アイヌ関連本メモ

ここ数ヵ月ざっと読んでいたアイヌ史や関連本についてメモ。相変わらず読みやすいものばかり読んでいる。

桑原真人、田端宏、関口明、船津功 - 県史1 北海道の歴史

北海道の歴史 (県史)

北海道の歴史 (県史)

手始めに北海道の歴史を読む。アイヌ史も密接に関係してくるし、開拓の歴史等も押さえられる。最近市町村合併に伴う新版が出たことで、内容的に特に違うわけではないだろう旧版が安い。

近世から近代へかけての北海道の最大の産業は、鰊漁を中心とする漁業で、大半を鰊粕が占めていたという。この後に読んだ知里真志保の伝記には、真志保自身が鰊を買って帰る様子を書いた絵があるのだけれど、その一枚の絵の背景に北海道の鰊漁の盛衰が見えて面白かった。

藤本英夫 - 知里真志保の生涯

知里真志保の生涯―アイヌ学復権の闘い

知里真志保の生涯―アイヌ学復権の闘い

近年亡くなられていた藤本氏によるアイヌ伝記三部作のうちの一つ、知里真志保の伝記。アイヌに生まれ、言語学者となった真志保の生涯を、直接の知人等への取材を通じてたどっていく。アイヌ出身の学者、という近代のもたらす挾み撃ちの生涯を生きざるを得なかった人物像がきわめて興味深く、三部作中もっとも面白いものになっていると思う。
元は新潮選書版だったものの再刊で、姉妹編の知里幸恵伝の新版と照らし合わせて重複部分を削っているらしい。また、新潮選書のさらに昔に、講談社から同題で出ており、それが原本ということになると思う。

藤本英夫 - 銀のしずく降る降る

銀のしずく降る降る (新潮選書)

銀のしずく降る降る (新潮選書)

アイヌ伝記三部作その二、知里幸恵伝。この人は若くして亡くなったことで近現代のアイヌの象徴的な人物と化している感がある。この本も、草風館で再刊されたあと、さらに別題で全面改稿したものがある。こちらも関係者への取材を含めてかなりの調査がなされている。

藤本英夫 - 金田一京助

金田一京助 (新潮選書)

金田一京助 (新潮選書)

アイヌ伝記三部作のその三は、知里姉弟と密接な関係をもつ金田一京助の伝記。今の日本語にも影響を与えている金田一京助の研究のかなりの部分を占めていたのはアイヌ研究で、その面を主軸に追っていく。啄木との交友も知られているけれど、生活が苦しいのにもかかわらずアイヌの人を家に住まわせて研究に明け暮れるなど、奥さんは非常に苦労したことが書かれているのが印象に残る。ユーカラを採取しようと死の床にある老人に酒を飲ませて事切れる寸前まで謡わせるというような、学問の暴力そのもののようなシーンもあり、素朴な善意は疑うべくもないけれど、それゆえに問題なところも多い印象だ。三部作ともに、人物からたどる近代アイヌ史ということでどれも面白い。私は勝手に三部作と呼んでいるけれど、この本だけは他から再刊されていない。

平山裕人 - アイヌ史を見つめて

アイヌ史を見つめて

アイヌ史を見つめて

北海道の小学校教師をしている在野の研究者によるアイヌ史。A5版で500ページと大部のうち前半部分はアイヌ史の個別論点についての突っ込んだ議論を、後半に通史的概説を置いている。最初の章で、アイヌ語とみなされる地名が、北海道だけではなく本州全域、沖縄にも見つけられる、だからアイヌ縄文人が北に追われてオホーツク文化の影響を受けて形成されたもの、というような議論があって、地名のみから民族の起源を推論するやり方がトンデモ臭くて、これはまずいの掴んじゃったか、と思ったのだけど、他は結構面白いしまともな感じ(そこでの結論自体は他の学者も言っていることだったりするんだけど、過程がね)。他の本では触れていないような論点にもじっくり取り組んでいて、面白い部分も多い。歴史学者による学術的な研究もフォローしつつ、個別論点を追っているし、記述も非常にわかりやすく、入門書的にも、アイヌ史の論点のリファレンスとしてもいいんじゃないかと。

