ちょっと前から平城遷都1300年祭のマスコットがかわいくない、と話題になっている。まあ確かにかわいくないとはいえ、キャラの選定をした電通、協会ではなく、なぜか一応募者の作者に中傷の矛先が向いていて、作者自ら中傷メールに応答している以下のページが非常に注目を集めている。
http://www.uwamuki.com/j/1300qanda.html
はてなブックマーク - 平城遷都1300年祭・マスコットキャラクターについて
まるで2chの叩きスレに全レスみたいなタフさ際限なしの姿勢でなかなか凄い。作者籔内佐斗司氏の評価が鰻登りで波及的にキャラにも好意的な人が増えかねない勢いだ。まあ、個人的には、アニメ絵、かわいいキャラでないと認めないみたいな風潮も気持ち悪いのでこれはこれで良いんじゃないか。
で、ブクマも含めて個人的に気になったのが、このキャラについての違和感を表明するときの根拠として、童子に角をつけるというデザインを指摘している人が見受けられることだ。デフォルメキャラに何を言うのか、とも思うけれど、メールにも「仏教の素材である童子と奈良で春日大社の神の使いとして伝統のある鹿を混在させるというイラストに反感を覚えます」とあるように、どうも仏教と神道の混合はダメだ、と宗教としての問題を指摘する人がいる。
これについて藪内氏は日本の神仏習合の認識を基盤にしたデザインだと応えている。これはまったく正しいと思う。
そもそも、日本の神道と仏教について語ろうと言うときに、神仏習合のことを避けることは出来ないはずだ。
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それが変わったのはおそらく幕末明治あたりからで、国民国家形成の手段として神道国教化政策が行われ、神道を中心とした神権的政治体制の構築がなされるなか、民衆信仰や神仏習合が抑圧され、廃仏毀釈運動によってそれまでの神道、仏教両者の伝統的な宗教生活が破壊された。神仏が分離され、別物として扱われるべしという認識が主流になったのはおそらくこの時期以降のかなり新しい考え方だろう。
神仏習合というのは、外来のものを既存のものと混ぜ合わせて新しいスタイルを生み出す、というまさしく日本の文化、伝統の核心だと思うのだけれど、マスコットの角はダメだという人は、そうした日本古来の伝統をきちんと踏まえていっているのだろうか、と思う。日本の宗教の長い歴史を考えた場合、藪内氏のデザインコンセプトはきわめて自然なものだと思う。それとも、上記の批判は、童子は鹿の本地仏じゃないよ、という意味なのか。
余談だけれど、明治以降に日本の宗教観は激変していると思うので、そこらへん注意が必要だと思う。神道国教化政策によって、それまでの神仏習合が抑圧され、国家神道という国教ができたけれど、敗戦によって国家神道が解体されて、そこでもまた宗教観の変化があったんじゃないかと思う。「日本人は無宗教」という言説には私は疑いを持っているけれど、少なくともその言説はせいぜい敗戦からの五、六十年の日本人にしか当てはまらない。それ以前はみんなで一応国家神道だったはずだし、そのさらに前は神仏習合スタイルがずっと続いていたはずだからだ。
神道というのは五穀豊穣とか先祖崇拝とかの非常に儀礼的で習俗的な宗教、いわゆる基層信仰でその民族以外には普通伝播しないものだとされる。で、創唱者を持つ仏教キリスト教などは、ある程度普遍化可能な理念や倫理を持っていて、世界的に広がることが出来る*1。基層信仰と普遍宗教をミックスした神仏習合スタイルはその意味で非常に理に叶ったものだと思うけれど、明治以来の宗教観の変化で、理念的な部分を担当してたと思われる仏教が排斥されていった。敗戦後の日本人は創唱宗教を忌避する傾向にあって、神道、仏教はもっぱら習俗として生きている。
さらに余談。神道というのは元々共同体のための信仰で、仏教は個人の苦悩や倫理的側面を扱うものだと乱暴にまとめてみる(いいのかそれで)と、笙野頼子の問題意識はおそらく、明治以降の宗教史において、理念、倫理という個人、自我に属する部分を担当するものの不在にある。笙野が批判対象を「明治政府ちゃん」とネーミングしたのは、この「自己」を骨抜きにする宗教政策をも含んだものだろう。