『代わりに読む人0 創刊準備号』

私も後藤明生について寄稿した新雑誌。創刊準備号として準備をテーマにした小説・エッセイ・漫画が寄せられた本篇と後藤明生小特集、そして寄稿者の2021年読んだ本の紹介コーナーで構成された一冊。編集長曰く試行錯誤や偶然の出会いの場としての雑誌が、まず準備として始まるのは納得感がある。

そもそも編集長(社主と言った方が良いのかも知れない)友田さんの『パリ闊』だって一巻はまだ歩き出さないのだし、後藤明生もまた迂回と脱線の作家だし、数学者のエッセイではグロタンディークを通して何の準備かが未確定な準備という考えが提示されていて、そうした予期と予想外の入り交じる、さまざまなものが隣接する中間的な灰色の場として「公園」という比喩が提示されている。

私は寄稿者の一人だけども他の執筆者については読んだことのある人が三人しかおらず、名前も知らない人ばかりで、他の文芸誌だったらもう少し見知った名前があるだろうところ、編集長が数学専攻だったことから理数系の執筆者がいたり、自費出版経験のある人がいたり、バラエティに富んでいる。編集長は雑誌の創刊の辞といえる「雑誌の準備、準備としての雑誌」のなかで、「いかなる失敗も許さないが故に、経験から学ぶことができず、失敗が本当に許されないものにまで失敗が及ぶ」社会になっていないかと危惧する。漫画や小説やノンフィクションも多くはまず雑誌連載という形で始められることが多いわけで、雑誌という場は練習を兼ねた本番でもある。

まあなんかそういう諸々が込められた雑誌のそれも準備号というこれから始まるor始まりつつあるなにか得体の知れない雑・誌で、とりあえず連載としては蓮實重彦論と後藤明生小特集がある。なぜこの二つ。そして2022年の雑誌だというのに内向の世代の話をしてる原稿が二つもあるのがちょっと笑ってしまう。


以下、各篇について。

二見さわや歌「行商日記」、オカメサブレという菓子を自転車で行商している人の日記で、自転車なのに電子マネー対応してたり、父親が落語家だったり、近くの家の人に怒られたり、淡々と進んでいくエッセイ。どこでもそこを商売の場所にしてしまえる移動販売は突然の出会いを生む。

陳詩遠「解凍されゆく自身とジュネーブ近郊の地下で起こっている乱痴気騒ぎについて」、粒子加速器のあるCERNにいた研究者のエッセイで、スイス国境近くの立地や日本国籍なのに名前で勘違いされる境界的な経験とともに、重力波の観測では心理バイアス排除のためニセデータを意図的に混入させる、というかたちでつねに観測に備えた興味深いシステムがあったと綴っており、そして著者はこれから新しい職場に移る新生活の準備をしている。

小山田浩子「バカンス」、あるカップルの休暇についていった主人公の視点から描く短篇小説だけれど、出てくる猪肉や鳥の死骸など、後味の悪く解決もされない不穏なものが充満していて、ホラーとまではいかないけれども無性に不気味というバランス感覚が味わえる。しかし鳥に空いていたという穴、そういや著者の芥川賞受賞作は『穴』だった。

伏見瞬「準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彦論」を書くことになったか」、一人の著者による一冊の蓮實論が未だ書かれていないことを理由にスピッツ論を刊行したばかりの著者が蓮實論を書くという挑戦を決断し、その事前準備として状況のおさらいをしていく文章。文章のリズムの観点でビートメイカーの側面を、他にインタビュアー、語学教師、物語作家、そしてとにかく明るい蓮實重彦、という五つの観点を提示して全体図を構想しつつ、自分の関心に繋げながら関連文献を読んでいる最中だという。著者も「天の邪鬼」だと言う通り蓮實の形容としてはそれが似つかわしいと思う。

田巻秀敏「『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと」、貨物船旅行エッセイを自費出版した作者がその準備として無線資格を取ったり、本を書店においてもらうための営業の手順がめちゃくちゃしっかりしててすごい。「丁寧に記された体験には小説に劣らぬ物語がある」、という信念も良い。

オルタナ旧市街「完璧な想像(ポートオーソリティ・バスターミナルで起こったこと)」、アメリカで出会った全てに準備万端なリー・リーという人物をめぐる小説ともエッセイともつかぬ文章で、準備と予期し得ない巨大な出来事911について語られる。タイトルと人名に春樹と大江が連想される。

近藤聡乃「ただ暮らす」、ニューヨーク在住の作者がエッセイ漫画にとって準備とは何か、というのを制作工程を示しながらネタのために暮らしたり無理やりネタを探そうとするのではなく「少しだけ準備中の気分でただ暮らす」というあり方に求める。911が話題に絡むところは一つ前の作品と同様でそういう並びかな。

橋本義武「準備の学としての数学」、最初に触れたように現代数学において最も大きな準備を行なった人物としてアレクサンドル・グロタンディークを挙げ、明確な目的なき準備としての数学という観点から語られるエッセイで、半分開かれたものの準備だからこそどこか未知の場所へ行けるのではないかとも説く。

わかしょ文庫「八ツ柳商事の最終営業日」、ある会社の最終営業日での催しの幹事を任された新入社員が幹事は必ず流血するという不穏な話を耳にして、という短篇小説。完璧になされた準備は必ず予定された結末を招き寄せる。なんか『予告された殺人の記録』を思い出した。

柿内正午「会社員の準備」、労働の準備つまり社会性の一端としての洗顔から始まり、代わりに読むという言葉から分業に繋げ、プルーストなどを引きつつ話を近代社会への問いにまでスケールアップさせていく批評的なエッセイ。本書で一番「批評」っぽいのはこの文章だと思う。

海乃凧「身支度」、中学の友達からの久しぶりのメールを受け取った朝の出来事を描く短篇小説。長袖が隠していたものをめぐる過去の悔恨と身支度とマスクが隠すことで維持される社会性の話かも知れない。

太田靖久「××××××」、読み方が分からない中華料理屋の名前についての短篇小説かエッセイか、と思ったけどやはりこれはエッセイか。検索はしていない。リアルの出来事についてあえて検索せずに自力で思い出したりしたいということはある。突発的事態には準備ができない一幕。

佐川恭一「ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会」、犬の話かと思えばほとんどパワーストーンの話をしているしア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会がいったい何の大会なんだかまるでまったく何一つわからないままだった。

鎌田裕樹「オチがない人生のための過不足ない準備」、書店員から農家の見習いとなった著者が農業とは過不足のない準備だと言われた話とともに、精神病患者の集う家での「寛解」概念を知り、迂回もまた経験なのだし「準備をしても期待はしない」というゆるくとった態度を志向する。

毛利悠子「思いつき」、コンビニ帰りに飛行場で大阪に飛んだ経験をもつその場のぶっつけ本番での制作を旨とする美術家のエッセイで、国外での制作がコロナで厳しくなったけれどもリモートを駆使して周到な準備を行なうことで例年以上に展示の機会を得た顛末。計画的な遂行はしかし物足りないと言う。

友田とん「雑誌の準備、準備としての雑誌」、編集長による発刊趣旨ともいえるエッセイで、ユーモア、試行錯誤、関心空間の接続といったものを束ねて「公園」と呼ぶ趣旨は既に触れたけれども、類似を見出す数学の経験が今に生きていることなどの迂回、隣接、類似への注視は非常に後藤明生的。この雑誌に何故後藤明生小特集があるのかがよくわかる文章にもなっていて、まあじっさい後藤明生のことが出てくるわけだけれど。「果てしなく目下準備中である」というフレーズがなんともこの雑誌らしいとも感じる。


後藤明生小特集」
連載企画と言うことで毎号載るらしい特集。歩くこと、怪談、政治性、回想と失せ物、色々な側面から後藤明生を読んでいて、それでいてそれぞれの原稿が響き合う箇所もしばしばあり、このなかだと自分のゴツゴツした原稿も全体の硬軟のバランスに貢献できてるかなと思える。

haco「日常と非日常の境界線」、後藤明生「誰?」を起点にしていつもは自転車で通り過ぎるだけの近所を自転車から降りて歩いてみることで日常と非日常の境界を越えてみようとする、歩く小説としての後藤明生追体験。「日常は、見方を変えれば非日常にもなる」という帰結も後藤的な感触。

蛙坂須美「後藤明生と幽霊」、怪談作家が『雨月物語』の現代語訳と『雨月物語紀行』を題材にしたもので、後藤の論から時代の通念に抵抗するものとしての幽霊像と、喜劇と怪談を変換する文体についてを読みとるもの。「こと移動を書かせたら、後藤明生の右に出る者はそうおるまい」という一文がいい。しかし上田秋成の筆名の「和訳太郎」はすごいセンスだ。後藤明生訳の『雨月物語』はなかなかすごくて、長い文章を上手く切って連ねていき、とても明快で読みやすくリズムが良い。文中での雨月を元ネタにした小説があるのか、という疑問については、『首塚の上のアドバルーン』が作中で触れている。そのほかはどうだったか。『笑いの方法』も触れている箇所がある。

友田とん「後藤明生が気になって」、坪内祐三の小島論を思わせるタイトルで、後藤明生ゴーゴリ風の描写を散りばめてるなと思ったら「八等分」で笑ってしまった。八等官じゃないか。失われたものの探索で『挾み撃ち』を踏まえながら、まさに後藤明生を読みながら後藤明生を書いているエッセイ。後藤明生を知らなくても興味深いんだけど、後藤明生ゴーゴリなどの作品のパスティーシュにもなってて、読むと言うことが書くと言うことと表裏一体になっているメタ的な仕掛けは作者らしい。

自分の原稿についてはこちらで触れた。
『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました - Close To The Wall


コバヤシタケシ「dessin (1)」、本誌デザイナーが描くデッサンとエッセイ。美大受験で落ちた経験があるものの、子供や妻がデッサン教室に通い始めたのを見て、別に自分も今から始めれば良いのではと始めたことと、自分の名前にまつわる嫌な記憶をカタカナ書きにするという新しい始まりの話。

「2021年に読んだ本」コーナーはそれぞれ興味深く読んで、読もうと思っていたもの、気にはなっていたもの、買ってあるもの、買おうと思ってるもの、全然知らなかったものなどいろいろあった。参考にしたい。記事投稿当時ジュンク堂書店池袋本店でフェアをやっている模様。私は梁英聖『レイシズムとは何か』とエリアーデ『ムントゥリャサ通りで』について書きました。こんなフェアが開催されるのか、妙に注目度高くない?って思ってる。

毎ページに入っている佐貫絢郁の絵は具象抽象さまざまなスタイルで描かれており、美術家のページだとアルファベットを使ったスタンプみたいなのをじっさいに制作したのかなと思わせる。しかしこれとあわせて同じページが二つとないのは組版飯村大樹の労力が偲ばれる。


とりあえず一読したメモ。編集長自身が知っている人だけではなく、寄稿者からも情報を募って集まった多彩な書き手が混在する妙な空間の末席から、へえこんな感じなんだと面白くその場の空気を体感している。

『代わりに読む人0 創刊準備号』に後藤明生小論を寄稿しました

「可笑しさで世界をすこしだけ拡げる出版レーベル」とうたった一人出版社「代わりに読む人」から出る雑誌、『代わりに読む人0 創刊準備号』に寄稿しました。文学フリマで先行販売されましたけれど、書店発売は六月十日とのことです。

連載小特集「これから読む後藤明生」に「見ることの政治性 ――なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?」という十枚程度の小論と、「2021年に読んだ本」のコーナーにエリアーデ『ムントゥリャサ通りで』と梁英聖『レイシズムとは何か』の紹介を書いています。

後藤論の副題は依頼文での提案をそのまま持ってきたもので、面白い視点でしたのでそれに答えるように書きました。後藤明生の読まれ方についての話をしながら、七〇、八〇、九〇年代の後藤をざっと素描したものにもなっているかと思います。

読んだ本のコーナーでは、最初に選んだ時点ではそういう考えではなかったのですけど、饒舌な語りと脱線、日本と朝鮮という二つの点で後藤明生ともリンクするものとなってます。
以下目次を転載。

【目次】

◎特集「準備」
二見さわや歌……行商日記
陳詩遠……………解凍されゆく自身とジュネーブ近郊の地下で起こっている乱痴気騒ぎについて
小山田浩子………バカンス
伏見瞬……………準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彥論」を書くことになったか
田巻秀敏…………『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと
オルタナ旧市街…完璧な想像(ポートオーソリティ・バスターミナルで起こったこと)
近藤聡乃…………ただ暮らす
橋本義武…………準備の学としての数学
わかしょ文庫……八ツ柳商事の最終営業日
柿内正午…………会社員の準備
海乃凧……………身支度
太田靖久…………××××××
佐川恭一…………ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会
鎌田裕樹…………オチがない人生のための過不足ない準備
毛利悠子…………思いつき
友田とん…………雑誌の準備、準備としての雑誌

◎「2021年に読んだ本」
近藤聡乃/太田靖久/佐川恭一田巻秀敏/柿内正午/蛙坂須美/小山田浩子/二見さわや歌/オルタナ旧市街/伏見瞬/東條慎生/海乃凧/陳詩遠/鎌田裕樹/わかしょ文庫/haco/友田とん/コバヤシタケシ
◎連載・小特集「これから読む後藤明生
haco………………日常と非日常の境界線
蛙坂須美…………後藤明生と幽霊 ──『雨月物語』『雨月物語紀行』を読む
東條慎生…………見ることの政治性 ——なぜ後藤明生は政治的に見えないのか?
友田とん…………後藤明生が気になって

◎コバヤシタケシ…………dessin (1)
◎執筆者略歴
◎編集後記

◆装画・挿画・ロゴ◆
佐貫絢郁

◆制作◆
装幀・コバヤシタケシ
組版・飯村大樹
校正・サワラギ校正部
印刷製本・シナノ印刷株式会社

雑誌の内容詳細は以下のリンク先を参照して下さい。
www.kawariniyomuhito.com

社主友田とんさんは後藤明生に私淑する書き手で、作中でしばしば後藤明生オマージュが仕込まれていますし、後藤明生小特集も連載という通り毎号行なう予定とのことで、後藤明生リバイバルに繋がる場に呼んで頂いたのは光栄でした。

加藤聖文『海外引揚の研究 忘却された「大日本帝国」』

1945年の敗戦によって一挙に植民地を失い発生した数百万の日本人の引揚げをめぐって、その総体的な研究を試みる一冊。和文、欧文、露文、中文等関係各国の資料を使った国際政治的な引揚げ過程の研究と引揚者の記憶の歴史を描く。敗戦時に六百万を超える在外日本人がいたものの、本書の対象は敗戦を期に引揚げが始まった三百五十万近い民間人に限定されており、軍人と敗戦以前から引揚げが始まっていた南洋、東南アジアは対象外となっている。

前半では各地域ごとの引揚げの国際関係を絡めた背景を叙述し、後半では引揚げの歴史認識や慰霊碑の様相を通した記憶の歴史を問う構成になっている。特に、引揚げと言っても一面的ではなく、ソ連、中国、アメリカとその植民地にどの国が来たかによってかなり状況が異なる点へ注意を促している。

