山城むつみ - 連続する問題

連続する問題

連続する問題

はじめに

山城むつみという人は、『ドストエフスキー』の人だという認識だった。学生時代に卒論を書いていた時、バフチンの著作や解説書等をさらって援用してみたのだけれど、そんなときに山城むつみが「文学界」に掲載したドストエフスキー論を見て、そのバフチンの扱い方の緻密さというか鋭さに、自分のバフチン理解の浅薄さのほどを思い知らされたのが、この人の名前を覚えたきっかけだった。その後十年越しで連載はまとめられ刊行されたのだけれど、ドストエフスキーの五大長篇もまだ全て読めてはいないので、そのうち、と思っていたところ、文学フリマで会った後藤明生『この人を見よ』の担当編集さまから連絡をいただき、本書の打ち合わせをしながら山城さんと後藤明生の話をしたり*1、韓国を舞台にした後藤の『使者連作』を私がブログでちょうど記事にしていたことを見て、朝鮮の話題が出てくる今回の新著が何かの役に立つのではないか、ということでお送りいただくことになった。改めてありがとうございます。

じつは山城むつみの本は文庫化された『文学のプログラム』を岡和田さんが勧めていたので買ってはいた。今回の新著は元々「新潮」に連載されていた一回読み切りの雑文、として書かれた時評を集めたもので著作のうちで最も入りやすいということなので、余裕ができたので文中で論じられているという中野重治を予習しつつ早速読んだわけれど、これはとても面白い。いや、面白いというだけではない重要な議論が含まれている。

元々、2003年から断続的に「新潮」で連載されていた「クロスロード」、後継枠の「連続するコラム」という一回二十枚程度のコラム的な雑文をまとめたもので、電車の中吊り広告から宝くじの確率論を話題にしたり、小林秀雄が刊行も全集収録も禁じた『感想』が新しい新潮社の全集に収録されるにあたって、「日本の読者にベルグソンを誤解させる恐れがある」という小林の遺志がなぜ全集の緒言に書かれていないのか、と新潮編集者との対談形式で文句を言う回とか、いろいろ面白い雑多な話題もありつつも、回が進むに従って軸というか中心的な問題というのが徐々に固まってきて、それは中野重治だったり朝鮮だったり、つまりは戦後日本に通底する「連続する問題」についての論考がさまざまな観点から考察されていくようになる。

そしてドストエフスキー論に専念するためにも唐突に終了した連載の後を継いで書き下ろされた補論において、こことそこ、日本と朝鮮、イスラエルパレスチナといった、連載で扱っていた問題について、私と他者の構図においてその「連続」を「切断」するための補助線を、石原吉郎が書いた無名の人物、鹿野武一について論じながら示そうとするくだりには非常に感動的なものがあった。この鹿野武一を一つの軸とする考察について触れる前に、この連載の方向性を決定したという、第三回目で2003年当時の拉致問題に触れたところからはじめる。

朝鮮と「歴史の事実」

2003年当時、日本が過去の韓国植民地支配に対しておわびを表明した、という事実が拉致問題報道一色に押し流されるなかで感じた違和感を書いた第三回では、報道において、拉致という国家暴力の非道を批判しながら、植民地支配という「歴史の事実」の内実が見過ごされていくことに注意を促している。そして、金時鐘の言葉を引きながら、金正日が植民地支配に対して拉致を大きくない問題として相殺していることを指摘し、在日朝鮮人金時鐘が拉致を恥じ、朝鮮の人々に拉致を恥じ入るべきだという言葉には真があるけれども、それを日本人がかさにきて朝鮮の人々に向けて言うのならばそこには真はない、むしろ、日本人が日本人に植民地支配の「歴史の事実」に恥じ入るべきだということにこそ真がある、という。互いの加害と被害を相殺するのではなく、「双方が誠意を持って、斟酌し、考慮すべきこと」であって、という金時鐘の言葉をそのように丁寧に読んでいく。

そして次の回では中野重治の発言を注意深く追いながら、日本の内部からなされている限り空転してしまう問題として、天皇制批判を挙げてこう述べる。

中野が晩年に問題にしていたのは、朝鮮・韓国から見えて、日本の内側からは見えない天皇天皇、したがって彼らとの連帯なしには批判も廃絶もできないような天皇天皇制である。
 晩年の中野は、それを「連続する問題」と呼んで考えていた。ひと口に言えば、在日朝鮮人の問題、被差別部落の問題、そして天皇制の問題である。72-73P・太字は原文傍点

こうして、この「連続」と「問題」について考えていく、というのが一つの方向として見えてくる。「歴史の事実」について謝罪を口にしながら、向こうからは内実として戦前と何一つ変わっていないように見えるのではないか、という「連続」もその一つだし、「従軍慰安婦」問題はまさにそのことを示す最大の事例だといっていい。

