武田泰淳 - 森と湖のまつり

森と湖のまつり (講談社文芸文庫)

森と湖のまつり (講談社文芸文庫)

知里真志保のいた北海道大学に勤めていたこともあり、よく話をしていたという武田泰淳が、アイヌを題材に書き上げた大作。1958年に刊行された作品で、連載は全25回、四年にわたるもの。1953年の40日に及ぶ取材旅行から生まれた作品だけれども、取材直後には「ひかりごけ」を書いたばかりで、まる一年書き出すことができなかったという難産の末に生まれた作品でもある。

以前*1から読もうと思っていたものだったのをようやく読んだわけだけれど、なかなか評価に困る作品でもある。『風媒花』がそれほど面白くなかったという以前の記憶や、武田泰淳の長篇で散漫さや構成の破綻がしばしば言われたり、さらには佐々木昌雄による否定的な評価等を事前に知っていたので、大丈夫かなと思いながら読んでみると、まあ結構面白い。なんというか、アイヌにかんしてかなりの取材をしていることが反映されているし、割合にサクサク読めてしまうのもある。

人物と概要

加えて、前の記事で書いたような本を読んだ上で読むと、それぞれの登場人物にけっこうモデルがあるんじゃないかと考えられて楽しくもある。たとえば、統一委員会という作中の重要機関の委員長の池博士というのは金田一京助がモデルになっていると思うし、池博士の弟子にあたり、アイヌながらも高い教育を受け、池博士とすれ違う風森一太郎は、博士との関係等もあわせて知里真志保っぽいし、一太郎の姉でキリスト教徒の風森ミツは、知里幸恵あるいはその母の金成マツあたりがモデルになっているように思える。そして最大の主人公といえる画家の佐伯雪子は作者自身の分身だろう。まあ、こういう推測は大概、作者自身の私的なあるいは別の人物がモデルだったりしたりとかして、あまり当たるものでもないけれど。

そうした登場人物たちを配し、統一委員会とそれに対立する、アイヌながらもそのことを隠して日本人しか雇わない成り上がり者や、毎年一太郎に殴られる塘路の旅館の主人などなどの間の抗争が、塘路の「ベカンベ祭り」をまえに激化していく状況があり、佐伯雪子がその渦中に巻き込まれていく数日間というのがだいたいの物語になる。

中心にあるのは統一委員会と対立者との派閥間抗争なわけだけれど、統一委員会というものがいったいどんな代物なのかが不分明で、この主題については判然としない。作者もここらへんの題材をうまく扱えなかったのか、それともそもそもの資質としてか、物語は登場人物らの恋愛、性的関係に決着をつける形でまとめられることになる。どうにも未消化の伏線もあり、最後まで考えずに書き始めたらしく、やはり構成上の問題が大いにある。

シャモの視界

まあ、結構面白いとは書いたけれど、それ自体ちょっと問題でもある。どういうことかというと、結局これはアイヌの激しい内部対立を覗き見している面白さでもあるからだ。さまざまな風俗、貧困層に陥っているアイヌの人々、和人との複雑な関係等々、情報としての面白みは同時に、見るだけの退屈さとも表裏一体のものだ。当時観光文学と揶揄されたというのも、作品の性質をある面で正しく捉えていると思う。

そもそも、主要な作中人物として登場する二人の人物、池博士と佐伯雪子は、学者と画家、というともに見る側というポジションをあからさまなまでに体現した設定となっている。池博士はアイヌの女性と結婚し逃げられるという過去を持っていたり、佐伯雪子もアイヌの男と関係をもったりすることはあるけれども、客人的な立場から降りるわけではない。雪子は特に、画家でもあり、最大の視点人物でもあり、取材旅行した作者の足跡を辿ってもいるらしく、特に見る側の人物として焦点化されている。

つまりここではほとんど和人がアイヌを見るばかりで、内容もアイヌの内部対立がずうっと書かれているという形になっている。佐々木昌雄は以下のように本作(と石森延男『コタンの笛』)を評する。

