社会に潜入するSF冒険小説の面白さがありつつ、「巡回セールスマン問題」を解決するAIの技術がもたらすものを描く点では「常夏の夜」とも題材を共有してて作品集としての連続性が高い。ただ、アンナのリベラルの高慢さについて掘り下げが欲しかったか。

読んでてこの本はこういうことだ、という言葉を思いついた記憶があるんだけど一晩寝たら忘れてしまった。何だったんだろう。しかし表題作で「ピックアップトラック」が何度か言及されるの、伊藤計劃が「藤原とうふ店」ぽい車出すネタオマージュだと思うんだけど、ネタがわからない。

高島雄哉『ランドスケープと夏の定理』

創元SF短編賞受賞作とその続篇二作による「知性定理」をめぐる連作集。解説にあるように知性の相互不理解を描くレムと反対の、知性は相互に理解可能なだけでなく未来の理論を現在にも持ち込めるという超理論をベースにどでかい風呂敷を広げまくる理論派SF。

この知性定理をベースに、ラグランジュポイントに浮かぶ実験施設で小さな別の宇宙を捕まえてそれを計算機にしたり、主人公から分離した仮想人格を妹っていうことにしたり、姉の仮想人格を兆の単位に増殖させたり、アニメのSF考証などをやってきた作者らしい派手なアイデアがバカスカ出てくる。

理論を理解できてるか怪しいけど、相互に理解可能で時間的先後関係も乗り越えられるとなると、知性・理論とは非常にメタ的な何かになる、というか逆にそういうものとして知性を定義しているのかも知れない。また、小さな別の宇宙を研究室に保持して、それを計算機として使うっていうアイデアがあるんだけど、これってその宇宙での物理法則の働きそのものを計算として捉えてる感じだろうか。私たちの宇宙でたとえばものを落とした時、重量物をある空間に置くことを入力として、落ちて地面にぶつかってとまる、というのが演算結果というか。宇宙という計算機。そういうアイデアSFの濃度とともに、世界的天才の姉に使われるシスコン弟と、傍若無人なブラコン姉、自分の分身の妹とかなんかそういうラノベ感ともまた違うオタクっぽさのあるキャラ造型で進んでいくところも特色だろう。知性を希望として捉える志向が印象的な一作。

ただ、結婚して何の疑問もなく妻や子が夫の姓になる箇所は気になった。グリーンランドが故郷とあったけどデンマーク国籍だとしたら夫婦別姓制度はあるし、あえて同姓にしたのかも知れないけどそこら辺何も書かれてなくて、日本での感覚のまま書かれてるようにも見えた。

門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』

創元短編賞受賞作「風牙」を始まりとする連作集の単行本から新規に四篇追加して二冊に再編集された記憶翻訳者シリーズ第一巻の一つ目。過剰共感能力と記憶翻訳、疑験都市といったSF設定のなかで記憶と感情という私と他人の境界をめぐるドラマが描かれるSFミステリ。

過剰共感能力とはミラーニューロンの働きの過剰で他人の感情を自分のものと混同してしまい、強度のものでは自他の区別がつかなくなる。共感ジャマーによってそれをコントロールした主人公珊瑚は、その共感能力によって人の記憶を他人にも読めるように翻訳する技術のエキスパートとなった。本作はその珊瑚の勤める会社九龍が開発している記憶翻訳技術やさまざまなファンタジーの住人の体を体感できる仮想の世界といったテクノロジーのうえで巻き起こる事件の謎を探っていくSFミステリといえる。記憶翻訳と疑験都市というアイデアによって私と他人のほかさまざまなアプローチがある。

デビュー作「風牙」は、死期が迫っている九龍の社長不二が昏睡し、その記憶に潜っていくことで彼の昏睡の謎と愛犬との思い出に触れる犬小説。過剰共感能力が他者を自己と混同してしまう「閉鎖回廊」と、未完成な技術のせいで自分の記憶が自分のものと感じられなくなった「いつか光になる」は記憶と自他の区別をめぐってまさに対照的なテーマになっていて、後者が新しく書かれた必然性が明確だ。「いつか光になる」の作中作が「いつか私になる」(「やがて君になる」を思い出させる)と題されているのは、記憶と感情という私の根拠をめぐるものが曖昧になるところにドラマがある所以。過剰共感能力という障碍で人生にさまざまな欠落がある人たちと、技術によって得たもの得ようとしたもの得られなかったものについて、事件の謎と心の物語が重なった普遍的な魅力のあるエンターテイメントになっている。

しかし、共感能力が他人の感情を推測ではなくテレパシーのように直接把握できるという根幹設定はやっぱり説明できるロジックがなかったのか気になった。ここを飲み込まないと話が進まないけど。関西弁で喋り倒す主人公は別人の視点の時切り替えがわかりやすいのはなかなかの利点。あと記憶翻訳と疑験都市という二つの主要設定が似ていながら実は微妙に違う感じがして話としては面白いけど設定が頭のなかでなんかうまく繋がらない感じがある。

門田充宏『記憶翻訳者 みなもとに還る』

記憶翻訳者シリーズ第一巻その二。作中の団体が自己と他者の区別のない起源への帰還を主張するけどそれはまんま本作の主軸の逆になってて、本作は親子、つまり人間が生まれること、私という存在が他から確立されて生きるその時間をめぐる物語になっている。

「流水に刻む」は疑験都市に現われた正体不明のいたずら少年をめぐる親子の物語で終盤では最近も現実に起きた出来事を思い出させる。これが父子関係だとすれば「みなもとに還る」は母子関係の話になってて、死後の生をめぐっても照応関係があるか。みなもと、には親子関係の意味も感じられる。「虚の座」は珊瑚の父の罪の物語で、ここではあまり終わった感じがなくて原本の『風牙』だとこれが最後になってたのはシリーズの区切りとしてやや収まりよくない感じだから本書で後日談を加えてあるのは良い。それでも不二や父のことなど、あまり区切りがついた感じはないけど二巻目は既に出ている。

長谷敏司の『風牙』版の解説は文庫版とは違ってて、表題作について猫に後れを取っている犬SFのオールタイムベスト級の傑作だといい、身近な異種知性としての犬の素晴らしさを熱弁する様子が読めるので一読の価値がある。

松崎有里『イヴの末裔たちの明日』

創元日本SF叢書で「短編集」と副題が付くのは連作形式でない短篇集のことかと思うけど、本書の幾つかの作品には直接の繋がりがあったりする。多くが男性を主人公に科学的好奇心を主調としながら、表題作と最後の作で女性の側から応接する構成が印象的。

最初の牢獄でタイムマシンを作る「未来への脱獄」はややピンとこなかったけれども、次の「人を惹きつけてやまないもの」は120ページほどの中篇で、言ってみればサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』と『暗号解読』を「ビール(予想or暗号)」の一語で繋げたような構成を採る。「ビール予想」を解こうとする21世紀の数学者パートと、ビール暗号を解こうとする19世紀のトレジャーハンターという直接繋がらない両者を交互に語りながら、謎の解明に突き進む男の業を描いててとても読ませる。シンの両著を読んでるとあの話か、とわかりやすいし逆にここからそっちに行く手もある。ただ、未解明に終わる上21世紀パートはUFOが現われ話が発散的になって、オチがつく話にはなっていない。

その次の表題作はAI技術の発展によって多数の人間が技術的失業に陥った社会におけるフィクションとしての生きがいを描いたもので、古典的なようで現代的でもある好SF短篇といった感じ。「まごうかたなき」は古い日本を舞台に、人を食う怪異を退治するために立ち上がる村人たちと、彼らに武器を提供する介錯人を描いたもので、短篇としてまとまりは良いけどここに収録された意味はなんだろう。そして「方舟の座席」は、表題作のタイトルの由来は今作にあるとも思える一作。

ここで明示しないけど直接繋がりがある諸作以外にも、最後まで読むと最初に「未来への脱獄」が置かれているのも短篇集としての意味がきちんとあるように見える。


しかし「人を惹きつけてやまないもの」に出てくる、ABC予想の証明のために作られたという宇宙際タイヒミュラー理論、以下のような代物らしい。

宇宙際タイヒミュラー理論は手強かった。ここでいう宇宙とは数学を行う舞台である。通常の数学はひとつの宇宙内ですべて完結するのがあたりまえで、そこに疑問を呈した者はこれまでだれもいなかった。ボーヤイとロバチェフスキーが独立に非ユークリッド幾何を生み出す前はだれも平行線が交わる可能性など思いつきもしなかったのと同じである。宇宙際タイヒミュラー理論 では複数の宇宙を設定し、問題を解くためにその宇宙のあいだを行き来する。宇宙際の際とは、この行き来することを意味する。学際領域などというときの際と同じ用法だ。(98P)

この証明のために異なる宇宙を行き来するという突飛な手法、これ完全にニンテンドー64マリオストーリーを最速クリアするのに電源入れたままゼルダの伝説カセットを抜き差しするやつじゃない? 発想おんなじじゃない? ゲームのリアルタイムアタックやめちゃくちゃなやりこみはその世界の理を追求する点で物理学に似てくるとはよく思ってるんだけど、ABC予想の証明とマリオストーリーの攻略で似た発想に出会うとは思わなくてかなり驚いた。専門的には全然違うよっていわれそうだけど。
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久永実木彦『七十四秒の旋律と孤独』

ロボットだけが動ける超次元航法の間隙の時間での戦いを描いた創元SF短編賞受賞の表題作と、その「マ・フ」というロボットが人間のいない惑星で自然を観測しつづける一万年のあと、人間と出会うことで巻き起こる事件を描いた連作を収める、螺旋的構成の連作集。

表題作の鮮やかさは以前にも書いたけれど、ここでのマフの名前や角笛という音楽的モチーフ、その他さまざまな描写が以後のマフクロニクル連作でも随所に異なった形で配置されており、序章のモチーフを変奏しながら始まりに戻っていくような印象を与えるものになっている。読めばわかるものから私も気づいてないものもあるだろうし、その詳細はここには書かないけれども、時間が経過するなかで人間とマフの立場がお互い入れ替わるように描かれながら、決まったことだけを続ける機械がさまざまな経験を経て変わっていくロボットと人間の関係がある。生命としての人間と、無尽蔵なエネルギーを内蔵する観測者としてのマフのズレを描いて、人間性の寓話のような古典的な趣きがある。

マフも口頭で喋るし体内機構の可換性もなくてそこは人間にも近い個性があったり、解説にもあるように人間の映し鏡のようで、事実その立ち位置は入れ替わっていく。螺旋というのはマフのエネルギー源でもあるけど、表題作のあとにこの言葉を加えることで全体の構成が組まれたのかな、というキーワードになっている。ロボットの設定など随所がレトロ調なところもあり、表題に感じられるように叙情的なSFという印象が強い。そして猫SFでもある。

石黒達昌冬至草』

書き下ろしとSFマガジンに出た一作以外は文芸誌に発表された作品で、うち一つは芥川賞候補作を収める異色の作品集。癌治療に携わる医者による医療・生物学SFと言える作風で架空の病気、現象をたどる面白さとともに戦争、北海道炭鉱の強制連行などの歴史も描き込まれている。

冒頭「希望ホヤ」は三十ページほどで著者の作風をさらっと示すような一篇で、神経芽細胞腫に冒され死期を待つばかりといわれた娘が、ある珍しいホヤを食べるとみるみる回復していき、父はそのホヤから抗癌作用を抽出しようとするけれども難航する。娘と人類を天秤に掛ける「悪魔」の話。

表題作「冬至草」は北海道で見つかった放射能を帯びる植物の謎を探っていく話で、その植物はじつは人の血を吸って輝く特性を持っていて、研究していた戦前の人間が血を与え続けてどんどん衰弱していった様子が次第に明らかになっていくという怪奇生物学SF。そこに戦前日本の朝鮮人強制連行の歴史や、兵器開発の一環として研究が認められたことで戦後に記録が残らなかった皮肉などもありつつ、「放射能を貯め込んで積極的に死を迎える生物の必然が分からなかった」という困惑を経て、冬至草の恐るべき可能性に到達する。

この二作は人間の行いで絶滅してしまったかも知れない生物を描きながら、癌という厄介な病や生物を利用した兵器という、医療にも兵器にもなる科学という営みの様相を描き出していくのが感じられる。

