後藤明生 - 使者連作

使者連作

使者連作


というわけで、後藤明生最後の未読小説をようやく読む。古書価がずいぶんなものだけれど、わりと近くの図書館にあった。

本作は後藤明生が一九八四年十一月、韓国のシンポジウムのようなものへ招かれて旅行した時のことを題材にして書かれた連作。連載は翌年一月から八月まで全九回となっている。この連載時期は重要なので注意。

八日間のこの旅行で、後藤明生と思しき語り手は講演をしたりカクテルパーティをしたり、韓国内を観光したりしていて、各篇にはその時見聞きしたものごとがさらりと書かれているわけだけれども、ここで注意しなければならないのは韓国というのは元々朝鮮だったものの南半分で、後藤明生は帝国日本統治時代の朝鮮は咸鏡南道永興郡(現北朝鮮、金野郡)に生まれ、中学生の頃に敗戦を迎え引き揚げてきたということだ。これは外国となった生まれ故郷への旅、にも近い。

後藤読者ならそれを考えて身構えるところだけれど、冒頭の一篇「ブトールを知っていますか?」では、ソウルや釜山は初めてではないことなどが少々触れられる程度で、この旅行における個人的体験は抑えておいて、観光的一般的関心からソウルと釜山を訪れたい、ということにしておく、という風に書かれ、読者の関心をさらりと避ける。

日本と韓国のあいだで

それに続くのは、現地で出会ったパリ在住の韓国人画家から「ブトールを知っていますか?」と聞かれた顛末だ。画家はそのブトールに、個展を見に来て貰ったり、詩を書いて貰ったりしているらしく、語り手がそれは「ビュトール」ではないか、と返す。この読みのズレのエピソードを挾んで語られるのが、韓国と日本の狭間を示すいくつかのエピソードで、「タクワン朝鮮語」と称される日本なまりの韓国語のこと、日本人による韓国エッセイ、ソウルに留学する在日二世の小説の話をはさみ、関川夏央のノンフィクション『海峡を越えたホームラン』で書かれた在日韓国人の野球選手の話に及んでいく。

ここでは、日本と韓国に挾まれた在日の姿、またフランス在住の韓国人画家、そして韓国でハングルを見た語り手の目眩の感覚など、さまざまなものとのあいだでのズレ、混乱、目眩をもたらす、挾み撃ち的なありかたがいくつも示される。これはまた『挾み撃ち』で書かれた、日本に引き揚げた後藤が九州筑前の言葉をうまく言えず、「チクジェン」という土着の訛りを最後まで習得することができなかったエピソードを思い出させる。外国と母国、言葉の違和感。

作中で触れられているソウルに留学している在日韓国人二世の「女流作家」による小説について、作者はこう紹介している。

教室で当てられてリーダーを呼んだ二世留学生に向かって、「その韓国語は日本的な発音です」と教師が日本語でいうと、女主人公が立ち上がって、「その日本語は、韓国的な発音です」と言い返すわけです。
 また彼女は、自分たちは日本では韓国的な日本語を話すといわれ、母国に来てみれば、今度は日本的な韓国語を話すと批判される、などともいっていますが、この小説は韓国語に翻訳されて目下ソウルのベストセラーだという噂です。 13-14P

この篇のはじまりは「ビュトール」と「ブトール」の読み違いだったわけだけれど、パリ在住のビュトールに序文や詩を書いて貰っていた画家は「ブトール」と呼んでいた。現地ではもしかするとそう呼んでいるかも知れないし、その読みはパリ在住の韓国人的な発音なのかも知れない。それはともかく、この言語のズレと翻訳をめぐる作品は、ビュトールの翻訳者清水徹への、『書物の夢 夢の書物』贈呈への返答として書かれていることは、きわめて良くできた構成だというべきだろう。

ちなみに次篇はこの作で出てきたパリ在住の画家、李聖子への絵葉書、書簡によって構成されている。
http://www.seundjarhee.com/kor/poems
このURLは、ビュトールによる李聖子への詩の一篇、だと思う。李聖子は既に逝去しているらしく、公式サイトがその仕事をまとめている。

金鶴泳の仮名と吃音

そして、本書中もっとも印象的なのが第三篇目からの金鶴泳自殺を扱った二篇だ。群馬県生まれの在日韓国人作家、金鶴泳は一九八五年一月四日に自殺した。この作の語り手のソウル旅行の翌々月のことで、この連作が連載されている最中のことだった。そしてこの「最後の『朝食』」のなかで、語り手は金鶴泳の自殺を知った状況を語りつつ、自身の本籍地九州朝倉のことや、金鶴泳が溥儀に似ている、という話から溥儀の話に脱線したりしつつ、本棚から『新鋭作家叢書・金鶴泳集』を取り出して、後書きに目を通してみると、彼の後書きとして書かれた「一匹の羊」のなかに以下のような記述を発見する。以下引用記号ごと孫引き。

《たとえば私は、自分の名前に読み仮名をふさねばならないとき、「きんかくえい」とふることにしている。多くの同胞は、そうすることによって自分の民族的主体性を示そうとするかのごとく、朝鮮語読みの仮名をふっている。「金鶴泳」は、朝鮮語では「キムハギョン」と発音するのだが、私が敢えて「きんかくえい」と仮名をふるのは、朝鮮式の姓名を、そのように日本式に読むのが何か自分という人間の、内実を象徴しているようでふさわしいと思うからである》68P

語り手は、彼が自殺したのは、「きんかくえい」としてなのか、「キム・ハギョン」としてなのか、あるいは本名の「キム・クァンジョン」としてなのか、と疑問符を連ねる。アイデンティティの揺らぎが、文字通り複数の名前の存在によって露わとなる状況が示される。

