世界文学のフロンティア 3 夢のかけら

世界文学のフロンティア〈3〉夢のかけら

世界文学のフロンティア〈3〉夢のかけら

本書は岩波書店から出ていた今福龍太、沼野充義四方田犬彦編集による世界文学アンソロジーシリーズの第三巻。この巻の「夢のかけら」という表題には、実現されたユートピア――共産主義社会主義体制の後、という意味が込められていて、選ばれた書き手の出身国も、ユーゴスラヴィアポーランドアルバニアチェコ、中国、ロシア、ハンガリー、イタリア、コロンビア、東ドイツとあるので大体の傾向はつかめると思う。もちろん作中に夢を題材にしたものもあるし、マルケスやイタリアの作家なんかも入っているけれど基本的には東欧、旧共産圏アンソロジーだと言える。

これを読んだのはカダレの短篇目当てという理由の他に、最近興味を惹かれている松籟社の「東欧の想像力」叢書から出ている作家が四人(カダレ、フラバル、キシュ、エステルハージ)も載っているので、試し読みに好適というのもある。

カダレはもちろんかなり良かったのだけれど、もっとも感銘を受けたのはセルビア語で書く、ユーゴスラヴィア出身のダニロ・キシュ「死者の百科事典(生涯のすべて)」だった。これはもう、素晴らしいと思った。

「死者の百科事典」というのはその名の通り、ある人物の生涯がすべて記された百科事典という代物で、まったく無名の人物の生涯が余すところなく、しかし簡潔に記されている、という超自然的な書物。ある女性が「王立図書館」に連れられてそこを物色している時に見つけたのが父の生涯が記された百科事典だった。彼女は急いでその事典を読み、その要約を作っていき、その概要を「あなた」に宛てた手紙にこうして記している、という体裁になっている。

まったく無名のある人物の一回限りの二度とない生涯の、そのすべてを記した書物について、女性はこう述べる。

人間の歴史にはなにひとつ繰り返されるものはない、一見同じに見えるものも、せいぜい似ているかどうか、人は誰でも自分自身の星であり、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです、すべては繰り返される、限りなく、類いなく。(だから、この壮大な相違の記念碑、『死者の百科事典』の編者たちは個なるものにこだわるのです、だから、編者たちにとっては一人ひとりの人間が神聖なのです。)

この「死者の百科事典」という発想は、キシュの父はアウシュヴィッツに送られ帰らぬ人となった、ということをどうしても考えさせる。ホロコーストでは大量の人々が計画的に絶滅させられるという生の尊厳を根底から覆す事態が起こってしまったわけだけれど、この「死者の百科事典」はその不条理な事態に抗して人間個々の神聖さを取り戻そうとする試みに思える。

これはつまり、キシュにとって小説、文学とは何か、という問いに対する一つの答えなのだろう。「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言があるけれど*1、この小説を読むと、キシュは「アウシュヴィッツ以降こそ、文学が書かれなければならない」、と言っているように思えた。

これは短篇なので、「父」の生涯は百科事典を読んだ女性の要約、というかたちでうまく圧縮されている。ラストの短篇小説らしい流れもいい。

アウシュヴィッツで死んだ自身の父を正面から題材にして、長篇で展開したのがたぶん主著の自伝的三部作なのだろう。そのうちのふたつが河出の全集の「庭、灰」、「東欧の想像力」の「砂時計」がいま手に入るようだ。しかし、「死者の百科事典」が収録されている短篇集と、三部作の一角をなす「若き日の哀しみ」は、十年ほど前に東京創元社から出たっきり絶版になっているのが惜しい。東京創元社はカダレやキシュやパヴィチとか、東欧の作家を一時期精力的に出していたのだな、と今になって気づいても遅い。


