切れないハサミ、あるいは主語のないお題目

「長野聖火リレー」での警察の対応に違和感を感じた全ての人へ〜ジェノバから考えよう〜 - 想像力はベッドルームと路上から
さんざっぱらおまえ自身はどうなんだ、と私が詰問していたinumash氏がきちんと自らの「語り口」がどういうものかを提示しています。そして運動論批判のメタゲームだけでなく、きちんと自分の手で書いており、私の前回の記事での批判に対して謝罪しても頂いたので、その記事での批判のある程度の部分は私も撤回します。

その上で、以下続けます。

私はinumash氏の提示した記事これ自体は良いと思います。これ自体が独立した記事であれば、ですが。これが
「反体制運動」は甘くない【在日琉球人さんの日記】 tk
在日琉球人さんの文章への批判なしに提示されていれば特に私も批判したりする気にはならなかったでしょう。在日琉球人さんのもあって良いが、こういうのもあっても良い、というような共存を認めるものとして提示されるなら、それはそれでいいしょうで。でも、あなたは、在日琉球人さんの語り口を否定して、その上で上記記事を提示しました。

そうしたことを踏まえて、あなたのいう「左翼」を支持してもらうための「語り口」の実践例としてこれを読むと、やはり私が提示したいくつかの批判がそのまま当てはまります。主語の欠如という問題です。

重要なのは、今回の長野の事例を、過去起こった/現在起こっている様々な事象とひとつひとつ丁寧に繋げて語ることではないでしょうか。

僕がこうした問題に興味を持つきっかけとなったのはジェノバですが、その根底にある問題をより深く理解できたのは、そのジェノバの事例を「自分の問題」として、(日本を含めた)他の国・他の事例に繋ぎ合わせて語ってくれた人がいたからです。

安易なアジテーションもいいですが、僕はそうした語り口こそ誠実な態度だと思います。そして、様々な人により深く、状況や問題を理解してもらうためには、やはりそのような形で問題を共有していく以上に最適な方法はないと思います。

確かに、その通りです、額面通り読むならごもっともです。でも、在日琉球人さんこそ、「事例を「自分の問題」として、(日本を含めた)他の国・他の事例に繋ぎ合わせて語ってくれた人」だと思います。むしろ、あなたのこの文章より、運動参加者自身のこの社会において負っている責任をきちんと指摘して、より広いレンジの議論を展開している。われわれこそが、この社会において、警察権力の拡大を黙認していないか、という問いかけですよね? それは自らの首を絞める振る舞いで、今になってそれに気づくというのは甘すぎませんか、そして左翼や右翼だから、自分と関係ない連中だからと警察権限の恣意的適用を支持してしまう振る舞いが回り回ってあなたに降りかかったのだ、という主張でしょう? そして、自由な政治的主張を可能にするには、左右関係なくわれわれこそが警察権力をきちんと批判していかないといけない、ということですよね(ちょっと好意的に読み過ぎかな?)。

でも、あなたの文章を読むと、その大事なところはオミットされている。メディアが、警察が、ジャーナリストがどうこう、という他人事に交通事故のようにとつぜんぶつかってしまったみたいな印象があります。違いますよね、それは結果的にではあれ自ら蒔いた種のはずですよね。

この社会に生きる当事者としての有責性を、なぜかあなたは問わない。やはり主語がない、主体がない、責任がない。何者として、そして誰に向けて書いているのかがぼやけている。まるでそのことにまったく関係がない人にむけてこんな問題がありますよ、とお知らせしているような感じになっている。

確かにこれなら口当たりが良いし、反感も買いにくいでしょう。でもそれはそのまま、この文章の問題提起力のなさの証左でもあります。結局、あなたの言う「彼等」に支持される「語り口」というのは何のことはない、誰にでも支持してもらうために、その主張の原理的部分を消去して無意味なものとして流通させるやり方に他なりません。無意味とまでは言いませんけれども、切れないハサミのようなものですし、これが在日琉球人さんの文章をあれだけ批判した上で出てきたものだと考えると、きわめて問題だと思います。

それに、これこそ、学級民主主義的な抽象的な美辞麗句に過ぎません。いじめが発覚した学級で、そのいじめが行われているなかを傍観していたものたちの責任をまったく問わずに、「いじめはいけません」と総括しておしまいにしてしまうようなものです。そんなお題目なら誰だってたいていは同意してくれますよ。だって、同意することに何の不都合もないし、中身がないんですから。そのお題目を各個人に刻みつけ、お題目を実質に変える作業こそが必要とされるはずなのに、そこに至る経路があなたの文章では遮断され、「権力の横暴」がただの空虚なお題目と化しています。

それでいて、他人の文章を「安易なアジテーション」と具体性なく批判する。これ、在日琉球人さんの文章を指してますよね、明らかに。安易なのはあなた自身の文章の方です。問題をきわめて浅いレベルだけなぞってすませてしまい、本当なら対立しているはずの存在同士を欺瞞的な秩序で覆い隠している。

いみじくも左翼を自称するなら、その欺瞞的な秩序によって覆い隠されている抑圧の構造を暴き立てねばならないはずでしょう? 傍観者を気取る無責任な主体の有責性を露呈させねばならない。それは確かに反発を買うだろうし、対立を惹起させるだろうけれども、反発させ、対立を露呈させることこそが、左翼あるいは右翼でも、その政治的主張の目指すところであるはずです。そこからしか民主主義は機能しないはずではないですか?