その後、日本国憲法は帝国憲法の改正、という位置づけになっているため、改正の際には天皇による「公布の詔」がついており、中野重治がそれを「前文の前文」と呼んでいたことなどに注意を促しつつ、中野重治の「連続する問題」が扱っていた、終戦詔勅ポツダム宣言、日韓議定書などに山城もまた目を通しながら書いていく。

そして日韓併合から続く連続する問題として、それが良いか悪いかにかかわらず「事実として日韓併合において日本人は半島を植民地化した」ことによって、無意識に社会的に抱え込んだものがなかったかと問いつつ、関東大震災朝鮮人虐殺を挙げてこう述べている。

たとえば、大震災(一九二三年)において恐怖を煽り、虐殺の契機となったのは、暴徒化した朝鮮人が大挙をなして襲来し、各地の井戸に毒を投じている、等の流言だったが、こうしたデマや「亡霊」が現われた背景には、三・一独立運動(一九一九年)を弾圧した際に日本人が朝鮮半島の各地で飲料水・鮮魚・砂糖など各種の食料品に毒を投じて朝鮮人を大量に虐殺したという事実があった。広島に原爆を落としたアメリカは、九・一一テロ事件に際して被った被害の象徴的場所をグラウンド・ゼロと名づけるまさにそのことによって過去の加害の記憶を無意識のうちに被害として想起して報復と称する暴力の行使を自らに許したが、日本人は日韓併合以降に加えた加害の記憶を大震災時に無意識において被害として想起して、報復と称する加害を自らに許したのではなかったか。105-106

このような状況下において、現実そのものが構造化された差別を内包している場合、個々人の良心はあえなく押し流されてしまうのではないか、と問うている。社会的な無意識における構造化された差別、ということ。

加害と被害を入れ替えることで隠蔽する、というのはたとえば日本の歴史修正主義の習い性にもなっており、日米開戦においてABCD包囲網のみに言及してそれ以前の過程を無視して、日本は追いつめられた、とするような、つねに被害者側に立とうとする姿勢がそうだ。

自己と他者

この、加害と被害との構図において、非常に興味深いのはウディ・アローニ監督の映画『フォーギヴネス』が紹介される第十九回での議論だ。『フォーギヴネス』自体については以下のブログでの紹介が簡潔なので参照してもらうとして、
http://pandano.exblog.jp/4604117/
端的に言えば、イスラエルパレスチナ人を虐殺したこと、そしてその「赦し」の(不)可能性を描いた、ということだろうか。ここから、アイデンティティと他者の問題をフロイトの『人間モーセ一神教』での議論を参照しつつ、山城は以下のように書いている。

〈私を私たらしめているもの〉は私のうちにはなく他者のうちにある。私はそれをこの他者においてしか見出せないのである。この場合、他者は私にとって最も強烈な憤激の対象として現れる。231P

そして、それを現実政治の文脈に戻してパラフレーズして、ユダヤ人をユダヤ人たらしめているのは、パレスチナ人ではないのか、と続ける。この現実政治の文脈において他者の問題を考えるというのは重要だ。この直前で、他者性の問題について考えていたはずのレヴィナスを批判するジジェクを参照しているからだ。

イスラエルにとっての「他者」はパレスチナ人ではないのかというインタヴュアーの問いを、他者についての私の定義は全く異なると突っぱねたレヴィナスの言葉をとらえてジジェクはこう述べていたのだ。「要するに、実践政治では他性への敬意――顧慮は厳密には何も意味していないのである」(『身体なき器官』長原豊訳)。228P・太字は原文傍点

山城はこのジジェクの皮肉を想起しつつ、イスラエルパレスチナの構図を、日本人と朝鮮人との関係においても考えようとしている。そして以下のように述べる。

〈日本人を日本人たらしめているもの〉は日本人のうちにはない、むしろ、それは自分たちの外部に立つ他者、たとえば朝鮮の人々のうちにある。だから、日本人が本当に日本人であろうと欲するのならば、その根拠をこの他者において認知するほかない。その場合、耐え難い不快と抵抗は避けられない。日本人はこの他者を虐殺したことがある。それを認め、〈日本人を日本人たらしめているもの〉を再び現存の他者において認知するならば、その時初めて殺害者が、自分が殺した他者に赦されるという不可能事もあり得るのかもしれない。234

加害の事実すらをも隠蔽、否認し続けようとするある種の人々の憤激を買うだろうことは容易に予想できる叙述だ。それはどうでもよろしい。この論理が事実として不可能だろうというのは既に指摘されている。この構図はアイヌでも、沖縄でも繰り返され、加害の事実は往々にして否認され続けているからだ。

