やっぱり去年八月以来中断してしまったけれども、現代東欧文学全集を読んでみよう企画第三回。
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- 作者: ニコス・カザンザキス,秋山健
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- 発売日: 1967/08
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目次は
「カザンザキスの人と文学」森安達也……3
カザンザキス「その男ゾルバ」秋山健訳……27
「わたしの作品論 現代ギリシアのものがなしさについて」小田実……377
月報
「東欧旅行の印象(1)」奥野健男
「エーゲ海の島々とクレタ人気質」佐々木静一
森安の論考はギリシア史の概説からはじまっており、カザンザキスの生地で本作の舞台でもあるクレタ島の歴史を重点的に紹介している。
※追記 初期配本の巻末予定では、本作の翻訳は西脇順三郎が担当することになっていた。Wikipediaを見ると、西脇は六十年代に「漢語とギリシア語の比較研究」を始めていたとあり、ギリシア語から翻訳する予定だったのかも知れない。
ニコス・カザンザキス - その男ゾルバ Νίκος Καζαντζάκης(1883-1957)"Βίος και πολιτεία του Αλέξη Ζορμπά" 1943
ニコス・カザンザキス - Wikipedia
カザンザキスは現代ギリシアを代表する作家として知られており、詩人のカヴァフィス、映画のテオ・アンゲロプロスともども、現代ギリシアの日本でも知られた芸術家だろうか(セフェリス、エリティスという二人のノーベル賞詩人もいるけれども)。二度ノーベル賞候補となっており、晩年にはカミュと一票差でノーベル賞を逃したこともあったという。しかし、キリスト教へのアプローチに賛否があったのか著書がカトリックに禁書にされたり、共産主義運動に関わったためか、国内に敵も多く、作家連盟のノーベル賞候補推薦を政府に妨害されたりもしていた。その辺の消息については月報で佐々木静一が土地の者に聞いた話としてこう書いているのが参考になるだろう。
カザンザキスはギリシア正教を信ずことを拒否したので、教会に葬られないことになり、自分で自分の墓をイラクリオンに作り、キリスト教を信じない者ここに眠ると彫りつけたという*1
ニコス・カザンザキスはクレタ島イラクリオンで、農民の息子として生まれる。クレタ島でトルコに対する叛乱が激化したため、ナクソス島へ移住し、フランス語、イタリア語、ラテン語、英語、ドイツ語を学ぶ。故郷にもどりギムナジウムを出てアテネ大学を卒業すると、ダヌンツィオに影響を受けたデビュー作『蛇と百合』を発表する。カザンザキスは旅行好きでもあり、パリへ行った時にはベルグソンに師事し、そのころある女性にニーチェに似ていると言われてニーチェを読み、虜となって、アテネ大学へニーチェについての博士論文を提出した。1912年には第一次バルカン戦争が起り、志願して参戦している。
その後、ギリシア全土を旅するなどして、1916年頃、本作のモデルとなったゲオルギオス・ゾルバスと鉱山事業に手を出して失敗している。また、森安氏の解説によると
一九一九年から翌年にかけてヴェニゼロス政府の厚生省に設置された局の局長として、コーカサスと南ロシアにいる十五万ものギリシア人難民を本国に帰還させるという国家的事業に取り組み、見事にこれを成功させている。14P
といったような仕事もしている。その後もウィーンで仏教の研究などしており、このことは本作の主人公の仕事として登場している。それから共産主義運動に参加したり、ソヴィエトでゴーリキーと会うなどしたものの、ソ連で共産主義の現実を見て、自身の空想的なメタ共産主義的志向との齟齬を見て失望を覚えたらしい。夢想的な共同社会への思いは、作中にも出てくる。中国、日本へも来訪しており、その紀行文は評判になったらしいけれども邦訳はされていないようだ。