敗戦後、日本政府は当初住民の現地定着方針を指示していた。しかし国際的な状況の変動のなかで日本政府は受動的な振る舞いが目立ち、引揚げがアメリカの協力もあって予想よりも早く完了できたために、そうした日本の不作為や見通しの甘さが検証されずに来ていると指摘されている。満洲開拓民の慰霊碑にはしばしば「拓魂碑」というものがあり、これは当の満洲移民政策の立案者で悲惨な事態の原因にほかならない加藤完治の命名と揮毫によるものだという驚くべき話がある。どちらも加害者の責任が曖昧なまま問われずにいるという点については同様だ。

その悲劇と怨嗟の象徴ともなるべき『満洲開拓史』には、戦前における満洲移民大量送出を実行し、その悲劇の責任をもっとも負うべきであるはずの加藤完治をはじめとして満洲移民政策の遂行に直接関わってきた官僚が多数編纂に参画し、満洲開拓政策そのものの批判的検証が試みられることはなかった。すなわち、入植計画の杜撰さや半強制的な移民割当、省益優先の場当たり的な対策など満洲開拓政策が抱えていた本質的な問題は、敗戦時の悲劇によってすっかり覆い隠されてしまったといえよう。そして、この書の刊行以後、府県や開拓団、義勇隊ごとに編纂された開拓史もほぼこうした歴史観に沿ったものとなっていった。こうして、開拓団員の怒りの矛先が巧みにかわされていったまま、悲劇性のみが強調されていったのである。167P。

同様のことを引揚げの歴史全体についても指摘している。

戦後において引揚問題が一般の日本人の心の奥底に沈殿し、社会に埋没していったことは、そもそも何故に引揚者が発生したのかを深く考える機会を奪い、多くの日本人が、戦前の日本は広大な植民地を擁する「大日本帝国」であったことを忘却する結果をもたらし、植民地体験の記憶の喪失による東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢の要因ともなったのである。2P

戦後引揚者が冷遇されると同時に1990年代まで引揚げ研究がほとんど行なわれてこなかったのは、冷戦構造に囚われ「反共」の材料として政争の具とされていたこと、さらに植民地研究は日本の「加害性」を明らかにすることが主流だったため、被害者性の強調はそれを曖昧にする点があったことなど、さまざまな政治的背景があったことを指摘し、今ようやく政治問題ではなく「歴史として客観的に検証すべき段階に入った」と最初に著者は言っている。しかし、元々政治が絡むために史料閲覧が容易ではなかったロシアの絡んだ歴史研究は今よりいっそう困難になったのではないか……。


満洲引揚げの悲劇性が強調されることでソ連への反感が強まり、戦後日本の政治的傾向に影響したという見方や、戦勝国なのに日本の戦争犯罪を曖昧にせざるを得なかった政治的状況を見落として蒋介石の以徳報恩演説を温情としてばかり見る感傷的な態度が見受けられることへの指摘なども重要だ。

さらに、沖縄戦や広島長崎の犠牲者については国を挙げて慰霊祭が行なわれているのに、満洲引揚げの犠牲者は約二十四万五千人と数の上で言えばはるかに多いにもかかわらず共同体の記憶から弾き出されてしまった。日本国内最後の地上戦としての樺太が忘れられていることも、共同体の記憶の象徴となる慰霊碑の歴史をたどりながら論じている。

 しかし、こうした引揚者の無念を刻んだ記念碑が訴えるのは、あくまでも同じ日本人を対象としたものであって、その他の民族を対象としたものではなく、また記念碑に刻まれる人びとも日本人のみであった。ここからはじき出されたサハリン少数民族の記念碑は、帝国という記憶をたやすく忘れ去った日本人と戦後日本社会への告発である。また、浮島丸の慰霊碑も同様の意味を持っている。
 海外引揚は、単に日本人だけの問題ではなく多くの民族を巻き込んだ一大社会変動であったが、こうした視点は戦後日本において完全に欠落してしまった。引揚者は自らのことのみを語り伝えようとし、対する日本社会は彼らの存在も歴史も忘却し引揚という歴史的事実を顧みることはなかった。そうしたなかで、海外引揚をめぐる記念碑は、戦後日本社会のなかで忘却されていった大日本帝国の歴史をかろうじて伝える記録であった。しかし、その記録も関係者が減少するなかで社会から忘却されつつある。200P

と、少数民族ウイルタのゲンダーヌの事跡を通じて指摘しており、それ故にこそ「単なる悲劇の検証にとどまらない日本の脱植民地化の姿」4Pを検証することが必要だというわけだ。

終章は東アジアや世界史のなかでの脱植民地化について触れていて、中東欧で起きた移住、住民交換、ソ連強制移住などの「脱混住化」に対して、北東アジアでは朝鮮半島、中国・台湾でのように同一民族が別の国家に分断されていく点に大日本帝国崩壊の影響を見ている。第二次大戦後、欧州でも植民地を抱えていた国における植民地支配についての歴史認識は揺らいでおり、さらに引揚者の悲劇や苦難に焦点を当てることで植民地支配の相対化や肯定などのバックラッシュは2000年代以降に顕著になっているのも国際的な流れとしてあると指摘されている。

多民族国家としての大日本帝国を忘却して単一民族国家としての被害の物語ばかりが記憶されていく状況において、その加害と被害が引揚者ごと共同体から弾き出されてしまった引揚げについての研究はやはり重要な意味がある。帝国の忘却と単一民族国家という幻想はアイヌ朝鮮人をはじめとする日本の差別とも密接な関係があるように。

収録に際し削除や加筆がされているけれど本書収録の論文は幾つかネットでも読める。
「引揚げ」という歴史の問い方(上)
「引揚げ」という歴史の問い方(下)
ソ連軍政下の日本人管理と引揚問題 : 大連・樺太における実態

読書人の書評では研究の限界についても指摘がある。
海外引揚の歴史化の新たな試み 読書人WEB


以下は特に整理してないメモというかほぼ抜き書き。

具体的には、イデオロギー対立である米ソ冷戦が南北朝鮮や南樺太からの引揚、または同じイデオロギー内部での対立である中ソ対立が大連からの引揚、中国の正統性をめぐる国共対決をめぐる国際政治の複雑さが満洲や中国本土・台湾からの引揚に影響を及ぼした。しかし、日本国内は実質的に米軍の単独占領下に置かれたため、国内の日本人は引揚者と異なり、複雑な戦後国際政治を直接体験する機会がなく、結果的に引揚者との意識ギャップが戦後認識に大きな影を落とすことになる。
 そして、こうした日本人間の意識ギャップは戦後復興のなかに埋没し、引揚問題は関係者の体験談のかたちでのみ語り継がれることとなった。だが、戦後において引揚問題が一般の日本人の心の奥底に沈殿し、社会に埋没していったことは、そもそも何故に引揚者が発生したのかを深く考える機会を奪い、多くの日本人が、戦前の日本は広大な植民地を擁する「大日本帝国」であったことを忘却する結果をもたらし、植民地体験の記憶の喪失による東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢の要因ともなったのである。しかし、現在の日本と東アジアとの関係は、戦前と戦後を断絶したかたちで捉えるべきものではなく、植民地・占領地という要素を欠いては成り立たないのである。2P

●第一章 引揚問題の発生
GHQ主導で南朝鮮、太平洋からの引揚げが実施され、日本政府は政策の実施機関としての役割しか与えられなかったこと。36P
戦後処理が外交専権事項だと思っていた重光と、全的な裁量がいると考えた緒方との政府の内紛。
国際情勢に対する無感覚と受動的態度は日本政府の政策余地を狭め、最終的に米国主導で引揚体制が構築され、日本政府は受動的な立場でしかかかわれなくなる。39P
満州の総司令がソ連軍に拘引され、居留民保護の司令塔が不在になった。
対中政策の転換にともない、アメリカ船舶の引揚げ貸与が実現し飛躍的に進んだ。

●第二章 満洲引揚げ
ベルリン陥落でのソ連軍の行状の情報があるにもかかわらず、現実を直視せず、居留民の現地定着を支持する。
ソ連は無関心で、国際的に認知されてない中国共産党は外交には関与できず、東北での支持基盤が脆弱な国民党政府は具体的な行動を起こせず、在満日本人の引揚げを取り仕切る政治権力が存在しなかった。64P これが満洲引揚げの悲惨さの一因で、スナイダー『暴政』の解説で指摘されていることを思い出させる。
ソ連軍の暴行略奪などの悲劇性が強調されることで、戦後日本において革新勢力の伸長を妨げたとの著者の見方がある。

●第三章 台湾・中国本土の引揚げ
平穏な終戦
満州や朝鮮では日本人自らが引揚げ組織を作るほかなかったけれど、台湾では総督府が健在だったのと方面軍が折衝に当たったこと、そして台湾社会が混乱する前に引き揚げられたことで、自分たち主体で生き残りを図る必要がなかった。86P
無傷の支那派遣軍は徹底抗戦を主張したけれどポツダム受諾を受けて降伏準備を始めた。しかし武装解除において、弱体の軍に対して降伏する抵抗感、国民政府の低い治安での武装解除に抵抗を示している。88P
中国各地に集められた日本人は食料も支給され引揚げ実施も早かったため、さしたる混乱もなく、一方で技術者の留用が積極的に行われた。96P
台湾引者には旧総督府官吏が多く、経済界との結びつきが強く、戦後関係者の活動に恩恵をもたらした。そして実質的に一つの国だった台湾を対象にした協会は、外交関係にも深く関与する背景となった。98P
蒋介石の以徳報怨演説や日本人への対応が戦後の蒋介石神話の形成を促し、親台派のバックボーンとなり戦後の日台関係に影響を与えた。

●第四章 ソ連と引揚、大連、朝鮮、樺太
北朝鮮残留日本人問題は、ソ連内部の構造的問題が絡み、状況が深刻になっても迅速な対応ができないというジレンマに陥っていた。113P
避難民の増加と三十八度線の封鎖によって、狭い領域で飢餓状態に陥った。咸興では二十パーセントの死亡率を出した。115P
公的に日本人送還の決定がなされず、技術者などを除けばソ連軍にとって救護されるべき存在となる一般市民を抱えておく必要はなく、日本人の南下脱出は黙認という状態になっていた。
二十五万人が北から脱出し、二万五千人が途中で死亡したと推計されている。117P
南樺太へのソ連人の移入は、ウクライナからが多い。独ソ戦でのウクライナの荒廃の影響か。
南樺太朝鮮人は日本人帰還による労働力不足を補うために残留させられ、南朝鮮出身者の多かった住人も、朝鮮半島の南北分断によって政治的に帰還不可能となった。122P

●第五章 救護から援護へ
引揚げ女性の性病や不法妊娠に対応するための民間団体の活動。国家主権を失った日本に代わって民間団体が官民協同のネットワークを生かしていた。
外地からの食糧移入に依存していたため、戦後は国内で農地を確保しなければならなくなり、開拓事業を拡大するなかで、満州開拓団員が積極的に採用された。そのため食糧政策ではなく引揚げ援護対策の性質を持ち、急な選定で開拓適地ではないところに入植させて失敗した事例も多かった。144P
引揚者の生活権利や保証を優先したため、植民地支配への問いは後景に引いた。148P

●第六章 満州引揚者の戦後史、歴史認識
保守政権は歴史問題に概して冷淡だった。
満史会の開発史の非イデオロギー的な歴史叙述。援護会による満州国史イデオロギー的な叙述。
政府は植民地への賠償問題を恐れて、開発したインフラによって賠償に代えるためにも植民地近代化論を強調した。
林房雄大東亜戦争肯定論や中国韓国への賠償放棄が確定し、政治的にためらう必要がなくなったことで満州国史イデオロギーを前面に出すことが可能になる。161P
戦後関東軍関係者があまり語らなかったため、満州のマイナス面はもっぱら関東軍の責任とされた。また、ソ連や中国で中途半端に裁かれたため、その責任問題もあいまいなままになった。164P
満州に対する歴史認識は、戦後歴史学の裁断に対する当事者の反発にもつながったけれども、後者もまた特定の抽象性の正当化に終始した。

●第七章 記念碑に見る表象
戦前の日本が広大な植民地帝国だったことの忘却について。
外資産補償要求運動に対し、満州引揚組は在外資産などなく、国家による慰霊と顕彰の要求が強かった。
南樺太講和条約ソ連が調印しなかったため帰属不明の土地のままになっており、返還の可能性をもった場所で、ほかの外地引揚げ民との違いがある。
満州引揚者にとって慰霊碑は過去を振り返り死者を慰霊するものだが、樺太引揚者にとっては過去だけではなく、現在と未来を見据える希望でもあった。192P
ウィルタニヴフといったサハリン少数民族の慰霊碑は北海道に局限され、その記憶も日本全体の共有事項とはならなかった。

●終章
東アジアの脱植民地化の一例としての日本。現地民による抵抗ではなく、突発的な事態としての脱植民地化。
2000年になってもくすぶる中国残留日本人問題。

薄い本を読むパート3

薄い本を読むパート2 - Close To The Wall
一年おきにやってる気がするこれ、三回目。今回は厳密ではなく本文200ページ前後、とややゆるめに選んだ20冊。冊数も記事も分量が増えて行っている。

フリオ・ホセ・オルドバス『天使のいる廃墟』

スペインの作家による中篇小説。自殺者がやってくる廃墟の村パライソ・アルトへやってきた語り手が、ある心変わりによって自殺者を見送る「天使の務め」を果たすようになり、さまざまな人たちの最後の話を聞いていく。自殺者を描きながら晴れやかな雰囲気に満ちた奇妙な物語。天使の務めとは自殺を思いとどまらせることではなく、ただ話を聞き最後のちょっとした頼み事を頼まれるというようなものになっていて、訪問者の話も切迫した陰鬱さというのとはまたちょっと違う。

死なんて、ひとつ隣の家を間違えて訪ねようなものでしかないんじゃないですかね。110P

と言うように。「この胸の痛みほど人生で愛おしいものはない」という繰り返される歌のフレーズがあるけれども、だからといって自殺を否定するわけではなく、生の賞賛も死の否定もしないような描き方になっている。生から死への途上の場所、現実と幻想のその中間地点、そういう灰色の領域だ。見送っている語り手の元に最後にやってきた人物は元恋人のアンヘラつまりAngelということは最後に見送られるのはそもそも自殺しようとして村にやってきた語り手だったのだろうか。そこは明確にならずに終わっている。天使もまた天使に見送られて、という締めだとは思うけれども。

日本では優しいファンタジーとして受け取られてる印象だけども、キリスト教の自殺の禁忌があるとまた違った意味がありそう。スペインでどれだけそれが強いかはわからないけれども、その禁忌がもたらす抑圧や遺族のダメージを和らげようとして書かれた可能性を考えている。天使というキリスト教的なイメージを使っているのはそのためではないか。穏やかな作風には案外闘争的な側面があるんじゃないか、と思っているけれどもどうだろうか。登場人物では、逆立ちで現われて首から血を吸う吸血鬼みたいな少女が印象的で、逆立ち、コウモリの真似かよって思った。

ミルチャ・エリアーデ『令嬢クリスティナ』

ルーマニア宗教学者にして小説家エリアーデの最初の幻想小説と言われる長篇。ルーマニアのある村に滞在する画家と考古学者は、その貴族の館で不気味な怪奇現象に見舞われるようになり、それには十数年前の農民一揆で二十歳前に殺された令嬢の影響があるようで、という怪奇幻想小説

