テンプレを踏んでいることに気づかないテンプレ通りの人たち

東浩紀の発言から始まった年末南京事件騒ぎだけれども、このパターンほとんど年始のフロムダ氏の南京論争とそっくりで、わたしとしては以下の一年前の記事を再掲するだけで終わらせても良いくらいだ(この騒ぎでにわかにリバイバルしてアクセス数が増えている)。
「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close to the Wall
続・「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close to the Wall
南京事件否定論は基本的にトンデモ - Close to the Wall
論争傍観者を自称する人間についての二つの問題 - Close to the Wall

ただ、東のいっていることは単純に歴史修正主義容認論とみなしていいのかどうかはやや判断に迷うところなのでさておくが、ゼロアカ門下生藤田直哉id:naoya_fujitaの発言はひどいのを通り越してもはや犯罪的だとすら思える。心底怒りを覚えた。
http://twitter.com/naoya_fujita
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1034306861
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1034498857
東も藤田もそうだが、南京事件を政治的イデオロギー対立の典型的な例、としてしか思っていないんだというのがよくわかる。だから、右派左派で解釈が異なる水掛け論の典型的な事例として南京事件を持ち出す。解釈論、認識論だと思ってるんだ。それこそが南京事件について研究する学者に対する侮辱だが、それは措くとする。

先に挙げた記事でも書いたし、何度もいうが、学問的研究と政治的デマとが対立しているのが南京事件論争だ。数に関しては何を虐殺にカウントするかで議論が分かれ、通説のうちでも数万から二十万前後までの開きがあるが、事実として南京事件があったことは学問的には疑いない。学問的には数万から数十万の殺害があったことはすでに事実としてはっきりしている。否定論は、学問的研究と政治的デマゴギーという圧倒的な劣位を、あたかも政治的イデオロギー同士の対等の対立に持っていくことでその意図を果たす。事実の存否の問題を、解釈の相対性の問題にすり替えるのが南京否定論であり、以下のような認識しかないこと自体、藤田が歴史修正主義の陥穽にすっぽり嵌ってしまっていることを示している。

俺の考えと言うか立場を言うよ。東さんと近いんだが、多分それは筒井とかディックとか由来な気がする。俺は多分左派だが、左派的なものを疑わないやつも馬鹿。右もそう。そして南京に関しては、両方の意見がある。とすると、「事実」もはっきりしない以上、「両方」が混ざった不確定である、と。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1034592913

自分が知らないだけのことを以て事態が不確定だなどとよくも言えたものだ。これなんか、以前の
歴史修正主義の手法 - 歴史学者の議論をその裏付けが自分の調べた範囲で見つけられなかったことを根拠に勘違いだろうと判断する人物 - Close to the Wall
とそっくりだ。本人の意図はどうあれ、ポストモダンだとか「絶対的真実はない」だとかいう中二の出来損ないみたいなことを言い出すと、歴史修正主義の言動と区別できなくなってくる、という言説のパフォーマティブな側面にここまで無自覚になれるのは何故なのか。

東などは「虐殺問題」という当初の記事タイトルを「歴史認識問題」と変えたことに象徴的だ。南京否定論は、認識すべき当の事例を、そもそも存在していないことにすることで、認識問題以前の時点に議論を差し戻す行為だ。その事実をどう受け入れ、どう考えるか、という認識問題を問おうとしているところで、事実そのものを消去し、認識問題にかんする議論を立ち往生させるのが否定論だ。だから南京否定論は、そもそも歴史認識問題ですらない。歴史認識についてなら、東の主張はそれなりに理のある話とも言えるだろうが、ことはそれ以前の話であり、そこに東のポストモダン戯言を突っ込むのは愚劣なだけだ。

また藤田はおきまりの「歴史修正主義」の単語に噛みつきだした。これも見慣れたパターンだ。どうしてこうも考えが足りない人のテンプレを踏むのかねこの人は。

歴史修正自体が駄目だと言うのなら聖書も批判しようねw という皮肉だから。だから、「歴史を修正すること」が問題じゃないんでしょ。受け入れがたい主張のものにだけ便利に貼るレッテルでしょ。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1034550538

これの理由分かる人いる?>ちなみにほとんどの専門家は4万は少なすぎると考えていますが一応通説の範囲です。でね、仮に20万説が何らかの形で否定されたとしましょう。でもそれは修正主義じゃないんです。さて何故でしょうね。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1034579189

