サイモン・シンの文庫三作

ようやくサイモン・シンの文庫化されたものを一気に読んだ。どれもこれもが面白い。

フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

特にこの第一作は絶対面白いだろうという題材をきわめて良質な叙述で描き出していて圧倒的なでき。学説の発展、展開という科学の側面と、個々個性的な研究者たちのドラマとを両立させている。

もちろん、現代数学の最先端理論を扱うわけで、理論自体が素人に理解し切れるはずはないのだけれど、それが数学界においてどういう意味があって、どういう風にすごいのかということをじっくりと解説してくれるので、数学わからなくても充分に面白い。数学がわかるならより面白いだろうけれど。

ある学問的発見がいかにしてなされたか、誰がどういう理論を展開し、どう発展していったのかというドラマをじっくり行うには、やはり短くてはダメで、ある程度以上の長さが必要だろう。本書は五百ページの分量をたっぷりと使って無駄なくそして丁寧に、議論の歴史、人々のドラマを描き出している。

この手の科学ノンフィクションの成功例としてはグールドの『ワンダフル・ライフ』を思い出した(著者自身の説は支持されていないにしろ)。

本書はアンドリュー・ワイルズという人物の人生においても、数学史においてもきわめて重要な瞬間から説き起こされている。フェルマーの最終定理を証明したという発表が行われたときだ。そこから遡り、彼がいかにフェルマーの定理に魅了されたかを描きつつ、フェルマーの定理がどういう問題なのかということを、ピタゴラス以来の数学の歴史をひもときながら丁寧に説明していく。

フェルマーの最終定理」は数百年間、数学界の謎としてあったわけだけれど、近年はむしろあまり重要でない問題という扱いをされていた。それが現代数論の最先端の問題として浮上するきっかけになったのは、「谷山=志村予想」という予想を証明することが、フェルマーの定理の証明になるという道筋が見つかったからだという。このあたりから数学理論のわけのわからなさ、そしてその面白さがよりいっそう増していく。

谷山=志村予想というのは*1、「すべての楕円曲線はモジュラーである」というものらしく、「楕円曲線論」と「モジュラー形式」という異なる二つの分野で用いられている別の概念が、実は同一のものだ、という主張。で、この「モジュラー形式」というのがトンでもない。

数学広しといえども、モジュラー形式ほど奇妙で不思議なものもめずらしい。モジュラー形式は、もっとも難解な数学的対象のひとつなのである。しかしその一方で、二〇世紀の数論研究者マルティン・アイヒラーは、これを五つの基礎演算の一つに数えている。すなわち、数学の基礎演算は、加法、減法、乗法、除法、そしてモジュラー形式の五つだというのだ。278P

そのモジュラー形式の特徴というのが、無限の対称性だという。

谷山と志村が研究したモジュラー形式は、どれだけずらしても、切り替え、交換、鏡映、回転をほどこしても、その前後でまったく変化がみられず、数学的対象としてもっとも高い対称性を持つのである。
(中略)
 残念ながら、モジュラー形式は紙の上に描くことはもちろん、頭の中に思い浮かべることすらできない。正方形のタイル張りであれば二次元平面内に収まるから、x軸とy軸によって定義することができる。モジュラー形式も二つの軸で定義されるが、その軸は二つとも複素軸なのである。 283P 強調引用者

複素、というのは実数と虚数のペアであらわされるものらしい。虚数が混じる存在って、どう想像すればいいのやらわからん。このモジュラー形式のわけわからなさがすごくてたいへんエキサイティング。無限に対称ってどういうことだかさっぱりわからないけれど、数学的にはそうなんだろう。こういうわけのわからなさって、特に太字にしたところとか円城塔の小説を読んでいる時に感じるものに酷似している。たとえば「レフラー球」っていうアイデアとか。円城塔のわけわからない面白さって、こういう数学理論のわけのわからない面白さにインスピレーションを得ている部分があるのかも知れない。

このモジュラー形式と楕円曲線論の思いがけない共通性が、数学界においては非常に衝撃的なことだったらしく、現代数論の中心的課題とも見なされていたらしい。なんか、とんでもないことだったらしいということがなんとなくわかる。

で、この谷山=志村予想とフェルマーの定理が密接に関係しているらしいという発見をきっかけに、アンドリュー・ワイルズの挑戦が本格始動していくことになる。ここからのワイルズの孤独な戦いもすごいけれども、詳しくは実際に読んでもらうに如くはなしということで。

