サムコ・ターレ - 墓地の書

墓地の書 (東欧の想像力)

墓地の書 (東欧の想像力)

墓地の書 サムコ・ターレ(著) - 松籟社 | 版元ドットコム
松籟社<東欧の想像力>第八弾は、スロヴァキアの作家サムコ・ターレによる2000年発表の長篇。現代文学としては珍しいベストセラーとなり、東欧全体で見ても体制転換後に出た作品としてはトップクラスに海外でも翻訳刊行されている作品でもあるという。

舞台になっているのはスロヴァキアの都市コマールノ。ドナウを挾んでハンガリーと接するこの町は、1919年までは対岸のハンガリー領コマーロムと一つの町を構成していた。そのためかスロヴァキア系と六割を超えるハンガリー系住民が混住しており、さらにドイツ系やジプシー(今はロマと呼ぶのがいいんだけれど、ここでは作中表現に倣う)らもいる。

信頼できない、ユーモラスな語り手

<東欧の想像力>のなかではボフミル・フラバルの『あまりにも騒がしい孤独』のような、一人称の語りで最後まで貫徹していて、体制崩壊後を現在時として語り手のスロヴァキアでの生活の今と過去を思い出すままに語っていくスタイルだ。そしてその語りというのが、「知的障害」を持ちダンボール回収の仕事に従事する四十代の男性サムコ・ターレによるものというのが大きな特色になっている。ダンボール集めの荷車が壊れたうえに雨が降っていて仕事が出来ないあいだだけ、アル中の占い師に予言された通り、作家になる、というわけでその日の間に書かれたのが本作、ということになる。作者としてクレジットされているサムコ・ターレは作中で『墓地の書』を書いている当の人物でもある。

訳者あとがきでの表現に従って彼を「知的障害」と呼ぶけれど、文章そのものは小学生が書いたような幼さとたどたどしさがありつつも、かなりちゃんとした文章になっている。これがそういう障碍を持つ人間の語り口としてあり得るものなのかどうかはよくわからない。なんといってもこれは語りの方法として選択された文体ということは前提として考えなくてはならない。作中の設定としてはサムコ・ターレは「阿呆が通う特殊教育校」に入れられそうになったことがある、ということになっている。

サムコによって度々繰り返される「尊敬されている」「知性的」「金持ちだ」というような自己評価は、頻りに繰り返されることによって、そうではないのではないか、という疑いを持たせてしまうことになる。わざとらしい見栄を張ることで、語られない裏側があるように見えるわけだ。このような構図は作品全体を覆ってもいて、語り手が何か隠していたり、あるいは事態を正確に把握できていない様子だったりする場面がある。ために、叙述に曖昧さと不正確さが疑われ、いったい自分が読んでいるこの作品世界は、じっさい(作中の他人からの視点等)とはまるで違うのではないかという不穏さが漂うことになる。「信頼できない語り手」のパターンの一つといえるだろう。

それでいて、語り手の大きな関心となるのが笑い、ユーモアで、自分は笑いが分かる人間だというのが自負の一つとなっている。「サムコ・ターレ、ウンコターレ」という訳文にしてははまりすぎのサムコに対する罵倒文句を始め、ハンガリー語ジョーク、ドイツ語の歌の文句等の言葉遊びが豊富に詰め込まれていて、多民族環境のなかでの多言語状況が笑いにも反映されている。同じことを妙な形で繰り返したり、行きつ戻りつするすっとぼけた文体による奇妙なリズム感が全体を覆い、「そうだろう? そうだとも。」や「ほかにもいろいろ。」といった口癖、決まり文句を随所に差し挾み、妙なうねり方をする朴訥な文体は、知的障碍者によるヴォネガットとでもいうような独特の雰囲気を生み出している。

『あまりにも騒がしい孤独』での故紙潰しという仕事には今作の語り手と似たものを感じるのだけれど、ちょっと前まで同じ国だったチェコ文学のフラバルをパロディした可能性はあるのだろうか。

作中では様々なエピソードが累々と披露されていくのだけれど、そのなかで繰り返し現れるもの二つ挙げたい。一つは差別、もう一つは密告だ。

日常的差別感情

特に多いのは、語り手がきわめて素朴に差別感情を露わにするところだ。目立つのは同じダンボール集めをしていながら、回収所の男性と性的関係にあるため状態が悪いものを引き取ってもらえるジプシーの女性を「雌ネズミ」呼ばわりして嫌っているというもの。ジプシー問題は東欧でもしばしば話題になることで、本作でもジプシーに教育を行おうとしたものの、帰り際に当のジプシーに持ち物を盗まれたアメリカ人のエピソードが出てくる。

