メシャ・セリモヴィッチ - 修道師と死

修道師と死 (東欧の想像力)

修道師と死 (東欧の想像力)

2007年から始まった〈東欧の想像力〉もついに第十弾、今回はボスニアの作家メシャ・セリモヴィッチの『修道師と死』、1966年発表の作品。二段組み400ページ超の〈東欧の想像力〉最長の大作だ。イスラムの修道師が書いたもの、という体裁をとる一人称小説で、細かな思索や心理描写が濃密に詰め込まれ、ページ一杯に文字が埋まる重量級の一作だ。

舞台はオスマン帝国時代のボスニア、おそらくはサラエヴォあたりだろうと訳者が指摘している。オスマン時代を舞台にした作品としてはアンドリッチの『ドリナの橋』を思い出すけれど、本作にも一回だけ「ドリナ川」の名が出てくる。それはいいとして、この過去のボスニアを舞台に、実際の史実を周辺に散りばめながら、ある修道師の体験をたどっていくのが本書だ。ちなみに「修道師」とは、原語ではイスラムの修行者ダーウィシュとなっており、日本語では修道士や修道僧が役割として近いのだけれど、それらはキリスト教や仏教と関わりがあるため、その連想を避けるためと訳者が造語したもの。

不合理な逮捕

この修道師たちはテキヤと呼ばれるイスラムの修道場に住んでおり、そこで暮らしている修道師のひとり、四十代ほどと思われるアフメド・ヌルディンが本作の語り手として登場する。彼には弟がいたのだけれど、とつぜん、逮捕されて投獄されてしまった。そんなとき、判事の妻から、放蕩の弟が筆頭となっている遺産相続権を剥奪できないか、という相談を受ける。この判事の妻の言うことを聞けば、判事の力によって弟を助けられるかも知れない、とは考えながらも、ヌルディンは結局拒絶する。

そして彼は弟救出のためにさまざまに奔走するのだけれど、弟はなぜ逮捕されたのか、ということがいっこうに明らかにならず、また、ハルンという弟の名前すら全体の三分の一ほどにならないと出てこない、という奇妙な空白を抱えた叙述はやはりカフカ的な展開を思わせ、ある種の不条理な奇想小説の類なのか、と思わせるけれどもそうではない。弟は実在しており、実際に逮捕されており、その理由はある種の官僚的警察制度の暗部を除き見てしまったことによる。現在にも通ずる様なこの暗部はさておき、制度の暗部をのぞいてしまった弟を助けようとする行為は必然的に体制への抵抗の意味合いをもってしまい、ヌルディンは微妙な立場に立たされる。そして体制との軋轢を抱え込むことにもなる。

一番恐れていたことが起きてしまった。弟を弁護しながら、私は法に楯突いていると言われたのだ。
(中略)
だが本当に最悪だったのは、実は弟を擁護したわけではなかったということだった。ある不合理な瞬間、私は恐ろしいまでの苛酷さに対して反旗を翻したが、ただそれだけのことで、弟の側にも代官の側にもついていたのではなかった。私には、どこにも居場所がなかった。92P

この孤独、孤立の描写は全体を通して重要なモチーフだろう。

二部構成の本書の内、第一部はこのようなかたちで修道師ヌルディンの巻き込まれた状況を非常に丹念にたどっていく。あまりにも丹念、というかヌルディンの叙述は修道師らしく考察に考察を重ねて長く長く続くものとなっており、具体的な事実がサッパリ明らかにされないという不可解で遅々として進まない事件の様相とあいまって、なかなかのめりこめない序盤となっている。このヌルディンの叙述もどこか胡散臭い、というか結構平凡な人間の語り、という印象があり、所々で他の人物からヌルディン自身の欺瞞的な部分が指摘されるところがあったりするのが面白い。

変貌する修道師

第一部は平凡な修道師として暮らしていた世界が激変し、体制との軋轢を抱え込むことになるまで、を語る。そして弟の事件の後、冒頭では特に友人ではなかったと書いていた判事の妻の弟、ハサンと親しくなり、またテキヤのムラ=ユースフといった人物らを主要人物として、友情と裏切りの物語が語られるのが第二部となる。

この第二部ではハサンの存在がきわめて重要となっており、ヌルディンにとってなくてはならぬ人物となっていく。商売で方々をまわりながら活動しているハサンは、軽薄なように見えて真摯で、情熱的なようでいて冷たくもあり、ヌルディンと対照的な興味深い人物となっている。

