ダニロ・キシュ - 砂時計

砂時計 (東欧の想像力 1)

砂時計 (東欧の想像力 1)

アウシュヴィッツで消息を絶った父を軸とする、キシュの自伝的な「家族のサーカス」三部作の最終作。1972年の作。松籟社の〈東欧の想像力〉の第一弾。

渡邊さんはスルスルと理解できる、といっているけど、読解力の優れた人のいうことを真に受けてはいけない。これは相当読みづらい難物で、ある程度の覚悟と根気がないと挫折する可能性が高い小説だと思う。つまらないとかいうわけではなく、断章ごとの位置付け、文脈を読みとるのがなかなかむずかしく、出口があるかどうか分からない迷宮を迷っている気分になる。私もかなり苦労したし、読んである間は結構きつかったし、理解できたつもりにはまったくなれなかった。それでも、これはやはり感動的な書物であり、偉大な小説だと確信する。

本作を読んでもサッパリ分からない、あるいは読んでいるのだけれど、どうもよく分からないという人は、訳者奥彩子による詳細な読解がネットで読めるので是非これを参考にして欲しい。
『砂時計』あるいは世界の書物 : ダニロ・キシュ研究
なぜこれを単行本に付けなかったのか、というくらい(価格設定の問題なのだろうけど、この叢書のようなものには丁寧な解説は不可欠だろうと思う)きわめてよくできた解説で、迷宮のごとき本作の最良の羅針盤になる。

全体は66の断章と父エドアルドが残した手紙で構成されている。それぞれの断章は「プロローグ」、「旅の絵」、「ある狂人の覚書」、「予審」、「証人喚問」、「手紙 あるいは目次」と題された連なりを持っていて、それぞれ一人称、三人称、対話形式、書簡体とさまざまなスタイルで描かれている。さらには各章の時間軸、場所もまたばらばらで、物語の筋と呼べるようなものを読みとるのは困難だ。

作中、E.Sが空想した作中作の書評(マトリョーシュカあるいは紋中紋ふたたび)、という明らかに本作自体を自註したととれる一文にはこう書かれている。

小説の主人公であるE・Sという男は、極度に感じやすく、少々錯乱しているといってもよい人物で、恐ろしい体験(ノヴィサドの一斉検挙のこと)の後、日々のごく平凡な生活に耐えられなくなる。小説は、ある一夜の、深夜から明け方までの話である。彼は、この短い時間に、昨今の出来事と遠い昔の出来事における主な場面を生きなおし、人生の総決算をする。主人公にとって、世界との闘いとは、実際は死との闘いであり、彼は死が間近に迫っていることを感じている。
226P

この後に「いわゆる筋というものは文学作品の本質的な魅力でもなく、本質的な価値でもないと信じている全ての人に、心からお勧めする」と続く。あるいはキシュ自身がインタビューでこう発言している。

出版社に本を渡したとき、不安で胸が押し潰されそうでした。それでも、十人ばかりでいい、自分からこの深淵に飛びこんでみよう、よろこんで罠にはまってみよう、信頼という言葉のもとに、アリアドネーの糸がなくても、この迷宮に入ってみようという読者がいてくれたら、とささやかな望みを抱いていました。本の冒頭で読者を沈めた聖書の暗闇から、明るい日のもとへと連れて行くことを私が約束しました。でも、それにはその人(読者)の信頼が必要でした。
309P

筋に拠らず、さまざまなスタイルの断章をモザイク状に散りばめ、文学的技法を駆使することによってE.S.なる人物像を立体的に再創造しようという試みが「砂時計」だ。しかし、E.Sの姿を歴史的事実として、さまざまな史料をもとに事実として再構成するのではない。それはあたかも、E.Sの手紙をキシュという光源で透かした時に現れた影、あるいはホログラムでできた立体像のように、事実と虚構から生み出された文学的再創造だ。

本書プロローグには向かい合った顔にも、壺や花瓶あるいは砂時計にもみえるルビンの図形が引用されている。これは、E.Sとダニロ・キシュの二つの顔が向かい合うことにより「砂時計」が生まれ、「砂時計」をひっくり返すことで時間を逆転させて一夜のE.Sの意識を再創造する、という本作の方法であると同時に本作そのものの姿を見事に示した図形となっている。


確かに、この小説を読み進んでいくのは出口があるかどうかも分からない迷宮を迷うように大変なのだけれど、ラストで「ある狂人の覚書」と題された章、

苦悩と狂気のゆえに、私は貴方がたよりも、美しく豊かな人生をおくった。

と始まる遺言を含んだ一連の文章を読む時には、いわく言い難い感動がある。それは、物語の展開や人の感情というものが感動的なのとは少し違う。この小説の読むことの困難さは同時に書くことの困難さでもあり、E.Sが断片化したモザイクで再創造されなければならなかったのは彼の姿がどうしようもなく破砕されてしまっていたからであり、この小説の存在それ自体がエドゥアルドと息子アンディの置かれた不条理そのものの姿として立ち現れてくる、そうしたすべてをひっくるめたものだ。

この章はノアの方舟(以前の作にも方舟にかんする記述があり、この三部作において重要な意味を持っている)を引き合いに出しつつ、死への抵抗を語り、最後にこう締められる。

別のものはなくとも、私の実用植物標本集、私の数冊の覚書、もしくは私の手紙類は残るであろう。それは具体化された、あのイデアの凝縮に他ならない。具体化された一つの生命、それは、神の広大にして永遠な虚無に対する、人間の哀れにも空しい小さな勝利である。あるいは、少なくともそれは残るであろう。―もしすべてが大洪水に沈むとしても―私の狂気、私の夢、極光、遠い木霊は残るであろう。(中略)そして、この光、この煌きの意味を理解するかもしれない。もしかしたら、それは、私の息子かもしれない。そして、息子は、私の覚書とパンノニアの植物をおさめた私の標本集(あらゆる人間的なものと同様、不完全なそれ)をいずれ世に出してくれるであろう。死を生きのびる全てのものは、虚無の永遠に対する、小さくも空しい、一つの勝利である。人間の偉大さとヤハウェの寛大さの証拠。我ノ全テハ死セザルベシ(ノーン・オムニス・モリアル)。
288P

息子アンディは父の「我ノ全テハ死セザルベシ」との宣言を、この「砂時計」という小説として現実化することで、永遠に不滅の、小さくも空しい一つの勝利として、E.Sの墓標を打ち立てた。この小説は死後三十年近い時間をかけて彫琢された息子による父の墓標だった。

このもっとも印象的な一節では、三部作をつらぬくモチーフ、〈実現された作中での予告〉が顔を出している。これが「若き日の哀しみ」の一篇「少年と犬」と相似形を描いていることはすぐ分かると思う。さらに、この「砂時計」というタイトルは、現実の「父の手紙」において、親戚たちの振る舞いを小説の素材としてこんなタイトルのものを書くことができるだろう、と皮肉って命名されたものであることがわかる。さらに作中作の書名もまた、父のこの皮肉な一文から名付けられたものだということも明らかになる。この小説は現実において父によって予告された小説そのものでもあったということになる。

この事実には何か心震えるものを感じないわけにはいかない。また、父の手紙の最後、つまりこの小説の最後の一文が、タルムードから引用された以下の言葉だ。

迫害する者の中にいるよりは、迫害される者の中にいる方がよい