北海道における近代的土地制度の整備が近代的土地所有の観念のなかったアイヌの生活の場所を奪い、彼らを窮乏に陥れたけれども、山城も日韓併合からの十年間で内地在住朝鮮人の数が十五倍以上にも増えたことには、こうした背景があることを指摘している。特に日韓併合の一九一〇年代の急増が劇的だとして、以下のように述べる。

韓半島における土地調査事業は「近代的」な土地所有という観念のなかった韓国に「近代的」土地所有制度を強いることで土地の所有から労働を分離し、火田民(「近代的」な意味では土地を所有していない焼畑農民)を始めとする少なからぬ非定住民たちを「近代的」土地所有の条理制から駆逐したが、その多くが「併合」後の日本へと移住したため在日コリアンの人口がこの十年に急増したのである。357P(条理制は条里制の誤記か)

半島において抑圧したものが回帰してくること、在日コリアンへの差別感情はフロイトの言うような「抑圧されたものの回帰」への「不気味さ」にあるのではないかとも指摘している。

かといって、山城は加害と被害とが固定した構図だと考えているわけではない。このことはつねに流動し、収容所でのユダヤ人もまた死に近い人間をイスラム教徒を指す差別的な呼び方「ムーゼルマン」と呼んでいたことなどを指摘しているし、

人間は、圧倒的な被害者の位置にあっても、加害者でなくなることなどない。或る危険な何ものかが僕らの奥深い内部に必ずあるからだ。355

とも言うけれど、問題は誰が加害者か、というようなことではない。

「〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる」

加害を見つめるということについて、きわめて興味深いのが石原吉郎がエッセイにおいて描き出した鹿野武一という人物のことで、山城は石原吉郎を論じる内村剛介を介してこのことについて論じている。鹿野武一をめぐる石原吉郎、そして石原の死から石原吉郎論を書きはじめる内村剛介それぞれについて、もっと複雑な関係から論じられているのだけれど、ここでは省いておく。

鹿野武一とは、誰もが生きのびるためにあさましく振る舞うラーゲリで、つねに死に最も近い場所を率先して選ぶという奇怪な行動を取った無名の男である。321

この鹿野と同じラーゲリにいた石原吉郎は「ペシミストの勇気について」という文章で彼について以下のように書いている。

人が加害の立場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。その時、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。321-322から孫引き

この石原の言葉は衝撃的でもあるし、きわめて説得力のある言葉でもあった。この鹿野武一という人間の「後ろ姿」はきわめて印象的だ。そしてある面では卑小でさえあった鹿野を、その卑小な面を知りながらもそのことを消去し、孤高の人物として描き出さざるを得なかった石原吉郎自身についても、ラーゲリで行った「加害の記憶」に悩まされていたことを指摘しており、この極限的な状況はこちらを戦慄させるものがある。石原は、「自分が加害者であることの正確な認知によって、ひとりの〈人間〉を産み落としたいと希っているのだ。だからこそ、ついには「加害者の位置から進んで脱落」しようとした鹿野武一という「一人の人間」の「〈うしろ姿〉」に無限に関心をもった」と山城は書いている。

そして、山城は「連続する問題」、「加害と被害の流動」を切断するために必要なのはこの鹿野武一のような「ペシミストの勇気」なのだ、と書く。「確固たる加害者を自己に発見する勇気を、まずは、自己の内に育てよ」、として本文は終わる*2。一体それは可能だろうか。しかしそうでなければならない、とも思う。現実的な政治的方策とはまたべつの問題として、本書が提示する、石原吉郎の論考に現われた「〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる」という指摘は忘れがたく、また、当然そうだという風にも思える。ことは日本と朝鮮だけの問題ではなく、もっと根源的な問いでもある。これは、非常に重い問いだ。

そして日本の戦争責任について触れ、われらの父や祖父曾祖父らの「加害の事実」を認め、「確固たる加害者」としての自己を見出すことができるだろうか、と問うてもいる*3。ここで私が思い出すのは秦郁彦の『南京事件』末尾の文章だ。秦は南京事件において、数万を超える虐殺があったことを史料から積み上げて概算したあと、日本が満州事変以来十数年に渡り中国を侵略し、中国国民に多大な苦痛と損害を与えたことは「歴史的事実」だとし、また敗戦に際して百万の日本人にあえて報復せず、引き上げを許し、日中国交回復に際しても予期されていた賠償も要求しなかった、として「当時を知る日本人なら、この二つの負い目を決して忘れていないはずである」とのべてこう続ける。

それを失念してか、第一次史料を改竄してまで「南京“大虐殺”はなかった」といい張り、中国政府が堅持する「三十万人」や「四十万人」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数(実数は今でも不明確だが)が「多すぎる」とか「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。
 数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する。244P

