立教大学で行われた表題イベントに行って来ました。
20世紀後半のチェコを代表する作家ボフミル・フラバル、その生誕100周年記念シンポジウムが3月29日、立教大学で開催されます。フラバル作品を原作にした映画上映、講演、ディスカッションと、非常に濃い内容。詳細はこちらへ→URL
2014-02-24 12:40:49 via web
立教大学では確か確か笙野頼子が院で教授をしているのだったなあ、と思って眺めていたけれど、これがまた歴史を感じさせる非常に素敵な建造物群で、戦前のモダンさみたいなものが感じられる雰囲気の良い所だった。建物のスケールのちょっと手狭な感じ。立教大学の写真の一つでも撮っておけば良かった。
- 作者: ボフミル・フラバル,阿部賢一
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 2014/04/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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映画『剃髪式』
建物に入ってみると、入口でさっそく『剃髪式』が販売している。とはいえ場所を間違えて時間ギリギリだったので、素通りして着席すると、さっそくフラバル原作イジー・メンツル監督の『剃髪式』の上映が始まった。1980年制作、93分、字幕阿部賢一。
始まって、長身の男性とブロンドの女性が抱きあっている場面から始まり、何事かと思うと、男がプレゼントを買ってきたと言う。どこにあるか探してご覧、と体中をまさぐらせ、出て来たと思ったら「糸通し」。みんなも御存知のあのデザイン。これがいきなりおかしくて、それから夫フランツィンが支配人で、妻マリシュカと働くビール工場の風景が描かれていく。妻マリシュカは快活な美人として、映画の核となって非常に魅力的に描かれており、真面目で振りまわされがちなフランツィンと対照的ながらも仲の良い夫婦だ。
そこへやって来るのがフランツィンの兄ペピン。靴職人という彼はクソうるさい大声でのべつ幕なしにどうでもいいことを喋りまくる強烈なキャラクターで、その大声はフランツィンと経営陣との会議を中断させてしまう。この大声のインパクトは凄くて、彼の話が始まるたびに会場中が笑いに包まれていた。
至る所にギャグが仕込まれ、インパクトのあるキャラクターと夫婦や職人達の労働風景がユーモラスに描き出されており、軽快で楽しい映画になっている。
時代はフラバルが生まれるまえ、チェコ共和国もまだない1910年代。ラジオが実用化されはじめた時期の頃のようだ。そして、世界の距離は短くなり、「短縮」という言葉が流行し、妻マリシュカは町の宝とまで言われた長髪をザックリ切り落としてショートカットにしてしまう。『剃髪式』とは一つにはこのことを指しており、新しい時代への期待感が抱かれ、そして作家になる子供がマリシュカに宿っていることがわかる。
フラバルのことだから、いつ戦争や悲劇が起こって陰惨なユーモアになるのかと恐々としていたのだけれど、自分の父と母をモデルにしたこの作品では、そうした陰鬱さはなく、最後まで爽やかに人々の生活を描いて終わる。それがとても良かった。非常に楽しい作品で、フラバル原作の映画を見るのは初めてだけれど、あの世界が映像になるとこうなるのか、ととても面白かった。
映画を見ているとフランツィンが主人公のように見えるけれど、小説をパッと見てみてると、語り手はマリシュカというのがちょっと意外だった。視点というものが映画と小説ではそういうふうに違うというのが面白い。
フラバルを語る
映画終了とともに休憩となったので、忘れた筆記具を買いにコンビニに行って戻って、『剃髪式』等フラバル本を売り子をしている男性に、もしやと思って聞いてみると松籟社の木村さんだった。「幻視社」の第五号で東欧特集をした時に電話で刊行予定等を聞いて以来、幻視社をお送りし、また木村さんからも〈東欧の想像力〉叢書等をお送り頂いて、とてもお世話になっていたので、このイベントで会えるかな、と思ってたらさっそく挨拶できた。そこで買おうと思っていた『剃髪式』を、ご厚意にあまえてありがたく恵贈いただくことにした。本当にありがとうございます。
そして、チェコセンターと駐日チェコ共和国大使館とでフラバル翻訳コンテストというのが行われていたらしく、その贈賞式があった。二名の内一名は日本にいないといういことで、もう一人の受賞者の若い女性がコメントをしていたのだけれど、フラバルの翻訳は非常に難しい、ということを言っていた。
その後、東京外語大講師のマルケータ・ゲプハルトヴァーさんによる、フラバルについての講演が行われた。フラバルの生涯を追いながら、後期の自伝的三部作を詳しく解説するというもので、「ピプスィから見たフラバル、フラバルから見たピプスィ」という題で、フラバルが妻の視点から自分たちの出会いを回想する作品を書いていることから来ている。