本作『その男ゾルバ』は、ドイツがギリシアを占領している間、アテネにも近いサロニカ湾にあるエイナ島(アイギナ島)にこもって書かれた。
アレクシス・ゾルバスの生活と行状
海、秋の穏やかな気分、光に浸っている島々、永遠に裸のままでいるギリシアの上に、透明なヴェールを拡げる繊細な雨。死ぬ前にエーゲ海を渡る幸運に恵まれたものは幸いなるかな、と私は思った。43P
カザンザキスの最も知られた作品『その男ゾルバ』は原題を直訳すると「アレクシス・ゾルバスの生活と行状」とのこと。一般には映画化されたさいの題名「ギリシャ人ゾルバ "Zorba the Greek"」として知られている。ゾルバスがゾルバになるのは、ギリシャ語で末尾にスのつく人名では所有格や目的格(呼びかける時もそうらしい。呼格という)の場合、スを落すからだそうだ。正確にはゾルバスだけれども通用している名を取ってゾルバとしている、ということになる。既訳書に「カザンツァキ」名義があるのはこのためだろう。
本作は、「私」が、クレタ島にある亜炭鉱を譲り受け、そこへ赴こうという時に、港で不思議な人物ゾルバに出会うところからはじまる。ゾルバは各地を放浪してきた労働者で、炭鉱での経験もあり、坑夫の監督として雇い入れて共にクレタ島へ向かうことにする。
「本の虫!」と呼ばれた「私」と、放浪をくり返し肉体労働者の手をもち、奔放に生きるゾルバという対照的な二人は、どんどん親しくなっていき、お互いになくてはならぬ存在になっていく。毎日毎日はじめて見たように新鮮にすべてを見、酒を飲み、女を求め、踊り、楽器を弾くゾルバは、疑問や観念の袋小路にはまりこんだようになっている「私」の羨望とともに眺められる。
ゾルバこそ、私が長い間探して見つけることが出来ないでいた男なのだ。生きた心の持ち主で、大きな飽くことを知らない口、偉大な野蛮な魂、母なる大地から、未だ切り離されていない男であった。
この労働者の語る、人間の言葉の中で最も単純な言葉によって、芸術、愛、美、純粋さ、情念――これらの言葉の持つ一切の意味が、私にとって初めてあきらかなものにされたのである。40P
この頭でっかちの知識人と、大地と繋がった肉体労働者、という対照的な構図は、巻末の小田実がいうように、日本のそしてギリシアの、後進国の近代知識人の特徴でもあり、宿命そのものでもある。
つまり、主人公が「西洋」であり「都会」であり「インテリ」であるなら、ゾルバは、「ギリシア」であり「田舎」であり「反インテリ」であるのだろう。もう一つ言うならば、ギリシアという母なる大地に根ざした土着の輝かしい力、活力の象徴。383P(小田実の解説より)
後藤明生的に言うなら、近代知識人の分裂、そのモデルケースのような作品とも言えるわけだ。西洋の観念を身につけて大地から遊離してしまった、という観念と肉体の分裂が「、私」とゾルバとに象徴される。単純に図式化するとそうなるけれども、それでもなお本作が面白いのは、エーゲ海に浮かぶクレタ島の情景、奔放なゾルバの人物像の魅力だったりするわけだ。ことにゾルバは実在の人物をモデルにしたと言うことで、非常に生き生きとしており、豊かな世俗知と、女性を愛して止まない好人物として描かれている。作品全体でゾルバを描くことが目的なだけあって、これは特に面白い。
対して語り手の「私」は夢想的な共同社会の構築という目的を持ってはいるものの、実現性が薄いことには気がついている。色々なことを頭に詰め込んでも、ゾルバのシンプルな問いには答えあぐねてしまう。釈迦についての原稿を進めている「私」に対し、ゾルバは言葉も通じない場所で、二三の現地語以外ではジェスチャーや踊りでコミュニケーションを取っていた逸話を披露し、すべてを踊りで伝えたと豪語する。そして「私」にも踊りを踊れと言う。ゾルバは、言葉の限界を超えたコミュニケーションを実践する。原書の表紙は踊るゾルバが描かれている。