「月の・・・・」は、自分にしか見えない手のひらの月、という他人と共有不可能な狂気じみた幻想を主軸にしながら、他人の狂気のなかに潜む歴史を垣間見る瞬間を描いている。公園で出会う月が見えるらしい老人は認知症を患っている様子だけれど、うわごとのような言葉には満洲、戦争、捕虜、地雷といった言葉が散りばめられていて、戦争の傷跡が月の光のなかに照らされるのは表題作にも通じる。

書き下ろしの「デ・ムーア事件」は、「月の・・・・」を踏まえて書かれたような印象がある。自分にしか見えない火の玉という明暗入れ替わった現象を描いているのもそうだけれど、精神的な病気かと思っていたらウィルス兵器の可能性という方向に向かっていくからだ。狂気、病と戦争の要素は随所に窺える。

芥川賞候補になった「目をとじるまでの短かい間」は、都会から戻って実家の病院を継いだ医者の男が大腸癌で死んだ妻の検体を製薬会社からの引き渡し要求に応えないでいる日々、一人娘とともにさまざまな患者たち、あるいは死を間近に見ながら終末期医療の様子を叙景するといった塩梅の静かな一篇。

「アブサルティに関する評伝」は細胞増殖に関するノーベル賞級の発見を報告したアブサルティという科学者がその実、実験データを捏造していたことに同じ研究所で親しい間柄だった語り手が気づいて、という作品で、しばらく前の日本の事件とも酷似した内容でなかなか驚かされる。しかしアブサルティのデータ捏造に対する考えは言ってみれば確信犯、思想犯ともいえるもので、科学においては結論が正しければ過程はどうでもよいとする意見を持っていた。「科学を作った天才は、科学的思考に優れていたというより、むしろ直感に優れていたんです」276P。手続きと結果に対する考え方に真っ向から叛逆する思想犯としてのデータ捏造。科学の営みをさまざまに描いてきて最後にこれが置かれているというのは、その科学の営みそのものをいったん相対化して突き放してみせる仕掛けのように見えた。

日本で最高のSF作家に石黒達昌を挙げる石黒達昌ファンブログ管理人伴名練による傑作選が来月出るとのことで、本書からは三作が収録予定。私はまだ『人喰い病』と本書しか読んだことがないので紙では入手が難しくなっている作者の再刊は喜ばしい。まあ電子ではおそらく全小説が読めるんだけど。

最近読んだ本

倉数茂『忘れられたその場所で、』

東北の町で拘束・絞殺された死体が発見され、刑事が事件を追ううちに近代史のなかで忘れられた排除と暴力の歴史が浮かび上がる社会派ミステリ。著者が発表している七重町シリーズの三作目にあたるけれども、作風を仕切り直しているので主軸を楽しむにはここからでも問題はない。

端正な警察小説という感じで不可思議な殺人事件、意外な線から広がる背景、その名前はさっきどこかで……というのが繋がっていくミステリとしてのリーダビリティを持ちつつ、ハンセン病隔離政策の問題を拾い上げ、身体障碍者を弟にもつきょうだい児の刑事を主人公として語っていく。同じく七重町を舞台にした『黒揚羽の夏』、『魔術師たちの秋』に続く三作目で、これらも戦後日本の「過ぎ去ろうとしない過去」を扱っていたけれど、前二作はジュヴナイル幻想ミステリという風合いで子供達が主人公のシリーズだった。引き続き千秋と美和は登場するけれど、大人を主人公に仕切り直した形となる。

 「秋」が出たのが2013年で続きが出るのに八年掛かっている。おそらくこうしたテーマを語るのに少年達を主人公にしたままでは難しかったからではないか。連想したのは作者の前作『あがない』で、タイトル通りの過去の贖罪というテーマが、土地の歴史という七重町シリーズのそれと合流した形に見える。土地の歴史と主人公の過去の罪とを重ねる今作の構成こそがジュヴナイルスタイルで続きを書くことができなかった理由だろうか。私自身も読んでから八年経っているので前作の内容をほとんど忘れてしまっているけど、高校生になった美和の幻視や、大学生になった千秋の行動はそちらから続いている。夏、秋から続く「七重町の冬」とも言える今作だけれど、持ち越した内容からして「春」が書かれると見て良いのだろうか。倉数作品と言えば水のエレメントで、夏の水たまりや秋の書き出しにある水は今作でも雪として冒頭から現われ、地下に流れる水という不穏さの象徴としても出ていてやはり、と思った。

佐久間文子『ツボちゃんの話 夫・坪内祐三

表題通り坪内祐三と20年連れ添った妻が語る氏の人となりや生活そして人間関係が種々語られていて興味深いのとともに、還暦以来怒りっぽくなり喧嘩が多くなったという晩年に対して、楽しかったことを思い出してその印象の塗り替えるためにも書かれたという一冊。

夫への追悼でもあり、雑誌出身の坪内祐三と新聞記者出身の著者との双方の視点での出版業界の内幕でもあり、時に共同編集のようにもなってた二人の仕事の裏話や前妻との話。特に印象深い三冊に『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』『『別れる理由』が気になって』『文学を探せ』が挙がっていて、『『別れる理由』が気になって』は私も雑誌連載始まった時におお、と思って本も買ったのに小島信夫のほうを読んでからと思って10年以上積んだ宿題になっているのを思いだした。坪内祐三、断片や記事をちょいちょい読んでるけどまとまってはあんまり読んでこなかった。

独自のルールに強いこだわりがあり理不尽に急に怒り出すことがあるというのは著者も「器質的な」ものだろうという通りに思える。それと酒の飲み過ぎとかいろいろ。歯科医を除いて病院嫌いで自分から病院に行ったのは妻が知る限り一度だけ、というのはかなり危ういと思った。病院行くのを避けるために自分の不調も隠していたんじゃないかと思えるからだ。私の隣室に住んでいた老夫人から朝、夫が朝寝床で冷たくなっていたと言われたことがあって、奥さんは夫は病院にほとんど行ったことがない、と言っていたのを思い出す。そういう人は無理な我慢をして急に亡くなってしまう印象がある。

方向音痴が凄かったという話があって偶然の場所に行き着くことや、書店街を歩いていて偶然人と出会うとか、雑誌といういろいろなものが偶然出会う場所というのが重要なのかな、と思う。慶応三年生まれの同時代性とか、横の広がりへの関心。ゴシップ好きと人間オタク。英文科の修士まで行った人で、『変死するアメリカ作家たち』というのを未來社の「未来」に連載していたというのは知らなかった。明治文学の印象が強かったので英文学やってた人という印象がなかった。亡くなるときでも20の連載を抱えていたというのはすごいしそんなに書けるのはそれだけの読む量があるわけで読むのも書くのも遅鈍にすぎない私には到底想像しえない領域だけど、そんな彼にも私が一つ勝ってるところがあって、私はまだ折りたたみ携帯を使っているということです。

単著の一つもなく知り合いというわけではないはずの私に本書が献呈されたのは不思議だと思っていたけれど、文中の坪内氏の返礼を期待しない振る舞いを読むとなるほどそれに倣ったのかなと思うのと、夫のことを忘れないでいて欲しいという意味があるのかなと思った。面白い一冊でした、ご恵贈ありがとうございます。

G・K・チェスタトン『裏切りの塔』

「信仰と同じように、懐疑も狂気であり得ると考えたことはありませんか?」

中短篇四作と戯曲を収める南條竹則による新訳作品集。なかでも「高慢の樹」と本邦初訳の戯曲「魔術」の迷信や超常的なものを否定する合理性や理性の高慢を批判する長めの二作が面白かった。合理主義や無神論、科学主義的な思考が、一見不合理に見える現象という現実を拒絶して狂っていくもう一つの「信仰」ではないかと問う。

「高慢の樹」は奇妙な植物による怪異をめぐっての物語で、中篇の長さでなかなか込み入った展開をしていく密度のある一作。推理小説で理性を懐疑するという逆説が効いている。

チェスタトンの文章はなぜか普通の小説の倍くらい読むのに時間がかかるんだけど「魔術」は戯曲形式で読みやすい。妖精話を信じる姉とアメリカ帰りの合理主義者の弟という英米の構図に奇術師が絡んでその対立を描くんだけれど、御伽話をめぐって最後にハッピーエンドになるのがとても良い。「幻想的喜劇」という通りだ。「狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」という作者の言葉が解説に引かれている。

ほかに「剣の五」は息子が放蕩とギャンブルの挙句の決闘で殺された、というところからの真相の解明がちょっとしたロマンスに帰結するあたりはすっと読める。表題作はハンガリーの辺境にある「トランシルヴァニア王国」を舞台にしてるけど、この設定、「スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国」という国を作ったデヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』を思い出させるし、あっちの人もあそこら辺に架空の国作りがちなのがわかって面白い。

違星北斗歌集『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』

27歳で病没したアイヌ歌人の短歌のほか、俳句、詩、童話、その他散文や友人と作った同人誌一冊まるごとなど、さまざまな文章を山科清春の丁寧な註釈、解題、解説によって、北斗の思想的変遷のなかでの位置を把握できる決定版的な一冊。

『コタン』という遺稿集が過去数度出ていたけれど本書では編集を全面的に見直し、発表年月を付して時系列順に並べることを基本とし、さまざまな誤りも訂正したものになっているという。年譜も付された資料的価値の向上とともに「同化」についての解説など、現在のアイヌ差別への奪用をも批判する。大和民族=シサムから差別され、和人許すべしと燃えた頃から、親切な人に触れて態度を転換し、和人への同化ではなくアイヌとして日本人になるべく覚醒を呼びかけた思想的変遷がたどられた解説は必読。その思想を見ずに「同化」の一語で同化肯定派とするアイヌ差別者の理解がいかに転倒したものか。

北斗は「鮮人が鮮人で貴い。アイヌアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向かって伸び行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう」239Pといい、アイヌということを隠して和人化することを批判し、多民族共生の夢を語った。

短歌も、アイヌへの檄や和人批判、薬の行商人として歩いた経験を歌ったもの、病床の苦しみや、日記の最後にある「世の中は何が何やら知らねども死ぬ事だけはたしかなりけり」まで。

印象的な歌としては、副題にとられた「アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与へたく思ふ」がある。北斗の歌には「シャモと云ふ小さな殻で化石した優越感でアイヌ見に来る」「シャモと云ふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから」といった和人批判のものがあるけれど、そうした蔑視としての「アイヌ」を「よい概念」として内地に「与へたく思う」という優越感の切り返しが鮮やかに響く。

短歌のなかで音の面で印象的なものが一つある。「熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名附けし人もあります」。これは五七五七七じゃなくて五七七五七、になるのかな。普通の文章みたいな自然さなのに区切りが妙でなんだこれはと字数をいちいち数えてしまうようで面白かった。

ハンディで手に取りやすく周到な編集が施されていて、私もだけれど名前は有名なのに断片的にしか知らない、という人にも勧められる一冊になっている。

ロバート・シルヴァーバーグ小惑星ハイジャック』

64年発表の作者の初期の長篇。小惑星探鉱に繰り出した主人公が金になる鉱脈の星を見つけて帰ったら登記申請どころか自分の存在が記録から消される陰謀に巻きこまれ、という話を200ページ以下の分量で一気に語りきる古典的SF小説の佳品。

伊藤典夫訳ということではジャック・ヴァンスの『ノパルガース』も大家の短い長篇ということで思い出すもので、ヴァンスはB級感あふれる独特の一作だった覚えがあるけどこちらは短いなかに謎とサスペンスと出会いと別れというジュヴナイルの匂いも感じられるような良さがある。

SFファンにはエースダブルの片割れ(『ノパルガース』の後書きでも訳者はエースダブルについて語っている)として書かれたというとイメージが伝わりそうな、あえていえばベタで古い宇宙SFなんだけど、こういう新奇性があるわけでもないSFを読むのも楽しいなというのを思い出させてくれる。

ゴールドラッシュにもなぞらえられた探鉱に繰り出す、自由と一攫千金を夢みる男と帰りを待つ婚約者と、という構図で描かれる宇宙がアメリカSFを感じさせるけれど、巨大企業が世界を支配する姿に訳者は現代中国を示唆しており、主人公の独立と自由を求める姿に現代性を見ての訳出だろうと思う。