あと違う意味で面白かったのが、フェルマーの定理と谷山=志村予想の結びつきを証明したケン・リベットがまさにその証明を突破したワンシーン。どうしても完全な証明にできないというリベットの悩みを聞いたバリー・メーザーが、何を言ってるんだ、「(M)構造のガンマ・ゼロを加える」だけで解けるじゃないか、といって、リベットがあっけにとられながら、どうして「(M)構造のガンマ・ゼロを加える」だなんて簡単なことがわからなかったのか、と返したシーンが、あまりにも何を言ってるんだかわからなくて笑ってしまった。ここで解説のシンさんによると

「(M)構造のガンマ・ゼロを加える」というのは、ケン・リベットにとっては簡単なことかも知れないが、カプチーノを飲みながらそれができるのは世界でも一握りの数学者だけだ。それはきわめて難解な論理の一ステップなのである。313P

ということらしいけれど、この下り、完全にいわゆる厨二病の世界にしか見えなくてもうなんだか。マジ天上の戦い。ドラゴンボール後期の戦闘って、空中でぶつかってる衝撃波だけが見えている感じになっていくけど、まさにアレ。


読み終えると、数学すげえ、人間すげえって気分になる本当にドラマティックな一冊。題材と叙述のコンビネーションは奇跡的とも言えるだろう。いや、他に類書読んだ訳じゃないんだけれども。

暗号解読

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

続いて、古代以来連綿とつづく暗号とその解読をめぐる歴史をたどる『暗号解読』。史上現れた様々な暗号を丁寧に解説していくなかで、頻度分析その他数学的処理が解読の要として用いられている様子を描いていくので、本書もいわば数学もののノンフィクションといえるか。暗号の歴史とともに、戦争、通信、コンピュータの歴史もが密接に絡んでいき、最終的には原理的に解読不能の暗号、量子暗号にまで到達する。

暗号とその解読は人間同士の戦いなので、戦争をめぐる記述がとても多いのが特徴。政治的謀略、外交などが絡み合った人間味に満ちた知恵比べの歴史だ。解読、ということで暗号ではなく、シャンポリオンによるヒエログリフ解読や、クノッソス宮殿から発掘された粘土板に刻まれていた線文字Bをヴェントリスらが解読したプロセスなども詳しく紹介されているのもいい。同じ粘土板にあった線文字Aの方はまだ解読されていない。後述のビール暗号もそうだけれど、未だ解読されない文章が幾つかあって、その点もロマンをかきたてている。

込み入った話を丁寧かつわかりやすく説明する解説力の高さと、興味深いエピソードを絡めて歴史をたどる語り口のうまさは充分に発揮されていてこれもまた非常に面白い。さらに、これは訳者も書いているけれど、陰に隠れがちなものをきちんと正当な評価を得るべく拾い上げる視点の良さがとてもいい。前作にも見落とされがちな女性数学者の話が書かれていたけれど、今作でもその難解な言語を暗号として役立てるべく戦ったアメリカ先住民、ナヴァホ・コードトーカーの話がとても興味深い。解読する以前に、聞き取れず表記することすらできなかったというから、暗号の強固さが伺われる。

また、未だ解読されない二千万ドルの埋蔵金のありかを示した「ビール暗号」というものが実在しているというのも面白い。金鉱を発見した人間が、その場所と、分け前を受け取るべき人間の名前を書いておいた暗号を残して消えた。その書類を残された人間はなんとかして解読を試みたものの、まったく歯が立たず、自力での解決をあきらめて公開されたのだけれど今以て解読はされていない。この暗号は書籍暗号と呼ばれるもので、本のなかで出てくる単語に順に番号を振っていって、単語の頭文字を番号に置き換えて文章を作る。これを解読するには、鍵となった書籍そのものを探し出さなければならない。三枚ある暗号文のうち、二枚目はアメリカ独立宣言が鍵で、どのようなものが埋められているのかはわかっている。これ、日本で言うところの徳川埋蔵金だよなーと思って読んでいた。

戦争に関わる暗号解読の作戦は機密扱いされて近年になるまで全貌が不明だったとか、解読用に作成されたENIAC以前のコンピュータが存在したとか、現代史の裏面が覗ける。また、チューリングが出てくるくだりは前作とも共通する内容だけれど、そこに至る前史をしっかり書き込んでいて、かなり違った印象になっているのはさすがだと思わされる。

現代の暗号についての部分では、PGP公開鍵暗号といった話題が扱われている。特に、公開鍵暗号の仕組みはなかなかすごい。これは桁数の大きな数の素因数分解というものが非常に困難(宇宙論的な時間がかかる)だという一方向関数の仕組みを使って、暗号化の鍵と復号化の鍵を別個に持つことを可能にし、暗号化の鍵を公開し、復号化の鍵を誰にも渡さないことで、鍵の共有という暗号の原理的困難を解決したシステムだ。