下の引用句はおそらくhokusyuさんの発言だと思われるが、こういわれても理由が分からないというのはひどい。wikipediaを参照しているくせに、「通俗的な用法としての「歴史修正主義」」以下の項目で今議論になっている意味での「歴史修正主義」が具体的に説明されているのに、それはスルーしている。

歴史修正主義というのは、科学に対する疑似科学と同じ位置付けだ。歴史修正主義は、しばしば学問的手続きを無視して、すでに何十年も昔に論駁された主張を幾度も繰り返し主張しつづけ、論証をキャンセルして主張を流布することによる既成事実化を狙っている。これは、デマゴギーだ。

歴史修正主義の論者にまともな歴史学者がいないことがその一つの証左で、保守派の論者で左翼批判に定評のある秦郁彦ですらこと南京については肯定派に属するということを考えれば、単なる右派左派のイデオロギー対立などに回収してしまえないことくらいはすぐわかるはず。そして、否定派の代表的な存在である東中野修道が、その著書を裁判所に「学問研究の成果というに値しない」とまで批判されたことは象徴的だ。

これの理由分かる人いる? の答えは簡単だ。それが学問的手続き、論証の手続きにきちんと則った正当な議論だからだ。東中野修道の否定論が「学問研究の成果というに値しない」というのはそういうことだ。


参照 。正直、東らのポストモダン戯言に対しては以下の引用で終了、だと思う。
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20080329/1206773121

歴史とはテクスト解釈に過ぎず、テクスト解釈とはすなわち政治であり、そこには客観的な正しさは存在しないとしたポストモダン思想による歴史学批判を踏まえ、歴史学に携わる者の中には敢えて政治スタンスを開示する者も多い。しかしそれはテクスト解釈の相対性を肯定しているからではなく、むしろ自分のテクスト解釈が論理的に一貫していることの証明、あるいは自分の歴史解釈が政治的に不正に利用されないための予防的措置であると言えよう。しかし、愛・蔵太氏はポストモダン相対主義を掻い摘んだだけで、それを踏まえた歴史学の応答を知らないか、敢えて無視している。政治的に何かを成し遂げようとしているのは、反歴史修正主義側ではない。右寄りの思想を持つ者たちと歴史修正主義者である*1。歴史学の側では、歴史が政治により不正に利用された歴史をを踏まえ*2歴史修正主義者による歴史への不正アクセス・不正利用に立ち向かっているのだ。ここを、政治的な右・左という伝統的な二項対立に還元し、相対化するのはまさに歴史修正主義者のやり口だ。いや、あるいは政治・思想の左右の対立という時代錯誤の対立構図をあてはめることで、問題の矮小化を図ることも可能であり、相対化よりも悪質だ。
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20080331/1206958557


また、東中野修道が訴えられた裁判において問われたのは、そして東や藤田が無神経にもまったく頓着していないのは、否定論が否定するものには南京事件の被害者の人権が含まれているということだ。否定論はその過程でサバイバーの証言を否定し、サバイバーを嘘つき呼ばわりすることになるセカンドレイプそのものでもある。そうした人権侵害が含まれるのが否定論であり、耳を傾けたり、場所を用意することそのものが近代社会では許されないたぐいのものだということだ。南京事件はその被害者が数万、数十万の単位で存在する事件だということは知ってるだろう。他国のことで実感がないと開き直るのかね。確かなはずの「実感」が政治的、社会的に作られるものでもあるということは現代思想やらが問い続けてきたことだと思ってたんだが。

それともなんですか、ポストモダン社会においては人権侵害、差別主義等々の犯罪的な言論が大手を振って歩けるような場所を用意すべきだとでもいうのか? まあ、いうのでしょうね。twitterで、藤田は「差別は何故悪いんですかね?」などと書いてますし。この発言が本気なら、藤田は左派でも右派でもないただの底無しのバカだ。あるいは、自分が主張していることが具体的にどんな事態を引き起こすかをろくに考えても居ない。抽象論をこねくり回すことが批評だとでも思ってるのか。

さらに悪いことには「差別は何故悪いんですかね?」に続いてのポストで、「ああ、やっちゃった。つい。うっかり。悪い心が。これにまたマジで受け取ったブックマークがつくのか。いやいや。言ってみたくなるだけだって。」と発言し、さらにこう来る。