吸血鬼ものというかゾンビものというか、死んだはずの人間が若い男を欲するあまりに現世に侵食しつつある異様な雰囲気が立ちこめており、過去と現在、異界と現実が重ね合わされるような描写は「一万二千頭の牛」での異なる時間の重ね合わせを思い出させる、著者通有のものだろうか。結構ストレートな恐ろしくもエロティックな幽霊譚という雰囲気だけど、一等印象的なのはやはり九歳のシミナだろう。クリスティナの影響を受けて底が知れない雰囲気があり、ある時には画家にキスがヘタねと言い放ち、靴にキスさせて、ここには鞭がないのと嘆くこのサディスティックな振る舞い。幼いシミナのエロティックな場面を描いたことで非難を受けたというのもなるほどなと思わせるものがある。石川淳の「鷹」のラストを思い出した。貴族の一族が滅ぼされる結末は、過去の農民一揆の貫徹によるんだろうけれど、何故そこまでこの一族が疎まれているのかちょっとわからないところがある。

夜と月、すみれの匂いが雰囲気を盛り立てている幻想譚。サキュバス的なイメージがあって、締め方も含めてちょっとミソジニーな印象もある。ミハイ・エミネスクの詩の引用があり、金星ルチャーファルというのはなるほどルシフェルか、と。

フランツ・カフカ『変身』

チェコプラハのドイツ語作家の中篇、角川文庫の川島隆による新訳。カフカ詳しくないけどすっきりしてて良いと思う。長文の解説も丁寧で、本篇では冒頭の貴婦人の絵が中盤で固守するものだったところや、ラストシーンでグレーテの身体を強調する倒置法になってるところが再読して印象的だった。厄介な虫も消えてラストは妹の結婚を考える将来の明るさという風に覚えてたけど、妹の若々しい身体にそれを見出しているところは失念していて、倒置法でそれを強調することでグレゴールの虫と化して埃まみれで傷つき死んでいく身体との対比が鮮烈になっている。

古典新訳丘沢訳以来十年ぶりとはいえまあ話は概ね覚えていた感じだけど、仕事に忙殺されて鬱になったら家族から害虫扱いされて死んだらお荷物が下ろせたって感じで家族みんなが喜んでる、という自虐的にもほどがある話で、なんかちょっとゴーゴリ「外套」を思い出す悲哀とユーモアがある。解説では三人の紳士が人間とは思えないと書かれていて、これは学生時代読んだ時にコメディタッチな描写として印象に残っていた箇所だった。紳士は明らかにコメディリリーフって感じ。冒頭出てきて、中盤で人間性の証しとして守ろうとする毛皮を着た貴婦人の絵が、マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』を踏まえたものという説があるらしく、これは結構驚いた。で、持ち去られる毛皮の貴婦人の絵を守ろうとする虫の行動が、絵に股間を押しつけていて自慰だという説もあるらしい。そうすると人間性と性欲の関係が皮肉な形にも読めてくるか。「こっちへおいでクソ虫ちゃん!」の家政婦は印象に残る。グレゴールを看取った人。音楽と人間性、妹のヴァイオリンのくだりはやっぱり悲しいね。

解説が翻訳史や研究史の概説になっててここは最新の研究を踏まえたものだろう。そういえば自分はあまりカフカの伝記等は読んでこなかったので、プラハでの生活の様子や恋愛関係での面倒くささ、特に作品からは父の強権的な印象があるけれども実際はかなり違っていたというのは面白い。そうするとカフカ作品の父親像というのはかなりの部分、カフカ自身の不安や妄想に近いところがあり、じっさいカフカはかなり実務能力もあり有能だったらしいけれど、残された文章には相当自己否定的な側面があって、こうした気質が作品に繋がっている印象だ。恋人に一日に何通も手紙を書いて、返事を催促しまくる面倒臭さのうえに浮気性で色んな女性と親しくなっていくくだりは、かなりメンタルが不安定でさみしがり屋というか依存的というか、不安や被害妄想の強かった人物のようで、そうした根拠のない「不安」が作品化されることでカフカ世界ができている気がする。特に婚約者がいるのに他の女性に面倒な手紙を出し続けた件で婚約者らと話し合いの席を設けられて婚約破棄に至った「ホテルの法廷」事件というのがあり、これは『訴訟』(審判)でKは本当に何も悪いことをしてないのか、という説がありじっさい作中ではKは女性に対して節操がないという指摘がある。

しかし、背景として語られる二十世紀前半、カフカも罹患したスペイン風邪第一次世界大戦での情勢の不安定さや、カフカが亡くなってからのナチスドイツの台頭とドイツ系住民保護を口実にズデーテン地方を割譲させその後チェコ全土を併合、そしてユダヤ人迫害によって叔父や姉妹らが収容所で亡くなり、ブロートがパレスチナへ亡命といった歴史は、コロナ禍でのロシアのウクライナ侵攻という戦時下で、あまりにも「今」になってしまった。

翻訳について、池内紀訳を「大胆な意訳と省略によって劇的に「軽い」訳文を作り出し」154P、と評するあたり、あまり良くは思ってないのかなと思った。池内紀が明るいカフカを押し出したことはまあ功罪あるんだろうな、とは。集英社文庫のポケットマスターピースカフカの巻に川島訳の『訴訟』が収録されているほか、公文書や書簡の抄訳がある。まだ読んでない。

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』

イタリアの作家によるアソーレス(アゾレス)諸島をめぐる掌篇、断片で構成された一冊。幻想的、隠喩的な紀行文だとはじめにことわりがあるとおり、見知らぬ島を虚実のゆらぎのなかで経巡るような不可思議な雰囲気が楽しい。

アルベルティーヌとマルセルという名前が出てきてどうやら『失われた時を求めて』を示唆しているらしい男女の会話や、古い様式を保持している捕鯨に同行した様子、島出身の詩人アンテールの生涯などがたどられ、メルヴィル『白鯨』、ミシュレ『海』などが参照され、そして島の男から聞いたというある陰惨な事件を描く短篇が、重みをもって巻末を締めることでふんわりした雰囲気のある本書全体をまとめる形になっているのが印象的だ。最初の一篇が「手紙の形式による夢」と題されていて、「ただ、そんな夢を見たに過ぎなかったのだ」と終わる。そして「世界も難破しかかっているのだが、だれもそれには気づかない」44Pなんていう一文や、「隠喩としてのクジラ」が本の主題で、リアリスティックな紀行文にはしないというまえがきのように一種夢幻的な雰囲気が漂う。

クジラや捕鯨やらの知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだメルヴィル『白鯨』の逆を行くような断片性があり、切れ切れの男女の会話にプルーストが匂わされているように、あるものを総体的に描くのではなく小さな断片に大きなものを想像させるような方法が、「隠喩としてのクジラ」なのかも知れない。海の下に巨体が隠れているような一つ一つの断片。そういえば、「アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ」には、岩とクジラを見間違えた男と、その男と背格好が似てもいない男と見間違えた女が出てくる。ずっと男のことを考え想像していたからという彼女の言葉は本書においてとても示唆的。

イタロ・カルヴィーノ『ある投票立会人の一日』

イタリアの作家による、戦後イタリアでの投票立会人を描くリアリスティックな初訳の中篇小説。救護院の投票所を舞台に、司祭らが自由意志を疑われる障碍者に投票を誘導している不正に対して共産党員の主人公がささやかな抵抗を示しながら人間と愛について考える。

コットレンゴというその施設は「たくさんの不幸な人たち、身体障害者や知恵遅れの人や奇形のある人たちや、さらにさらに裏側の、知ることをまったく許さない隠された被保護者に至るまで保護するもの」ながら、選挙期間中では「ペテン、誤魔化し、背信行為と同義の場である」(10-11P)。ここで権利を尊重すべき左派政党に属する側が、特定の政治勢力によって搾取されているとはいえ障碍者らマイノリティの参政権を阻止するという皮肉な構図がある。事なかれ主義のように自由意志の確認プロセスを蔑ろにしていく状況に抵抗し、事態を把握してない知的障碍者の投票を阻止する一幕。

彼、アメリーゴは、政治の世界の変化は複雑で長い道のりを経てもたらされることを知っていた。幸運なめぐり合わせでいつの日にかはと期待すべきものではないと。だから彼にとっても他の多くの人たちと同様、経験をつむことがペシミストにならないですむことを意味していた。8P

こうした政治参加の意味を問いつつ、救護院に暮らす人々を目の当たりにし、また自身の恋人との繋がりを考えていくシリアスな政治的小説で、代表的なカルヴィーノ作品からは印象が異なる。その辺、本の半分ほどを占める訳者の三つの評論が文脈を補完している。

知恵遅れの若者がゆっくりとおやつを食べ終えたいま、父と息子はベッドの両サイドにずっと座って、二人とも骨ばって静脈の浮いた手を膝の上に置き、互いに頭を――父親は帽子を深くかぶった下から、息子は徴兵適合者のように丸刈りした頭を――ねじって曲げ、目の端で見つめ合ったままじっとしていた。
 そうなんだ、アメリーゴは思った。あの二人は、ああしてあのままで互いに必要なんだ。
 そして思った。そうなんだ、この在り方こそが愛なのだ。
 さらに思った。人間は愛が届くことで人間なんだ。そして我々自身がつくり出す境界以外に、愛に境界はないのだ。103P

「むずかしい愛」というと作者の別の短篇集を思い出す。括弧や「――」を多用していて入り組んだ文章構造はするっと読めないものになっていて、これは翻訳の問題なのかなと思ったら、元々がそういう「過剰な」文章で書かれているらしい。1953年から63年にかけて書かれ、これ以後通常のリアリズム作品を書かなかったというカルヴィーノ作品の結節点だとも評されている。15の掌篇を連ねたような中篇で、この形式はカルヴィーノらしい感じ。そしてこの作品は「いま、この瞬間、どの街にも「街」がある」と終わるけれども、この「街」は『見えない都市』の都市と同じcittaという単語だと。政治的な作品では「ポー川の若者たち」は未訳か。

カルヴィーノ、まだ五六冊積んでるし評論集をそういやまだ読んでない。『なぜ古典を読むのか』なんてみすず書房版を持ってるのに。訳者の柘植由紀美が評論を載せていた「葦牙」という雑誌、確か文学フリマで見たことあるような、と思ったら幻視社で出展してた時にも出展していて、それで見たことがあったようだ。

スティーヴン・ミルハウザー『魔法の夜』

アメリカの作家による中篇小説。アメリカ南部、半世紀ほど前のコネチカット州の海辺の街の夏の夜にさまよう子供や大人たちばかりか、月明かりの下でマネキンも人形も動き出す、魔法のような一夜を描いた作品。ミルハウザー作品でも特に雰囲気特化型の感がある。

訳者あとがきでは原文はhotとwarmが半々に使われているとあり、温度感が伝わる。今のようにだだ暑いわけではなく、暖かな夏の夜、外を出歩きたくなるような時間、一人出歩いて森のなかで裸になったり、三人で図書館に潜入したりというちょっとした非日常の解放的な雰囲気が良い。マネキンや人形が動きだすファンタジーでもあり、そうしたもろもろの醸し出す月明かりの夏の夜の空気は確かに良いんだけど、いささか物足りなさもある。というより、雰囲気を味わうために物語性をあえて除いてる気配があり、まあまあ好みが分かれそうだと思った。何も起こらないわけではないけど特に何かが起こったわけでもない、中間的な空気。グループもあるけど出てくる人はみなどこか「普通」から外れた、居場所を探す人たちで、そうした一人一人が夜の街で対面したりすれ違ったりしてあなたは一人ではない、という呼びかけのようでもあり、月の光でお読み下さいというのは読者もまたその一人として包みこもうとするような仕掛けか。

ミルハウザー入門にと訳者は言うけど、個人的には入門には向かないと思う。私は『イン・ザ・ペニー・アーケード』が初手でこれが良かったから他も読んでるけど、本書からだと他に進むかは疑わしい気がする。読んでいてこの話はアニメなり映像なりで見たい気がした。一つの街で遭遇したりすれ違ったり、同じ場所を別の視点から見たりといった交錯や、幻想的な雰囲気は絵にしたら映えそう。

パーヴェル・ペッペルシテイン『地獄の裏切り者』

honto.jp
ソローキンも属したロシアのモスクワ・コンセプチュアリズムのアーティストにして作家による短篇集で、トンデモ宇宙理論、天国における永遠の生を保証する「慈悲深い」兵器など、奇想SFを通して死を断絶としてではなくどこか楽天的、親和的に描く作風が特色。ソローキンほど壊乱的ではなく、また別の何かに似てるなと思ってたらケネディ暗殺ネタの作品があり、J・G・バラードっぽいところもあるんだと気づいた。死んだピカソを蘇生させる一篇にはロシア宇宙主義のニコライ・フョードロフへの言及があり、死生観の影響はそこか、とも。

最初の「太陽の冷たい中心」が「宇宙の新しい地球中心モデル」というトンデモSF理論から始まる掌篇なんだけど、出てくる固有名がホーキング、パールマンペレルマン)、ジョン・リリー、そしてロジャー・ゼラズニイという並びになってて哲学的SFコントという感じがある。その続きにあたる「黒い星」では、 「アメリカ人たちはこれらの英雄たちに関して 「アストロナウト」という語を用いたが、ロシア人たちは「コスモナウト」という語を好んでいた。どちらもギリシア語の単語だが、二つの単語の違いはそれぞれの志向の違いを正確に記述している」(30P)とあり、アメリカ人は星に魅了され国旗にも星がありスターへの崇拝があったのに対し、ロシアでは闇と神秘を崇めており、星ではなく星々の間の暗いスペースに魅了されたというのがその志向の違いらしいけれど、なかなか興味深い対比だ。これ以外にもアメリカとロシアの対比は本書に多く見受けられる。

自分をアガサ・クリスティー作のミス・マープルの孫だと思いこんでいる女性がスパイ活動を行なう「音」という短篇では、耳という無防備なところから入り込んでくる音の怖ろしさについて語りつつ、周囲の人間がどんどん死んでいく妙な話で、この主人公が殺しているのかとも考えてしまう。

表題作「地獄の裏切り者」は1994年クリミア半島で語り手が自分のまぶたの裏で見た映画について語るという奇怪な形式を持つ短篇で、その語り手の脳内にしか存在しない映画のなかで、米ソ東西冷戦がずっと続いている二〇二〇年代を舞台に、「慈悲深い」音響麻酔兵器の開発について語られる。科学者は無痛で無害の大量殺戮兵器では満足せず、ついには「死後の世界のコピーと言いうる、魂の人工的な不死を作り出したのである――人工の永遠、人工楽園という、ヨーロッパの錬金術師の夢を実現したのだ」(87P)。近年の仮想世界で生きるSFにも近い設定だ。帯にある「音響麻酔兵器」と言う言葉が本文にあったか忘れてしまったけど一つ前の「音」が今作のフリにもなっている。表題は神と天国を裏切った天使に対し、地獄あるいは地上で生まれたものが地獄を裏切って天国に寝返るのを意味し、この生死の反転と米ソ間での裏切りが交差する。

快楽と死については「オルギア」という短篇がまさしくそれで、どこからともなく乱交する大勢の男女が現れ、という怪奇譚。「左右の思想のジンテーゼ」には他の作品にも出てくる「エコ社会主義」という資本と環境の対立をめぐる資本主義の終焉のイメージなどが語られる。環境の武器庫には自然現象だけではなくウィルスもある、と語るアクチュアルなスピーチが展開され、作者のコンセプトが結構素で出ているようにも感じられる。

