筑紫申真 - アマテラスの誕生

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

本書では冒頭、アマテラスが男の蛇の神だとする説の存在が紹介されている。ひとつは鎌倉時代のある僧の記録によるもので、もうひとつは著者自身が、アマテラスを祭る皇大神宮伊勢神宮内宮)の別宮、伊雑宮の神官の家筋の者からじかに聞いた話だという。

アマテラスが蛇神であった、というこの神格の混乱を枕として、著者はアマテラスが今あるような皇祖神としての神格を確立するまでの経緯を丹念に追っていくことになる。この著者は折口信夫の弟子にあたる人らしく、折口民俗学をベースにしつつ、歴史学と絡めていくことで、日本の歴史的な祭儀の解説なども交えた膨らみのある叙述になっている。民俗学歴史学、そしてじつは最後にはかなり文学的にもなっていくあたりは、解説にもあるように「帰納的実証性に欠ける」と、素人にすら思わせるところがあり、論証の甘さ、恣意性からは免れていないけれど、全体としては興味深い説になっている。一般向けを意識したですます調で書かれていて、とても読みやすいのもよい。

この本で論じられているのは、いくつかの疑問を中心にしている。上記の神格の混乱もそうだけれど、天皇家の祖神であるはずのアマテラスが、なぜ伊勢という僻地に祀られているのか、という謎や、アマテラスが女神であるのは何故なのか、というような疑問がそれだ。

アマテラスがなぜ伊勢に祀られているのか。これは考えてみれば不思議な話で、ヤマト王権の中心地である畿内にあるならまだわかるのに、何故伊勢になるのか。このことを著者は皇大神宮の成り立ちから説き起こしている。そこでは民俗学を援用して、古い祭の様式の解説などが丁寧に説明されているのだけれどそこらは飛ばして、アマテラスという神格が確立する前、伊勢に一大勢力を誇っていた渡会氏という豪族の太陽神信仰があったことが指摘される。そもそも、書紀にもアマテラスが始めて降りたところは伊勢だと記されている。様々な史料から著者は、アマテラスというのは元々はこの地方に存在していた自然神的な信仰の対象であったもので、ある時期より前には皇祖神というような性格を持っていなかったのではないかと述べている。

そもそも、大化の改新以前には、天皇家はアマテラスを祀った形跡がほとんど見られないという。神武と崇神がそれぞれ一回ずつ祀った記録はあるにしても、その二人はともにハツクニシラススメラミコトとして建国神話の要所にあるため、これは後付の記録である可能性が高いと著者は言う。すると、天武・持統帝になるまで、アマテラスを天皇家が祀った形跡が存在しないことになる。著者は皇大神宮も皇祖神も、天武・持統の時期に確立されたものだと結論している。

アマテラスオオカミは、天武・持統両帝がつくったカミです。皇大神宮は、天武・持統両帝が築きあげた神社です。この両帝は、壬申の乱というクーデターを敢行し、身命をかけて二人の政権を獲得しました。その政権を永遠にするために、自分たちの権力の美化に熱心であったのは当然のことでした。なぜなら、この両帝は、日本における最高の古代専制君主であったからです。それまでまだ地盤の固まっていなかった天皇政権を絶対なものに築き上げたのは、天武・持統両帝の七世紀後半における活躍であったのです。アマテラスと伊勢神宮が、どうして彼らと無縁であることができましょう。
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天武というのは古事記日本書紀の編纂を命じた天皇でもあり、皇祖神アマテラスの確立とはまさに密接な関係があるというのはその通りだろう。また、持統は日本最初の条坊制をしいた本格的な中国風都城藤原京に遷都した天皇でもあり、律令制が完成し施行されたのも持統朝の頃のことだ。この時期が、古代日本国家の重要な画期であることは確かだ。