このデコボココンビによる炭鉱掘削と、材木運搬のためのケーブル設置作戦をめぐるドタバタのようすはことに面白く、計画が無惨に潰えて、すべてのものを失ったあとで、そこに自由を見いだすシーンは開放感にあふれておりことに印象的だ。そして、「私」はそこで人間の強さを見いだす。
すべてがうまくいかない場合、自分の魂を試み、忍耐と勇気があるかどうか試してみることは、何という喜びであろう! 目に見えない、全能の敵――それを神と呼ぶ人もあれば、悪魔と呼ぶ人もあるが――が私たちにとびかかってきて、私たちを破壊しようとする。しかし、私たちは破壊されはしないのだ。353P
女性憎悪とキリスト教
ただ、気になるところもある。女性を愛して止まないプレイボーイゾルバはその持論としてこういう。
だがねえ、男あみんな女あ見りゃあ、欲を持たなきゃならん。それが女の求めてることでさあ。女は可哀想な奴でさあ。だから出来るだけ喜ばしてやらなきゃならねえ! 77P
そして、「女は人間じゃねえ!」と豪語し、女に男と同じ法律を作るなど馬鹿げたことだと断言する。
もてる人物というのは性差別的な観念を持っていたりするものだけれど、ゾルバはまさにそういう信念を持っており、女はかわいそうで常に愛されていなければならないという信念から、彼女たちへの惜しみない愛を注ぎ、行く先々で現地妻を作るようなことをつづける。不誠実のきわみではあるものの、マダム・オルタンスは彼の愛によって生き生きとして快活になるわけで、女の涙に弱くて、「私」の嘘によってオルタンスと結婚するという手紙を書いたことになってしまった責任を取って実際に結婚しようとするゾルバはその信念に対しては誠実だ。それがある種の愛嬌でもある。
ただ、このプレイボーイらしさと裏腹の女性蔑視的な視線はどうにも気になるものだった。しかし、これは実はまだ今作では軽い問題でしかない。むしろ、作者はあまり問題だと思ってないだろう。天国への切符は男のあそこにこそあるのだというゾルバの開けっ広げな快活さは、ここでキリスト教的価値観に対して鋭く対立することになる。
後半のクライマックスの一つに、若い「後家女」が村の長老の息子を振ったため、息子が自殺してしまい、未亡人が村人たちに迫害されるシーンがある。「淫売! 人殺し!」とまで非難され(振ったのに「淫売」とはこれいかに)、村の恥さらしとして迫害されて、長老は皆を前にこう叫ぶ。
キリストと聖母さまの名において、女をやっつけるんだ! 301P
そして長老自身の手によって、教会で未亡人は首を切られて殺される。宗教、教会に対する激烈な批判がある。作中で出てくる山の僧院も扱いがひどくて、教会になんの恨みがあるのかと思うほどだ。
「神と悪魔は一つで同じもんでさあ!」と語り、禁欲など馬鹿げたことで、欲はとことんまで満腹にすれば二度と欲しいと思わなくなる、と自分の実践を語るゾルバは、宗教的な束縛から自由で、教会的な権威と対立する存在として屹立する。
「後家女」殺害の現場で彼女を唯一かばったのがそのゾルバだった。ナイフを持った若い男の襲撃を妨害して勝った隙をつかれて長老に女を殺されはしたものの、彼だけが行動を起こした。その直前に「後家女」と関係を持ったはずの「私」はなにもできず傍観するだけのみならず、起ったことはすべて起るべくして起ったのだという陰惨な結論を出しただけだった。おそらく、「後家女」殺害の要因の一つは「私」との関係にあったろうと思われるのに。
そしてゾルバと関係を持ったマダム・オルタンスも亡くなる*2わけで、男同士の熱い絆を描きつつ、双方の女がともに死ぬことになる展開は、男同士にとっての「じゃま者」(ボルヘス)として死を運命づけられたようにも読めてしまう。つまり、ホモソーシャルとミソジニーの同居があるように見える。七十年前の小説に言うのもなんだけれど、個人的にどうにもそこが気になった。
暴力、自由
