都合が悪くなったら「実名を出せ」メソッド発動。

昨日の仲俣暁生氏の記事に追記がされていた。
『双調平家物語』完結 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

追記:トラックバック各位へ。ブログでの「論争」は疲弊するだけなので私はやらないし、トラックバックも(はてなの記法の変更のせいでイヤでも見えてしまう部分以外)原則的に一切読まない。そのかわり批判・悪口は大いに歓迎である。いまのところ「論争」というほどのネタがあるとも思えないが、議論すべきことがあるなら論点整理の上、右まで「実名」にて直メールのこと。solar@big.or.jp 誠実なメールには誠実に、そうでないメールにはそれなりにお返事さしあげる所存。以上。

いやあ、ちょっとどうしようかなと迷ってた。イベント会場に呼びつけて「論争結構」というパターンと同じで、どうせ実名提示してメールなんて送ってこねえだろうな、という考えでこれを書いているとするなら、ここは実名でメールを送ってやろうかなと結構本気でいろいろ策を練っていた。

メールを送るとしても、まずは実名を不特定多数に公開しないこと、返信の内容をブログで全文にしろ部分にしろ公開することなどを条件にして、それに同意してもらえるなら、公開質問状の形で、「達人」とか揶揄したあだ名を使わない、まともなメールを送ることを計画してはいた。そっちがそういう態度に出るなら、こっちも突っ込めるだけ突っ込んでやろうかと。

でも、はたと思い直した。別に仲俣暁生氏に議論に参加してもらうメリットって、俺にはビタ一ねえんじゃね、と。俺が実名さらすメリットまったくなくね? なくね?

自分が公開の場所で書いた批判記事に、反批判が来たとて、それに対する応答が欲しかったらメールを出せ、って意味がわからん。なんで反論を待っている方が手間を掛けなきゃならんわけ? これまでの批判は全部トラバってんのに、改めて論点を整理して提出って、何、俺の担当教官か何か? 自分の「反論」が、それだけの手間と実名提示を掛けてまで得るに値するものだとでも?

つうか、実名厨の言うことをまともに取り合う必要なんてないよね。

俺のブログでのIDで不足だというなら、まずはその仲俣暁生っていうご自分の名前が実名であることを戸籍でも提示して証明してもらわないと。

しかし、これだけ傲慢な態度もないよな。俺の反論が欲しかったら実名を出せって、面白すぎる。反論しないと困るのは仲俣暁生氏であって、俺ではない。誤読、誤解、論点のすり替えについて釈明しなければならないのは仲俣暁生氏であって、俺ではない。
それに、どうせまともな反論があるとは思えない。笙野の座談の誤解などの致命的なミスについて、理路整然とした根拠があるなら、すでに書いているだろうし、最初の議論の段階からどんどん後退戦で墓穴を掘っていったのは仲俣暁生氏だけだ。もしかしたら、本当にかなりの天然でいらっしゃるので、自分の書いたものに間違いや問題など少しもない、と考えているのかも知れないが、そうだとしたら私の問題意識そのものが理解されない可能性があり、どちらにしろまともな反論など望めない。

「実名」なら返事をするなどという不誠実な態度を取る仲俣氏の「誠実」な返答に、いったいどれだけ期待できるというのか。

それに、イベント会場で論争しようだとか、dozeoffさんも以下で書いてるように、
http://d.hatena.ne.jp/dozeoff/20071028
自分の権力が発揮できる場に相手を呼びつけるやり口が卑怯すぎる。今回の実名メールも、元々名前を出して仕事をしているプロの書き手と、一介の生活があるブロガーという、名前に関して大きな非対称がある人間同士で実名でやりとりしよう、というのはやはり自分の権力を最大化できる場でだけ「フェア」なやり方を採用しようと言うきわめて卑怯なやり口だ。

自分は読者の一人として、とか言っておいて、同じく読者の俺とは対等な立場では論争したくないらしい。

そんな仲俣暁生氏の条件にわざわざ従って、実名を提示して、論点を整理して、反論をいただくためにメールを認める、なんて、考えただけでも屈辱もんだわな。なんでそこまでしてバカ、じゃなかった仲俣暁生氏にへつらって御返事を頂かなきゃならんのかと考えたら、心底腹が立ってきた。ほんとむかつくわ。

でさ、トラバは原則いっさい読まない、とか言ってるけど、仲俣暁生氏は「「論争」というほどのネタがあるとも思えない」って言うのね。これ、俺も完全に同意するよ。仲俣暁生氏が笙野批判とか何か書く、俺とかが批判する、すると仲俣暁生氏は違う話題に話を移してまた笙野批判とかやる、それをまた俺とかが批判する、で仲俣暁生氏はまた違う話題、ってやってるもんだから、話が一方通行でまったく議論になっていないからね。唯一論点といえるのは、仲俣暁生氏が「陰謀があるなどとは思ってない」と書いた、「陰謀」の有無のみ。どうでもいいポイント。で、「「論争」というほどのネタがあるとも思えない」って言うってことは、そういうすれ違いを完全に把握してるってことでしょ。「思えない」だからね。「知らない」じゃなくて。俺とかの批判、ちゃんと読んでるでしょ。で、それを逆恨みして何とか笙野ファンに一矢報いようとして、現代思想の座談での「テロ」と「俺=自己」発言を見つけて、鬼の首を取ったかのように笙野をさんざ攻撃してみたら勇み足で引っ込みつかない、と。「つじつまが合わない」って、そりゃ誤解してるからね。一貫した言動の一部を誤解したらつじつま合わなくなるよねもちろん。

まあ、俺も座談の誤解で延々鬼の首を取ったかのように攻撃してるからアレだけれどね。


というか、話変わるけど、初手から仲俣暁生氏はやり方を間違ってるんだ。批評を擁護するなら擁護すればいい。でも、そのやり方が、笙野批判で完全にミスを犯した*1田中和生を延々擁護して、笙野頼子だけを批判して、田中和生を無垢な被害者の立場に置くという印象操作ではまったくまずい。きわめて低劣な政治的手法だ。お仲間をかばい立てして悪いところは目をつむるなんて、下の下だろう。

批評の自由、読解の自由を宣言するのなら、自分の読みは作家の読みとも対等だ、作り手だからといってその読みが最上の物とは限らない、とか主張すべきなのに、大目に見てね、とか自ら批評の劣位を肯定してしまうような発言をしてしまったりする。どうだろう。


批判、悪口大いに結構とのことなので、まあ、これからもよろしくお願いしますね。ブログで。

笙野ファンクラブ会長も、仲俣暁生氏に物申しておられますね。
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不思議なのは、仲俣暁生氏はプロの書き手だし、結構人気のあるブロガーなのかと思って、俺の一連の批判記事にもいつどんな仲俣擁護のツッコミや批判がくるかと待ってたんだけど、何もない。Panzaさんのコメント欄に書き逃げさんが現れたけれど、それだけ。案外人望ねーなー、と可哀想になってきたよ。まあ、ファンの人もこれは擁護できない、と思って静観してるのかも知れないけれど。

あー、またこんな記事でブログがいっぱいだ!

*1:そうではない、というなら反論をどうぞ。田中和生のおんたこ批判が妥当であると考える根拠を、自分なりの主観でかまわないので