ハリー・H・トリーは、ジプシーはジプシーであるためにスロヴァキアで迫害されていると言って、さらにぼくたちはみんな同じなのであり、スロヴァキア人とジプシーは区別されないと言った。だけれども、たとえかれがアメリカ出身で、そのせいでみんなが彼を尊敬していたとはいえ、スロヴァキア人とジプシーは区別されないなどと言うべきではなかった。だって、みんなむっとしてしまって、もうかれが子供たちに教えるのを望まなかったから。
 ぼくもむっとした。120P

彼はこのために予定より早く帰ることになり、その時にジプシーに持ち物を盗まれたのだけれど、それでもこのアメリカ人がジプシーとスロヴァキア人は区別されないと主張していることを、語り手は不思議がっている。さらに、自分はまったく人種差別主義者でない、なぜならテレビの映画でインディアンや奴隷に対して人種差別主義的な人がいると腹が立つし、罰せられるとうれしいからだという。しかし、年の近い姉について、語り手はこう述べる。

かのじょはとても変わっている。なにしろ、かのじょとジェブラークは、ハンガリー人のこともチェコ人のことも罵らないのだから。でも、ジェブラークの父親はチェコ人なので、罵らないのは当然だ。そうでなかったらきっと罵っただろう。もし罵らないひとがいると、みんなはそれに気づいて、そのひとを信用しなくなる。怪し気だからだ。
 ぼくは怪しくない。だって、罵るから。
 でも、決してインディアンや奴隷にたいしてではない。ぼくは人種差別主義的ではないから。
121-122P

絵に描いたような「人種差別と黒人が嫌いだ」理論なんだけど、非常に素朴なかたちでカジュアルな差別が描かれているのが興味深い。他にも「ホモ、レズ」が家族にいなくて良かった、とかハンガリー人をかばう姉を「恥じ入」りさえする。これは個人だけのことではなく、家族やみんなとの関係のなかでこうした認識が共有されているらしいことを示唆している。

社会主義体制下の密告屋

もう一つが密告。序盤から繰り返し出てくる人物としてグナール・カロル博士という共産党の人物(訳者あとがきでは「書記」)がいるのだけれど、サムコは博士に繰り返し会いに行く。生活のなかで誰か他人が禁じられていることをしたりすると、彼は「それを告げなかったことで、ぼくに悪いことが降りかからないように」と、それが外国のラジオ放送を聞く父のことであっても、策を練って徴兵を回避した家族のことであっても、グナール博士に告げに行く。彼が特殊学校に入れられずにすんだのも、グナール博士に告げたからだった。

「なんでもかんでもかれに話すと約束した」サムコは繰り返しいろんなことを博士に告げに行くわけで、何でもすぐに告げに行くサムコの姿は、無邪気なだけに読んでいて非常に不気味だ。告げに行ったことで、またまわりでいろんな影響が出たりもするのだけれど、この密告がこの作品最大のキーとなる事件を起こしたらしいことがだんだんわかってくる。

序盤から繰り返し、時には一行だけ、グナール博士の娘ダリンカ・グナーロヴァーと昨日会った、という話が出てくる。会ったからなんだ、というわけではないのだけれど、「会った」ということが非常にインパクトを与えたらしく、すぐに話は迂回し、ダリンカがどうしたのか、ということにはまったく話が進まない様子は、これがサムコにとってきわめて語りづらい事情が背後にあるということを示してしまう。このことと密告の関係は読めばある程度わかるのでここには書かないけれど、この『墓地の書』そのものが昨日サムコがダリンカと会ったことを受けて書かれている様子がうかがえる。

