笙野頼子 - 母の発達、永遠に/猫トイレット荒神

母の発達、永遠に/猫トイレット荒神

母の発達、永遠に/猫トイレット荒神

三ヶ月ぶりです。いろいろ忙しかったのですけれど、詳細はそのうち。

さて、本書は2010年から11年にかけて神変理層夢経の序章として雑誌掲載された「猫トイレット荒神」と、2007年と2012年に書かれた母の発達の続篇二作とをあわせて一冊としたもの。このような刊行形態となった理由は後で触れる。

前半にある「母の発達、永遠に」は、濁音編と半濁音編として発表された二篇を収録したもの。文庫で版を重ねている代表作『母の発達』は、「あくまのおかあさん」「いや、のおかあさん」「嘘の嫌いなおかあさん」「えべっさん(恵比寿さま)のおかあさん」「男のおかあさん」といった五十音の「母」を列挙しながら小話めいたエピソードを語りまくり、その荒唐無稽な運動の果てに母のイメージを改新していく快活な笑いが魅力になっている作品で、本書ではその濁音編と半濁音編として続きが書かれている。

母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

濁音編「にごりのてんまつ」は笙野頼子ならではの言語の自由すぎる使用法によって、濁音それぞれの母を制定する過程でのスラップスティックを描いており、思いもつかないような言葉同士の不意な結びつきが非常に面白く、ときに噴き出さざるを得ないような笑えるポイントもちょくちょくあって、楽しい作品だ。

しかし、濁音編と半濁音編のあいだには震災があり、半濁音編「母のぴぴぷぺぽぽ」では、「プ」で、「プルトニウムの母」と「プロメテウスの母」の対立が起こり、「冷静」で「理性」的で「公平」に原発再稼働を目指すプルトニウムの母が大手をふるってまかり通るというような、醜悪な権力と利権の姿をきわめて戯画的に描き出すようなものになっている。シリアスさと生々しさが前面化し、単純に笑えるというのとは異なる感触となっている。

ただ、興味深いのはここで『母の発達』の語り手ダキナミ・ヤツノが韓流ドラマを見ていることだ。そのドラマというのが韓国史を題材にした宮廷での権力闘争を描いたものらしく、そのドラマを「悪人が動かしていく世界」と指摘したり、歴史と記録、大義名分と改竄の問題を考えたりするなど、ヤツノが興味深く見ている様子が面白い。この問題はそのまま現在の震災での政府機関の動きに対する関心にもつながるものだ。そして韓流ドラマを見ることで、作品世界に作者が聞き覚えた韓国語が流れ込んで、文章を作る一つの新たな武器として用いられるようになる。これもひとつのポイントだろう。

そして、単行本に新たに書かれたブリッジ「そして境界線上を文(おれ)は走る」によって、神棚に祀られた「石」が現われ、「猫トイレット荒神」へと話は移ることになる。

「猫トイレット荒神」では、新たにエピグラフが掲げられ、そこでは宇野邦一ドゥルーズ論から、「答えのない問い」、「答え以上に重要な問い」について触れた文章が引用されている。これは「クイズ」から始まる「猫トイレット荒神」の問題意識を露わに示したものだ。

「猫トイレット荒神」については雑誌掲載時に書いた記事があるので、内容に触れたものとしてはそちらを参照して欲しい。周辺情報まとめとしてはモモチさんの記事を参照。
笙野頼子 - 小説神変理層夢経・序 便所受難品その前篇 猫トイレット荒神 - Close to the Wall
笙野頼子 - 小説神変理層夢経・序 便所神受難品 完結編 一番美しい女神の部屋 - Close to the Wall
『母の発達、永遠に/猫トイレット荒神』メモ:シリーズについて | ショニ宣!
『母の発達、永遠に/猫トイレット荒神』2月23日発売 | ショニ宣!
三回にわたって掲載されており、自然と三部構成になっているけれども、特に印象的なのは、最初は狂騒的な饒舌による奔放な語りから始まり、中盤では「地神ちゃん」の乗っ取り、と称する語りとして前篇とは位相を変えた語りになり、最後には「伴侶猫ドーラ」のとつぜんの死を受け、沈降と内省を専らとする語りへと移行するところだ。形式の破綻の内にドーラの死が埋め込まれてしまっているということ。後書き「物語は消え、文(おれ)は残る」で笙野はこう書いている。

老猫といられる貴重な時間を「永遠」に止める呪術として私はこの理層夢小説を書いていたのである。274P

けれども、不意の死による変調ゆえに、序章として書かれたはずの本篇は「神変理層夢経」シリーズからはじき出され、番外編として本書の形態で刊行された。

母の発達の続篇に続けたのは、どこかでひとつ、常世(とこよ)というか極楽的な救いに繋げたかったからかもしれないと思う。だってヤツノは死んでもまた生まれてくる。殺しても死なない母と共に。文章の中には生も死もある。時には現実を越える錯覚さえも。275P(括弧内はルビ)

いずれもやはり、国家や制度を、身近な場所から批判するスタイルによって書かれており、それは一つには言語、もう一つは生死の境としてのトイレ、境界線上にあるものとしてのトイレだ。その点ではやはり笙野は初期から一貫していて、近作では神や仏、権現といった歴史的宗教的モチーフが現われ、とっつきにくいと思われる向きも多いだろうけれども、この二作を並べて収録することでそれがよくわかるようになっている。

身辺からすべてを説き起こすという姿勢は、今作ラストでも再度強調されている。「神変理層夢経」シリーズから外されたことにより、雑誌掲載時の冒頭で「神変理層夢経」という言葉の解説をしていた部分がカットされているのだけれど、それを受ける形で置かれている小説最後の一文は、削られずにそのまま残っているところにそれがうかがえる。

そうそう、身辺を神変せしめるってこの小説の最初で言った。そして着地してここへ来たから。で、何を着地して語るというのか、だから日常を語るしかない。但し、神的日常を。

「この小説の最初で言った」の該当部分は単行本にはない(はず)。けれども以降のシリーズ開幕宣言でもあるこの文言は変えることはできなかったのだろう。コメントで情報提供頂いたように、111Pに該当部分はありました。

その上でこの二作をまとめているのは、作者も言うように、天国との往還というモチーフで、これはダキナミ・ヤツノの帰還と、死と生の境界線上の荒神と伴侶猫ドーラの逝去、というところだ。


しかし、本書の奥付には書いていないけれども、本作もかなりの改稿がなされている。「神変理層夢経」シリーズから外したための改稿もあるけれど、特に文章上のリズムを整えるための修正や、間投詞の追加が多いように見える。細かくは見ていないけれども、ほぼ全面的に手が入っているだろう。なるほどと思う修正点としては、雑誌版記事で引用した「嘘の力」というフレーズが、ドゥルーズを受けて「問の力」と変わっているところ。また、変わっていない点としては「八幡愚童訓」の誤記かとも思われた「八幡慈童訓」で、検索ではこのような表記を見つけられなかったけれども、意図的な表記変更か、私が未見の参考文献での表記を引用しているのかも知れない。