南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)
ここには「確固たる加害者を自己に発見する勇気」があるのではないだろうか。私はここに右派として国の、父祖の「加害の事実」を背負おうとする秦の覚悟を見るし、こう書いた秦へは敬意を持つ。しかし、『南京事件』増補版では、この記述を自身で裏切るような追補がなされており、非常に残念な思いをしたことを覚えている。とはいえ、この文章それ自体には読むべきものがあると思う。

また、山城はトルストイが私有地の観念のない牧畜民などから、きわめて安価に広大な土地を「合法的」に入手したことを指摘している。近代的契約関係を一方的に押しつけておきながら、平等な契約の美名の下になされる収奪、この加害の事実を自己に見出したことにトルストイは悩まされ、いくつかの作品にそのことを描いてもいるという。山城はトルストイが「一人の加害者」として「加害者の位置から進んで脱落」しようとしたのは1910年、「死のまぎわだった」。

憤激をもたらす「他者」のまえで「確固たる加害者を自己に発見する勇気」を持ち、「加害者の位置から進んで脱落」するということが、いかに困難なことか。もちろんこれは「彼ら」の話に留まるはずもない。

おわりに

山城は後書きで「文学」にも「政治」にも興味がない、「人文上の権利」に興味があるという言い方をしている。けれども、本書で一貫して問題になっていたのは、〈人間〉ということ、人間にとっての私と他者、ということでもあったと思う。政治においても、文学においても、〈人間〉についてずっと書き続けられていると思う。

山城が中野重治を論じながら、彼は「政治と文学という区別以前のところで書いていた人」だと指摘し、

ともすれば政治「問題」として抽出されてしまうものを、中野が生活のなかに具体的な陰翳や細部として感受してそれを粘り強く言語化していったとはそういう意味だ。彼は「問題」を「小説化」するというような発想とは全く無縁だった。彼の皮膚感覚はそういう区別そのものを知らなかったのである。評論家に「問題」としか見えない言葉がそのまま小説の言葉となる皮膚感覚の思考にこそ中野の文学の真骨頂があるのだ。206-207P

という風に書いているように、本書もまた政治と文学の根源にある人間について書くことで、両方の問題が重なる場所において書かれているといえる。

日本と朝鮮の問題においてこのように書く本があるということはなにかとても救われた感じがある。ネット上では大震災での虐殺にしろ、慰安婦始めとした戦争犯罪問題でも、否認論、否定論が跋扈しているなか、細かな事実検証のレベルで議論が足止めされて、歴史認識そのものについての議論がされない、という状況がある。南京事件についてもそうだった。私もある時期否定論批判を繰り返していたように、ネットにおいては否認論の提示する虚偽を批判することにかなりのリソースを割かざるを得ない状況がある。このような状況では、本書の提示するような議論が深められる機会は失われてしまう。だから、本書のような議論はなにか非常に新鮮な感じがあり、貴重な試みでもあると思う。

けれど、山城が本書のなかで、事実があったかなかったかの論争を、細かな議論、ディベートといい、「歴史の恐ろしさ」を知らぬと言って見下すような言い方をしているのには、反感を覚える。歴史学者、それも戦争犯罪を扱う学者は、さまざまな圧力にさらされつつ、その事実を教科書などからも消そうとするような勢力との争いのなかで、史料を渉猟しての研究を行っているし、またネット上でも泥沼に引きずり込まれてもきちんと歴史学的な通説の解説と論評を行う人々の地道な努力を揶揄しているように読めるからだ。そのような地道な努力によって否定論の幻から目が覚めた自分としては、そこに反感を覚えざるを得ない部分がある。

まあ、それはいいとして、ここまでのようにまとめると、本書の複雑な議論や多様な話題を非常に単純化してしまうようだけれど、元々が一回読み切りのコラムなので、話は多岐に渡り、また山城の議論において、対象を緻密に読み込む仕方には非常に魅力がある。この記事ではなにか単純な、通俗的な話のように受け取られるかも知れないけれども、山城自身の論述はもっと丁寧で複雑なものだ。

このような文章がまとめられず放置されていた、というのは非常にもったいない。唐突に終了した連載だったからか、連載分だけでは本にしづらいものがあったとは思うのだけれど、編集N氏の熱意によって腰を上げたということで、恵贈いただいたN氏には重ねて感謝したいと思います。

*1:後藤明生が選考していた群像新人賞からデビューした

*2:ただし、石原の姿勢に対して批判的に記しているように、それが自己内対話においてなされるべきではない、と山城は書いている。都合の良い他者の表象という欺瞞がそこに生まれうるからだと

*3:ここで気になるのは、山城が「罪」とはいわず、「加害の事実」というやや回りくどい表現を選んでいることだ。もちろんこれには理由があるだろう