この世界で無料なのは、夢と広告だけです。夢は欲望の世界と呼ばれています。広告も同じように定義できるでしょう。137P

本物の革命は安らぎの革命、眠りの革命となるべきです。人類の眠りを制限するものは全て――スターリニズムであれ資本主義であれ、学校であれ、幼稚園であれ、工場であれ、強制収容所であれ、オフィスであれ、軍隊であれ、労働であれ――全て呪いを受けるに値します。141P

「サソリの影。ジャッキー・Oの秘密の絵」というケネディ大統領夫人を名乗る語り手によって描かれた絵を題材にして実際に絵を挿入しながら、ケネディを題材にしてロシアの作家によるアメリカへの幻想が描かれたような一篇。

「3111年のパブロ・ピカソの復活」、作者と同名で経歴も似ている語り手の元に、「ニコライ・フョードロフ記念研究所」で行なわれている死者の復活に関する実験に協力しないか、と始まる短篇で、性欲旺盛だけど水も飲めない蘇生したピカソが様々な影響で画風を変遷させていく一年が描かれる。ペッペルシテインのパーヴェルという名はピカソのパブロに由来しているという作中の記述は現実でもそうなんだろうか。芸術家を復活させて作品を作らせるのはソローキン『青い脂』を思い出すけれど、作風は相当違う。新ピカソの絵を挿入しつつ、PPという同じイニシャルを持つ二人が合作に至る交流を描く。なるほどソローキンと同じ流れにあるだけはあるなと思うけどこちらはより落ち着いていて、交流の描き方もなかなか良い雰囲気がある。ピカソは何故か3111年とか言うけど舞台は2016年ということになってる。表題作とこれが本書では特に印象的。

訳者は、「不真面目なユーモアと快楽によって死を克服しようとする真面目な本」と評している。ソローキン、ペレーヴィン、ペッペルシテインでロシアポストモダンの三傑らしく、そういう流れもあるし奇怪なSF小説としても読める興味深い一冊。終末を安らぎに見る作風は今どう読まれるか難しくはあり、さらに戦時下の今だとあまり気楽に読めなくなる気もする。80年代的空気を感じないでもない、と思ったら訳者の人が「80年代のスキゾの亡霊のような本」と言っていた。

作者の代表作『カーストの神話生成的愛』は全二巻の大著で、独ソ戦を幻覚的に描いた小説らしいけど、ソローキンの『ロマン』を思い出した。読んでないけど。結構作品同士で同じ言葉や似た要素が出てくるので、訳書で省かれた短い作品というのがどういうのかは気になる。

イマヌエル・カント『永遠の平和のために』

ロシアのウクライナ侵略を機に読んでみたその一。学術文庫の丘沢訳。読んだことがなかったけど薄めだしざっと読んでみた。冒頭の部分を「平和とは、あらゆる戦闘行為が終了していることであり」として「敵意」という内心に踏みこんでた既訳から変えたことがまずひとつの眼目らしい。そこに空想的な平和論から現実的な計画へという訳者の意図がある。本文に対してはへーという感じで、共和制と連邦主義によって常備軍の廃止に至る平和へのプロセスというか。本文と同じくらいの分量の解説が欲しいね。歴史的意義や現在からの評価その他。まあそれは政治学の本でも読めってことか。

第一章「国どうしが永遠の平和を保つための予備条項」の「その2 独立している国は(国の大小に関係なく)、相続・交換・売買・贈与によって別の国に取得されてはならない」なぜなら国というものは所有物や財産ではないからだ、というのが印象的。

第二章の「国と国のあいだで永遠の平和を保つための確定条項」は「その1 どの国でも市民の体制は共和的であるべきだ」と「その2 国際法は、自由な国と国の連邦主義を土台にするべきである」「その3 世界市民の権利は、誰に対してももてなしの心をもつという条件に限定されるべきだ」で構成。

臣民が国民ではない体制では、つまり共和制ではない体制では、戦争は、浮世で一番お気楽な案件なのだ。なぜなら元首が、国のメンバーのお仲間ではなく、国の持ち主だからである。戦争をしても元首は、自分の食卓や狩りや離宮や宮廷や祝宴などなどを、何一つ失うことがないからである。30P

平和な状態は、民族と民族が契約を結ばなければ、つくり出すことも保障することもできない。――というわけだから、特別なタイプの連盟がぜひとも必要になってくる。それを平和連盟 (foedus pacificum) と呼んでもいいだろう。それは講和条約 (pacturn pacis)とは違う。講和条約が終わらせようとするのは、*ひとつの*戦争に過ぎないが、平和連盟が目ざすのは、*すべての*戦争を永遠に終わらせることだからだ。40P(*内原文傍点)。

「民族」が主体になってるのは英語で言うnationにあたる単語の訳の問題だろうか。しかしNHKの番組で『永遠平和のために』の解説してるのが萱野稔人なのが苦笑してしまう。ヒトラー発言はヘイトスピーチで違法なんでしたっけ。

閻連科『年月日』

日照り続きの村から人々がみないなくなっても、一本のトウモロコシを育てるために残った七十歳の老人「先じい」と盲目の犬「メナシ」が、食糧も水もなくなりつつあるなかで懸命に生き抜き自然や野生動物と戦う、中国の作家による寓話的な中篇小説。犬文学その一。

閻連科は初めて読んだので、この作家にまつわる反体制、禁書の作家という攻撃的なイメージはそんなになくて、ぬくもり、詩情に拠った本作は各国でもほとんど論争的な評価はなかったというのはそうなんだ、という感じだった。限定された状況での老人と盲犬だけの孤独な自然との闘争を描いていて、この二人の関係の親密さや、陽差しの強さが実際に重みとして観測できるという不可思議な設定によるリアリティの描写など、なかなか面白い。ただ、この犬文学の一作、冒頭部分でトウモロコシが栄養のあげすぎで枯れかけているのを見つけた先じいが小便をかけているメナシを蹴り飛ばすシーンがどうにも飲み込みづらい。貴重な食糧を譲り合う無二の関係なのは良いんだけど、そこは気になる。

宮内悠介『黄色い夜』

エチオピアに隣接する架空の「E国」では砂漠のなかに立つカジノタワーがあり、最上階の国王との勝負に勝てば国が手に入るという。中篇の尺に旅、ゲーム、国と言語、精神医療など宮内作品テーマや後期バラード問題などが詰まっているけれど、やや物足りない。

「先進国の人類をトランキライザーの浅い眠りから覚ますのは、たぶん犯罪だ」128P、これ見た瞬間後期バラードだって思って、精神医療と開放病棟といえば火星がそんな感じだった『エクソダス症候群』じゃんと思ったらインタビューでまったく同じ話が出ていた。それはそう。
宮内悠介さん『黄色い夜』 | 小説丸

宮内作品のエッセンスが詰まっているといえるけれど同時にどれも展開しきれてないような印象がある。私が咀嚼できてないだけ、とも言う。色んなギャンブルの仕掛けはエンタメ的に楽しいし、危険地帯を旅する空気感は出てるし、一人しか話せない言語のくだりは良いんだけども。ルイの夢見る「個々の狂気が、ただそこに現存する世界だ」129P、というのはフーコーの言う狂気の「大いなる閉じ込め」の逆をやるという話かもだけどフーコーは読んでない。その意味ではタワー内部は博奕狂いの狂人だらけということでもあるだろうし、言語と塔はバベルだろうか。

『狂気の歴史』は持ってないから『フーコー・コレクション』の一巻開いたら、「狂気は社会のなかにおいてしか存在しない」と言うインタビューがあった。これ、狂気は社会が作る、という意味だと思うけど、これを社会のなかに狂人を共存させる、と読み換えると、という話なのかも知れない。

ヴァージニア・ウルフ『フラッシュ』

犬文学その二。コッカースパニエルのフラッシュという犬を語りの中心に置きながら、その飼い主となったエリザベス・バレット、後にロバート・ブラウニングと結婚する女性詩人の生涯を語る、イギリスの作家による奇妙な伝記。バレット嬢が犬とよく似てると書かれてて写真を見たら本当に似てて笑った。

エリザベス・バレットがどういう見た目なのかを説明するのに、コッカースパニエルみたいな髪型、と言って良いレベルなのでネットで検索して写真が出て来た時に吹いてしまった。

夫人の顔の大きな口、大きな眼と、豊かな巻き毛は、奇妙なことに今もフラッシュの顔に似ていた。別々に分かれてはいるが、もとは同じ鋳型で作られて、おそらくお互いがお互いの中に隠れているものを補い合って完全なものにするのだろう。181P

まあそれはともかく犬視点で血統の高貴さを誇りながら人間がそうではないことを批判する皮肉な語りから始まり、自然の豊かな田舎でミットフォード嬢のもとで育ち、主人とともに散歩しながら歓びのなかで飛び回る幸福な幼少期から、友人のバレット嬢に譲られる巣立ちのもの悲しさが第一章。その後、家から出ないバレット嬢の部屋で暮らし、彼女が心待ちにする手紙の主の男性が訪れた時には噛みついたり、治安の悪い場所でフラッシュを繋げずにいたら犬泥棒に攫われて、家族に反対されても身代金を出して取り戻したり、犬と飼い主とその恋人の関係が描かれる。

エリザベスとロバートの秘密裡の結婚は、何かが起こっているらしいけれどそれが何かは知らない犬の視点から描かれているので、描写をたどっていくとはじめて、あ、これは、となるところがあり、犬の視点での謎解きのようで面白かったりする。二人が結婚し、イタリアへ行って鎖に繋がれなくて良くなったという解放感や、二人の赤ちゃんと仲良くなる犬と子供のちょっとした描写がやっぱり良い。本書は犬の視点を取っているけれど、序盤でバレット嬢の考えが述べられているところは関連したものだろう。

結局、言葉で何でも言いあらわせるのだろうか、と彼女は思ったのかも知れない。言葉は、何かひとつでも言いあらわせるのだろうか。言葉は、言葉の力では言いあらわせない象徴を破壊してしまうのではないだろうか、と思ったのかも知れない。少くとも一度はバレット嬢はそう思ったらしい。48P

終盤の方での以下の叙述は前掲部との応接として書かれているのだろうか。

フラッシュが生活しているのは、たいがいは匂いの世界なのだ。恋は主に匂いである。形も色彩も匂いである。音楽、建築、法律、政治、科学、すべて匂いである。彼にとっては、宗教そのものも匂いなのだ。毎日の骨つき肉やビスケットを食べるというきわめて簡単な経験を述べることも、われわれ伝記作者にはできないのだ。148P。

赤ちゃんとフラッシュの経験の相似性と、それが言葉を得るにつれて乖離していくという叙述が続き、しかしフラッシュの「彼の肉体には人間の情念が流れている」。赤ん坊が言葉を知るうちに、「ものの裸のままの魂が裸のままの神経にふれてくる楽園」(151P)から去り、犬はそこに留まっているかと言えばそれも違うと語られる。ともに長い時間を過ごし、裸のままのものには触れられずとも、同じ感情を共有するものとしての人間と犬。

もちろん犬の視点から描くというのは別の側面を提示することでもあるけれど、よく似ているばかりか情念をも共有するフラッシュを語ることはエリザベス・バレット・ブラウニングを語ることと同じだ、という意味が込められているのかも知れない。

ティモシー・スナイダー『暴政』

戦争関連読書その二。ナチスホロコースト、中東欧をフィールドとする歴史家がトランプ大統領誕生にともなって発表した、暴政から民主主義と自由を守るための20箇条を記したパンフレット。文庫とライブラリー判の中間のような独特の判型の小さい本だ。20箇条は以下の通り。

1 忖度による服従はするな
2 組織や制度を守れ
3 一党独裁国家に気をつけよ
4 シンボルに責任を持て
5 職業倫理を忘れるな
6 準軍事組織には警戒せよ
7 武器を携行するに際しては思慮深くあれ
8 自分の意志を貫け
9 自分の言葉を大切にしよう
10 真実があるのを信ぜよ
11 自分で調べよ
12 アイコンタクトとちょっとした会話を怠るな
13 「リアル」な世界で政治を実践しよう
14 きちんとした私生活を持とう
15 大義名分には寄付せよ
16 他の国の仲間から学べ
17 危険な言葉には耳をそばだてよ
18 想定外のことが起きても平静さを保て
19 愛国者たれ
20 勇気をふりしぼれ

トランプ大統領をきっかけとしながら本文では「現大統領」などとしか呼ばず、固有名を出さない書き方をしていてやや不思議だけれど、トランプを独裁、暴政のある象徴としながら歴史的な教訓を抽出する20世紀の歴史の素描という側面もあるからだろうか。

今読むと、トランプ大統領プーチンにかなり密接な関係があったことや、クリミア併合にともなってウクライナが情報戦に力を入れていることなどが指摘されていて、クリミア以後トランプの現在というアメリカの東欧史家の危惧がまさに現実となったことになる。本書でのロシアの影は特に印象的だ。今後の暴政が現われるとすればどこか、というときに中露を強く意識している叙述があり、現在に際してもこのウクライナ侵攻を見過ごせば次は中国の台湾侵攻に繋がるという危機感がしばしば言われている通り。本書は予見的とも言えるけれどもむしろ普遍的なんだろうと思われる。

本書の20箇条はいくつもの点で日本においても重要な示唆を含んでいて、プーチン的なもの、プーチンと同じ未来を見ようとすることへの批判意識を持つ上でも参考になる。一党独裁による忖度、服従の強要と制度の破壊への警戒など、非常に重要。

ウクライナにおいてロシアの支持する体制を作ることには失敗したけれど、アメリカにおいては成功したと指摘しているのは経済支援を取り付けた日本もまたそうだ。ウクライナ戦争がトランプ大統領のときに起こったら果たしてどうなっていたか、かなり恐ろしい。日本でも安倍晋三の時だったら、果たして。

あなた方が、「耳にしたいことと実情のあいだの違いなどどうでもいい」と考えたら、あなた方は暴政を甘んじて受けいれることになるのです。この現実放棄は自然で悦ばしいことに感じられるかもしれません。けれどその結果はどうかと言えば、あなた方が個人としての存在を失うことであり、それゆえに、個人主義に立脚するいかなる政治制度も崩れることとなるのです。61P。

スナイダーの他の本を参照しながら、解説で国末憲人がホロコーストの条件を挙げているけれど、組織や制度の破綻したところに虐殺が起こるということも含めてこの箇所は生々しいものがある。

愛国者たれ」は、トランプのやったことがどれだけ愛国心に悖るものかと延々と羅列する章で、トランプ大統領ナショナリストでも愛国者ではないと言う。「ナショナリストは私たちに、私たちがなりうるいちばんひどい存在になれとけしかけ、そのうえで君らは最高だと私たちに告げるのです」と。アーレントを引いて全体主義とは公的なものと私的なものとの境目をなくすこととして情報戦とプライバシーの問題に注意したりしているのも重要かな。

「9 自分の言葉を大切にしよう」の「言い回しをほかのみんなと同じようにするのはやめましょう」、これは結構ツイッターでは気をつけてることだったりするけどどれだけできているかは疑わしい。使ってしまう言葉もあるけど使わない言葉もあり、ある程度意識して線を引いているつもりだけど、どうしたって言葉は感染してしまうよなとも思う。

