後藤明生 - この人を見よ

この人を見よ

この人を見よ

文学フリマで本書の担当編集様に出会ったというわけで、夏には入手していたものの文学フリマ出展の作業に専念するため先延ばしにしていた本書をようやく読んだ。以前に序盤は読んでいたので、谷崎潤一郎『鍵』が重要なのは知っており、他にもついでに読んでいなかった谷崎作品をいくつか読んでおいたのだけれど、『鍵』以外はほぼ言及もなく終わった。他にもいろいろ言及される本などはあるけれども、事前に読んでおいた方が良いのは『鍵』だ。

平成版『壁の中』

壁の中

壁の中

本書は元々、文芸誌『海燕』に一九九〇年の一月から九三年の四月まで、一度の休載を挾みつつも延々四年間、全三十九回にわたり連載されていた作品で、後藤明生近畿大学文芸学部の教授から学部長になるとともに中断され、そのまま未完となっていたものだ。ほぼ二十年の時を経て単行本化された。この頃から九九年の逝去に至る十年間は、後に『しんとく問答』にまとめられる連作短篇を断続的に発表したほかは、死によって途絶した『日本近代文学との戦い』連作四篇ほどがある程度で、晩年のまとまった作品としては非常に重要なものだろう。

前に書いたけれども本書を一言で言えば、平成版『壁の中』だ。騒々しい対話の中でさまざまなテクストを読み、繋げ、逸脱と脱線の限りを尽くしながら自由気ままに展開していく『壁の中』の再演というに近い。『壁の中』も五年に渡る連載で一七〇〇枚に及ぶ大長篇だったわけで、その完結から五年でまたもやこのような大作に挑戦するというのは、よほど後藤明生はこの手法、方法に愛着があったのだろう。

以前、後藤明生のもう一つの未完作品『日本近代文学との戦い』を読んだ時は我ながら不審を感じるほど微妙だったので、少々不安があったのだけれど、読んでみてこれは非常に面白かった。後藤明生流の与太話的テクスト遍歴による裏文学史を存分に味わえるという点で、後藤明生の真骨頂のひとつだろう。

私はいちおう後藤明生の小説は『使者連作』以外はすべて読んでおり、『壁の中』も確か三度ほど(二度か?)通読しているはずで、そういうわりと酔狂な部類の後藤明生ファンの視点からの感想としては、とても面白いし、もっといくらでも続けて欲しいし、この未完が非常に悔やまれる、ということだ。かなりのってきているところで終わっている。

『鍵』と三角関係

内容の概観をしておくと、まず主人公の男は、東京在住ながら大坂へ単身赴任していて、週末には東京に戻ってくるという生活を送っている。そして、週末にはカルチャーセンターへ通い、そこである作家の文学講座を受講しており、そこに通っているR子という女性と不倫関係にある。その不倫をきっかけにして主人公「私」はインポテンツから回復し、妻とも夫婦生活も復活した、ということが語られている。

さらに、「私」とR子の年齢は、谷崎潤一郎『鍵』の「僕」と「郁子」の年齢と同じ、数え年五十六歳と四十五歳だということになっており、『この人を見よ』の「私」と、『鍵』の「僕」とは露骨に重ね合わせられている。この点で、『鍵』は本作で言及される他の文学作品等に比べて特権的な位置にあり、本作の屋台骨というべきものだ。その他の登場人物の関係もある程度『鍵』になぞらえているところがあり、さらに、作中で「私」たちが繰り広げる文学談義のなかでも『鍵』の谷崎による計算違い、小説としての失敗した部分がある、という論点が持ち出されているので、本作を読むにあたって『鍵』が必読だというのはそのためだ。

鍵 (中公文庫 (た30-6))

鍵 (中公文庫 (た30-6))