問題は、その「恣意性」をどこまで容認するのかということ、そしてそれをどうやってコントロールするのか、ということなのだと思います。

ここでその後に続くのは、容認するのが「誰か」ということ、コントロールするのは「誰か」ということを改めて「読者」に問い直す文章でなければならないはずです。それが見事に消去されている。「自分の問題」としてつなげて語ってくれた、とあなたは言いますが、確かに長野とジェノバの問題をつなげてインターナショナルな問題として提起することは出来たかも知れませんが、それが「あなた」自身の問題として理解されているようには見えません。あるいは、あなたは理解しているかも知れませんが、読者に対して理解を促すことができていない。

引用文では「他国」の問題と「自国」の問題をつなげることは出来ても、「自国の問題」と「あなたの問題」とが繋がっていない。宙ぶらりんです。普遍的問題が個別的存在と繋がる経路があなたの文章には存在していません。それこそがもっとも大事な部分ではないんですか? やはり、あなたの文章には主語が存在しない、主体が存在しない、責任が存在しないんです。

在日琉球人さんの文章には、警察権力の恣意的な運用を批判する意味と理由が書かれています。嫌味や皮肉でまぶされていますが、読者自身に考えることを勧め、これはあなた自身の問題だということを示しています。そうして、読者それぞれが警察権力批判のための共闘へと向かう可能性を開いています。チベット擁護のためにリレー参加した人たちが感じたであろう個別的な不満をより根源的な位置へと植え直そうとしています。私が真面目で教育的だと評したのはそう言う意味です。

しかし、あなたの文章はただ「問題」だというだけで、そこからどうするのかということがありません。他国の問題と自国の問題とが共通でありながら根本的に異なる点、自国の警察権力に責任を負うのはあなたであり私であり、そのことを変えられるのもあなたであり私であるということを示さなければならないはずです。そうしなければ、権力批判へ至る流れが生まれない。

当事者は誰か、ということがあなたの文章では問われない。ここが最大の問題です。この国で多数派を占めるのは、右翼でも左翼でもなく、自分が諸々の問題において責任を負う当事者であるということを否認する無責任主義、非政治主義(こんな言い方あるのか?)ではないでしょうか。だからこそ、中国のチベット弾圧という「自分」の責任とは何の関係もない人権問題には積極的に怒ることができ、コミットすることができても、沖縄問題、アイヌ問題などの自らが日本国民として当事者であるためにその責任を問われる立場となる人権問題には相反する態度を取り、感情的に反発してその責任を否認する行動を取ります(長野の参加者がそうだ、というわけではありません。掲示板、ブログなどに書き込む多数の人間の傾向がそうだ、ということです)。

長野での参加者などに話を聞いたりして、一般人に左翼への接続を試みようとするあなたはこのことをおそらくよく知っていることかと思います。あなたの提示した「語り口」からはそうした多数派の人たちの認識が読みとれます。あなたは、当事者であることを否認しようとする人たちに対して、当事者性を否認させたままで自分の主張を受け入れさせようとしている。それはおそらく、当事者性を認めさせようとする行動が感情的反発に出会うだろうことをあなたが知っているからだと思います。

しかし、そのような口当たりの良い主張で良いんでしょうか? 確かにあなたの記事自体は警察権力の問題を紹介するものとして特に問題だとは思いません。しかし、あなたは在日琉球人さんの文章をあれだけ批判した(具体的に何が問題だと思ったのかよくわかりませんが)上で、つまりこうでなければならない代案としてこれを持ってきたわけですよね? とすると、あなたの言外の主張は、当事者性を認めさせようとすることはするべきではない、ということになってしまいます。それも、相手の感情的反発を恐れて。正しいと思う主張なら、相手のその反発を乗り越えて説得しなければならないのではないですか? 