その暗号システムを用いたPGPについて描いた「プリティー・グッド・プライバシー」の章は、インターネット時代の個人のプライバシーと国家の安全保障の関係をPGP訴訟に絡めて語っていて非常に興味深い。フィル・ジマーマンは公開鍵暗号を誰にでも簡単に使えるように、PGP(章タイトルの略語)というソフトを開発し、公開したのだけれど、これが武器の非合法輸出とみなされ告発された。アメリカ政府は暗号化ソフトを軍需品に指定していたからだ。

ここに、市民的自由、プライバシーの立場から暗号規制に反対する人々と、解読困難な暗号が広まれば犯罪やテロに対する盗聴が困難になるとして規制を求める人々との対立が生まれる(ちなみに、暗号規制に反対する人のことをサイファー・パンクということがあるらしい)。歴史的にも、政府による恣意的な盗聴とその情報を利用した策謀(有名な例として、FBIがキング牧師の私生活を盗聴して入手した情報を使って、その評判を落とそうとしていたことが指摘されている)が存在したけれど、誰もがネットを利用する現代では監視が容易になり、さらなる人権侵害が起こるのではないか、というのが暗号自由派の危惧だ。ただでさえ国際的盗聴システムエシュロンの存在が指摘されているわけで、すでに日常的な盗聴は行われていると思われる。インターネット社会では、暗号とプライバシーの問題はきわめて日常的な問題になっていることを思い知らされる。

このジレンマについては、鍵を委託する第三者機関などを用いて、対立を調停する仕組みなどが模索されているようだけれど、なかなか難しそうだ。著者は、大衆が恐れるのは、政府なのか犯罪者なのか、と問うていて、時勢次第で振り子は大きく揺れるだろうと見ている。ここのあたりの記述は911以前に書かれているので、その後の議論は大きく規制側に傾いているんじゃないだろうか。

最後に出てくるのは量子暗号なのだけれど、これがなかなかすごい。これ説明が難しいので詳細は本文にあたってほしいけれど、量子の観測問題不確定性原理というか)を暗号に利用するシステムで、暗号が傍聴されたかどうかもわかってしまうという特徴もある。読んでいて、こんなの実用化はいつになるんだよ、と思っていたら、すでに小規模なものなら利用可能なものができているのだというからびっくりした。原理的に解読不能なものらしく、暗号の歴史はここに終わるかのような語り口で本書は終えられている。

政治外交からインターネット社会の私たちの日常にまで話題が広がる暗号解読の歴史として、とても面白い。

宇宙創成

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

思えば、中学生の時友達の家で相対性理論の解説漫画か何かを読んだかをきっかけに、図書室で目についたブルーバックスの相対論、量子論宇宙論素粒子論の本をわかろうがわかるまいが延々と読み漁っていた*2ことがあったけれど、それから十年以上まったくそこら辺を読むことがなく、しばらく前に井田茂氏の本で宇宙論概説を読んでからこれは復習しておきたいなと思って見つけたのが本書だ。

ハードカバー時はタイトルが『ビッグバン宇宙論』で、その通りにビッグバン理論の解説に焦点を当てたノンフィクションになっている。最近の本はどれも超ひも理論とかもっと多様化した最新宇宙論の話を扱うものが多いようだけれど、本書はビッグバン理論が定説となるあたりで終わっている。宇宙論の新しい本だと思って読むと話題の古さにがっかりするかも知れないけれども、エピローグや訳者解説にもあるとおり、本書が焦点としているのは、ビッグバン理論という説が、いかなる紆余曲折を経て定説となったか、ということを上下二巻に渡って綿密にたどることにある。

この点、数学を扱った前作などとは異なる点だ。シン自身『フェルマーの最終定理』で書いていたけれど、数学における証明は永遠で、一度証明がなされたら後から覆されるという性格のものではない。対して、自然科学における仮説は、つねに反証される余地があり、天動説から地動説、ニュートン力学から相対性理論、というように、新しい理論が現れることによって研究が進んでいく。

サイモン・シンは以下のように述べており、科学的方法が機能するとはどういうことか、というのが本書の狙いだということが読みとれる。

ビッグバン宇宙モデルは、二十世紀に成し遂げられたもっとも重要かつ輝かしい科学上の偉業といってまず間違いはないだろう。しかしその一方で、ビッグバン・モデルが初めて着想されてから、練り上げられ、検討され、検証にかけられ、証明され、最終的に広く受け入れられるまでのなりゆきは、ごく一般的なものだったと見ることができる。(中略)ビッグバン・モデルの発展は、科学的方法が機能するときの典型例だったのだ。291P

その科学的方法の特徴として、訳者は、人は間違うということをあらかじめ組み込まれており、集団的努力によって間違いを修正しながら前進できることだと述べている。

類書を比較していないのだけれど、ビッグバン・モデルのライバル、定常宇宙論が非常に大きく扱われているのは、試行錯誤のプロセスとしてなくてはならないものだからだろう。研究の進展ごとにビッグバン・モデルと定常宇宙論、どっちが整合性のある説明をしているか、というチェック表を用意して、当時の研究者たちにとってどっちが説得力があるように映るのかということまで検証しているという念の入れようだ*3

