松本寛大 - 玻璃の家

玻璃の家

玻璃の家

本書は以前、岡和田さんに面白いミステリないすか、と聞いて挙げてもらった作品のうちの一つで、二年くらい買ったままにしてあったのだけれど『北の想像力』プロジェクトで著者松本さんと一緒になり、これは読んでおかないとなと思っていたもののいろいろ忙しくて着手できず、年明けにようやく読むことができたのだけれど、これは傑作。

死体遺棄の現場を目撃し犯人と間近に直面したはずの少年は「相貌失認」という、人の顔が認識できない障碍を抱えていた、という非常に魅力的な導入から、表題にもなり死体遺棄の現場にもなっているガラスの家――ガラス製造業の富豪の家でもあり、後にその富豪は家のすべてのガラスを取り去って煉瓦を窓に詰めて住んでいた――にまつわる因縁と、さらに過去に起った魔女狩り裁判という歴史までをもからめ、犯罪捜査における目撃証言の信頼性といった問題を軸に鮮やかにまとめ上げている。

いわば本格ミステリに属する作品だと思うけれど、犯人自体は最初ですぐにわかる。本作のポイントは、犯人の動機と、そして目撃者が相貌失認だというハードルをいかに超えるか、というところにある。

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

この「相貌失認」という障碍は、オリバー・サックスの『妻と帽子をまちがえた男』に似た例があったけれど、あっちは「顔貌失認」で、人の顔が人の顔だと認識できない事例で(だから妻と帽子をまちがえる)、こちらは人の顔だと言うことは分るのだけれど、誰の顔、どんな顔、老若男女が分らない、という事例だ。

間近で直面したという決定的なチャンスを得ながらもそれが生かせないというジレンマ、そこから相貌失認の丁寧な解説がはじまり、ほんとうに相貌失認の目撃者から犯人を同定することができないのか、ということを相貌失認のさまざまな事例を検証しつつ試行錯誤していくさまは、非常に面白い。参考文献を見てみると、書籍から専門誌の論文までをも参照しているようで、かなり専門的な議論を下敷きにしていることが分り、この面でも読み応えがあるのがいい。

同時に、目撃証言の信頼性というものも重要なポイントで、人は自身の記憶をつねに歪めていくことがあり、無警戒に聞き取りをしてしまうだけでも相手の反応によって無自覚な誘導がなされてしまうことや、本人が断言している証言は「かなりの確立で根拠がない」、というような心理学の議論が紹介される。これはたぶんミステリ読者なら常識に類することかも知れない。しかし、捜査官による誘導の排除のやり方がイギリスよりもかなり遅れているアメリカよりも、はるかに日本は問題が多い、と書かれているように、そもそも日本の「中世」司法だと、本作のような設定が成り立ちそうにもないところがなんというか。

探偵役は日本人の心理学者で、彼の視点から神経科学、心理学での知見を生かした展開となっている。そして、しばしばこういう専門的議論を取り入れた作品は「お勉強ミステリ」などと呼ばれるらしいのだけれど、本作では諸要素が密接に組み立てられており、無駄のない骨格になっている点が秀逸だ。舞台にしているマサチューセッツで過去に行われた魔女狩りの歴史というのも随所に挿入され、これは犯罪捜査における前近代的事例に見えるけれども、相貌失認も魔女狩りも、目撃証言の信頼性ということについて密接に関係しており、著者の冷静かつ理知的な筆致がかなり読ませる。

で、途中までの展開で、犯人及びトリックでなんのネタが使われているのか、ということはなんとなく予想がついて、こういう感じだろうな、と思っていた所で解決編になると、これが怒濤の展開でほんとうにびっくりした。解決編はわりとややこしいのだけれど、それがこういう風に繋がるのか、という意外な展開の連続はえっ、えっ、となるばかりだった。私はミステリはさほど読まないので類書との比較はわからないけれど、島田荘司が言うように、傑作でしょう。

巻末にはその選者島田荘司による選評が載っていて、そこでなされている弱点や問題点の指摘が、本書刊行時においてきっちり修正されているのがわかる。それを読むと応募時点ではあれこれの場面はなかったのか、といろいろ分って面白い。もちろんネタバレ満載なので事前に読まないこと。

本作が受賞した「島田荘司選 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」というのは、選者の出身地広島県福山市が、地方文学賞としてははじめて、新作長篇を公募して受賞作を即刻大手出版社から刊行する、ということではじまったものとのこと。島田自身、年一作程度の量産ができるもの、できれば本格ミステリーが望ましい、とはいえそれは要件ではない、と書いており、松本さんも題材の専門性から量産できるかどうかを心配されている。

やはり、というか第二作は四年後の2013年に刊行。これもまた良いらしくとりあえず買ったのでいずれ読みます。

妖精の墓標 (講談社ノベルス)

妖精の墓標 (講談社ノベルス)

『北の想像力』での朝松健論は、作家らしい視点と情熱が垣間見えるものだとの印象だったんだけれど、小説の方はむしろきわめて冷静で理知的に見えて、ちょっと意外な感じもした。