後藤明生再読 - カフカの迷宮 悪夢の方法

電子書籍便乗企画のこれもまた遅れてしまったけれども、今回はカフカ論(ちなみに、岩波の「作家の方法」叢書の一冊)。読んだ時はゴーゴリ論と重なっている所も多いので記事に書くこともないかなと思ったけれども、付箋箇所を改めてみるとまあそれなりに形になりそうなので、引用をまとめて記事にしてみる。

これがなければ小説はダメです。「笑い」のない小説は小説ではない――これがわたしの小説原理です。小説原理のうちでも、もっとも重要な原理の一つです。そして、この原理によってわたしは、ゴーゴリドストエフスキーカフカという線引きをしているのです 27-28P

ということを後藤明生は本書で言っている。それで、彼にとってのカフカの笑い、とは何かというと、体系からはみ出す、ズレの意識だという。ここにもまた、後藤の基本テーゼ、楕円――お互いに逃れられない他者との関係、がでて来る。

つまり楕円幻想は、「個」と「全体」とのズレ、「内部」と「外部」とのズレとして捉えられます。カフカの滑稽、カフカの「笑い」は、そのズレの意識、ズレの感触から出て来たものです。いや、ズレの意識、ズレの感触そのもの、といえるかも知れません。39P

カフカの小説は、そのようの「ズレ」と「笑い」をほとんど無限大にまで拡大するための表現装置である、ということになります」というのが、冒頭で提示される後藤のカフカ観だ。

悪夢と喜劇

その方法として表題にもあるように、「悪夢の方法」がある、ということにとりあえずはなる。後藤は表題についてこう言っている。

つまり、人間の世界そのものが迷宮だということであって、それがカフカの世界像だということです。カフカは、人間の世界、社会を迷宮のようなものだと考えた。17P

夢の場面は、すべて原因不明です。理由というものがすべて取り除かれた世界です。不条理といってもいいし、理不尽といってもいいが、要するに因果関係を超えた世界です。「なぜ?」のない世界です。そしてカフカは、その夢の方法で現実を表現したということです。つまり、このわたしの話のタイトルを、絵解き式にいうと、「迷宮」が認識、方法が「悪夢」ということになります。19P

人間世界の迷宮性を、悪夢の方法で描き出す、ということに表題の意図はある、ということになる。これもやはり世界の構造論としての喜劇、ということでのゴーゴリ論と重なっていることは見て取れると思う。後藤の言う迷宮性や喜劇性はある程度似ている。

後藤自身も、ゴーゴリ病のさなか、カフカ・ショックを受けたことを語っており、ゴーゴリカフカを切り離して考えることはできないと言っている。ミラン・クンデラの「カフカは夢と現実を溶解させる錬金術に初めて成功した人だと思います」という発言に対し、最初ならばそれはゴーゴリの「鼻」ではなかろうか、と疑問を呈しつつも、この「夢と現実とを溶解させる錬金術」はカフカゴーゴリに共通のものだということだと指摘してもいる。『変身』において、ゴキブリへの変身が行われたというのに、それはモノローグといったグレゴールの夢とも思われかねない形ではなく、周囲の人物にもそれは現実となっている。それなのに、「最後までまったく原因は考えません」。

なぜでしょうか? もちろん作者カフカがそれをまったく無視したからであります。「性格」としての人間を書く方法を無視したのとまったく同様に、因果関係を追求する方法を無視し、否定したからです。作中人物の「性格」を無視したと同様、事件の「原因」を無視する方法で書いたからです。カフカは、グレゴールの見た「悪夢」を書いたのではなく、グレゴールが見たかも知れない「悪夢」の方法によって、『変身』を書いたわけです。67P

そこで後藤が持ち出すのはやはりゴーゴリの「鼻」だ。これと『変身』は、事件の原因がまったく考えられないまま、結果としての事件だけがどんどん進行していく点で、非常に似ている、と。ゴーゴリの原因不明の世界と、カフカの悪夢の方法とがここで繋がることになる。それはおそらく、ズレながら繋がっている、かも知れない。

部分と全体

もう一つは、全体と部分の関係だ。後藤はカフカの「こま」という短篇がとても好きだという。こま一個でもそれを「確実に認識すれば、すべてを認識したにひとしい」という「こま理論」は、世界や見えない全体との格闘を、人間や動物の身振りや仕草に具象化して扱うというのがカフカの小説の方法のようだと後藤はいう。そして、それは後藤明生の初期作品の小説論そのものだった。

全体を特定の部分に閉じ込め、それを精緻に観察することによって、以て全体の把握とする、というのが最初のエッセイ集『円と楕円の世界』にも見られる通り、繰り返し述べられていた後藤のテーゼだった。「部分としての樹の細部を見ることによって、森全体の構造を考えたいという論理だ」や「一人の男を3DKの内部に閉じ込めた。(……)その内部に〈全体〉をすっぽりと閉じ込めてしまうことのできる構造としての部分を考えること! すなわち、一人の男を人間の存在そのものに、そして3DKを世界そのものに変換させるための構造である」(いずれも1971年のエッセイ。本書では112-114P)という宣言にあるように。そして、このような構造を考えるための団地、だったわけだ。

「鉄筋コンクリートの四角い箱の中に四角い箱がイレコ式になっている構造は、確かに「部分と全体」「内部と外部」といった問題を抽象的に思索するのにはふさわしい建物だったといえるかも知れません。と同時に、その四角い箱の中の箱である住居は、抽象的な思索をする場所ではなくて、日常そのものであります。115P

互いに向きあっているドアが、外から見ると隣同士になっているとか、部屋からは外部になる階段は、外から見ると内部になる、という不思議な入れ代わりに後藤は驚いてみせている。そして、そのような不思議な世界を、掴んだ、と思った瞬間、「気分が悪く」なってしまう。「「哲学者」が世界=全体をつかんだ、と思ったとたん、彼自身がその世界に捲き込まれたということです」。捉える、ということは捉えられる、ということでもある。

そして、このような吐き気の場所から、後藤はカフカの『審判』『城』の長篇の世界が始まるとして終盤の分析をはじめるわけで、また、自身の初期作品の世界を脱する、ということにもなるのではないか。


初期において団地の奇妙さを描き出すことに腐心していた後藤はしかし、初の書き下ろし長篇において団地を出ている。それが『挾み撃ち』で、これは以上のような「こま理論」ではなく、都市小説へと軸足を移している。これを読むには、後藤自身の『ドストエフスキーのペテルブルグ』を持ち出すか、あるいは『笑いの方法』という手もあるけれど、都市と時間というと、本書にも、「万里の長城」を分析しながら、『カフカとの対話』でのカフカの旧ユダヤ街の発言を引用し、こう言っているところがある。

カフカプラハの新市街を歩いているとき、もう一人のカフカが旧ユダヤ区を歩いています。彼は常に二つの時間、二つの場所を歩いているわけです。これがカフカの楕円幻想の時空間の基本です。146P

これは、『挾み撃ち』の二つの時間を思わせる。都市にはさまざまな時間が堆積しており、歩くことでその人によってさまざまな時間が読み込まれていくことになる。これはまさに好機作品のモチーフとなる。ちょっと後半二章分の分析は私にはまとめ切れていないので端折るけれども、そのうち再読することにしておいて、とりあえずはここまでで。