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』

犬文学その三。廃村に一人残った老人と犬の滅びの予兆のなかで、ポプラの枯葉が混じる黄色い雨という象徴表現とともに、終わりの雰囲気のなかで生死が曖昧になる世界が描き出された、寂寥感ある抒情が漂うスペインの作家による中篇小説。孤独な死の安息という印象もある。読み始めると文末が「だろう」で終わる独特の文体になっていて、これは何なのかと思うと語り手が既に死んでいるらしいことがわかる。面白いのは、本作では語り手が死んでいる時は文末が「だろう」になるようで、推測表現と同時に死者が未来を語っているようにも聞こえること。

閻連科『年月日』の後書きで挙げられてて積んでるこれ犬文学だったのかと思って読んだのだけれど、あっちが自然に抗する生の力を描き出すのに対して、こちらは死や滅びに親しくなりながら言葉を残そうとするような対比ができる。日照りに殺される村と雪と雨に沈んでいく村と。あらゆる点で対照的。

私の身にも間もなく同じことが起こるだろう。考えてみれば、私も犬と同じだ。長年の間この村でひとり暮らしをつづけてきた私は、この家とアイニェーリェ村にこの上もなく忠実に仕えてきた犬以外の何ものでもないのだ。177P。

生と死のみならず、人と犬もが同化する。

その母が今、昔のように火のそばの木の長椅子に座って黙りこくっていたが、その姿はまるで本当に死んだのは自分ではなくて、時間なのだと語りかけているように思われた。111P。

時間が死んだので死者と生者が同じ場所に現われるということなのかも知れない。

1961年という年号が出てくるように、半世紀以上は前のスペインの山村という舞台での孤独な終末への旅路という感じで、冒頭からその詩的な文体から色濃く漂う終わりの雰囲気が良い。妻も自殺し語り手も死に親しむような感じで、自殺者の訪れる村を描いたオルドバス『天使のいる廃墟』にも通じる。

読んだのは単行本だけど、リャマサーレスはこれが文庫化した以外の二冊は古書価が高くなってて手に入らないなと思ったらこれから短篇集が出るらしいのは良かった。既刊の文庫化が続いてないのは売れなかったということなのかな……

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム

戦争関連読書その三。ナチズムやスターリニズムのような精髄や本質をもたないことで全体主義の代名詞として使われるファジー全体主義としてのファシズムについて、その特徴を「永遠のファシズム」、「原ファシズム」と名付け列挙する表題講演ほか政治的発言を集めた一冊。

「永遠のファシズム」で、1945年パルチザンの勝利によってエーコ少年は「ことばの自由とは、修辞の自由を意味する」ということを知ったという。解放されてはじめて「独裁体制」と「自由」という言葉を目にした少年期の回想をたどりつつ、確固とした哲学のないファシズムを捉えるべく、特徴の列挙を試みている。伝統崇拝やモダニズムの拒否、非合理主義や対立意見の排斥、よそ者の排斥、経済危機や政治的屈辱への訴え、何も持たないものにとって唯一の特権としてこの国に生まれたことというナショナリズムへの語りかけなどなど、項目は14に及ぶ。

第八項で、敵の脅威を過度に表現しつつも倒せる相手だと思わせなければならず、「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」ため、「さまざまなファシズムがきまって戦争に敗北する運命にあるのは、敵の力を客観的に把握する能力が体質的に欠如しているからなのです。」54Pという箇所は現今示唆的だ。

平和主義は悪、エリート主義、一人一人が死を栄誉とする「英雄」となるべく教育される、戦争ごっことマチズモ、質的ポピュリズム、そして新言語(ニュースピーク)。

ナチスファシズムの学校用教科書は例外なく、貧弱な語彙と平易な構文を基本に据えることで、総合的で批判的な思考の道具を制限しようと目論んだものでした。58P

第九項、

ファシズムにとって、生のための闘争は存在しないのです。 あるのは「闘争のための生」です。 すると「平和主義は敵とのなれ合いである」ということになりま す。「生が永久戦争である」のですから、平和主義は悪とされるわけです。こうした考え方がハルマゲドンの機構を生むのです。敵は根絶やしにすべきものであり、また それが可能であるとすれば、最終戦争は避けられません。54P。

などなど。ヨーロッパは今後、政治的に統制できる「移民」ではなく、自然現象としての統制できない「移住」は今後より進んでいくだろうとして、攻撃的な大人たちへ涵養の教育を施すのは無駄だとして、「野蛮な不寛容」を撲滅するための教育の重要性を訴えてもいる。

戦争、メディア、ファシズム、外国人排斥などについての時事的な発言集で、20世紀の本なので色々構図が変わっているところもあるだろうけれども、遍在する原ファシズムへの警戒としてはやはり今なお参考になるだろうし、日本の教科書についても「思考の道具を制限しよう」という気配がないか、と。

アレホ・カルペンティエール『時との戦い』

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20世紀ラテンアメリカ文学の代表格の一人のキューバの作家による短篇集。ニグロの老人の杖の一振りによってある男の死の床から生まれるときまで時間が逆行していく「種への旅」や、メビウスの帯のような円環的時間など、表題通り時間操作を特徴とする作品集。

印象的な表題で前から知ってて集英社ラテンアメリカ文学全集版を積んだままだったけど、新訳短篇を加えた水声社版で読んだ。ディックの『逆まわりの世界』を思わせる「種への旅」も良いし、欧州から新大陸へ旅した音楽家の旅路が円環的に回帰する「聖ヤコブの道」は読み応えがある。ボルヘスを思わせると思ったら実際に敬愛する作家だったらしい。

「カテドラルの二本の塔が垂直に交わり」「庭のバラが飛び立ち、川から逸れた溝や小川に落ちる」と街を描くシュルレリスティックな表現が面白いなと思っていたら地震の描写だった「闇夜の祈祷」も印象的で、カルペンティエールはパリ在住時にブルトンらシュルレリストらとの親交もあり、時間をテーマとする作品性ともども、幻想文学やSFに近い作風と言える。ノアの方舟伝説を踏まえた「選ばれた人たち」では選民思想が相対化されるのとともに無為な徒労としての時間が描かれてもいる。

最後の「庇護権」はラテンアメリカの架空の国を舞台に、内閣秘書官が軍事政権によるクーデターから逃れて小国の大使館に政治的迫害からの庇護を求めて逃げ込むという話が、「聖ヤコブの道」のような円環を描いていく一篇で、作者がキューバ政府から冷遇された話とあわせて色々と面白い。大使館から見える外の金物屋の商品が、「先史時代から電球時代に至る人間産業の歴史」を表わす、時間の空間化として描かれているけれどそこにある人気商品のドナルド・ダックが買われる度に「同じだが別の」ものと入れ替わる示唆的な描写が結末と併せて印象的。

同じものが際限なく次々と入れ替わり、同じ台座の上でじっとしている姿を見ていると、永遠について考えさせられる。実は神も同じではないか。時代ごとに少しずつ強い姿に入れ替わり(神の母、神々の母、ゲーテがそんな話をしていたのではないか?)、おかげで不死の存在となれる。157P

曜日にまつわる章題が「月曜日の金曜日か次の火曜日の木曜日」といった狂った表現になっていくのはゴーゴリの「狂人日記」を意識してのものかどうか。トロイアの戦いを前にしたギリシャの兵士から、戦いの直前のさまざまな時代の兵士の内心を繋いでいく「夜の如くに」なども。

時間テーマがしばしば宗教的なテーマとともに現われてる気がするけど、ここら辺はどういった文脈があるんだろうか。まあなんにしろ、円環的な構成ってともかくも一篇を読んだ気にさせてくれるところがあるから良いね。最後で最初に戻ってでもちょっと違うっていうやつ、堅い締めでもあるね。

中井英夫『幻想博物館』

とらんぷ譚」という作者の短篇シリーズの一冊。薔薇園で知られたある精神病院は独特の幻覚や妄想を持った病人のみを収容し「反地上的な夢」を収集する幻想博物館だった。それを枠として13の怪奇・幻想短篇を連ねた短篇集。一篇がさらっと読める簡潔さが良い。古い文庫だと一篇ほぼ13ページでこれもトランプの数に合わせたのかと思ったけどさすがにそれはないか。

概ね七〇年代に書かれた幻想短篇で、「反地上的な夢」や、流刑にされた薔薇を意味する「流薔園」という設定など、この時代らしいと言うか、そういう叛逆のロマンティシズムが感じられる。全13篇で200ページもない本というで、さらっと読めてどれも良くて満足感があり、一篇の短さもちょうどよく、それでいて幻想博物館の枠を使って各篇の現実性を宙吊りにしてみせる構成にもなっており、そういう全体のテンポの良さというものが大きな美点でもあると思う。

なんともスタイリッシュ。集中では「聖父子」や陽気な変身譚「牧神の春」が良かったかな。「大望ある乗客」はどっかで読んだ気がするけど錯覚かも知れない。『虚無への供物』は、まだ読んでいない……。「牧神の春」にはこんな箇所もあった。

春はいつでも汚れていた。桜は全て白い造花の列だった。150P

ジョルジュ・ペレック『パリの片隅を実況中継する試み』

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パリはサン=シュルピス広場が見える場所に陣取った語り手が金土日の三日間の観察を箇条書きのように100ページほど書き記したフランスの実験的作家による奇妙なテクスト。注目されない平凡なものを観察しようとしてしばしば書き手が疲れたと書いているのが面白い。

訳者解説が冒頭についており、「本書が再現しようとしているのは、某日某所の〈現実そのもの〉というよりも、その現実を把握しようとする〈体験〉なのかもしれない」19P、など本文を読むのに参考になる文脈を幾つか提示している。ほとんど箇条書きで書き手の簡潔な観察をとりとめなく書き留めたようなテクストで、本文自体は別に読みづらい文章ではない。時折このような観察も差し挾まれる。

見ることだけを目標にしていても、ほんの数メートル先で起きていることが見えていないのだ。たとえば、車が駐車するのに気づかない 74P

デッサンの訓練を文章でやってるようなものだろうか。

面白いのは日本人観光客の存在が頻繁に書き留められていることだ。1974年10月18日の日付があり、この頃はパリに行く人が多かったんだろうか。もっとも多く出てくる外国人が日本人という印象で、しばしばカメラを提げているとも書かれる。そして、「青リンゴ色のドーシーヴォー」など、青い車が頻繁に言及されており、日本人と青い車が書き手に固着した結果が「九十一台のオートバイに先導されて、青リンゴ色のロールスロイスに乗ったミカドが通る」121Pという本書唯一の非現実を記したと指摘されている妄想か冗談かの場面になる。

俳優なり知人なりにちょいちょい会って挨拶したりする場面があり、ポール・ヴィリリオと遭遇したりしているのもちょっと面白い。友田とん『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』で言及されてて興味を持った本なんだけれど、そういやなんて書かれてたのかなと開いたら名前が出るだけだった。

後のアートなどに影響を与えてるらしく、どのような可能性をくみ取れるかが試されるようなコンセプチュアルな作品という印象。当時の記録としても日本人の描写など面白いところがある。

ニコルソン・ベイカー『ひと箱のマッチ』

ある時朝四時頃に起きることを決めた語り手が、毎朝夜明け前の暗い家のなかでマッチを灯して暖炉に火を付け、コーヒーをいれて燃える火を眺めながらさまざまなことに思いをめぐらせる時間を33本分繰り返す、些細な日常を描いた、アメリカの作家による一冊。

妻子があり医学書の校正を仕事にしていて、朝には子供を送ったりしている男を語り手に、明かりをつけて意識を覚醒状態にしたくないがために夜明け前の暗い部屋で手探りでマッチを探して火を付けるという変なこだわりを丁寧に描く序盤はベイカーの初期作品を彷彿とさせる。

他にも便座に座って小便をするという発見について語ったり、自殺する妄想で寝入ることなど、小説や物語を語ろうとするときには抜け落ちてしまうだろう日々の小さな具体的な場面に着目する、『中二階』『室温』などのベイカーらしい一作で、こちらはより時間が広く取られて一月に及ぶ経過も刻まれている。妻子のある男性の一人になれる時間はまだ誰も起きてこない早朝のひととき、そういう隙間の時間を描いている。靴下の穴を気にしたり、へそのゴマを火に投げ込んだり、電気をつけないままなんとか小便が便器に収まるように苦闘したり、そうした下らないことや日々の思索が渾然となっている。

語り手は電車でこう考える。

そこではっと気づいたのだ。私は非常に重要な商業中心地を、道一本すら見ることなく通り過ぎているのだ、そして私の人生にも同じようなことが起こっているのだ、と。118P

暗闇のなかでメガネをかけると何がよいかって、明るいところでメガネをかけると周囲がくっきりするのとは違い、暗いので何も変わらないところだ。29P

私は一気に読んでしまったけど、この語り手に一月付き合った気分になったので、一日一篇ずつ読んでいくのがより良いかも知れない。

確か私の初めての商業原稿はbk1というネット書店で読者投稿書評を書いてる人を集めた本にベイカー『中二階』について書いたものだった。白水社からではなかったのでこの本がでているのに気づいたのは結構経ってからだったけど、知ってからも読むまでずいぶん経ってしまった。ベイカーの小説作品の翻訳が止まっていて、アップダイクについてのエッセイが出てるけどアップダイク未読なので未読だ。

ウクライナ難民の件で狂犬病の話が話題になったけど、本書にも家にコウモリが入り込んできて、狂犬病のおそれがあるので、閉じ込めたあと警官を呼んで殺して処分した話が出て来て、なるほど清浄国でないとそういうことになるのか、と。

シュテファン・ツヴァイク『過去への旅 チェス奇譚』

オーストリアの作家による二中篇。第一次大戦勃発で10年のあいだ離れ離れだった男女の再会を描く未完の「過去への旅」と、ナチス侵略を背景にチェスをめぐる想像力の二つのありようを描く「チェス奇譚」は評判に違わぬ傑作だった。これまで未読だったけどツヴァイクと言えば評伝で知られていて読ませる作家なんだろうなとは思っていたので、「過去への旅」良いなと思ってたら「チェス奇譚」が圧巻で流石と思わされた。

第一次大戦による断絶と戦後に軍人たちの愛国デモを見て「もう一度なのか、もう一度やろうというのか?」と唖然とする「過去への旅」も、監禁下において精神の平静を保つために棋譜からチェスを想像し自己相手に指し続け狂気に近づく話を亡命途上の船内で聞く話も、今読むと生々しい。ツヴァイクの「内心の自由」のロジックは自殺にも至るもので、戦争によるヨーロッパの黄昏のさなか、亡命先のブラジルで日本軍によるシンガポール陥落の報にさらなる絶望を感じて自殺したといい、解説にあるコロナ禍以上に20世紀前半や戦間期の文学がにわかに身近に感じられる一冊となった。

未完の中篇「過去への旅」は、貧しい青年が枢密顧問官に取り立てられ住み込みをし補佐役として頭角を現わしメキシコへの派遣を任された時、その妻への愛を自覚し妻もまた青年への愛を告白することになり、二年の約束だったものが戦争の勃発により帰国を断念し現地で家族を作り、10年の後再会する。二人の待ち合わせの場面から小説が始まってそこから二人の来歴がたどられ、乗り込んだ鉄道の旅は回想とともに二人が昔訪れたハイデルベルクへと向かっていく過去への旅となり、彼女は「まだ何時間でも乗っていたかったわ」と郷愁に浸るなか、駅舎を出て愛国デモに出くわす。「狂気の沙汰だ」と唖然としながら、本篇のもう一つの題として考えられていた「現実の抵抗」と言うとおり、デモとともに現地のホテルが満員で、空いたばかりのベッドが寝乱れたままの部屋に案内されるなど、二人の熱は現実の細々としたものによって冷まされていく。

