ミルチャ・カルタレスク - ぼくらが女性を愛する理由

ぼくらが女性を愛する理由 (東欧の想像力)

ぼくらが女性を愛する理由 (東欧の想像力)

スタイルを持つためにやれることなどない。なぜなら、あなたはスタイルをもつのではなくて、あなたがスタイルだから。13P

二年ぶりの〈東欧の想像力〉第十一弾は、この叢書では初のルーマニアの作家、ミルチャ・カルタレスクの2004年作。およそ170ページが多数の短篇、掌篇、断章で構成される、愛をめぐる作品集ともいうべき本だ。

カルタレスクは『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』でも紹介されたように、ノーベル賞に近いとも取りざたされる、ルーマニアポストモダンの旗手だという。それでいて多数の短篇形式となると、実験性の強いものと思われるかも知れないけれども、ほとんどそういうことはなく、電車で見かけた黒人少女の美しさを描いたり、自分がなぜある香水に惹かれるのかの記憶をたぐったり、性的快楽とは親密感次第に他ならないと主張したり、若い頃の過ちの思い出や、多くの女性を持った作家と数少ない女性しか持たなかった作家の違いについて持論を語ったり等々、かなり素直に読めるものになっており、手軽に読める東欧・ルーマニア文学入門としても勧められる作品になっている。「人口が日本の六分の一の国で発行累計二十万部」というのは伊達ではない。

愛、性、女性をめぐる多数の短篇で、個々は十ページ程度と短くても、それぞれに興味深い。特に印象深いのは、「ブラショフのナボコフ」だろう。大学時代に親交を深めた女性――ボルヘスナボコフ、ロレンス、クーヴァーを語る女性が、社会主義時代の秘密警察(セクリターテ)に入って、革命後に落ちぶれてしまったことを覚えていた主人公が、今現在時点でその姉と出会って、という短篇で、東欧史の一断面が垣間見える。

また、1944年のルーマニアを舞台にした「ザラザ」は、タンゴの歌手クリスチャン・ヴァシレとライバルの間で命を落とすことになった、ヴァシレの恋人ザラザの悲劇をめぐる佳篇で、映画化・ドラマ化もされているらしい。よくできた話で創作かと思ったら、「ザラザ」というタンゴがヴァシレの吹き込みで大ヒットしたのは事実らしい。ただ、解説ではすべてが事実というわけではない、ということのようで、どういう脚色がされているのかはわからない。

「折り紙モンスター」という短篇は、幼い頃、身体の中まで見せ合った仲だったのを長じて高校生になってから、お互いにまた仲を深めてまた身体の中を見せ合う仲になったのに、男は女をスキーのインストラクターに寝取られて、しかも妊娠させられてからよりを戻そうと求められてしまう、という惨い話を愛のメッセージを折り込んだ折り紙に絡めて語られる、幼馴染へのロマンを粉砕する話になっており、また「わが青春の魅惑の書」では、幼い頃、自分の秘密基地で繰り返し読んだ小説の憧れのヒロインが自らまぶたを切り落とすシーンに感じた興奮を語りながら、その基地が取りこわされてオリジナルの本が二度と見つからないことを嘆く。

ペトルッツァ」という短篇では、BCG注射で発赤が見られてそのせいでクラスの皆からいじめられ、隔離病院に移転させられてしまう、というのを一触れで治癒させてしまう少女が描かれ、「アイリッシュ・クリーム」では、アイルランド文化施設で出没すると噂される伯爵姫の幽霊に奇跡的に遭遇できた体験が語られる(機械仕掛けの演出じみているけれど)。

なかなかに皮肉で面白いのは、七十年代終わりの頃の大学を描いた「偉大なるシンク教授」だ。「今日のポストモダニズムのように、だれもかれも構造主義を語ったその時代にあって、それは疑いなく文学部で一番人気の講義だった」といい、預言者ソシュール福音書記者バルト、等々といった宗教的比喩とともに大言壮語の空言の狂騒が描かれており、これを「今日のポストモダニズムのように」とポストモダン文学の旗手と呼ばれる人自身が書くというアイロニーが楽しい。あれ、これあんまり愛じゃないな。

