古井由吉 - 白暗淵

白暗淵 しろわだ

白暗淵 しろわだ

一昨年、出てすぐに買った本なのに、今さら読み終える。買ってすぐに第一篇は読んでいたのだけれど、そこで途絶してしまって、一年経ってようやく古井由吉(というか小説)を読む気力が沸き、また最初から読み始めた。

さて、最近の古井由吉講談社と新潮社で交互に連載しているわけだけれど、講談社から本が出る場合はだいたい菊池信義が装幀を担当し、それが毎回良い。今回のものは帯を付けた状態と外した状態で印象ががらりと変わるようになっていて面白い。で、それはいいんだけど、近年の判型を大きくして値段を高くしたり、あまりにも高級感を出し過ぎているのはどうかと思う。「野川」は普通の文庫も出たので買いやすくなったけれど、もうちょっと前の「夜明けの家」は講談社文芸文庫入りしたのに、値段が新潮社のハードカバーと同じ、という。

また、作風もいつもの古井由吉といえば言えるのだけれど、講談社と新潮社では、作品の趣がやや異なる印象だ。とりあえずここ数作かでは新潮社のものでは老いと狂い、講談社のものでは戦争がより大きなファクターだと思う。というわけで、これは前著の「辻」よりはそのまえの「野川」に近い。高橋源一郎は「野川」を戦争小説と評したけれど、今作もまたその意味で「戦争小説」あるいは「戦後小説」ではある。

 混沌(こんとん)と呼ぶのがふさわしい小説で目指したものの一つは、戦後日本の歩みの全体をたどることだった。「一夜のうちに焼き払われる空襲なら、ささやかでも物語にはなる。戦後の経済成長による変化は日常のうちに起こったために出来事としてつかまえられない。ところが、前後では戦災と同じほどの断絶が起こった。その変わりようを切れ切れに拾っていければと」。たんたんとした口ぶりだが、きわめて野心的な試みである。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/02/20080203ddm015070147000c.html

古井の認識では経済成長ももう一つの「戦争」として捉えられていて、野川ではその二つの戦争が大きくクローズアップされている、というのは以下のあたりの私の記事で書いたとおり。この認識は今作にのみ当てはまるわけではない。
野川の通販/古井 由吉 - 小説:honto本の通販ストア
「野川」の書評について補足 - 「壁の中」から (アーカイブ)
今作でも「戦争」は一つの大きなモチーフを成している。第一篇からしてそうなのだけれど、たとえば「無音のおとずれ」での以下のような記述に、上記の認識を見ることができる。

 歳月が重なり時代が変われば安堵の念は薄れるが、屈辱は深層に粘る、と考えられる。しかしそれとは逆に、屈辱の念は薄まるが、敗残の安堵が身に染みついて抜けないとなると、勝者の仮借は敗残の内で活き続けていることになる。廃墟からの復興に、なりふり構わず、後先もろくに見ず、ただ我身惜しさからと折りにつけ自嘲させられたにせよ、つまりは無私のごとくに、ここでも「挺身」して来た男が、敗国の奇跡と呼ばれた繁栄を見て、それが戦前の繁栄をはるかに超えてようやく頂点を回りかける頃、自身の内に、敗北感をひきずって廃墟の塵埃の中をよろよろと歩いていた、殺戮の員外であった者の、「女子供」の、影がいまだに残存していたのを見出し、これまでに世界の陰惨な素面を覗くたびに、とうに時効のはずの、勝者に恵まれた員外の安堵に引きこもり、そこに依存してきたことに気がつくと、周囲の繁華が敵の来襲も招かぬ、あらわな仮象に見えてくる。
146P

無私、ということで、そう言えば第一篇には耐震偽造事件のことが触れられている。そこから考察が始まり、だんだんと以下のような記述になっていくところはまさに古井由吉らしい展開だ。