これらの二つの作品は、とにもかくにも“シャモ”からの“アイヌ”像を提出している。そして、その像はこの“日本”の共同的な“アイヌ”像から逸脱していない。それは何故か。おそらく、二人の作者が“シャモ”として在る者と自らを意識したとき、その在り様を“アイヌ”を描くことによって確認しようとしたことにアポリアがあると思われる。まず描き出すべきだったのは、“アイヌ”に対して“シャモ”として在る者自身ではなかったか。
『幻視する<アイヌ>』232P

このことは統一委員会をめぐる話にも言える。統一委員会の問題というのは現在のアイヌがどうするべきか、という問題の対立でもあり、ひいては日本人がアイヌとどう向き合うか、という話でもあるはずなのに、この委員会を話題はほとんど放置されてしまう。さらにその抗争を眺めるのは学者と画家で、これでは話が広がるはずもなく、「滅びゆく民族」という前提をそのままに、アイヌ内部の抗争と恋愛問題に矮小化された結末を迎える他なくなってしまう。

視界に走るノイズ

ただ、見る側、という設定に対する問題意識自体は、以下に引用するようにまったく忘れられていたというわけではない。

……世の中にはまあ、二つの立場があるんだ。見る側になるか、見られる側になるか。和人は見る側、アイヌは見られる側、今のところ、そうなってしまったんだ。見られたり、いじくられたりする側は、どうしたって見る側、いじくる側とはちがった立場なんだ。タヒチへ行ったゴーギャンは結局、最後まで見る側だったんだ。146-147P

と池博士は言う。佐伯雪子はそれに対して、壁をこわすのがあなたの仕事ではないかと問うと、池は、そのはずだけれど、自分は壁をなでているだけで、むしろ自分で壁を作っている気がする、と答えている。「最後まで見る側だったんだ」と書かれた通りの結末になっているように思う。

池博士という人物は、あるいは金田一京助そっくりにも思える訳だけれど、彼の書かれ方は、善良な学者というものを戯画化したような雰囲気があり、頼りにならない人物という印象だ。佐伯雪子もまた、絵を描きたいだけだなどといっているばかりで、受動的で生彩を欠いている。二人ともにあまり魅力がなく、むしろ愚かしい人物だという描かれ方をしているように思う。そして、佐伯雪子の書いたアイヌは、祭の日を前に何ものかに切り裂かれてしまう。池博士のアイヌ研究も終盤で損害を被るなど、ところどころで「見ること」へのノイズが走る場面があることは確かだ。

しかし、それはついにノイズのレベルに留まる。

シャモの視界の限界

作中に以下のようなやりとりがある。

「私は、ただ絵を描いているだけよ」
「それが、だけですまくなるから見ていなさい。第一、アイヌを絵にかくということが、そもそもだけじゃないんだから」
375P 傍点を太字に

アイヌを小説に書くと言うことも「だけですまなくなる」ことのはずだけれど、どうにも書きあぐねてしまっていると思う。前回も引用した安部公房の、「見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ」というダイナミクスをついに導入することができなかったというか。武田泰淳の『司馬遷』は後藤明生が衝撃を受けた本でもあり、彼の「楕円」というキーワードの大元でもあるのだけれど、本作にはそうした契機が欠けているとやはり思う。

これは何も作中でも少しだけ触れられていたようなアイヌ独立の話を書けというわけではなく、また、アイヌの視点から書けというような話でもなく、作者はシャモの視界を対象化し相対化することができなかったのではないか、ということ。その意味で『森と湖のまつり』は、シャモがアイヌを描くということの限界がいかに現れているのかを見ることが出来る作品ともいえる。この限界と挫折を経て、それを織り込んでアイヌに対する自分を書くのが、向井豊昭の「アイヌ」文学ということになるかと思う。

とはいっても、すでに五十年以上も前の作品で、時代的な背景を考えると先見性はあったのかも知れない。当時の状況はよく分からないので何とも言えない。最近も本作を再評価する本とかが出ていたみたいだけれど、もう手に入れられない風だ。この記事では批判的に見てきたけど、どう評価されるのかということは気になる。文庫の解説でも作家案内でも、どうも余り高く評価できない、という前提で書かれているような隔靴掻痒の感があるし。

手元には埴谷雄高解説の新潮文庫版もあって、それには周辺地図があるのに文芸文庫版では削除されているのはいただけない。

*1:ひかりごけ」を読んだ後でアイヌものだと意識せずに手に入れていたから、十年ほど前か