『鍵』はかなり要約が面倒な作品で、基本的には老教授が若くて性欲の強い妻を満足させようとして、妻に浮気させることで自分の性欲を掻き立てる策を弄する話、ということになるんだけれど、まずこの不倫関係によって燃えあがる欲望というところからなにやら倒錯的で、またさらに、小説の記述としては夫と妻の書いている日記が主体となるのだけれど、それをお互いが盗み読みしている。表向きは相手の日記を盗み読みなどしていない、という風に日記には書いているのだけれど、もちろんそれは相手が読んでいることを前提とした建前で、じっさいには盗み読んでいることで、夫婦の密かな共犯関係的合意による不倫というのが行われることになる。

秘密の日記をお互い盗み読みしているのだけれど、表向き読んでいないことになっている上で、ある種の演技として書かれた日記、という複雑な語りが被虐的、倒錯的欲望を描き出す、という相当に入り組んだ内容と形式を持つ作品で、確かにこれは面白い、というか後藤明生が入れ込むはずだな、という作品だった。内容の詳しい紹介はこちらを参照。

愛・賭け・遊び#51 谷崎潤一郎『鍵』を読む

その『鍵』に倣って「私」が書いている日記、というのが本作の基本的な語りの設定となっている。しかしこれは途中で架空シンポジウムが始まるうちに忘れられ、最後までずっと架空シンポジウムのまま終わる。まあ、そもそもこの「架空シンポジウム」というのがきわめて後藤明生的で、普通に言って意味不明の謎の形式だろう。「私」の日記のなかで、その前にもR子との「架空電話」という会話の空想をする部分があるのだけれど、こういう架空対話形式というのは後藤明生が得意としていた手法で、作中で永井荷風との対談を始める『壁の中』はじめ、他の作品にもたくさん出てくる。それはまあ後藤式に言うなら、対話によるズレによって脱線を繰り広げる形式でもあり、二つの中心を持つ楕円の形式でもあるわけなんだろうけれど、本作が『壁の中』と異なるのは、対話ではなくシンポジウムという三人以上の人間による会話になっている点だ。

対話からシンポジウムへ

これは非常に重要な部分で、なぜ本作の屋台骨が『鍵』なのか、ということにも関わってくる。『壁の中』ではそのテーマ的なものは端的に言って、日本近代の分裂=混血というか、ロシアと日本とで比較対照される、自国と西洋との間で引き裂かれる近代人、だった。分身、対話、そして自意識という私の中の私、つまりは二者間での関係が基本的なモチーフとして繰り返されている。

それに対して『この人を見よ』では、郁子への欲望を滾らせるために木村という娘の婚約者との不倫関係を望んでいる「僕」、の三角関係を持つ『鍵』を持ってきているように、三角関係が重要だ。作中でもっぱら論じられる『鍵』の論点の一つは、不倫関係と密接に関わる、木村と、娘の敏子の関係だ。夫と妻はそれぞれ日記を書いているものの、木村と敏子の考えは『鍵』のなかでは不明瞭なままだ。この謎。

そして、それと重ね合わされた「私」、「R子」、そしてカルチャーセンターの「スケコマ氏」こと「B」の三角関係だ。「私」が謎に思っているのは、「R子」と「B」に何らかの関係があるのかどうか、ということでもある。またそこにカルチャーセンターの講師の作家も含めた、複数の三角関係があり得る、と語られており、架空シンポジウムのそもそものきっかけはそこにかかわっている。

分裂、自意識を扱っていた『壁の中』に比べて開放感があるのは、そうした三角関係へ力点を置き直したからだろうと思う。またさらには架空シンポジウムに実は参加していた「声」というギリシャ劇のコロスみたいな聴衆の割り込みなどが発生して、会話がより多数へ開かれてもいる。端的に言って、この二者間から三者への転換が『壁の中』と『この人を見よ』の差異をなしている。同時に、分裂というテーマはつまり近代についての分析だったのだけれど、本作では『壁の中』のような「日本近代」への切迫した関心は見られない。『壁の中』にあったような中心的なテーマらしきものが、どうも感じられない。