シルバーヴァーグ、実は長篇を読むのは初めてだったりする。『時間線をのぼろう』は積んでる。小説工場の異名を取る多作家で、あなたにはスランプがないのかと聞かれ、15分ほど書けなかったことがある、と応えたというエピソードには唖然とさせられる。

キジ・ジョンスン『猫の街から世界を夢見る』

ラヴクラフトのドリームサイクルものを下敷きにしたらしい世界幻想文学大賞中篇部門受賞作で、夢の国から逃亡した女学生を追う数学科教授の女性が世界を経巡る旅を描いて、世界を変える夢を見るフェミニズム小説にもなっているファンタジー

距離が一定ではなく空に星が97しかない、われわれにとっては「夢の国」の世界の街、ウルタールの女子大学で数学科の教授をしているヴェリット・ボーがある時、担当している女学生が「覚醒する世界」、いわゆる「現実」からきた男に連れられて向こうの世界に出奔してしまったことを知る。そしてヴェリットは女学生を探しに「夢の国」を縦横に旅し、さまざまな光景や危機に際しながら「覚醒する世界」を目指すことになる。いまや55歳になったけれども若い頃には危険を顧みずに世界を旅した経験があり、その頃のことを思い返しつつの再びの旅路は己の人生を顧みることにもなる。

本作はこうした異世界の旅を描いているけれども、「夢の国」と「覚醒する世界」のギミックなど、女性の不在を指摘されているラヴクラフト作品を女性の視点から読み換える意味があるように思われる。「いつになったら、女は男の物語の脚注以外のものになれるのか?」158Pとあるように。数少ない女子が通う大学が出発点で、数学科教授の女性が主人公で女学生が「覚醒する世界」へと出て行ったという始まりからしてかなりフェミニズムを意識しているのがわかるし、本作では夢見られた世界「夢の国」が気まぐれな神々が街を破壊したり父祖の因縁に囚われる固陋な世界としてある。そして邦題の「世界を夢見る」や原題のThe Dream-Quest of Vellitt Boeのドリームクエストというのは、夢の世界の探求というだけではなく、自由な解放された世界を夢見るという意味も込められたものじゃないだろうか。目覚める、というと啓蒙的な意味でも。

さらに、夢を見るというのはフィクションを読むことでもあり書くことでもあって、作者と同い年の主人公が若い頃の旅を回想しつつ旅しているというのは、ラヴクラフト作品を熱心に読んだ若い頃と今との関係でもあり、本作は小説を読むことと書くことを夢の多義性において書いた小説でもある。

私はドリームサイクルものの作品を読んでないけれども、幻想的な異世界を旅するファンタジー小説の面白さだけではなく、そうした夢見られた世界から覚醒する夢を見る現実との接続の面でもなかなか面白い小説だった。文字大きめで200ページちょっとの短い長篇のサイズ感も良い。

猫の街、カルカッソンヌって地名が出てくるけど、「ナイトランドクォータリーvol.19 架空幻想都市」でダンセイニとフォークナーのが訳されていたのを読んでたので、予習したところだ!ってなって、解説みるとなるほどラヴクラフトの初期作品がダンセイニの影響がある件の示唆なのか、というのがわかる。

玩具堂『探偵くんと鋭い山田さん2』

探偵の息子の高校生が隣の席の双子姉妹と探偵の真似事をやるミステリラノベ第二弾。てこ入れくさい水着表紙はどうかと思うものの日常学園ミステリでの相談者らの事情が主人公たちチームのありようにも重なり、死を近くに感じてしまうような虚無感のなかで前を向いて生きていく理由って何なのかみたいな思春期の悩みに焦点を当てて、三人のユニットがその虚無感を脱して楽しさを見出す場所になっていくのがかなりいい。

ネトゲのプレイヤーと会って誰がどのキャラをやっているのかを当てるゲームや、この高校の文芸部員だった教師が昔原稿を隠された事件の犯人は誰だったのかという謎、フォローしてるインスタグラマーが自殺しそうだというのでその人を探し出して止めて欲しい、という依頼の三つの事件が舞い込む。

どの話も総じて、前向きに生きていくことをめぐるテーマを持っていて、失意によって夢を奪われた経験から立ち直って新しい目標を見つけたり、生きている理由がわからなくなったり、あるいは誰かと一緒なら前を向ける、ということだったりの心情はすべて探偵ユニットたる主人公たちにも重なってくる。処世に長けた甘恵のほうがある種の虚無感を抱えているわけだけれどそれが主人公との出会いで「探偵」という楽しさを知ることができたというのは雪音のほうもまた「探偵」が自分の存在価値をめぐる試みとしてある、というのも青春小説だなって感じ。人の隠したい事情を追い回すことでもあるけど人に向き合う契機でもあるという感じに「探偵」を位置づけるのはわかるけど、謎は自然科学でもよくない?とは思う。まあミステリだしお悩み相談ものに近い設定ではあるから無粋か。ネット小説投稿サイトがカクヨムしか出てこないの笑った。

双子姉妹が存在するとそれだけで百合だっていうセンサーが反応してしまう。じっさい、双子だけどお互いへのコンプレックスやライバル感情のありようは結構そうだし姉妹との三角関係だしそれっぽくはある。公式ツイッターが二巻発売した翌月以降更新してなくて売り上げが続巻ラインを超えられなかったのかなって思った。もう何巻かやってもらいたいけど。帯で告知されてたコミカライズもどうなったのか。

発売した月に探しても近場の書店になくて、色々探したら小口研磨されたやつしか見つからなかったラノベが最近二つあるんだけど、続刊するのか不安になるな。

トネ・コーケン『スーパーカブ

天涯孤独で趣味もない女子高生がカブを手に入れた生活を描くラノベ。漫画版を知っててアニメ見た時その違いに驚いて一回原作読まないとなと思って読んだ。カブを手に入れたことで広がる世界の描写は良いんだけど、小熊のカブ主義化が説得的に描かれていないと思う。

地の文は三人称で小熊自身のモノローグが直接書かれることはない。だから地の文でのカブや地理についての知見は必ずしも小熊自身の思考ではないと読めるんだけれど、結局そこが曖昧になり随所で語り手と小熊が一体化している感じになる。マニアックなカブオタクが憑依しているような。私は免許もバイクも持ってないので、小熊がバイク屋でカブを見た時、走行距離が500kmというのを「しか走っていない」という判断をしているのに、え、そうなの?と驚いたし、時折現われるカブは世界で最も優れたバイク、というのも根拠なく当然の前提のように出てきて首を傾げざるをえない。

堅牢さ、普及台数、その他カブが名機といっていい機種なのは理解できるけど、小熊がもし金持ちでも別の土地に住んでても自分はカブに乗るだろうと思う箇所があっていつのまにそんな?って思う。ここに主観と客観、あるいは作中人物と作者の思考の混濁があるように思う。三人称で小熊自身との距離を持っていたように見えて、女子高生が最初のバイクで体験するあれこれと作者自身のカブ観がごっちゃになってるように見えるし、パンク少年のエピソードなどこだわりとマウンティングを取り違えてるようなところもあってちょっとどうだろうなと。

カブのような普及しまくったものにあえてこだわるのは結構なマニアだと思うんだけど、偶然カブを安価で手に入れた他のバイクに乗ったことのない初心者がすぐそういう価値観を共有しているのは、礼子の存在や小熊の境遇を考えてもやはり、いつのまにそんなにこじらせたんだと思ってしまう。最初のバイクに愛着を持つこととカブというバイクが優れている、と思うことは違うし、カブ乗りに仲間意識を持つのはわかるけど、それが「優れた機械」という選民意識と繋がってるのがどうにも厳しい。アニメでここら辺とパンクエピソードを削ったのは妥当だろう。パンク少年蹴を飛ばすのはナンパ行為よりカブ乗りとしてこいつはダメだという見下しなわけで。小熊の話を読んでたはずが作者の偏狭なこだわりを読んでる気分になる。アニメはそういう臭みをかなり抜いていた。別にキャラが偏狭なこだわりを持ってても良いんだけど、それが客観視できてない感触が強い。

アニメで削られたのはエピソード単位だと修学旅行行く途中のパンク少年の話と、その前に自力でパンク修理するきっかけになる道に釘埋めてたそば屋の話と、ピクニックの話か。漫画、アニメ、原作小説とメディアミックス三種全部目を通したのなんて他にあったか覚えがないけど、これやると個々のメディアの違いがわかってなかなか面白い。スーパーカブは実は漫画版のほうが一番印象が違うかも知れない。漫画的なコミカルさがあるから。

図書新聞にサーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』の書評が掲載


既に書店で入手できると思われます図書新聞2021年7月17日号に、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』についての書評が掲載されています。1984年生まれのベラルーシの若手作家による長篇で、「欧州最後の独裁者」と呼ばれるルカシェンコ大統領政権下のベラルーシを描いた小説です。着手しようとしていた時に民間機をベラルーシに強制着陸させ反体制ジャーナリストを逮捕した事件のニュースが入ってきました。本書の刊行自体が去年の大統領選挙の不正への抗議運動を受けたものだと思われますし、そういったニュースに触れて現地はどうなっているのかに関心を持った人に、民主化運動の当事者の立場からベラルーシを内側から描いたものとして非常に興味深く読めるのではないかと思います。ベラルーシといえば2015年のノーベル文学賞受賞者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが一番有名な文学者かと思われます。ベラルーシ文学では、聞き書きの手法などで彼女が大きな影響を受けたアレシ・アダーモヴィチの『封鎖・飢餓・人間』という本が邦訳されており、「炎628」という映画の原作者でもあるようです。そのほかにあるかどうかは調べがつきませんでしたけれども、とにかくも本書は珍しいベラルーシ文学の翻訳となっています。今回の書評では、『かつての息子』という、国や家族を離れざるを得なかった人々を指す原題と、理不尽なエピソードを互いに語り合う作中の遊びをさす『理不尽ゲーム』という邦題、その双方の意味に触れるようにしました。金原ひとみ、豊﨑由美の同書の書評では特に金原のものが今読むことにフォーカスした内容でしたけれど、そことはいくらか差異化できたかな、と思います。

以下参考文献及び関連書籍について。

サーシャ・フィリペンコ「ベラルーシ 抵抗の日々」、「世界」2020.11月号
サーシャ・フィリペンコ「インタビュー 誇り高き抗議――ベラルーシ民主化の当事者より」、「すばる」2020.11月号
上記記事はベラルーシ大統領選挙に伴う抗議運動についてのリポートですけれど、いずれの付記においてもフィリペンコ作品の翻訳は『赤い十字』という別の小説が予定されていました。インタビューの末尾に『かつての息子』の注目度が上がっていることが言及されており、刊行半年前頃にこのリアルタイム性に寄せた企画変更がなされていることがわかります。『赤い十字』はアルツハイマーの老婦人と若者が対話しながら戦時のソ連と国際赤十字の関係が扱われ、現代ベラルーシのデモについても触れられるとのことで、『理不尽ゲーム』の構成をベラルーシのより遠い過去まで対象にしたもののように思われます。こちらも時期的に翻訳は仕上がっているのではないかと思いますし、刊行されることを期待します。

服部倫卓、越野剛編『ベラルーシを知るための50章』明石書店

明石書店のおなじみのシリーズで、さまざまな観点からベラルーシの状況を描いていてひとまずのとっかかりになるので全体像を把握するにはまずこれから、といえる一冊です。しかし、本書のなかでフィリペンコが描くような弾圧や選挙不正の話は、行きがかり上触れる以上の踏み込みがありません。ちょっと不自然なくらいスルーされています。政権に不都合なことを書くジャーナリストがどういう目に遭うかを知っていると仕方のないことなのかも知れませんけれども物足りなさは残ります。作中の話を知っているとシャラポワを引き合いに「世界的な美人の名産地」などと言及されていることのグロテスクさが露わになります。ソ連時代への復古意識を主張しつつも権力維持のためにロシアとの一筋縄ではいかない緊張感があることもわかります。