 共同の不正の、連繋の一環の行為であって、どこかに中心があり、主体があり、自身は末端で作用しているに過ぎない、と意識されるなら個人の存在は薄くなる。
(中略)
もしもじつは中心も中枢もない、全体としては「無主」の、慣性による運動であるとすれば、どこまで行っても見境の、警戒の、信号は点ることがない。
(中略)
年月が重なれば、同じ操作の反復に苦しんで、処理の仕方がおのずと過激になっていきながら、それなりの安定に入る。日常の安定こそ、経緯によってはそらおそろしい。薄氷を踏んで行く者は、とうてい後戻りのきかぬところまで来ると、怖れもなげな足取りになる。不安は白い靄となって前後を包み込む。その頃になり共謀の関係にある者たちがときおり、物言わぬ男を見るような、臆した眼を向ける。動じない男だと周囲が舌を巻いているという。何でも黙って請け負い、黙ってこなすところを見ると、あれにはもとから、何かが欠けているのだ、と利用しながら眉をひそめる者もあると聞く。じつはいったん理非を、多数の生命に関わる域まで踏みはずしてしまったからには、まともに物を言おうとしたら、叫ぶよりほかにないので、仕事のやりとりの節目では黙っている。叫ぶまいとして黙っているのは、叫ぶのに劣らず、それ自体躁がしい。
12-13P

この引用にあるように、古井由吉には日常やそこにある馴れ、について微細な観察の眼を向ける。そこから、わずかな齟齬や綻び、あるいは綻びの予感のようなものを見出していくのが古井由吉の文の特徴的なところだ。そこからもたらされる独特の緊張感、不穏な感じは古井由吉の大きな特徴で、なんの変哲もないような小さな異変がどんどん破綻の予感でふくらんでいくおそろしさは、読んでいて戦慄させられる。

この、日常が危機に反転してしまう独特の認識の文体、これが古井由吉の方法だといえる。戦争はそれ自体が明確な危機として物語にはなる。しかし、古井由吉が注目するのは、事件そのものよりは事件のあとの、落ち着きを取り戻した日常に伏流する危機のほうだ。上の引用で、「深層に粘る」という言葉があるとおり、一見、落ち着いたかに見える景色のなかに、何か不穏な、崩れのきっかけを見いだす古井由吉の文体は、とてもスリリングでそして不穏な予感に彩られることになる。私自身の以前の記事では「薄氷の上を歩く、どころか薄氷を踏み割りながら歩いていることに気づかないことに気づかされるというような不安の感覚」という風に書いたことがある。これは「辻」についての感想だけれど、上掲の引用と同じ「薄氷」という言葉と使っている。

さて、これを古井由吉自身の鋭敏な感受性、といってしまえばそれまでだけれど、最初に紹介したインタビューでもあるとおり、そこには古井のこの戦後の日本社会に対する認識がある。終わったあとにこそ危機が伏在する、という感覚は古井の死生観ともあわせて重要なものだと思う。

書評などを見ると、古井由吉の認識や死生観だとかそういうものが、やや抽象的な物として捉えられているように思う。しかし、それだけではなく、古井由吉の独特と思える認識は、戦争と戦後、経済戦争とバブル崩壊、というような現実の「戦争」を土台として育ったものではないか。

また、以下のような記述は、古井の戦争に対する鋭敏な感覚を物語っているように思う。

戦後にも、工場や学校の始業を報せるサイレンがあった。始業の時刻のだいぶ前から鳴らされ、その音の下で八方から、遅れかけた者たちが足を急かされる。近隣の住人たちから、あの戦時下の嫌な音を毎日毎日聞かされるのはかなわないと苦情が寄せられて、おいおい取り止めになった。あれは動員の音でもあった。動員はどこかで死へつながる。しかし空にサイレンの音が絶えてなくなったあとも、万事において、動員の時代は続いた。そのうちに、救急や警察や消防の車のサイレンの音からも、人の耳に徒に恐怖を掻き立てることを憚ってか、以前のサイレンに特有だった、陰惨な唸りができるかぎり抑えられた。その頃になり、アラームと称しながら警戒音の素性を隠した電子音に、人は日常、取り囲まれて暮らすようになった。警戒音とも知らず、アラームに従って行動する。アラームに促されて、やはり動員される。
42-43P


で、この日常が不穏に満たされるこの感覚はある意味、ホラー小説的だと思う。劇的な事件や超現実的なものの出てこないホラー小説。その点では「撫子遊ぶ」がホラーというか幻想小説的な構成となっていて凄い。ここでは応天門の炎上とか文久年間の疫病の流行という説話的事件が、知人の父親の生前の夢と二重写しになるきわめて鮮烈な展開になっている。これは特に印象的な一篇。