「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見

いくつかの記事で、歴史修正主義についての議論が行われているのを見て、ちょっと考えをまとめてみることにした。タイトルはこの記事から。
なにが歴史修正主義の問題なのかが未だに知られてない件 - 喚いて叫ばざれば

ちなみに、私は南京事件慰安婦問題についての事実関係についての議論には応えられないし、応えない。私は専門家ではないし、個々の史料や多数の書籍にアクセスできるわけでもない。私は、歴史学の通説に信を置き、反歴史修正主義の方々の議論の方が客観的かつ妥当な学問的方法に基づいて事実を判断していると信ずる。なお、その時々の歴史学の成果を一般に普及する役割をもつ、各社の「日本の歴史」の太平洋戦争を扱った巻(中公版とか小学館のとか講談社のとか、または岩波新書の「近現代史」や半藤一利「昭和史」とか)を目につく限り拾い読みしてみても、南京事件否定論を支持する書籍はひとつもなかったことを付言しておく。素人が事の正否を判断するにはこれで充分だと思う。それだけの書籍が捏造や虚構によって成立しているというのはさすがに陰謀論が過ぎる。ピルトダウン事件や神の手の捏造のようなものがあると言うかも知れないが、事件の実証を根拠づける史料はそれらに比べれば非常に膨大で、そのすべてが捏造とするのは無理がある。

しかし、文章が長すぎるし、いろんなところに喧嘩売りすぎだし、紛糾する話題に突っ込みすぎてすごーく炎上しそうな記事になってしまった。結構おおざっぱな議論になっているのも問題だ。まあいいや。

自称中立という問題

歴史修正主義についての問題点はいろいろある。南京事件のように学問的には数十年前にすでに決着がついている問題についても未だにそれが幻であったかのように否定論を唱える人間の存在もさることながら、たとえばこのブクマコメントに
はてなブックマーク - 2008-01-01 - ▼CLick for Anti War 最新メモ
見られるように、傍観者を気取り議論を相対化して、肯定論も否定論もどっちもどっちだなどと賢しげに俯瞰してみせる者などが現れる。

彼らは相対化してみせることが中立であると勘違いしているのだけれど、学問的通説とデマとを同等に扱ってみせることが中立だなどということはありえない。私も以前はそうだったけれど、よく知らないのでどっちに理があるのか分からない、と言う人はこのことをまず肝に銘じておくべきだ。ある人物の否定論は「学問的研究の名に値しない」とまで裁判で判断された訳だし。

上記のような言動が行われることについては二通りの説明が考えられる。事件についての基本的知識を欠き、また議論を丁寧に追う手間を惜しんで、肯定論と否定論という一見対立しているもの同士をとりあえず喧嘩両成敗として裁いておけば良いだろうという、無知と怠惰からくる暫定的な判断。もうひとつは、両者が議論において対等な価値を有するという印象を与えるための戦略的な相対化という、否定論擁護の一類型。
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後者の例は

2008年01月02日 lovelovedog ぼくには反歴史修正主義者によるレッテル貼りのひどさのほうが気になるんだけどな。水はいろいろな条件でいろいろな結晶になるし、人類の進化は偶然と必然の両方がある

というのがある。まあ、対等な価値がある思わせるのではなく、相手を貶すことでバランスをとろうとする反応だが。このコメンター、何かと自分は中立であるかのような態度を装いながら旧軍擁護に資するような振る舞いを行うことで、まあ知っている人は知っているネットの有名人だけれど、最初の一文の偏向ぶりは凄い。歴史修正主義者による歴史家やブロガーへのここに書くにもはばかられるような程度の低い罵詈雑言やレッテル貼り(反日売国奴工作員とか、最悪なのはおまえは朝鮮人かというような露骨な差別主義まで)がネットにはしばしば見られるんだけれど、それをどう考えているのか。それを考えれば反歴史修正主義の論者でレッテル貼りをやるのは、話題になっているClaw氏とか数はかなり限られてくる(ネトウヨとかニートとか、オタクとか感心できないレッテル張りがあるのも事実だ)。

