SF乱学講座2014.4.6 - 忍澤勉「「惑星ソラリス」に秘された記号を探し出す。」

SF乱学講座2014年4月の予定
日曜、忍澤勉(id:oshikun)さんによるタルコフスキーについての発表がありました。

惑星ソラリス Blu-ray

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SF評論賞選考委員特別賞、創元SF短編賞・堀晃賞受賞者でもあり、『北の想像力』チームでご一緒した忍澤さんのタルコフスキーにかんする講演ということで、私もいまさらはじめてタルコフスキーの「惑星ソラリス」を見て、また忍澤さんのSFマガジンに分載されたタルコフスキー論「『惑星ソラリス』理解のために」全三回の内、二回分が手元にあった(二回目がなかった)ので、それらで予習をしてから出かけました。
S-Fマガジン 2012年 06月号 [雑誌]

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S-Fマガジン 2012年 08月号 [雑誌]

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当日は、原稿を読んだりするというよりは、プロジェクターを使ってソラリスの映像を適宜引用しながら、タルコフスキーの全作品などからの場面写真を引用して、タルコフスキー特有の表現、象徴、モチーフなどを横断的に見ていくというもので、タルコフスキーを「ソラリス」しか見ていない私としては、他作品での場面、論考で扱われた個々の表現の実物を見られた点で、とても参考になるものでした。

時間の関係もあり、「ソラリス」自体が長大な映画なので、会場締め時間ギリギリまでかかっても用意した論点をすべて消化することはできなかったとのことですけれど、タルコフスキーのわけのわからない映像表現にそのつど参加者らからツッコミや疑問が多々投げられ、なかなか楽しい感じの講座になっていました。

なぜ雨に打たれてもクリスは家に入らないのか、モノクロとカラーの区分は何に由来するのか、とか有名な首都高のシーンなどなど、「ソラリス」自体、非常に不思議な表現、意味深なシーン、意図ありげなオブジェ等々の、さまざまな解釈を誘うものに溢れていて、言ってみれば突っ込みどころのオンパレードなので、多人数で見て口々に疑問論点を提示する見方に向いているのではないか、という話になって、そういう企画をどこかでやろうという話題にもなっていました。

論考でも触れられていましたけれど、ソラリスの映画にはタルコフスキーの個人的な家族親族関係の示唆がさまざまに埋め込まれているというのが忍澤論考の趣旨の一つで、自殺した妻ハリーにタルコフスキーの母の面影が重ねられている(タバコ等)ということを、他のタルコフスキー映画や実際の母の写真などをつき合わせて指摘したり、序盤にクリスが書類を燃やしている中に一瞬しか映らない写真は、裏返してよく確認すると人の顔が写っている、という指摘などはまるで心霊写真のようでちょっと場がざわついたり、さすがの精読(?)ぶりです。

その他にも、食べかけのリンゴが映る場面をタルコフスキー映画からたくさん集めてきたり、水草や焚き火、水の落ちる場面の数々や、飛行と墜落のイメージ、転ぶ場面、あるいはソラリスステーションとストーカーの地下水道に似たイメージがあるとか、その他その他、一つだけではただそういう場面がある、というだけとも言える描写を横断的に拾い集めて同じ構図、同じイメージの継続的使用を指摘することで、それが作家特有のイメージだということを指摘するところは非常に面白いものでした。タルコフスキーの実際の別荘と同じものが映画に出てきていることや、壁に掛かっている絵や写真の元ネタ指摘等々、いずれもが意味深いようでいて謎めいているオブジェが何なのかを考えるヒントとなる指摘でした。

なかに、ソラリスステーションの図書室には、プーシキンデスマスクが飾られている、という指摘がありましたけれど、ひとつ私がなんだろう、と思ったのはその図書室にはトランペットが掛かっていたことです。そして、最後に父と再会する場面のクリスの実家にはホルンが掛かっている。同じものではないけれども似たようなものが共通しておいてある、このオブジェは何なのか。会場でも指摘があった昆虫標本もそう。もちろん、ただ、それっぽいものが置いてあるだけかも知れません。

私は、スナウトの部屋で出てきた、耳に注目するように、という忍澤さんの指摘がその後時間切れになってしまったので、どういう係り受けをするはずだったのかな、というのが今思いだした疑問です。耳と言えばたぶん終盤のクリスの耳に超クローズアップするところにつながるはずなんですけれど、どういう解釈があるのかな。連載二回目に載っているかも。

そういえば、タルコフスキー作品に「僕の村は戦場だった」というタイトルのものがあるのをはじめて知ったのだけれど、このタイトルを聞くと私は日本のインストバンドSIBERIAN NEWSPAPERの同曲しか浮かばなかった。おそらくこの映画から取った題名だろう。

「別の世界は理解できないし、する必要もない」

ソラリス (スタニスワフ・レム コレクション)

ソラリス (スタニスワフ・レム コレクション)