これは、未完だからなのか、そもそもの企図としてそうなのか、これはわからない。作品規模をどのように見積もっていたのかも分からないし、もしかしたら本作は『壁の中』における第一部がまだ終わっていない状態なのかも知れない。

ニーチェの方の

この人を見よ (岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)

そもそも、何故『この人を見よ』なのか。どうしたってこの表題はニーチェの『この人を見よ』なんだけれど、作中ではニーチェすら出てこない。この表題は小説の逢着する地点を予示するものなのか。本書付録の『イエス、ジャーナリスト論その他』で、『この人を見よ』について、ある人物からあれは芥川の『西方の人』を意識しているのか、と聞かれて「あの場合はニーチェの『この人を見よ』」だ、と明言しており、なにかしらの曲折を経てニーチェが出てくる予定だった可能性は高いと思う。

私はいまちょうどニーチェのほうの『この人を見よ』を読んでいるところだけれど、これがどうして後藤明生のほうの表題に借用されたのかは今のところよくわからない。手塚富雄の解説によるとこれはヨハネ福音書の第十九章の五にある受難のイエスを指した言葉だそうで、今ざっとヨハネ福音書を見てみると、茨の冠をかぶせられて引き立てられたイエスを指して、ピラトがユダヤ人たちに言った言葉がこれだ。つまりこの表題は、聖書を引用したニーチェの引用だということがわかる。

作中では太宰はイエスに自分をなぞらえている、と論じられている。「如是我聞」では「旧約=パリサイ派としての文壇批判」があり、その後に志賀直哉批判があるのだけれど、太宰はこれを「反キリスト的なものへの戦い」なのだ、と書いている。この太宰と聖書への言及は聖書の引用となっている本作の表題からするととても意味深だ。ニーチェは「私はアンチクリストだ」とも言っており、とすると、この太宰とニーチェの対立は何かしらの伏線だろうとも思える。

こう考えてくると芥川のイエス論に言及する付録は、付録として非常に適切なものだといえる。

聖書といえばじつは『壁の中』にも正宗白鳥内村鑑三の関係を説明するところで出てくる。聖書とキリスト教をあいだに挾んだ三角関係が語られていて、『この人を見よ』を読んでいてこの部分を思いだし、本作はあの部分の延長線上にあるのかもなどと考えてもいた。
後藤明生メモランダム2(●正宗白鳥内村鑑三、そして西洋の三角関係)の節

何が面白いのか

わりと長々と書いてきたけれど、本作の何が面白いのかをもうちょっと具体的に書いておく。私は『日本近代文学との戦い』については、『壁の中』あったような、「脱線に脱線を重ね、何が本筋で何が脇道なのかわからなくなってくる奇妙な叙述が饒舌のなかで繰り広げられ、どこへ行くのかわからない緊張感を醸しだし、意外なもの同士がある時繋げられてしまうアクロバティックな鋭い驚きが」ないために、あまり面白くない、という風に書いた。本作にはそれがある。

まず、後藤明生というのは本書の付録としてつけられた評論を読んでみてもわかるように、非常に自己解説的で、しかもキャッチーなコピーを多用してさかんに自己流の文学論を語る作家だ。だから、彼自身の用いる「楕円」「二つの中心」「分裂」「千円札文学論」とかのキーワード、ツールは使いやすくそして後藤明生を簡単に説明してしまえる。私のこの文章も概ねその罠を逃れられてはいない。しかし、そうした後藤自身のワードを用いた後藤論はやはり安易なわけで、しかもそういうワードは後藤作品面白さそれ自体をあまり説明しない。

後藤明生の特に後期作品の面白さというのは、さまざまなテクストをまさに今読んで、読みながら新しいテクストへ繋がっていくところにある。いろいろなテクストが不意につながる驚きもさることながら、そのテクストの読みがまた非常に具体的というか、卑近と言うか、小説家的な想像力にあふれた冒険的な代物で、これがやはりとても面白いわけだ。

