オリヴァー・サックス - 火星の人類学者

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

「妻を帽子とまちがえた男」に続き、サックス二冊目。これもまた驚くべき名著。

前著には奇妙な症例へののぞき見趣味的な部分があるとの批判があったようだけれど、その批判に応えたのか、本書では七人の患者に焦点を絞り、ひとりひとりにもっと寄り添ったかたちで叙述がなされている点が特徴。

サックスの語り口はひとりの患者の症例を眺める、というよりは、その病気込みでの故人の人生まるごとを捉えようとしている。そして、その視点は個人のみに留まらず、その人間が生きている社会をも視界に据えている。特にこの点で興味深いのは「トゥレット症候群の外科医」と「火星の人類学者」だろう。

トゥレット症候群とはチックが抑えきれず、奇声や手足の突拍子もない動きなどを特徴とするのだけれど、その症状に悩まされているものがなんと外科医としてメスを握っているというのみならず、人気抜群なのだという。奇怪な動きをしながら症例について話し合っている光景は、慣れたものにはなんでもないことだけれど、初めて見た人には驚きだろうとサックスは語る。そういう手足の動きを抑制できないのなら手術なんてできるのか、と思われるだろうけれど、いざ執刀となると彼は完全に集中してまるで自分がトゥレット症候群であることを忘れたように鮮やかに手術を完遂する。途中で邪魔さえ入らなければ失敗することはないのだという。

「火星の人類学者」とは、自閉症でありながらも動物学者として活躍する、テンプル・グランディンが、自分について語った言葉だ。彼女は人間の社会的ルールを、決して内的に理解することができない。人の気持ちや表情が読めない。だから、火星に降り立った人類学者がそうするように、普通の人々の行動様式を分析し、意識的にそれをトレースする、というかたちでなんとかして生活している。彼女に会った様子を述べるサックスは、彼女が社交辞令や細かな気遣いといったものをほとんどしない、と指摘している。むしろ、彼女は動物に対してより深い共感を抱くようで、動物が苦しまずに死ぬような施設の設計においてその特質が発揮される。「アメリカとカナダの肉牛の半数はグランディンが設計した施設で処理されている。」というのだから、その貢献は多大なものだ。

このような「貢献」が「病でもなお」なのか「病ゆえに」かは判断が難しいところなのだろう。トゥレット症の患者はその病気も込みで自分の個性だと考える傾向があるという。

病、特に精神的なものはきわめて社会的な影響を被る(個性と病の境界をどこに置くか)ものだと思うのだけれど、この点で病を語る、ということは同時に社会を語ることと不可分だ。なので、ここで考えなければならないのは、「有用」「貢献」という尺度で病や個性を考えることの危険性だと思う。社会的な有用性、という尺度は容易に「生きるに値しない命」の選別を行い始めるからだ。

本書のなかでもっとも悲劇的なのが、「最後のヒッピー」という章で語られているグレッグという人物の様子だ。彼は新興宗教の教団に入って生活しているうちに、次第に目が見えなくなり、それが宗教的な進歩であるとの判断から治療を受けることができずにいた結果、完全な盲目となり、診察の結果脳内に小さなオレンジほどの腫瘍ができているのが見つかった。視神経や前頭葉その他さまざまな部位が損傷を受け、予後は絶望的だという。

サックスが会った時には、彼は自分が目が見えないことはおろか、自分が何かの障碍を持っていることすら自覚していなかった。彼は「感情らしい感情がまるでなかった」。それが教団では「至福」や「解脱」に見えたのだろうけれども、重篤な脳の損傷の結果だった。そして彼には1970年代以降の記憶がなく、新しい記憶が定着できない。彼にとってはグレイトフル・デッドのオリジナル・メンバーも、ジミ・ヘンドリックスも、ジャニス・ジョプリンもまだ生きているのだった。

グレイトフル・デッドを崇拝すらしているグレッグを、サックスは現在のグレイトフル・デッドのコンサートに連れて行ってからのあまりに希望のない展開が痛ましい。彼には、自分が何を忘れたのかすら分からないのだった。


「妻を帽子とまちがえた男」では長短あわせて24篇、という多種の症状を眺めてみることで、大きく網を広げたように全体的な視点を得ることができたのだけれど、今作では7篇の事例をじっくりと掘り下げることで、病と生活、人生のかかわりをできるだけ深くつかもうとしている。片方を読めばもう片方も読まずにはいられなくなる、きわめて優れた著作だと思う。