笙野頼子「ひょうすべの約束」「おばあちゃんのシラバス」その他

ちょっと時間がとれたので、溜まっているものを記事にしていく。

「ひょうすべの約束」

「文藝」で展開されてきた「ひょうすべ」シリーズの新作。以前のものはこちらで紹介した。小説の新作としては『未闘病記』以来になるだろうか。語り手埴輪詩歌のウラミズモ亡命を断念するまで、を描く短篇になっている。ひょうすべとはこのシリーズにおいては一般に知られる妖怪のそれとは別物で、少女を食い殺す存在としてのこの妖怪の正式名称が出てくるところがなかなかぶっ飛んでいる。

その正式名称とは「NPOひょうげんがすべて」。

このひょうすべ、本人たちは表現の自由をすべて守るといっていますが、守るのはただひとごろし(ヘイトスピーチ)の自由とちかんごうかん(少女虐待や女性差別)の自由だけでした。292-293P

「ひょうすべ」をそうデコードするのか、となかなか面白いけれど、これは明らかにネットでの表現規制問題を見たうえでの記述だろう。ヘイトスピーチもそうだけれど、笙野頼子自身が署名もした伊勢志摩の海女イラスト問題についても含んでいるだろう。そうした界隈で観察される自由の名の下での自分以外の者への人権侵害を許容する論陣への批判がここには込められている。そして、

お役所の悪口や原発への文句、戦争がいやだとか私たちは何も言えなくなってひさしかったですから。293P

というのはまさに予言的で、その後今年七月には自民党が教育現場における「偏向」の密告を求めたウェブサイトを公開し、そこには「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生」のような存在を報告せよという文言があった。
学校教育における政治的中立性についての実態調査 | 参加しよう | 自由民主党
そして詩歌の祖母は膠原病で、薬で生きられるけれど、その薬はIMFを背後に持つTPPのISD条項(ISDS?)によって、薬や医療の保護が自由競争の名の下に撤廃され、「一粒一万円」という価格になってしまったせいで死んでいった。
これは笙野自身が膠原病を知ることで、薬や医療のことがまさに生々しい現実として、政治と生命が直結する状況があることを知ったからこその記述でもあるだろう。TPP批判は今作の頻出テーマでもあり、「選挙の約束を破った当時の政府」による愚劣な判断によって結ばれた「約束」がTPPだということだ。

笙野における批判の主要な点の一つは「少女虐待」で、その一例として美少女文化的なものがよく批判されるけれど、おそらく笙野作品を単なるオタク批判として見るのも単純だろう。もちろんこれは美少女文化、オタク文化の享受者たる私ゆえのバイアスともいえるけれど、笙野はオタク文化そのものよりは、それが現実との境目をなくしていく状況をこそ批判しているだろうからだ。

「損失責任者の娘さんは生きた身体を「二次元化」され、「人喰い」の来る遊郭に「保護」されたそうです。その後「三次元リョナナイト」が遊郭であって、……。」296P
「人喰い共はまさに、二次元専一のおとなしい少年達の性器をも蹴って行く。秘めて生きるのみのやむなき欲望を踏みにじって」301P

現実存在の二次元化という事態こそが、ここでの問題となっている。これは平面化を批判していた「だいにっほん」シリーズとも連続する意識だ。しかし「リョナ」という表現を文芸誌で見るとは。これ、オタクでも知らない人いるし、知らない人には何にも通じないよね。元々は「猟奇オナニー」の略で、格闘ゲームのやられ音声やらの女性(に限らないけど)が痛めつけられている状況に興奮する、ということの隠語。それを三次元でやる、というのがすさまじいけれど、それこそが批判の眼目だろう。
リョナとは (リョウキオナニーとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
こうした社会状況のなかで埴輪詩歌はウラミズモへの公募移民の過程で、ウラミズモ婚の相手、緑河白馬という男性美の持ち主、「男子娘」との付き合いを進めていく。そこで出てくるのが「ボストンマリッジ」で、「ウラミズモ婚はボストンマリッジと十八世紀に言われていたのと似た、良い感情に基づく、女性二人の共同生活だ」というように、同性愛が問題化される以前にあった女性同士の生活を下敷きにしている。

しかし、そうした女性同士の理想的な国家はその基部に「男性保護牧場」という人権を男に認めないシステムを持っている。それゆえ、「自由兵役」で夫になるはずだった人物が死んだ後、保管していた精子の料金が上がってしまうために引き上げてきたその精子でできた子供が男子だったことで、詩歌は移民を断念――「地獄に残った」――する。

そこで出来た子供が埴輪木綿助で、その妹が、埴輪いぶきという「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」の語り手だった。