南京事件慰安婦問題に言及する反歴史修正主義的なブログに現れるコメンターなんて、いきなり罵倒やレッテル貼りからはじめる連中ばかりなのに比べれば、歴史修正主義者のブログなどに批判的なコメントする人の冷静な態度はかなり目立つと思う。自称中立の人にも、ネットには左派の歴史家やブロガーに対する罵詈雑言が、その逆をはるかに上回る数で存在することくらいは同意して貰えるとは思うのだけれど。

この御仁、反歴史修正主義者のレッテル貼りは気になると表明する割には、歴史修正主義者の罵詈雑言、差別発言等はどうもスルーされる様子。あるいは、歴史修正主義者よりも、反歴史修正主義者によるレッテル張りの方がひどい代物であるかのような印象を与えようとしている。これが相対化による歴史修正主義擁護の一例であることは明らかでしょう。

二つ目の文は何が言いたいのやらわからない。創造論擁護もしたいのかな?

内向きの論理という問題

で、ここから本題。

上でもちょっと触れたが、私は歴史修正主義の最大の問題点は、往々にして差別主義と渾然一体になっていることが多いことだと思っている。人種差別、民族差別、性差別的な主張がしばしばセットになっている。中国、朝鮮、韓国人へのレイシズムが特に多い。

慰安婦問題ではそれが目立った。

日本で慰安婦問題について発言する右派の人々の言動には、しばしば韓国人や朝鮮人、あるいは性労働に従事する女性についての差別的発言が含まれており、韓国、朝鮮人は何々な文化の連中だからとかの差別的な内向きの論理はネットなどでも広汎に見られた。

しかし、そもそも慰安婦問題がアメリカで決議案が出されるような問題となったのは、それが現在も回復されていない人権問題として認識されたからだ。人権が重要な問題なのは、それが現代の国際社会においてきわめて大切な価値であると見なされているからだ。女性差別、人種差別と言った人権抑圧を克服していくことは、国際社会において尊重される理念だと言って良いだろう。それがじっさいに達成されているかどうかということについてはどの国も問題を抱えているだろうし、そのことについての批判はあっても良い。しかし、国際社会において、人権を尊重しないかのような発言を公的に表明することはきわめて大きな問題を引き起こす。

人権という概念自体については、いろいろ議論もあるだろうし、絶対正義の尺度とまで言うつもりはない。国際社会の反応が絶対正しいとも言うつもりはない。しかし、様々な人権抑圧を克服し、個々人が人権を尊重されるような社会を目指すという近代以降の人類の歴史があり、奴隷制の廃絶や女性の地位向上といった達成をこの社会がもっていることを忘れてはならないだろう。現代の社会はそうした土台に上に立っているのであり、人権の価値はきわめて重大であると言わねばならない。

国際社会はそのような人権についてのコンセンサスを共有しており(あるいは、そのようなコンセンサスを共有しているという建前で動いており)、守られ尊重されるべきものと見なしている。しかし、日本の右派、歴史修正主義者は、慰安婦問題が人権問題であることを解しない反慰安婦キャンペーンを張ってしまった。

その最大の自爆例がかの「The Facts」だ。このワシントン・ポストに掲載された意見広告で、個人的に問題だと思うのは、たとえばこれだ。

FACT4:下院の決議案は、元慰安婦の証言が基礎になっているとし、元慰安婦は最初は強制されたと言わなかったが、反日キャンペーンの後変化し、強制されたと言うようになったとしている。

被害者として証言した慰安婦たちを、実質嘘つき呼ばわりしている。さらに「反日キャンペーン」などという日本の右派にしか通じない言い方をしたうえで、それに従って証言を変えたと主張し、一部アジアの陰謀の手先だという印象を与えようとしている。これにはラントス委員長が「生存する慰安婦を中傷するものだ」と批判し、結果として非難決議可決への動きを加速させるものになってしまった。