まぁ基本的なエクスキューズとして、僕はWEB上でのガチの論争を、「エンターテイメント」であると考えており、そして発言は「本当か嘘か分からない」=ネタである、と考えているので、気をつけてください。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1036557940

ネタ・釣り宣言来ましたよ! 最悪だ! 私のこのエントリもつまるところ「ネタにマジレス」で格好悪いわけですね、わかります! いやあ、もうどうしてここまでダメな議論のテンプレ通りの発言を繰り返せるのか。地雷だけを踏み抜いて歩いているような奴だな。そして自分が地雷を踏み抜いていることにすら気づくことができないという処置なし具合。

南京事件について知らないことそれ自体は別に責められることでもないのはいうまでもない。が、知りもしないくせに自分の議論の適当な傍証として一知半解に口を出したら当然批判されるだろうに、なぜそれが南京事件については専門的に勉強しないとみんながオレを歓待してくれないなどというような甘えきった戯言になるんだ? 口を出したのはおまえらだろうが。それとも何か、歓待ってのは間違ったことをいっても批判されないぬるま湯に浸かる権利なのか? おまえはすでにtwitterなりで自由に適当に放言しているじゃないか。場所もあるし、耳を傾けてもらってるじゃないか。その上で批判されているというだけだ。充分に厳しく歓待されている。

ポストモダンやら絶対的真実はないやらの主張は、無知で無責任なヘタレ日和見主義の自分を正当化するためのものなのか? 誰も「「興味がない」こと自体を責め」てなどいない。興味もないし知りもしないことについて、なぜ一知半解の知識で偉そうにものを言うのか、と批判しているんだろうが。「専門的に」勉強しろなんて言ってない。上記で書いたようなことなんか、薄い新書一冊二冊で事足りるんだよ。現実の「どんなことにも」専門的知識を得ておくことなど不可能だ、だから自分は適当にモノを言っても良いってのか? 極論で自分の怠慢を正当化するんじゃない。自分の知識とその知識から言える範囲がどこまでなのかなんていう議論の初歩の初歩のルールすら、自分で判断できないのか? いい加減に、その無責任ぶりと主体性のなさをなんとかしろ。

通俗的な正義を疑うというのなら、それもよかろう。だが、そんな作業はベッドの中で一人で済ませてもらいたい。公衆の面前に立つなら、「自分の正義」を堂々と掲げるべきだ。あるいは、その代替物を提示すべきだ。何も信じられぬのなら、何も語る必要はない。全てを実感で語るのなら、実感のあることだけに話題を限定すればよい。だが、思想家として世に立つのなら…。「無知の知」なら、何千年も前にソクラテスが既に言っている。いや、ソクラテスもそこに留まりはしなかったのに。

フーコー生の哲学にせよ、デリダ差延にせよ、ドゥルーズの強度にせよ、そもそも全てを相対化して事足りるなら、そんなしち面倒くさい概念など必要はなかったのだ。確かなものが何もない中で、確かなものを見いだすにはどうすればよいのか、全ての正義が力の相対主義に還元される中で、なお正義を実現するにはどうするのか。彼らが考えていたのは、そういうことであったはずだ。
ポストモダン、ポストモダン… - どんな懐かしさをおぼえるとしても

東やら藤田やらの連中に我慢がならないのは、上記引用のような姿勢を欠いているからだ。絶対的真実には到達できないなんていう諦念は中学生で終わらせろ。そこからどのようにより確からしい事実へと近づけられるかが問題なのであって、南京事件についての歴史学的研究はその一例だ。そこに認識論的相対主義を持ち出してどちらも「絶対」に確かとは言えないから、「不確定」だなんて愚かしいにもほどがある。歴史学はそんなことはとっくに前提にした上で学問的手続きに基づいた地道な努力をしてんだよ。他人を自分と同レベルにするんじゃねえよ。ゼロアカってのはゼロ年代のアカデミズムの略らしいんだけど、なんでこんなにアカデミズムを軽視して平気なわけ?

笙野頼子が東らを指して「おんたこ」と指弾し、西洋哲学の誤用と批判したことがきわめて正確でかつ予言的ですらあったことを思い出させる。というわけでいつもの通り、笙野頼子に帰着するわけだ。