後藤明生と阿部和重『アメリカの夜』と、『Deluxe Edition』

アメリカの夜 (講談社文庫)

アメリカの夜 (講談社文庫)

後藤明生イベントについて書いた記事のつづき。

「演技」と「仮装」

その電車の中で読んでいた阿部和重アメリカの夜』を読み終えた(半月ほど前に)。いろいろ面白くはあるものの、どうも好みではない、という印象がある。その第一の原因はやはりというか、批評のパロディのようなこの文体にあると思う。

で、『挾み撃ち』との類似については、私が十年前にbk1に書いたレビューがあるのでそれを引用する。アメリカの夜の通販/阿部 和重 講談社文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア

この作品は、一人称とそのなかで語られている中山唯生という人物とが同一人物であり、自分が自分を語るという自己言及の形式を、かなり自覚的に構築している。「アメリカの夜」自体がP・K・ディックの「ヴァリス」を模倣していることが作中で語られているのだが、この模倣というスタイル、テーマは否応なく後藤明生を思い出させるのである。

後藤明生群像新人文学賞の選評で、「アメリカの夜」についてこう書いている。

「やがて〈語る私=語られる私〉のテーマが出て来た。また〈模倣〉のテーマが出て来た。すなわち、これは〈自己言及〉のテーマを〈模倣〉の方法によって書こうという試みである」

後藤明生の「挾み撃ち」はゴーゴリの「外套」をモチーフにしつつ、その模倣を志しながらも失敗し続けることと、自分の来歴を語る自伝的営為の失敗とを重ね合わせつつ語っていく特異な方法で書かれているのだが、「アメリカの夜」は意識的に「挾み撃ち」を模倣しているとも取れるような作りになっている。なによりこれは「映画」にかかわる「アート系」の自意識過剰な人間たちのあいだで自分もまた「特別な存在」であろうとする格闘を描いている。それは「挾み撃ち」と同じく、ひとつの「青春」の物語なのだ。その「青春」―自己言及に自己言及を繰り返すような自意識の劇を喜劇化するという点がまた両者に一致している点だと思う。

分身的なモチーフと、自意識の喜劇を描き出す手法は、阿部自身が言うように、ドストエフスキーの『地下室の手記』なんだろう。

再読してみて興味深いと思ったのは、映画撮影に関する話なので、後に「演技」が出てくるところだ。終盤、奇抜な出で立ちで映画撮影の現場に赴き、そこで不良達と出くわして喧嘩になる場面があるのだけれど、そこらへんと後藤明生作品のいくつかの場面とに、面白い対照性がある。

後藤の「笑い地獄」には、こういう文章がある。

笑い地獄 (1969年)

笑い地獄 (1969年)

 

笑うための、あるいは笑われないための演技はやっているわけですよ、ふたりは。お互いにお互いを笑い合いながら、お互いに笑われないための演技をしている。わたしはそれを、しないことにしています。笑われるための演技もやらない代わり、笑われないための演技もしない。これがわたしの仮装であり、不参加というわけ(後略) 『笑い地獄』文藝春秋 36-37頁

この「演技」と「仮装」という区分はにわかには分りづらい。これは、後藤明生の基本認識となる「原因不明の世界」「喜劇」ということとかかわりがある。すべてがどんなことでも突然に起こりうる(後藤にとってのそれまでの世界観が崩壊した敗戦)、そして、誰もが絶対的な立場に立てず、誰もが誰かを笑い笑われるという相対的な地位にあるという喜劇的世界観が後藤にはあり、「演技」というのはそれを拒否する仕草として、ここで語り手によって拒否されている。「仮装」とはその喜劇性を受け入れ、肯定することなんだけれども、阿部の『アメリカの夜』は非常に演技的な文体に見えるというのが、後藤明生読者側としての私から見た時に阿部に感じる不満の一端をなしている。