上記の主張は典型的なセカンドレイプというものだ。レイプの被害者に向かって嘘つき呼ばわりすることがどれだけ非難を受けるかわからないのだろうか。事実を究明しているようなふりをしながら、元慰安婦への中傷が行われている。そもそも、自分が性労働に従事させられていたというあまり公言しにくい事実を証言することにどれだけの心理的負担があるかということについての無理解がここには見られる。

この意見広告は慰安婦の人権を尊重しようという人々に対し、慰安婦の人権を否定しにかかるようなやり方で意見を表明してしまっている。性暴力についてのきわめて甘い認識が露わになっている。

発起人たちはこの広告の文面がもつ認識が、国際社会でどう受け取られるかをまったく理解できていなかった。だからこそこのような意見広告が可能になるのだし、それは理の当然としてさらなる非難を巻き起こし、アメリカはおろか、カナダ、オランダ、EU、フィリピン等の国で非難決議が提出されたり可決されたりという事態に立ち至っている。

彼らは、自らの主張が国際社会でどのように受け取られるかがまるで把握できておらず、内向きの論理のみで行動していた。それはまさに戦前の日本そのままだ。以前に書いた以下の記事では日中戦争期の日本についての以下の指摘を引用した。
小林英夫「日中戦争」 - Close to the Wall

戦時下にメディアを利用しようとしたのは、なにも日本だけではなく、どの国の指導者でも考えることである。ただ、その利用のしかたが、自国の弱さを逆手にとった中国のしたたかさとは比べようもないほど、日本は稚拙で、独善的であった。もしも日本の戦争指導者が本気でジャーナリズムを戦争に利用するのであれば、全世界の人々が共感しうる普遍的な表現で、中国人がいかに暴虐で、日本の正当な権益がいかに侵されているか、この戦争がいかに日本にとって大義名分があるものかについて国際的理解を得られるよう、各メディアに発信させるべきだった のではないか。もっとも、彼ら自身が本当にそう思っていたか否かは別の話だが。
 みずからも国際社会の一員であり、そこに向かってみずからの行動を説明すべきだという意識の欠如にこそ、日本のソフトパワーの弱さが表れているように思えてならない。

歴史修正主義の最大の問題点はこの稚拙で独善的な内向きの論理、内輪でしか通じない私的な論理を、内輪の論理だと気づくことができず、その独善的なときに差別的な認識を露わにしてしまうことだ。そこでは自らの認識を客観的に再検討することがなく、韓国人が、朝鮮人が、中国人が、慰安婦がどうしたこうしたという偏見を前提として物事が論じられている。

差別主義という問題

私が歴史修正主義者や右派の一部をひどく嫌う理由はここにある。彼らはある種の人々に対する差別的、攻撃的言動を好んで表明し、民族や文化を理由にしたレッテル貼りを繰り返す。歴史修正主義者とレイシストをおまえは一緒くたにしている、と言われればそうなのだが、やはりかなり被っていると思っている。

まともな人間ならば、そのような差別的、攻撃的言動が含まれた言論を簡単には信用しないだろう。その種の議論では攻撃性が勝ってしまっていて、まともな議論にならず、冷静に考えた末の結論ではなく、結論ありきの議論であることが透けて見えるからだ。

歴史修正主義、それもカジュアルなものにはしばしばこうした差別主義が透けて見える。むしろ私は歴史修正主義というのは現代における差別主義の一例であると言うべきではないかと思っている。歴史修正主義がまったくもって議論にすらならない代物であると私が認識しているのはそういう理由からだ。

そして、私が傍観者のつもりで中立を装う相対化論者にも同等の嫌悪感をもつのは、半島の人たちへの差別的発言や、売国奴だの、中国の工作員だのといったいかにも前時代的なレッテル貼りが何かしらの批判になると思っているような連中の言動が、まともな考慮に値するものだなどとして、意識的にせよ無意識的にせよ、結果的にその差別主義をスルーしているからだ(まあ、歴史修正主義がつねに露骨な差別主義を伴っているわけではないので、そういえる場合は限定的だが)。