忍澤さんの「『惑星ソラリス』理解のために」は、とても面白い論考でした。批評理論等を使わずに、ただただ徒手空拳でソラリスに向かって格闘するというスタイルで、ここまで読み込んでいくのかという迫力があります。また第一回、タルコフスキーの読んだロシア語版『ソラリス』は、どのような検閲がなされたものだったのか、とロシア語がわからないながらもロシア語版を底本にした早川の世界SF全集版と国書刊行会の完訳版の詳細な比較検討をしていくことで、ロシア語版『ソラリス』は、レムにとって非常に大切な部分が削られてしまっていたことを示す部分は意義深いものと思います。

完訳版『ソラリス』の意義については、Amazonであまり意味はないという指摘がありますけれど、忍澤論考では、削除された部分にあったソラリス描写とソラリス学の蓄積と挫折、そして宗教的議論等々がきわめて重要だったという主張をしていて、説得力があります。この、宗教的な要素が習慣的な部分まで削除されている(聖なるものへの誓い、が指切りへと変えられる)というところは、ソ連でのタルコフスキーの映画製作においても同じような禁圧があった可能性を示唆します。タルコソラリスからもまた、宗教的な要素は表面的には隠され、忍澤さんはそれを読み解いていくわけです。完訳版『ソラリス』は私は読んでいないけれども、これはそのうち読んでおかないとな、と。忍澤論考での指摘から、レムにとってはコミュニケーションの不可能性と同時に、コミュニケーションを諦めないことが肝になっているものと読みました。

その点からすると、タルコソラリスは、明らかにレムソラリスに逆行している。タルコソラリスのスナウトは、こういう台詞を言う。「別の世界は理解できないし、する必要もない 我々に必要なのは鏡だ」 しかし、鏡は見つからず、化物にむかって猪突猛進する愚かな状況だ、とスナウトは『ドン・キホーテ』を引用しつつ語る。この台詞はタルコフスキーとレムの資質が正反対だということの証左のように思えます。

レムソラリスでもそうなのかは覚えてないのですけれど、タルコソラリスには鏡がきわめて重要な道具として出てきます。ソラリスの生んだハリーが自分の写真を見てもそれが誰だかわからず、鏡を見てその写真が自分を写したものだということを知るシーンがありますし、『ソラリスの陽のもとに』文庫版で裏焼きされて表紙にもなったハリーとクリスが鏡を覗き込むシーン、図書館のスナウトの誕生日で鏡越しにハリーとクリスが見えるシーン、その他もあったはずで、そして、ハリーは自らが何者なのかという問いに悩まされる存在として描かれています。「客」として作られた人間でない存在としての自分という悩みが、クリスの罪悪感の苦悩と共にパラレルに語られていくのがタルコソラリスの魅力でもあるでしょう。

忍澤論考でも指摘されているとおり、映画で大胆に導入されたのが、タルコフスキーの家族問題で、タルコソラリスでは、冒頭と結末とでクリスの実家が出て来て全体を挾むという構成になっています。冒頭で川で流れる茶色い葉っぱは、結末でのソラリスの海に浮かぶ島とそっくりだという指摘があるとおりです。そして、宇宙に出てしまうためもう会うことは出来ないと思っていた父に再会したクリスは父にひざまずく場面が、レンブラントの「放蕩息子の帰還」と同じ格好だということも指摘されています。この場面からどんどん引いていってクリスが父と再会したのはソラリスが生んだ小島でのことだった、というラストシーンは、これは見ていて驚かされたのですけれど、これこそ、レムとタルコフスキーの資質の違いが如実に出ている場面でしょう。

つまるところ、タルコフスキーは『ソラリス』という原作を部分ごとには忠実に、素材としてパズルのように組み上げながら、そこに母の思い出や父との和解といったような人間的なドラマの触媒として用いています。しかし、レムはそうした「人間」への還元のようなタルコソラリスのラストを絶対に認めないのではないでしょうか。忍澤論考で引用されているロシア語版『ソラリス』へのレムの序文は、「人類が、他の星にいたる道の途上で、理解不能な未知の現象に出会った場合の製作見本(モデル)」となるはずの作品だと述べており、ここでは製作見本という言葉に括弧付して「私は精密科学の用語を用いている」と書いており、レムはきわめて現実的な科学の問題として『ソラリス』の内容を考えているはずだからです。「別の世界は理解できないし、する必要もない 我々に必要なのは鏡だ」という台詞はタルコソラリスの全体像を示すものだと思えますけれど、これとレムの発想とは相容れないもののように思います。人間という枠組みの内に向かうか、外へ向かうか、その点できわめて対照的なのがレムとタルコフスキーではないか。

なんて言うのにはまず完訳版『ソラリス』を読んでからにしろと思うし、おそらくこんなレムとタルコフスキーの比較論なんてのはいくらでも既に書かれているはずですけれど、そこら辺の蓄積をまったく私は知らないので、とりあえず忍澤さんの乱学講座とその予習で感じたことを上述の通り書き留めておきます。