樺山三英 - 『ドン・キホーテ』再入門に行ってきました。

ちょっと遅くなりましたけれど、過日開催された樺山三英によるイベントというか講演に行ってきたことについて簡単にメモしておきます。
7/2(土)17:30~『ドン・キホーテ』再入門/ゲスト:樺山三英氏『ドン・キホーテの消息』出版記念 | Peatix

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

赤坂に新店舗を移した双子のライオン堂で樺山さんが講演をすると聞いて、しかも題材が『ドン・キホーテ』だったのでこれはと参加することにしました。

講演は新作『ドン・キホーテの消息』を刊行した樺山さんによるドン・キホーテの解説というかたちになっており、『ドン・キホーテ』の内容紹介から、これまでの受容の歴史を追い、そして現代において『ドン・キホーテ』をどう読むかということについて語ったもの、と言って良いかと思います。

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ』といえばその破天荒なメタフィクション性が古典と思うと意表を突かれる作品でもあるわけですけれど、樺山さんは、それは当時フィクションの概念が曖昧だったからこそそう思えるわけでその点を強調しすぎるのはどうか、と言っていたのがなるほどと思いました。私は『ドン・キホーテ』が小説の起源と言われるのは、そのメタフィクション的な自己言及性、再帰性にあるのかと漠然と思っていたのでした。しかしそういえば、19世紀的な近代的小説こそが小説としては異例だという話もあるわけで。ただ、19世紀的といわれる小説も結構フィクションのルールと思われるものをはみ出すものがあるので、虚構を虚構ときっちり現実と区分けする概念そのものがむしろ理念的なものでしかない可能性は考えておきたいところです。ここら辺、小説のなかで架空の名前で出てくる人物がいるのに、そのモデルとなった人物が実名で出てくることがあるような小島信夫『美濃』とか読むと一発でぶっ壊れる概念でもあります。

樺山さんは当時の世界史的背景とともに、その後の『ドン・キホーテ』受容の整理も行って、フローベールドストエフスキーツルゲーネフ、ハイネの議論や、スペインでのウナムーノ、オルテガによる再評価にボルヘスの短篇や、フーコーの『言葉と物』の議論も参照します。樺山さんはツルゲーネフの講演『ハムレットドン・キホーテ』を持ってきていましたけれど、『ハムレット・シンドローム』が既にあるように、ツルゲーネフが指摘した二つの性格類型の基となる二作両方を下敷きにした作品を書いてもいるわけですね。

特に面白いのは近代的人間観に触れたあたりで、これは有名なクンデラ『小説の精神』(最近岩波で新訳が出た)での、

かつて神は高い地位から宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、ものにはそれぞれひとつの意味を与えていましたが、この地位からいまや神は徐々に立ち去ってゆこうとしていました。ドン・キホーテが自分の家を後にしたのはこのときでしたが、彼にはもう世界を識別することはできませんでした。至高の「審判者」の不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿を現しました。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになりました。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある小説が誕生したのでした。(ミラン・クンデラ『小説の精神』七頁)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

という文章を読み上げ、相対的世界における『ドン・キホーテ』を読み取るのと、もう一つはカルロス・フエンテスの『セルバンテスまたは読みの批判』と『テラ・ノストラ』に触れたところが面白かったですね。

セルバンテスまたは読みの批判』での議論では、印刷技術の普及と『ドン・キホーテ』で描かれた周囲の人物と繰り返し議論を重ねる様を、近代民主主義の誕生と絡めて論じる部分があったらしく、私も十年ほど前に読んだはずなのにまったく覚えておらず、非常に新鮮に感じました。
テラ・ノストラの通販/カルロス・フエンテス/本田 誠二 - 小説:honto本の通販ストア
そのフエンテスの、ちょっと前に出たばかりの大作『テラ・ノストラ』を樺山さんが読んできたということで、セルバンテスが絡んでくるあたりを朗読していました。『テラ・ノストラ』ってセルバンテスが関係する作品だったか、と。フエンテスの二著は相補的な関係でしょうか。

最後は近代から現代へ、現代の言語のネットワークとしてのインターネットが話題となりました。まえはネットに民主主義の未来を見る議論などもあったけれど、ネットは多様な言論のユートピアというより、祝祭的な炎上、ヘイトスピーチを生み出してもいて、これをどう考えるかというのが一つの難問でもある、と。こういう言い方だったかはちょっと忘れてしまいましたけれども。個人的にはネットの速報性ってここらへんマイナスに働いているところもあって、ツイッターなんかで皆速報を求め、急速に情報が発信される、という情報の高速循環は、デマをばらまいた者勝ちになってしまうところがあるとはしばしば思います。

まあそれはいいとして、ネット社会の現代において『ドン・キホーテ』をどう読むか、というのは『ドン・キホーテの消息』のひとつのテーマでもあるようですので、それは作品を読んでの、ということでしょう。

だいたい90分くらいの講演だったのですけど、十人に満たないくらいの参加者だけで聞いておわるのではもったいなさ過ぎる興味深い内容で、学会発表の基調講演レベルという意見もあったくらいでした。これまでの議論を概説する部分がすでに結構な労作で、私も十年ほど前に、『ドン・キホーテ』論をいくつか読んだことがあったので懐かしい名前がいろいろありました。講演で言及されなかったものとしては『ナボコフドン・キホーテ講義』は当時買っただけで読んでなかったりしますけれど、日本だと牛島信明の『反=ドン・キホーテ論』が結構面白いものだった覚えがありますね。

ナボコフのドン・キホーテ講義

ナボコフのドン・キホーテ講義

反・ドン・キホーテ論―セルバンテスの方法を求めて

反・ドン・キホーテ論―セルバンテスの方法を求めて

録音はされているようなので、どこかで文字起しするなり、講演原稿を活字化するなりしてもらいたいですね。樺山さんが持っていたのは参加者に配られたレジュメよりは詳しいくらいのメモだったので、元原稿があるわけではないみたいですけれど。

近年に出た関係書籍として、樺山さんは以下の本を薦めていました。

ラジオ講座みたいなものですけれど、こういうのは図や写真が多かったりして案外良かったりするんですけれど、これもそうなのかな。