日本文藝家協会編 - 現代小説クロニクル 1990-1994 後藤明生再読「十七枚の写真」笙野頼子再読「タイムスリップ・コンビナート」

文芸文庫の最近良く出しているアンソロジーシリーズの目玉だろうか、戦後文学の短篇クロニクル第四巻。十年前のものはテーマ別だったけれど、今回は時系列になっている。シリーズを読んでいたわけではなかったんだけれど、

これが届いたのでは読まぬ訳にはいかなかった。笙野さんありがとうございます。
ちょうど良く、後藤明生の『しんとく問答』から「十七枚の写真」が採録されてもいたのでそちらも再読。収録作品は以下の通り。

フィヨルドの鯨」大庭みな子
「ティーンエイジ・サマー」鷺沢萌
「晩年の子供」山田詠美
「夕陽の河岸」安岡章太郎
「七夕」石牟礼道子
「十七枚の写真」後藤明生
セミの追憶」古山高麗雄
「光とゼラチンのライプチッヒ」多和田葉子
「犬を焼く」中沢けい
「タイムスリップ・コンビナート」笙野頼子

大庭みな子の短篇は、鯨がやってくるのが分かる女性、インディアンの物語とある種のスピリチュアルな世界をスケッチしたもの。
鷺沢萌は、これで初めて読むけれど、青春小説としては鮮やかでイイ出来なんだろうけど、完全に他人事って感じでまったく好みではない。十代最後の夏がどうした、とかコソクに遊べない、とか、これはいったいいかなる人種のロマンなのかって不思議で仕方がない。「鬼のイスパ地獄のロシア」ってこれ上智大学で、それなりに優秀な大学だと、こういった軽薄な遊びの感じっていうのが同時に切実だったりとかするものなのか。というか「地獄のロシア」と聞くとそこで学年でもっともロシア語ができたという優秀賞をとりながら主演をいくつも務めたロシアマニア声優上坂すみれのことしか浮かばない。ズドラーストヴィーチェ。
山田詠美は子供の世界の狭さを描いた佳篇。
安岡章太郎の短篇などでは、クロニクルという編集が効いてくる。発表年月日ごとに並んでいるので、若い作家の後に戦中世代の士官学校で死んだ友人のことを書いた短篇が並んでいる。語り手はその友人を回想しながら、自身の記憶の歪みに気がつく。孤独とは、同年者がいなくなることの他に、自分自身が内面から痩せていくことではないか、という文言が後になって重く響いてくる作品で、これはそのまま古山の作品にも繋がっていく。
石牟礼道子は、女郎屋での殺人事件を過去に知る主人公の女性の回想から、殺された女性への憧れ、殺した男性の弟への憧れと現在時の彼への遭遇を描く。
古山高麗雄は、冒頭、従軍慰安婦問題へのいかにも左派嫌い知識人みたいな語り口はともかく、とにかくいろんなことを忘れていってしまう自分自身を書き留めながらそれでも忘れていない人物のことを書き留めていく戦争体験者としてのエピソードは興味深く、慰安所を利用したり利用しなかったこと、「夜尿症」「知恵遅れ」の同室者に、体力検定で失敗した者同士として、「俺とお前、おんなずだなや」と言われたり。古山高麗雄は、後藤明生と一緒にロシアへ旅行した同行者の一人で(もう一人は原卓也)、名前の通り朝鮮生まれということで、ちょいちょい縁がある。氏は死去直前に「孤独死」という掌篇を書いており、当時読んで印象が強くて、それから著作を結構集めているんだけれどまだ全然読んでいないんだよね。
多和田葉子の短篇は、この不安と不穏さとシュールなイメージの数々は完全に東欧文学といっていいだろう、という作品で、これはずいぶん楽しい。
中沢けい、読んだことがなかったんだけれど、妙に密度が高くぞっとする感じで不穏、しかも後からどんどんメタ化していくので驚く。近年の著書のタイトルとか表紙とかからなんかもっと爽やかな作品書く人だと勝手に思っていた。これは面白いかも。

後藤明生再読「十七枚の写真」

別枠で。これは『しんとく問答』からだけれど、単独でも読める。
十七枚の写真につけた説明文、という体裁の小説なんだけれど、一枚目の写真説明文が、まずまったく無関係だとはじめるのだから堪らない。宇野浩二の文学碑散策がとりあえずの主題といえるんだけれど、その第一の写真とされるものの説明文は、以下の通りだ(写真そのものは載っていない)。

