オリヴァー・サックス - 妻を帽子とまちがえた男

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

心理学や脳神経科学の本では、脳機能の欠損によって、顏貌失認といって人の顔が分からなくなる症状や、自分の手を自分の手だと認識できないといったような症状に見舞われた人の例が参照される。現象として非常に興味深く、脳機能の分析にとってもとても有用なのだろうけれど、では、その失認症などに罹った当人にとって、それはどういうことで、その人たちはどうやって生活しているのか、という具体的な状況は見えてこない。心理学の理論などの概説という本の性格からいって仕方がないのだけれど、そうした人たちの世界観というのはやはりとても気になるものだった。

で、ちょうど文庫化していたこの本を見つけて、タイトルからしてこれだ、と思い読んでみると、これがど真ん中。学説の解説ももちろんあるのだけれど、サックス本人が診察し、観察した患者たちのありようが丁寧に描かれている。

私の興味に合致したからというだけではなく、これはホントいろんな人に読んで欲しいと思う。神経科の患者の症例集、というところで、非常に珍しく興味深い症例が豊富にあり、のぞき見的好奇心から読んでも面白いだけではなく、そういう読者の首根っこをつかんで、患者が被る社会的な問題にも眼を向けさせ、さらには通俗的な「人間性」のイメージを突き崩して、さらにより広いレンジから「人間」を捉え直す試みがまた素晴らしい。

この本で記述される患者たちの症状は、多くが認識や知能、あるいは記憶といった、どれも理性的で知的なものとしての「人間」像の根幹を成す部分で障碍があるものが多い。脳、神経の障碍は、やはり身体的機能の障碍とは意味が違ってくる。人権問題にも直接繋がっていくようなきわめてデリケートな問題でもある。

欠損を抱えた生活

表題になっている「妻を帽子とまちがえた男」は、人の顔が認識できなくなる顏貌失認の症例で、題の通り、妻と帽子が区別できなくなるというような障碍が起きる。それ以外ではごく普通の人物であるにもかかわらず、だ。

パーキングメーターをなでたり、ドアノブに話しかけて返事がないのを訝しんでみたりと視覚的認知能力が失われていき、音楽家としての資質があり音楽教師として優れているけれども、日常的行動にも困難を来してしまう。そんな彼だけれど、歌を歌っている限りは行動に支障を来さず生活することができる。途中で邪魔が入り、歌が中断されると途端に糸が切れたように何もできなくなってしまうため、彼の日常生活はつねに歌いながら行われる。歌がなければ生活できない。

他では左という視覚および概念を失ってしまい、目の前に出された食事のうち、右側しか認識できず食べられない片側失認の女性患者が出てくる。看護士が頭を左に向けてやると、それまで認識できなかった残りの左側を食べることができる。しかし、左という概念がないので、自力で左に首を動かすことはできない。なので、食事が足りないな、と思ったら右に一回転して、残りの左側を視界に入れて食べることになる。そうしても残りの左側のうちのさらに左半分はやはり認識できないので、四分の一が残る。まだ足りないな、と思ったら患者はもう一度右に一回転する。

この症例などはまるで何かのコントのように滑稽な光景だ。人間がまるで壊れたおもちゃのように奇怪な動きをしてしまうような事例をいくつも見ることができる。妻を帽子とまちがえるなんてのも、吉本のポットの人のネタみたいでもある。しかし、コントのような現実を生きねばならないことほど悲劇的なこともないだろう。

片側失認の女性は、化粧も片側しかできない。鏡を見ても左側が見えないため、ビデオカメラを経由して左右反転した映像を当人に見せたところ、化粧もされておらず、顔の表情もまったくない自身の知られざる顔を見せられて強いショックを受けてしまった。病識のない患者にその病の帰結と直面させるのは時にリスキーだ。十代後半くらいからの記憶を定着させることができない初老の男性は、自分の年齢を問われると19歳だと答えた。サックス自身後々まで後悔しているのだけれど、彼に鏡を見せ、とても19歳とはいえない老いを経た自身の顔を見せると、顔面蒼白となって気も狂わんばかりになってしまった。しかし、部屋を出て二分後に戻ると、彼はそれまでのやりとりをすっかり忘れてサックスが誰なのか分からない……

病という個性

かといって本書ではそうした悲劇的な話ばかりではない。障碍と才能が表裏一体のものでもあることがいくつもの事例で描かれている。

トゥレット症候群、というチック(つい何かに手を触れたり、体を動かしたり、奇声をあげたりといった不随意的な行動)を引き起こす障碍があり、レイという患者は攻撃性や粗暴性を抑えられず、会社勤めや結婚生活に支障を来していた。しかし、知能は高く機知にあふれ、なによりジャズドラマーとしての素晴らしい才能があった。突然襲ってくるチックの衝動性を利用した、意表を突いた即興演奏が彼のドラムの魅力だった。彼は様々なゲーム、スポーツも得意で、即興性と反射神経にあふれた機敏な動きを見せる。

