小林英夫「日中戦争」

日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ (講談社現代新書)

日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ (講談社現代新書)

いま刊行されている岩波新書の「日本近現代史」を読み進めていて、ちょうど五巻の「満州事変から日中戦争へ」を読み終えたところで、次巻の「アジア・太平洋戦争」では対米戦争の開始時点からの記述になっていて、日中戦争のあたりが抜けてしまっている、とApemanさんがこちらで書かれていたので、bk1でのブルースさんの書評で気になっていた本書を中継ぎとして読むことにした。

本書の大筋は、日中戦争での軍事力では圧倒していた日本がなぜ負けたのかの原因を、殲滅戦と消耗戦、ハードパワーとソフトパワーという二つの対立軸によって捉えてみる、ということだ。

日本軍は日清戦争日露戦争と短期間での軍事力集中による一転突破型の戦争を戦ってきた、と著者は指摘する。これが殲滅戦だ。そして、そうした殲滅戦を、国内の産業や兵力といったハードパワーが支えていた。

開戦当時の状況を見れば、日本は内戦状態にあった中国に対して、ハードパワーに関してははるかに上回っていた。そのことは蒋介石も十分に承知していたようで、直接的な軍事力などで勝ちを見込めない状況を見据えて、政治、外交、宣伝といったソフトパワーを活用しつつ、日本軍を消耗戦に引きずり込んだ。そのうち、日本軍の疲弊、南京事件などの暴虐が国際社会に知られるようになり、日本はますます孤立していく。

一気呵成の殲滅戦を得手としていた日本は、外交の重要性を認識することが出来ず、メディアを利用しようとしても国内的にしか通用しないような稚拙なプロパガンダにしかならず、国際社会からの理解を得られることがなかった。

基本的にはこのような形で、日中戦争の総括となっている。二つの軸を使った図式化が上手く行きすぎていて本当か? と思わないでもないが、この分かりやすさは初学者にはとっかかりが得られるので良いことだと思う。

しかし、この本を読んでいると、日中戦争のことなのに、まったくいまの日本について分析しているような共通性を感じることが多い。この本での重要な点のひとつは、日本は昔から外交軽視で、内向きの論理でしか動いていない、という指摘にある。

戦時下にメディアを利用しようとしたのは、なにも日本だけではなく、どの国の指導者でも考えることである。ただ、その利用のしかたが、自国の弱さを逆手にとった中国のしたたかさとは比べようもないほど、日本は稚拙で、独善的であった。もしも日本の戦争指導者が本気でジャーナリズムを戦争に利用するのであれば、全世界の人々が共感しうる普遍的な表現で、中国人がいかに暴虐で、日本の正当な権益がいかに侵されているか、この戦争がいかに日本にとって大義名分があるものかについて国際的理解を得られるよう、各メディアに発信させるべきだった のではないか。もっとも、彼ら自身が本当にそう思っていたか否かは別の話だが。
 みずからも国際社会の一員であり、そこに向かってみずからの行動を説明すべきだという意識の欠如にこそ、日本のソフトパワーの弱さが表れているように思えてならない。

つい先日も、慰安婦問題についてこの外交軽視と内向きの論理という問題点が露わになっていた。そもそも、売春を強制させられていた、という人権問題として国際的に問題となっていたと思うが、安倍前首相はじめその周辺はどうも強制連行だけが問題なのだと認識していたらしく、慰安婦問題の理解について大きな齟齬が生じていた。これは、国内の慰安婦否定派が、売春に従事させられる、ということについてあまり問題にしない(商行為だから問題なしとする態度)という前近代的価値観の存在を示唆しているが、こうした国際的には全く認められない前提に基づいて発言や意見広告を行うことは、はっきりいって逆効果だった。国際的な常識では、そのような人権侵害行為はともかくも非難されるべきものだということがわかっていない。

内向きの論理と、国際社会での常識との齟齬を認識できていない。国際社会を説得するのに必要な客観的な自己認識が決定的に欠如している。「自分の正しい主張」を相手に伝えればそれでOKだと思っている節がある(しかし、こういうとまるで左翼のことを非難しているようだ)。

著者は日中戦争時もまた現在も変わっていない日本の大きな問題のひとつとしてこの外交の弱さおよびソフトパワーの軽視が、この本を書くきっかけでもあったと書いている。外交、宣伝といった情報戦略には、客観的な自己認識が必須だろう。それなしでは交渉などのコミュニケーション行為は成立しない。

というわけで、日中戦争の歴史的経緯だけではなく彼我の文化的性格の違いにまで踏み込んで、明快に日中戦争を分析している本だ。図式化の弊害はあるのだろうけれど、面白い。