![文藝 2009年 02月号 [雑誌] 文藝 2009年 02月号 [雑誌]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51WxBAZcYdL._SL160_.jpg)
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/01/07
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今作では「海底八幡宮」に続いて、八幡神の発祥の地の宇佐地方が焦点となっている。神仏習合の始まりとも言われる八幡信仰が笙野頼子の関心を引くのは当然ではある。ちょうど海底八幡宮のまえに、逵日出典の「八幡神と神仏習合」を読んでいたので、この成り行きにはとても納得した。
さて、とはいっても、今作での八幡神についての記述はこれまでのものと大きくは変わらない。中央によって行われる地方土着の神々の収奪が徹底的に批判、攻撃されるのはいつも通りだし、そこでは神仏習合と所有意識に端を発する自我の成立を絡めて、内面を「空」にする「国家」という運動への批判という定石が踏まえられている、といえば、近作を丹念に追っている読者ならばある程度の中身の推測はつくだろう。
今ある八幡神の祭神は応神天皇、また神功皇后、比売神(宗像三女神という説もある)の三神になっていて、これらは作中で応仁、神宮、宗潟と名を変えて記述されている。これらの祭神は、作中では国家による後付(応神、神功が後付だというのはそうだろう)でそこに居座ったとされていて、元々宇佐にいて追い出された神々が人の道御三神の原形だ、というのがこの作の設定となる。
そしてもう一つのキーワードが華厳経だ。ちょっと華厳経については私はほとんど分からないので何とも言えないけれど、八幡と華厳といった思想が持つ抵抗力を奪い、逆に国家管理の武器とするようなことが行われた、というのが作中の観察だ。
八幡神が強い力を持つようになり、それが皇祖神と見なされて国内的に広まっていった歴史を、笙野は例えば以下のように要約する。
貴族よりもはやい、海外由来にして自然発生のオリジナルの神仏習合、これをパクリ、国家視点で薄め、劣化コピーをばら撒いたもの、それが応神八幡の神仏習合です。これは神仏習合の本質である国家対抗性を消毒するための対策であった。
128P
国家による土着神の収奪、ということで興味深いのは、ここではオオクニヌシが非常に姑息なキャラとして描かれていることだ。オオクニヌシは出雲の主要な神として知られていて、非常に人気のある神だ。しかし、記紀のなかではせっかく平定した土地を天孫に明け渡して出雲に引っ込んでしまう。これをして、出雲の勢力が畿内の勢力との戦いに敗れ、それが記紀に反映している、という説が割とメジャーな印象で、これだと悲劇の主人公的なキャラクター性になるんだけれど、笙野は「ただ機を見るに敏でしかも誰とも喧嘩しない事を自慢にしてるような嫌な地元神だった」という説を提示している。確かに、オオクニヌシ自身は天孫と直接戦っていなかったことを考えると、なかなか面白い説だと思う。
そしてもう一つ特に興味深かったのは、前回紹介したアマテラス本のひとつ「アマテラスの誕生」のなかで、溝口睦子は記紀の神話にはイザナミ系とムスヒ系のふたつの系統があり、それぞれ海洋的なもの、天に由来するものという際立った対照をなし、そのふたつが神話の二元構造を構成していると論じていたのだけれど、それと共通した図式が本作でも描かれていることだ。
本来的に海の国だったところへ、「上から目線」や「国家視点」という空からの視線を持ち出した「空の民」が結果的に権力を掌握し、他の部族より上の位置に立ったというのが、今作での国家成立のメカニズムだ。この流れは、半島経由で輸入した天に由来する王権思想(ムスヒ系神話)を国家統一の武器としたという、溝口が指摘した構図とそっくり重なる。この図式ってそんなにメジャーだったかな。そして溝口が俎上にあげた、スサノオとアマテラスのウケヒ神話についても、今作で取り上げられているという符合はとても興味深い。
ところで本作は、「人の道御三神といろはにブロガーズ」の前篇となっていて、次回、「いろはにブロガーズ」が後篇として掲載されることが予告されている。そもそも、今作の記述は、インターネット上にあるおかしなサイト、「人の道御神宮」に存在するものだという設定になっている。そしてネットに御三神をつれてきたのはS倉に住む野生の金毘羅(「金毘羅」の主人公)だというのだから面白い。で、架空のウェブサイトの記述という体裁が、後篇でブログと関わっていくだろうことが想定されるのだけれど、これは非常に重要な意味を持つ設定のはずだ。
なにしろ、人の道御三神というのは元居た土地を奪われ、行く場所のなくなった神々だ。それが現実の居場所を失い、最終的にインターネットのなかという仮想空間にようやく場所を見つけたということなのだろう。そして、現実の場所についてはこう説明される。
また、この御神宮には人の世界における住所もありません。ただここのURLがあるだけです。もしこの御神宮にお宮、鳥居、住所が必要とお感じになる方がいらっしゃるようなら、どうかご自由にこの世間に現実世界に、ご勝手になんなりとお作りになってください。許可はいりません。名乗り無料、建設フリー、無願神社おKです。
でもまあ、いくら作ったって無駄というものでございますよ。だって、もし、――。
鳥居、お宮を仮に建てたところでそれは国家から接収されるだけです。
129P
最初の段落で建設フリーの神社であることが宣言され、誰もが自由に自分で神社を建設できるということが語られるけれども、それは実際には国家による収奪がつねにつきまとうきわめて困難な行為であることが示されている。
だからこそ、ここでインターネットという空間は、土地を占有し名前を僭称しようとする国家システムからかろうじてその身を潜ませる事のできる場所という重要な意味を持つ。しかし、自我において所有(たとえば土地)が核心だという理論からすると、ネット上のみでの神社という存在はやや問題を含むものとなってくる。
ここから、ブロガーズというのがどう関わってくるのかはまだわからない。なにしろ、人の道御神宮からリンクされているブログはほとんどが荒廃し、スパムだらけで、文章が支離滅裂だったりしているという描写が冒頭に置かれている。いつもの笙野のタイトルの付け方からすると、いろはにブロガーズというのは「百人の危ない美女」、とか「百人の普通の男」的な、敵対勢力っぽい感じなのだけれど、どうなのだろうか。サイトをクリックすると勝手に引き落とされるという金は、敵ブログ防御費に使われるなどと書かれているし。あるいはインターネット空間にいる人々の国家対抗性を描いたりするのだろうか。というか、御三神自体が祟り神だとかウィルス神だとか書かれていて、かなり毒々しい雰囲気をまとっている。国家に消毒されていない存在ということだろうか。御三神というのもまた一筋縄ではいかない雰囲気に満ちている。
八幡神 - Wikipedia
宗像三女神 - Wikipedia

- 作者: 逵日出典
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