児島恭子 - エミシ・エゾからアイヌ

エミシ・エゾからアイヌへ (歴史文化ライブラリー)

エミシ・エゾからアイヌへ (歴史文化ライブラリー)

これは面白い。さまざまな史料にあらわれるアイヌの絵、画像を実体的なものとみることを批判し、それは日本人のアイヌ観の現れでしかない、というのを様々な史料の分析を通じて明らかにしていくというもの。いろいろアイヌを描いたものはあるけれど、それを容易に実像を描いたものと見なすことの問題を指摘している。

蝦夷の図像は蝦夷の実像であるとはいえないのであり、蝦夷のイメージを表現したものとしかいえない。このようなイメージこそが、蝦夷という言葉の実体であるということができる。106P

本書の表紙になっているのは有名な蠣崎波響の『夷酋列像』(カバー裏には「御味方蝦夷之図」とある)のイトコイだ。実際には波響はイトコイを見ておらず、蝦夷錦に赤いロシアの軍服を着せられているこの図像には濃厚な政治的な意図が現れている、というのは夙に指摘されている。つまり、この絵は政治的意図(あるいは文化的偏見)が描像を規定するという仕組みを如実に示している点で、まことに本書にふさわしいカバーとなっている。

アイヌ問題は、アイヌの問題ではなく、アイヌをみる日本人の問題だと捉えるべきなのは、他のマイノリティ問題にも共通する話だ。アイヌ史を一度相対化する効能があるので、どっかで一度は読んでおいたほうがいい本じゃないだろうか。

いちおう本書は入門書的な性格のシリーズの一冊として書かれたものだと思うのだけれど、著者の文章は分かりやすい結論を軽々しく書かず、とてもストイックでぶっきらぼうだ。それでいてところどころでぐさりと一撃を食らわすところもあったりして、抑制された学者らしい文章だと思う。

菊池勇夫 - エトロフ島

エトロフ島―つくられた国境 (歴史文化ライブラリー)

エトロフ島―つくられた国境 (歴史文化ライブラリー)

千島列島のひとつエトロフ島が、国境創出のなかで分断され、それがいかなる変容をもたらしたかをたどる。ラッコ猟で知られた場所が、ロシア人退去のためにラッコ猟渡海を禁止され、鮭鱒漁への転換を余儀なくされ、幕領期からの社会変容の結果として、19世紀なかごろにはエトロフ島の人口が半減している。国境による分断という近世から近代にかけての変化を特定の地点から眺めたものとして、興味深い本。

菊池勇夫 - アイヌ民族と日本人

アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地 (朝日選書)

アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地 (朝日選書)

同じく菊池によるもので、タイトルは漠然としているけれど、内容としては近世を中心にしたアイヌ史の概説、というべきものになっている。副題にも見られるように交易を重視した叙述になっていて、肥料として用いられる鰊粕などの分析を通して、近世後期の国内経済の発展の起爆剤は、蝦夷地産物の生産、流通にあると指摘するところなどが面白い。

佐々木馨 - アイヌと「日本」

アイヌと「日本」―民族と宗教の北方史

アイヌと「日本」―民族と宗教の北方史

副題を「民族と宗教の北方史」としていて、アイヌの宗教的問題を扱うのかと思ったけれど、対アイヌ政策のなかで宗教がどう用いられていたか、というような視点になっていて、どうも個人的な期待と食い違っていたため、あまり印象に残らず、面白いとは思えなかった。内容もあまり覚えてない。金成マツ、知里幸恵などがクリスチャンだったことなどについての議論ってないのかな。

瀬川拓郎 - アイヌの歴史

アイヌの歴史 海と宝のノマド (講談社選書メチエ)

アイヌの歴史 海と宝のノマド (講談社選書メチエ)

