罪の捏造

先日の沖縄のことについての記事はほとんど知識もない状態で書いたため、どこで地雷を踏むか分からない気分でアップしたのですが、それなりに好意的な反応を頂いて、とりあえずは安堵しました。

ちょっと補足として、前回の記事では書き落としたことをいくつか。私自身が書くときに頭にあったエントリは、例えば以下のものでした。
ナショナリストが在日米軍に期待するもの : 世界の片隅でニュースを読む
論旨全体については非常に参考になるものですが、最後に「現在のナショナリストにとってアメリカ軍人こそが「邦人」で、もはや日本の一般庶民は「異人」でしかない」のではないか、と疑念が表明されています。しかし、花岡をはじめとする右派的人物の多くは、被害者を非難すると同時に、米兵に対しても差別的な認識を隠そうともしていません。

このことに対して私なりに応答することが拙文の大きなアウトラインになっています。つまり、日本人であるはずの被害者が非難され、同時に米兵も危険視されるということは、「邦人」「異人」という線引きとは違う線の引き方がなされているということです。

花岡記事では基地問題の「非」問題化のみが関心事項であって、そうするために産経が想定している読者層に受けの良さそうな手近な俗論を羅列しているにすぎず、そこにはまったく一貫した論理だとか、思想だとかいうものはない。多少語弊がありますが、花岡にとっては少女のしつけなどというのはその場凌ぎの傍論でしかない。そんな軽さでああいう発言が出来るところが愚劣ではあるけれど。だから、私としては花岡記事を根本からひっくり返すには「少女のしつけ」論だけではなく、その論点を必要とした原因を叩かなくてはならない、と思って前回の記事を書いたわけです。

ブクマコメントで指摘があるように、以下のfurukatsuさんの記事は私の花岡記事に対する批判点をもっと早く指摘しています。
沖縄の少女を犯すのは、血に汚れた私達の手 - furukatsuの軍事 - 軍事
本当はこれらの記事も適宜引用しながら書きたいと思ってはいたのですが、そうすると、いつものクセでどんどん記事が長文化してしまい、時間もかかって書く意気が減退してしまうので、むしろ一気に書いてそのまま投稿するという方針にしました。

だから、トラバの感想で言われているようにそんなに考えて構成したわけではあんまりないです。

記事を書いた後、沖縄では「良き隣人政策」という、小学校などに米兵が訪れ英語を教えたり、地域住民と交流を図るイベントなどが行われているらしいことを知って驚きました。詳しくは以下の記事からリンクをたどって欲しい。
http://d.hatena.ne.jp/okachi-machiko/20080226/1204108598
つまり、沖縄の子供たちはこの政策によって「米兵はこわくない、良き隣人なのだ」という「しつけ」を受けているわけです。もちろん、こうした政策がどれだけ教育的効果があるかということについては、疑問無しとはしない(子供の時にこの種のイベントに批判的だった記憶がある人も多いだろう)けれども、この事件は「しつけ」が「徹底」していたからこそ起きた可能性が充分考えられるということです。なのに時差があってさほど遅いと思われていない時間に出歩いていて、「良き隣人」からの親切を断らずについていったことで非行少女扱いされて「しつけの不徹底」を言い立てられる少女や親はどんな気持ちだろうか。