服部倫卓『不思議の国ベラルーシ

ベラルーシ日本大使館で調査員を勤めていた著者によるベラルーシ論。現地経験の豊富な著者によるベラルーシ概説で、こちらもベラルーシ社会の様子を知るには好適です。本旨はベラルーシナショナリズム意識の薄さをナショナリズムの「例外」ではないか、という視点からさまざまに論じていくもので、ベラルーシにおけるロシア語優勢な言語状況など非常に興味深い事例が取り上げられています。元々隣接した諸国の間にあって確固とした国の概念がないところに、ソ連解体で偶発的に成立した国でもあるためか国家意識の極端な薄さがあり、ベラルーシ語を母語と認識しつつも多くの人がロシア語を使うのが普通だといいます。しかし確かにベラルーシナショナリズムは薄いけれど、ベラルーシナショナリズムとは統合されていた頃の大国ソ連への帰属識だとすれば、ルカシェンコ大統領はまさにその路線を唱えているわけで、ねじれたナショナリズムではあってもナショナリズムの例外ではないのじゃないかと思いました。独ソ戦の経験から、ベラルーシ民族主義者がナチスドイツ、ファシストと通じた者、というイメージがあるのもあるにしろ。ただ、確かにベラルーシ民族主義、というのは国内的には左派的、反体制的な政治性を持っているのがベラルーシではあるようです。

この点で、観光資源の貧弱さという以上に自国の文化を尊重しないところなども指摘されており、文化遺産にできたかも知れない建築、遺跡が廃墟となっている様子を縷々述べたところはなかなかインパクトがあります。著者が現地観光についてこう言っているのが笑ってしまった。

現地に行ってみなければわからない。往々にして何もないのだから、スリル満点である。116P

そこでルカシェンコが山林資産を着服したことが触れられている以上の政権の不祥事はやはり掘り下げられていません。

以下参考に読んだアレクシエーヴィチの本についての感想もここに。

スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』

事故で大気に放出された放射性核種のうち70%が降ったベラルーシノーベル文学賞作家による、チェルノブイリ原発事故後十年を経て書かれた、ほぼすべてがさまざまな人々の語りによって構成された一冊。完全版も出たけど読んだのは文庫。

これは読むのに結構ハードルがあった。それは最初に置かれた、原発に出向いた夫を亡くした妻の語りの時点で重く辛い気分にさせられるし、それが読む前から予想がつくからだ。深刻な事件について書かれた本というのは読む方にも覚悟がいる。

そこでは当時の状況を語りながら、しかし妻が語る言葉にはいかに夫を愛していたかという思いが満ちていて、ここに語られるすべてがそうだけれど、読んでいて厳粛な心持ちにさせられる。語られる事実自体は見知った感じすらあるけれど、それを生きた経験者の言葉には想像以上のものがある。

子供を作ることが罪となり、愛することが死を招く。最初に置かれた妻の語りでは、夫を愛するがあまり制止を振り切って夫の看病をし寄り添ったために、妊娠した子どもを死産してしまう。コロナ禍でも人が集まり交流することが死を招く事態が現われたけれど、チェルノブイリでも人間性への毀損がある。

ファンタスティック、神話的、幻想的、という言葉が時折使われているのも印象的で、汚染された地獄でもあり、鳥のいない静謐な自然でもあり、ひっそりと汚染地域に住む人間もいて、地獄とユートピア二重写しのようなありようは確かに幻想的な感慨を抱かせる。

しばしば言われるのは戦争のことで、アフガン戦争もだけど甚大な被害を受けた大祖国戦争独ソ戦)が折に触れて想起されるほど、この国で起こった重大な事態だということだろう。以下引用を並べることにする。岩波現代文庫版より。

ベラルーシ人はチェルノブイリ人になった」30P
「ぼくは証言したいんです。ぼくの娘が死んだのは、チェルノブイリが原因なんだと。ところが、ぼくらに望まれているのは、このことを忘れることなんです」49P
チェルノブイリ、これは戦争に輪をかけた戦争ですよ」60P
「アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです」84P
「あそこに行くとすぐにこの世の終わりと石器時代とがいっしょくたになったファンタスティックな世界にでくわせますよ」101P
「「ねえあなた、生むことが罪になるって人もいるのよ」。愛することが罪だなんて……」「子どもを生む罪。こんな罪がだれにふりかかるのか、あなたはご存知じゃありませんか? こんなことば、以前は聞いたこともありませんでした」122P
「戦争と比較することはできません。まちがっているのに、みんな戦争と比較している」139P
チェルノブイリのあとに残ったのはチェルノブイリの神話なんです」「必要なのは記録すること。記録して残すことです。ぼくにチェルノブイリのSFをください……そんなものはありっこないんです。現実はSF以上にファンタスティックなんですから」144P
「国がうそをついたのです」180P
「何十年後、何百年後には、これは神話的な時代になるんです」「一九九三年にはわがベラルーシだけで、20万人の女性が中絶をしたそうです」190P
「ぼくたちがことばを使って考えているだけではなく、ことばもまたぼくらを使って考えています」193P

最近出た完全版は1.7倍の分量になったというけど未読。この本では訳者は「ヴ」表記が原語に近いと認めながら使わない理由をわかりやすさに置いているけれど、完全版ではヴ表記を使っている。解説がセクハラ事件で問題になった広河隆一だった。チェルノブイリ子ども基金というのをやってたのか。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

著者の第一作、大祖国戦争独ソ戦)従軍女性数百人の聞き取りで構成された大著で、女でも国民の一人として前線で戦いたいと志望し、しかし戦後戦地の女として蔑まれたりもした女性たちの、歴史の影に埋もれた語りを書き留める。

女性を戦わせるなんてとんでもないという優しさや蔑視による男性たちの制止を突破していく女性たちの力強さや、女性を想定していない前線でのさまざまな不如意、勇敢さ、死を幾たびも見、恐怖に怯え、それが戦後にもトラウマとして残ったこと、パルチザン参加者の家族が殺された陰鬱な話等々……。

わたしたちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている。男の言葉の。女たちは黙っている。わたしをのぞいてだれもおばあちゃんやおかあさんたちにあれこれ問いただした者はいなかった。4P

女たちの戦争は知られないままになっていた……。
 その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを。5P

と著者が述べる序文から読み応えがある。「人間は戦争よりずっと大きい」という章題は一人一人の体験を聞き取る本書を貫く歴史観だろう。あまりに偉大な小さい語り。

女性たちが何の話をしていても必ず(そう!)「美しさ」のことを思い出す、それは女性としての存在の根絶できない部分。
(中略)
戦時の「男向きの」日常で、「男がやること」である戦争のただ中でも自分らしさを残しておきたかったことを。女性の本性にそむきたくない、という思い。283-4P。

ここに出てくる美しさや女性らしさというのは、人間性の別名のように読める。

「男たちは歴史の陰に、事実の陰に、身を隠す。戦争で彼らの関心を惹くのは、行為であり、思想や様々な利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女たちは男には見えないものを見出す力がある」12-3P
「捕虜の中に一人の兵士がいた……。少年よ……。涙が顔の上に凍り付いている。私は手押し車で食堂にパンを運んでいるところだった。[略]私はパンを一個とって半分に割ってやり、それを兵士にあげた。その子は受け取った……。受け取ったけど、信じられないの……。信じられない……信じられないのよ。 私は嬉しかった…… 憎むことができないということが嬉しかった。自分でも驚いたわ……」129P

戦争の陰惨さのなかで敵兵士を倒して嬉しいという話もあればこのような話もある。戦争のなかで浮かび上がる人間性のさまざまな形のなかで、検閲官は英雄的でない話に意見を付けていたのが序文にある。

「その人は通りを行く人に近寄って行くんです……だれかれ構わず……そして言うんです。「あたしの子供がどんなふうに殺されたか話してあげるよ、どっちの子供から始めようか? ワーセンカから? あの子は耳に撃ち込まれたのよ、トーリクはアタマなんだけどね、どっちからにする?」
 みんな、その女の人から逃げていました。その人は狂っていたのです。だから話すことができたんです……」314-5P
「みんな、あなたに会うのを喜ぶよ。待ってるよ。どうしてか教えてあげよう、思い出すのは恐ろしいことだけど、思い出さないってことほど恐ろしいことはないからね」187P
「言ってご覧よ、どんな顔してこういうことを思い出しゃいいのか? 話せる人たちもいるけど、私はできないよ……泣けてきちゃうよ。でもこれは残るようにしなけりゃいけないよ、いけない。伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が」480P
「祖国でどんな迎え方をされたか? 涙なしでは語れません……四十年もたったけど、まだほほが熱くなるわ。男たちは黙っていたけど、女たちは? 女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め……」ありとあらゆる侮辱を受けました……。ロシア語の汚い言葉は表現が豊富だから……」367P

戦地で結ばれた恋もあれば、戦地の女だとして消えた恋も本書には語られている。ユーモラスな話も勇敢な話もあるけど、後半に多く収められたパルチザンの話は気が滅入るものが多い。生理の血が流れるままになってた話も漫画で先に読んでたけど、戦地と女性の話として象徴的だった。
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ドラマティックなものではないけど、個人的には漫画でも読んだのを覚えてるローラ・アフメートワのこの一ページが印象深い。これまでのジャーナリストからどういう反応があったかが窺える皮肉な言い方で、自分が一番恐ろしかったことが笑われたことだったという経験が垣間見えるからだ。

本書で語られていることはそれまでソ連で語られていた話のカウンターという意味合いがあるけれど、むしろそっちのほうを知らないのでこの本の意味合いをちゃんとわかってない気もする。検閲官の言い方などからうかがえることがあるけれど。男らしくないとされた男の兵士なんかはいったい軍でどういう扱いになったんだろうな、なんてこととか。著者は少年兵のテーマで一冊あるのとアフガン帰還兵で一冊あるからそっちのほうを読めば良いかもしれない。まあなんにしろ、人間と歴史を考えさせる一冊だ。

日本語版は原本とは別編集になっており、検閲削除した部分を検閲官の意見とともに掲載したり、戦前にスターリンが軍幹部を抹殺したことや、ソ連兵のドイツ人女性への強姦や捕虜が国賊として流刑されたことなど、国内的に不都合な事例が増補されている。版権表記に初版と2013年のクレジットがある。

岸惠子ベラルーシの林檎

言わずと知れた名優、だけど私はほとんど人となりを知らなくて、1950年代に映画監督のフランス人と結婚して渡仏していたというのもここで始めて知って、あのドレフュス大尉の孫が友人だったり、川端康成が仲人だったり、交友関係に驚いた。このエッセイはタイトルにあるベラルーシを題材にしているわけではなく、ユダヤ人、イスラエルパレスチナ問題についてテレビ番組の現地リポーターとしての体験を交えて書かれた第一部が半分を占め、東欧、バルト三国の取材過程についての第二部ほか、日仏往還の生活を描いた文章で構成されている。自身と取材対象の流浪、根無し草性というのが全体を通じた問題意識になっており、表題は鉄道で遭遇したベラルーシ人の女性が独特の食べ方をしていたしなびた林檎のことで、ここに元々「国境が動く」という表題を考えていた著者にそのイメージの具体的な表現としてぴたりときたらしい。なのでベラルーシは道中通過するだけ。現地取材で結構向こう見ずなことをしてイスラエルの宗教的に厳格な人たちに不用意に近づいて撮影して集団でボコられる目に遭ったりしている。

それはそれとしてパレスチナ問題について時のイスラエル首相の言い分にはなかなか驚かされた。イツハク・シャミール首相は著者に対してこう答える。「私たちは今、何千年も前から私たちの領土である、この小さな小さな土地へやっと帰ることが出来たのです。アラブ人には広大な領土がある。私たちが欲しいのは、たったこれっぽっちの小さな土地で、その中で平和に暮らしたいと思っているだけなのです」162P。何千年前にいたパレスチナをずっと自分たちの領土だったと言い張ってるのもどうかと思われるけど、パレスチナ人をアラブ人と呼ぶことで彼らにはいくらでも土地があると問題を誤魔化し、人々を押しのけている自分たちこそが被害者だというポジション取りをしているこのロジックの悪質さには驚かされた。