過去を語りたがらないゾルバだけれど、クレタ島に来たのは二度目だ、ということについて問われてようやく語ったのは、クレタ島の蜂起に参加したエピソードだった。クレタ島はギリシア王国成立時点では領土ではなく、オスマントルコに支配される地域だったけれども、ここに住むギリシア人正教徒は本国との統一を目指して闘争をしていた。1896年から騒擾は激化し、イスラーム教徒住民による正教徒住民の虐殺も起こり、蜂起へと発展する。この結果ギリシアとトルコでの戦争へと展開し、ギリシアの敗北と共に列強の介入もあり、列強による共同統治ののち、クレタはトルコ帝国内の自治領となった。ゾルバが、
わしらのやったこと、皆、汚ねえごまかし、盗み、人殺し、――つまりわしらの反乱よ。これが王子ゲオルギオス殿下をクレタ島へ連れて来たことになったんじゃねえか、自由をよ! 51P
というのはこの時期のことを指している。この自治領クレタの高等弁務官になったのが国王ゲオルギオス一世の息子「ゲオルギオス殿下」だ。そして、このゾルバの台詞は、非道をつくした自分たちに神は落雷ではなく、自由を与えた、これはどういうことなのか、不思議でならねえ、と「私」に問いかける。神への不信につながるこの疑問に対して「私」は答えることができない。
ゾルバはこのクレタ島の蜂起以外にも、マケドニア領有をめぐるブルガリアとのゲリラ闘争にも参加している。そしてこの闘争のおり、ブルガリアの村で自分を匿ってくれた未亡人女性に助けられ逃れたのち、村にとって返して村ごと焼き払う所行に及んだことを告白している。
なぜゲリラ闘争のことを告白したのかというと、「私」に戦争に行ったことがあるか、国のために戦ったことがあるのかと聞かれ、そんな「馬鹿馬鹿しい」ことはどうでもいい、と答えたことについて「私」に問いつめられたからだった。ゾルバは自身の悪行を告白し、「わしゃそのころ、もちろん愛国者でしてな――野獣でさあ」といい、こう続ける。
国なんて区別がある間は人間は動物のままでいますぜ。獰猛な動物でな…… 281P
蜂起、ゲリラを経て、国やキリスト、「聖母さま」にも敢然と反抗し、「私」に唯一足りないのは「愚かさ」だと喝破するするゾルバの闊達さがとりわけ印象に残る。
そうして、
カザンザキスは、枢軸国の占領中『その男ゾルバ』の執筆に没頭していた。戦後、小説の主人公である肉体労働者のアレクシス・ゾルバスは、権威に公然と反抗する強靱さと、自由を追求する独立精神をあわせ持った、理想的なギリシャ人の象徴となった。
村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史』中公新書 186P
として人々の記憶に残ることになった。ギリシアのクレタ島イラクリオン国際空港にはニコス・カザンザキスの名が冠されている。
参考
物語 近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで (中公新書)
- 作者: 村田奈々子
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東欧周辺としてみると、オスマン帝国支配ののちに独立していった諸国家の一つとして、近代にたどった運命はバルカン諸国と非常に似ており、第二次大戦期にナチスドイツの侵略を受けて共産主義系パルチザンが活躍し、国家権力の掌握間際までいったあたりまでは殆ど同じルートをたどりながらも、英ソの政治的取り引きによってソ連の支援対象にならず、ギリシアが西側諸国に属すことで、いわゆる東欧諸国とはまるで逆コースをたどっていく。元々反共ムードが強かったためもあったらしく、戦後はパルチザンへの抑圧弾圧が過激化し、白色テロによって左翼分子の虐殺暴行が横行し、悲惨な内戦へと至る。また60年代末には西側諸国としては唯一独裁政権が誕生している。
近代国民国家の誕生と苦難が如実に現われており、その諸々は東欧諸国とも通じるもので、カザンザキス作品の絶好のサブテキストでもあり、近代のきわめて興味深い一事例でもあり、とても面白い本となっている。アンゲロプロス作品を見る上でも参考になると思う。私が唯一見たアンゲロプロスは『1936年の日々』で、話も背景もさっぱり分らなかったけれども、長回しの緊張感と、囚人たちが柵をガンガンやるシーンを覚えている。このタイトルは近代化の立役者ヴェニゼロス首相死後、親ナチスのメタクサス将軍が独裁を開始した年という年号。