イスマイル・カダレの「災厄を運ぶ男」はさすがの面白さだ。これはオスマン帝国時代に併合されたばかりのバルカン半島に対してチャドル(イスラム教徒の女性が付けるヴェール)着用令が出された、という設定になっている。いまだチャドルをつけない野蛮とみなされた、アルバニアを含むバルカン地方へ帝国の使いの男は旅立つのだけれど、途中でヴェールを付けない快活な美しい女性たちにすっかり魅了されてしまう。しかし彼はその女性たちの顔を覆う五十万枚のヴェールを運んでいる、という話で、やはり「アルバニア」を外から眺める視線を導入しているのがカダレらしい。帝国が辺境を文化的に同化する、というあたりこれはむしろ現代的な話のようにも見える。塩川伸明の「民族とネイション」でのオスマン帝国の解説を見るに、多民族、多言語、多宗教の帝国と述べられていて、着用令が史実かどうかは知らないけれど、オスマン帝国時代にはむしろこうしたことは行われなかったのかもしれない。沼野の解説でも書かれているように、「誰がドルンチナ〜」ともども、中世を舞台にして現代を描く手法を用いた一作なのだろう。

ガルシア=マルケスの「海岸のテクスト」は夢ネタのショートショート三本、という体裁で、記者時代の文章なのだけれど小説と言っていいもののように思う。コラム扱いの記事らしいのだけれど、雑誌や新聞にちょこっと載ってたら楽しくなるような作品。新潮社の小説全集には入っていないはず。

ステファノ・ベンニの「最後の涙」は同名の短篇集から二篇を採録なので、「最後の涙」という短篇が載っているわけではない。「悪い生徒」と「新しい書店主」が収録されていて、ネタ自体はわりとべたなSF風、怪奇小説風なもので普通なのだけれど、「新しい書店主」の「紙魚たちは不服」というフレーズは面白かった。

ボフミル・フラバル「魔法のフルート」は政治的騒擾を背景にした作品なのだけれど、これだけでは何とも。句点のほとんどない迸るような文体で、さまざまな思想家作家の名前が出てくるのは「あまりにも騒がしい孤独」と似ている。そして「騒がしい孤独」というフレーズがこれにも出てくる。

中国の残雪は名前が格好いいね。河出の全集にある「暗夜」が気になってる。何とも不思議な、意味深そうな話。

アナトーリイ・キムはそういえば群像社ライブラリーから一冊出ていた。語り手が時折変わっていく不思議な語り口の作品で、なかなか面白い。朝鮮系ロシア作家。

エステルハージ・ペーテルハンガリーの大貴族の末裔で、名前で気づいた人もいるかと思うけど、ハンガリーは苗字が先のようだ。本書所収の「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」は同名の「東欧の想像力」叢書で出ている長篇の一部で、ここでは副題に「見えない都市」とある。もちろん、カルヴィーノの同名の小説のことを指していて、それに倣って断章形式にして、「見えない都市」の文章をそこここに挿入したり、名詞部分だけを「ブダペスト」に変えてみて一章分まるまる持ってきたりして、カルヴィーノの「見えない都市」を、エステルハージ流ブダペスト論に仕立て上げている。ハンガリーポストモダン文学の旗手らしいのだけれど、なかなか人を食った小説だ。長篇ではどうなっているのかちょっと気になる。


というわけで、なかなか面白いコンセプトのアンソロジー。キシュを読めたのは存外の収穫。カダレも流石だ。

収録作品一覧

蕩尽された未来の後に 沼野充義
死者の百科事典 ダニロ・キシュ
海岸のテクスト ガブリエル・ガルシア=マルケス
最後の涙 ステーファノ・ベンニ
一分間 スタニスワフ・レム
災厄を運ぶ男 イスマイル・カダレ
ユートピア・奇跡の市 ヴィスワヴァ・シンボルスカ
ゆるぎない土地 ヴォルフガング・ヒルビッヒ
魔法のフルート ボフミル・フラバル
かつて描かれたことのない境地 残雪
コサック・ダヴレート アナトーリイ・キム
ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし エステルハージ・ペーテル
金色のひも アブラム・テルツ

*1:アドルノがこうした発言をした彼自身の文脈、というのをアドルノを読んだことのない私は知らないので、字義通り受け取っていいものなのかは疑問だけれど