後藤明生再読 中篇「行方不明」

行方不明 後藤明生・電子書籍コレクション

行方不明 後藤明生・電子書籍コレクション

行方不明 (福武文庫)

行方不明 (福武文庫)

やや遅れたけれども、電子版刊行便乗企画。1971年9月「新潮」に発表された中篇、「行方不明」。『疑問符で終る話』に収録された後、集英社文庫版『ある戦いの記録』、福武文庫版『行方不明』にも収録された中篇。自選作品集の表題にするあたり、思い入れのある作品なんだろうと思われる。以下引用は福武文庫版による。

じっさい、この作品は初期後藤明生の、団地ものと編集者(ライター)ものの集大成のような側面があり、団地に配られる無料週刊誌の校正レイアウトを担当する男が語り手となって、「Σ」の行方不明事件にまつわる事情が語られる構成として、ふたつの流れを合流させている。

事件、と書いたように本作は「Σ」未配達事件、そしてそれに学生アルバイト山本の解雇問題その他の事件が絡んでいるのかどうか、といういわばミステリー的な謎をめぐって進んでいく。しかし、「Σ」が「行方不明」となったように、この事件そのものの謎もまた「行方不明」となるほかないのは後藤明生読者なら容易に想像できるとおりで、語り手もそして読者もまた、謎の真相、事件の全体などにはまったく辿りつくことができない状況に投げだされる。そして「シグマ研究所の所長とは、果たして存在するもののであろうか?」として「疑問符で終る」ほかない。

その状況のなかで語り手が思案するのは、やはり、「関係」ということだ。語り手はさまざまなものの関係を注視する。仕事を辞めようという時に、階段を初めて使って、こんな場所が自身が十年以上勤めたビルにあったのか、と驚き、「全体」を知らなかったという場面や、研究所での机に座ると「黄色いヘルメット」に背を向けることになる、といういささか意味不明なことへの執拗なこだわり、研究所の分室勤務で、本所を知らない、ということ。この「部分」と「全体」という関係のモチーフは、今作のみならず他作品にも頻出する後藤明生の体質的なテーマでもあり、今作では事件の全体像を決して俯瞰することができず、断片的な細部のみが肥大するという形で叙述されることになる。これもまた後藤作品特有の展開で、後期の引用に引用を重ねる脱線のスタイルへ引き継がれる。

そして、「とつぜん」のものとして「電話」も作中重要な意味合いをもって現われる。この時代の電話、ということで誰からいつなんどきかかってくるかわからないものが電話だ。今では誰からの電話、というのは電話帳に登録されていれば明確だし、知らない番号でも即座に検索すれば怪しい詐欺めいた番号だとわかることもあるけれども、これはまだ七十年代の電話で、取ってみるまでは相手が誰だかわからない。シグマ研究所勤務の語り手は、そうした一方性に腹を立て、こう語る。

したがって電話は、あたかもわたしの誠実さを試みる神でもあるかのごとく、毎日毎日鳴り続け、そしてその正体をひた隠しに隠したまま、一方的にわたしを呼び出し続けたわけだ。 62P

「神」は電話にあった、というわけだ。

また、後藤の闘争癖について何度も書いているけれど、今作にも興味深い記述がある。なじみのバーに開店直前に行った時のこと、顔見知りのバーテンが「ほう!」と語り手を見上げたことについて、語り手はこう述べている。

それがバーテンの攻撃だった。バーテンといえども、攻撃するのだ。もちろんわたしは、敵ではない。しかし味方同士の戦いが生活である以上、攻撃を考えずに果して誰が生きてゆけるだろうか? 100P

不可解な記述だ。なぜバーテンの行動が攻撃なのか。そして「味方同士の戦いが生活」だとはいかなる意味なのか。前後にもそれへの説明はない。生活そのものが戦いだというのは、後藤の闘争癖からするとよく分かる言及で、しかしそれが味方同士のものと限定されるとなると、よく分からなくなる。敵対性の導入が空転するのは後藤作品のならいでもあるので、そう読めば良いのかもしれないけれども、気になる記述としかいまはいえない。この闘争癖は、『壁の中』『この人を見よ』での対話やシンポジウムといった手法、つまり議論、論争として現われてくるものでもある。


今作、週刊誌の「Σ」とは作中にもあるように、数学でいうところの「総和」を意味しており、つまり「全体」が「行方不明」になる、ということになる。そうした仕掛けを用いて関係のズレを描く力の入った中篇、だとは言えるのだけれど、初期作品の集大成ともいえるということはそれまでに見たことのあるモチーフの再演にも似てくる。昔読んだ時も既視感にかられて面白くはあるけれど、という印象だった。

おそらく、今作はここまでの後藤明生における仕事が(正しい意味で)煮詰まった段階といえるもので、翌年『四十歳のオブローモフ』を連載し、その翌年に長篇『挾み撃ち』を出す前段階として考えられる。

そこで示唆的なのが終盤の企画部長からの電話での一言だ。

「君はいったい何者かね?」 156P

作中で「わたし」が研究所の所員だということを確認させる言葉でもあると同時に、おそらくこれはもっと深刻な意味においても問われていると読むべきだろう。そしてこの問いが、そのまま『挾み撃ち』へと繋がるものだと捉えることも、可能だろう。

また面白いのは、この言葉はそのまま『壁の中』にも現われるということだ。
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壁の中

壁の中