笙野頼子 - 未闘病記 ――膠原病、「混合性結合組織病」の 前篇

群像 2014年 04月号 [雑誌]

群像 2014年 04月号 [雑誌]

私は難病を隠してこのまま書けばいいの? いや、無理だったね。だって世界を身体をつまりは自分の内面宇宙を理解するためのど真ん中の補助線を見つけてしまったのだよそれを純文学作家笙野頼子無いことには出来ない。57P

「神変理層夢経」シリーズのつづきが出ないなあ、と思っていたら久々の長篇が「群像」に掲載、しかも前後篇ときた、でもえっ「闘病記」?「膠原病」? という驚きを読者に与えたかも知れない笙野頼子久々の作品は、エッセイ風の闘病記録、「未闘病記」だった。

ただ、文芸文庫版『幽界森娘異聞』の後書きや、2013年5月号の「新潮」での短篇でも、病気について触れられていて、持病を得たらしいこと、難病治療中だということなどが記されていて、読者にはあらかじめ多少の予告はされていた。

ということで読んでみると、この「膠原病」の症状というのが、笙野頼子がずっと小説に書いてきていた手の腫れや関節の痛みといった、笙野作品に頻出する身体の痛みや疲れそのものだったことだ。つまり、これまで笙野はそれと知らずに膠原病の症状をずっと小説に書き続けてきたことになる。

本は何十冊も出しているけれど今思えば、それらは一種関節痛や歩行困難の長記録になっている。17P

確かに、笙野作品に出てくる語り手は、とにかく疲労しやすく、元気な時は元気でも、ストレス等ですぐに外出もままならないほどの「脱力」に見舞われたりと、体力がなく、また精神へのダメージが身体に直撃する印象があった。これはこれで一種の文学的表現と見なせる部分もあるけれど、詳細な描写は確実に実体験だと感じさせ、私はこういう部分を、女性は身体が弱い人って多いよなあ、とわりと偏見じみた納得感で受けとめていたのだけれど、それが「膠原病」の一種「混合性結合組織病」だった、とは(実際膠原病は女性が十倍以上多い)。いや、確かに作品に書かれる疲労のあり方は凄まじくて、今思えば体質としても過剰ではあった。生きることが大変そうだなとは思っていたけれど、それが希少な難病に由来するかも、とは考えたことがなかった。こういう風に見落とされている病気って、実は凄く多かったりするんだろう。作中でも、軽度の症状に気づいていない人がいるということを医師が言うところがあるように。

「神変理層夢経」シリーズがそもそも、自身の家の来歴にかかわる「嘘」を起点に、自己史を再編成するもくろみだったのだけれど、それと並行して数十年にわたる自身の身体の不調には難病がかかわっており、知らず症状を詳述していたこれまでの記述が、膠原病の記述として読み直されるという劇的な展開は、これは文学的運命というべきではなかろうかと思ってしまう。

希少難病とはいえ、近年はそう死ぬことはないらしく、そしてステロイド服用である程度寛解に持ち込めたらしいので、それほど危険視することはないみたいだけれども、肺に進行して死ぬ場合もわりとある、というので、そう安心できるわけではない、という状況らしい。とにかく「判らない」病気だということで、その不安感が度々記されている。動けない時は動けないけれども、元気な時は人より元気、という症状のあり方が、人に誤解をされることがあるとも書かれている。

一度座ると立ち上がれない、灯油缶を持つのも一苦労。その詳細な病状の描写は、ほとんど介護が必要なレベルではないかと思わせるもので、日常生活がきわめて困難に満ちたものになっている状況が描かれている。

作品は、冒頭の発作と膠原病として診断される病院での様子や、最初の単行本『なにもしてない』で既にこの病気の症状が記述されていたことなど、自作の症状記述を拾ったり、自身のこの不調のあり方の描写等々が笙野的文体で描かれていく。

というわけで、要約したりストーリーを紹介する類の作品ではまったくなく、「膠原病」を患っておそらく数十年、という一人の小説家のその体験を「記録」し「報告」する、個々の具体的記述こそが命だ。

そして、近作ではかならず言及される「幸福」についても、こう書いている。

生きている事それ自体の至福を私は、この病を通してずっと知っていたかもしれない。無事が贅沢、無痛が栄華。長年、死にたくもなく痛くない状態というものを想像出来ず、それでも痛みが少なくストレスもなかった奇跡の何日かを覚えていて自分は幸福だ生まれてきて良かったと思っていた。20P

常にそうした苦痛とともに生きてきたことの重さ。だいたい健康の私には到底想像することも出来ないような生がそこにある。そしてそれゆえに、死ぬことへの恐れが表面化して、つねに死ぬかも知れないことへの、猫を残してしまうことへの怯えが繰り返し書きつけられる。

また、興味深かったのは、自身が病気と認識することで、身近にも同じ病気ではなくとも難病を抱えて生きている人がいる、ということに気づくくだりだ。病気を隠して働いている「相手の不可思議な行動への疑問一気に氷解」するという73ページの文章は、難病ではない読者たちにとっても非常に示唆的なものがある。つまりは、面前で勝手に吸われる煙草なり、酒を強要したりといった勝手な「常識」の押しつけがいかに最悪か、ということ。病歴といったプライベートなことはそうそう公言しないし、自身の身体の弱点や不調をおして生活している人というのは案外に多いという認識は、やはりつねに持っておくべきだと改めて思った。

笙野は終盤でこう書いている。

個体は孤独でも人体は普遍だし、身体が孤立しても心に言語という名の社会が存する。そんな心身の同行具合はひとりでいるしかない私の心身を記述のベースにした小説によって追求されていた。要するに私はフォイエルバッハの側に立つという事だ。体は心なのだ。心は言葉を生む。心身の通い道に落ちた言葉を私は拾ってきた。81P

近年の荒神ものがそうした路線のものとしてあると言及しながら、こう続ける。

でもね、そうすると……フォイエルバッハが判るのは膠原病の人間だけなのか? まさか。健康な人間の内面には何もないのか? 個人の身体には特異性がないのが正常なのか、いや、病気はある。そして隠れた病気を書いてもそれは人に通ずる。また、人間の所有が個人を規定するという観点がある。そこから言えばまさに私のこの病気は私自身を規定して、私小説となり、妄想小説となり、体の声はそのまま作品になった。81P

エビデンスがない不調を書くことで、普遍性と抽象性を獲得してきた自分の作品が膠原病だとわかることで、読者が離れるかも知れないと作中に書かれている。しかし、以上を見てもこれを書かないという選択肢は笙野にはないというのは明確ではないだろうか。私にはむしろ、この「未闘病記」の展開は、まさしく笙野頼子的な展開のように見える。

作中でミステリーの解決編のようだと書かれているように、これまでの「金毘羅」的生きづらさの一面の謎が医学的に解かれるという作品になっていて、年来の笙野読者ほど面白い作品だろうし、また膠原病という全国でも一万人を越えない患者数の難病、その体験記としても希少なものではないかと思う。

なんか、うん、いろいろな意味で壮絶で凄い。次号発表の後篇はどうなるだろう。

参考
『未闘病記 ----膠原病、「混合性結合組織病」の 〈前編〉』(笙野頼子)(「群像」2014年4月号掲載):馬場秀和ブログ:So-netブログ

余談だけれど、群像のこの号に載ってる町田康の連載「ホサナ」のこれまでのあらすじをふと見てみたら意味不明すぎて笑ってしまった。