こうした差別的発言は絶対に国際社会で受け入れられるものではないし、そもそも公的な場でなされるにふさわしい議論ではない。まっとうな人権感覚があれば、事実の当否は別としても、彼らの議論がきわめて乱暴な差別的言動に満ちていることはすぐわかるはずだし、そうなれば彼らの議論を眉に唾つけずには受け取れないはずだろう。

しかし、実際はネットの特に2chや管理者や閲覧者が痛いという意味かというような2chまとめサイト等々には、差別的言動とセットで歴史修正主義的コピペ的文面がいくつも流布している。結局日本では、人権という概念は、なにやらうさんくさいものとしてしか受け止められていないということだろうか。そして一部の連中はその認識のまま国際社会に自分の主張を発信してしまっている人までいる。

たとえば歴史修正主義について活発に批判を行っていることで知られるApeman氏のブログにコメントをしに現れた人物の以下のような言動は以上の私の主張のまたとない実例を提供してくれている。
またすごいひとが現われた… - Apes! Not Monkeys! はてな別館

例えば、日本軍が慰安婦を管理した意図は、「現地での強姦防止&性病防止」であったにもかかわらず、海外では「性奴隷にするために」と勝手に解釈されてしまっている(これを黙認すれば、「日本人=色情狂」と判断されれても文句言えません)。

かなり凄まじい論理展開だ。そして何が問題かをまったく理解していない。問題は「現地での強姦防止&性病防止」のために、女性を廃業の自由も認められない性労働に従事させ、「性奴隷に」していたことであり、特に強調されるべきは後者の事実だ。目的の妥当性はほとんど問題にもなっていない。明らかに死刑相当と言うほどの重罪を犯したものであっても裁判無しで殺害すれば当然問題になる(正当防衛という例外はあるが)のであって、手続きの妥当性の問題がまったく理解できていないようだ(慰安所にどのように女性を集めどのように管理したかが大きな人権問題として提起されている)。

この御仁は「現地での強姦防止&性病防止」という妥当な目的のためならば「廃業の自由のない性労働」が海外で「じゃあ問題ないね」ということになるとでも思っているのだろうか。だとすれば、たいへんに非常識な人物だと評さねばならないだろう。これは、上記リンク先のコメントでも、「崇高な目的のためにオンナは犠牲になって当然」だという主張だと指摘されているとおり、きわめて差別的な意見だ。こんな意見が人権の価値を尊重するという建前が掲げられている現代の国際社会で受け入れられるわけがない。私は前近代の野蛮人ですよ、と宣言するような行為だ。

歴史修正主義と差別主義はやはり、密接な関係があると思う。歴史修正主義に同意すると言うことはそこに前提されている差別主義にも同意するあるいはスルーしてしまえると言うことだと私は考える。少なくとも私はそう判断する。

南京事件がきわめて政治的なイシューになる原因の大きな理由の一つは、それが中国人を殺害した事件だからだと私は思っている。アンチ中国の人々が、中国人から罪を糾弾されることに我慢がならないということがカジュアルな否定論が広まっていることの一因ではないか。同じことは、韓国、朝鮮などが絡んだ戦争犯罪についても言える。まず、そうした国や民族への嫌悪があり、そうした人々に否定論や歴史修正主義が水がしみこむように吸収されているというのが、実状だろう。

そして、歴史修正主義のカジュアルな広まりは、この現代日本において、そうした民族差別的な考え方が問題視されないばかりかある程度共有されている社会であることをいみじくも露わにしてしまっているということだ。私はこのことを非常に苦々しく思っている。
はてなブックマーク - 「歴史修正主義の人達は本気だった」と思うようになった1年 - opeblo

2008年01月02日 fujiyama3 歴史修正主義 『海外であったり、あるいは裁判所であったり、彼らの内向きの論理が通用しない、負ける場所で戦っているから』そして日本は内向きの論理の歴史修正主義に甘い人が多いのだなと思った1年でした。

この内向きの論理に甘い人が多いという事態は、それがいざ国際社会に出た際にかなりの実害を被るという点で、アメリカで創造論がかなり信じられているという事実以上に厄介な事態ではないかと思うのだけれど、どうだろうか。

長くなりすぎているので、次の記事に続く