こうした形で今シリーズでは現在とだいにっほんシリーズを繋げる前史ともいえる作品になっている。現在の社会状況への炸裂的な怒りをぶつけながら、未来史への前史を綴ることで、現在のグロテスクな寓意化と、予見的ですらある描写が語られていく。しかし、「ひょうすべ」という寓意の説明自体が作中に書き込まれており、作中存在を自らネタばらししている形になるのは、普通は奇妙なことだろう。現在社会の批判的描写というただの説明になりかねないところを救っているのは、グロテスクなイメージとともに、そうしたすべてを露呈する叙述のスタイルにもあるだろう。
しかし、今作でひょうすべがやってきたのは、2016年6月となっているのは発表月以外で、何を指しているのか。これが今現在だ、ということか。
文藝2016年夏号に「ひょうすべの約束」

「おばあちゃんのシラバス

すぐに発表された「ひょうすべ」シリーズの短篇は、前作で触れられていた膠原病のおばあちゃん、を主題にしたもの。詩歌の回想として、祖母埴輪豊子、雅号台与(とよ)とのかかわりが悲しげに語られていく。祖母は台与、母はひるめ(アマテラスの美称)、という古代史的名称になっているのが気になる。詩歌の本名は「あゆむ」で、娘は「いぶき」。どういう意味があるのかはわからない。

おおむね前作の別視点から作品の厚みを増す感じのもので、祖母豊子の生前の教えから、その死、そして死体が持ち去られてしまうまでを描き、その原因が「TPP批准」にある、と書きつけるものになっている。TPPによるダメージのその一例という感じで、細部にいろいろと情報はあるけれど、これ自体でどうこうという感じはしない。

やはりところどころ面白いところがあって、娘を「遊郭」にはやらないと言われたことで「少女の自由な性と抵抗をばばあが家父長制的抑圧で弾圧しやがった」などと喋る父親は「バクシーシ山下を好きな父親」と書かれているのが笑ってしまう。バクシーシ山下についてはいろいろあるけれど、実録レイプものAVが本物の強姦ではないかと言われている問題が有名か。で、その父親が妙な口調で頭をぽんぽん叩いている少女が「場部美ちゃん」とか呼ばれているのがさらにアレ。これ、「ばぶみ」って読むやつで元ネタは「年下女性に感じる母性」を指す「バブみ」というネットスラングだろう。ガンダムのシャアが代表的なアレで知られているけれど、個人的にこれで思い出すのは「アイドルマスター シンデレラガールズ」17話の、美嘉がみりあに抱きしめられるシーンですね。
バブみ (ばぶみ)とは【ピクシブ百科事典】
まあそういうのはいいとして、ひょうすべシリーズはこれで一区切りなのか、単行本刊行が予告されている。シリーズはまだ短篇四作だったと思うけれども、他の短篇も収めるのだろうか。
文藝2016年秋号に短編「おばあちゃんのシラバス」

「すべての隙間にあり、隙間そのものであり、境界をも晦ます、千の内在」

ドゥルーズ

ドゥルーズ

河出書房新社ドゥルーズ本に寄せられたエッセイ。本書は笙野さんから恵贈いただいたもの。いかにドゥルーズを読んだかということを、現実問題についての笙野自身の考察として、その実践込みで語るかたちのエッセイになっている。ここでも「碧志摩メグ」問題を軸に、「性的侮辱の「記号」」を生きた身体に、ただ特定の職業であるが故に強要された人は? 何よりもそれが公的機関の強要であったならば?」という問いを出しながら、身体と心の接続を断ち切る言説を批判する。

心神も因果も切断し物事をリセットし、勝ちを永遠に自分の側に留め置こうとする力、これを笙野頼子は今のところおんたこと呼んでいる。95P

当事者を引き受けず、自らを被害者の地位に置く存在を「捕獲装置」とも呼ぶ。

碧志摩メグ問題は公的機関による代理表象にして、それが海女自身からも拒否の声があったことが重要だったと思うけれど、それはつまり、自分自身を奪われるということへの抵抗でもあり、笙野がひょうすべシリーズでも書いているのは、そうした身体(医療)や内面への植民地的侵略のありさまでもあった。

ドゥルーズをかなり自由に、自己流に読んでいることを自ら述べつつ、笙野独特の文体によって語っているエッセイで、私は『千のプラトー』は文庫上巻の文字はすべて目を通した、という以上のことはいえないので、どう読んだかの独自性はわからないけれども、笙野のドゥルーズの使い方、は伝わってくる文章になっている。

しかし、笙野頼子が『千のプラトー』をゲラで読んだり、わからないことを聞いたというドゥルーズの師匠って誰なんだろう。訳者の一人だったりするのだろうか。

この本の巻頭にある対談を読んでいたら小泉義之がこんなことをいっていた。

ネトウヨについては、他人の痛いところやトラウマ的な核をとらえて嫌なことを言うには一定の知識や技法が必要ですから、ネトウヨは知的であるとしか思えません。おそらく、ネトウヨの中核は大学関係者や高学歴企業関係者、それこそプチ・ブルですよ。だから、ネトウヨには魅力がない。12P