彼女も、彼ももはやあの頃と同じではなく、それでもむなしく懸命に探し求め、おのれから逃れつつも無意味で無力な骨折りのうちにおのれを引きとめているのだ、この足元の黒い亡霊たちのように。69P

未完というけれども書くべきことは書かれているとも思える。

「チェス奇譚」は「チェスの話」として既訳がある中篇。ニューヨークからブエノスアイレス行きの船にはミルコ・チェントヴィッチというチェスの王者が乗っていて、南スラヴの貧しい水夫の息子として生まれた彼は学習が進まず本を読むのにも難儀する知的能力だけれどもある時チェスに才覚を示す。ミルコの特質はチェスを「目隠し(ブラインド)で」プレイすることができないことだった。

チェス盤を想像界の無限の空間に作り出すという能力が、彼には完全に欠けていたのである。79P

彼が同乗していることを知ったある男がミルコに金を払って対決を挑み、窮地に追い込まれた時助言者が現われる。B博士という男の的確な助言でチャンピオンとの対戦を引き分けに持ち込み、語り手はもうチェスはしないという彼に再戦を頼みに行って身の上話を聞くことになった。

B博士は弁護士業務において教会や修道院の資産がナチスに押収されないように立ち回っており、ナチスによって参考人としてホテルに監禁され聴取を受ける。ホテルは一見人道的だけども、情報から遮断されいつも同じものを見ている状況が次第に彼を追いつめ、ある時看守のポケットから本を盗むことに成功するもののそれはチェスのチャンピオンの棋譜集だった。熟読し暗記し再現するのみならずいつしか彼は自分自身を相手にチェスを指すようになる。ミルコとは逆に、博士はチェスのすべてを想像で指していた。亡命中のツヴァイクの経験が投影されていると言われるそのその極限状況の描写が本作の肝とも言えるけれども、ここにツヴァイクの「内心の自由」をめぐるテーマがチェスと第二次大戦を結びつける形で展開される。

かといってこの短篇が単純に想像力を称揚しているとも言いがたく、博士の想像上のチェスは狂気と分かちがたいものになっている。外界との繋がりをもたない想像力は狂気と見分けがつかない危ういものになっており、精神の平静を保つためのものが精神を狂わせていく皮肉がある。遺作となった本作は訳者解説において「人生というチェス盤から自らの意志で間もなく降りることを決意していた、ツヴァイク自身の告別の言葉でもあったのかもしれない。」(208P)、と評されてもいて、ツヴァイクの「内心の自由」のありようがうかがえる。「あの独房の中でしていたことがなおチェスであったのか、あるいはすでに狂気であったのか」(139P)。それぞれ人妻との恋愛、チェスが戦間期と第二次大戦を背景にして展開されていて、二十世紀をやり直しつつある戦時下の現在、その書かれた背景がやたら身近な小説になっている。

チェスというのは、天と地の間を漂うムハンマドの棺のように、学問でもあり芸術でもあり、これらのカテゴリーの間を漂う、あらゆる対立項のまたとない結びつきなのではないか。太古の昔から存在しながら永久に新しく、機械的にできていながら想像力によってのみ働き、幾何学的に固定された空間に限定されていながらその組み合わせにおいては無限であり、常に発展を続けながら何も生み出さない。何ものへも導くことのない思考、何も算出しない数学、作品のない芸術、実体のない建築、そしてそれゆえにこそ、疑う余地なくそのありようと現存性において、どんな書物や芸術作品よりも永続的である。すべての民族、すべての時代のものであるただ一つのゲームであり、いかなる神が退屈を紛らわし、感覚を研ぎ澄まし、精神を張りつめさせるためにこの世にもたらしたものか、誰も知らない。84P

ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』

バルカン半島南部の架空の小国で民族の誇りとされた画家が架空の存在だったことを暴露する手記のかたちで、公的には死んだとされる語り手がおじの仕掛けた詐術の手の内を明かす、虚構と真実、偽物と本物がくるくると入れ替わる、ドイツの作家による軽妙な長篇小説。

小説という虚構のなかで架空の国家を作り上げ、そこで怪しげな人物が国家規模の画聖捏造を企図し、画家の来歴を創作し画家の贋作(?)を作り、画家の権威を選定し、さらに死んだと思われた甥を悲運の画家に祭り上げて贋作を作成し、甥本人がそれを見て自分の絵を画商に見せたら贋作と判定され……

まあたいへん楽しい小説で、虚構としての小説が偽史の真実を暴くという皮肉なつくりもそうだけど、贋作師が名画の贋作のみならず、架空の画家を捏造し作成するそれは贋物の本物ともいえ、そして贋作師が感知しない本当の贋物が出てくる事態はいったい何と呼べば良いかわからなくなってくる愉快さ。贋作師が破滅するきっかけになるプラットとの場面も贋物と本物が入れ替わって鮮やかで面白い。怪しい俗物たちと美術をテーマにした「コミックノヴェル」としても面白いし、解説で言うように当時の世相を背景にした諷刺小説でもあるだろうけれど、国民国家、民族の物語の恣意性の寓話にも読める。

舞台となるプロチェゴヴィーナ公国はギリシャルーマニアアルバニアなどと国境を接するバルカン南部の小国で、隣国と領土争いをしてもいる。そこに取り入ったおじが国王に「私は閣下に古典期のある偉大な画家、民族の誇りたるべき一人の巨匠を進呈いたします」(76P)、と進言する。ここにプロチェゴヴィーナのレンブラントといわれるアヤクス・マズュルカなる画家の捏造計画がスタートする。ここで国王が要求するのが13世紀の民族的英雄の絵で、「民族的画家には民族的英雄を描く責任がある」という。国家の威信を画聖の捏造によって高めようというわけだ。プロチェゴヴィーナはブラヴァチアという隣国との小競り合いを繰り返しており、ある日の越境攻撃によって国境近くのアトリエで絵を描いていた語り手アントンは向こうの領土に連れ去られてしまい、反撃に出たプロチェゴヴィーナによって逆に敵国住民と見なされブラヴァチアに逃げ込むハメになる。連行されるのを見ていて殺されたと思った現地の報告を受け、おじによりアントンは夭逝の画家として祭り上げられ、先述したように自分の絵に似せた贋作を見てそれを知ったアントンは自分のスケッチを持っていって資金にしようとしたら、それこそ贋物だと言われる事態になる。アントンが巻きこまれた真作贋作の真実性の反転とともに、国境付近での喜劇的な顛末は両方の国家から弾き出されたダブルアウトサイダーでもあり、国に拠り所のない、死んだものとして偽名の放浪者となる運命は、そういえば作者はユダヤ人家庭に生まれたことを思い出させる。

贋作によって民族的英雄を飾り立てる詐欺師たちの跋扈する楽園としての架空の公国、プロチェゴヴィーナのありようは、国民国家という制度・物語の基盤を露呈させているようだ。それがバルカン半島を舞台にしているのも示唆的。しかし民族が嘘という話なわけではない。捏造のはずのマズュルカ作品が増えていくように物語は広まり、生きられる。贋作だろうとそこで得た情動は「嘘」ではなく、民族の物語がいかに恣意的だろうとも現実にその物語を生きてしまえばそれは「真実」にほかならない。贋作を題材にした虚構を通して本作が描くのはそのことではないか。

本書は贋作を扱った喜劇的な諷刺小説としての面白さとともにそうした射程も持っているように思う。そういえば語り手の名前アントン・フェルハーゲンはイニシャルをA.V.と書き、180度ひっくり返せる形になっているのは、幾度も真実性がひっくり返る本作らしいところだろう。

20冊も一つの記事にまとめるべきではなかったかも知れないけどこれでひとまとまりなのでしょうがないね。

図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載

鳩沢佐美夫の仕事 (第一巻)

鳩沢佐美夫の仕事 (第一巻)

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図書新聞2022年5月7日号にて木名瀬高嗣編『鳩沢佐美夫の仕事』第一巻の書評が掲載されています。アイヌ民族初の近代小説の書き手としてのみならず、アイヌの経験を通して現代の「人間」が被る経験を描いた現代文学として読まれるべきではないか、という感じのことを書いてます。

イベントなどでいくらか一緒になった私から見た岡和田晃山城むつみ両氏の鳩沢再評価の流れを振り返りつつ、和人の立場からアイヌを描いた向井豊昭の『骨踊り』(幻戯書房、収録鼎談には私も参加しています)を紹介しました。大筋を考えた後で岡和田さんの『向井豊昭の闘争』(未來社)を見るとだいたいのことはより精度高く書かれていてしまったと思いました。その点去年出たばかりのリチャード・シドル『アイヌ通史』(岩波書店)を組み込めたのは良かったかなと思います。また、本書が女性の経験を集中的に書いている一冊になっているのは編集のめぐりあわせとも言えますけども、そうなるだけの必然性が鳩沢に既にあったと思います。

そういえば、鳩沢佐美夫は1935年生まれで、文学世代としては内向の世代と同世代だったりします。

以下、ツイッターに書いていたアイヌ関連書籍の感想をまとめておきます。

リチャード・シドル『アイヌ通史』

博論を元にして1996年に刊行された英語圏初の本格的なアイヌ通史で、今も参照されるという古典的著作の邦訳。原著タイトルにあるように、主眼はアイヌ民族をめぐる「人種化」のプロセスとそれに対するアイヌの抵抗の様相を描くことにある。思えば「蝦夷」から先住民族へ、という副題は、劣等人種と見なされていく近世から近代にかけての外からの眼差しに対する、国際的な先住民族問題と連携して自らを「先住民族」として確立していくアイヌ民族の主体的な目線への移行、という本書の構成を反映したものだ。

アイヌ差別の言説をまとめた第四章「滅びゆく民族」に対し、その転換点となる第五章が「瞳輝く」というアイヌ側の視線を指す題になっていて、しかもそれが違星北斗の短歌から採られているのは非常に重要かつここぞという引用になっている。

滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ
違星北斗の瞳輝く

「通史」とあるのに内容は近代に偏っているというのは確かで、それについては訳者が以下のツイートで理由を述べている。これまでの近代以前のアイヌの本来の姿を復元することに注力する動きは、アイヌ近現代史を喪失の歴史とする、差別にひきずられた歴史観ではないのかということで、訳者解題の「アイヌの創造性は圧力や差別にもかかわらずあったのではなく、それゆえにあったのである」354P(太字は原文傍点)、という交差的な関係に重点がある。民族の境界線は交流によってこそ生まれ、差別に直面したことでアイヌアイデンティティを打ち立てる必要が生まれる。

この、圧力や差別「ゆえに」という部分、本書を読んでいても、どうしても「それでも」というモードで読んでいたので、なるほどそうか、と非常に目を開かされた。序文で著者も「社会的周辺化とレイシズムへの創造的応答として、アイヌの「民族性」を考察する」(xiv)と書いている。差別への批判は、差別以前の前近代の姿を復元することだけではなく、差別に抗して創造的にアイデンティティを打ち立てていった同時代人としてのアイヌの検討においてもなされなければならない、ということだろう。それに応じてこちらで訳者も指摘するように、「「日本人」「日本国民」の自らの人種化の過程は、アイヌの人種化を必須とし、ともなった、ということです」ということは、現代アイヌの民族性のみならず、日本人の民族性もまたアイヌ抜きではありえないわけだ。

日本が日本として成立し、大和民族大和民族として境界を画するときに、日本人の「最初の『ネイティブ』な他者」としてのアイヌの歴史は、上掲で訳者が言うように、その存立の基盤そのものでもあるという挑戦的な意図が含まれている。

日本という国の姿が北海道や沖縄なしではありえないように、植民地化していく過程で取り込んでいく他民族との交錯が「日本」の拠って立つ基盤になっている。これは沖縄、朝鮮などにも同じことが言える。同一性と差異の根拠として。朝鮮総督府から北海道庁樺太庁に、アイヌの名前の日本化政策に関する情報提供の要請があったという話が紹介されており(193P)、当然アイヌの先例が朝鮮での同化政策の参考になっている。アイヌの「撫育」と文明国日本が後進の朝鮮に訓育するという植民地支配の論理。

差別に抗してアイヌが民族性を確立したように、他者に優越する自己としての「日本人」もまた形作られていく。先住民族は国境線に画されていく近代国民国家の確立とともに生まれるわけだけれど、それと同様に近代的な民族観念もまたこのようなプロセスと同時進行の相似形を描いていく。危機に際して自らの民族とは何か、伝統とは何かを改めて見出していく過程があるわけだけれど、明治の日本人も同様の事態に置かれていたわけで、この時期に様々な今に続く伝統が創られた、という話は有名だ。アイヌもまた同様、と考えればわかりやすい。

ちょくちょく参照されているケネス・パイルの『欧化と国粋』が、この日本人の人種化の過程を扱ったものなのかな、と思ったけどやたらプレミア化している。大雑把な話をしてしまったかも知れないけれども、当時の新聞や議事録なども参照して詳細に調査された濃密な叙述の一冊だ。

1997年のアイヌ文化振興法成立に際して書かれた論文を補章として加え、訳者解題とここ20年のアイヌ関連年表が付され、現在までのブリッジになっている。このなかの2014年の「アイヌはもういない」発言、それへの抗議として編まれた『アイヌ民族否定論に抗する』に寄稿したのがもう八年前になる。

「人種化」という概念はこの前書き部分が端的な説明になっている。
人種神話を解体する【全3巻】 - 東京大学出版会

茅辺かのう『アイヌの世界を生きる』

京大を中退し労働運動などに関わっていたのち北海道で季節労働をしていた著者が、アイヌの女性からアイヌ語を口述筆記して欲しいという依頼を受け、二十日足らずのあいだ家に住み込みながら、聞き取ったアイヌ語と女性の生涯がまとめられた一冊。

トキというこの女性は和人の生まれだけど生後一年たらずの頃に殺されかけたためにアイヌの女性に貰われた子だという。北海道に行った夫と離れて暮らす間に実母が別の男性との間に作った子供だったトキさんは、北海道でお守りをしていた五歳くらいの異母兄に川に投げ込まれかけた。そうしてアイヌの養母のもとで育っていったトキさんは、成長するまで自分が和人の生まれだとは知らないまま育ち、家ではアイヌ語で喋る生活を送った。養母が亡くなりアイヌ語での生活から離れたあと、それでも記憶にあるアイヌの言葉を残したいと、著者に聞き取りを依頼することになる。そうした来歴を持つ女性との暮らしの様子や、生活に根付いた独特の考え方が描かれている面白い本で、特に「北海道旧土人保護法」における給与地を得るために期限までに急いで開墾を進めた様子やら、次第に馬などの農業とかかわる動物を手放し、農業から離れていく時代が描かれているのも興味深い。このくだりは鳩沢佐美夫の「休耕」ともリンクする。