 写真1 外壁塗り替え中の市営住宅
 緑色の網をかぶせられた、この四階建てアパートは、宇野浩二文学碑とはまったく無関係です。117-118P強調引用者

 え、なんで!? と思う気持を抑えて次の文を読むと、難波宮跡公園の隣にあるから、その発掘調査のきっかけになった「鴟尾の破片」が出土した云々とあり、その縁かと思わせつつ、

難波宮跡発掘調査のきっかけとなった、とイラストマップの説明に書かれていた住宅かも知れません。118P

知れません、なの? と驚愕させられる。唖然とする数行。堂に入った適当さ。

つまりは文学碑に行くまでに撮った写真をいろいろ挙げていくことになっているので、関係があったりなかったりする写真を、宇野浩二と絡めたり絡めなかったりして、宇野浩二関係のテクストをいろいろ引用したりして進めていく。宇野浩二の精神病後の文体を物語る回想だとか、難波公園歩兵第八連隊碑文などなど。

後藤作品らしいのは、語り手が感嘆する、以下の下りだろう。宇野浩二の文学碑を訪ねた公園で葬儀が行われており、そのテントを撮った写真の左端に、日本聖公会(大阪聖ヨハネ教会)の十字架が映っている、というところだ。

これはいかなる風景であるか? もちろん、偶然に偶然が重なった、大偶然の風景(!!)という他ありません。128P

語り手が一番感動しているのはここで、写真というものが、無関係同士の関係という偶然の瞬間を捉えるものだということに驚いている。

異様なのは作品の閉じ方で、十七枚目の写真はある男性の体操のトレーニングのような足の蹴り上げの瞬間を撮ったもの。葬式の読経を聞きながら十字架を見ていると、なぜか宇野浩二の「蔵の中」での夢のなかで、蹄鉄型の図形が小学校の徽章になり、それがモーフィングしていき自分の住んでいる下宿屋になる、という下りを思い出した。その時、黄色い作業トラックの中から出て来た男が、トレーニングのような動きをしているところを、語り手は写真に収めたのだという。

最初の写真が無関係なら、最後の写真も不気味でなんとも言い難い。説明が説明になっておらず、そもそも(何故撮影したのかの)内的な説明をする気がほとんどない。ただの作業員の体慣らしが葬式の読経と宇野浩二の引用と、小説の幕切れのせいで、やたらと不気味な光景として浮かびあがるようになっている。

後期都市小説作品の一つで、都市を一つのテクスト(宇野浩二の生活圏)としてそれを散策しつつ、自前のテクスト(宇野浩二作品・年譜)をそれと掛け合わせながら、別のテクストを生成していくんだけれど、これはいったん写真、という別の表現(テクスト?)を経由する形になっている。写真のキャプション、という形式をやってみたかった、ということだろうか。メタ都市小説。しかし、文芸文庫の前回のアンソロジー「戦後短篇小説再発見」でも、収録作は『しんとく問答』からだったのはどうしてだろうか。

余談だけれど、一枚目の写真の「無関係です」で、ちょっと小島信夫を思い出したので短篇「返信」(『月光・暮坂』文芸文庫)の最初を引っ張りだしてみたら、内田魯庵の「漱石の万年筆」という随筆についてしばらく前に再読したと言及しながら、万年筆の話のところは忘れてしまった、漱石の「人間のよさ」について「実にうまい言い方」をしていたけれどそこも忘れたとか書いていて、おいおい忘れすぎだろう、と思って二ページ読んだところで本を閉じて、魯庵なら青空文庫にあるかなと思って検索したら、
内田魯庵 温情の裕かな夏目さん
わざわざ鍵括弧付けてるのにタイトル全然違うじゃねーか。この軽妙な雑さったらない。ここで、保坂和志は一晩か二晩で小島信夫は書いていたんではないか、と書いているけれど、後藤明生もそういうタイプだという話を聞いている(下調べはした上で)。「返信」は前も書いたけどオチもとんでもないんだこれが。後藤と小島の似てるっちゃ似てるけど、違うっちゃあ違う感じ。