フラバルの作品は、市井の人々を描き、説教をしたり、非難したりと言うことをしない。どんな人も弱みがあり、愛を持って描き出す、という。法学博士を取得しつつも、労働者として市井の人々と一緒に働き、夜は特定の酒場で酒を飲んでいたフラバル。
そんな彼も、「プラハの春」以後の「正常化」の流れの中で刊行を禁止され、作家としての危機を迎える。体制に屈従するインタビューを発表し、それで出版が解禁されるのだけれど、その体制迎合には批判も多かったという。
そうして妻が死ぬ前に、自伝的な三部作を書き、それは句読点のないもので現在と過去が交錯するような実験的なものも含まれている。この三部作は是非とも翻訳されて欲しい。阿部賢一さんはあれは本当に訳したくない、と言っていたけれど。その最愛の妻が亡くなると、フラバルは意気消沈し、長いものをほとんど書くことがなくなり、猫だけを心の支えに生きていたという。晩年はかなり陰鬱な生活だったようだ。
他にも、書くことがメランコリーから回復する手段だ、とかグロテスクさを喜劇として提示する、とか、文章をあえて未完のままにすることでダイナミズムをもたらしていることとか、読者による想像によって作品が完成する、というような読者論を主張していたことなど、興味深い論点が多数あり、これらはどこかで活字化されてほしい。
それから、阿部賢一、小野正嗣、沼野充義、いとうせいこう各氏(以下敬称略)による鼎談がスタート。
これも面白かったんだけれども、雑多な話題が交錯していたので、どんな話が出たのかいまひとつまとめづらい。
小野正嗣が、すごいどうでも良いことが延々と続くので、読んでいる時に寝てしまうことがあるんだけれど、それって実は正しい読み方かも、とか。いとうせいこうの、自分はチャペックに倣ってベランダ園芸をはじめたり、なにするにもカフカが出て来たり、フラバルに衝撃を受けたり、自分はチェコ文学が好きすぎる、とか、沼野充義の中欧におけるフラバルの重要性とか、クンデラとの比較とか。
フラバルの記憶力は異常なくらい良かった、とかクンデラがチェーホフだとするとフラバルはドストエフスキーだ、とか、フラバルの語りは同じ事を何度も重ね書きしていくというやりかたは絵ではできない、小説だからできること、という指摘とか、散文は説明が入ってしまうので、普通は詩の方が狂暴になるものなのに、フラバルは散文の方が狂暴だ、という話等々。
やはりフラバルは語りの方法が凄いということは何度も指摘されていた。そして、エステルハージ・ペーテルによる『フラバルの本』という作品を沼野充義が紹介していて、それがとても面白そうだったり、中欧でフラバルはとても尊敬されている、非常に重要な作家だという。
フラバルは肉感的な作家だ、といういとうせいこうの発言は、確かにと思える。労働と汗と血。これは映画版からも匂い立つ。他の作品にも、糞尿などの下ネタや、「尻」などのエロスといったものが特徴的にも思う。生活、食欲、性欲、ときわめて日常生活的な彩りに溢れているのがフラバルで、それでいて、市井の人々を非難しないという目線が、フラバルの作品の良さの源泉でもあろうかと思う。
脱線に脱線を重ねる語り、というと二代目後藤明生を名のるいとうせいこうつながりで、やはり後藤明生を連想したし、日常の些事へのこだわりというとニコルソン・ベイカーを思い出す。そんないとうせいこうさんには再来週の後藤明生イベントで再見する。
イベント終了後、松籟社の木村さんといろいろ話して、今後の予定などをきいて、わっ、楽しそう、と。カダレやキシュの他の作品も出して欲しいと、言ってみたのだけれど、カダレは特に訳者が一人しかないので、難しいという。そこは訳者の層が厚いチェコやポーランドはいいなあ。
凄かったのはイベント終了の歳の一言コメントで、フラバル訳者でもある石川達夫さんが、阿部賢一さんが『断髪式』を『剃髪式』としたのは、非常に問題があるのではないか、という指摘をしていたところで、チェコ文学の先達による容赦ない指導に恐るべし、と思ったのだった。
終了後、東京新聞の文芸時評で早稲田文学に載った向井豊昭の「用意、ドン!」を扱っていただいた沼野充義さんに「向井豊昭アーカイブ」管理人の一人として一言でも、と思ったけれども、機会を見つけられずそのまま帰宅。会場には、阿部賢一さん、沼野充義さんの他にも、飯島周さん、石川達夫さんといったチェコ文学翻訳の著名な方々にくわえ、シュルツ研究の加藤有子さんやキシュ研究の奥彩子さんらがいたらしく、東欧文学研究の錚々たる顔ぶれだった様子。
非常に楽しいイベントでした。チェコセンター(?)の方も言っていたように、定期的なイベントに出来るといいと思います。そして、講演、シンポともども、どこかに活字化して欲しいと思います。