後藤明生の「?」と「とつぜん」を多用する世界への困惑と同時にそれを肯定するかのような「仮装」的な文体と、『アメリカの夜』の批評的「演技」をしている文体には、そういう差異があるように思う。ものごとへの態度がまるで違っている。「仮装」と「演技」のもう一つの側面は、自意識ということだろう。『アメリカの夜』は自意識を方法化する話法なわけで、ずうっと「演技」の話をしている。これがやはりちょっと面倒臭い。それに対して後藤明生的「仮装」の快活さがやはりずっと私には好ましい。余談として、後藤明生から「仮装」的文体を継承した作品としては佐川光晴『ジャムの空壜』がある。

ただ、ここから見ると、『アメリカの夜』の白と黒の衣装に身を包み、何かの「仮装」のようにして映画の撮影現場で「演技」するのはいつかと待ち受けている中山唯生の姿は非常に示唆的ではある。

暴力の停止

後藤明生の『挾み撃ち』には二つの「暴力」の未遂を描いたエピソードがある。ひとつは、古賀弟の空手練習に付き合った「わたし」が、見よう見真似で繰りだそうとした拳突きを中断するシーン。もう一つは、映画の宣伝で「二等兵の格好」をしているとき、そばに居た男の用意を手伝う時にある理由で腹を立てて「見よう見真似の拳」を食らわせようかと思案するシーンだ。

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

 
挟み撃ち 後藤明生・電子書籍コレクション

挟み撃ち 後藤明生・電子書籍コレクション

このシーンについて、十年前に卒論で書いたことを思いだしたので、そこから引用してみる。

 後藤明生の「仮装」とは、その滑稽なる「わたし」そして「運命」を肯定するという所作そのものであり、「わたし」が拒否する「演技」とはしたがってその滑稽さを拒否する仕草なのだといえるだろう。言ってみれば「仮装」とはこの小説そのものなのである。
その意味で、作中では「模倣」とは「演技」なのであり、そのような「模倣」が不可能であるということから出発している『挾み撃ち』にあっては、「模倣」の完成―すなわち「演技」―は拒否されなければならない。それをとめさせる言葉というのが、陸軍の「夢」である兄の言葉と、土着を示唆する「ばからしか、ち!」であるのはそのためである。この二つの言葉は、ともに「わたし」が断念したものであり、模倣しきれなかったものである。
 つまり、「演技」を拒絶し「仮装」に徹すること。それが「わたし」の行動を貫く基本原則であり、二等兵の格好をした「インテリ丙種合格」が「本物そっくり」であるというところに、作中で唯一の決定的憎悪を「わたし」に抱かせるのは、「わたし」の「夢」であった本物の「二等兵」が消滅した世界で、「本物そっくり」などと、「模倣」の完成を思わせる台詞を呟いたからである。

そして模倣は常に失敗し、演技は拒否され、暴力は停止する。最近、この暴力の停止ということが『挾み撃ち』の何か決定的な点なのではないかという気がしている。後藤明生にあって、暴力に対しての描写はどうだったのか、いまは再検討できていないけれども、幼少期からの近親者の立て続けの死と、敗戦とともに逃げ帰った時には父と祖母を亡くす、という子供時代の決定的な死への恐怖がその根底にあり、『挾み撃ち』にもそれは響いている。

それに対して、『アメリカの夜』では、決定的な憎悪を抱いた中山唯生は不良少年達を殴り倒し、流血沙汰となり警察の厄介になるという展開をたどる。暴力に対する態度において、ふたりがきわめて対照的な点だろう。映画的な阿部とゴダールはわからん、といったという後藤明生の差異でもあるかもしれない。

トークイベントで聞いたところによると、阿部さんはこれが三度目の新人賞投稿作だといっていて、そう聞いてみると、まさに阿部自身にみえる映画学校卒の人間を主人公にすえ、自己自身を全面的に題材として描き出した今作が、自身のすべてを詰め込んだ渾身の一作だったのだろうとうかがわせるところが見えてきて好感がもてた。

後藤明生阿部和重安部公房

また、トークショーで、阿部和重安部公房をよく読んでいた、という風に言っていて、私も安部公房から文学を読み始めたので勝手に親近感を抱いていたのだけれど、安部公房後藤明生って考えてみれば結構共通点がある。

