プロレタリア文学・葉山嘉樹、小林多喜二、中野重治

故あってプロレタリア文学をいくつか読んだので簡単なメモ。

葉山嘉樹 - セメント樽の中の手紙

セメント樽の中の手紙 (角川文庫)

セメント樽の中の手紙 (角川文庫)

教科書に載っていたとかで一部の世代にトラウマを残しているらしい表題作を含んだ短篇集。数年前、「ワーキングプア」がらみで「蟹工船」が脚光を浴び、角川文庫で「蟹工船」が出た翌月に出版されたもので、流行に目敏い角川らしいフットワークだ。葉山の文庫なんて岩波くらいからしか出ていなかったので、安価な角川から出ることで広く手に入りやすくなるのは非常に良いと思う。また、角川ホラー文庫のアンソロジーに収録された怪奇小説的な短篇が入るところも角川らしい。

プロレタリア文学というと素朴な労働者の困窮と悲惨を書いたもの、というイメージがあるかも知れないけれども、葉山の短篇は、寓意性を強調する設定の演出が上手いと思う。表題作「セメント樽の中の手紙」は、セメント工場で働く労働者が機械に巻き込まれてセメントになってしまった、と嘆く労働者の恋人の手紙が樽の中に入っていた、という作品。工場労働の悲惨をセメントにされるという非現実的で突飛なエピソードに凝縮し、それを手紙の文言というワンクッションをおいて真実性を宙づりにして提示して、信じがたい話にぞっとする感覚、を演出する怪奇小説的な話法を用いている。

また、「労働者のいない船」は、船の中で病人が出たのを放置していたら感染症が船内に広がっていき、感染者全員を隔離場所に投げ込んで見殺しにしていくことを続けていたら、ついには全員が死亡してしまう、という作品となっている。資本の論理による労働者の軽視がそのまま自滅をもたらすという寓話めいた展開になっており、短篇の形において効果的に表現するやり方をわきまえている上手い作家、という印象を受けた。

この趣向は出世作「淫売婦」で顕著に現われていて、プロレタリア文学的な問題意識をどのように小説として設定するか、ということにとても自覚的。ここらへんが葉山嘉樹をエポックとする見方の根拠なのだろうか。プロレタリア文学のなかでもっとも芸術的センスに優れた作家という評を読んだことがあるけれども、なるほどと思う。簡便ながら注釈、解説、年譜がついており丁寧な編集。

葉山嘉樹 - 海に生くる人々

海に生くる人々 (岩波文庫)

海に生くる人々 (岩波文庫)

横浜室蘭を往復する貨物船に乗船する労働者たちの苦境と抵抗を描いて評判となり、多喜二の「蟹工船」に決定的影響を与えたという葉山嘉樹の長篇第一作。

何人かを主要人物として配しつつ、船内における待遇の悪さや、家族や愛人に会うという私用のために規則破りの上陸をする手伝いを船員に強要させるなど、資本家や権力側と労働者側の非対称関係を描きながら、暴風のおりに怪我をした船員を放置して恥じないことに怒りをたぎらせていく船員達はまともな待遇を求めて団結を試み、直接交渉を果たしていったんは要求を容れさせるのだけれど、上陸した途端に官憲によって主立った人物は懲戒的に下船、一年間の乗船拒否の処遇をされる、というのが大まかな話の展開だ。

読んでみると、文体がけっこうモダンな感じがある。冒頭の船の擬人法描写等々、新感覚派の登場と同時期でもあり、文体にそうした新しい表現を模索している部分があるように思う。昭和初期の文学史といえば平野謙の三派鼎立というのがあるように、私小説的なものに代表される既存文壇に対し、プロレタリア文学新感覚派文学とにおいて抵抗の動きが起こった、という見方をすれば、ある面ではプロレタリア文学新感覚派文学とに共通性があるわけで、なにかしら通ずるものはあるんだろうか。

さまざまな労働現場を渡り歩いた葉山らしく、体験に取材したらしい労働者達のエピソードの数々に生々しいリアリティがある。特に怪我をした足を自分で開いて応急処置をする描写の痛々しさは強烈だ。「もし神があるなら、糞壺にこそあるべきだ」という男や、小船を奪って逃走する男、船を抜け出して娼館へ行った集団が勇躍凱旋したことに船長が激怒する挿話などなど、労働者のキャラクターが結構書き込まれているところが面白い。船の中に娼婦を密航させたとき、巨大なチェーンを収納するスペースに彼女たちを隠していたのだけれど、ある時部屋にいることを忘れてチェーンを作動させてしまい、娼婦全員をミンチにしてしまうという悲惨な挿話などもある。

蟹工船」と比較した時に浮かび上がってくるのは、そうした船員たちの描写や挿話といった部分で、その点小説としての面白さ、という面ではこちらのほうが魅力があるようにも思う。

小林多喜二 - 蟹工船・党生活者

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

プロレタリア文学の代表的な作品として知られる「蟹工船」と、「党生活者」の中篇ふたつを収録した作品集。私の持っているのはちょうど平成十五年の九十一刷改版で、店頭に並んでいるカバーデザインの格好良さについ買ってしまったのだけれど、十年越しでようやく読んだ。