怪奇、ゴシック、野宿者、読むこと、フランケンシュタイン、富島健夫など

二月くらいから読んでた本。

ナイトランド・クォータリー vol.18 想像界の生物相

ナイトランド・クォータリーvol.18 想像界の生物相

ナイトランド・クォータリーvol.18 想像界の生物相

  • 発売日: 2019/08/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
岡和田さんが編集長となったと聞いて17号を読んで以来、一応知り合いがやってる雑誌ということでできるだけ追いついておこうと思っていたらこちらが読むよりどんどん新しいのが出てしまう。近場の本屋に置いてあることがまずないのもある。それはともかく、今号は、「怪獣絵師」開田裕治インタビューに始まり、ドイル「大空の恐怖」新訳やゴーレム譚、ヤズィーディーを扱った掌篇二つ、改変歴史ものの仁木稔の新作のほか、人魚を代償のテーマで再話したスラッター作が面白い。アンジェラ・スラッター「リトル・マーメイドたち」、人魚姫のアレンジだけど、魔女との取引というテーマで組み立てられた話が異形の存在へと帰結していくのがなかなかいい。スラッターは英国or世界幻想文学大賞受賞してる。ナイトランド誌のバックナンバーに受賞作がいくつか載っている模様。タラ・イザベラ・バートンの「レオポルトシュタット街のゴーレム」はユダヤ人街のナチスの難を逃れた家族のエピソードを軸にした一作で、これは西欧ウィーンのユダヤ人街が舞台だけど、『東欧怪談集』にも東欧ユダヤ、イディッシュのペレツ作のゴーレムもの短篇が載っている。仁木稔の「ガーヤト・アルハキーム」はイスラム教第六代イマームの息子イスマイールが主人公?の、「神や悪魔、精霊が実在する」イスラム世界を題材にした改変歴史もので、死せるものを復活させる器、不朽体という人工生命も出てくる。長篇の序章のようにも見える。友成純一のバリエッセイも面白いけど、目が悪くなることによる頭痛がだいたい同じ経験があるので、たいへんよく分かるところがあった。その他AIと幽霊の三宅陽一郎インタビューや怪異譚を補足するコラムやブックガイド、台湾映画その他。国書のマイリンクの集成が高騰してるのに気づいた……。

ナイトランドクォータリーvol.19 架空幻想都市

ナイトランド・クォータリーvol.19 架空幻想都市

ナイトランド・クォータリーvol.19 架空幻想都市

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
異色の建築家、梵寿綱インタビューに始まり、創作では作中でも幻の都市を追い求める旅を描いたダンセイニ「カルカッソンヌ」が面白く、フォークナーの同名短篇が対比を刻むのが印象的。ダンセイニのはSFや現代文学にも似た感触がある。フォークナーの「カルカッソンヌ」は、ダンセイニが求道的な探索や死出の旅の寓話のようで古典的な荘厳さを持つのに対して、亡骸の語りというスタイルなどで喜劇化を図っているような感触がある。幻想性の頽落というか。じっさいにダンセイニのパロディなんだろうか。編集長岡和田さんによると、フォークナーが読んでいた痕跡は見つからないものの、両短篇を比較する英語論文を見つけたことが同時収録というアイデアの元になったという。解説にあるようにカルカッソンヌにcarcass=死体という単語が紛れているのが意味を持っている点は両作に通じるモチーフになっている。フランク・オーウェン「青碧の都」、これもまた死への道行きのようで幻想の都市が天国のごとき場所となっている。石上茉莉の「I am Lost」は異世界、鉱物、吸血鬼など多彩なモチーフを持ちながら、オーウェン作とも似た趣向で、ダンセイニ含めて異域への旅に死が重なる。マーク・サミュエルズ「暗夜庭苑」、月光熱という病気の治療のために訪れた廃墟のような場所が出てきていて、ヨーロッパとアメリカを未来と過去に象徴させつつそのすべてが滅んでいく頽廃の光景という雰囲気がある。続くウィリアム・ミークル「罅穴と夜想曲」は異星のパンクタウンという都市でディランやビートルズなどをレパートリーにするミュージシャンが記憶を拡張するなめくじみたいな生体的ガジェットを体に繋ぐという音楽SFで、身体拡張SFとしては図子慧作品とも通ずるしウォードの音楽ネタにも連繋する。幻の場所への通路が死を思わせるものがあれば、サミュエルズのほかリン・カーターやカイラ・リー・ウォードなど都市のほうが崩壊するものもあり、架空幻想都市というテーマが総じて死や崩壊の終焉の気配を共有しているのが面白い。朝松健の一休ものの幻のなかの京や、最後に友成純一のエッセイでジャカルタの鉄道怪談が幻想都市のオチを付ける感じも良い。私も文学フリマでちょくちょく買ってた垂野創一郎インタビューのほか、カルヴィーノやササルマンに触れたブックガイドに本誌テーマと同名のログアウト冒険文庫が顔を見せる。ダンセイニって河出文庫の作品集の一冊目出た時読んで、あんまりピンとこなくて続巻買わなかったんだよなー。ピンとこなくても買っておくべき本だった気はする。

架空幻想都市で検索してエーコが『異世界の書 幻想領国地誌集成』っていうでかい本を出してるのを知った。虚構のなかの場所ではなく現実に存在すると信じられていた地球空洞説とかアトランティスとかを扱ったものらしい。『世界文学にみる架空地名大事典』ってのもあって、友人が持っていた。

高原英理『ゴシックハート』

ゴシックハート

ゴシックハート

「ゴシックな意識」を思想や理論や主義ではなく、黒や夜や荒廃、異端、異形など社会の序列から外れたものへの愛好を通した「クズな世界での抵抗のひとつ」と捉え、文学、絵画、写真、漫画、アニメなどさまざまな表現についての語りを通してその夜の世界へと案内する一冊。主義や理論ではない以上、評論といっても理論的な硬質さというより著者のスタイルから滲み出る「好悪の体系」を示すような論述は、やはり「語り」と呼ぶのが相応しいように思う。そしてゴシックにはスタイル、いわば「文体」が必要だというのが本書の主張でもある。

「人外(にんがい)」の章では、江戸川乱歩中井英夫から始まり、人間未満の存在『フランケンシュタイン』や高貴なポリドリの「吸血鬼」など「人間の外の世界に目を向けてしまう異端者」、人間以下・以上などのさまざまな「人外」の心を論じながら、そのゴシック性を取り出していく。「様式美」の章では、ゴシックの様式性について川端と三島について比較したところが面白い。三島は川端を名文家だけれども文体がないと語った。著者は、川端の描く美は外から現われるものを受け入れるもので「言語表現によって「世界」の意味を変えてやろうとは考えない」と言う。

三島由紀夫の告げた「文体」とは、要するに現世界に抵抗し、不可能であっても現世界の変容を意図せずにいられない者の言葉である。59P

世界に対峙し抵抗するための言語の武装が文体、スタイルにあるというわけだ。川端は耽美的であっても耽美主義ではない、と著者が言うのはこのこと。ゴシックなファッションもそうした抵抗としての装いといえる。「人外の心に敏感であり続ける者の表現が、その書き手の執着する様式に従って書かれる時、新たな耽美が生まれる」「ゴシックの精神としては、現世界への批判意識と自己の語法への厳格さが見られないものを称えることはできない」(60、61P)。怪奇趣味には雰囲気を醸成する技巧、スタイルが求められるのも同様だろう。そして著者はこう言う。

ゴシックのスタイルは本質的に過去の遺産の変奏と言ってよい。ただしその過去は実のところ一度もあったことのない架空の過去だ。ゴシックは十八世紀ヨーロッパの合理主義に反発して敢えて非合理的な中世に憧れる意識の書き残した物語を起源としており、そこに語られる中世の世界とは、古い建築の印象から形成された、歴史的事実によらない幻想だからである。9P

仮構されたフィクションに拠るスタイルという虚構性。

余談として、「なお「ゴスロリ」はマリスミゼルのManaが「エレガント・ゴシック・ロリータ」として提唱したコンセプトに端を発する」(17P)には驚いた。Wikipediaだけ見ても確かに界隈で大きな存在のようで、起源とまでは言えないようだけれど、自然発生的なものをコンセプトとしてまとめ、大きく広げる役割を果たしたらしい。

ゴシック、というと漠然としたイメージはあるけれど、という人にとって実例を元にしながらあるイメージを与えてくれるもので、扱っている題材については単行本の裏表紙が見やすい。最近立東舎から文庫化されたけど、単行本のミルキィ・イソベの装幀がやはり良い。文庫版は現物見たことないけど既に品切れの模様。

高原英理歌人紫宮透の短くはるかな生涯』

歌人紫宮透の短くはるかな生涯 (立東舎)

歌人紫宮透の短くはるかな生涯 (立東舎)

  • 作者:高原 英理
  • 発売日: 2018/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
1962年に生まれ1990年に死んだ架空のゴシック歌人の三十一首の解説書という形式で、ゴシック短歌の実作と評釈や80年代の文化を大量の脚注とともに描き出し、その好景気の空気を現在へのオルタナティブとして書くようなアイロニカルな感触もある長篇。

本篇最初のページを見るとわかるけれどもテキストのように注釈欄がある版面になっていて、短歌の解説や関連語句の脚注が盛り込まれている。正確に言うと架空の歌人の架空の解説書を読んだ人間による叙述という三層構造のメタフィクション伝記小説になっている。

ゴシックな表現とそれが持つ意味合いなどは前項の『ゴシックハート』とも重なり合っていてその実作版という印象もあり、相互に読むとより面白い。和歌山生まれの紫宮透は、三重県出身で彼の三歳年上になる著者の分身にも見えるけれど、自伝的あるいは文化的空気の描出のためのギミックでもあるか。

「二○○○年以後ぼくたちはひどく貧しくなってしまって、そのせいか、給料が安くて人使いの酷い職場とか、いじめの経験とか、児童虐待とか育児放棄とか、人間関係の辛さとか、自分の無価値とか、そういうネガティブな話をどこかで織り交ぜないとリアリティに欠けるという思い込みの中で生きてますね。でもそれは普遍的なことなのかどうか、バブルの時代や好景気の頃の身勝手で面白おかしい、いい気な遊び心には、本当に真実がないのか、いや、真実なんてなくてもいいけどその面白い嘘には全く文学上の価値がないのか、紫宮透の、今では流行遅れと言われるような人工的な、自然体でない歌を読むと、思うことがあります」8P

2018年刊の本作の作意としてはこのセリフに示されているように、貧しくなった日本を踏まえ、軽佻浮薄の象徴としての80年代をゴシック歌人という遊戯的、人工的な芸術がありえた場所として捉え返す試みだろうと思われる。浮ついた生き方が可能だった時代。阿部和重アメリカの夜』ではバイト中に本を読んでても良かったような頃を「小春日和の時代」と呼び、その終わりに言及するのが94年だった。

単に80年代を良かった頃として回顧するというよりゴシック短歌というこの世のものではないものを歌う歌人というアングルからやや皮肉に見る形を採る。短歌の解説だけではなく、伝説的に語られることの多い夭逝歌人についての事績を正確にたどることが必要だという理由で、歌の評釈として多くの論者の文章のほか、直接の知り合いの書いた紫宮についての文章などが多く引かれ、もちろんそれら架空の文章は歌の解釈とともに時代の空気を伝える。

そうしたエッセイ的な文章では80年代らしい、今から見れば痛い、としかいえないような文体のものも多くあり、いわば文体模写式に多彩なスタイルを本作に取り込んでいる。そこでは紫宮自身の文章にも固有名詞を散りばめた文化的な豊かな生活の誇示があり、確かに今から見れば「気恥ずかしい」。しかし80年代、経済が潤い、都市文化の絶頂とモダニズムの目覚めを迎え、裕福な層では労働より遊びが尊ばれ、「これほど日本人が「調子に乗っていた」時代は他にない」。良くなったことはもちろん数多いけれども、日本はこの頃より経済的に政治的にも端的に貧しくなった。

ゴシック歌人の生涯として面白く読めるのは確かだけれど、それ以上に80年代の青春というものをどう捉えるかというところで読み方が変わってくるように思う。ゴシックというオルタナティブな表現を通して現在のオルタナティブなありようもあったのではないかと問うているような印象だ。

紫宮透の趣味嗜好について最初は伯父から塚本邦雄を知ったことが大きかったけれど、それ以後は付き合っていた恋人たちに示唆された文学的先達がいなければ成り立たないというのが特徴で、いわば「男の趣味に影響された女」の逆を描いてるのが面白い。実際三島澁澤ジュネ足穂は女性読者が多い印象がある。