擦文文化からアイヌ文化期への変遷を、考古学の観点から跡づける試みとなっていて、遺跡の分布、発掘された遺物から、どういう生活形態だったのかなどを類推していくのが楽しい。縄文社会から、日本との共生の体系でもあるアイヌ社会への転換は、南から律令国家「日本」、北からはオホーツク文化、中国に挾まれた場所で生き抜くなかで選ばれた進化の道筋だった、と言う指摘がある。

金田一京助 - ユーカラの人びと

ユーカラの人びと 金田一京助の世界1 (平凡社ライブラリー)

ユーカラの人びと 金田一京助の世界1 (平凡社ライブラリー)

真志保の伝記等を書いた藤本氏の編集による金田一京助アイヌにまつわるエッセイ集で、どれも非常に興味深い。藤本氏の著作でたびたび触れられていたエッセイ(「近文の一夜」とか。前から思ってたけど、このタイトルって本居宣長賀茂真淵の出会いをいう「松阪の一夜」、教科書にも載っていたというこの有名な話を下敷きにしたものだよな)がいくつも収録されているので、アイヌ伝記三部作の前に読んでいた方が良かったかとも思う。

アイヌの集落に着いた時、集まってきた地元の子供達とコミュニケーションを取れるまでになる文章は、この手の紀行文の定番みたいなものだけど、やはりとても面白いし、アイヌ語を知っているだけに他の人とは違うコミュニケーションを取れることの面白さがある。かといえば、かなりの時間をおいて再訪した時、当時の子供達の成長を目の当たりにすると同時に、死んだ子供も多くいることがわかる場面など、アイヌの容易ならざる生活が露わになっているところもある。

南極探検に同行した山辺安之助にかんするエッセイなど、当時のアイヌ社会についても色々実体験に即した話の他、金田一京助自身の動機や研究のあれこれも知ることができ、アイヌ言語学の近代をさまざまに伺うことができる。

死の床にある老人に酒を飲ませてユーカラを筆録していたものの、老人の絶命によって中断したことを書いたエッセイなど、このユーカラはもう永久に失われてしまったのだ、という悲劇的なドラマになっているんだけれど、これはこれで学者の研究対象への暴力が如実に表れた場面でもあり、あんまり素直に感動できるものではない。以下に紹介する佐々木昌雄は、この時点で他にもこのユーカラを覚えている人はいた、という指摘をしていて、京助の姿勢の問題点、欺瞞を突いている。

よく知られた啄木との交友や、研究のため家に何人ものアイヌを泊めたり、家族が窮乏してもなお自らの研究に邁進するところなど、素朴な善意をあえて疑うわけではないにしろ、その無邪気で素朴な学問への姿勢がどうにも危ういところでもあるだろう。

京助始め「アイヌ学」が「近代」のさまざまな問題を含んでいたことは色々指摘されている通りで、だからこそアイヌ知里真志保アイヌ研究を行うという矛盾を生きた生涯を書いた『知里真志保の生涯』が、藤本氏のアイヌ伝記三部作のなかでもっとも興味深いものになっているわけだ。

知里真志保 - アイヌ民譚集

アイヌ民譚集―えぞおばけ列伝・付 (岩波文庫 赤 81-1)

アイヌ民譚集―えぞおばけ列伝・付 (岩波文庫 赤 81-1)

真志保によるアイヌ民話集が岩波文庫で出ていたのは全然知らなかった。幸恵の神謡集ばかり取りあげられててこっちは品切れ状態だけど、こっちももっと取りあげられてしかるべきでは。前半は「パナンペ説話」と呼ばれる、正直なじいさんが成功したのを真似してやろうとして失敗する意地悪じいさん、のパターンの話の様々なヴァリエーションがアイヌ語のローマ字原文と日本語訳の並列で載っている。後半は、「えぞおばけ列伝」としていろいろなばけもの、妖怪の話が和訳のみで沢山載せられている。民話らしく下ネタが甚だしく、陰茎が海を渡り松前まで届いて、女たちが物干し竿と勘違いして高い着物を掛けられたのを引き戻し、裕福な暮らしをした、というようなとんでもない話が平気で載っているので楽しい。もうひとつ、善玉パナンペと、悪玉ペナンぺという二人がこのさまざまな話形の主要人物なんだけど、ある話では、妻を欲しがっていた相手を騙して笑うために女装して家事をやったりしたら、ついに本当の女にされてしまって、パナンペと女になったペナンぺが夫婦仲良く暮らしました、とハッピーエンドになってるものがあり、これは普通に驚愕する。自由すぎるだろ。