その人の個性、生活習慣に根づいたものとしての言葉と文化を知っていく様子が描かれている。トキさんは1906年生まれで、養母は年齢が書かれてなかった気がするけど、おそらくは鳩沢佐美夫の祖母と同世代くらいだろうか、というイメージ。トキさんは1906年生まれで、養母は年齢が書かれてなかった気がするけど、おそらくは鳩沢佐美夫の祖母と同世代くらいだろうか。

井上勝生『明治日本の植民地支配』

本書は植民地支配全体の概観というのではなく、95年北海道大学古河講堂で見つかった東学党農民戦争指導者の遺骨をめぐり、当時北大にいた幕末維新史を専門とする著者が報告書をまとめる過程で見えてきた、朝鮮での東学党虐殺にまつわる日本植民地史の一断面を描いたもの。

珍島から「採集」された東学党指導者の遺骨を持ち出した「佐藤政次郎」とは誰なのかというミステリーをたどる過程で北海道大学やその前身札幌農学校が植民において果たした役割や、日本と朝鮮での農業のあり方の違い、戦史から削除された東学党「剿滅」作戦とその戦死者など、さまざまな植民地支配の側面が見えてくるという叙述になっている。そこで確かに「明治日本の植民地支配」の様相が見えてくるとはいえ、「東学党首魁」遺骨問題を書名か副題にしておくほうが良いような気もする。

見つかった遺骨には三体のウイルタ民族も含まれていたという。ウイルタについては著者が報告を担当しておらず本書の記述範囲外とのことだけれど、ウイルタ協会会長の田中了という人が出てきて、積んでる『ゲンダーヌ』の著者で見覚えのある名前だった。小川隆吉の名前も出て来て、氏のアイヌ民族共有財産裁判で著者が証言したこともあるという。

本書では遺骨にまつわる、東学党の乱や甲午農民戦争と呼ばれてきた東学農民戦争での数万人に及ぶ虐殺の歴史が日清戦争の戦史に記載されておらず、その隠蔽に巻きこまれて日本ただ一人のその掃討作戦の戦死者が靖国神社戦没者名簿で、別の戦争での死者として数えられている改竄を指摘している。

戦前の『アイヌ政策史』でアイヌ民族共有財産について道庁を批判した高倉新一郎も、自身が勤めた北海道帝国大学の前身札幌農学校の校長だった橋口文蔵が共有財産の管理に於いて責任者だったことを著書では一切触れずに橋口を開拓功労者として顕彰する文章を書いているという。その高倉が触れなかったもう一つとして、1890年代に十勝のアイヌ民族が、共有財産を取り戻して「財産保管組合」を創ったという自治自営運動について触れられている。この後、その実態を無視して旧土人保護法が制定されていったおりに、高倉らがその運動を知りつつ保護法を正当化したことを批判している。

「農民戦争」のきっかけともなる日本の朝鮮の農業への蔑視を論じる過程でその農業形態の違いにも触れ、植民学を講義していた札幌農学校の佐藤昌介と新渡戸稲造の議論を対比させつつ、新渡戸の植民論が日本を文明国として後進国へ文明を伝播する立場に置くために朝鮮を未開視するものだと指摘する。この札幌農学校で遺骨を「採集」した佐藤政次郎と同期生、一九期生蠣崎知二郞が、上野正による保護法批判の趣旨に賛同するという文章を書いており、この蠣崎は有島武郎の親友だったという。そして有島武郎の遺作『星座』は一九期生(蠣崎は柿江として)をモデルに保護法制定の年を描いているという。

朝鮮に動員された兵士たちは四国出身者が多く、東学農民戦争に従事したうちで二名の自死者が出たことや、戦史から消えた戦いに参加した兵士の陣中日誌での記録を見つけたり、香川の地方新聞での東学農民軍との戦いへの批判が当時あったことを見つけたり、日本側の動員にも著者は紙幅を割いている。

古河講堂から遺骨が見つかった件は北大人骨事件としてWikipediaにも項目がある。著者はその件の北大の報告者として遺骨返還で韓国の現地へ赴き謝罪したことなどを踏まえ、ある一つの事例を通じた植民地支配の様子を描いている。北大と言えばアイヌの人骨を盗掘した件は未だに尾を引いているわけで、本書ではそうした帝国日本の植民地支配に関与した「帝国大学」の歴史が遺骨を通じて抉り出されている。佐藤昌介、高倉新一郎以来続く北海道大学史におけるアイヌ民族共有財産にかかわる橋口文蔵非職事件の隠蔽といった件もあわせて、北大の歴史の暗部を鋭く指摘する一冊だ。著者は北海道大学の名誉教授。
北大人骨事件 - Wikipedia

坂田美奈子『先住民アイヌとはどんな歴史を歩んできたか』

100ページもない小冊子だけれど、近現代のアイヌをめぐる歴史を簡潔に概説していて、シドル『アイヌ通史』とはまた別の視点もあり興味深く、違星北斗を画期とする点が両著に共通しているのも面白い。「旧土人保護法」の問題点として、アイヌという狩猟民が農耕民化されたという語り方は不正確で、狩猟の問題もあるけれどそれ以前から農耕をしていたアイヌはおり、「自主的に近代化の努力を行なっていたアイヌが不当に扱われている」という和人と政府の不正義だと指摘してる点が印象に残る。三章では「同化か、文化変容か」という問いを設定し、近代日本のアイヌ差別のなかでアイヌ自身はどのように対処したのかという点で、強要された「同化政策」と自発的な「文化変容」を対置して、さらに北斗は国民と民族を区別してアイヌで日本人という道を開こうとしたと論じる。これは『アイヌ通史』でも論じられた点で、ややアプローチが異なるものの違星北斗を差別に抗してそして日本人にしてアイヌというアイデンティティの道を選ぼうとした画期として描くところは同様。

ラシュディとヴィリコニウムと山野浩一その他

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』

1947年8月15日インド独立の真夜中零時に生まれた特殊な力を持つ子供達の一人、サリーム・シナイが自らの生涯を語ることが、同じ日に生まれたインドの歴史を語ることにもなるというギミックを用いて主人公とインドの歴史を描く千ページを超える大作。

冒頭、ドイツで医学を学んだ祖父と敬虔なムスリムの祖母との関係から話を説き起こす三代にわたる歴史が始まり、近代と信仰の軋轢を提示しながらインドにおけるさまざまな混淆――イスラムヒンドゥー、植民者イギリスといった諸要素を身にまとう主人公サリームの数奇な運命がたどられ、インドがパキスタンバングラデシュに分離していくなかで巻き起こる惨事の歴史をまのあたりにしていく。サリームの奇妙な生まれがイギリスの血を引くボンベイ生まれのムスリムという混淆的なものになると同時にある時目覚めるテレパシーの能力は、人の心を読むだけではなく、当初一〇〇一人いたインド独立の真夜中に生まれた「真夜中の子供たち」との交信を可能にし、真夜中の子供会議という離れ離れの者たちをつなぐ場を成立させることにもなる。しかしサリームは同じ時間に生まれた双生児ともいえるスラムで暮らす下層階級の暴力的なシヴァを会議から除こうとしてしまう。

会議におけるサリームの未熟さは同時にインド政治の未熟さでもあり、サリームとインドとが比喩的に結合しているという誇大妄想的な枠組みは、独裁政権を樹立したインディラ・ガンディーの合わせ鏡のようで、この二者はじっさいに正面からぶつかりサリームが排除される結果になる。比喩や超常的なSF設定によるものと、独裁政権という現実の政治的な要素の双方で個人と国との結びつきとその解体が描かれるのは文学による総合も独裁による強権にも批判的な態度にも感じられる。子供達にしても独裁にしても若きインドの政治的蹉跌の歴史から未来への希望を語るものだろう。

サリームまわりのメロドラマ要素は血縁の相対化になっていて、それでもなお家族たりうるところは良い。真夜中の子供会議という即時的な大規模遠隔通信のアイデア、ネット時代に読むと普通だけどこれ1981年の小説で、そこでの主導権争いと排除がリアルでの暴力に帰結したりするのはなんか今っぽい。「誰しもたえず目を開けたままでは世界に立ち向かうことはできない」(岩波文庫上巻281P)というのは、眠ること、夢見ること、想像することを含んだものだろう。「精神を蝕んで幻想と現実に分裂させてしまうこの暑さのなかでは、どんなことでも起こりうるように思える」「暑い国で最も良く育つのは何か。幻想と非理性と欲情である」(同380P)とあり、ここで語られているのはボンベイ州を言語によって二つに分割せよというデモだったりする。言語圏独立の幻想がもたらす分離と敵対。こうしたさまざまなものの分裂は本作の核心的な部分でもある。

インド、新しい神話――それはどんなことでも可能にする集合的虚構、他の二つの強力な幻想である金銭と神のほかには、比肩するもののない寓話なのだ。(上巻251P)

ラシュディもまたインド出身のムスリムだけれど14歳でイギリスに留学して英国籍を取得しており、本作も英語で書かれている。英領植民地独立の歴史をSF設定を用いて語る手法など面白いし、移民作家による文学として重要な作品というのもなるほどと思うけど、正直読んでてそこまで楽しくはなかった。興味深いし重要なのはわかるし良い作品だなとも思うけどなんだろうな、一枚ベールの向こうより近づけなかった感じ。波瀾万丈、メロドラマ的でもある話は面白いんだけど、どうしてか。というかこれマジックリアリズムなのか。SF設定やファンタジックなところはあるけどあんまりそうは感じなかった。まあでもかなり読みごたえのある、掘り下げ甲斐のありそうな濃密な作品だとは思うし、インドのことを調べてから再度読むとまた違ってくるんだろうな。グラス『ブリキの太鼓』が踏まえられてるみたいだけど、グラスも読まなきゃだな……。

らんま1/2で水を被ると性別変わる設定がすごいって感じのツイートを見かけたけど、本書には能力者のなかに水に入ると性別を変えられる子供がでてくる。邦訳は89年だけど、影響あるかどうかは。

花田清輝『新編映画的思考』

映画雑誌に載った文章を中心に編んだ映画論集。1950年代中頃の原稿を集めたもので、題材になってる映画もほぼ知らないし背景にはマルクス主義や革命、大衆の問題というのが横たわっているのは窺えるものの、空いた時間に読む軽いエッセイ集として面白かった。この人の口癖として「まあ、そんなことはどうでもよろしい」という花田流の閑話休題の言い方が昔から記憶に残っててちょいちょい使った覚えがあるし、これを読んでるあいだ真似して使った言い方がいくつかある。どこで使ってるかは秘密。笑劇について政治的批判を行なう批評家に対して、「笑いにたいしては相当の抵抗力を示すこういう人びとにかぎって、涙にたいしてはいたってだらしがなく(中略)悲劇映画に出くわすと、さっそく、お得意の批判精神など、どこかへおっぽりだしてしま」う傾向を批判したり(210P)、「もともと、カメラによってとらえられた「本当らしい嘘」にあきたりないために、われわれは、漫画映画の「嘘らしい本当」におもむくのである。この根本のモティーフを忘れて、漫画映画の「嘘らしい本当」を「本当らしい嘘」に近づけようとひたすらつとめることは、まったく愚の骨頂というほかはない」(158P)とか、「演劇を否定し、小説を否定するところから映画がはじまる。あらためてくりかえすまでもなく、セリフによりかからず、観念や心理にとらわれず、ひたすらアクションを描こうとするところに映画の本質がある」168P、なんかが面白い。アニメの「嘘らしい本当」の箇所は結構思ってることに近い。花田清輝安部公房の関係で興味を持ったけど、『復興期の精神』とちくま日本文学の一冊しかまだ読んでなかった気がする。後藤明生の関係で読んだものもあったか。文芸文庫で五六冊まだあるから追々、と思って十年経ったものがいくつもある。

M・ジョン・ハリスン『ヴィリコニウム パステル都市の物語』

サンリオSF文庫で出ていた絶版だった長篇『パステル都市』に関連短篇を加えた一冊。『パステル都市』は古代文明の遺物を兵器に転用している騎士と女王の世界で戦争が起こり、鬱屈した剣士の過去の仲間達との関係と古代文明の遺物の謎が描かれるSFファンタジー

パステル都市』は今読むと多くの人がこういうのに見覚えがあると思うのではないか。『風の谷のナウシカ』の元ネタだと言われてるのもそうだけど、何者をも切り裂くエネルギー剣と騎士と女王の物語はスターウォーズっぽいし、飛行艇やら殺戮機械やらメカニカルなファンタジーはFFぽくもある。原書は1971年、初訳は1981年。主人公テジウス=クロミス卿の造型も、帝国最強の剣士と言われながら詩人を任じて塔にこもる隠遁者で陰のある性格なのは、この世界の砂漠から古代の遺物を掘り起こして活用技術がないから兵器にでもするしかない退廃的な雰囲気と軌を一にしている。

塔にこもっていたクロミス卿のもとにある日飛行艇が落ちてきて、という冒頭もナウシカっぽいと思ったけどそれはともかく、そういう導入から戦争の始まりを知り、騎士団の仲間と合流したりする冒険が始まるわけで、シンプルなストーリー展開と独特の世界観の描写が良い。ファンタジー風に見えてパステル都市ことヴィリコニウムのSFっぽい建築や、主人公に行き先を示す使いの鳥が人工知能機械仕掛けだったりする部分は素直に楽しい。小人と呼ばれる技師がパワードスーツを着込んで活躍したりして、メカメカしさとファンタジーの絡みが印象的。

ここからはネタバレしていくことにするけど、
二人の女王をめぐる戦争のなかで現われる殺戮機械の存在が後半の鍵になっていて、技術レベルが低くて滅んだ文明の遺物を武器にするくらいしか活用できないという状況から、殺戮機械の謎を解くことで死からの再生の技術が手に入ることになる。幸福な結末に見えて、クロミス卿が「死について思いなやむことはなくなった」ヴィリコニウムを後にするのは、妹の死に罪悪感を持ち続けるからでもあり、再生という死を無化する技術に対して背を向けるのは、科学技術に対する文明批評の意味合いもあるだろう。ここらへんなるほど宮崎駿っぽい。

不死への拒絶が根底にあるように見え、遺物の別様な活用も、昔の仲間達との再会が裏切りの悲劇になるのも、死を思うクロミスのラストの態度もその現れと言えないか。ヴィリコニウムが通常のシリーズとは異なりパリンプセスト的だと言われるのもその一環ではないか、と。一度終わったものはそのまま続くわけではなく改鋳される遺物のように似た素材をシャッフルして新しく別の物が作られる、というような。併録の短篇群が同じ時間軸を共有しているかどうかも定かではないし、「ヴィリコニウムの騎士」はそうした万華鏡的なシリーズ性のマニフェストに見える。

「ヴィリコニウムの騎士」のタペストリーから見えるヴィジョンはこちらを見返してもいるようで、複数の別の時間軸を見せてもいるようだし、「俺は人生をどう生きればよいのか?」に対して「これまでと同じように生きる必要はない」「われらはおのれの生きる世界を自ら作るものだ」(30P)という返答はその都度その都度作り直されるものとしての生、まるでゲームのプレイのような複数の可能性としての世界を示しているように思える。パリンプセストといえばそもそもこのヴィリコニウムという地名はスコットランドにあるらしく、それに虚構を重ね書きして作られたものなわけで。