80年代の終わりに死んだ歌人をたどり、都市文化とともにその時代に生きた地方出身の人間の文化的背景を描き出しながら、親切に歌の解説を行なってくれる短歌入門にもなっている小説。

木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

野良ビトたちの燃え上がる肖像

野良ビトたちの燃え上がる肖像

多摩川と思しき「弧間川河川敷」を舞台に、大企業優遇税制と社会保障の縮小、「東京世界スポーツ祭典」に伴う再開発などによって野宿者が激増していき、住民との諍いや国による弾圧によって野宿者が追いつめられていく近未来長篇。

河川敷に小屋を建てて猫と暮らしている柳さんという男性を中心にして、アルミ缶集めで日銭を稼ぐホームレス生活の様子とともに、さまざまな事情でここにやってきた野宿者たち、寝たきりの父を介護する息子、DVから逃げてきた女性たち、寄付のしすぎで破産したライターといった人々が描き込まれる。現地取材に基づく野宿生活の描写は生々しく、しかしソーラーパネルでバッテリーに充電してテレビを見たりという、そこにも確かに生活があるということを浮かび上がらせる。河川敷はDVから逃げてきた女性たちやロヒンギャの青年といった難民的存在が集まってくる場所でもあり、そして時に猫が殺される場所でもある。

河川敷という川の増水で流されてしまう高さにおいてもまさに最底辺の場所とそこを見下ろすように建っているタワーマンションは富の偏在の象徴のようにそこにあり、「日本初のゲーテッドタウン」は物理的な壁によって貧富の境界線を区切る。そしてこの延長に死んでもいい存在を区切る境界線が生まれる。近隣住民は「野良ビト(ホームレス)に缶を与えないでください」という看板を出し、野良猫と野宿者を害獣のカテゴリに放り込み、ゲーテッドタウンに住む少年はボウガンで猫はおろか野宿者も狙い、「野良ビト」という野良猫と同じ、生きる資格のない存在だと強弁する。

木村作品に頻出する猫は、まさにこのような迫害しても良いものとして猫と人間の同一視を引き受け抵抗する足場となる。ここでは一部住民や少年によって、人間と猫の境界線が引き直されている。そして本作はまさにこの境界線をめぐる戦いを描こうとする。本作の近未来設定は読んでいてしばらく経たないとわからない。大企業優遇の税制と社会保障の縮小、そしてスポーツの祭典という道具立てはいま現在も懸案となっており、現在からまっすぐ続く近未来に本作の世界があり、現実とフィクションの境界線はどこにあるのかと問う。また作者として現われるライター木下は、現実の作者の分身のようでもありながら、家があるわれわれの側から野宿者側へと境界線を越えていく可能性の分岐でもある。メタフィクション的な部分はそうした境界線を越えうる存在として木下があることの証しでもあるだろう。

終盤柳さんが猫と「同じ獣としての吠え声を発」するのは、人間が猫の側に投げ出される境界線の引き直しを引き受けることでの抵抗だ。貧富の差、人間と猫、住民と野宿者、作者と登場人物。境界線をめぐる闘争はだから、川というまさに境界線そのものを舞台にして描かれることになる。どうでも良いことかも知れないけど、野良猫にも野良ビトにも、「野」と「良い」という文字が使われている。

ただ、面白いけれどもやはり直截すぎるなと思う点もいくつかあって、未来設定とか、『〈野宿者襲撃〉論』を反映したゲーテッドタウンの少年とか、気の狂った人間が高笑いする場面とか、作り付けが甘いと感じるところも結構ある。しかし、一見安直にも見える政策などは、つねにこの現在の延長にあり得る未来のデフォルメとなっており、どこかの時点でその延長線を断ち切らねばならないという危惧と、そして本当に区切ることができるのか、という問いになっている。そんなわかりやすいアレな政策ないだろう、と思うとしかし現実がその先を行くのが今だ。

作者がモデルとなった人とのことを書いたエッセイ。
ヘテロトピア通信 第16回 | SUNNY BOY BOOKS

木村友祐『幼な子の聖戦』

幼な子の聖戦

幼な子の聖戦

東北の小村で行なわれる村長選挙で保守党県議の脅迫で応援していた幼馴染みを裏切って妨害工作を行なうようになる男を描いた芥川賞候補の表題作と、ビルのガラス拭き会社に勤める新人の視点から職人の仕事のありようとその尊厳を無視して憚らない現実を描き出す二つの中篇。
『パラドックス・メン』「幼な子の聖戦」「犬のかたちをしているもの」「会いに行って――静流藤娘紀行」「かか」「改良」「正四面体の華」『黄泉幻記』『夢の始末書』 - Close To The Wall
「幼な子の聖戦」は雑誌で読んだ時の感想は既に書いたけど、選挙electionと勃起erectionが日本語だと同音になる、という「勃起力」をめぐる記述や、主人公が人妻クラブというところで女性と関係したことが脅迫のネタになるなど、男性性をめぐる話でもある。家長を掴めば投票は家族ごと取れるという選挙戦略も家父長制による「伝統的」なそれだし、そもそも元村長の辞職がそうした性的スキャンダルによるものだった。そこで女性層を引きつけた仁吾と、老人たちを「資源」とする保守派との抗争の構図。それが単純だともいえるけれど現実が違うとはとても。

そうした新旧対立のなかに主人公が自身の虚無とともに考えているのが宗教性についてのモチーフで、過去新興宗教に勧誘された時の経験やこの地にマリアがやってきたという胡散臭いアベマリア伝説が絡んでそして自分の行動を「聖戦」とみなしながら信仰されるべき伝説を創造しようとしている。「幼な子」の無垢さとこちらを見る子供と猫の無垢な視線との重ね合わせもありながら、自分のなかでまだここら辺の題材の関係がわかってないところがある。大きな政治そのものを扱うにあたってここまで宗教性が出てくることの意味はいろいろあるはずだけども。新郷村がモデルというのもあるけど。

「天空の絵描きたち」、古市憲寿芥川賞候補作の元ネタとして話題になったけどそっちは読んでない。デザイン会社からゴンドラやロープで高層ビルの窓ガラスを拭く清掃会社社員へと転じた女性がその仕事に慣れていくのとともにベテランの仕事の鮮やかさに魅せられる。タイトルの比喩は窓を拭く動作がペンキ塗りに似ている、という意味かと思ったらかなり違っていて、ビルのなかから外を見る時に額縁になる窓を掃除することで、外の景色という絵を窓に映し出す、という意味合いで使われている。内と外との境界線をクリアにするわけで、主人公もまた窓の内から外へと転じた。ロープに命を託して行なわれる現場仕事の様子を丁寧に描きながら、会社の方針で仕事が値下げされ、窓拭きの仕事へのやりがいすら奪われ、挙句には備品に金を掛けない状況が死亡事故を招くという、さまざまな意味での貧しさとそれに抵抗する労働者たちの様子が描かれている。

「けど、たかがガラスでも、自己満足も許されない仕事なんか、やる意味がないっておれは思うんだ。人生のほとんどの時間は、仕事なわけでしょ?」(中略)「結局そうやって、おれらはどんどん、働く喜びさえ取り上げられているんだ」170-171P

構図はシンプルだけど地味で危険な仕事を爽やかに描く。装幀なかなかいいな、誰だろうと思ったら仁木順平だった。松籟社の東欧の想像力シリーズのいまの担当をしている。

友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』

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『百年の孤独』を代わりに読む|代わりに読む人
「代わりに読む」というコンセプトを手がかりにガルシア=マルケスの名作を一章ずつ、著者自身の知る作品に引きつけながらできるだけ脱線しながら読んでいくなかで、代わりに読む過程が著者自身の『百年の孤独』を「代わりに書く」ことに至る奇妙な読書録。自費出版というか、通販以外では限られた書店でのみ入手できる。三年前に出た年にはすでに買っていたんだけれど今更読んだ。

著者は一見意味不明で冗談のような「代わりに読む」という言葉を差し出しながら、ひとまず「あなたの代わり」に私が読む、として読書を開始する。本文自体は原作一章ずつの物語内容を説明しながら、誰々は私が知ってる他の作品の誰々に似ている、と別の作品などに強引に引きつけたりしながら脱線混じりに進んでいく。一見関係のないことを書くのは『百年の孤独』もまたさまざまな無関係に思われた挿話が積み重なっていくからだといい、田中美佐子の出るドラマに言及したりドリフのコントに似ていると言ったり「バックトゥザフューチャー」や伊丹十三の「タンポポ」を引き合いに出したり、脱線は尽きない。

脱線や冗談が世界を広げていることだとか実在しない湘南新宿ラインだとかの脱線、転線論も面白いけれども、見事だと唸ったのは17章、『百年の孤独』で部屋の片付けが出てくると話がこんまりこと近藤麻理恵の片付け本の内容と次第にごっちゃになり、その入れ替わりを回収するように最後に『百年の孤独』の双子の墓穴の取り違えという場面で終わるところだ。これは上手い。そして終盤、メルキアデスの羊皮紙解読が話題になっていくわけだけれど、ひたすら羊皮紙を読んでいくアウレリャノはもちろん本書の著者とも重なっていくし、『百年の孤独』は読んだことがあるので、これらが絡んでいく「ラスト」の大枠は見えてくるんだけど、それでも最終盤は圧倒された。

最後をどうするかという悩みを知人に相談したら「ラストどうしようかって、それ変じゃないですか?」と言われたと書かれているとおり、読んでるだけのエッセイがメタフィクションの構造を持つ原作と響き合って、読むことをめぐって書かれた『百年の孤独』のパロディという「フィクション」にも似た本書を生み出してしまう。『百年の孤独』という強靱な土台があるからこそ、そしてその羊皮紙をめぐる構造があるからこそ、このような芸当の土台になり得るわけで、合わせ鏡のなかに消えていくマコンドという「鏡の(すなわち蜃気楼の)町」の反射が本書を生み出すのが、読むということでもあるような感覚。

そしてこれは読書エッセイのかたちをとった後藤明生の『壁の中』ではないか、とも。『壁の中』はドストエフスキー地下室の手記』のパロディから発して無限に脱線を続けていくことで書かれた作品だったけれども、つまり本書はガルシア=マルケス後藤明生で読む、という試みではないか。『百年の孤独』は周知の通り「孤独」がテーマになっていて、まさにそういうラストなんだけれども、著者はそこに一族の歴史を「代わりに読む人」を見出している。自分以外のもう一人、つまり「読む」ということ、「代わりに読む」ということは孤独な一人を二人にする行為として捉え直される。代行とは必ず二人以上を必要とする。後藤明生の読むことと書くことの関係が引用されているけれども、読むことが書くことに繋がる関係は、一つのものが無限に複数化していくメカニズムでもある。そもそも、本書表題の「孤独」を「代わりに読む」という時点で言葉での対比が仕組まれている、かも。

なんにせよ、『百年の孤独』を「代わりに読む」ことが著者によるもう一つの『百年の孤独』を「代わりに書く」ことになっていく過程にはおお、と思わせるものがあって、カラーページの挿入もここぞという感じでアウレリャノとの重ね合わせも決まっていた。

恵贈いただいた新著については先に記事にしてある。
秋から年末にかけて読んだ本 - Close To The Wall

永田希『積読こそが完全な読書術である』

積読こそが完全な読書術である

積読こそが完全な読書術である

  • 作者:永田 希
  • 発売日: 2020/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
本を完全に読むということは不可能でしかなく、読まれることとともに積んでおくための存在でもある本にとって完全なのは積まれた状態の方だと視点を裏返す挑発的な読書エッセイ。表題の逆説の趣旨は情報の洪水のなかで意志的に本を積めと言うことにある。図書館にある本はすべてが通読されるのではなく、必要に応じて取り出せることが重要なように、一通り読むというのはそうした本の状態のごく一部でしかなく、読み終えたにしろこれから読むにしろ少しだけ読んだにしろ、本とはもとより積まれるためのものだと述べる。