川村湊編 - 現代アイヌ文学作品選

現代アイヌ文学作品選 (講談社文芸文庫)

現代アイヌ文学作品選 (講談社文芸文庫)

文芸文庫で出た現代アイヌ文学作品集とのことで、知里幸恵、真志保、バチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市、鳩沢佐美夫ら、アイヌを自認する人々の作品、それもエッセイ、ユーカラ、短歌、弔辞といった雑多なジャンルの作品が収録されている。一般に文学というとイコール「小説」ということになりやすいなかで、この雑多さは挑戦的で良いとは思うけれど、そもそも「アイヌ文学」という括りで小説集を一冊編むほどの素材がない、ということなんだろうか。作品選定もまずはアイヌで著名な人物を先に選んだ観がなきにしもあらず。ある程度知られているなかで、アイヌの小説家というと鳩沢佐美夫しかいないのだろうか。私が知らないだけでもっと居そうなものだけれど。というか、アイヌだということをあえていわない人もいる、というマイノリティの問題がからんでいるのかもしれない。それもまた「アイヌ文学」の困難さか。

作品は唯一の小説(山本多助のも小説で良いとも思うけど)、鳩沢佐美夫の「証の空文」が一等印象に残る。他に違星北斗の短歌は、貧困層の問題が多々書き込まれていて、その点バチェラー八重子の短歌と鋭い対照をなしている。森竹竹市の短歌は、適者生存の言葉が出てくるように、モーリス=スズキの記事で書いたような、「滅びゆく民族」意識が前提されているところがなんともいえずもの悲しい。

同じ文芸文庫では同編者によって沖縄文学の選集が出ているけれど、アイヌ文学は北海道文学とはまた違うカテゴリになる。北海道文学作品選も出すか、和人がアイヌを描いた『「アイヌ」文学』作品選が必要なんではないか。鶴田知也武田泰淳(長篇だけど)、向井豊昭、他に何が入れられるだろうか。

岩田宏編 - 小熊秀雄詩集

小熊秀雄詩集 (岩波文庫 緑 99-1)

小熊秀雄詩集 (岩波文庫 緑 99-1)

向井豊昭が頻りに言及する詩人小熊秀雄の詩集。アイヌを描いた「飛ぶ橇」収録。詩はやはりどうにも読み方が分からないのだけれど、闘争的な言葉の奔流が爽快。特に「しゃべり捲れ」という詩の「沈黙が卑屈の一種だといふことを 私は、よつく知つてゐるし 沈黙が、何の意見を 表明したことにも ならない事も知つてゐるから――。私は喋る、」というくだりが良い。自分が沈黙がちのタイプなだけに。なんとなく、「詩は、饑餓に面した明朗な野からより他に私には生まれぬ」と言った牧野信一を思い出す。

鳩沢佐美夫 - コタンに死す

アイヌ文学のうちで、最初の小説家として知られる鳩沢佐美夫の作品集。死後出版の遺稿集のような形で出たようだ。特に興味深いのは「遠い足音」。これは幼少期のアイヌの子供の生活を一年ずつ書いたような構成の作品で、何も知らぬ子供が、いかにして「アイヌ」にさせられていくのか、というのが描かれている。いじめっ子たちから嘘つき呼ばわりされたり、臭い、とか毛深いとか、いわゆるアイヌに投げかけられる偏見をぶつけられ、当初はなぜそんなことを言うのかが全然分からず困惑するばかりで、また貧乏な少女をはじめは哀れんでいたのに、同類に見られたくないばかりにいじめてしまう痛々しい場面など、戦時中から敗戦までのアイヌの少年が置かれていた状況がよく描かれていると思う。他にも「F病院にて」という、アイヌを嫌う和人の視点で書いた作品も面白い。緊迫感ある「赤い木の実」はちょっと分からないところもあるけど、岡和田氏が連載している「未来」の向井論では次回、これを扱うとのことで楽しみだ。