本作だと特に面白いのは、中野重治について書かれた部分だ。太宰や芥川、ドストエフスキーなんかは後藤が自家薬籠中のものとする作家たちで、いずれも『壁の中』にも出てきたし、論点もけっこう被っているところがあるけれど、中野重治は意外だった。さらに意外なのは、中野重治を出してきたものの、詩が少々出てくる以外はほとんど中野重治の小説などを読まずに、中野の志賀直哉論や、全集の年譜を延々読みこんでいくところだ。

特に年譜、それが文学賞パーティと葬儀への出席の記述がきわめて多いという独特さを強調し、高校生時代からの「訪問外交の才能」と評し、芥川に呼ばれて彼の家を訪れたと強調しているのはなぜか、というような細かい部分を延々と論じ合い、果ては転向文学者の戦略を浮かび上がらせる。年譜の記載からその作家の人間的な部分を想像し、「良心のシンボル」「戦後民主主義日本のスーパースター」中野重治を人間味あふれる存在として読み直していくくだりは、小説家の小説的読解として面白い。そして年譜を読んでいくなかで、何人もの現在忘れられた作家が現われ、それがまた意外な伏線として異質なもの同士を結びつける媒介ともなったりする驚きもあり、ここらへんは特に面白いところだった。

この下りは戦後の日本文学史の読み直しでもあり、もっと続けば別の話題に展開しそうな部分でもあり、このようなところで中断してしまったのは非常に悔やまれる。話題の途中だし。まあ、そもそも、中野重治が出てきたのは太宰の志賀批判からの思いつきみたいなもので、その話題の脱線ぶりも予想もつかないもので、しかしまた話題がとつぜん元に戻ったりもするので、ほんとうに油断ができない。

後藤の面白さというのは、こうした微細で具体的なテクスト読解の冒険と、それがさまざまに意外なつながりを辿っていく突然と偶然の出会いであって、本作ではそれが存分に発揮されている。こうした脱線につぐ脱線、その面白さを出すためにはやはりある程度以上の長さが必要で、だからこそ『壁の中』では飽きたらずにまた新たなテクスト遍歴型の大作へ取り掛かったんではないかと思う。

後藤ファンとしてはこういうものならいくらでも読み続けていたいと思える、そういう作品だった。

ひとつ、『壁の中』の「分裂=混血」「近代」みたいな、本作のキーワードを挙げるとすると、それは「三角関係」と「嫉妬」だろうか。これは『壁の中』でのキリスト教を挾んだ、正宗白鳥内村鑑三の三角関係を思い起こさせ、『この人を見よ』でも引用される太宰の「駈け込み訴え」で描かれるイエスとユダそしてマリヤの関係を連想させる。これはまた、もしかしたら中野重治の転向へも繋がっていくのではないか、という何となくの考えがあるのだけれど、どうだろうか。

本文からの引用もほとんどしていないし、まだ話題もいろいろあるけれど、どこまでも長くなってしまうのでとりあえずここら辺で終わっておく。

なお、作中で中野重治年譜の編者として名前の挙がった松下裕は、ちくま文庫版のチェーホフ全集を翻訳したロシア文学者で、中野重治研究でも知られた人だという。作中の記述だと、松下は弟子か編集者かそれとも研究者か、と話題になるけれども結局誰か分からないままになっている。松下裕はドストエフスキーの妻の回想なども訳しており、後藤なら知っていそうな人物で、ここで彼の素性が出てこないのは何かしらのやはり伏線なのかも知れない。

また、Facebookには後藤明生の娘さんがアカウントを作っていて、いろいろ身近な話題を投稿していてとても面白い。そこに出てくる編集Nさんが、文学フリマで会った人です。
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ついでに、後藤明生レビューに、以前書いた後期作品についてのメモ、「健康な歩行」をアップした。書いたのはもう八年前になるのか。第三回文学フリマに出した同人誌に書いた文章だ。