本を読むことには、前書きや参考文献等をチェックする点検読書、テーマで横断するシントピカル読書、精読する分析読書などさまざまなものがあり、読んでない本についてもそうしてその本の文脈や評価を頭に入れ、自分なりに本のネットワークを構築することを著者は「ビオトープ積読環境」と呼ぶ。著者が幾度か言及する、汚れた本の山のなかで尿を紙パックに溜め込んで家族に暴力を振るいアル中になっていた人物をセルフネグレクトと呼んでおり、ビオトープの構築は「自己の輪郭」を適切に管理する、という生き方の問題に繋がっていく。本という形で自己を適切にメンテナンスすることが。

本書の問題意識は、消化しきれない情報が流れていく現代において、そうした自己の足場をいかに作るかということにあり、積読という外部化された自分の興味関心のありようを常にチェックしていくということが目指されている、と思われる。本棚のメンテナンスを重要視するところは以前書評を書いた『中年の本棚』などで荻原魚雷も説くところで、点検読書などでのチェックや関連づけはしばしば言われてることでそこまで目新しいことではないけど、古今の読書論を参照しながら表題の逆説を説いていくところはなかなか面白い。

また、リスクや保険、金融について中世史を参照したり、使われることを志向しつつ貯め込まれることでも意味を持つ貨幣の書物との共通性を指摘したり、ブラックボックスとして目の前にあるコンピュータを関連づける発想については、私は未読だけど、ちょうど完結した集英社新書サイトでの連載が扱っている。そのうち集英社新書から刊行予定とのこと。
カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 – 集英社新書プラス

人間に完全な読書はできずとも、「どんなに不完全でもあっても、何かを書き、それを積むことで、いつか誰かに読まれるかもしれないということ、誰かがいつかそれを読めるかもしれないということは、書物を生み出し、それを継承し続ける限り、何かを読める人の希望であり続けるからです」(230P)という本書の一節と、友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』での、「小説を人の代わりに読むことはできないというのは希望である」(201P)、というのはほとんど同じことを言っているな、と思った。積むのに向いたブックデザインが秀逸で、またカバー裏では積み本が崩れているのが面白い。

山本貴光『文学問題(F+f)+』

文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+

文学の定義を認識Fとそこから生まれる情緒fの「F+f」という式で提示した漱石の『文学論』をとりあげ、現代語訳をベースに何が書かれているのかというレベルから要約註釈解説を施し、作品の読解や現代のさまざまな文学理論と接続してそのバージョンアップを図る一冊。

退屈で難解と評される『文学論』を、その前の言葉という側面から捉えた『英文学形式論』からたどって、漱石の文学論を形式と内容両面から把握する。漱石はFがあってfのない文章を例えば科学についての文章だとし、情緒に働きかけるものを文学として捉える。

漱石は、文学とは認識のみならずそれに伴う情緒(F+f)を表現したものであり、書かれていることが事実か虚構かを問わず、読者を幻惑してなんらかの情緒をもたらすものだと考えた。433P。

漱石の理論で現代文学を読んでみる、という章はちょっと物足りない感じもするけれども、科学の文章を文学の文章と対置していた本論の延長上で、数学的記述を小説に盛り込む円城塔の小説を扱うところはこれがやりたかったのでは、と思わせる。

意識の流れ等の元になったジェイムズの心理学に影響を受けた漱石は、何に焦点が当たるかという競争が行なわれる人の意識は不断の修羅場だとも述べており、これは集合的Fとして人間社会に対しても拡大して用いている。文学と読者のみならず社会との相互関係も視野に入れている。文学を読む批評理論としての文学理論ではなく、文学とはなにかという原理論の探求として人間の感情を重要な要素とした漱石の文学論をベースにすることで、批評理論のみならず心理学や脳科学と文学の結節点となる現代の学問への広がりをもフォローアップしていくことになる。圧巻なのは『文学論』のダイジェスト版のような要約と解説を行ないつつ、現代の多様な関連学問への膨大なリファレンスや、発表以来110年にわたる『文学論』評価を適宜抜粋しながらまとめた40ページ近い資料篇など、『文学論』を現代に読み、使うための参照データの充実具合だ。

脚注に提示された欧文を含む参照文献の物量やジャンルの広さは文学論を起点にした一大ブックガイドの趣を呈しており、根こそぎという感じがある。漱石の理論自体にはわかったようなわからないような索漠とした感じが残るけれど、広がりがありすぎるのかも知れない。

三原芳秋、渡邊英理、鵜戸聡編『クリティカル・ワード 文学理論』

2020年刊行とかなり新しい文学理論概説書で、前半を編者らによる基礎講義編、後半を院生らによるトピックス編という二部構成で、特に後半はポストヒューマニズムや環境と文学など類書にあまりない章構成でかなり新鮮な目次になっている。

第一部は「テクスト」「読む」「言葉」「欲望」「世界」というテーマを立てた基礎講義で、文学理論を横断的に参照しつつそれぞれ具体的な作品を扱って読解の実例を示したりしながら、末尾にそれぞれ用語解説とブックガイドを付す形式を採り、いかにも入門講義の体裁となっている。デリダ、バルト、蓮實重彦を題材にした郷原佳以「テクスト」、芭蕉の俳句の読みから始まり、対位法的読解、妄想的読解、徴候的読解などを論じる三原芳秋「読む」、ドゥルーズガタリのマイナー文学やサイードを援用して崎山多美や李良枝を扱う渡邊英理「言葉」、『フランケンシュタイン』を論じつつフェミニズムジェンダークィアの議論をたどる新田啓子「欲望」、インドネシア文学を題材に国民国家近代文学の関係や出版流通の問題を論じる鵜戸聡「世界」と、さまざまな切り口から議論が行なわれる。

トピックス編は基礎的な用語・概念から未邦訳文献をザクザク紹介しながら最新の話題までを二段組で情報量を詰め込む。ネグリチュードからポストコロニアリズム、世界文学論までを含む橋本智弘の六章、ポストヒューマンや動物研究、人類学の存在論的展開から思弁的唯物論までを扱う井沼香保里の七章。エコクリティシズムやネイチャーライティング、震災文学までを含む磯部理美の八章、精神分析の森田和磨の九章、ジェンダーセクシュアリティの諸岡友真の十章と、講義編と重複する点も多いのは、女性とポストコロニアリズムなど議論が各章で相互に関連しており截然と区分けできないからだ。

そうした構成ゆえでもあろうか、ジュネットが索引になく用語解説で触れられる程度で物語論言語学受容理論などはフォローされておらず、文学理論のカタログとしては弱い部分もある。おそらくは既存の概説書を踏まえつつ今の文学理論のありようを提示するのが本書の趣旨だろう。「欲望」の章で近年のクィア議論を紹介するなかで、エーデルマンが「社会の維持を目指さない(反社会的転回)という純然たる否定性こそ、クィア理論が目指すべき方向(クィアな否定性)である」と言っているというのはなかなか面白い。メイヤスーの思弁的唯物論は解説を読んでもよくわからなかった。

最後に、松籟社で世界文学アンソロジーを編んでいる鵜戸聡によるマイナーな地域のものを重点的に紹介した「世界文学(裏)道案内」や文学理論概説書のブックガイドがついている。これもなかなか面白い。

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

20世紀の文学理論概説としては手元に96年刊の『ワードマップ 現代文学理論』があり、学生時代に読んだ覚えがあるけれど、そこでは記号論構造主義物語論、テクスト論が扱われており、文学理論が構造主義の展開と密接な関係を持っている歴史は、本書で最初にざっと出てくる程度だ。ワードマップとクリティカルワードの目次を帯裏で見比べるとかなり違うのがわかる。90年代の文学理論概説書はポストコロニアル批評って最後の方に付け足されてることが多いしワードマップにはサイードが索引にないんだけど、クリティカルワードの方では頻出人名の一つ。ここ数十年でポストコロニアルジェンダーの重要度がかなり大きくなったのがわかる。
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六章担当の橋本智弘さんは『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』で一緒になったことがある。氏はこちらでラシュディについて書いている。

小野俊太郎フランケンシュタインの精神史』

大きく二部に分かれており、『フランケンシュタイン』を同時代状況などと絡めた多様なアプローチで論じていく第一部と、日本における『フランケンシュタイン』の影響を漫画、小説などに見出し論じていく第二部で構成されている。

第二部は未読の作品も多くやや議論が頭に入ってこないところもあったけれど、第一部は、たとえば当時のイギリスが複数の国のつぎはぎの領土として国民国家を形成していたことを怪物のつぎはぎと重ねるような、こじつけに見えるけどなかなか面白いところがたくさんあって、いろんな知識を背景にした切り口の多さは読み込みのとっかかりにもなるし雑学としても面白くて『フランケンシュタイン』を多様な側面で読んでみる実例集になっている。科学の知識がイスラムから再輸入された話は有名だけど、その書の『キタブ・アルキミア』という題名がアルケミーやケミストリーの語源だったり、アルコールなどのアルという接頭辞がアラビア語の定冠詞に由来しているというのも面白い。出身地ジュネーヴに関してルソーと関連させてみたり、怪物がフランス語を学んだことや怪物は果たして男性なのかと改めて問うてみたり、作品を改めて見直す契機になる。

第二部は戦後日本におけるフランケンシュタインのテーマを、人造人間やロボットと関連させて手塚治虫石ノ森章太郎銀河鉄道999キカイダーセイバーマリオネットなどの作品や、小松左京光瀬龍田中光二荒巻義雄山田正紀などの戦後SFの作品に見出していく。そして『屍者の帝国』が既存作の継ぎ接ぎとして書かれていることに至る。本書を著者は

戦後すぐの民主主義国家の住人への改造や変身を重視した第一段階から、対抗文化のなかで人間回復をめぐる議論をしていた第二段階を過ぎ、複製や複合が当然視されるなかでの「生」をしめす第三段階となった。233-4P

とまとめている。あかほりさとるの『セイバーマリオット』や日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』というライトノベルにも言及するけれど概ね戦後の代表的なSF作品やSF作家をたどる形で、マイナーな作を網羅する方向ではない。個人的には前半が面白かった。

荒川佳洋『「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝』

「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝

「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝

1950年代に芥川賞候補になるなど純文学から出発しながらジュニア小説で一時代を築き、70年代から官能小説を多作するようになった作家富島健夫について、植民地生まれの引揚げ経験からその死までを描く評伝。富島健夫の書誌を編纂したという、おそらくはこの作家に最も詳しい著者による、詳細な年譜も付された労作。

私は一作も読んだことがないけれど、これを読んだのは富島が後藤明生と同じく植民地朝鮮生まれの引揚げ作家だったからだ。そういう興味だったんだけれど、引揚げ作家という点以外でもジュニア小説、官能小説という文学のアウトサイドで活動した作家の評伝として面白く読んだ。引揚げ作家としても自伝的作品などいくつかはそのうち読みたいと思ったし、作品にも多くその影響が認められることもうかがえて興味深い。価値観の転変という昭和一ケタ生まれの問題は後藤も述べていたし、すべてを失って引揚げてきたゆえの国や集団への不信なんかも通じるものがある。

そういう部分以外でも、富島はジュニア小説においてもつねに文学をやるつもりで書いて、それが大ヒットしたわけだけど、その後『おさな妻』での性描写がメディアで議論となり、保守派からの批判に遭い、当時いくつもあったジュニア小説誌が70年代初め頃、次々と休刊していってしまう。多くが教育系出版社だったジュニア小説誌にとって保守的な論調には逆らえなかったとあり、とするとジュニア小説の潮流というのは人気の下降ではなく、保守的なバッシングによって消えた、というのはいかに当時の性描写への批判が強かったか、ということだろう。

少女小説の流れを汲むジュニア小説において、その流れに対して富島は自分は少女小説を書くのではなく、十代を主人公にした文学を書くつもりで書くという方針で少女小説にある多くの制約を人気作家の後押しで一つ一つ破っていった、という。それが潰されたあと、富島は官能への撤退を行なう。70年代から富島は官能小説を多く書くようになるけれど、あるエッセイで「嘘と偽善と権謀術数にこりかたまった現代への不信感が、彼をして官能の世界に侵入させた。女体への自己のあこがれ、また女体から受ける自己の感覚だけは現実性ある真実だと、彼は考えた」(243P)と書く。官能小説の主人公の背景でもあり富島自身のそれでもある。毛沢東を敬愛し文化大革命を支持したアジテーションを作中に込めていた作家でもあった彼の政治不信がエゴイズムと官能への立て籠もりへと至ったわけだ。