解説が非常に秀逸で、これは佐々木昌雄が書いている。この解説まで含めて講談社文芸文庫あたりで是非とも再刊すべき作品だろうと思う。

佐々木昌雄 - 幻視する<アイヌ

幻視する“アイヌ”

幻視する“アイヌ”

言論紙「アヌタリアイヌ」創刊にたずさわった佐々木昌雄の詩と批評、エッセイを集成した一冊。これを編集した内川千裕はアイヌ関連の出版で知られる草風館の館主にして、上掲の鳩沢佐美夫の作品集を編集した人物でもあり、佐々木昌雄らとともにアヌタリアイヌ創刊にも関わっていたという人物。内川氏は食道癌となり、自身の余命幾ばくもないことを知って、この本を編むことにしたのだという。佐々木自身はある時忽然と姿を消し、著作のすべてを内川に任せる、と言い残していた。出版に至る経緯も非常に複雑な一冊。

収録されている文章はどれも「アイヌ」を考える上で非常に重要な問題を提起しているのだけれど、特に、「「アイヌ」なる状況」や「この<日本>に<異族>として」といったアイヌアイヌであるというのはいかなることなのかを問う文章の切れ味は素晴らしい。そもそも、佐々木は自身を直截に「アイヌ」だとは名乗ろうとしない。文脈から見て、自身がアイヌだと言うことを前提にしているのは明らかなのだけれど、自らアイヌだと名乗らされること自体を問題にする佐々木の議論においては、そうした直截な言明は退けられる。

さらに、金田一京助ら「アイヌ学」にひそむ偽善を突く「<アイヌ学>者の発想と論理」においても、常に見られる側として位置づけられた側から、見ることの暴力を批判する。アイヌ学がそもそも、「滅びゆく」アイヌ文化を掬い取ろうとして始まったものという金田一らの動機について、アイヌが滅びるのがそんなに重大なら、なぜアイヌ文化が流通するような地域を作るというような発想が存在しないのか、と問う。同時に、金田一の「無意識の偽善」を突く下りは、彼の素朴な善意の感じられる文章を読むと、確かにその通りと思わされる。「シャモ」と「アイヌ」、見ること見られることといった、対立図式の一方を常に和人の側が占有していることの露呈と批判によって、現状の欺瞞性を突く犀利な批評意識が芯にある。もちろん、この批評の射程には私もまた含まれているということは忘れられるものではない。

個人的には以下の文章を思いだした。

見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる痛みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。

弱者への愛には、いつも殺意がこめられている――

それぞれ安部公房箱男』と『密会』から有名な部分を。箱男の部分は、後半はこう続く。

しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。

既に記事にしている二冊については以下に。
上村英明 - 先住民族の「近代史」 - Close to the Wall
テッサ・モーリス=鈴木 - 辺境から眺める アイヌが経験する近代 - Close to the Wall

アイヌ史の手頃な概説としては、考古学の瀬川拓郎『アイヌの歴史』、中近世では海保嶺夫『エゾの歴史』と菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』、近現代の小笠原信之『アイヌ近現代史読本』で古代から近現代までざっとカバーできるか。さらに概括的なものとしては、平山裕人『アイヌ史を見つめて』と山川の『県史1 北海道の歴史』なんかで両側からフォローしつつ、児島恭子『エミシ・エゾからアイヌへ』も一読すべき、と。どうだろうか。

その他の個別論点についてはちょっとまだ読んでいないものが多いけれど、アイヌの状況論として佐々木昌雄の『幻視する<アイヌ>』は重要だと思う。