批判のためのロジックを堅持し続けられるか?

沖縄現代史 (岩波新書)

沖縄現代史 (岩波新書)

沖縄問題に口出しした手前、大まかな沖縄(問題)の歴史を知っておかなくては、ととりあえず一冊読んだ。
他にもumikajiさんの紹介
http://d.hatena.ne.jp/umikaji/20080218/1203345145
していた元知事のこれ
沖縄、基地なき島への道標 (集英社新書)

沖縄、基地なき島への道標 (集英社新書)

を探してたんだけど、本屋では見つからなかった。

この本では主に、沖縄の本土返還以降の歴史を語っている。なお、新版として刊行するにあたり、以前は返還以降の記述だったのが、第一章を戦後から返還までの記述にあて、最後に原著刊行の96年から2005までの県内基地移設、辺野古問題などについても新しく一章を書き加え、戦後からの一通りの展望を得られる構成になっている。

ここには、まさに壮絶というしかない歴史が綴られていて、先日の事件が実にこの数十年の間に幾度と無く繰り返され、これからも繰り返されていくだろう「沖縄の歴史」のほんの一端でしかないことを実感し、暗澹たる思いにとらわれる。

これを読んでわかるのは、戦後以降、沖縄が日本と米国の安全保障体制のなかで、厄介な問題をすべて投げ込んでしまえる便利なゴミ箱のごとき扱いを受け続けているということだ。戦後日本の安全保障の歪みをほとんど一手に引き受けてきたのが沖縄だ。観光以外の産業に乏しく経済的に厳しい沖縄に、その被差別的な地位に甘んじてもらうために、政府は産業振興やら何やらの金銭的援助をアメとムチよろしく振り回し、運動のガス抜きや内部対立を煽っている。米国も地元の反対運動に譲歩した、という形で日本から金銭的援助を引き出すなどしている。

基地問題というのは、また同時に土地問題でもある。土地という私有財産の根幹が、数十年に渡って侵害され続けている。そこでは、米国に追従する政府と土地収用に抵抗する民衆とが衝突する。しかし、権利を侵害し既成事実を合法化する法制度を制定され、民衆の抵抗は切り崩され、さらには、土地使用料をどんどん減額されていき、土地収用に応じない地主に対しての圧力はどんどん増していく。

イメージの面でも、ごく当たり前に認められるはずの権利の主張が、わがままや地域エゴなどと形容され、ごく一部の不満分子の不当な居直りであるかのように言われる。特に保守派言論の一部は、とにかく沖縄が物申すことに不満なようで、集団自決問題にしても、米兵の暴行事件にしても、徹底的に沖縄を叩くことに血道を上げている。

本書にも本土・ヤマトと沖縄との圧倒的な意識の差が指摘されるが、問題は、そうした関心の非対称にも存在している。知られなければ問題にもならず、一箇所に集中させられている基地問題は沖縄だけが我慢すればいいローカルな問題扱いされ、安保体制という日本全体に関わる問題が押しつけられているという自覚すらない場合が目につく。花岡記事は、そうした本土の人間の沖縄に対する意識がもっとも最悪の形で吹き出したものだろう。

これは、マイノリティの権利が圧倒的な権力の非対称のなかで、一方的に抑圧されていくということだ。そこには、基地を沖縄に押しつけて安穏としている本土の人間も責任を免れない。米軍基地の撤廃はさすがにむずかしいとしても、地位協定や米軍基地の運営、演習などについての面や、日本が多額の出資をしていることも含めて、いくらでも改善の余地があるはずだ。そして、沖縄一極集中という過大な負担の是正がなされるべきだろう。


マイノリティの抑圧といえば、いま、チベットで中国政府によって行われている弾圧がニュースになっている。これこそ、権力の圧倒的非対称のなかで行われるマイノリティ弾圧の最たるものであり、決して許されるべきではない。これに関しての中国政府の行動も、報道統制や交渉相手を嘘つき呼ばわりするなど、まともではなく、結果的に自らの行動でもって自身の悪行を宣伝することになっている。

