自動的に泣き寝入りさせられるシステムは残る……

(3日に追記)

http://www.asahi.com/national/update/0229/SEB200802290011.html
驚いたのとともに、これは予想されてしかるべき事態だったのだと反省している。

これについて、umikajiさんが貴重な情報を書いている。
http://d.hatena.ne.jp/umikaji/20080301/1204369556

琉球新報紙面3/1付朝刊より。

 被害者が告訴を取り下げた要因の一つに、報道被害を指摘する捜査関係者もいる。一部週刊誌は事件発生の数日後、取材のため被害者宅を訪れた。ある県警幹部は「被害者の家に言ったのはどこの会社だ。被害者は自宅が特定されたことなども含めて不信感を抱いている」とあからさまに怒りを見せた。

 その週刊誌で被害者をおとしめるような表現があり、被害者は精神的に追い込まれた。

事件が広く報道され、論題になればなるほど、被害者側にとってはことが大きくなっていくプレッシャーがかかる。しかし、抗議の声を挙げねばいつまた地位協定に基づいた治外法権状態になるとも知れないというおそれがある。今回は米軍も軍法会議か何かできちんと裁くつもりのようだけれども、これだって地元からの強い反発を受けてそれを懐柔する意味もあるだろう。さすがにここで無罪放免などになれば地域社会からの反発は計り知れないという計算が働いているはずだ。

声を挙げねば裁きは期待できず、しかし声を挙げれば花岡のような人間たちに犯罪者以上に責め立てられるという状況にある。米兵の地域住民との関係はこうして政治化されてしまっていて、一端関わってしまった以上、この政治論争から逃げられなくなってしまった。

そして「反基地」対「基地擁護」の論争の渦中に置かれることは、それが少女を擁護しようが非難しようが、大きくなり続ける自分の巻き込まれた事件がより大きな存在として立ち上がってくることになる。十代の少女にその負担はあまりにも大きすぎる。セカンドレイプ問題が、政治問題と絡まることで最大級にデリケートで複雑な問題と化してしまった。

こうなると、少女非難の声に対して抗議、批判をすること自体がすでに、ことを大きくしてしまうことになってしまう。「そっとしておいて欲しい」と言われた以上、この件に関しては黙るしかない。一方で、このことを捉えて「基地維持派」は少女に対する非難をやめようとはしないだろうし、おそらく、少女の自己責任を問うたのと同じ口で、「反基地」運動がかわいそうな少女を祭り上げて運動を展開し、そのせいでダメージを受けたと、少女を擁護するような口ぶりで都合良く「反基地」運動を批判する連中が出てくるはずだ。

けれども、もはやそのことについて語ることすら少女自身が望んでいないとすれば、いたずらに論争することは避けることにする。セカンドレイプの構造は持ち越されたままだろうけれど、それに抵抗することの負担を少女に負わせることはできない。そのことは少女の責任ではないし、彼女の決断は絶対的に支持されるべきだ。

なんともやりきれない。結果的に泣き寝入りに近い形になってしまったけれど、その泣き寝入りを起こした構造を批判することすら、負担を増す。少女を非難したり、少女の存在を「反基地運動」批判に利用する連中(産経なり週刊新潮なり多数のブロガーなり)は、そのことに配慮などしないだろう(自分の「利用」は「良い利用」!)。しかし、それに抵抗していく行動すら、事件を大きくしていってしまう。

そして暴力だけが残される。なにをどうしたらいいのかわからない。なんたる無力感。


この記事すら、本当は書くべきではないだろうと思う。でも、一応事件について発言したことのけじめはつけたかった。少しではあるにしても私の書いたものも結果的に少女に対する負担の一部になっていることは間違いなく、その点については本当に申し訳ない。


追記

とは書いたものの、過敏すぎるというか、後退しすぎかも知れない。少し冷静に考えてみる。ブクマコメントでこういう批判をもらった。

2008年03月03日 yuki_19762 犯罪, 社会 セカンドレイプセカンドレイプと指摘すると騒ぎが大きくなるというのはどうなんだろう。セカンドレイプを非難する声がまだまだ小さい、弱いからこうなるんだと思うんだけど。

確かに、セカンドレイプが非難されるべきものとしてまだ周知されていないことがカジュアルなセカンドレイプにつながっている面は大きい。しかし、今回の花岡のような勢力は、基地問題を隠蔽するために、事件の責任を被害者の側に「負わせなければならない」という論理構成で論陣を張っているため、セカンドレイプの問題性をいくら指摘しても、やめるわけにはいかない。彼らにすれば、セカンドレイプを否定する(被害者に落ち度はないとすること)ことはとりもなおさず「基地問題」を顕在化することとイコールになってしまっているので、セカンドレイプを批判すること自体を反基地勢力の攻撃だと見なし、セカンドレイプの問題性に同意することは論敵に屈することを意味するのだと思っていると考えられる。彼らはその政治的スタンスの故に、決してセカンドレイプをやめられない。

性暴力問題が政治問題と絡まることできわめて面倒な事態になってしまっているというのが私の認識で、だからこの問題に関してはセカンドレイプ批判をすればするほど相手が意地になってしまう可能性がある。そうした論争の泥沼化が被害者側にしてみるとプレッシャーになるのではないかというのが私の危惧だ。

しかし、だからといってこの問題に口をつぐむべきとは言えないなと考え直した。セカンドレイプに対する批判はカジュアルなそれを防ぐためにも重要だと思うし、花岡の記事のような議論に対する批判もなされなければ、ああいう愚劣な記事がまたいつ大手メディアによって流布されるとも限らない。

被害者へのプレッシャーをいかに軽減するかを考えるべきで、ここでセカンドレイプ派を言いっぱなしにさせておくことはやはりするべきではないだろう。批判は必要だけれど、それが被害者のプレッシャーとならないように、注意深くやるべきではあると思う。

しかし、やはりとても迷っている。どうするのがベターなのか全然確信が持てない。