と、長短22の短篇がまだまだあるのだけれどこれくらいにしておくとして、表題の「ぼくらが女性を愛する理由」という掌篇は、語り手が女性の魅力を「〜するから」と羅列していくものになっていて、やはりこれが一番面白くない。賞讃してるからといって偏見にしか思えないからだ。とはいえ、たくさんの個々の具体的な描写、物語から女性、愛を描き出していく本書の構成そのもののミニチュアになっている掌篇ではある。これも含めて「ポストモダン文学の旗手」らしくない、素直な作品だ。

多くの短篇で、語り手はミルチャという作家あるいはそれに準じた存在として設定されてるけれども、作中事実は当然、虚実入り混じったものになっている。モデルになっているものはあるようだけれども。これは言わずもがな、ではある。

「僕は東欧の作家ではない」

以上で私はカルタレスクを東欧の作家と紹介したけれど、当のカルタレスクはこう書いている。

「わたくしは東欧の作家に関心があるのです」。僕はすぐに答えた。「自分がその一人だとは、個人的には、思っていないんですが……」。「もちろんですとも」と彼は続けた。「ルーマニアですから、南東欧出身ということですね」。なんとクリアな修正だろう! なんと素晴らしい区分、さらなる区分だろう! この言葉でその出版人は好意をこめて、あなたの居場所にとどまっていなさいとアドバイスしてくれたのである。(中略)「僕は東欧の作家ではない」。僕はあの三区分されたヨーロッパなど認めない。地政学的にも、文化的にも、宗教的にも、その他いかなる形においても。僕が夢想するのは、さまざまな形の、けれども分裂症的ではないヨーロッパだ。
ミルチャ・カルタレスク「ヨーロッパは僕の脳の形をしている」、『ヨーロッパは書く』69-70P

ヨーロッパは書く

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カルタレスクは、自身の書くものにたいして、秘密警察を書きなさい、チャウシェスク体制を書きなさい、ジプシーのことを、独裁体制のことを、というステレオタイプの勧奨を非難する。そして自分がムージルブルトンブルガーコフを読むのは地図においてではない、と強調し、自分の文学が広範なヨーロッパの歴史と伝統に連なるものだという自覚を強調する。ヨーロッパという普遍性を希求するカルタレスクにとって、ルーマニア、東欧とレッテルを貼られ、東欧として括られて革命やらを云々されることは狭小な地域性に押し込められることに他ならない、ということだろうか。

しかし、と思う。個別性がなければ普遍性もなく、普遍性もなければ個別性もないのではないかと。本書も、個々の物語から愛の普遍性を描き出そうとするように、具体性、個別性が文学の土台だとすれば、それを無視することはやはりできないはずだ。地域性、というものが、時に作家にとって強く否定したくなるものだというのはよくよく見たのだけれど、カダレからアルバニア史を調べ、東欧作家から東欧に興味を持ったような私からすると、東欧という分断を作家がいかに書いたか、というのは気になるところだ。しかし、カルタレスクからするとその境界、分断で見られることが不満だということになる。いつまでも革命がどうこうといわれたくない、ということでもあるだろう。カルタレスク自身、体制批判を滲ませて書いていた作家達が革命以後色あせてしまったところに登場して活躍した、という経歴の持主ということもあるだろう。


ちなみに、シリーズ11巻ということで、大きく装幀が変った。担当は仁木順平という人だけれど、これ、本名だろうか。というのも、この名前安部公房の『砂の女』の主人公の名前で、私も昔ゲームとかで使っていたので覚えがある。特にカバー裏の装幀の感じとか、他でもどっかで見た覚えがあるんだけれど、どこでだったか。