まあ、私にはチベット問題についての知識がないので、あまり踏み込んだことは言えないが。

しかし、気になるのは、この問題について積極的に発言している右派系ブロガーたちの言動だ。一部は沖縄問題の時には積極的に抑圧に加担していなかったかと思うのだけれど、ことチベット問題については非常に積極的にマイノリティ擁護を行っている。もちろん、弾圧への批判はそれが誰であれそれ自体は間違っていないし、ここで大きく中国政府批判の声が挙がれば、それはそれで効果が大きくなるだろうから、右派左派ともに協調する時はすべきだろうと思う。

ただ、中国政府批判のロジックを、はたして彼らはきちんとその後も堅持できるのかというと疑問だ。沖縄では、あれだけ抑圧に加担していたその口で、どうして中国政府の人権侵害を批判できるのか。これは同時に左派の人権・反戦平和主義系の組織にも言えることだ。批判のロジックを貫徹できず、自身の政治的利害によってのみそれを使い分けるようなことをすれば、それは批判のロジックの弱体化を招き、結果的に自分の首を絞めることになる。

右派の人間は、ここぞとばかりに左派の組織を「チベット問題について口を閉ざすのはなぜだ」という批判を行い、左派のロジックの貫徹を疑問視しているが、それは同時に批判者自身にも向かうことをあまり自覚していないように見える。

そもそも、チベット問題という「喫緊の問題」だからこそ、左派も声を挙げるべきだというのなら、チベット問題を踏み絵として踏ませて回るという一部の行動は、右派左派協調すべき時に積極的に内部対立を煽っているだけに見える。左派組織に対し、チベット問題についてともに声を挙げていこうと呼びかけるのではなく、これに沈黙するならあなたたちのお題目はダブスタになるぞ、と恫喝していることには強く疑問を覚える。

私の以前の記事にも、「通りすがり2」という、チベット問題の政治利用の典型的な例が現れたことがある。
南京事件否定論は基本的にトンデモ - Close to the Wall
結局この人は自分自身では何も主張もしないが、他人が南京事件について主張するのと同時にチベット問題についても非難しないなら「中国の犬」だなどと言い出してきた。私も無知なりにチベット問題について非難することに吝かではないと応え、ではあなたはどんな取り組みをしてるのかと問うと、何もしてないし「チベットがどうなっても構いません」と来た。これにはかなりむかついた。

マイノリティの抑圧に対し声を挙げることを真に正しいと思うのなら、ここぞとばかりに中国叩きや左派叩きに邁進するべきではないはずだ。そういうことに血道を上げる様子は、自身の批判のロジックが政敵叩きに都合の良いその場凌ぎのお題目でしかないことを露わにしてしまう。ちょうど、アムネスティの日本支部は以前からずっとチベット問題についての取り組みをしてきているのに、それを知らずに今回の件についてすぐに声明を出さないことのみをもって批判してしまうような人は、その行動によってチベット問題を政敵叩きのダシにしていることを自ら暴露している。

アムネスティチベットチームは、チベット問題を、チベット民族のアイデンティティを抹殺しようしていると非難し、「ジェノサイド」という非常に強い言葉で表現している。この取り組みを知っていれば、今回の件についてアムネスティが黙っているはずがないことくらい分かるのに。
Tibet Team @ Amnesty International Japan

左派はいままでの反戦、人権のロジックを貫徹できるかについて問われると同時に、右派もそのロジックを今後も背負うことが出来るのかが問われることになるだろう。どちらにとっても他人事ではないはずだ。


ただ、これだけは言っておかなければならないけれど、どの問題にコミットするかと言うことはそれぞれの判断においてなされるべきで、言及していないことのみを論うことはいささか不当だろう。今回の問題について、日本共産党が動いていないことを批判する人は多いが、共産党が日本の絡んでいない少数派弾圧などについて国外の事件にも積極的に行動していたかどうか私は知らないので、その批判が妥当かどうかよくわからないところがある。事態を静観するという態度は確かに腰が引けているとは思うが。