以上ネタバレ含んだ感想。

このシリーズをまだ読んだことない人はまず長篇『パステル都市』から読むのを勧める。最初の短篇群から読むと設定や何やらが説明されずに出てくることになるし、短篇は『パステル都市』の描写を踏まえたものがあるので、最初に読むとわからないことが多い。話が一番わかりやすいのも『パステル都市』だと思う。『パステル都市』という主軸を据えてから短篇群を別側面からのアプローチとして読んで行く方がわかりやすい。私は雑誌で短篇を先に読んだ時は今ひとつ掴めないなと思っていたし、執筆が後になる短篇のほうが文章が入り組んでくる印象もある。

山本貴光編『世界を読み解く科学本』

科学者25人の100冊という副題があり、さまざまな研究者を中心に、ライターや編集者やSF作家なども含めた面々による科学本ブックガイドを集めた一冊。原本も七年前だけど最近科学系の本を読んでないので、今勧められる本は何だろうと思って読んだ。素粒子物理、宇宙、進化、生物その他さまざまなジャンルのさまざまなブックガイドになっていて、各人の原稿の書き方もさまざまで一人が全部を書いたものとは違った多様性がある。この多数の本のなかで別々に二度挙げられているのがドーキンスの『進化とは何か』で、これは気になった。ドーキンスは『進化の存在証明』も積んだままなんだけども。積んでる本も数冊挙げられてて、やっぱあれは良いやつなのかと思ったのも多い。ウィルス進化論を説いた『破壊する創造者』はタイムリーな、と思いつつしかし文庫版が品切れ高値になってるな。しかし、八章の記述は胡散臭いところがあった。子供との体の触れあいは発達障碍の症状を軽くさせるという記述も、そういうもんだったっけ、と疑問符が浮かんだ。

岡和田晃編『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』

NW-SF誌やサンリオSF文庫の監修など日本のニューウェーブSFの立役者として知られる著者の単行本未収録作を主に集めた一冊。資本や権力の旗振り役となりかねない「未来学」的なものを徹底的に否定する反SFのSF。「死滅世代」や「都市は滅亡せず」などの短篇はポストアポカリプス的な雰囲気が漂っており、その手の作品が数多く出ている今ではおなじみの風景ともいえるけれど、未来への希望や人間性の賛美を徹底して拒絶するようで、人間性や恋愛をも拒否している点はJ・G・バラード以上にドライにも思える。

「死滅世代」は恋人が惨殺される様子を傍観していた主人公は生殖を拒絶してもいて、そして廃墟と化した都市は「人々の怠慢のおかげで静か」(47P)ですらある、緩やかな終焉の様子が描かれる。「都市は滅亡せず」はむしろこのスローガンへの否定によって綴られていく終末SF。破壊的なアンモラルさのシュールな短篇「グッドモーニング!」のナンセンスは、「宇宙を飛んでいる」での「私は何の目的もなく宇宙を飛んでいる。ただ宇宙を飛んでいるだけであって、原因もなければ結果もない。全てのことが論理的ではなく、でたらめなのである。ただそれだけだ」(100P)と、宇宙船というSFガジェットの意味の転倒にも繋がっている印象がある。未来に対する終末、SFガジェットの意味性の反転や、外宇宙が内宇宙へ転じるように、外への志向が内へ反転し屈折するのがニューウェーブSFの特徴のようにも思えるし、そうしたところが上昇が下降になり、地と図が反転するパターンを多用するM・C・エッシャーと非常に相性が良いんだろう。荒巻義雄エッシャーネタで一冊書いているし。そうした意味でエッシャーの絵を題材にショートショートが二十数本連ねられる連作掌篇はこの作者らしさが簡潔に現われているようで面白い。

私小説的と言われる「子供の頃ぼくは狼をみていた」もしみじみとした良さがあるけど、狼、革命の象徴か何かのようにも思える。反SFのSFとは言ったけれど当然そこにはそもそもSFへの関心があるからなわけで、読んでいると結構ダイレクトに非日常への渇望が感じられる部分も多い。印象にある限りだと、どうやらそういうときに青や水色が関わってくるように見える。「X電車で行こう」の別バージョンともいえる短篇は「ブルー・トレイン」。

ブルー・トレイン、青い列車。ぼくの前に一度は姿を現わしていながら、再び消えてしまってあばれ廻る奇妙な列車である。それはやはりぼくの、それ迄の生活環境の中では考えることのできないような大きな存在であり、自分の好きな、走りたいレールを平然と走り抜ける楽しい自由な列車なのだ。(136P)

「嫌悪の公式」では「日常的な生活サイクルから出てみたい。ただそれだけのことなのだ」(242P)という主人公を誘うのが「水色のワンピースの女」だった。青、水、それは空なのか海なのか宇宙なのか。『裏世界ピクニック』でも青は特権的な色だけれど、これは外、非日常の象徴にも見える。「ギターと宇宙船」には「宇宙は素晴しい、それは夢なのだ。それが生活であってはならない。船乗りなら誰でも宇宙で生活する故に、宇宙を冒涜しているような罪悪感にかられるのだ」(161P)という記述がある。宇宙という夢の反転と屈折、革命の似姿なのか、とは思ってしまう。

「地獄八景」は死後の地獄をコミカルに描いた最後の小説で、天国への階段で昇天していく姿が描かれるのだけれど、地獄の現状とともにネット網の整備によって、「地獄はもう一つのグローバルな世界となった」わけで、もう一つの現実になった地獄から再度脱出する話だったんだろうか。天国へ昇ってゆき「おやすみやすらかに!」で閉じられる最後の小説、あまりにも最後の小説らしすぎてそこに強烈な悪意すらあるのか、ないのか、そんなアンビバレンスな気分にさせられるところもこの作者らしいのかも知れない。

60年代から2010年代まで、作者のキャリア全体をカバーするように多彩な作品が収められていて、入門篇にもなる一冊だろう。せっかく持ってるのに積んだままになっている長篇や刊行が予告されている時評集など、他の文章とあわせて読んでみたくなった。

ヴァーツラフ・ハヴェル『通達/謁見』

松籟社〈東欧の想像力〉叢書第20弾は、チェコスロバキアおよびチェコの大統領としても知られるハヴェルの1965年と1975年の戯曲二作を収めた一冊。戯曲家から大統領になったハヴェルだけれども、日本では肝心の戯曲の翻訳が少なくまた手に入りづらい現状を鑑みて訳出されたものだという。人工言語と官僚組織、表現弾圧の社会といった言葉と政治をめぐる状況が描かれ、堂々めぐりの反復によるコミカルさが楽しいけれど同時にそこに不穏さが忍び寄ってくる。

160ページに及ぶ十二場の戯曲「通達」は、ある役所で人工言語「プティデペ」を導入しようとする顛末を描いたスラップスティックで、人工言語のデタラメな冗長性の反復や、役所らしいたらい回しのなかで描かれる人間性の疎外が主題と言っていいだろう。カフカ以後の戦後文学らしいというか、例えば安部公房も迷宮的なものを通じてこうした不条理と人間性の疎外を描いていたのを思い出す。人工言語「プティデペ」は「自然言語では到達できない精確さ、信頼性、一義性を、あらゆる発話において保証する」ことを目的として作られ、単語同士の類似性を限りなく少なくするため、「言語の冗長性をできるかぎり高める」ようになっているという極端な代物だ。この長ったらしい人工言語の講習風景もかなりギャグタッチだけれども、通達の翻訳をするには許可が要るのにその許可を出す人間がプティデペを翻訳できないため、誰も通達の内容を知ることができないという不条理な状況に陥る。

バラーシュ ヘレチャ! どうして、この個人登録証明書を発行しないんだ?
ヘレナ 通達に書いてある結論と矛盾のないことがわからないと、その書類の発行はできないの。でもその通達はプティデペで書いてある。あたしがプティデペを翻訳できないの、みんな、知ってるでしょ。レモン、まだかしら。
バラーシュ じゃあ、どうしてマシャートは職員に翻訳をしないんだ?
マシャート クンツの許可がなければ、私は翻訳できない!
バラーシュ じゃあ、クンツが許可を出さないとだめじゃないか!
クンツ それは無理だ、誰もヘレナから書類をもらってないんだから!
バラーシュ 聞いたか、ヘレチャ? 書類を発行してやらないとだめじゃないか!
ヘレナ だって、あたしは翻訳しちゃいけないんだもの!
バラーシュ じゃあ、どうしてマシャートは職員に翻訳をしてやらないんだ?
マシャート クンツの許可がなければ、私は翻訳できない!
バラーシュ じゃあ、クンツが許可を出さないとだめじゃないか!
クンツ それは無理だ、誰もヘレナから書類をもらってないんだから!
バラーシュ 聞いたか、ヘレチャ? 書類を発行してやらないとだめじゃないか!
ヘレナ だって、あたしは翻訳しちゃいけないんだもの! (131P)

極端に冗長な人工言語によって自然言語から疎外されるのとともに、行政のシステムが迷宮となり誰もゴールにたどり着けない堂々めぐりをもたらすことと重なって、あまりにもバカバカしくも不条理な状況が出来することになる。この喜劇性は権力に対しても向けられていて、局長の席をめぐる権力争いも描かれているんだけれども、局長の席に座る者が入れ替わったら入れ替わったで今度はその新しい局長に対する軽い扱いが始まり、権力者もまた疎外される状況に陥っている。この単独の強力な権力者がいるわけではないという描写は、後述するエッセイでの「ポスト全体主義」への言及に繋がるものだ。

行政、権力、言語や監視といったモチーフがちりばめられながら、人間が言葉から乖離し本心を言葉にできなくなる状況が描かれるドタバタ喜劇というものは当然、相当に政治的な意味合いがある。また、ある人物が解雇されたままになるラストが腑に落ちなかったけれど、こうした人間を疎外する場所から逃れ出て演劇の世界に入る、というのはそのままこの戯曲の始まる地点にたどりつくということだろうか。


この思った通りにものを言うことができない状況の不条理を喜劇的に描くと言うことでは併録された一幕劇「謁見」も同種だろう。あるビール工場での酔っ払った醸造長と青年の堂々めぐりの会話から、社会主義政権下で作品の発表が禁じられた劇作家とその監視を命じられた者の奇妙な関係が見えてくる。堂々めぐりになる会話はただ酔っ払っているのではなく、言いづらいこと、公にはできないことがあるためでもあり、その極点に醸造長が劇作家ヴァニェクに自分で自分の密告書を書いて欲しいという不条理な話が出てくることになる。このような社会では自己監視が常に行き届いているという諷刺か。ビール工場が舞台になる点でボフミル・フラバルを思い出すチェコ文学の伝統という感じもある。

堂々めぐりの喜劇のなかに本当に言いたいことが言えなくなる、本心からのコミュニケーションが阻害される状況が描かれる、言葉と人間性について書かれた一冊。これらは戦後チェコ社会主義政権における言葉による権力への抵抗でもあるだろう。

表紙には戯曲で最初に読み上げられる「プティデペ」が印字され、醸造所らしい樽のイラストとタイトルはラベルを模して描かれており、ユーモラスな表紙デザインになっている。

『力なき者たちの力』

ハヴェルが78年に書いたエッセイで、古典的な独裁制に対して、個々人がそれぞれに「嘘の生」や「ゲームの規則」を生き、「自発的な動き」で従い作られる現代の「ポスト全体主義」のありようを分析する小著。『通達/謁見』で描かれているものと共通している部分が多く、相補的に読める。

つまり、記号は、従順さを示す「低い」基盤を本人から隠すことを手助け、それによって、権力の「低い」基盤をも隠す。何か「高い」もののファサードの影に、それらを隠している。
 この「高い」ものこそが、イデオロギーである。(17P)
 
イデオロギーは体制と人間のあいだの「口実」の橋となり、体制の目指すものと生の目指すもののあいだの大きな亀裂を覆い隠す。体制が求めているものは、生が求めているものであると装う。それは、現実として受け取られる「見せかけ」の世界である。(20P)

こうして「疎外、現状への迎合を隠すことができるヴェール」、「口実」こそがイデオロギーだとし、自身の「真の生」を覆い隠すものの分析を進めていくのだけれど、現代において非常にわかりやすいのは以下の部分だろう。

非常に単純化して言えば、ポスト全体主義体制は、独裁と消費社会の歴史的遭遇という土台のもとで作り上げられたのである。「嘘の生」がこれほど広範にわたって適応され、社会の「自発的全体主義」がこれほどまで容易に拡大したことと、精神的、倫理的高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくはないという消費時代の人間の後ろ向きの気持ちのあいだには、何か関係はないのだろうか?(33P)

体制からはみ出ない「記号」を共有し、消費社会における安定志向によって維持される下からの全体主義というのは古典的だけれども、今以て、あるいは今こそリアリティがあるのではないか。記号が意味するゲームの規則によって「真実の生」から疎外され、維持される全体主義社会への抵抗は『通達/謁見』で描かれたものの背景そのものでもあり、例えば71ページで語られるハヴェルのビール工場での経験は、「謁見」の元ネタでもあるし、この政治エッセイの基盤にもなっている。

社会主義体制で誰も真面目な働こうとしないなか工場の経営が傾いてきた時に、ある男が真面目な仕事をしようと現状の分析と改善の提案をしたら、工場の実権を握った者たちは仕事に無関心だけど政治的な力を持っていて、男の業績向上のための提案は「中傷文」と見なされ追放されてしまう。ここに、マサリクの言う「慎ましい仕事」、ハヴェルの言う「真の生」をまっとうしようとした真面目な一市民がポスト全体主義体制の壁にぶつかった瞬間が現われている。心ならずも「ディシデント」、異論派、反体制派とされてしまったわけだ。本書の主題は「ポスト全体主義」と「ディシデント」にあり、ディシデントとは何らかの政治的職業などではなく、そして「背教者」という語源のように何かに背くことでもなく、「真実の生」を生きようと決意した姿勢にあり、それは無数の普通の人々だと論じる。

以下の箇所も非常に日本的な現状という感じで興味深い。

ポスト全体主義体制の社会では、伝統的な意味での政治的生活はすべて根絶やしにされている。人びとが公けの場で政治的見解を表明できる可能性はなく、そればかりか、政治組織を編成することも叶わない。その結果生じた隙間は、イデオロギーの儀式がことごとく埋めることになる。このような状況下、政治への関心は当然のことながら低下し、大半の人びとは、(仮にそのようなものが何らかの形で存在するとしても) 独自の政治思想、政治的活動といったものは現実離れした抽象的なもので、ある種の自己目的化した戯れでしかなく、強固な日常という心配事から絶望的に遠く離れたものと感じる。(51P)

以下のくだりも常套だ。

権力の代表者たちは、「真実の生」を目的のある動機――権力、名声、あるいは金銭への欲望――とつねに関連付け、そうすることで、自分の世界、つまり堕落が当たり前の世界へと引きずり込もうとする。(44-45P)

NHKの五輪ドキュメントで反対デモ参加者が金によって集められたという捏造字幕がつけられた問題そのもの、という感じですね。一部の人には、つまり「永遠の嘘をついてくれ」だといえば通じる気がする。


劇作家がチェコスロバキアの最後の大統領にしてチェコの最初の大統領というのはなかなか面白くて、そもそもチェコスロバキアの最初の大統領はトマーシュ・ガリグ・マサリクという哲学者だったわけで、面白い国だ。マサリクについては林忠行の『中欧の分裂と統合』という新書があり、十年前になるけどこの記事で触れた。
closetothewall.hatenablog.com