1929年に発表された「蟹工船」は、葉山の『海に生くる人々』を重要な先行作として下敷きにしている。これは両作読んでみると明らかで、海上の船という閉鎖空間を舞台にして資本の搾取に抵抗する労働者達の団結と行動、そしてそれが資本家に裏切られるという展開は基本的に同一だし、資本側の悪辣さとして挿入される、SOSを発信している難破船を素通りしていくシーンなども共通している。

しかし、この二作を截然と分けるのは、「蟹工船」の労働者たちは固有名を持たない群像、集団として描かれている、という点だろう。固有名を持って現われるのは船長の上に立つ監督者「浅川」くらいで、労働者たちはあだ名が与えられた者こそいても、名前は出てこない。その点、各登場人物の個性と背景、そしてさまざまな挿話が人間的奥行きを彩っていた『海に生くる人々』と著しい対照を成している。この実験的な手法は、資本家側に対するプロレタリアートの格闘のメカニズムを明快に抽出するためのものだろう。小説としての、人間的情緒の面白さ、というものを大胆に削ぎ落とすことで、資本家に対する攻撃力を倍加させる試みと思われる。

多喜二が嘉樹の先行作を意識しつつも、どのように違った道を模索したのかは、こうした点などに見受けられる。また、他にも「蟹工船」に特徴的な点はいくつかある。その顕著な点は今作の付記の最後の一行にある。

――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。

そしてこのような記述もある。

――内地では、労働者が「横平」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪をのばした。其処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。

北海道・樺太を操業する「工船」を舞台にする、ということを、「殖民地」の「資本主義侵入史」のなかに位置づけていることは注目すべきだろう。「内国植民地」としての北海道という辺境において近代資本主義の矛盾が鋭く露出する、という観点がここにある。同時に、この蟹工船はロシアとの国境をうろついているので、護衛のための「駆逐艦」が同行している。そして労働者達は国のための戦いに赴く兵士と同一視され、不平不満が全的に抑圧される。

そういうわけで、「蟹工船」は、労働・人権・国家・植民地・資本主義といった近代のもろもろの問題がまさに凝集したポイントにおいて書かれており、多喜二はその点とても自覚的だったと思われる。『海に生くる人々』と大まかには似ていながらも、こうした細かな差異が、「蟹工船」の理論的なスケールの奥行き、鋭利さとして生きている。

蟹工船」はそういう点でとても興味深い点が色々あるんだけれども、個人的な好みでは『海に生くる人々』のほうが面白いかな、とは思う。興味のある人は両方読んでみるとさらに面白いと思う。

同時収録の「党生活者」は、非合法の共産党活動を行う党員を主人公として、その党員生活、工場での活動の模様などを具体的に描いた作品で、スパイ小説のようでとても面白い。どちらも末尾で希望をもって終わらせているのが特徴的だ。

収録作品が同一の角川文庫版には、簡単ながらも注釈と年譜がついている模様。船舶用語等分かりにくいものがあるので、注釈のある方が良いだろう。

蟹工船・党生活者 (角川文庫)

蟹工船・党生活者 (角川文庫)


プロレタリア文学はごく限られた作品しか読まれていないようだけれど、日本の近代化の過程における重要な一側面を示すものだろうと思うので、もう少し手に入りやすくなるといいなと思う。これらの作品はもちろん今から見て古びたところはあるけれど、現状と引き合わせてみるに、問題の根幹は何にも変わっていないことを痛感させられるのではないだろうか。

中野重治 - 五勺の酒・萩のもんかきや、村の家・おじさんの話・歌のわかれ

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

で、これを書いていた頃はすでにプロレタリア作家という括りではないけれども、嘉樹のいた「文芸戦線」や初出の「蟹工船」が載った「戦旗」にも書いていたこともあるので、多喜二や嘉樹とも面識はあっただろう中野重治を読んだ。

『五勺の酒・萩のもんかきや』の方には、憲法天皇について書かれた「問題作」という「五勺の酒」をはじめとした「戦後」の短篇が収録されている。いずれも、戦後という時代の微妙な空気感を感じさせるもので、共産党員だった親のために見つけた仕事が軒並み拒否されてしまう「親との関係」のようなものはまだ分かりやすい方で、敗戦を迎えてさまざまな変化にさらされた人々が描かれていて、そこがとても興味深い。

『村の家・おじさんの話・歌のわかれ』は、ほぼデビュー作からの自伝的な短篇を集めたような編集になっており、おおよそ戦前を舞台にしている。1928年3月15日の三・一五事件での逮捕者のなかに赤子がいた、という導入で、活動家の夫婦の姿を描いた初期作品「春さきの風」から、子供の頃を題材にした抒情的な作品、また金沢での学生時代の話、そして転向したのちに父との今後どうするのか、という問いにそれでも書いていく、と答えるまでを書いた「村の家」などを収録している。

読んでいて感じるのは、多喜二や嘉樹と比べてなにかとても難しいということで、いくつもの文脈が幾重にも織り込まれて書かれているような晦渋さがあり、特に「五勺の酒」や「村の家」のような作品にそれが顕著だ。それはもちろん簡単には言葉にできず、「転向」なども絡んで屈折した心情が背景にあるからこそのものだからで、その分簡単にこうだ、とは言いづらい。個人的な趣味ではさほど好きな作家、とは思わなかったけれども、いろいろな人に重要視されている理由はなんとなく分かる気がした。ただ、解説の川西氏がいう、「萩のもんかきや」の面白さは私には分からなかった。


いずれの作家ももう少し読んでみたい。