そうした症状に効くハルドールという薬をレイに投与すると、チックが抑えられると同時に、機敏さや即興性、つまりドラムの才能が失われることがわかった。二十数年チックとともに生活してきて、チックであることも自身の重要な一部だというレイにとって、自己表現の手段でもあり、生計の手段でもあるドラマーとしての資質が失われることは看過できない。そのため、彼は平日はハルドールを飲み、普通の人として暮らし、休日になると服用を辞め、「機知あふれるチック症のレイ」としてドラムの才能を活用しているという。

レイはトゥレット症にもかかわらず、また、ハルドールによって人工的なものを強いられ、よって「不自由」であるにもかかわらず、それをうまくやりくりして満ち足りた生活をしている。われわれの大半が享受している自然のままの自由という生得権をうばわれているにもかかわらず、満ち足りた生活をしている。彼は自分の病気に教えられて、ある意味では、それを乗り越えたのだ。193P

このような障碍とともに、ある種のイディオット・サバンとして優れた資質を持つ人たちについても興味深い事例がいくつも載っている。自閉症の双子が、数万年に渡りどんな日であっても即座に曜日を答えたり、十桁を越える数が素数かどうかを見るだけで判別できたりとか、音楽事典を丸暗記した知的障碍の子供が、教会の聖歌隊でその能力を活かしていたり、と言ったような事例だ。同時に、障碍、病気を治療しようとするあまり、優れた資質を失う例もある。

双子の兄弟は、数でコミュニケーションを取るような閉じた関係性を持っていたため(この二人の「会話」に、サックスが素数表で参与することができた下りは感動的)、健全な生活を送るには二人を引き離す必要があると判断され、その処置の結果少々の社会性を身につけ、小遣い稼ぎ程度の仕事に従事させられるようになった。同時に、数についての能力を失って、彼らにとっての生の喜びや生きている実感を失ってしまったように見えるとサックスは書いている。社会には適応できた、けれども彼らは人生の中心を失ってしまった。それが一体治療と呼べるのだろうか。

病者の存在を矯正すべき異常のみと見る見方、それがここでは退けられ、障碍という得難き才能、多彩な充足、幸福のあり方が取り上げられている。知的障碍、自閉症、その他の脳神経系の疾患が受けやすい偏見を取り払い、彼らにも彼らの世界、意味があるのだと指摘してみせる。彼らもまた人間であるということを強く印象づける。彼らの世界の豊穣さと同時に哀しさもまた描かれている。

彼らのそうした世界の個性、特性を無視して、健常者の社会に従属させるようなものを治療と呼んで良いのかという疑問が投げかけられる。「かわいそうな障碍を持っている」から「彼らを健常者にできるだけ近づけなければならない」というロジックが果たして正しいのか、ということ。そうした処置はしばしば、彼らの長所や充足を否定し、せいぜい平均より劣った健常者(小遣い稼ぎ程度の仕事!)として社会に包摂する結果となる。「機知あふれるチック症のレイ」は病者の長所と健常者の社会とを意図的に使い分けることができた希な例だけれど、より重篤自閉症や障碍となると、そうした器用な生活は難しくなる。

物語とアイデンティティ

本書を読んでいて面白いのは、芸術や物語というものの扱いだ。歌を歌っている限り日常行動を維持できる冒頭の例の他にも、自閉症児の詩や絵画等の芸術が患者たちにとってとても重要なものとして意味を持っている例がいくつも出てくる。しばしばボルヘスの「記憶の人フネス」が持ち出されるところも興味深い。

もうひとつ、芸術ついでに物語の意味に関して興味深い事例がある。コルサコフ症という記憶喪失の患者についての話だ。数分前の記憶すら維持できず、自分が誰なのかすら覚えていられないという悲劇的な人物が出てくるところだ。

彼は、どんなことも、数秒間しか覚えていられなかった。ひっきりなしにまちっがていた。記憶喪失という深淵がぽっかりと口をあけて、彼を飲みこもうとしていた。しかし彼は、あらゆる種類の話を次から次へとつくりあげることで、その深淵にすばやく橋をかけようとしていたのである。207P

自分自身の記憶を持たず、自分自身の物語を持つことができない彼は、つねに自分を見失い続けている。傍目からは次から次へと面白い話をのべつまくなしに語り続ける面白い人、なのだけれど、それは無意味さの深淵から必死の逃走なのではないか。現に彼の話には奇妙に実感に欠け、まるで他人事のように情熱に薄いという。自分の記憶が維持できず、自身のアイデンティティが見失われている。その時に作話症が発症するこの事例は、人間にとって物語が何なのかということについて重要な示唆を与えていると思う。


ここで例示してみたのはごく一部でしかなく、私の取り上げ方もひどく単純化されたかたちに過ぎないので、是非ともじっさいに読んで欲しい。この本には、社会的にも、芸術的にも、心理学的にも、科学的にも興味深い、示唆あふれる事例と観察と議論がある。重篤な障碍を持ちつつも社会的に地位を得、生活を送れるようになるといった幸福な話も、障碍に潰されたまま、立ち直れない哀しい話もある。

とにかくも、間違いなく名著と呼ぶべき著作でまあ既に有名な本なのだけれど、まだ読んでいないという人で、ちょっとでも興味があれば是非とも薦めたい。素晴らしい。


18日追記
アップしてから気づいたけど、自動リンク先のはてなキーワード「フネス」がやたらと充実しているので必見。なぜこの作品をサックスが参照しているかがよくわかる。