笙野頼子再読 - タイムスリップ・コンビナート

というわけで随分ぶりに「タイムスリップ・コンビナート」を読んだ。これ、実は当時から笙野作品ではよく分らないほうの作品で、今回も、本を通読してからもう一度今作だけを再読した。当時は併録の「シビレル夢ノ水」の方が印象的だった気がする。文春文庫の付録対談の方では、「他者がいなくても恋をしたような気持ちになってみようと思った」と発言していて、驚いた覚えがある。

今読んでもとても不思議な作品で、誰とも「マグロともスーパージェッターとも分らない」存在から、海芝浦駅へ行け、といわれて、「イラッシャイヨ……」とマグロの声が聞こえて行くことにする、という無茶な展開のままに電車を乗り継いで海と東芝に挾まれた駅まで行ってしまう。もう、マグロからの声を聞いたから行かなければならないわけだ。

つまり、恋はただ「そこにあるだけの」、恋だったから。204P

そうだとすればものすごい変則的な恋愛小説だとはいえて、不可能な恋愛を描いたものでもあるということなら、『硝子生命論』『水晶内制度』の系列の作品の一つ、ということなんだろうか。マグロの目玉、海、というキーイメージは、確かに、そうかも知れない。

ただ普通には、東京人ではないものが不慣れな工業地帯を観察しながらそこにブレードランナーのようなSF的イメージを見出したりする幻視的シュール作品として読まれた印象がある。あるいは幼少期の外商の付き人がいた記憶や、父の沖縄からのアメリカ製チョコレート、四日市の叔母などが回想される「純文学」的作品として、だろうか。私もそうだったか。

語り手は社会と没交渉なように自己規定しつつ、沖縄海岸と会館の「変換」には、「沖縄返還」がまぎれ込み、海芝浦と沖縄とハワイの関係に話が及んでしまう。父の持ち帰るチョコレートは、アメリカではなく、沖縄から持ってきていたものだったことに、このことは繋がる。パスポートのないというケニア人に貸した七百円や、窓の下を通った「有名な二世議員」(文春文庫ではただの「議員」だったので、特定の人物を指しているのか)、コンビナートのイメージが刷り込まれたように刷り込まれたのかも知れない「教育勅語」、実はその海芝浦の東芝工場で働いたことがあった母親が男性社員にいじめられて退散した話でオチがつく、みたいなあふれる話だったりする昭和感。

鶴見、海芝浦、あるいは沖縄会館の歴史性についてはプロレタリア文学研究の島村輝がまとめている。
システムリプレイスによる休館及びサービス停止のお知らせ (図書館からのお知らせ)
ここまで細かく意図した訳ではないかも知れないけれども、海芝浦への道行きに高度成長社会とバブルのその後(スーパージェッター?)が、たとえば政治の季節を横で見ていた「不参戦者」後藤明生かのごとく、意識されているはずだろう。マグロの夢、というシュルレアリスティックな夢の言葉と、社会・経済の動脈たる電車との出会いの突き当たりがまさしく海と東芝で二分された「海芝浦」だったわけだから。

汚い泡と洗剤とシャンプーの瓶が浮かぶ海芝浦の景色が、高度成長の夢の跡のようだ。ああ、それがつまりマグロの夢、というと上手いこと言いすぎて怪しい。

後藤明生とあわせて、本作も優れて都市小説的な作品。こちらは非凡な観察者の身体感覚的な語りが印象的で、自分にだけはにかむ子供のふるまいだとか、車中の女性の不思議な言葉の羅列だとか、ホームと電車の間隔の怖さや、海芝浦の臭いにアトピーの皮膚が反応する、というまさに皮膚感覚の言葉は笙野作品特有の肌感覚でもって印象づけられる、あの感覚だ。思えば、この感覚のうちのいくらかは膠原病だったのかも知れないけれども。

今読むと、『金毘羅』の出生エピソードの元ネタがしっかり書き込まれていたりするのがわかって面白かったりする。

後藤明生の都市論をここで再引用するのも面白いだろうか。

そしてゴーゴリにとって、ペテルブルグは現実そのものだった。つまり現実そのものが迷路であり、迷路がすなわち現実だったのである。ゴーゴリにとって最もファンタスティックなもの、それが現実そのものだったからだ。後藤明生『笑いの方法』

カフカプラハの新市街を歩いているとき、もう一人のカフカが旧ユダヤ区を歩いています。彼は常に二つの時間、二つの場所を歩いているわけです。これがカフカの楕円幻想の時空間の基本です。後藤明生カフカの迷宮』

芥川賞選評も参照。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo111.htm#authorJ111SY