中身のない御託にはただ軽蔑を差し向けるだけ

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昨日、また仲俣暁生による記事がアップされたけれど、結局自分や田中和生の個別の批評の質の問題を批評一般の問題にすり替える立論を続けている。

田中和生に対する高橋源一郎の返答にしても、「群像」での笙野頼子の文章にしても、小説にとって批評とはなんぞや、という肝心の問題はスルーしたままである。

高橋源一郎との論争については知らないのでここでは脇に置くが、笙野頼子の田中批判のどこに批評の意義を問う必要があったのか。図式化、抽象化が批評に必要というのは同意しても良い*1が、田中和生の「おんたこ」評はまさに「通読すらしていない」ことを疑わせるほどの代物だったと私は言っている。そのような水準の論を批判するのに、「批評の意義」や図式化、抽象化の必要性を考慮する必要はない。

笙野頼子高橋源一郎と違い、批評、評論は必要だと繰り返し述べている。しかし、田中和生のごとき水準のものは不要だとしごく単純で当たり前のことを主張しているに過ぎない。

それをして、仲俣暁生は「不真面目な対応」などと言う。いやいや、田中和生のひどい批判こそがその原因ですがな。質の悪いものを批判することが、なぜ批評全体への攻撃にすり替えられているのか。

自身の「誤読のツケ」を省みることなく、ただただ自分たち批評家の居場所がない、とわめくだけのみじめな振る舞いはいい加減にやめたらどうか。「小説のことは小説家にしか分からない」という認識を批判するのは、小説家をうならせるような批評を書くことによってしか達成できないはずだ。

「批評の意義」とやらをくだくだしく述べてみたところで、その御託に見合うだけの中身のある「批評」を書けなくては意味がない。中身のない御託にはただ軽蔑を差し向けるだけだ。仲俣暁生は、自分に向けられているのがその種の軽蔑であることに気づいていないのか。

部外者のつもりで愚痴をこぼしたり批判をするのは簡単だ(今この文章を書いている私のように)。しかし、仲俣暁生は自らも批評、評論の書き手として文芸誌に文章を載せている人間であり、「批評の居場所」についてなにがしかの責任を負う存在のはずだ。そんな人間が、自身の作物の出来を脇において偉そうな御託を述べ立てても、説得力はない。
むしろ私などからすれば、ああ、こんな人が批評家の肩書きつけているから、批評の居場所がなくなっていくんだな、と思うだけだ。


●重箱隅つつき
で、こんどは笙野頼子の「アヴァン・ポップ」に難癖をつけだした。マキャフリイの「アヴァン・ポップ」は私も読んでいないが、仲俣暁生も「読んでいない」のに、なぜか細々と御託を並べている。むしろ「アヴァン・ポップ」の復活こそが反動なのだとかなぜそんなことが言えるのか不思議だ。私の知る限り「アヴァン・ポップ」を自認して良くそれを書く作家は笙野頼子しか知らないのだけれど、他に誰が「アヴァン・ポップ」復活とかやっているのか教えて欲しい。

どうも、正面から対決できないから、重箱の隅をつついてちょっと自分を優位に見せようかな、みたいなヘタレな打算にしか見えないところが情けなさ過ぎる。

また、笙野頼子が「純文学」にこだわるのも不思議だ、とかいって、自分も批判された「徹底抗戦! 文士の森」とか、読んでないんだなあ。詳しい経緯は私も覚えていないけれど、世間の「文学は終わった」的な通俗的な批判に対抗するために、率先して「純文学」を背負って論争を続けたことを知っていれば、そんな疑問など出るはずがない。

しかし、笙野頼子があえて純文学の看板を背負って仕事を滞らせて貧乏にまでなりながらも論争を続けたのと比べて、この仲俣暁生の自分は批評家ではないなどと逃げつつ、批評の居場所がなくなっている、と文壇を傍観者気取りで批判してみせるやり口の、なんたる落差。まあ、笙野頼子の論争については賛否あるだろうけれども、この責任を自ら負ってみせる気概にはケチがつけられまい。それと仲俣暁生の絶対に責任を負おうとしないヘタレた態度とには、天と地ほどの差がある。

いや、ほんと笙野頼子は偉かったな、と仲俣暁生を目の当たりにして実感する。


まあ、自ら画期的な幼児退行宣言を出された仲俣様のことですから、何を言ったところで無駄でしょうけれどね。

*1:しかし、そうした図式や抽象が、小説そのものによって裏切られていくのが読むことだと思うのだが