貧しい「誤読」

仲俣暁生ブログで、どうも先日の私の批判記事に対する応答らしき部分を含んだ記事がアップされていた。
【海難記】 Wrecked on the Sea - 読書の自由について
一読、これには頭を抱えてしまう。どうにも批評家としての自殺行為にしか見えない。こんな人を批判して良いのだろうかという迷いもあるのだけれど、一応、言うべきことは言っておく。

まずこの文章において、高橋と保坂の読み方に勝手に小説家の読み方を代表させて「分析的に読む読者(小説家)」などとしている時点でおかしい。保坂の読みは分析的といえば分析的だが、だからといって他の小説家はそうではないし、保坂のように小説を読む小説家が多数かと言えばそうではないと思う。どちらかといえば、小説から何を受け取り、何を考えたか、というような読み方を披露する人が多い気がする(なんとなくね)。

そして、この高橋保坂コンビの読み方を勝手に敷衍することで、「小説のことは小説家にしか分からない」発言を、「分析的読み」の優位性を主張するものだと推論している。これは、どう考えても誤りだ(いや、その対談読んでないから違うかも知れないけれど)。そもそも、高橋保坂コンビがそのような読みの種類を区分けたうえで上記発言をしているとは思えない。この発言は普通に考えて、最近の批評家はレベルが低い、という慨嘆だろう。(どうも、そうとまでは言えないみたいだ。やはり直接確認しないで書くべきではなかった。すみません、ここは訂正します)

私が前回記事で論ったように、またも仲俣暁生は、批評の質、という問題から眼を逸らそうとしている。当該記事では、そのために個別事例を一般論にすり替えて誤魔化そうとしているのが分かる。

批評が嫌われるのは、批評家が作品を自らの考える一定の狭い枠組みのなかに位置づけてしまい、それが往々にして小説の作者自身の考えと異なるからだ

そんな高度な問題ではない。たとえば笙野が仲俣暁生田中和生を批判したのは、そういう批評的読みの問題以前に、そもそも小説を読んだのか?という疑問を起こさせるような無惨な内容把握を前提にして批評を展開しているからだ。

仲俣暁生は「おんたこ」を読んだというのだから、田中和生の「フェミ越え」がいかにでたらめな把握を元にして「おんたこ」を論じているのかもう分かっているはずだ。それはもう、批評的かどうかの問題以前の、書いてあることすら踏まえられていない、という無惨きわまる水準のものだ。作中から男を批判する箇所と、女を褒めている箇所を二つだけ抜き出して、「おんたこ」が「男女の不毛な二項対立」だと断じる、という手つきはそもそも、最初から最後までちゃんと読んでいないのでなければ出来ない芸当にしか私には思えない。

そのような対象の矮小化をしたうえで批判されてはたまらない。

仲俣暁生「「個」の問題」の件でも良い。あれなど、自分が女性文学をわからないと言い訳しながらもなぜか「彼女らの書いている小説が、最終的には女の人の「個」の問題に尽きてしまうのではないか、と思うからです」などと、分からないなら黙っていればいいものを極端な矮小化をして批判している。

二人に共通するこの手つき! こんなものを批評呼ばわりされてはたまらない。批評とは、対象作品を極端に小さく見積もって否定する、というあなた方のやり口のことですか? 

笙野頼子が怒ったのは、ただ読み方が違うだとか言うちんけな理由からではない。タダ単にそれが小説を読まないでも書けるような程度の低い単純化に基づいて作品を過度に矮小化するというやり口に怒っている。対象を極端に矮小化するこういう書き手のことを、笙野頼子は(三次元を二次元にぺたんこにする、という意味で)二次元評論家と呼んだんだ。

仲俣暁生はこうした個別事例について何らかの反論をするのではなく、一般論として作家と批評家は読み方が違うから仕方がない、という風にすり替えている。

「一種の豊かな「誤読」としての読書」などと言っているが、仲俣暁生田中和生の読みのいったいどこに豊かな部分があるのか。「男女の不毛な二項対立」や「女の「個」の問題」のどこが豊かなのか。彼らの読みはただの貧しい誤読に過ぎない。笙野が批判し、私もここで批判しているのは、それが誤読であるかどうか以前に、極端に発想が貧しいからだ。

「おんたこ」に対しても「少なくとも男の読者がこの本を読んで快哉を叫ぶことはあり得ない」などと、男である自分の感覚が男全ての感覚と同一であるかのような発想の貧しさを露呈している。自分を客観的に、相対化して、反省的に見ることがまったくできない人のようだ。


私の前回の記事での「陰謀論的」という評に対し、仲俣暁生は「今回の一連の出来事の背景に政治的な「陰謀」がある、なんて私は考えていない」と返している。私だってそんなことは考えていない。当たり前だ。あの文章では、田中和生(=批評家=仲俣暁生)を無辜の存在として前提することで、批判の「大合唱」が、あたかも批評の居場所を失わせる「構造」を象徴するものに見えている。しかし、なんのことはない、単に田中和生仲俣暁生の批評がダメだから批判されているだけであって、そこに「構造」など考える必要はない。そのことを考えないようにするために、ことさらに自分を被害者の立場におくものの見方が「陰謀論的」だと私は指摘したのだ。

最近は確かに批評が低調だという感じはある。しかし、そこで批評家である仲俣暁生自身が、自分の批評の質を反省することなく、たんに文壇が、周りが、「構造」がなどと、自分に何の落ち度もないかのごとき繰り言をしている限り、誰も批評に見向きもしないだろう。

批評家と小説家は読み方が違うから、などと言っておいて、小説家の読みに対して自分の読みを正面からぶつけることすら出来ないのなら、最初に提起した区分もなんもみんな張りぼてじゃないか。「批評」を書くものとしての気概すらないのか。

その上で、結語がこれだ。

批評家なる人種の読みがどんなに自分の作品に対して頓珍漢であっても、それに対していちいちマジギレすることなく、寛容に対処する大人の態度を、多くの小説家の方が身につけてくれることを切に望む。

本当に頭を抱えてしまう。これは、批評家としての自分の書いたものが、真に受けるに値しないガキの戯言だと自ら主張しているということか? 「子供のすることですから」大目に見てくれと?

あのさ、小説家って小説を書くことで生活しているわけだし、個々人はそりゃあ小説に真面目に取り組んで、真面目に書いて真面目に読んでいるだろう。そこへ、なにこれ。真面目にやってるから真面目に怒るんであって、仲俣暁生がいくら批評を手慰みに適当に書いているとしても、小説家は自分の真面目に書いた小説に対して、トンチンカンな戯言が、プロの批評家の文章として文芸誌に載ったりすれば、そりゃあ、真面目に批判するよ。

それに対する言い訳が、僕ちゃんは批評家としての自覚もないし、ただの読者だから、大目に見てねって、いくら何でもひどすぎる。同じ雑誌に文章載っけておいて?

これはいくら何でもまずい。完全に批評家として自殺してしまっている。史上最低のみじめな言い訳。自分ではおかしいは思っていないっぽいところがまたさらにやばい。仲俣暁生がここまでアレな人だとは思わなかった。大目に見なきゃいけない子供だとは思わなかった。


と、いろいろ書いてみたところで、メルさんのブログでも同じ記事を批判している記事がアップされていた。
Sound and Fury.::メルの本棚。
内容被っちゃった。違う記事では私の先日の記事に同意してくれている。どうもです。