つまり、国家神話の確立にあたって、伊勢の信仰、伝承が取り込まれたものが記紀のアマテラスになった、というのが著者の視点だ。その過程は有力豪族の渡会氏が朝廷の支配を受けその独立性を徐々に失い、様々な産物を朝廷に差し出すようになることの裏面でもあるだろう。これは、出雲神話記紀に取り込まれた過程とも共通する。大物主の国譲りの神話が、出雲国がヤマト朝廷に支配される過程で土着の伝承もまた取り込まれたとする説はわりとポピュラーだけれど、同じことが朝廷と伊勢との間でもあったというこの見方は、なかなかに面白い。出雲神話にこの中央と地方との相克を見いだすというのはなじみがあるけれど、それをアマテラスにも見いだすというのはなかなか新鮮な視点だった。

なお、著者はアマテラスを伊勢の太陽信仰と密接に絡むものと見なしているのと同時に、伊勢の宇治土公氏の祖先神のサルタヒコもまた太陽霊として稲の生育を見守るカミで、それが夏にまつられるときはサルタヒコで、冬にまつられるときはアマテラス(天の岩戸神話)になる、もともとは同根のカミだと述べている。つまり天孫降臨神話の原形を「南伊勢地方の土俗的信仰」に求めている。

また、ヤマトタケルの神話では、天皇に酷使されたヤマトタケルが私に死ねというのかと涙に暮れる場面(「古事記」のみ)があるけれど、この嘆きを著者は上田正昭の説を引いて東国征伐戦争に駆り出された伊勢の豪族の嘆きなのだと述べている。

上田正昭氏は、その意欲的な著書「日本武尊」の中で、タケルの嘆きをつぎのように説明されています。

尊の悲劇性は、英雄の悲劇性というよりは、伊勢の海部や渡会氏の信仰や伝統が、王権に屈服してゆく意味における悲劇性であり、……あわれさであったとわたくしは推測するのである。

 渡会氏や宇治土公氏のような伊勢の海部のかしらは、朝廷に命ぜられて東国征服戦争に駆り出されたときには。さぞ板挟みのつらさを身にしみてあじわったことでしょう。
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それがなぜ古事記に記載されたかというと、古事記を暗誦した稗田阿礼は猿女君の一族であるらしく、著者いわく猿女君は伊勢から朝廷に出廷し神話などを語ったりして奉仕している一族だとしているため、伊勢の人々の嘆きがここに取り込まれたのだと述べている。古事記と書紀とで記述が異なるのは、書紀には猿女君が参加していないからということだろう。

また、天孫降臨で、アマテラスがなぜ息子にではなく、孫のニニギに天壌無窮の神勅を下したのかという点について、これは持統天皇の息子の草壁皇子が即位を待たずに死んでしまったため、まだ幼児であった軽皇子を即位させたことを反映しているのだと指摘している。アマテラスの天壌無窮の神勅とは、自らの政権を盤石なものとし、孫の皇位継承を神話的に根拠づけるものだという。

アマテラスがオシホミミを飛ばして、孫のニニギを日本の王にするのは、持統女帝が草壁皇子を飛ばして孫の文武天応に皇位を与えた、という史実が投影したものに違いありません。そうでもなければ、アマテラスが、ことさら子をさしおいて、孫を地上に下さなければならぬ理由は、ほかに見いだせないからです。
アマテラスがニニギに送った祝福は、持統女帝が若い文武天皇の前途を危ぶみながら、贈りたがっていたろうと思われる祝福の心情と、あまりにも酷似しすぎています。アマテラスの心情とは、じつはことごとく持統女帝の心情であったのでした。アマテラスの宣言は、実はそのまま、持統女帝が軽皇子天皇にして世に送り出すにあたっての、期待・保障・決意・祈りの心情をこめた、宮廷の内外への宣言なのでした。
264-265

この最終章での持統への思い入れあふれる叙述はなかなか文学的で興味深い。アマテラスをめぐって、裏では中央に自らの信仰や権力を奪われていった伊勢の豪族らの嘆きがあり、表ではアマテラスに心情を仮託した持統の祈りがあり、と学問的にはどうなのかという部分が多いけれど、話としてはけっこう面白い。

天照大神 - Wikipedia
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持統天皇 - Wikipedia