著者は70年中頃、富島四〇歳頃までの作品を評価して、それ以後の作品は一部を除いてあまり評価していない。それは当然本書の構成にも現われており、官能小説を書くようになる頃は既に本書終盤だ。本人の資質としては性を書きたがったけれど、青少年を対象にしているというのがそれを抑える良い制約になったという指摘が示唆的だ。

しかし、富島がジュニア小説誌で女性読者から処女性について問われた時に「どんな名器でも処女には及びません」と即物的な応答をしていることに著者が思いっきり引いてるところは笑ってしまった。メンタルの話を聞いたら性交時の快楽の話が返ってきて、「処女」の価値は男が決める、という言いぐさもすごい。しかしその大事にすべきものを食い荒らす官能小説での男性のプレイボーイぶりとあわせるとこれは単なる「処女嗜好論」ではないか、と著者が批判しながらも「男性"性"」の肯定抜きには富島文学が成り立たないものでもあると指摘するところはフェアな態度だろう。

島健夫が文学を志向しつつその傍流で生きるしかなかったのは、書く力はあるのに他人に頭を下げて雑誌に中短篇を発表することを良しとせず、芥川賞レースに参加しなかったことで時評などの「文壇」から疎外されてしまったこと、という著者の指摘がある。文芸誌に書くことをせず、長篇書き下ろしで勝負したわけだけれど、それらはほとんど話題にならず、若者雑誌に書いた青春小説が評判を取ることで十代向けにシフトしていくことになる。文学を志向するなら、やはり中短篇を雑誌に発表して行くべきだったのではないか、と著者は言う。知り合いに多くの作品を見せているし、それができる実力はあったはずだ、と。


私の関心のきっかけでもある後藤明生が一度出てくるところがあって、学生時代に河出書房に来たら富島がゲラを校正しているのを見て羨望を覚えたというものだけれど、出典がないのでこれは著者自身が直接聞いた話だろうか。後藤が富島に言及したことがあるかどうか、あまり記憶にない。なお後藤と富島は生没年が一年違いでほとんど同じ年を生きている。後藤は32年から99年、富島は31年から98年。九州に引揚げ、早稲田に入ったのも同じで、また「文藝」復刊まで開かれた「文芸の会」には後藤も出ていたので、おそらく両者には面識があったはずだと思う。

やや年上の同じ朝鮮引揚げ作家の小林勝が、學燈社の雑誌「若人」でやっていた連載の後枠に富島を推挙したことがあり、それが富島の初めての商業誌からの依頼だったというのが面白い。この交番焼き討ちで捕まった作家が青春小説作家誕生のきっかけにもなってるというのは数奇だ。富島は小林と縁があったわけだけど、後藤明生も小林の作を書評で酷評した因縁があったりする。さらに引揚げて後、富島が九州福岡の豊津中学に通っていたと言うから驚いた。これは鶴田知也葉山嘉樹堺利彦の母校だ。鶴田知也は私の最初の商業原稿で扱った作家でもあり、そう繋がるのか!と非常に面白かった。後藤も富島も植民地生まれだけれど、来る前は九州に本家があるからここら辺はなるほど近い。富島は朝鮮では京城の龍山国民学校に通っていたけれど、ここはその前身を龍山公立尋常小学校といい、中島敦が卒業している。また富島がその後通った龍山中学は中島敦の父が教えていたことがあり、そこには同じく引揚げ作家の日野啓三が二年上にいたという。

舟木一夫「高校三年生」が富島原作の映画の主題歌だったらしいのは初めて知った。ただ、これは歌がヒットしたことで作られた映画だというから、曲が先にあって映画の題材として富島の作品が使われた、という経緯に見える。『明日への握手』という原作小説の名がしばしば間違われるのはそういうことだろう。


というわけで、積んでる本のうちツイッターで相互フォロワーの人がかかわった本、という縛りで読んでみた。相互と言っても特にやりとりがあったわけでもない人もいるけれど、さすがに関心領域に重なるところが多かった。

パヴェウ・ヒュレ『ヴァイゼル・ダヴィデク』

〈東欧の想像力〉第19弾はポーランドで1987年に発表された長篇。23年前の夏、「僕」が、不思議な能力を持つユダヤ人の少年ヴァイゼルとの日々を回想し、彼が一体何者で、何故突然失踪したのかを考え続けながら、決して解答に至ることのない「美化なしに語っている物語」を描く。

ヴァイゼルはドイツ語で賢者、つまりタイトルは「賢者ダヴィデク」とも訳せる。ダヴィッド(ダヴィデクはその愛称)はユダヤ系の名前だという。舞台はポーランド西部国境地帯のグダンスク近郊。語り手を含むポーランド人の少年三人の前に、ある日不思議な少年が現われる。

いなくなった人々

その夏は旱魃におそわれ、遊びに行った海では魚の死骸が腐臭を放つ異常事態が起こっていた。そんなとき戦争ごっこで遊んでいた三人に、サビだらけのシュマイザー自動小銃を渡したのがヴァイゼルだった。どこからか現われる本物の銃火器もさることながら、後には爆薬の実験を行なったり、サッカーで超人的なプレイをみせたり、動物園の黒豹を手懐けたり、空中浮揚を行なったり、次第に彼は特殊能力を持つカリスマ的な存在として少年達を魅了していく。そうした不思議な体験とともに、語りはさらに二つの時間軸があり、ヴァイゼルの失踪後、校長や教師や軍服姿の男たちにヴァイゼルや彼に付き従っていた少女エルカがどこに行ったのかと尋問される夜と、それから23年後、大人になった語り手が当時のことをこの書物として書き記している現在だ。失踪後の学校では、監禁され爆薬の出所を問われたり最後にヴァイゼルたちを目撃したのはいつかということや、本当は二人は爆発で死んだのではないか、と誘導尋問によって一つの「真実」に到達することが目指される。少年達はヴァイゼルとの約束として秘密を守りながら、厄介事を葬り去るためか大人たちにとって都合の良い、ヴァイゼルたちはある日爆発の実験で吹き飛んだ、という経緯をでっちあげることに協力することになる。

そして現在、あの夏から遠い時間が経った今、語り手ヘレル(作者ヒュレの綴りのアナグラムになっているという)は不思議な夏をできるだけ詳しく思い返しながら、しかしヴァイゼルが消えた以上、彼が何者で何をしようとしていてそして何故突然消えたのか、という決して解き得ない謎に直面しながら叙述を続けていくことになる。仲間三人のうちピョートルは、70年のグダンスク造船所から始まった抗議運動の様子を見に出た通りで流れ弾(おそらくは鎮圧に出た軍隊の)に当たって死に、もう一人のシメクは別の街に移り住み、ヴァイゼルに付き従っていた少女エルカも、生物の教師もポーランドからドイツへと移民していった現在がある。エルカに会いに行ってヴァイゼルのことを問い、死んだピョートルの墓で彼と話し合う幻想的な場面でも謎は明らかになることはない。あの夏の出来事は詳しく思い出せても、何も明らかにならない。

パランプセストとしての場所

この徹底した不可解さが描かれるのが本作で、ポーランド西部国境地帯という場所からユダヤ人が消えたと要約しうる謎は、ナチスホロコーストの記憶や土地から異民族が消えた歴史的経験にも射程を伸ばしているようにひとまずは読め、美化も解決もしないという語りの倫理性は、そのことに対する態度として採られている。ヴァイゼルとの行動のなかで、グダンスクを含む近郊の土地の様子が細かく描かれるのはそのためで、いつもは海水浴ができる腐臭を放つ海辺や、いくつもの爆破された橋、語り手の近隣住民の様子、解体される建物や、ヴァイゼルがグダンスク生まれのショーペンハウアーゆかりの場所を説明したり、第二次大戦での攻防が行なわれた郵便局が出てきたり、土地と歴史についてさまざまな叙述が埋め込まれている。「Mスキ」と呼ばれる生物教師が土地の生き物を採集して回っているのが描かれるのも、そうした土地の描写の一環だろう。そして、その生物教師やエルカのように、リスクを負ってでもこの土地から消えた人というのがヴァイゼル失踪の謎の支流ともなっており、語り手以外の主要人物は現在時、全員がここにいない。この土地を離れた人々に、応答はなくとも向き合い続けることが本作の語りを成している。

解説にも言及があるけれど、訳者の別の論文では本作以後ポーランド西部国境地帯は幾度も書き換えられ以前の文字の痕跡を残す羊皮紙を指す「パランプセスト」と呼ばれるようになったとある。当時の事件とその後の尋問調書、そして現在の回想と幾重にも重ね書きされた記憶のみならず、国境地帯ひいてはポーランド自体が幾度も国境・領土を書き換えられた場所でもあり、ユダヤ人を始めさまざまな人々が追われ、あるいはやってきた土地でもある。ヒュレはグダンスク生まれで、同じグダンスク(ダンツィヒ)生まれのギュンター・グラスダンツィヒ三部作を思わせる箇所があるというのも、そうした重ね書きされた記憶にまつわる技法の一端だろう。なお、東部の国境地帯となるウクライナリヴィウは、本叢書で既刊のデボラ・フォーゲルゆかりの場所だ。

しかし、ヴァイゼルの奇跡や行状はやはり謎めいているし、印象的な腐る魚(魚はキリストの象徴だという)の海や、主人公たちの宗教的行事に関わらないヴァイゼル、ピョートルの死に納得できない主人公に対していらだつ司祭の様子など、多分に宗教的な要素がある。作中で「反キリスト」と言われている「黄色い翼の男」という精神病院から抜け出してきた男が聖書を引用しながら演説をする場面など、キリスト教の相対化の描写もしばしばある。作中一度だけ、シメクがシモンと表記されてる箇所があり、ここには「シモン・ペテロ」と訳注があり、三度の否認で知られるシモンを示唆しているらしい。イエスの変容を目撃し、尋問にイエスを三度知らないと答えるというのペテロの逸話は本作とも重なるところがあり、とするとヴァイゼルにはやはりキリストあるいは反キリストの影が重ねられているんだろうか。また、銃火器の調達や爆発の実験など、戦後間もない状況での遊びなのかテロリズムなのか判別のつかない行動も謎めいている。ヴァイゼルがいなくなると海の魚の腐敗が終わるというのはとても象徴的だ。

東欧の想像力叢書だとコンゴリ、ゴマ、ヒュレとここ三作続けて鬱屈した回想を主軸にした作品で、そうした歴史と政治、その責任にまつわる暗い回想の色調が東欧の歴史のなかで語られている。言ってみれば「風の又三郎」的な不思議な少年との出会いを描いたマジカルな小説という側面もあるけれど、そこには歴史と民族の問題が重ねられている。

ギュンター・グラス(『ポーランドの歴史を知るための55章』より) | エリア・スタディーズ 試し読み | webあかし
本書訳者の井上暁子によるグラスのポーランドでの受容についての記事。グラスとも関係のある本作のサイドリーダーにもなるし、『ブリキの太鼓』のオスカルとグラスの銅像があるのが、本作のまさに舞台となったヴジェシチ地区だ。

作中時系列について

解説と帯文に「1967年の夏」と記載があるけれど、これは誤りではないか。本書74Pにはヴァイゼルの生年が1945年で12歳で失踪したと記されており、それが1957年8月だったと明記されている。1946年にアブラハムソ連から送還されたという時系列的にもここは誤記ではなさそう。また23年後と幾度か現在時が示されていて、ヴァイゼルとの夏が67年だったら本作発表の三年先に現在時が設定されていることになるけどそれもちょっと変だ。また、少年の頃の部分でスターリンと思われる人物の肖像画が街から消えたという描写があり、スターリン批判の頃だと思うのでやはり57年では。1957年はパヴェウ・ヒュレ自身の生年でもある。1927年生まれのグラスのちょうど30年後。解説の誤記が帯に採られたパターンではないかと思う。

リンク

グラスについては以下のヒュレが取り上げられている本にも項目が立てられている。

東欧の想像力

東欧の想像力

  • 発売日: 2016/02/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
上で言及した訳者による「想起される地域――現代ポーランド語文学における国境地帯の表象」という論文にも本作についての言及がある。
東欧地域研究の現在

東欧地域研究の現在

  • 発売日: 2012/10/01
  • メディア: 単行本

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本書は松籟社木村さまから恵贈頂きました。ありがとうございます。