この次の篇「そして彼らの言葉を乱し」では、シンポジウムでの金鶴泳の自己紹介について触れている。その席で彼が発したのは次のような言葉だった。

イルボンから来た、キム・ハギョンです 89P

この言葉は二重に驚きをもたらした。

 彼の自己紹介は、他の在日韓国人諸氏のものより、特に長くもなければ短かくもなかった。したがって、その点においても、彼の自己紹介は、異常でもなければ、異様でもなかったわけです。にもかかわらず、あの晩の自己紹介の場において、最も多くの出席者をおどろかせたのは、金鶴泳の自己紹介だったと思います。
 彼はまず、吃音者でないことによって、彼が吃音者であることを知っている人々をおどろかせました。そして、「イルボンから来た、キム・ハギョンです」という異様なる日本語によって、彼が吃音者であることを知らない出席者たちをおどろかせたわけです。異様なる日本語は、すなわち異様なる韓国語です。91-92P

在日を巡る二重言語状況を、アイデンティティの面から、そして「彼らの言葉」(これは日韓双方の語についていえる)を混乱させる異様な混成語によって描き出している。

この二篇は金鶴泳への追悼のようにも書かれていて、きわめて印象的な作品となっている。そして同時に、連載の途中でとつぜん起こった自殺によって、この作品の流れも変わっただろう。

死者連作

終盤は、「最後の『朝食』」で書くつもりだった、と予告されていたように韓国のシャーマンの儀式を見学した時のことがやや詳細に扱われ、「使者」の一篇では、その儀式で出てくる「あの世からの使者」が登場し、使者と死者の遺族との対話劇の様子を書いている。「ムーダン」というそのシャーマンの文化的な位置づけや、儀式の流れの解説などが述べられ、死者の通過儀礼や「死後婚」のことなども語られる。さらに最終篇「ナムサン、コーサン」のタイトルは、朝鮮で昔聞いた語り手の記憶を呼び覚ます、お経のような文句でもあった。死の儀式、墓、寺などが濃厚な死の印象を振りまいていく。

本作はつまるところ『「使者=死者」連作』という意味合いを持っており、韓国と日本のあいだを旅する自身や在日たちを描きつつ、その背後に死者の姿を映し出そうとする構成的仕掛けが施されている。金鶴泳の自殺はその構想としては突発的な事態だったはずだけれど、本作の使者がどうしても死者を連想させる点で大きな転回点ともなっている。日本と韓国のあいだで揺れ動くのは在日作家たちもまた後藤明生も同じで、使者として異国へと旅するなかで、その狭間の存在を思い起こしつつ、死者と生者の境界もまた浮かび上がってくる。

また、本作では詩歌、歌詞、あるいは短いフレーズが随所に差し込まれている。「ナムサン、コーサン」も、訛りの問題も、また語り手の口をついて出てくる歌やフレーズの存在は、『挾み撃ち』での早起き鳥やいくつもの歌、そして『この人を見よ』でも散在する唱歌の歌詞など、後藤作品における歌、音の存在を改めて思い起こさせる。あるいはこれは後藤の多用するキャッチコピーと関係して見直す必要があるかも知れない。どこかのエッセイで書いていた「ドストエフスキーではありません、トリスウィスキーです」というキャッチコピーを提案して却下されたというエピソードがあるけれど、後藤明生博報堂、平凡出版勤務を経て作家になったわけで、キャッチコピー愛好癖、歌のフレーズの多用等は、後藤の作品の特色の一つだろう。


読み残していたけれども、これはこれで非常に興味深い作品で面白い。さらりと読むと後藤明生的雑記、ぐらいなものに見えるのだけれど、やはり甘くはない。なお、帯には「紀行フィクション」と書かれている。
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これで後藤明生小説は全部読んだか。あとはエッセイ集等に結構読み残しがある。実は持っているけどまだ読んでいない本が一つあったり。

「母国語」の読み

さて、検索していたら小谷野敦氏が以下の記事を書いているのを見つけた。国会図書館では「金鶴泳」が「キム・ハギョン」で登録されているらしい。
「金鶴泳」の読み方 - 猫を償うに猫をもってせよ
「金鶴泳」の読み方・その2 - 猫を償うに猫をもってせよ
国会図書館では、「金鶴泳」の読みはもとより、「金鶴泳作品集成」のように書名までもを、その人の「母国語」読みでの資料が出現すると同時に、一斉にすべてを「母国語」に変えてしまう、という方針のようで、本人の生前の意志よりもそちらの規定が優先されているようだ。これは氏の言う通り問題のある運用で、そもそも群馬生まれの金鶴泳の「母国」って、何処になるのか。作家本人のアイデンティティのきわめて微妙なあり方を図書館規定でザックリ踏みにじってしまうのはどうなのかと。まあ、私は金鶴泳を一篇も読んではおらず、他所で上でも引用したような仮名の振り方を変えるような認識の変化がなかったとは断言できないので、そう強くは言えない。図書館というデータベースの運用にまつわる規定にはいろいろ理由があるだろうけれども、これはさすがになあ。

しかしこの母国語読み、というのも難しい問題で、たとえばポーランドからアメリカへ亡命したJerzy Kosinskiについて、日本では初紹介時のイエールジ・コジンスキー、また英語読みでジャージ・コジンスキー、そして母国語読みでイェジー・コシンスキととりあえず三通りの読みがあるけれども、これらのうちどれを選択するかは亡命作家のアイデンティティと絡んで微妙な問題になる。今は『ペインティッド・バード』がそうだったように、母国語読みを優先する慣習になりつつあるようで、とりあえず私もそれに従っていたけれど、金鶴泳の仮名の問題はそれを考え直させられる。本人による証言などがあればいいのだけれど、そう簡単でもないだろう。