しかし、キプロス問題や国家財政を粉飾(?!)していたのがばれての経済危機などには、コソヴォやネズミ講事件のアルバニアを思い出させる。
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加盟当時EU最貧国のうえに、闇経済が四割を占めるといわれ、選挙の度ごとにコネと利益誘導が横行するという凄まじい話が紹介されており、どうなってるんだと思うけれども、結局は国家がまったく信用されておらず、自由、自主独立精神の結果なのだろうか。村田著のほうでもギリシア人は自由へのこだわりが強いとはあるけれど、国の標語が「自由さもなくば死」(Wikipediaより)という物騒な代物なだけはあるということか。
葬儀の風習がなかなか独特で、一回埋めてから三年くらいで掘り返して骨になったものを納骨するらしく、その下りでその風習に従っていないカザンザキスの墓に言及するなど、ところどこでカザンザキスにも触れられている。
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通史的部分と、章ごとに絵画や写真を多数紹介して詳細なキャプションをつけることで細かなエピソードの補完や文化史的なアプローチを行うセクションが存在しており、また巻末には主要人物の略伝が記されており、わりと面白い構成になっている。これは「ケンブリッジ版世界各国史」共通なのだろうか。
村田著が章ごとのテーマを重点的に叙述したのに対し、こちらは教科書的な通史となっており、うまく相互補完的な位置づけになっている。政治史的記述にかんしてはあちらよりやはり詳しい所が多く、また記述のバランスも結構違う所があるので、両方読むといいだろう。教科書的なのであちらに比べて平板な印象は否めないけれども、それほど退屈な文章というわけでもなく、イギリスならではなのか、わりと意地の悪い言及がちょいちょい挾まっているのが面白い。
メタクサス将軍の独裁体制について冷静で詳しい評価が記されているのだけれど、そこでギリシア人のことを「抑制のない個人主義」と評しているのには笑ってしまった。「三人集まると五つの政党ができる」というギリシア人評は新潮社本でも書かれていたけれど、本当にそういう傾向があるのだろうか。新潮社本でも書かれていた利益誘導社会について、本書では「オスマンの政府組織の厳しさやいい加減さに対抗するある種の防御装置として生まれた」という観察を示している。二百年来の伝統か。
戦後の独裁政権をアメリカが利用していたなどの経緯から反米感情が強かったりとか、公然とパレスチナのアラファト支持をしたり、ボスニア紛争当時正教国としてセルビアに肩入れしてEUでの足並みを崩すとか、戦後史でもやはり非常に面白い立ち位置にある国だと思う。
ヴェニゼロスへの暗殺計画は確認されただけでも十一を数えるとか、またアルバニアやマケドニア、トルコとの問題の数々など、色々面白い情報も多い。
2011年のボリビア以降、このシリーズの翻訳が途絶えているけれど、山川の世界各国史は地域ごとにまとめてしまってるので、東欧諸国の単独概説書が少ない各国史の翻訳が出て欲しいところ。ルーマニアやハンガリー、アルバニア、旧ユーゴ諸国あたりの。原書が出ているかどうかは知らないけれど。
ギリシア近現代を扱った概説としてはこれくらいだろうか。今見たらフルムジアーディス『ギリシャ文化史』という文化史の通史が近現代のところでカザンザキスを扱っているみたいなのでそれを読めば良かったけれど、きりがないのでいずれ。参考文献を追加していったらどんどん長くなってしまったし、一記事に時間かけすぎた。次はもうちょっとさらっとまとめよう。
シリーズ過去記事
イヴォ・アンドリッチ - 現代東欧文学全集 12 ドリナの橋 - Close to the Wall
現代東欧文学全集1 ノンカの愛 他 ペトロフ〈ブルガリア〉 - Close to the Wall