定常宇宙論の提唱者で最後までビッグバン理論を受け入れなかったフレッド・ホイル、批判するために「ビッグバン」と呼んだことがそのモデルの広く受け入れられたネーミングとなった皮肉の体現者でもある彼は、論敵ながらもビッグバン理論の躓きの石だった元素合成の難問を解決する貢献までしている。他にも、定常宇宙論を正当化するための御都合的な理論を提唱したツヴィッキーが、一方でダークマターの存在を予言したりとか、人でその理論を判断することの愚を印象づける。

他にも科学的検証のパターンとして、これまでの説では説明がつかないような新たな観測事実があるとすると、それらを整合的に説明する仮説を立てるだけではなく、未だ知られてないような事象を予測できるかどうか、というのが問われる。アンテナから入る雑音を少しでも減らそうとしても、どうにもなくならないノイズが、その実二十年以上前に理論的に予言されていたものだった、という宇宙マイクロ波背景輻射の発見のエピソードは予測の裏書き、という点でも、さらにその発見に至るプロセスは、偶然から元々探していたものとは別のものを発見する能力、セレンディピティの典型的な事例でもある。

こうした試行錯誤、論争による理論の検証、洗練、意外な発見などの紆余曲折をたどることで、「科学的方法」とはいかなるものなのか、ということを具体的に読者に追体験してもらうことが眼目なのだろう。だからこそ、宇宙論全体を通覧するのではなく、ビッグバン理論にのみ焦点を絞って、具体的な科学的議論のプロセスを詳細にたどるというスタイルを選んだというわけだ。


そして、上下二巻に渡って十分な紙幅をとってなされる解説は、どこをとっても非常にわかりやすい。基礎的な部分からそのメカニズムがきちんと伝わるように書かれているのと、各理論、発見の様子もその絶え間ないトライアンドエラーのプロセスを含めて具体的に述べられているので、発見のドラマとわかりやすい説明が同居したものとなっている。

他にも物理学史の入門書のようなものをいくらか読んだけれど、ここでの説明は他のに比べても抜群に詳しく丁寧で、結果的にもっともわかりやすいものとなっている。宇宙論の最初の一冊としていいんじゃないだろうか。


いろいろ面白いエピソードはあるけれど、膨大な量の写真を解析しカタログを作る作業を行った女性の集団、「ピッカリングのハーレム」の話は特に印象的。なかでも、当時知られていた変光星のほぼ半数を発見した「変光星の魔人」ヘンリエッタ・リーヴィットが、変光星の一種セファイドの変光周期と光度が関連していることを見出し、その結果、天体間の相対距離を知ることが可能になった過程は面白い。天体の距離、そして宇宙の広さを測るきわめて重大なワンステップを踏み出したこの発見は、あまり取りざたされることがなく、リーヴィットの知名度も低い。スウェーデン科学アカデミーが1924年に、彼女のこの発見に対してノーベル賞にノミネートしようと調査を始めた*4とき、その三年前に既に亡くなっていたことがわかる、というほど天文学界では地味な人物だった。

もう一人、ジョージ・ガモフが論文著者名をアルファ・ベータ・ガンマの洒落にしたいとして何の貢献もしていないハンス・ベーテを加えたことで、著名な二人の名前に隠れてしまい、ビッグバン理論形成に重要な貢献をなしながらも正当な評価を得ることができなかった人物だとラルフ・アルファーを描いているところも、リーヴィットと並んでシンならではの視点が光る。

やはり非常に面白い。しかし、これ以降の理論の進展を知るには何を読めばいいのやら。とりあえず『エレガントな宇宙』とかでいいのだろうか。佐藤勝彦とマーカス・チャウンの本は手に入れたのでそのうち読む。


というわけで三作どれも面白く、一気に読めた。

*1:今はもう「定理」と呼ばれている谷山・志村の定理

*2:『タイムマシンの作り方』とか故都築卓司の本とかを読んだ覚えがあるけれど、それ以外の本はタイトルも思い出せない。南部陽一郎の『クォーク』はおそらく読んでいたはずだけれど

*3:ビッグバン・モデルが忌避されていた原因として、それが宗教的創造主を認める理論だと見なされていたことが指摘されていて、科学上の研究であっても支持不支持にはそういうバイアスがかかりうるということがわかる

*4:調査をしていた人物としてミターク=レフラーという数学者の名前が出てくるけど、上でも名前を出した円城塔の「Boy's Surface」のレフラーって、この人由来なのだろうか