遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

動物の遺体を解剖し、生態、進化の謎を追究する「遺体科学」を提唱する遠藤秀紀が、人体の進化を豊富な動物解剖の知見を援用して解説する。

この本では、人間がナメクジウオ(あるいは昨日の「ワンダフル・ライフ」にも登場するピカイア)のような単純な海生脊索動物から、魚類、そして陸に上がり、さらに四足歩行から二足直立歩行に至るという、人体の進化の歴史をたどる、という王道ともいえるスタイルなのだけれど、その進化の歴史の捉え方が新鮮だ。

本書では進化というものを、既存の生体デザインのその場凌ぎの仕様変更、と捉えている。たとえば、陸生動物の四肢は、魚類のヒレが起源なのだけれど、では魚類のヒレはどうして骨を持つ四肢へと進化したのか。

それを知るには、ユーステノプテロンという骨のあるヒレを持つ魚の観察が必須だが、すでに絶滅している。しかし、直接の繋がりはないが、類縁ではある同じく骨のあるヒレを持つシーラカンスの観察から、そのヒレは骨を持つことで繊細なコントロールを可能にし、海中での複雑な行動に活用されていることが分かった。

つまり、骨のあるヒレというのはそもそも海中での行動に適応したもので、その肉厚のヒレが、後の陸上で行動する支えとなる。骨のある肉厚のヒレは元々陸上生活のために作られたのではないのだけれど、結果として四肢への可能性を胚胎していた、ということだ。

動物というのは、基本的な設計を持つ祖先がいる。そして次の段階は、その祖先の設計図を借りてきて変更するしか、新たな動物を創り出す術はない。だから、新しい設計は、所詮は祖先の設計図のどこかを消しゴムで消し、何か簡単にできることを付け加えることでしか、実現できないのだ。
47P

骨盤や、耳小骨、肺など、進化の結果うまれた様々な器官を、そうしたその場凌ぎの仕様変更の連続、蓄積として捉える。昨日のグールド進化論とももちろん共通の認識を、具体的な遺体解剖の知見を駆使して叙述するところが白眉だ。

途中まで読んでいて、本書は「失敗の進化史」というよりは「継ぎ接ぎの進化史」の方が適当だなと思っていたら、著者は最終的に人間が失敗した動物だと結論する。ここまで自分の暮らす土台を崩してしまった生物は動物としては失敗作だと言うほかない、と。やけに冷徹な認識だ。


で、この本で面白いのはなによりも著者自身かも知れない。遺体解剖に臨むプロフェッショナルとして、どんな遺体が目の前に現れても最善の解剖を行えるように、つねにシミュレーションを欠かさないとか、現在の大学、行政での科学研究が目先の利益に直結しない研究を排除していく拝金主義にまみれていると批判したり、博物館や動物園はただ客に金と引き替えに安楽を提供するのではない研究施設でもあるという、様々な主張はどれも情熱的で真摯な科学研究への意気込みを感じさせるものだ。