しかし、この密告をサムコ自身は特に悪いことだと思っていない。むしろ、そんなサムコを利用しているらしい様子のグナール博士がとても怪しい。

体制転換後のスロヴァキア

この密告は同時に、90年代を舞台にしたらしい社会状況をも描き出す。ある男が「ひとを罵る場合にだけ使うようなしるしを」荷車に描いたことにサムコは憤慨する。

それでぼくはすごく腹が立って、だってミツァ・フェルディナントは薄汚くて、どこでも働いていなくて、働いていないことでお金を受け取っているからで、ぼくはグナール・カロル博士にかれがどんな絵を描いたか、問題になるように言いつけに行った。
 そんなことを荷車に描くのは禁じられているのだから。
 ところが、グナール・カロル博士はミツァ・フェルディナントのことはどうにもできないと言った。なぜなら、われわれはこういう民主主義を望んだのだから。これを望んだのはわれわれなのだ、と。
 でもぼくは、そんなものは望んでいなかった。ぼくはグナール・カロル博士に、世の中じゅうの誰ひとり、スロヴァキアの誰ひとり、イワナとジェブラークを除いて誰ひとり、そんなものは望んでいなかったと何遍も話した。だって、みんな共産党が好きだったのだから。
 だって、共産党はとてもすばらしかったから。 182P

共産党がまだあった時分には、グナール・カロル博士はきちんとすることができた。だって、彼は上のひとで、上の人たちはきちんとすることが義務だったから。だからダリンカ・グナーロヴァーに関しても、かれはきちんとしたのだ。だって、ぼくがかれに告げたから。だって、いつも話してくれるようにぼくに言っていたから。だってかれはいつも、ぼくがどうするべきかを知っていたから、かれに告げたのだ。だって、ぼくはどうするべきなのか、教えてほしかったから。 197P

社会主義体制から民主化したという時代の変化は、サムコらにはこうした形で現れている。「お上」がいて、何をすべきかがはっきりしていたし、権力が問題をどうにかすることができた、サムコはそういう時代を懐かしがっている。

この時代、市場経済への移行に伴い、失業率の増加や税負担増、物価上昇、犯罪率の増加といった社会的不安定さが目立つようになり、またジプシー差別の先鋭化が指摘されている。これらの問題は、明示的にというよりは、その当事者としてサムコなりの視点から語られているのは上掲引用にも見た通りだ。そうした社会情勢が背後にあるとはいえ、障碍を抱える人間の視点から描き出すというかなりひねった技法が加えられていて、単に社会情勢を描くのではない。

体制転換後のスロヴァキア社会の日常を、笑いと知的障碍者の視界によって描き出すことで、奇妙に歪んだかたちで映し出しているわけだけれど、これはあるいは、サムコ・ターレという書き手の姿をこそ描き出す手法と見るべきだろうか。90年代の四十代というのは共産党政権とほぼ同い年になるわけで、これは共産党とともに生き、密告をしたりジプシーを差別したり、その時代を懐古したりもする「庶民的」スロヴァキア人の自画像なんだろうか。なんにしろ、この独特な語りの視点によって、語られる世界と語る主体を双方ともに浮かび上がらせることになっているのが面白い。

表紙に使われているイラストは、作中でも出てくるスカーフをつけていて、サムコ・ターレそのものを描いたと思しい。元々は四枚組のオーディオブックのジャケットイラストのようだ。このデフォルメされたサムコの姿は、そのままこの作品の雰囲気を良く表していると思う。障碍を持つ語り手という設定から生み出されるユーモアと不明瞭さがとても独特な面白い作品だ。

しかし、スロヴァキアではこれはいったいどういう受け止め方をされたのだろうか。これが東欧でのベストセラーというのは、体制転換にかかわる日常的な雰囲気をすくいとっているからなのだろうか。そこら辺がよくわからない。そうした作者あるいは作品の背景情報を解説などでじっくり読んでみたかった。なにしろ、情報が少ないわけだから。


また、上にも書いたように、作中人物サムコ・ターレによって書かれた本作の著者としてサムコ・ターレがクレジットされているということで、なかの翻訳クレジットを日本語で書くと、ダニエラ・カピターニョヴァー作「サムコ・ターレ作『墓地の書』」、みたいなことになっている。語り手のサムコ・ターレ自体がひとつのフィクションで、発表時には奥付に小さく「ドラマツルギー担当 ダニエラ・カピターニョヴァー」と記されていたそうで、それは日本語版でも踏襲され、奥付にさりげなく書かれている。

サムコのイラストは複数あるのが検索するとわかる。日本版で使われたものの他、スロヴァキア語版や英訳版の表紙やほかにもいろいろ。
Kniha o cintoríne - Samko Tále - Google 検索
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なお、『ペインティッド・バード』に続き本作も松籟社の本作担当編集の木村さんから御恵贈いただきました。ありがとうございます。

そういえば、旧版だけれど『東欧を知る事典』を安価で入手できたので、早速二個所ほどで活用してみた。どこかはすぐ分かると思う。