笙野頼子 - 小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(前篇)

すばる 2010年 09月号 [雑誌]

すばる 2010年 09月号 [雑誌]

後篇を待たずに序章の翌月に早くも発表された「小説神変理層夢経」の続篇の前篇。「前篇」などのタイトルの付け方が「序」とやや違っている。どうやらここから一応本篇で「第一部の始まり」ということになるようだ。

序章序盤とは打ってかわってかなり落ち着いた筆致になっているのにまず気がつく。序盤は「猫トイレット荒神」での内容とやや重複しているけれど竈神、荒魂、荒神についての解説を述べつつ、実はこの家に荒神様が居着いていたという発見にからめて、母系親族の家の断絶とそれに伴う相続問題、老年性痴呆にかかった猫ドーラの介護生活という身辺=神変事情が縷々語られる。

荒神様」発見譚とともに重要なのが、序章でも述べられていた小説を書けなくなっていた理由でもある事情だ。

私の私小説的設定に書いてきた設定のいくつかが、親の「意図せざる申告もれ」によって、まさしくフィクションとなり果てたのだ。まあこのあたりが全て、小説の足を引っ張った。今まで発表したものは無論、まさにそのフィクションなのだ。しかし親のついた嘘の中で私は育ち自己形成してきた。ここを、どうするか。13

つまり自分が書いてきた小説で下敷きにしてきた事実が覆ってしまった、ということだけれど、ここですでにフィクション、ということについてかなりねじれた関係が現れていることに注目すべきだろう。今作は自己史の再編成小説ともいえる「金毘羅」の設定を引き継いでいて、「金毘羅」では自分は誕生時に既に死に、金毘羅がその体に入れ替わった存在なのだ、という発見を核にしていた。その虚構内事実、「設定」が現実の虚構化によって揺るがされ、見直しを迫られている(ただ、その影響は限定的だと述べられてはいる)。そしてこのシリーズでは、その揺るがされた「設定」を見直す行為そのもの、再編の過程それ自体を、祈りと自我の関係をからめつつ、小説として記述していく試みとして展開していくのではないだろうか。猫ダンジョン、洞窟の「内」と「外」ということを語るくだりで、境界線上の生成変化する神が出てくるあたりは、このこととドゥルーズ=ガタリの「千のプラトー」とが絡んでくることを予感させる。

さて、後半になって現れる、生まれたばかりの語り手の体にそもそも入っていた人間の魂が、金毘羅としての笙野頼子(?)を批判的に語っていく下りは今作の重要なポイントだ。「嫌」を繰り返し書きつけるそのプリミティブな拒否を突きつけ、馬場秀和さんはこれを市川頼子VS笙野頼子(あくまで便宜的に呼ぶならば)と呼んでいるけれど、まさにそうした自己史の再編に伴う格闘となっている。これはスリリングな構成を取ったものだなと感心してしまった。

もうひとつ、小説内設定で重要なものは、表題の「猫ダンジョン」だ。これはまた説明のむずかしい代物だけれど、洞窟、ともよばれるそれは時間の進みがきわめて遅い、いわばドラゴンボールにおける「精神と時の部屋」だ。時間を遅らせること、一日一日を幸福に過ごすこと、それは猫の死が迫りつつある語り手にとってもっとも重要なことだ。そこで、この猫ダンジョンという「フィクション」、「嘘」が作られる。これが、「書けない理由を越えうる設定について書くという小説」という文のなかの「設定」だろうか。小説内フィクション、フィクションのなかでフィクションだと述べられているフィクション。これは、

――荒神様、荒神様、猫が死ぬのが怖くて小説が書けません。

という繰り返される悲痛な祈りに「荒神様」が答えてくれることで生まれた。そもそも、笙野頼子にとって猫とは「だってここ十六年間、どんな、猫と関係ない場面を書いていても、私小説の「私」と同じ位にドラは「そこ」にいた。私が小説に何を書いたってその今の一番核心に猫は。つまり私の心臓の鼓動として。その鼓動が」というほど重要なものだった。読者、あるいは私もまた、残された猫が死んだら、笙野頼子はいったいどうなってしまうのか、と怖れずにはいられない。

そんななかで生み出された自覚された嘘、猫ダンジョンと、「金毘羅」としての「私」が金毘羅以前の「私」に見返される自己史の再編とは、虚構、フィクションということについてかなり複雑な関係を描いているように思う。「おんたこ」三部作でも、作中に「笙野頼子」が現れて自説を述べるとそれに作中人物が反発する様子が書き込まれるなど、事実と虚構の関係について笙野は敏感で、つねに何らかのひねりを加えてきた。「私小説」を逆手に取った設定、叙述をしてきた作家だといえるけれど、その前衛私小説ぶりはここでも見事に発揮されている。

どっちにしても一言では言えない作品だけれども、この後篇がどうなるのかにとどまらず、シリーズがこれからどう展開していくのかということについても期待せざるを得ない出来だ。ほんと、こっからどうなるのやら。

もうちょっと細部に関して言うと、序章では「アケボノノ帯」を思い出させるようなトイレにかんする民俗的エピソードや住民にトイレを貸すかどうかの下りなどの話が面白かったけれど、今作では商人ではなく侍の家だったと判明した父の存在がかなりあやしく変化し始めているのが興味深い。その象徴的な人物として、父の秘書がいる。これまでもちょくちょく出てきては妙な存在感を放っていたけれど、機械のように従順で父に付き従い、女は運転してはいけないけどお前は本当は男だから、と車を買い与えられたこの女性の存在はより異様さを増して感じられる。この不気味さは通じて父の不気味さでもあるわけだ。

小ネタもいろいろあった。序章にも「なう」とか「ぐぐれや」とかのくだけた言葉遣いがあったけど、「ツイート」とか果ては「柄谷荒神」とか、金毘羅以前の「私」が最後に「くっくっくっくっ、くっとぅるー」とか笑ったり(クトゥルー)、いろいろあります。ドゥルーズの「批評と臨床」とか、「哲学とは何か」を読んだことが出てきたりもしている。そういえば以前にも「ドゥルーズガタリ 交差的評伝」という厚い本を読んでいたなあ。

いつもの通り素早い馬場さんの感想。
『猫ダンジョン荒神(前篇)(すばる2010年9月号掲載)』(笙野頼子):馬場秀和ブログ:So-netブログ
「先のことを考えると、不安と期待が交錯して、どきどきしてきます」には同感。

参考文献はまたもモモチさんがまとめています。
「猫ダンジョン荒神(前篇)」参考文献メモ | ショニ宣!
新しく追加されたものとしては以下。

石の宗教 (講談社学術文庫)

石の宗教 (講談社学術文庫)

「石の宗教」については、猫ダンジョンを語る際に触れられている。

琵琶法師については、後半の方でちょっと関係しそうなネタが出てきていた。歌や踊りが国家に収奪されるというような文脈で。「琵琶法師」はまだ読んでいないけど、著者兵藤氏は、「<声>の国民国家・日本」(文庫化に際して改題)で、浪曲師桃中軒雲右衛門などを題材にしながら、ベネディクト・アンダーソン国民国家論では印刷技術の発達が「想像の共同体」を作り出したとされているのに対して、日本では浪花節浪曲の浸透(ラジオも関係していたっけか)がその「想像の共同体」の成立に関与した、というような議論を展開していたと記憶している。この芸能と国家の関係がおそらく再度出てくるだろうと予想できる。

〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代 (講談社学術文庫)

〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代 (講談社学術文庫)

琵琶法師と関連して熊野、熊野信仰も重要な意味を持ってくるのかも知れない。