第二部では、第一部で語られなかった弟の事件の秘密が明らかになったり、ヌルディンをとりまく人物関係もさまざまに変化をし、それと同時にヌルディン自身もまた大きく変わっていくことになる。第一部では平凡な印象のあったヌルディンは、事件に巻き込まれて微妙な立場に立ったり、体制の裏側を覗き見たりしてしまったことや、いろいろな人との新しい関係や裏の顔といったものを知ることで、劇的な変貌を遂げていくことになる。

彼の驚愕にも、私は満足を覚えた。彼の目の前にいるのは、かつてのヌルディン導師とはまったく別の男だ。この若者は、あのもの静かで温厚な、ありもしない世界を信じていた男が自死するのを助けた。今ここにいるのは、苦しみの中で生まれ、ただ見かけだけが以前と同じままの男だった。352P

この変貌したヌルディンが動き出す最後の百ページほどの話は展開が加速していっており、非常に面白い。第二部スタートのあたりはどう話を続けるのか、と思ったけれども、次第に面白くなっていって、この終盤の動きは更に引き込まれるものだった。スロースタートもいいところの小説で、「文学的」ともいえる長い叙述はもっと刈り込めるのではないかと思わないではないけれども、ラストあたりの展開や、読み終えてみると大きな満足感があった。

処刑された作者の兄

作者セリモヴィッチは1910年ボスニア北東部の町で裕福なイスラム教徒の家に生まれ、教壇に立ちつつ作家として活動、現役を引退した後ボスニアを離れベオグラードに移住し、1982年逝去している。そして第二次大戦中パルチザン運動にかかわっていたときに、兄を窃盗の疑いで処刑される、という体験をしており、この兄のことをずっと小説に書きたいと思いながら作家になったという。そんなことをするはずのない、最後に自身の無罪を訴える手紙を残した兄が殺されたという無念は数十年を経て、本作での弟として作品化されることになった。

しかし、その弟も具体的な姿はほぼ描かれないという空白として設定されている。きわめて個人的な事情を底に置きながらも、その直接の対象は小説からは排除され、過去に設定された修道師の思索として、普遍性と歴史的なスケールのなかにその執念は結実している。また、作者のパルチザン体験は、ヌルディンの戦争体験に反映されており、作者の終生のオブセッションを全力で投入した、一世一代の大作が本書なのだろうという迫力がある。

ポサヴィナの反乱といった歴史的事実を散りばめ、体制との軋轢や制度の暗部といった社会的要素も含みながら(これはやはり当時の政治状況への暗喩を含んでいるのだろうか)も、やはり本作は非常に個人的な趣があり、弟への愛や、自分の命にも並ぶ友情、といったものが大きく打ち出されている。

ボスニアの民族

同じくボスニアを舞台にしたアンドリッチの『ドリナの橋』が、民族共存の歴史と夢を語る大河小説の趣を持っていたのに比べると、本作の個人へクローズアップした作風と対照的な面が浮かび上がるように思う。

本作ではさほど民族に言及することは少ないのだけれど、ハサンが帝都にいた時に言われた悪口に、こう言い返す場面が存在する。

けれども俺たちはといえば、どこの国の者でもない、いつもどこかの境界上にいて、いつも誰かの持参金にされる。
(中略)
あそこはこの世界で一番悲しい所ですよ。そして住んでいるのはこの世界で最も不幸せな人間たちだ。自分の顔を失いながら、他人の顔を受け入れることもできず、原郷から断ち切られ、けれどどこかに受け入れられたわけでもない、誰にとっても赤の他人だ、同じ血を引く者にとっても、同胞として俺たちを受けいれようとしない者たちにとっても。俺たちは世界の狭間に生き、民族と民族の境界の上にいて、誰もがいつ殴られるか分からず、誰かがいつも罪ありとされる。歴史の波は俺たちにぶつかって砕けるんだ、まるで断崖絶壁に波が砕けるように。322P

セリモヴィッチ自身も、ボスニア人とは歴史上もっとも孤独になった民族集団だ、ということを述べている。ヌルディンの姿とこのボスニア人観は繋がっている。


小説としては〈東欧の想像力〉叢書の中ではきわめてオーソドックスに「文学的」で古典的な作風に感じるけれど、その分ストレートな魅力のある小説になっている。最初は結構入りづらい作品だと思うけれども、まあなんとか最後まで読み通して欲しいと思う。

本書もまた、松籟社木村さんから恵贈いただきました。ありがとうございます。

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