『北の想像力』刊行記念、「辺境の想像力――現代文学における〈境界〉へのまなざし」無事終了しました

事典よりでかい。
過日東海大学でのシンポジウムには意外にも人が来ていて、というかほぼ学生さんたちが授業の延長で来られたような感じで、20代前半の人がほとんどという状況でした。若い。執筆チームから忍澤さんも来て下さいました。みなさまありがとうございます。

本の基本的な紹介を岡和田晃さんが、基調講演として石和義之さんが垂直性、水平性という吉田一穂論でも用いた概念について、吉本隆明荒川洋治、そして相原コージの「コージ苑」などを参照しての議論を提示し、休憩を挾んでシンポジウムとなりました。

パネリストは、執筆チームの岡和田さん、石和さん、田中里尚さん、そして私東條慎生ほか、東海大側から執筆チームでもある倉数茂さんを進行役とし、三輪太郎さん、山城むつみさんが壇上へ。余談ですけれど、打ち合わせをしていた研究室では隣で伊井直行さんが弁当を食べている、というスリリングな体験をしました。

三輪さんはもともと評論でデビューした人で、その後カンボジアでの虐殺と株式取引を扱ったかなり面白い視点の『ポル・ポトの掌』で小説家としてもデビューし、ここ数十年の話題作を読んでいく『死という鏡』という評論もあります。『ポル・ポトの掌』は『君の正しさとぼくのセツナさ』として改題文庫化されて、他には文芸誌で発表された、宗教や継承といった問題を扱った作品を収めた『大黒島』、同じく新興宗教を扱った『後生 ゴショー』、選挙を扱った『政事小説 マリアの選挙』といった作品があり、経済、宗教、選挙といった大きな問題を平易に語った作品群があります。

山城さんは以前にも書いた通り、『連続する問題』や『文学のプログラム』があり、非常にインパクトのある緻密な論考を書かれています。

倉数さんは以前にも紹介した『黒揚羽の夏』や『魔術師たちの秋』といった小説や、ファンタジックなジェンダーSF風の『始まりの母の国』、そして『私自身であろうとする衝動』という戦前の芸術運動を「美的アナキズム」という概念で追った濃密な労作があります。

そんな登壇者でシンポジウムが始まり、基調講演を受けての議論からスタートしたわけですけれど、これはもう壇上の緊張でよく覚えてませんね。求道者の話、三輪さんのサラエヴォ旅行の話、田中さんのどうしてこの本に書くことになったかの話、等々いろいろありました。もっと話が続けられそうな感じもありましたけれど、時間となり終了。

私は少ししか喋れなくて、話もまとまりにかけるものがあったと思います。鶴田知也という忘れられた作家を調べることで、今回の原稿になり、つまりは「辺境」――面白い穴場を見つければ、評論にしろ小説にしろ、仕事になるぞ、ということを創作文芸科の学生が多いという話だったのでそれだけは言えたので、いいかな、とは思いました。

ただ、言い落としたことも多くて、手が震えてきたので考えたことの半分も喋れなかった。三輪さんがサラエヴォを見た時、伊藤計劃は虐殺の言語というSF的アイデアを言ったけれど、これは荒唐無稽ではなく、サラエヴォでは普段の言葉が虐殺の言語となっていたのではなかったか、と市民が市民を殺す場を踏まえて仰っていました。これを継いで、私はセルビアクロアチアの言葉は、セルボクロアート語と並び称されて、違いも少なかったのに、ユーゴ解体にともなって差が開き、意図的に違う言葉として意識されるようになった、ということを言ったと思います。

本当は、これに繋げて、関東大震災朝鮮人が虐殺されたという日本の近代史を想起し、山城さんの『連続する問題』がこの虐殺も一つのテーマとしていたことを参照して、民族を蔑視する言葉の跳梁は今まさにネットがそうで、他人事ではないという話を挾みたかった。そして、近代文学において、プロレタリア階級という文学における「辺境」を発見したことがプロレタリア文学という運動の起点でもあるわけで、そういうネタを経て、興味深い穴場を見つけることが重要だよ、と話のオチをつけたかったのでした。

最後に山城さんが学生達に熱く語っていたことが印象的でした。私(山城むつみ)は『ドストエフスキー』で本を書いた、また小林秀雄モーツァルトについて書いた、しかし、私や小林秀雄がそういう芸術家について書こうが書くまいが、ドストエフスキーは読まれるし、モーツァルトは聴かれる。しかし、岡和田さんは向井豊昭というマイナーな作家について書くことで、私は向井豊昭という作家の存在を意識し、近代文学館で三千円かけて「御料牧場」をコピーしてきた、これはたいへんな傑作です。そして、そういう仕事こそが批評なんだ、ということを学生さんには言っておきたい、と。

岡和田さんのこの発掘力というのも今回の本の注目ポイントで、特に中沢茂『太陽叩き』という、年に二ヶ月しか日の差さない根室で太陽を叩きのめそうとする、「自然」に対する「革命」を描いたという、あらすじを見るだに奇抜で魅力的な、国会図書館にもない作品を読んでブックガイドに入れ込んでくる、そういうセンスですね。どこで見つけてくるんだ、という妙な作品を拾ってくる。

北海道文学と北海道SFのハイブリッドという試みに加え、これまで省みられてこなかったものを俎上に載せる、というのも眼目になっています。いわゆる北海道文学を主題的に扱う第五部は、鶴田知也武田泰淳向井豊昭という異色のラインナップになっているあたり、察知して頂けるかと。清水博子論というのもなかったのだったか。そしてSF、ホラー、ハードボイルド等のジャンルにおいても、これまでまとまった論考の書かれていなかった作家を多数取りあげてある。目次そのものが「北海道文学」に対する批評となっているはずです。

いずれにしても、内容面でも物量面でもチャレンジング過ぎる本となっておりますので、なんらかの形で読んでいたければな、と思います。