二人とも日本の植民地で幼少期を過ごしてそこで敗戦を迎えて(公房は行ったり来たりしてるけれど)、敗戦にショックを受けるとともに、その引き揚げ過程で苛酷な体験をしている。また、公房は北海道に色々縁があるように、後藤も帰国して九州に戻る、というわけで、日本の北と南という「辺境」を二人は過している。後藤明生の敗戦体験を淵源とする「原因不明の世界」において、笑うものは同時に笑われるものにもなる、という「喜劇的世界観」は、安部公房の「ミイラ取りがミイラになる」的展開や、『箱男』の見るものが見られるというロジックとも通じるものがあるように思えて、資質としてかなり異なるものの、核として共通する部分が結構あるのではないか、というこじつけをトークショー以後、考えていた。敗戦引き揚げ組のメンタリティなのだろうか。つまり阿部和重安部公房が好きだったということには理由がある、と。

『Deluxe Edition』

というわけで、『Deluxe Edition』も読んだ。

Deluxe Edition

Deluxe Edition

もちろん作風は全然違っていて、暴力と性の映画的(?)な話もあれば、暗示的、寓話的な奇妙な味のものもあり、そしてまたゴルゴ13涼宮ハルヒのパロディみたいなものもあり、バラエティに富む短篇集となっている。面白いのは、暴力やらを扱って描写していても、奇妙に距離を置いていて、そして悲惨な作品でもどこか明るく爽やかな印象があるところだ。時事的なネタを題材にしていることが多いのだけれど、あまり安易さを感じさせず、距離を置いて皮肉や諷刺的にアプローチや展開を操作していく感じがして、やはりクレバーな作家だという印象。

冒頭のゴルゴ13を絡めたSF的掌篇からはじまり、ヤクザ抗争の話やハルヒパロディ、そして被災地を荒らす強盗団の抗争を描いた長めの短篇はなにか映画的な感じで非常に面白い。また、ビン・ラディン殺害を題材にした「Geronimo-E,KIA」は、ジャララバードという地名が出て来たり、殺害事件というスペクタクルをゲーム的に反復する話で、ジャララバードや911を反復する短篇が収められている宮内悠介の連作『ヨハネスブルクの天使たち』とかぶる部分があり、なかなか面白い。体を売る家出娘の話は、悲惨なばかりかと思わせて強い希望を感じさせるところがある。

そして、トークイベントで最後の話が寓話的というか、そんな感じでこれが最後にあることがいい、とある人が本書を勧めてくれた時に話に出たラストの掌篇「Ride on time」が確かにとても面白い。ビッグウェーブを待ち受ける波乗りたちの話、そしてやってくる稀代の大波、をどこか微妙に震災の津波に被せることで、非常に奇妙な距離感を作りだしていて、絶妙な作品になっている。初出は「早稲田文学」の増刊、「震災とフィクションの?距離?」という号に載っていたらしく、その特集タイトル通り、阿部和重の対象との距離感覚の優れたバランスを感じさせる一作ではないだろうか。戯画化でもなく諷刺でもなく、前へ向かう意思を感じさせる。

 そろそろぼくも、あの大いなるうねりの頂点に立つべく舟を漕ぎだしてみようかと思う。
 たとえまたもやライディングに失敗したとしても、そのありさまが、三〇〇人もの人たちの目に留まれば、ひとつの意味がどこかに浮かびあがりはするだろう。
 ひとつの意味がどこかに浮かびあがれば、それも突破口をこじ開ける、力の一部に生まれ変わるにちがいない。
 そうすれば、いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えることができるかもしれない。

大波に乗ろうとする語り手の述懐に、どこか震災後への意識が埋め込まれたような独特の距離感がある。差し挟まれる「金曜日」は直接に三月十一日を指しているようにも取れ、フィクションと現実の交接点として提示されているように思う。

デビュー作と最新作を読んでみたわけだけれど、買ったまま十年が経ち、講談社文庫で再刊されてしまった新潮文庫版『ABC戦争』を読んでみようとは思っている。とはいえ、読んでみようと書いてそのままになっている本がどれだけあるか。そして読んだまま記事にしてない本もまあ、けっこうある。