あなたは感情的反発(サヨクアレルギー?)の可能性を恐れて問題の核心をひっこめてしまうばかりか、「不用意」にもそのことに触れてしまった在日琉球人さんの文章を口を極めて(胸糞悪い!)罵りました。単に、運動論として間違っていると言うにはあまりに過剰な語気です。

あなたのこの反応は、常野氏が以下の記事で論じている姜尚中の反応と似ています。

これに対して後者は暗黙のルールがルールであることを防衛しようとします。本当のことを言ってはいけないという暗黙のルールが危機にさらされた際に、暴力的にそれを明示してしまうのです。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080414/p1

あなたにとって、言ってはいけない本当のこと、というのは、「われわれには責任がある」ということなんでしょうか? 在日琉球人さんはそのルールを破って「本当のこと」を言ってしまったから、あなたはあんなにも口汚く罵ったのですか? 自分が隠している本当のことを暴かれてしまい、自己欺瞞の存在を露呈されてしまった、とあなたが感じたから、あんなにも過剰な罵倒をしてしまったように見えます。

あなたは本当の問題、それだけは決して枉げてはいけない根本を枉げて、各人の自己欺瞞によって成立している欺瞞的な秩序と対立することを回避しようとしています。どうしても対立しなければならない対立を隠蔽し、それを露わにしてしまう行為には時に罵倒を投げてまでつぶそうとする。あなたの振る舞いは秩序を紊乱する可能性のあるものを抑圧し、政治的主張そのものを拒絶し、表向きの安定を維持しようとする警察権力と同一の思想に貫かれていませんか?

長野のまとめ記事で、あなたたちのためだといってあなたたちを抑圧したり、あなた達の仲間が中国人に殴られても動かなかったという警察に対して、妙に同情的に理解を示し、対立を最小化しようとするようなあなたの(敵対性を隠蔽する)態度がどうにも不思議でしたが、それはそういうことなんでしょうか。チベット人政治的主張を弾圧する中国政府を批判するあなたは同じ論理で日本の警察を批判しなければならないはずではないのですか?

で、

inumash氏の論理の何が問題か。それは「広告代理店的」アプローチによって、ないはずの「観客席」を捏造するのだ。用意された「観客席」には、あらゆる問題を切断処理して心理的安寧を確保したい有象無象がなだれ込んで来る。この点において、inumash氏の論理は、「運動論として」ダメなのだ。
inumash氏へ、「観客席なんかありません」 - モジモジ君のブログ。みたいな。

あなたはそのようにして「あらゆる問題を切断処理して心理的安寧を確保したい有象無象」と共犯関係を結ぼうとしています。それどころか、あなたこそが「あらゆる問題を切断処理して心理的安寧を確保したい有象無象」そのものなのではないですか?

左翼の論理とは畢竟、あなたも当事者だと言うことを明らかにすること、ということだと思います。観客席などないのだ、あなたもまたこの国において責任を負う当事者なのだ、と宣言することではないですか。

沖縄基地問題にしたところで、安保体制に包まれて安閑としている私たちは皆、沖縄に過大な基地負担を押しつけている加害者だと指摘することが重要なように、この国の警察権力の横暴、人権弾圧を
http://d.hatena.ne.jp/K416/20080501/1209644251
見せしめ逮捕の横暴 - Arisanのノート
黙認したり擁護したりするわれわれこそが、加害者であり当事者なのだ(だからこそ、われわれが動かなければならないということ)と言わなければ意味がない。

あなたの記事にはそれが欠けている。左翼に接続するつもりが「左翼の論理」を隠蔽することに加担している。あなた自身は運動に参加し、行動し、決して観客席には座っていない。なのに、あなたの論理、文章はまるで観客そのものです。それが不思議でしょうがない。


在日琉球人さんの文章はもちろん完璧ではないし、言い方に問題があることも確かですが、あなたの提示したオルタナティブはその在日琉球人さんの瑕瑾以上に重大な欠点があると思います。


思うに、あなたは、あなたを批判したmojimoji氏の上の文章と、それに応答した常野氏の文章を何度でも読み返すべきです。今読んでみれば私の文章は彼らの文章の焼き直しに過ぎません。

相手を直接否定するのでも自分を直接肯定するのでもなく、「想定された観客」が否定や肯定の根拠となります。責任のアウトソーシング、あるいはKY正義がここにあります。
和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて - (元)登校拒否系

だから、ビラを撒く平和な活動が不当にも暴力として裁かれたなどと驚いている場合ではありません。ビラは、そもそも暴力です。それを恐れたブルジョアジーが、ビラ撒きなどの表現活動を合法化することによってビラ撒きという暴力の牙を抜いてしまったのです。暴力の無痛化です。つまり、「表現の自由」とは、プロレタリアートの暴力に対してブルジョアジーが送り込んだ刺客だったのです。
反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する——はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論 - (元)登校拒否系

誰からも支持を得ようと八方美人に振る舞おうとして、結果的に誰からも信用されないということになってませんか? なりふり構わず支持を得るために妥協を繰り返したせいで、その主張の内容が骨抜きになってませんか? 譲れないものは何で、見据えるべき敵は何かを考え直すべきではないですか? 左翼を自称し、政治をやろうというからには、八方美人はあり得ないと私は思います。


しかし、数年前までノンポリで鳴らした私がなぜこんなことを書かねばならないのか、わけがわからん。ものすごいガチの活動家みたいになってる気がする。ちなみに、「主語」に徹底してこだわるやり方は以前も書きましたが笙野頼子のパクりです。