まあ、そうだよな、と思う。
『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』に笙野頼子エッセイ

小山田浩子『穴』とその解説

穴 (新潮文庫)

穴 (新潮文庫)

新潮社から郵便があって何かと思ったら「笙野頼子氏代送」で本書が送られてきて、解説を担当していることを知る。単行本を買ったまま読んでいなかった本作を早速読んだ。表題作の「穴」は読ませるけれど地味な描写が続く様子と、そこかしこにほんの少し妙だと思わせる記述があって、いつ誰が悪意をもって襲いかかってくるのか、みたいな不穏さをかき立てていて、どうなるのかとずっと不安に感じさせるどっちつかずの加減が面白い。夫の実家が持っているその隣の空き家が空いたことで、そこに引っ越して、長く続けた非正規の仕事をやめ、羨望される「専業主婦」になってから、を描いていて、そこで黒い獣を見たり、穴にはまったり、世羅という不思議な女性に出会ったり、一人息子のはずの夫の兄を名乗る男が出現したり、という奇妙な状況に陥っていく。この奇妙な幻想が日常に溶け合っていく淡々とした不安感が増していく。

なかでも不穏なのが義理の母と祖父で、義理の母は親切ないい人、のはずなんだけれど、二万円足りない入金を主人公に頼んだりしたところは妙だし、義祖父は一日中水をまいていて、ぼけているのではないかと思わせる。
笙野頼子は解説で、「村社会の「公用」奴隷呼びかよ「お嫁さん」は?」と指摘し、「そうしてコンビニで働きはじめる彼女は、自然にお嫁キャラを継承していたし時給ニッポンの兼業嫁として転生するのだった」と書いている。
著者もまた下記リンク先でも引用されているインタビューで、「"嫁"というものが不思議だなと思っていました。最近では結婚して"妻"になる感覚はあっても"嫁"になる感覚は持たない人が多い気がします。」と語っており、これを見ると、やはり地方の地縁血縁の枷を書いているようにも感じる。義祖父の死と専業主婦をやめ、コンビニで働き始めることでその幻想が消えてしまうわけだから。「嫁」と呼ばれる不思議さを描き、笙野頼子「二百回忌」を好きだと言っていたという線から考えるとそうなるな、と。嫁でも非正規でも、女性がどこにいてもその身分、「出自」に縛られるという嫌な話。

「いたちなく」「ゆきの宿」も地方生活を舞台にしているけれど、三作読んでみるとそのどれもに出てくるのが生殖あるいはその中断、なのが興味深い。「穴」でも義兄の話のなかに、こう語る箇所がある。

ねえ、家族って妙な制度だと思いませんか。一つがいの男女、雌雄ね。それがつがう、何のために、子孫を残すために。でもさ、じゃあ誰も彼もが子孫を残すべきなんだろうか?(中略)そんな価値があるんだかないんだかわからない僕を育てるために、親父は身を粉にして働いて、おふくろは血も繋がらない、しかも気の合わないバアさんと同居してまあ若死にはしたけど看取って、死ぬのだって簡単じゃなかったんだよ。(中略)そんなまでして、親父やおふくろがやろうとしていることは、ただ一つ、僕という子孫をどうにかして次の世代に生きて残そうとしてるわけです。それが僕は気味が悪いんです。悪かったんです。わかりますか? わかるわけないか。はは、わかっちゃ困る、ね、謀反を起こすのは一族に一人で充分だ。ね、僕はそれにいたたまらなくなって、逃げた…… 103P

生殖と家制度の問題が絡み合い、それが地方の隣人関係とも絡んでくる構図が、とりあえずは指摘できる作品集となっている。
小山田浩子『穴』文庫版に笙野頼子の解説

もうひつと、笙野さんからは「文芸家協会ニュース」も送って頂きました。
文藝家協会ニュースに笙野頼子エッセイ
こちらでも紹介されているエッセイの掲載された号です。沖縄の抗議運動で目取真俊が逮捕された件についての抗議。沖縄の選挙での意思に対しても強行を崩さない政府との対立はつとに知られているけれど、それを沖縄出身の目取真研究の院生との関係から書いた文章。沖縄には全国から警察機動隊防衛局員等治安部隊が集結し、抗議行動への弾圧を続け、日本全国対沖縄住民という奇妙な構図ができあがり、まさしく植民地と化している。これが今という時代の出来事なわけだ。「本土の沖縄街が出てくる作品で私は芥川賞を受けた」と「タイムスリップ・コンビナート」に言及している。

基本的に敬称を略しましたけれど、笙野さんにはいくつも掲載書籍を送って頂きありがとうございました。